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掲示板のログ(平成十九年 六月 2007.10)お名前の敬称は省略しています。
[8526] Re[8521][8519][8517][8515]: 四方山の峠ばなし くず |
2007/11/01(Thu) 00:50 [Reply] |
ありがとうございます^^
>阿須波は地を深く掘って立てられた宮柱の神、波比木はヒギ、チギと同じ性格のY字形の木の神との説明で、坐摩巫があげる祝詞に、「下つ磐根に宮柱太知り立て、高天原に千木高知て・・」を示しているとのことです。
古事記では、根の堅州国から須世理姫をさらって逃げる大穴牟遲(大国主)神に、姫の父、須佐能男命が言っていますね。 「宇迦能山之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理 於高天原、氷椽多迦斯理而居、是奴也」
前にも少し書きましたが個人的には池上曽根遺跡の立柱祭祀が浮かんでいます。 http://www.ioctv.zaq.ne.jp/ikegamisone/shiru/park5.html 北側のケヤキの柱が阿須波神、南の松の柱が波比木神では?と^^ 宮の建築物からハシラとチギ(ヒギ)を抽出して神殿前の庭に神格化させたか、 もともと木柱の独立祭祀が存在し、それを神殿建築に取り込んだか。などと考えます。 後者の場合、祭祀対象の木柱に独自の呼称が存在し、それがハシラとアスハ。チギとハヒキへそれぞれ分化したとか。例えばiswal (?) 池上曽根の復元からは両柱の配置に太陽運行との関係も見えそうなので、坐摩巫が都下国造の童女というのも関係があるのではないか?です。
生井、栄井、津長井の神は記紀神話に直接出てきませんが、大国主と因幡の八上姫の子、木俣神が産湯とされた3つの井戸との事。(出雲、御井神社) 木俣神(御井神)の生い立ちは日の御子からしては亜流の神に思えますが・・・ やはり大国主神話において、木の国の大屋毘古神が木の俣から根の堅州国へ大穴牟遲神を逃がしていたり、木の俣と井戸がこの世とあの世を分ける生死の境界と深く関係していると思います。 |
[8525] Re[8523]: 日本列島に「僮客」がやって来た カトレア |
2007/10/31(Wed) 23:37 [Reply] |
焼尻殿、ご自分の文章をネットに流す前に、少しは考えてみてください。 貴兄が土田滋氏に手紙を書いたのはもちろん事実でしょうし、返事を貰うのも当然あり得ることです。しかし、その内容を無断で、それも一方的に土田氏が誤りを認めたような(確かめようもないのに)一言で公開するのはまったく信じられない暴挙。土田氏が高名かどうかにかかわらず、だいたい私信を暴露すること自体ルール違反です。 以上、僭越ですが、以後このような見苦しい書き込みは控えていただきたいと思い、ご忠告申し上げた次第です。 |
[8524] 箒がなぜ△×か 焼尻紋次郎 |
2007/10/31(Wed) 07:38 [Reply] |
箒がどうしてわれわれのこころにひっかかるのでしょう。 それはネ、箒が kuma(ごみ < kumar・クマル神)をかき集めるかぁ〜〜ら。オ・レイ! むかしのゴミはプラスチック製品は皆無で、穢いものといえば動物の屍骸ぐらいなものだった。しかも、みんな肥えた土壌になった。 商売繁盛、ささ(sait・sait ……吉兆)もって来い。
波波迦の木……この「木」は年々大きくなる樹木ではなく、冬になったら枯れる一年草〜多年草の「キ」ではないでしょうか。日本語には ススキ、フキ、キウリ、それに耕すときに敷き込むカチキなどに、この「キ」が残っていますが、アイヌ語にはふんだんに 「ki =蘆葦などの禾本料植物、芽をだす植物」があります。 日本では利用方法がちがっているので、樹木と草がわかれて意識され、ki(草)の用例は消えてゆく傾向をみせていますが、あったにはあったのです。
なんでこういうことを小生がいうかといいますと、波波迦の木とは「蓮」ではないかを直感するからです。ハスが花の蕾をもちあげる様はカマクビをもちあげるへ びそっくりです。ハハはへび(大地神)を敷きこんでいます。カマクビの xam は別系のへびです。 カ とは古いふるい日本語の「匂い」です。ハスは気温 20℃のとき、28℃の高温をみずから作って、ポンと音をたてて、その匂いを空中高く上昇・放散させます。 「わだかまる」とは轍(ワダチ)が泥濘の穴凹に落ちこんで車がうごかなくなることでしょう。このカマルは、たしかドラヴィダ系言語で泥濘だったはず。 mal には物という意味のほか、花という意味もあります。 シナでは「荷(発音は“カ”」という漢字をあててハスの花のことをいいます。 そしてネパール語では ca-mal は「コメ、白米」です。
ここにはドロ、ぬかるみ、におい、花、大地神などがドロドロになって意転をおこしながら「じぶんら固有の言語」をつくりあげてゆく様子が出ているようです。
ダンナ様、やっぱ「言語専用の掲示板」をつくろうかねえ。 |
[8523] 日本列島に「僮客」がやって来た 焼尻紋次郎 |
2007/10/31(Wed) 06:47 [Reply] |
> 蜀人、重慶周辺の巴人などの鳥を信仰する水銀採取民が日本に移動したなどと言う私の妄想には都合のいい話です。
基本的にはそのとおりで、われわれの文化がすすむにつれ、都合のいいハナシだけが社会の底辺に溜まるものだとおもいますよ。 まだまだ資料は不足していますが、蜀、四川省、三星堆遺跡をかいま見ますに、ここにはなにかこう、シナ一般とはちがう文化が匂いたっているようです。
ここを考えるにあたっては、西洋の言語学者たちがデッチあげた言語系統樹という虚構を根底からうたぐりデングリ返す必要があろうことかとおもいます。 もう 15年も前のことになりましょうか、小生は台湾言語の権威でいらっしゃる土田滋東大教授に手紙したことがあります。そのとき迂闊にも言語学者の悪口を書いた部分をあやまって封入してしまったのでした。さっそくそれを見咎められ、どういうことかと手紙がきました。そこで、思いっきり、西洋の言語系統樹と音韻論のことを書いて、再び手紙したところ、「あんなものでも、頼らざるをえなかったんですよ」との返事をいただきました。 小生に言わせるなら、あんな有毒な論説を若いこころの持ち主に流すぐらいなら最初からなにもしゃべらないほうがいいのです。
言語や文化が散在している状況は、金属精錬の風が地上に席巻するまでは、スンダランドを除いて、地球上は今のニューギニアにみるように、ほとんど氏族単位の言語・文化がモザイク状に入りくみ、グシャグシャに混在していたのです。 だからこそ、洋の東西に似ている語彙が散在しているのです。ソシュールが把握した言語観では 「pes(足)がなぜツングース諸語にひろがっているのか、フィリピン・タがログ語とエチオピア・スワヒリ語になぜ ana(子供)が共通しているのか」などには回答を送れません。 あの広い北海道に単一の言語(アイヌ語)がみられるのは、どっかでまちがっている現象です。まちがえさせたのは、10ばかりの方言が統合された事実経緯です。日本語もまさにそのとおり、西洋諸語もちょっと前のドイツ・ライヒ(日本でいえば藩)のように混在だあり、その前は氏族単位の「ちがっていた言語」が混在し、その間隙には(今では)滅ぼされ消滅した無数の氏族語があったはずです。 蛇足でしょうが……、こういうグシャグシャ状況のなかに、金属精錬の窯を単位とした集団ができあがり、これが西洋でもシナでも、そして日本でも武力が護る「荘園」へと発達し、その又統合が nation とか「くに」だと惟ふんです。日本語の「くに」には「窯やきする・地」がいえるようです。霧島連峰の主峰・カラクニ(韓国岳)とは韓国にはカンケイありません。kala とはアラビヤ語の金属精錬のことです。
陳舜臣さんの『十八史略』(毎日新聞社刊・4巻め)には、赤壁の戦いの直前、魏の曹操が南の荊州をのぞみ南下する趨勢をみせたとき、皇位継承だけにこだわっている荊州を見限って、東呉(呉)へ向おうとした僮客と呼ばれる 800名の軍団がいたことが記されています。 当時の戦争は 5万、10万単位の兵力がザラなんですが、そのわずか 800名の軍団が荊州を離脱したらたいへんなことになると判断した荊の武将、黄祖にさえぎられて 3年間も夏ロの地に足留めされたとあります。 僮客は四川省にいた少数民族で、一騎当千のつわもの揃いだったとあります。
「熊襲の梟雄にへさ(たくさん)なり」とか、東北のアテルイなど、ズバ抜けに強い英雄を想いあわせるとき、小生は僮客はネパールのゴルカ(グルカとも)兵を連想します。 インパール作戦で日本軍にまだ食糧があったとき、日本軍とタイに戦えたのはネパール軍だけでした。ゴルカ兵はその後、弱小国の軍隊を指導するインストラクターとなって、世界各地に出向して外貨を稼ぎ、母国ネパールに貢いでいます。
日本は、このような強いネパール系の軍兵によって言語的にも政治的にも統一を遂げたものと、小生は惟っているんです。
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[8522] とても都合のいい話 素人 |
2007/10/30(Tue) 23:48 [Reply] |
> 小生がお邪魔して、こんなことをなんべんもなんべんも訴えるは、ネパール語は日本語とのあいだには 1300ペアもの類似語彙をふくんでいて、アイヌ語とのあいだには 519ペアもの多きをふくんでいるからです。 ご丁寧にご指導いただき光栄です。 ネパール語に日本語に近い語彙が多いというのは聞いていましたが、ウラルアルタイ語が伝播して日本、チベットに消滅せずに残ったもので、似ているのかと思っていました。トルコも同じ系統のようです。聞きかじりです。 古い時代のネパールを含む周辺地域の言語が日本に伝播したのであれば蜀人、重慶周辺の巴人などの鳥を信仰する水銀採取民が日本に移動したなどと言う私の妄想には都合のいい話です。少し離れていますが。周辺の同じように孤立した地域ブータン、チベットの言語ではどうなのでしょう。素人の戯言ですがご指導下さい。 |
[8521] Re[8519][8517][8515]: 四方山の峠ばなし 神奈備 |
2007/10/30(Tue) 16:54 [Reply] |
> 波比岐神が波波木の神でもあるなら、ハハキ→箒で、生命(の境界)を司る神格があるのではないか。
『日本の神々3』の坐摩神社の項で、大和岩雄氏は、「日の御子が生まれ育つ(生井、栄井、津長井の神)大宮地の神(阿須波、波比木の神)としています。
阿須波は地を深く掘って立てられた宮柱の神、波比木はヒギ、チギと同じ性格のY字形の木の神との説明で、坐摩巫があげる祝詞に、「下つ磐根に宮柱太知り立て、高天原に千木高知て・・」を示しているとのことです。
氏は箒にも触れてうまして、坐摩巫は都下国造の童女が勤めること、鎮座地の菟餓はトキであり、朱鷺につながる。天若日子の葬儀に鷺が箒を持ったことが暗示的としています。また坐摩神社の神紋は鷺丸だそうです。
以上、引用でした。
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[8520] 欣求 stable 解釈
焼尻紋次郎 |
2007/10/30(Tue)
07:14 [Reply] |
阿須波神、波比岐神,波波木……読んでいて、なにかこう一つでも stable
な概念に恵まれたら、そのあとはまあまあ、あんましまちがった庭をうろついていない……ってことになるのではないでしょうか。
そこでおネラを「波波木」にしぼってみる……と。 ki
にはたしかに神の意味がある。人、大地の意味もある。 現代人のわれわれはついぞついぞ畳語の「波波」に目を奪われ易いが、そこを反省しながら分析を加えれば、いちおう“女”から出た「へび・大地神(母と同根)」がでます。女房をカカさんと言うはこれ。
波波木は大地の神でいいのかもしれません。
しかし、風に関係が深いとなれば
ha には「風や水などが流れてゆく」という意味があります。イワクラにバクチ岩があったことを想いだしてください。 ここで * hak
がわれわれの耳目を奪う。hak
は現代ネパール語では「運転する」となっている。障害物を避けながら運ぶ(hak-o-bu)わけです。 古代人はなぜ(大きな)風が吹くのか、なぜ(大きな)水が流れるのかが分らず、いっさいを魔力みたいなカミの仕業だと思わざるをえなかったのでしょう。
ha
=大のことを想いだしてくださいよ。
以上の二つのことを思いあわせると、やっぱ途中語源(他民族による解釈)ながら、波波木にも重層した概念が込められていたことがわかる。中軸概念の大地神が時代が降ってきたとき、そこに風神もつけ加えられた……と小生は看るがドンジャラホイ。 ネパールじゃ文字を書いた旗たてて、風にさかんになぶらせていますナァ〜。
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[8519] Re[8517][8515]:
四方山の峠ばなし くず |
2007/10/30(Tue)
02:05 [Reply] |
神奈備さん、紋次郎さん、すぷらうとさん、返信ありがとうございます。 4世紀後半から5世紀、6世紀の祭祀遺跡に興味をもってポツポツ調べてます。 クニの形が定まりだした時代で、本格的に仏教の影響を受ける前時代。 その中で気になった事を書いてみました。 (↓下の投稿、書いてる途中でそちらにいってしまいました。消して頂けますか?すみません。)
阿須波神、波比岐神は屋敷の神で間違いないとは思うのですが、 波比岐神が波波木の神でもあるなら、ハハキ→箒で、生命(の境界)を司る神格があるのではないか。 道における峠のクニ、あるいは人域と神域を分つ境界で、阿智の園原にハハキがあるのもたまたまではないのではないか。と思っています。 (あとは時間のある時にまたお返事させてもらいます。おやすみなさい)
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[8518] Re[8517][8515]:
四方山の峠ばなし くず |
2007/10/30(Tue)
01:27 [Reply] |
>神の降臨は風が知らせてくれると云うことで、幣をぶら下げたと聞いたことがあります。
なるほどです。 >
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[8517] Re[8515]: 四方山の峠ばなし 神奈備 |
2007/10/29(Mon) 21:52 [Reply] |
> 具体的な幣(神の依り代)の例としては、5、6世紀の石造模造品(それを七夕のようにぶら下げた木の枝)を言っていたのではないかと思います。
神の降臨は風が知らせてくれると云うことで、幣をぶら下げたと聞いたことがあります。
阿須波の神とは庭で祭られる神。また宮中の坐摩の巫が祭る五神の一で、まとめて大宮地之霊とされています。うち三神は「井神」であり、大宮には必須のものです。二神は波比岐神・阿須波神です。 大宮に必要な「井神」以外の神は土地に関わる神なのでしょう。井戸があるが、じめじめせず、地盤がしっかりしていること、阿須波は足場と理解して建物がしっかり建つことでいいのでしょう。 波比岐は波波迦と見ますと、波波迦の木が生えている天香具山の土が「倭国の物美」として大宮の必須条件であったのでしょうから、その土を醸し出すのは波波迦の木と見て、神として祭ったものと思っています。
伊勢への道は鈴鹿山脈を通って阿須波道と称したようですが、従来の鈴鹿越えは多くの瀬を渡ったようで、新道はしっかりした道なので阿須波道と名付けられたのでしょう。 |
[8516] RE 四方山の峠ばなし 焼尻紋次郎 |
2007/10/29(Mon)
06:30 [Reply] |
おもに、くずさん、お早うございます。 ★ きのう知ったのですが、磐井のラン(戦争)を収斂させたのは葛だそうです。具体的には葛彦などと個人名になっていますが、小生惟ふに、これはアラビヤ語のqutir(地方、くに)から導かれたクス(玖珠郡)で、磐井地方の上流に陣どった“わが先祖たち”。クスが第二子音濁化のクセでクズになったと思うんです。
★ 小生は
ta-mukh の mukh にひっかかりを覚えます。mukh
は起源的には顔、ロであって、掌や手の動作とはかなり隔たって、「顔を向ける」なんですがねぇ〜。 いや、古代人は「ムク」という音が大好きだったらしく、じつにいろいろな意味が付着しています。 中には「救済」の意味もありますので、ta^mukh
の ta を動詞形成子とおけば、ta-mukh は「救いを願う」みたいなことに……なるのかなあ。 「向う」などには -au
がついています。これネパール語にもあります。意味は「○○する」です。matr が(じぶんらの)土地で、「まつろわぬ」には -au
がつき、これに否定の nu がついた語形かと。いや、-anu で「 nu(する)+ a(反・非・不)」でもありますが、そのとき matsur-ow
の ow が上述の -au だとおもいます。
★ ネパール語での神もいろいろありますが、その一つ iswal
との語形をとっている神は、中東の
is-(神)をもひっぱっています。しかし、日本に上陸した語形はあくまでもスワ(諏訪)です。これも第二子音濁化のクセで、スバに音転しますが、その途中で阿須波の須波へとならないものでしょうか。 小生が「ha
=大」だと(かなり)割りきったのは、キム・タルスさんの書き出しが、そのきっかけでした。キム・タルスさんのいうことは、危なっかしくて眉唾ものが多いのですが、ネパール語の被覆形などから、それを是としました。 阿須波は大神かもしれません。
/ √ ・♪ アスバ・レンゲ(has
=神花)の花(鼻汁)ビッタレ(穢い)、どっこい、とってもこい(来い・濃い)ヨ ・♪。
★ 壱岐では川(rival)に丸ッこい石を並べて、それをセーンガミ(サイの神)といっています。小生の先輩の宛名が「妹尾・住田」です。サイの神(セの
o)にスミヨシのスミが重複した形で小字になっているわけです。 旧浦和市には道祖土と書いてサイドと読ませる地名があります。ドウソドとはネパール語
dosa:dh(国境に近い場所)の丸写しみたい。こころは dos(咎める)sdh(めくら)。・
土佐、佐渡、十三湖。サイド……サイの神を祭ったところでしょう。 釧路のくにと阿寒の境界と思える谷に
サイヤナイがあります。釧路……qutir(アラビヤ語 ; 地方・くに)、
ya(神)。
★ 川喜田二郎さんが若いときにネパールを探査して『鳥葬の国』を著しています。そこに日本の七夕飾りに似たモノがあると。リュウと呼ばれる針の山みたいな魔よけを交差点に立てていたそうです。 古代人調査ものとか冒険ものは、読めば読むほど、その度にいろんなことを教えられますね。 |
[8515] 四方山の峠ばなし くず |
2007/10/28(Sun) 18:02 [Reply] |
>旅人にとって峠にかかる前に重要なことは、起源的には「掌をあわせること」ではなく、「神に誓いのことばを発声すること」だったんです。
峠の難所ではその神を褒め上げる(?)歌を手向けたそうです。 「このたびは幣も取りあへず手向山、紅葉の錦神のまにまに」 菅原道真 「ちはやぶる神の御坂に幣まつり、斎ふ命は母父がため」 神人部子忍男
具体的な幣(神の依り代)の例としては、5、6世紀の石造模造品(それを七夕のようにぶら下げた木の枝)を言っていたのではないかと思います。 初期の官道が通された長野の峠、海の道沖ノ島で共通の祭祀が見られ、 これは古墳でも行われている。単に対象を峠の神に限定してのものではなく、 国、クニを隔てる境界、死後の世界を隔てる境界の神に共通して行われた祭祀に思います。 石や岩の周りを斎場にするのも、境界においてその岩が境界を塞ぐ(あるいは開ける)意味があったかと思うのです。
柴折り神(柴神)といって峠を越える時に柴を手向ける風習があるそうですが、これは上記の祭りを簡略化したものだったかも。 「庭中の阿須波の神に小柴さし、吾は斎はむ。帰り来るまで」 若麻続部諸人(上総の人)の歌 阿須波の神は庭の神、足場の神だそうですが、平安京から伊勢へ、鈴鹿峠を越えて行く道を阿須波道と言ったように、難所を渡るさいに頼られる旅の神であったと思います。 そういう意味で、コンビの波比岐神は境界の神では。
継体帝の娘さんで(坂田大跨王の女広媛との子)馬来田皇女(記では馬来田郎女)は越前で足羽の神を祭ったそうですが、馬来田国は上総の国。おそらくは若麻続部さんの故郷でしょう。 そしてお隣の下総、印播国 麻賀多神社の境内社に馬來田郎女神社があるそうです。 彼女も房総に関係していたのではないでしょうか。
あと峠の神には柴ならぬサバも手向けたとか。http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/COLUM036.html 言葉、シバ、サバ。バが大事だったりして^^
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[8514] √・♪ いくつ 峠をこえた…… 2 焼尻紋次郎 |
2007/10/28(Sun) 07:21 [Reply] |
日本語は「どこの第三言語ににているのか」……との原郷さがしで、ほとんどの学者さんたちは、西洋人がつくった言語系統樹にダマされて、ネパール語が印欧語に属していたので、だぁれもネパール語を見ようともしなかったんです。 小生がお邪魔して、こんなことをなんべんもなんべんも訴えるは、ネパール語は日本語とのあいだには 1300ペアもの類似語彙をふくんでいて、アイヌ語とのあいだには 519ペアもの多きをふくんでいるからです。 大野晋教授が訴えられたドラヴィダ・タミル語では 350ペアしかふくんでいないのです。 こういう大事実をド忘れして、人生を営まねばならないとは、貧乏くじもいいところだとは思いませんか? しかも大野晋教授は二人の助手を使って、十万余語が載っている大辞典から抽出させたのが、たったの 350 なんです。小生が見た『基礎ネパール語事典』は 5754 語彙のネパール語しか出ていません。関連語彙もありますので、ネパール語のじつに半分が極東に流れ出ているのです。
おっと、takura(峠)の分析を忘れかけていました。 大きく間口を構えるなら「人=神」ですので、takura は「神の座」となりましょうか。小生が持っている『基礎ネパール語事典』では被覆形でしか「ta =神」はいえません。 ネパール語の takura の ta は「tar(渡る)」だったのかもしれません。日本にはニタリ舟というのがあって、これは「荷・運び」らしい。 日本語「渡る」の語源は、いまのところ「ラテン語 vad(進む)+ ネパール語の tar」の混成だと思ってま。
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[8513] √・♪ いくつ 峠をこえた…… 焼尻紋次郎 |
2007/10/28(Sun) 06:36 [Reply] |
√ ・♪ 血はながれ 皮は裂ける 痛みは生きているしるしだ いくつ峠をこえた …… 木枯らし紋次郎主題歌 : 『誰かが風の中で』 から。
素人さん、見ていてくださって有り難うございます。 ネパール語で「鞍」を何というかとのご質問ですが、なにかありましたよ。ただし今はボケちゃったのか、思い出せません。 オット、いやいや! bhanjyaηg には「峠」と「鞍」の二つの内意があるのです。 たちまちの「鞍」ではありませんが、ネパール語には cakrabarti(玉座・首長)があるを思い出しています。末尾の ti は各種インド語共通で「ことがら」を表す末尾辞。*bar はイマイチ掴めませんが bal なら“力”です。 チャクラはヨガなどでは「神経叢」となっていて、絵図には一点から放射されている線が描かれていますよね。小生は cakra とはさくら(桜)ではないかと睨みつけています。そういえば、菊の花も「十六の花弁を一点に収斂させる(すなわち、闘争を終わらせて安寧にみちびく)」との内意がこめられていました。 ・ アンニョンハシムニカ。 タクラマカンを連想なさったは、当然のことでしょう。この「マカン」がアイヌ語で「 mak(うしろに) an(ある)」と、簡単に分解できるには、面喰らっています。
> 語学は全然だめですから とのことですが、まあ、そうおっしゃらずにダマ〜って、大学書林から三枝先生が『ネパール語辞典』を出していらっしゃるので、それ買って読んでみてくださいよ。 36000円ですが、ゴルフ道具をそろえるよか安 あがりだとおもいますよ。しかも夢中の数カ年が約束されています。
金田一京助監修の古語辞典には「くら」には「座」と「物を載せるもの」の二者が出ていました。 一つの概念は歴史のなかでいろいろと変化をします。それを、ちょっとでもちがうと思えるとき「関係ない」とするか、ちょっとでも似ている現象をつかまえて「関係ある」と置くかでは“恵まれよう”には雲泥の差ができます。 |
[8512] タクラマカン砂漠は? 素人 |
2007/10/28(Sun) 00:08 [Reply] |
> 日本の山岳用語(?)で「一のクラ、二のクラ」などというクラが、この takura と同根であることは、タヌキでも理解できるところでしょう。 > 初にお目にかかります。 クラ=鞍でしょうか語学は全然だめですからご指導ください。 登山関系では「一の鞍」などと主峰に付随する頂などに命名されているようですが、これでしょうか。名前の通りの鞍のような地形からきているようです。 ちなみに、中国の遼東半島付け根の安鞍市は巨大な鉄鉱山地帯として何度もご紹介していますが、語源は鞍状の形をした二つの山からなる鉄鉱山が語源です。 もしクラ=鞍でしたら鞍はネパール語でなんと言うのでしょうか。 素人の戯言お許しください。 |
[8511] 旅人は峠の手前で「マッピラァ〜」と言った 焼尻紋次郎 |
2007/10/27(Sat) 07:11 [Reply] |
ネパール語には二つの「峠」があります。というよか、小生が持っている天理教海外伝道部編纂の『ネパール語事典』には takura(峠)と bhanjyaηg(峠)の二つの語形が出ているのです。 日本の山岳用語(?)で「一のクラ、二のクラ」などというクラが、この takura と同根であることは、タヌキでも理解できるところでしょう。
問題はとなってくるのが、日本でなぜ「タムキ」という語源解釈が出ることになったか、その理由はbhanjyaηg という表現のなかにひそんでいたのではないか……とのカングリでしょう。
jyaηg は世界に広くひろがっている「山とか森」で、ジャングルと同根です。沖縄に「ヤンバル・くいな」があるように、そのヤンバルですが、これはネパール語というよか、アラビヤ語の山だとみたほうが正鵠をえています。
ネパール語の「ことば」は普通 bha , ba で、これが「ことあげ」とか「ことほぎ」のこと(ことば)にくっついた語形が「ことば」となって、日本語になったのでした。 しかし、正確を期さねばなりません。bhanjyaηg には n がついています。ただの bha-jyaηg であれば、これは「ことば・山」に分解できるのですが、これはど うしたことでしょう。 オレはこの恨みを抱きて煩悶。 しかし、同ネパール語のなかに bhanai(命令・声明)があることをみつけて、一段落したのでした。あ、ハナシがすこし逆になった。ネパール語には bhan-(話す、云う)の語形もあるのです。
これらを紋次郎流に止揚させれば、「旅人は峠にかかるとき、ハッキリとしたものいいをやった」ということでしょう。 だれにハッキリした声明をしたかといえば、それはもう「山の神」へ、でしょう。そのとき古代日本人であればだれでも掌を合わせた。
ですから、旅人にとって峠にかかる前に重要なことは、起源的には「掌をあわせること」ではなく、「神に誓いのことばを発声すること」だったんです。 そのことばとは! maphi ra (ネパール語で「お許しを」)と云ったにちがいありません。 |
[8510] Re[8509]:
そろそろ峠にかかりやしょうけぇ 神奈備 |
2007/10/26(Fri)
17:07 [Reply] |
> この柱も神様でしょうが、ダンナ様、ハエひめとはケッサクですね。 > この場合は ha
を差し引いたら「愛媛」が残らいしょ。「 ha =
大」だと思いますよ。「大いなる・格上の」ヒメ……ね。
欠史八井
神武天皇 綏靖天皇
安寧天皇−和知都美−蝿伊呂泥(意富夜麻登久邇阿礼比売) −蝿伊呂杼
懿徳天皇 孝昭天皇 孝安天皇 孝霊天皇−夜麻登登母母曾毘売 孝元天皇 開化天皇 崇神天皇
第三代の安寧天皇の孫娘が意富夜麻登久邇阿礼比売又の名は蝿伊呂泥(ハエイロネ)です。伊呂泥とは長女の意味。妹の蝿伊呂杼とは蝿次女。 蝿伊呂泥は第七代天皇の孝霊天皇と結婚し、あの箸墓古墳に埋葬されていると云う夜麻登登母母曾毘売を生んでいます。卑弥呼とか台与とされている謎の巫女さんです。 この結婚の世代ギャップとしては二代あるのです。『紀』で孝昭天皇の在位83年・孝安天皇在位102年。最近お婆さんと若者の結婚譚がニュースになっていましたが、それと同じことです。
安寧天皇は師木の県主である波延(ハエ)の娘の阿久斗比売を娶って常根津日子伊呂泥を生んでいます。ここにも伊呂泥(兄)が出てきます。日子と蝿とが対応しているようにも見えます。蝿=日女であれば都合がいいのですが、師木県主が女性だったかどうかは疑問。『古事記』ではこの辺りの天皇の后には師木県主の娘がなっており、『日本書紀』では事代主神の娘。そうです。事代主神は八重事代主神とも言います。蝿とは八重のことか。また河内の志紀県主神社の祭神は神八井耳命(綏靖天皇の兄)八井も八重かも。
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[8509] そろそろ峠にかかりやしょうけぇ 焼尻紋次郎 |
2007/10/26(Fri) 06:42 [Reply] |
この柱も神様でしょうが、ダンナ様、ハエひめとはケッサクですね。 この場合は ha を差し引いたら「愛媛」が残らいしょ。「 ha = 大」だと思いますよ。「大いなる・格上の」ヒメ……ね。
そろそろ“峠”にかかりたいが、そのまえにワラジのひもを締めなおす必要これあらむか。すなわち前提事項……、「語源」というコトについての考えかたについて。
このことについては三年半前に強調したかもしれませんが、くりかえします。 語源は始発語源と途中語源の二様に分かれます。 始発語源とは、最初に名付けた主体が考えていた内意のことで、途中語源とは始発語源がわからなくなったとき、後世の、(恐らくは他氏族が)自分らのことばで解釈した内意です。 ですからホントのホントの始発語源はアフリカのハッピー・マザーがしゃべっていたオノマトペア(擬音擬態語)まで辿らなければならないことになります。しかし、人類の文化は高々 1 万年です。いろんな地名・人名が初期の日本列島の文化のなかで命名されたかは、かなりのところで解明できると思うんです。
やっぱ「とうげ」をここで蹴飛ばしますかネ。 結論からいうと、峠は途中語源しか出てきません。なぜかというと、峠の語源開設には「タムキ、タムケ」というトウゲとはちがった音が宛てられてきたという歴史があるからです。これには「馬の鼻むけ」とか「花をたむける」などの別意識が絡んでいます。 おそらく……ですが飛騨 / 信濃の田麦峠は、そういう文化的言い伝えが地方まで浸透して行って名付けられたものでしょう。
tam-k(i)から *too-k に音転するには、いちど tamu の発音が固定したあと、 m 音脱落が考えられねばなりません。( tamu ・ tau )です。 しかし tamu には「刀」という意味しか考えられなく、そうすると「峠」は金属精錬が発達したのちにできたことばになりますが、はたしてそうでしょうか。
われわれは残っている、与えられている音に忠実でなければなりません。いちば ん考えられるのは「 山頂のトウ(頭)や tap , tap に朝鮮語の oka(肩)が添えられた語形」です。ここでの考えかたは、ちょっと紛れ易いのですが、旅人はテッペン部分を越えて行くのです。その「肩のテッペン」がト・オケ」です。 oka(末尾音 a はヤに近い)が oke になっている例は桶狭間にもあります。
すこし反省。手は「タ」か「テ」で、古代では片手拝みも、かなり習慣化されていたことでしょう。神拝みの掌をとりたてて「テ」と云ったかどうか。 |
[8508] 継体天皇の妃達 神奈備 |
2007/10/25(Thu) 19:48 [Reply] |
『日本書紀』の継体天皇の妃達から、継体天皇の出自の地を近江とする見解がります。例えば塚口義信先生。 ここに一覧表を提示します。 1.皇后:手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女)欽明天皇の母 2.妃:目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女) 安閑天皇・宣化天皇の母 3.妃:稚子媛(わかこひめ。三尾角折君の妹) 4.妃:広媛(ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女) 5.妃:麻績娘子(おみのいらつめ、麻組郎女。息長真手王の女) 6.妃:関媛(せきひめ。茨田連小望の女) 7.妃:倭媛(やまとひめ。三尾君堅ヒの女)椀子皇子は三国公の先祖 8.妃:ハエ媛(はえひめ。和珥臣河内の女) 9.妃:広媛(根王の女)兎皇子は酒人公の先祖、中皇子は坂田公の先祖
この番号は書いている順番です。太田茶臼山古墳が宮内庁の指定の継体陵ですが、5世紀半ばの古墳と見なされ、時代としては100年のギャップ。この近くに女九神社と云う神社が鎮座、一説には継体天皇の殉死した妃を祭るとあるのですが、殉死の週間はとっくに途絶えていますし、継体陵はこの古墳の東1kmの今城塚古墳が有力で、女九神社も祭神については不明ということ。
『日本書紀』妃から継体天皇に近い地域を探すとしましょう。
妃並びに皇子達は「三尾2」、「坂田2」、「息長1」、「三国1」、「酒人1」となります。 三尾は近江と越前にあります。三国は越前で母親の地元、坂田、息長、酒人は近江、これらから見ると継体天皇と近江との関わり越前よりは大きいようです。即ち近江の坂田付近の大豪族となっていたのではないかとの説が有力となっています。 |
[8507] アシタバから空想へ 焼尻紋次郎 |
2007/10/25(Thu) 06:05 [Reply] |
オレ、早やとちりやらかしたらしい。 那智の滝よりも、ぐっと北に神島が顔だしていますよね。ここにも清い真水のしたたりに恵まれて、人びとが住みついた。 だが、アシタバの分布は那智の滝周辺だけだから、フィリピン・プレートに乗っかってぶち当ってきた島はごく小さな島だったと思うのが順当というものでしょう。たしか、この那智の滝と海岸線周辺には地層がヘンなぐあいにコングラがって、海底から真水が沸き出すところがあって、豊かな漁場になっていた……と、 『熊野の謎と伝説』にあったと記憶してま。(どじゃ! )
瀬戸内も構造線でしょうが、その南に瀬戸内と平行にはしる構造線があらいしょ。これ、なんというのかなァ。那智の滝あたりからはじまって、西へグシャグシャ地帯をこえると、二つの吉野川となって、更に西へ奔って豊後にいたる。そして福島雅彦シャンのおらす田主丸(現・久留米市)にいたる。 田主丸から少し東に日田市があって、日田と豊後のあいだには天瀬(アマガセ)の嶮があって、大きな斜めの流れが見られます。ここにもかなりの落差をもった天瀬の滝がある。また、温泉も出ているので、足の立つ人には、ぜひ一度行かれることをお奨めします。紅葉狩りの行楽にはヨカばい。 ですから、この構造線は東西二つの大きな落差を持つ滝で締めくくられている。
糸魚川〜静岡線のフォッサ・マグナラインは南北の構造線です。ここは「天龍村・佐久間町の南部」と北のオダリ(小谷)での二つの“くびれ”で締めくくられているようです。 この“くびれ”という発音……、オレはキュピロス島の「キュピ」と関係あると惟ふ。理由は金属精錬の「ウシ(大風)クビ」が地名として残っていて、いつも大風が吹き付ける土地柄であるからでアリマス。 オダリ(小谷)の「オ」、麻と解釈されていますが、オレは「鬼」だと思ってま。
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[8506] Re[8504]: ボケ進行ちゅう マルヤ |
2007/10/24(Wed) 22:25 [Reply] |
神奈備さん>「ボケ進行ちゅう」と自称の方からアシタバが飛び出しました。言語の研究は記憶力が良いことが最低条件のようですね。当方は失格。
私も記憶力が悪い、思い出せないことが多いで困っています。 アシタバの話は、もう随分前の話ですね。でも、ほんとに紋次郎さん「ボケ進行中」どころか、よく憶えておられますね。 その節はこの掲示板で色々情報を頂きました。お蔭様で当方ネコの額庭いっぱいに一時は栽培しましたが、今はすべて処分をしてしまって一株もありません。 |
[8505] Re[8503]: 峠の住吉神 神奈備 |
2007/10/24(Wed) 17:15 [Reply] |
> 継体帝が越前から頭角を表したのも、淀川、近江、琵琶湖を超えての日本海沿岸ルートによるかとも。 > 彼が大和川ではなく淀川に拠点を持とうとしたのも、後の天智帝が近江に遷都したのも、 > 交通の要衝を押える発想からと思いますね。
継体天皇の支持グループは大和内部では大伴・物部・許勢たちでした。他には茨田連・息長氏。 大和をとりまく淀川・木津川周辺は継体天皇自身の勢力と茨田連・息長氏の力を合わせておさえていたのでしょう。 大和と伊勢の間は忍坂の息長氏、大和と中河内・南河内付近は大和川などが主なルートで、ここは物部がおさえ、紀ノ川ルートは許勢と云うようにそれぞれ大和を日干しにできる配置ができたのでしょう。
越前と美濃・尾張は九頭竜川と長良川上流とは近接しており、意外と<近い>関係だったのでしょう。それが継体天皇の妃の筆頭に目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女、安閑天皇・宣化天皇の母)がいる理由でもあるのでしょう。越前・美濃・尾張・近江は継体のトランアングルだったのでしょう。 そういう意味では、天智天皇の近江遷都もこのパワーを利用して、新羅や唐と対峙しなければとの思いがあったのでしょう。信長の安土城も同じ。
マルヤさん、ご無沙汰です。「ボケ進行ちゅう」と自称の方からアシタバが飛び出しました。言語の研究は記憶力が良いことが最低条件のようですね。当方は失格。
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[8505] Re[8503]: 峠の住吉神 神奈備 |
2007/10/24(Wed) 17:15 [Reply] |
> 継体帝が越前から頭角を表したのも、淀川、近江、琵琶湖を超えての日本海沿岸ルートによるかとも。 > 彼が大和川ではなく淀川に拠点を持とうとしたのも、後の天智帝が近江に遷都したのも、 > 交通の要衝を押える発想からと思いますね。
継体天皇の支持グループは大和内部では大伴・物部・許勢たちでした。他には茨田連・息長氏。 大和をとりまく淀川・木津川周辺は継体天皇自身の勢力と茨田連・息長氏の力を合わせておさえていたのでしょう。 大和と伊勢の間は忍坂の息長氏、大和と中河内・南河内付近は大和川などが主なルートで、ここは物部がおさえ、紀ノ川ルートは許勢と云うようにそれぞれ大和を日干しにできる配置ができたのでしょう。
越前と美濃・尾張は九頭竜川と長良川上流とは近接しており、意外と<近い>関係だったのでしょう。それが継体天皇の妃の筆頭に目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女、安閑天皇・宣化天皇の母)がいる理由でもあるのでしょう。越前・美濃・尾張・近江は継体のトランアングルだったのでしょう。 そういう意味では、天智天皇の近江遷都もこのパワーを利用して、新羅や唐と対峙しなければとの思いがあったのでしょう。信長の安土城も同じ。
マルヤさん、ご無沙汰です。「ボケ進行ちゅう」と自称の方からアシタバが飛び出しました。言語の研究は記憶力が良いことが最低条件のようですね。当方は失格。
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[8504] ボケ進行ちゅう 焼尻紋次郎 |
2007/10/23(Tue) 07:30 [Reply] |
マルヤさん、わえに色気ある乗り物……?? 毎日 73回ほどチ・メしゃべって、おへま(女房)からヒンシュクかってるわえにはムリな話でっせ。「奥深いところで女性を尊敬する」なんち、オレのアタマの反応するところは、すぐに神奈備むきではなくなりまさぁ。あ、奥シャンによろしく。
くずさん、おへまの母親の生誕の地は、信濃のくにに属し、南雲姓でした。 阿須波……おへまから聴いたお手玉あそびの歌に「√ あすばれんげのハナびったれ、とってもこいヨ」。ちかぢか小生流の分析を披露したいもんです。 三日まえでしたか、テレビが柏崎地震のその後を報じたとき「田麦」という地名がでてきて、アッとなりました。ああ田麦峠 ! 峠をなぜクラというか。これはだいたいのところで割れました。ダンナ様もかなりご執心のようなので、これもちかぢかに。 彩りの雲・サイウン。ネパール語の sait(吉兆)が語源的なもののひとつにくいいっていること、これマチガイなし。 このごろ埼玉を「彩のくに」とよこなまれる表現にへさ也。アッタマにきてま。 「飯富虎昌は赤備え」…… 貴重な情報を有り難うございます。 aka はかなり古代族際語で水ですよね。同時に akha が目、すなわち「目付け・監督者」。 スミヨシの“スミ”、いちど「これだァ!」となったことがありましたが、なんのことだったか、今は忘れてま。どうも、ボケ進行中のようでアマカネ。
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[8502] 信州より くず |
2007/10/23(Tue) 00:21 [Reply] |
信州は戸隠から、くずと申します。昨年の夏の終わりからよせて頂いています。 目的はこの国の始まりを知りたい。その始まりに込められた意思に触れたい。 その一点なのですが、まずは底辺を広くしたいので、ここでの皆様の様々な話題に興味を寄せさせてもらってます。はじめての皆様、以後よろしくお願いします^^
紋次郎さん、遅い返信ですみません。おぶ→水は興味を惹かれます。 神奈備さんが珍彦物語で指摘されていますが天津水とは天の八井の水、すなわち神八井耳命。多氏の祖です。多氏ゆかりの小夫天神、風林火山で活躍中の飯富虎昌(多氏末裔か?)等、オオ→オブへの変化も気になるところです。 飯富虎昌は赤備えの元祖とも言われ、赤との関係も個人的には興味を持っています。
>バエ についてはこんなのも見つけました。 「海女がつけた日本海地域の海中地名」 http://www.nihonkaigaku.org/04f/i040605/t5.html
さてニュースになっていますが長野県で弥生時代の銅戈が見つかりました。 完璧な形では東日本はじめてだそうです。今後の考証が期待されます。 http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2007102201000630.html
それから昨日、空に彩雲を見つけました。皆様に幸あれ^^
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[8501] Re[8500]: 馬 小さな体形 アシタバ マルヤ |
2007/10/22(Mon) 22:34 [Reply] |
> 三国志で呂布が乗り回した赤兎馬(セキドメ)をおいかけようにもカナワンと判断して、関羽も張飛もすぐにやめてしまったという記事がありました。
三国志では、私は呂布の大ファンです。あの赤兎馬は汗血馬でしたっけ?アラブ種でしょうから、かなり大きい方ですね。
> 日本の馬が小型だったことは、まちがいのないところですが、シナでもかなり永いあいだ、馬は小型だったのではないでしょうか。
その小さな日本の馬ですら、かの今川義元公は足が短く乗れなかった。それでいつも輿に乗っていたらしい。 紋次郎さん、同じ乗り物でも、もっと色気のある話はありませんか?・・・おっと脱線してはいけません。古代史周辺の話に変えましょう。
大陸西域(いわゆる古代オリエント)の宗教ですが、ムハンマド以前であれば、ゾロアスター教でしょうか。 以降であれば勿論イスラム教ですね。 唐の時代、中国にはすでに「清真寺」といわれるイスラム寺院が多くあったらしいので、日本にもムスリムは来ていたことでしょう。 あるいは、藤原・平城宮では政権の要人として重用されていた可能性も考えられるのではないでしょうか。 |
[8500] 馬 小さな体形 アシタバ 焼尻紋次郎 |
2007/10/22(Mon) 17:28 [Reply] |
マルヤさん、やっとかめ 小柄な人種はピグミーのように、いるにはいるのですが、小生は、これ馬との関係があるのではないかと看ていますが、ちゃうやろか。三国志で呂布が乗り回した赤兎馬(セキドメ)をおいかけようにもカナワンと判断して、関羽も張飛もすぐにやめてしまったという記事がありました。 日本の馬が小型だったことは、まちがいのないところですが、シナでもかなり永いあいだ、馬は小型だったのではないでしょうか。 そういう意味からいうと、グルジアの先祖たちは、自分らァの身体を小さくして一時は馬の威力で周辺を席巻したかもしれませんが、小型馬のこだわったので、ナワバリを取られてしまった……、そういうこともありうるとおもいますが、どないでっしゃろ。 踊りは意思表現では、咆哮語よか古く、次から次に民族固有のものが重層・蓄積されているとおもいます。 勝海舟は慶喜さんに従って静岡へ立つにあたって、江戸文化のメンテを、振り付け師に託しました。これ、子母沢寛の『勝海舟』で、かなり具体的に情報が採れますので、これは kumanolife のほうへ載せてもらおうかナァ〜と思いおります。
マルヤさん、アシタバの話が残っていました。 フィリピン・プレートに乗っかって、艦隊のように小笠原の島々が日本列島にぶっつかってくるんです。伊豆の島がぶっつかったときには、富士山が爆発しました。 紀伊の島がぶっつかったとき、琵琶湖ができたり、巨大断層が奔ったり……、このとき那智の滝もできたんだろうと惟ふのですが、ドンジャラほい。 あ、シランひとに告げます。那智の滝周辺にアシタバが自然に自生してるんです。今でも伊豆半島ではアシタバが自生してるんですじゃ。 |
[8499] おひさしぶり マルヤ |
2007/10/22(Mon) 08:52 [Reply] |
神奈備さん、ご無沙汰しています。 紋次郎さん、福島さん、お久しぶりです。 懐かしいお名前が見えましたので、しゃしゃり出て来ました。
先週末に「グルジア民族舞踊団」の公演を見ましたが、実に素晴らしいものでした。 つま先立って踊るのが特徴の情熱的踊りですが、男女の愛を表すダンスでも、お互いに決して身体に触れないのです。 これは女性に対する奥深い敬愛を示すものだそうです。
初めて見るコーカサス地方の人たちは、皆さん漆黒の髪の持ち主で意外と小柄な人達ばかりでした。 とても日本人には親しみやすい感じがします。 日本人の何十人かの中に、同じ風貌を残す顔を見るような気がします。 グルジアは東西文明の行き交う古代王国があったところ。 シルクロードを通り、中国を経て、この人たちの一部が、はるか日本まで来ているかもわかりませんね。 言葉にもその痕跡が残っているやも知れません。 長安には胡姫のたむろする酒場があったとか。グルジア出身の娘達もいたことでしょう。 進士出身の若い官吏たちが彼女らに魅了され、通いつめたであろうことが想像できます。
グルジア民族舞踊団の女性ダンサーを見ていると、きっと長安で人気のあった「胡姫」とは、きっとこのようであったろうと思わされます。 オペラグラスを通して、神秘的で魅惑的なグルジア女性の魅力が伝わって来たことでした。
あ、ところで紋の伯父貴、最近入手した昭和49年刊行の『アイヌ語の謎』、今読んでいますがとても興味深いです。 それに写真の男性も魅力的です。
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[8498] 蝿たかり 焼尻紋次郎 |
2007/10/22(Mon) 06:18 [Reply] |
福島雅彦しゃん、歓迎あがあが。 「サバエなす」がダンナ様のご執念。「ハエたかり」の「たかり」が福島さんのご執念でしたね。
あれほど流行った掲示板は、目下全面 nas(破壊)で gal(崩壊)のようです。 やっぱ、アメリカ訴訟社会のまねして、ヤマト男児どもが覆面してモノをいうなどと……、そのあげくの果てがこの現実なんでしょうよ。 福島しゃんも、もっとしばしば、こっちにハイたかりして書かっしゃったたらどげんふうでっしょうかねえ。
現代朝鮮語では、岩が pay いうはたしかで、その古形が ba-wi ですたいね。あがあが。 ばってん、遠野のハヤチネ山のハヤは、「ハヤ=神」ではなく、岩かと思いおります。あん山の頂上にはミョウな、丸く風化したげな岩があるとですよ。 ついでに書いちょきますが、義経さんが見ていた平泉のたバシネ山は、完全にネパール語での造語でした。ハイ。
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[8497] Re[8496]: ハエ と バリ
福島雅彦 [Url] |
2007/10/21(Sun)
22:25 [Reply] |
※紋次郎しゃん!ネット復帰、熱烈歓迎! *横レス失礼します。
>
『沼島のバエ=岩』とありますが、小生は沼島を知りません。 > 朝鮮語 pay
は岩ではなかったでしょうか。
*朝鮮語の「岩」=“바위”(ba-wi)です。 *「バエ」は、訛りの範疇か?と。
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[8496] ハエ と バリ 焼尻紋次郎 |
2007/10/21(Sun) 06:10 [Reply] |
緑 マロカさん はじめまして(*^^*) 勝手にお名前を、じぶんに都合がいいように翻訳したことを、お詫びします。 第二子音濁化のクセで r は d にならいしょ(和歌山弁?)
『沼島のバエ=岩』とありますが、小生は沼島を知りません。 朝鮮語 pay は岩ではなかったでしょうか。 九州各地で岩礁をバリといいます。日本語のクセで、外国語の r , l 音は、かなりテッテイテキに y しまっしゃろ(します da ろ)。bari が bayi から、即, bay になっても、だぁれも不思議がらないんじゃないでしょうか。 末尾の -e は、やっぱ今の段階では“強調”として捕らえるべきかと。
白老のアイヌ民俗観光施設のポロトコタンには、帰る人びとの目につくように「ピリカ・パイエ・ヤン」という大きな看板がありました。この pay は足 ・ 歩くへと意味変化したものと見受けられます。 断章ぜんたいが一種の「人体」で、人間がかかわるのはその足元だけですので、このへん、内意が深層でこんぐらがっているのかもしれません。
川崎真治さんから聴いたことですが、岩礁はフィリピン方面ではシラータンというそうで「真珠採り岩」という意味が濃厚なそうです。だが、これは「岸辺ちかくに立つ“人体みたいなモノ”ではないかと思われます。
まもなくバリ島に旅行した「kus(くにの)akha(目……目付け役)氏」がインドネシア語辞書を持ってきます。バリ島のバリ……あるいは岩礁の意味かもしれません。津々興味です。
下のほうで「ハエ=魚」としました。これにはワケこれあり。南風(はえ)が吹けば俄然、魚のうごきが活発になりま。ハエナワ(漁法)の同根語をラ−ルング語(ビルマ・ボド語群)で見ました。
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[8494] 神社が屋根瓦を嫌うワケ 焼尻紋次郎 |
2007/10/20(Sat) 10:37 [Reply] |
ダンナ様がむかしから気にしてることばは「さばえなす」でした。 魚(ハエ)に産みつけられた卵が孵って、成虫のハエになる。で、「魚(ハエ)ムシ」からハエが造語された。そのハエが元気いっぱいになって群がり集る様子が「五月蝿なす……」だった。サバエの“サ”とは旬直前といったところが。その成体のいちばんバイタリティーが充実した状態。……サオトメのサ。
ところで jhiηga と神社の両発音を似ていると思うか、似ていないと思うか。ネガティブ思考には進歩はないよ。 この jhiηga とはネパール語で蝿のこと。そしてjhiηgati とは屋根瓦のこと。
斯くて、サバエナスを厭離穢土した日本神道は、コバ葺き屋根を神社のスタイルだと決定した……ちゃうやろか。 |
[8493] Re[8490][8488]:
継体天皇の謎 神奈備 |
2007/10/17(Wed)
20:07 [Reply] |
継体さんの出自について、祭神が継体さん(男大迹王)となっている神社の数を『平成祭礼CD』神社本庁)で調べて見ました。日本で33社、その内福井県で28社、滋賀県はゼロ。『平成祭礼CD』の滋賀県の部は祭神欄が空白が多いと言うこともなさそうです。滋賀県では継体さんが祭られていないと言うことは事実のようです。
これは、『日本書紀』の記事はよく読まれていて、それが各地方にフィードバックされていき、神社の祭神が定められていったと言う歴史もあったのかも知れませんが、例えば武内宿禰の母親は山下影媛、神母影姫などの名で祭られていますが、全て九州なのです。『記紀』を読んで祭神を作り出すなら、和歌山にあってしかるべきですが、それがなく、福岡と佐賀のみです。このことは、地元に残る伝承が神社の形をとって長く語り継がれたと言えるのでしょう。
継体さんを祭る神社の福井県で濃密な分布をしているのは、あわら温泉のある坂井郡(坂井市)と足羽郡(福井市近辺)です。母親の振媛の住んだ場所の近くに継体さんを迎えに来た大伴金村さんと会見の場所があります。坂井郡です。 |
[8492] 新羅神社と古代東北 焼尻紋次郎 |
2007/10/17(Wed)
07:07 [Reply] |
ダンナ様、継体天皇をめぐっての「ハッキリしないこと」の数々。斯くも整然と項目別にお並べくだってあが。 ミナシャン、じつは、この項目別羅列列挙のことは、小生がきのふ訴えたのでした。それをひと晩で、斯くもみごとに並べられるとは!! 神奈備の底力はどえらいもんです。
ハナシ飛ばせて申しわけありません。土産のロード・ダウンがいっぱいあるもんで……。 去年の春ごろでしたか、『新羅神社』のことが書いてある本を入手できたので、それをダンナ様に送ろうとしたことがあったのです。 ところが、その必要がすぐに無くなった。 なぜかというと、東北には新羅神社は三つぐらいしかなく、あるのは西南日本のほうだけだということが判明したのです。しかも、その三つとはいずれも甲府のシンラ・三郎ヨシミツに関係するものです。
ああ、神社の散在ぶりの把握は、古代日本の在りザマをマザマザと描きだしてくるもんですなァ。
そして驚嘆するのが、750年ごろですか、大仏鋳造のとき、メッキする金が足りなくて困っていたとき、その金を供出してくれたのが「むつのくに」を経営していた敬福という“百済”の王だったのです。 百済は白村江の戦いに敗れて滅亡していたはずです。それが……、百年近くも日本の北の地で生き延びていた。 その「むつのくに」とは、八戸の社会教育課のひとが教えてくれました。 『樅の木は残った』で、活躍した原田甲斐さんの領土・涌谷だったんです。いまでも金がつく神社がありますだ。 ということは、ということは? 征夷大将軍などの執拗な北伐とは、新羅討伐だったんではなかろうか。 そして松前藩の正規記帳簿の名前が「新羅之書」。
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[8490] Re[8488]: 継体天皇の謎 神奈備 |
2007/10/16(Tue) 20:18 [Reply] |
1.出自が『記紀』によって違う。 『古事記』品太の天皇の五世の孫で、近江の国より上る。 『日本書紀』応神天皇の五世の孫で、越前の三国から上る。
2.応神天皇五世の孫説への疑問 『記紀』編纂の頃、皇族とは皇室の五世の孫までと定義されたのによったのでは。 『記紀』より古いとされる『上宮記』には凡牟都和希王の子孫としている。応神天皇は凡牟田和希であり、凡牟都和希は垂仁天皇の皇子で火中出産の物言わぬ皇子の名と同じ。
3.本当に天皇として招聘されたのか。 九州(筑紫の君の磐井の動き)や新羅との国際関係がややこしい時期、一時的に国政を預けたのでは。
4.逝去の年 『日本書紀』『百済本記』によると、継体天皇二十五年(531)に崩御。日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった。 『日本書紀ある本』天皇は二十八年(534)に崩御。 5.日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった。 皇太子とは安閑天皇、皇子とは宣化天皇のことか。欽明朝との対立・二重政権か。 本当の継体陵とされている高槻市の今城塚古墳から三つの石棺が出ています。
6.最初の都は楠葉の宮で507年に即位 隅田八幡宮の鏡の金石文は以下の通り。 癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る これから見ると男弟王(男大迹王:継体天皇)は503年に忍坂の宮に居たことになります。 尚、癸未の年で383年、443年(意柴沙加=忍坂=允恭皇后)、503年(男弟王=継体天皇説)などがあります。 7.継体天皇の前の武烈天皇は実在したのか 悪逆非道の天皇として描かれており、王朝交代の天命が継体天皇に下ったとの印象を与えるようです。 同時期の百済の武寧王の前の王の東城王も暴君。継体=武寧説もあるようです。
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[8489] 坊主にくけりゃ袈裟までにくい 焼尻紋次郎 |
2007/10/16(Tue) 07:18 [Reply] |
下のほうでシリーズした『ニライカナイ』は、青草板の書き込み NO 3275 以下へとひき継がせます。 ここではわれわれが日常使っている言語とか思想に底流れしているスジを少々追いかけたいとおもいます。
世の中の人びとは「共産主義よかソヴィエートが崩壊したので、やっぱ資本主義がいいのだ」みたいな短絡思考をおこしている向きが多い。 だがわれわれは、少しアタマを使えば「近代化とは 1524年に興ったドイツ農民戦争の進展の姿にしかすぎない」ことを知る。 モノゴトは極端に考えたほうがわかりが早い。むかしは王様と農民が二極を形成していた。農奴が王様になったのが今の“段階”である。 それがそうなったには、宗教権威が政治から離れたこと、アメリカで底辺大衆が国を創ったこと、科学が生産を押し上げたこと……などなど、多くの要因が介在しているが、1859年にダーウィンが発表した『種の起源』が与えた影響は忘れられてはならない。 1996年 9月 23日になってようやくローマ法王パウロ・世が進化論をみとめ、ここで人類は新しい宗教の時代へと入ることになった。 そこに至る行程のあいだ、進化論の影響をうけて、おもにマルキシズム陣営が唱 えた Gesellschaft Stufe Theorie (社会段階発展説)や Wirtschaft Stufen Theorie (経済段階発展説)がとんと見忘れられたようになっているのは、人間のサガ(性)を露呈させているようで淋しいかぎりである。 Stufen というのは、スタッフと同根で「はしご」という意味である。 社会や経済は段階的にゴソッ……・ゴソッ……ッとうごいていくものなのだ。それは意識叢の変化というべきもので、いちど新しい意識叢をえた個や社会では、前段階の判断基準が作動しなくなる現象のことでもある。それはエポックと呼ぶにふさわしい。 いい忘れかけているが、主としてマルキシズムで唱えられた理論には「上部構造・下部構造」の考えかたがあった。宗教、政治、芸術などの一切は、下部構造である経済の上に花咲いた上部構造である」というわけだ。その経済の発展が技術の進歩によるものであるとした……まではよかったが、その技術は「上部構造の中に醸成された矛盾からのつきあげによる」と、きわめて観念論的な解説がなされた。 技術をうごかすものは、誰が考えてもアイディアにあることは、うごかしがたい真理であろう。マルキシズムはこの一点で退廃した。
どうしてここに Gesellschaft Stufe Theorie や Wirtschaft Stufen Theorie などというシチ・めんどうくさいドイツ語をだしたか……。Bikz 除け以外のなにものでもあらしまへんねん。
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[8488] 継体天皇の謎 神奈備 |
2007/10/15(Mon) 21:16 [Reply] |
豊中歴史同好会では今年が継体天皇が楠葉宮で即位1500年の節目に当たることから、継体天皇の謎(出自など)を解く講演会や見学会がなされています。
この前は交野天神社(楠葉宮跡と見なされています。)や同志社大学構内の筒城宮跡、また筒城宮跡の候補地であり、継体天皇を支えた息長氏ゆかりの息長山観音寺に行くことができました。
楠葉も淀川の交通を押さえる要所であり、対岸の乙訓宮とあわせて河内・摂津と山城との分断の要所です。 筒城宮も山城と大和との交通の要所で、大和への侵攻に必要な場所のようです。 これだけ見事に要所を押さえるのは、継体天皇は土地勘がある人間だったのか、または茨田一族などと深いつながりのあった人だったのでしょう。
継体天皇の陵墓は宮内庁は太田茶臼山古墳を比定しておます。しかし時代が100年ほど古い古墳のようで、実際はその東にある今城塚古墳が有力視されています。現在の皇室の確実な先祖とされる継体天皇の墳墓を考古学者に完全に任すと言うスタンスは立派と言うべきでしょう。
今城塚古墳から石棺が三つでています。この中には有名な阿蘇ピンク石があります。しかし越前産の有名な笏谷石(しゃくだにいし)は見いだせません。これにより継体天皇は越前が出自ではないとの見解があります。これもおかしな論理で、それならば阿蘇出身なのかと言うと、これはありえないこと。越前否定の我田引水論理のようです。 阿蘇ピンク石は商い上手だったと言えるのでしょう。
日曜日に越前の継体天皇や母親の振媛ゆかりの神社などを回ってきましたが、振媛は越前にいたのでしょうが、さて継体天皇も越前であったとの確証は得られませんでした。 素人が一日回るだけで継体天皇の謎が解ける訳はないのでしょうが。
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[8487] Re[8486]: 公田町 神奈備 |
2007/10/12(Fri) 07:59 [Reply] |
> >相模 鎌倉 あらはばき様なる石の祠 神奈川県横浜市戸塚区公田町 *3 > > との記述がありますが、公田町は相模国(市町村制以前)→鎌倉郡本郷村(1889)→横浜市戸塚区(1939)→横浜市栄区(1986)という変遷を辿っており、現在は栄区に属しています。資料からの引用ですし直すかどうかはともかくとして、一応お伝えするだけしておきます。
お知らせありがとうございます。公田町の名は栄区にあり、戸塚区にはないようですので、補注を入れました。
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[8486] 公田町 ビット |
2007/10/12(Fri) 02:38 [Reply] |
もしかしたら他のサイトでご存じかも知れませんが一応初めまして。bitと申します。 ふとした切欠でアラハバキに興味を持って調べていたところ以下のページに辿り着きました。
http://kamnavi.jp/jm/arahaba.htm
ここに
>相模 鎌倉 あらはばき様なる石の祠 神奈川県横浜市戸塚区公田町 *3
との記述がありますが、公田町は相模国(市町村制以前)→鎌倉郡本郷村(1889)→横浜市戸塚区(1939)→横浜市栄区(1986)という変遷を辿っており、現在は栄区に属しています。資料からの引用ですし直すかどうかはともかくとして、一応お伝えするだけしておきます。 |
[8485] ニライカナイ --- 3 焼尻紋次郎 |
2007/10/09(Tue) 16:48 [Reply] |
今回はニライカナイの意味を分析しようと思っています。 そのまえにフィリピン・タがログ語の船が sasakyan dagad ですが、これを分析する必要があろうかとおもいます。タがログ語は形容詞後置形です、dagad が海でsasakyan dagad は「海の乗り物」です。しかし、sasakyan の yan はいまはわかりませんが、sasak とはネパール語で支配者という意味です。沖縄でも貴人はちょっとした外出でも下人に担がせてこし(輿)に乗ったといわれています。そういう輿を sasakyan(乗り物)といった……ここでは、これがおおいに匂うことだけを覚えておいてください。
ニライカナイの語については、沖縄生まれの言語学者、中本正智先生が 20年ほどまえに『ゆりいか』という雑誌へ 6 〜 7ページつかって考証を発表なさったことがありました。 そのときの分析では、ニライの「ラ」を「……の」という、ちょっと珍しい用法を適用しておられて、ついてゆけないものを感じました。しかし、同雑誌に「ニライカナイの前は『ミルヤ・カナイ』だった」とあり、ミルヤカナイならば、これはたちまちアイヌ語で「光り・土地、願いごと」となることに驚きました。
ニライカナイとは朝の太陽遥拝のことであるは、まちがいのないことでしょう。 昔の日本人は、毎朝太陽に手を合わせて拝んでいました。サンカは目をあけて、アーといいながら太陽を拝むのです。そうすると一生、近眼や老眼に関係なく一生を過ごせるそうです。 そのニライカナイには「太陽の里への願いかけ」という言い伝えが附随しています。小生のニラミでは“の里”というのがクセモノです。 ここでは「ミルヤカナイのほうは、アイヌ語だ」ということで、それで離れましょう。 問題はタガログ語に nilay-nilay(冥想)があることです。 ニライカナイも nilay-nilay も「お調子ことば」です。いづれも -rai や ai をつけていて、しかも -ra と -ai はネパール語の強調末尾辞です。タガログ語では-ra ではなく、la になっていますが、タガログ語は l 音をふんだんに使うクセがありますので、ここは問題にする必要はないでしょう。 「お調子ことば」という用語は小生が設定しました。日本語でも、にっちもさっちも、すったもんだ、どうにもこうにも、てんやわんや などなど」にも見られます。ついでにいいますとスクナヒコナなども、お調子ことばから成り、きわめてネパール語くさい造語です。前後しましたが、ネパール語にはこのお調子ことばがじつにたくさんあるのです。 さて nir ですが、これは「○○から離れて」というのが基本内意です。認識の対象物ではなく、それから離れるというのですから、「その近くへ」という意味も派生しています。 内意は二つに分かれますが、冥想し、深みへ入るときの一種のかけ声として、nilay-nilay が繰返された……これでどうでしょう。「太陽の“里へ”」は、「太陽の傍」とも概念上は同一です。 |
[8484] 自己紹介・意識紹介 焼尻紋次郎 |
2007/10/08(Mon) 07:39 [Reply] |
おれ、三年半前まではヤミクモに各種語源を追求してました。それが三年半のあいだに、高橋稔(思想上の師承)が失踪して、言い遺した「価値観リロン」を整備してたのです。この三年半前のあいだに得られた成果は数々ありますが、最大のみやげは、やっぱ何といっても「人間が単細胞生物このかた持っている考えかたでのクセ」を羅列し、白日のもとに掴みだし、コンクリートの上に叩きつけたことではないか……を自負してま。……じつに抜きがたいクセの数々です。
その成果の一つが「○×の法則・多極同時にらみの術」です。 言語観のちがいに遭遇すると、人びとは白血球の中の A細胞 T細胞よろしく、敵意をもって攻撃し、自分らの居場所から排斥するまで攻撃をやめません。 それも、最初は立場や利害で判断してかかるのですが、そういう目がいちどできあがると、その異質の言語観へ攻撃できる材料だけに目が行って、ついには「あいつのいいぶんも正しいのではないか」との目は閉ざされてしまいます。 モノゴトに両極端があった場合には、同時に両極端をにらみ取る姿勢が肝要です。おなじように、モノゴトが多面性をもっているときには「多面」を同時ににらみ、認識することが超ダイジとなってきます。
一つや二つだけの外国語を観ているやりかたは、言語対比ということにはなっていません。言語種が現在だけでも 6300もあるのですから、少なくとも 10種内外のよその言語をあたってみる必要があります。 人は多くの言語をおぼえることができます。パキスタンの友人のアリくんは四種の言語をおぼえて使いわけないことには、税務署の仕事はできなかったと洩らしていました。千葉市の中村一夫氏は 13もの言語をしゃべっているのには心底あきれてしまいましたが、井上孝夫さんは、なんと 150種のことばが喋れるそうです。 小生は日本語以外はどこの言葉もまったく喋れません。しかし、そこは要領です。「そんなら、それやってやろう」という人はEメールください。じつは、そういう人物を探しているんです。 小生がやっている領域や判断は「学説の一つ」しか排出でけまへん。多くの人びとが寄り集り、成果を出しあえば、より正確な言語の本質を把握できます。 そういう意味からいうと言語学などというものは、まだ始まってもいない段階なんです。 ことばは意識の web です。太古の昔から意識を構成してきたことばは、叡智の力で再構築する必要があります。太古そのままの言語 web から振り回されるのはもう、やめにしましょう。
小生は社会に出てすぐ、とびこみセールスをやりました。このときに、遠慮とか「恥ずかしい」は、どっかに置き忘れてきました。 でも、価値観を整備することによって、「人類はみな潜在親友だ」との信念がでけました。
あ、青草で述べるべき「いいぶん」でしたね。ダンナ様。 |
[8483] さすらう神々 伊勢神宮 神奈備 |
2007/10/07(Sun) 21:36 [Reply] |
紋次郎さんが盛んに投稿されていた頃から3年を経過、その頃を知る人々もおられますが、紋次郎さんを知らない方々も増えています。紋次郎さんから自己紹介もされていますが、今の所、一体どういうおっさんとの興味と警戒心があるのでしょう。生田淳一郎でgoogle。
内宮は天照大神、この神を豊鍬入姫命と倭比売が奉じて各地を彷徨し、伊勢に落ち着きました。伊勢の周辺の近江・美濃ををわざとのようにの連れ回ったのです。ルーツは北九州の平原弥生古墳から出土した直径46.5の銅鏡から出発したのかも。 この大鏡は平原で永久の眠りについたのですが、同じような鏡が東へ運ばれ、巻向の磯城の宮殿に祀られていましたが、崇神天皇の時代に豊鍬入姫命に託して笠縫邑に祀られました。それから紀伊や吉備に行き、更に倭比売命によって運ばれました。
外宮は豊受姫神。『丹後国風土記逸文』によりますと、比冶山の真奈井に水浴に来た天女の一人が和奈佐老夫婦の養子となって地上にとどまっていました。ある日、老夫婦に追い出され、荒塩の村から哭木の村に至り、さらに舟木の里の奈具の村で豊宇賀能売神となりました。それから一度摂津へ来てから丹後に還ったようです。その神を伊勢に勧請したのが外宮とされています。
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[8482] ニライカナイ --- 2
焼尻紋次郎 |
2007/10/06(Sat)
11:53 [Reply] |
ダンナ様、掲示板の流れを汚してしまいました。すみませんが [8479] と [8481]
の書き込みを削除していただけませんか。 ちょっとした表現ミスを訂正しようとして、Reply
を叩いて記入したところ、どもウマくいきません。3年半たったが、キカイ・オンチは昔どおりです。
日本の古代王朝に染みこんでいる語彙上の南方性は、さきに挙げた
manta や talon 、nilai-nilay
だけではありません。 沖縄では「おもろ・さうし」などが問題となっていますが、タガログ語には modo(good manner)があり、これは
moro が第二子音濁化のクセで modo に変化したと考えるなら、そっくりだとなりましょう。あ、青草で挙げた
musa(ねずみ)もタガログ語として登録されてま。 これらは語彙現象ということだけに絞りこめば、じつはネパール語の語彙群だったのです。小生は目下、タガログ語語彙のうち、1
〜 2
シラブル(単節音)で、重要な意味を持っているものを摘み集めています。それができ上がったときに“総覧表”としてお目にかけましょう。 でも、類推を機能させるには、現段階で把握できた資料だけでも十分です。 (タガログ語には、5シラブル、6シラブルの長い単語だらけなんです)。
沖縄のことばは、台湾を通りこしてフィリピンに繋がっていたのです。 ご存じのように、台湾と西表島のあいだには言語上での断崖がありました。いや、言語学者諸氏は「あ、断崖がある」と考えただけで、そこから先の南方には目が行かなかった……と、言い換えていいかと思います。ですから、ここの稿に含ませきれるかどうかは、すこし不安ですが、台湾の諸語がどんなものだったかを考察する必要も出てくるのです。
それにしても思わざるをえないのが、沖縄の宗教が日本本土のそれと大きく様変わりしたまま現代を迎えていることです。 奄美から南には“大黒柱”の文化がありません。 戦争中、日本政府は鳥居を建てた神社を沖縄につくりましたが、土着のユタの群れには対抗できませんでした。 そのユタと同質の宗教が古代のフィリピンに栄えていたのではないでしょうか。
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[8480] Re[8479]: ニライカナイ --
1 焼尻紋次郎 |
2007/10/06(Sat)
09:14 [Reply] |
きのふ、見るともなく一瞥々々ののぞき見をしていたのですが、そこに神奈備ダンナ様ご記述の「ニライカナイ」がありました。 ニライカナイといえば、目下、沖縄の専属文化みたいになっています。ところが、ダンナ様のご記述では「ニライカナイは奈良にあった、内意は“東”だ」みたくに受けとりましたが、それでよかったですかね。
イヤァ〜、驚きました。
じつは、小生が
3年半ぶりでインタネットに復帰したのは,「沖縄学の大家・外間守善先生の頭が何とかして解放開明的になって戴かなければどもならん」との強い請願があったからです。 同教授(東大の名誉教授かな? 現
83才・沖縄を中心とした言語学者)の考え方は、沖縄語と日本語の同一性を強調するあまりに、できるだけ「外国 ・
沖縄」への語彙の流入とか借用は認めようとはせず、似ている言葉は“偶然の一致”現象として片付けようするスタンスです。 そこで小生はいま、沖縄学会に対して「英語にも“魚のえい・外套”をいう
manta があるが、沖縄のマンタ(魚のえい)をどう看るのか」を問い合わせています。ですが、あれからもう
2ヶ月ほど経つのに、まだ返事はありません。
ちょっと結論を急ぎすぎるきらいもありますが、もし「ニライカナイ」が奈良にあったとすれば、神奈備ダンナ様が古くから御指摘あった「日本王朝の南方性」が急浮上するのです。 虫の声を聴いて感情移入して泣く日本人の頭脳構造はインドネシアまで連なっています(朝鮮人や西欧人は雑音とした聴かない)。
ニライちゃんは、26年間共に戦った思想上の師承だった高橋稔の長女の名前です。
4年前、沖縄からわが枕頭にやってきて愛嬌をバラ撒いて帰りました。
フィリピン・タがログ語に
nilay-nilay(冥想)の語があるのです。 「冥想」などという語彙は一つの民族に一つあれば十分なはずですが、タガログ語には三つもの
meditation があるのです。 > |
[8476] 生島足島……、島の語源 焼尻紋次郎 |
2007/10/05(Fri) 09:36 [Reply] |
> 各地の方がそれぞれの地元の歴史を語り、それを積み上げて行けば素晴らしい日本史の物語ができるのでしょう(席亭ダンナ様)。 くずさん、貴重な資料を有り難うございます。 小生の本名は生田淳一郎といいまして、去年のことになりましたが、生田に込められている内意を掴むには「生島足島」は外して考えられないとおもって、ない脳ミソをしぼったことがありました。 そのときは生国とか生魂などのことばをしりませんでした。お蔭様でかなり飛んで行けそうです。 申しおくれましたが、小生はできるだけ多くの外国語をつきあわせながら、古代日本に流れこんできている“族際古代語”を把握しながら、現代に残っている古代語の意味を掴んでいこうとするスタンスです。 でも、生まれ育ちは“筑豊”の筑(つくしのくに)ですが、血は豊後の山奥の、日田のひとつ上流の現・玖珠町です。ここはついさいきんまで「豊後森町」で、ここの切株山に生田姓がこびりついています。ですから、ここにも「生田の森(神戸)」があったわけです。
ここでご注意を喚起していただきたいのが、島の語源です。 小生が驚異のもとに島のことを目覚めたのは、司馬遼太郎著『胡蝶の舞い』で、ここに代々井戸がじまんの島倉家があって、そこで育った伊之助が幕末に希代の言語天才になるのです。 小生は島倉の“クラ”に注意ひかされました。クラとは神や貴人の坐です。そうすると、古代ではどこでも神だった水や井戸、わき水、清水とは原音 sim の開音(母音づけ)されたものではなかったか……、でした。 ケルト人も貴重な品々を泉に投げ込んでいますよね。 日本列島の周囲には400もの大島があります。この「オオ」とはタジク語に露頭している oB(水) だと見受けられるのです。 大阪でも「おぶう(お茶)飲んでけへんか」いいまっしゃろ。
じつに不思議きわまる現象ですが、島々には深いふかい海底から突き上げるようになって清水が湧出しているのです。こうなると地学の領域ですね。 朝鮮語、アイヌ語にも *sim(湧水)があります。
沖から見た神戸の「生田の森」は、湧出点から海岸まで、こんもり繁った帯状の森林地帯だったことでしょう。ですから……だと思いますが、フランスの戦艦は勝海舟のところへ水をもらいにやってきています。
くずさん、豊後森周辺一帯は「クス郡」です。こんごお引きまわしのほど、宜しくお願い申しあげます。
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[8475] 桜左近ドン 帰れソルレントへ 焼尻紋次郎 |
2007/10/05(Fri) 05:53 [Reply] |
> 紋次郎さん 復帰歓迎します。 一句できました √ 涙ボロ 涙ボロボロ ボロ涙 ……どな
ところで、諸般のワクに大なだれの雪解けぞ。 桜左近ドン、帰れそるれんとへ ほ〜んと、済まぬことしてしもた。 とにかく帰って来ておくれ。 |
[8474] Re[8473]: 舞い戻ってきたけんど…… 神奈備 |
2007/10/04(Thu) 17:22 [Reply] |
紋次郎さん 復帰歓迎します。 多くのファンの方々はお喜びでしょう。
> 「E メール必空」とは何のことかな?
いたずら、宣伝・広告などの不埒な書き込みがありまして、それも自動的に巡回しながら書いているようでした。Eメールアドレスを入れているようなので、Eメールアドレスは本文中に書いて頂くようにして、Eメールアドレス記入欄には何も書かない書き込みのみを受け付けるようにしています。 |
[8473] 舞い戻ってきたけんど…… 焼尻紋次郎 |
2007/10/04(Thu) 14:12 [Reply] |
3年半ぶりで舞い戻ってきましたが……。 ひさしぶりなので、いろんなメカ・装置に目が暗んでま。 「E メール必空」とは何のことかな? とにかく書き込みをクリックしてみます。 席亭のダンナ様、すこしでも気にいらなかったら削除をどうぞ。 わがプロバイダは so-netなので E メールが効きません |
[8472] Re[8471]: おひさです! 神奈備 |
2007/10/03(Wed) 10:17 [Reply] |
> でしょーでしょーー難波津考えるのに尼崎ははずせません!!
山城の貴船神社についても、神様が尼崎の貴船神社から神崎川淀川を遡って山城の奧に鎮まったとの伝承があります。奥宮に船形石があります。
神武さんに海路を教えた珍彦(ウズヒコ)の末裔である大倭直の祖の長尾市が大和神社を祀りました。ここの摂社に祀られているタカオカミ神が丹生川上神社の元社であるとの伝承があります。そのタカオカミ神が黄船に乗って吉野川・紀ノ川を下って難波の海に出たのです。それから尼崎に上陸し山城に行ったことになります。 さて、大和神社にタカオカミ神が持ち込まれたのですが、それが尼崎辺りからとしますと神様がグルグル回っていることになります。壮大な渦があり、運んだのが珍彦。
> 吉野の大穴持神社と葛城御歳神社の関係
これはよく分かりません。御所市朝町の大穴持神社であれば、鴨系であるとか神体山がつながっているとか、何らかの関係がありそうですが・・。 『播磨国風土記』(賀毛の郡)に見える播磨の国の田の村君は農耕民のようです。それも皇命に従わないようで、縄文の意識が残っていた民人のようです。縄文の山川草木のささやきを聞くことをつぶしてしまったのは弥生人、大国主なのです。数多く残っている大歳神社と大国主との関係は疑問。
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[8471] おひさです! 縁MADOKA [Url]
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2007/10/02(Tue) 03:48 [Reply] |
どーも ブログの更新にはまり込んで。。ご無沙汰でした(><) とみたさん <萩原秀三郎図説日本人の原郷(小学館)や稲と鳥と太陽の道(大修館書店)> ありがとうございます。探してみます。 <柏原東南部の玉手山丘陵の立柱祭祀のことは堅田先生からお聞きになっていませんか。>残念ながら私の時は研究フィールドが田辺だったし、半年で挫折組みなので。。(><) 下記に問い合わせされると資料が手に入るとおもいます 帝塚山大学考古学研究所 http://arch.tezukayama-u.ac.jp/ <発掘調査の参加者の名前の一覧で20余名載っています。女学生が多いようです> そりゃそうーですわ(笑)今は共学ですが当時は女子大ですからねえ(笑) 蛇足ながら、堅田先生は帝塚山学園の男子学生一期生なんです(><)大阪に帝塚山学院がお嬢さん学校で有名その兄弟校として男子教育のため奈良の帝塚山学園創設(この時の1期生が堅田先生)があまりにお嬢さん学校の名前が有名で男子生徒集まらず(><)やむなく共学に女子学生8割男子2割の帝塚山学園 のち帝塚山大学(女子大)に堅田先生赴任 現在共学 つまり奈良帝塚山学園でもっとも古参の男子学生が堅田先生ですねんわー
神奈備さん <難波の生国咲国魂神社の元社と言う神社が尼崎に鎮座しています。生島神社ですが>でしょーでしょーー難波津考えるのに尼崎ははずせません!!
播州の大歳はなにか? とーてもぶっ飛びですが、私はオオナモチに関係ありとみています。 天の日ぼことオオナモチの戦いは播磨風土記でも有名ですし、吉野の大穴持神社と葛城御歳神社の関係からみても。。。まあーーーとんでも推測ですがね。。。
住吉と大歳は 丹生からみかも? カモ カモ????
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[8470] 秋の高山祭 神奈備 |
2007/10/01(Mon) 11:48 [Reply] |
10月9日〜10日は秋の高山祭です。縁があって行って見ようと思っています。 飛騨は縄文文化の栄えた所で、旗鉾、日面、日影、根方岩陰、下坪などの遺跡があるようです。興味深いのは丹生川沿いの旗鉾、日面、日影、根方には伊太祁曽神社が鎮座していることです。これら伊太祁曽神社の鎮座年代はよく分かりません。 丹生川沿いはまた両面宿儺の本拠地でもあるのです。宿儺の伝承としては、天船に乗って位山に飛来し、朝廷の将を招き王法を伝授したとか、大日山日龍峯寺を開いたとか、地元に尽くした伝承がある反面、『仁徳紀』には、「皇命に随はず、人民を掠略みて楽とす。」とあり、難波根子武振熊に殺されています。反逆者に仕立て上げられています。 宿儺の活躍した地域に伊太祁曽神社が鎮座、また隼人の本拠地に韓国宇豆峯神社があり、祭神を五十猛神としているなど、各地のまつろわぬ人々を攻撃する先方に五十猛神が立っていたとすると、崇敬者としては複雑なものがあります。
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