神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十九年 十一月 2007.11)お名前の敬称は省略しています。

[8569] Re[8567]: ナ グ サ 姫     Erik Shmidtでは? 2007/11/30(Fri) 17:10 [Reply]
紋次郎さん、参考になれば幸いです。
>チベット語辞書に nagsa があってSch(サンスクリット語)の符丁つきで、linden tree と出てま。
 その下に hardly to be found in Tibet; the word perhaps introduced from Mongol dictionaries とあります。

その"Sch"は「サンスクリット語」の意味ではありません。Erik Pema Kunsang (Erik Hein Schmidt)が編纂したチベット語辞典を指しています。チベット語と仏教の学者で、チベット語に関わる人なら誰でも知っている大家。彼の辞書から引用したのでしょう。

また「菩提樹」といっても2種類あり、そのlinden treeはシナノキ科の北半球温帯に産する木で、釈尊が悟りを開いたクワ科の菩提樹とは別ものです。後者は英語ではサンスクリット直訳のbodhi(菩提)tree。

[8568] Re[8565]: ソシモリ異説  神奈備 2007/11/30(Fri) 10:00 [Reply]
 ソシモリについての面白い解説ありがとうございます。
 対馬の北側に那祖師神社と云う神社が鎮座、『平成CD』では祭神を曽尸茂梨としています。地名が祭神?、曽尸茂梨の所魂と見れば、地名でもいいのですが、「酋長の素尸毛犁(そしもり)」と云うものがいたとすれば、彼でもいいのかも。陝野奴を素盞嗚尊とすれば、素盞嗚尊の父神を祀ることになります。日本神話に持ち込めば伊邪諾尊。
 現在の神社の説明板では祭神は素盞嗚尊。


> 私は、先月、韓国の高霊つまり古代の大伽耶に行ってきました。ここにも天孫降臨の高天原故地碑由来の話がありました。

 伽耶大学の構内の山裾にその碑が立っているそうですね。舞楽『蘇志摩利(そしまり)』は簑笠で雨を凌ぐのは曽尸茂利の所ですが、『日本書紀』(一書第三)では高天原を追いやられる際に長雨が降ります。何となく高天原と曽尸茂利とはあまり遠くないような感じですね。おっしゃる通り、伽耶に牛頭山があります。この辺りも一度行って見たい場所です。

[8567] ナ グ サ 姫     焼尻紋次郎 2007/11/30(Fri) 08:10 [Reply]
 忘れないうちに申しあげておきたいは、ナグサ姫のことです。
 オレ、まだサンスクリット語辞書は思うことあって読んでいません。が、チベット語辞書に nagsa があってSch(サンスクリット語)の符丁つきで、linden tree と出てま。
 その下に hardly to be found in Tibet; the word perhaps introduced from Mongol dictionaries とあります。

 このことによって、ほとんど間違いなく「ナグサ(姫)」は菩提樹のことだと云えましょう。そしてまた、菩提樹は極寒のチベットには自生していないのではないかと思料せられま。
 したが、シューベルトの『冬の旅』にも √ ・♪ 泉に沿いて 繁る菩提樹 ♪ とあるように、かなりの極寒地にも生えているようです。
 日本でも札幌市西南郊外の定山渓(温泉)の山にも自生しています。ただし、ここの「菩提樹の実」はナツメの実に似て小粒。手数珠を作るに向いています。

 菩提樹といえば、シッダルタさんがこの樹の下で悟りを開いたことが、余りにも有名ですが、nagsa に nag(へび)が入っているところから見て、菩提樹信仰はシッダルタさん以前からのことかもしれません。

[8566] ヴァースキ  神奈備 2007/11/29(Thu) 19:34 [Reply]
 阿波の国の那賀町に和食郷があります。『延喜式』神名帳記載の和奈佐意富曽神社の論社とされる蛭子神社が鎮座しています。古くは鷲敷社、中世には和食大明神、蛭子大明神と号し明治三年からは現社名となっています。
 太龍山に鎮座する太龍寺の縁起によれば「天長二年(825)空海遷宮ス」とあります。この太龍寺は四国八十八ヶ所の第二十一番のお寺ですが、延暦十二年(793)19歳の空海が、太龍嶽(舎心嶽)の上で百日間にわたり「虚空蔵求聞持法」を修法したと伝えられて居ます。
 
 那賀郡の太龍寺は古代インドのナーガ=蛇を連想しますし、太龍は蛇王・龍王のヴァースキ(和修吉)で九頭龍王を意識します。このヴァースキは地名の鷲敷(ワジキ)であり字の名の和食(ワジキ)に残っているようです。
 ヴァースキの吐き出した毒をハラーハラと云うようですが、『和名抄』の阿波国那賀郡には幡羅(ハラ)地名があります。また和射(ワナサ)地名がありますが、これをヴァースキにつなげるのはいささか無理があるのかも。

[8565] ソシモリ異説  とみた 2007/11/29(Thu) 13:32 [Reply]
雅楽研究家の西塔義雄さんが公開サイトでソシモリやスサノオについて語っておられます。

舞楽「蘇志摩利(そしまり)」あれこれ
 「高天原(たかまがはら)を逐(お)われ、新羅に渡られた素戔鳴命(すさのうのみこと)が曽尸茂利(そしもり)というところで大雨に会われ、青草で作った簑笠で雨を凌(しの)がれた故事を基にしてできた舞と伝えられています。」宮内庁楽部雅楽演奏会曲目解説より
 この解説を読んで、はてな、どうなっているのかなと思いました。高天原が朝鮮半島のどこかでないと、この解説はピンとこないのです。
 スサノウノミコトと新羅のソシモリとは関連性がないと説く学者もいますが、宮内庁楽部の解説が関連づけているのですから、あながち否定はできないでしょう。
 高句麗の歴史を記した「桓檀古記(かんだんこき)」の一説を引用します。
 「豆只(ずし)州の?邑(わいゆう)に謀反あり、その酋長の素尸毛犁(そしもり)を斬らしむ。孫に陝野奴という者あり、海上に逃れて三島に拠り、天王を潜称す」
 新羅の北方に?(わい)という国があり、夫余王朝の王族が治めていました。邑は「むら」という場合が多いですが、諸侯の領土という意味もあります。人の名前が地名になったり、地名が人名になったりする例はよくあります。
 三島(さんとう)は三神山(さんしんざん)ともいい、古代中国において東方海上にあって仙人の住むという三つの山を想定したものであり、日本列島がその島に該当していました。
 僣称(せんしょう)とは「かってに身分を越えて上の称号を自称すること」高句麗の支配者には、天皇、天王、天帝などの表記があります。半島での野望を失ったソシモリことスサノウあるいはその子孫は、三島を支配して天王を自称したわけです。
 解説中に新羅とありますが、それは物語の場所を示すためであり、当時はまだ新羅という国は出来ておりません。くわしい年代は定かではありませんが、高句麗の前身の夫余王朝の時代であり、B・C3〜4世紀の頃と思われます。
 その頃、日本列島にスサノオ王朝が出来たことになります

私は、先月、韓国の高霊つまり古代の大伽耶に行ってきました。562年に新羅に併合されて消滅する伽耶です。伽耶にはご存知のように金官伽耶や小伽耶,安羅伽耶などいくつかに分れています。元は弁韓でしょうか。400年高句麗が攻めてきて金官伽耶は衰え、代わりに大伽耶が栄えます。ここにも天孫降臨の高天原故地碑由来の話がありました。これはさておき面白い記事がありますので、紹介します。

参考資料は、大伽耶(正しくは大加耶)の歴史と文化。
良田洞という場所には岩刻画が彫られここは神聖な祭祀場であった。

伽耶山の最高峰は牛頭峰で、加耶はインド語で、牛を意味し、牛は神聖な犠で捧げたという。良田洞は青銅器時代時代から引き継がれ伽耶山系神祭を行ったかもしれない。ちなみにこの岩刻画と似たものがシベリヤのアムール川にもあるとの事です。なお、ソシモリは牛頭山(高麗から35km南?)というのが、加耶大学校の金名誉総長です。

牛頭山が高天原としています


[8564]   人 間 ら し さ     焼尻紋次郎 2007/11/27(Tue) 08:30 [Reply]
 日本人はすくなくともここ 140年間、西洋の考えかたを採用し、それをあらゆる判断基準の底に据えけ暮らしています。

 キリスト教のドグマ(教条)の一つに「動植物と人間はちがう」というがこびりついていました。このドグマは 1996年のパウロ・世の進化論容認宣言によって霧消しました。

 その人間も単細胞生物このかた、D.N.A.様の御意思のままに振り回されてきたのでした。
  それにしても、われわれはなにか事あるときには「もっと人間らしく生きよう」などと志向します。

 少年が成長するとき、反抗期があって、まず教科書・辞書的集合自我へ反発することで自我形成が促進されます。
 「anti・D.N.A.様」の姿勢が、人間らしさの確立に不可欠な第一歩でしょうか。

 たとえば芸術。一見とても人間らしいしぐさに見えるのですが、その実、D.N.A.様がそれ以前に路線を張りまわしていたからこその所作でなかったか。 

 観音マスクの現象も、D.N.A.様の「指の間」だけのコトなんでしょうか。

 「曰く不可解」を岩頭に刻んで滝にとびこんで死んだ青年は、これもキリスト教偏執のシヤーセ(幸せ)志向に毒されていたのではないか?

 モノ言わぬ神をめぐってのグループに共通の自明な感受と言葉がほしい紋です。

[8563]   観 音 マ ス ク     焼尻紋次郎 2007/11/26(Mon) 12:23 [Reply]
 いま、青草のほうは、おもしろい展開がありそうですね。

 オレ、「観音」ということばを遣うは、どうも気にくわないのです。音を観るとは、これ日本語じゃないですよね。でも、ほかにいい表現がありません。

 どういうことかと云いますと、人相のことなんです。
 オレも 23才から飛びこみセールスやって、我流ながら人相観にはいささかの自信があるところです。
 それが……、どう見ても「高貴だとか気品にあふれた顔」ではなく、そんなの通り越したような顔が、実際にあるのです。

 「高貴・気品にあふれた顔」は、階級制度からも排出されます。
 だが観音マスクの湧出源は、別のところにあると思うんです。
 もちろん、お猿さんにはこんな顔はありません。観音マスクの湧出源がこのシャバのどこかにあるとしたら、……、やっぱ、それは宗教じゃないかと睨んでいるところです。

 高校時代、一回もくちきいたこともなく、名前も知らなかった同級生が、その観音マスクなんです。名前を調べてみたところ、やっぱ中央アジア系……まで辿れま。
 本人に名前をだすに同意してくれるように、世話役に電話したところ、5年前に薨去でした。

 

[8561] Re[8557]: 濃い〜方への件  神奈備 2007/11/23(Fri) 20:21 [Reply]
> 明治神宮には古代から受け継がてきたような聖地の中心、たとえば磐倉や聖泉がありませんか?

 明治神宮は大正時代までは青山練兵場だったそうです。で、その前は江戸時代で広い原野で幕府の煙硝蔵・鉄砲場などがありました。青山権田原の御鉄砲場と言ったそうです。
 それらをつくるためでしょうが、そこに鎮座していた鳩森八幡神社を渋谷区千駄ヶ谷に遷座させています。鳩森八幡神社の神霊がとどまっているのかも知れません。


鳩森八幡神社  渋谷区千駄ヶ谷

祭神 応神天皇、神功皇后

由緒 当鳩森八幡神社の鳩森の称号についてのべてみよう。
「江戸各所図」によると、往昔、此地深森の中に、時として瑞雲現じける。又或時、碧空より白気降りて雲上に散す。村民怪むで彼の林の下に至るに、惣然として、白鳩数多い西をさして飛び去れり。依て此の霊瑞を称し、小詞を営み名ずけて鳩森「はとのもり」と云う。貞観二年、、慈覚大師東国遊化の頃、村民等大師に、鳩の森の神体を乞ひ求む。依ってうさはちまんぐう、城州鳩の嶺に移り給ふ、古を思ひて、神功皇后、応神天皇、春日明神の尊体を作り添へて、正八幡宮と崇め給ふ。
とあるが、この霊瑞よって当社を「はとのもり」と称したので、従って「鳩森」と書いても「の」を入れて読むのが正しい。
貞観二年に慈覚大師(円仁)が、関東巡錫の途次、村民の懇請によって、山城国岩清水(男山とも称す)八幡宮の鎮座せる鳩の嶺に遷座し給う古事から、神功皇后、応神天皇、春日明神等の面尊像を作り添えて、正八幡として崇敬し遷ったと伝えている。
この伝説によれば、当社の縁起は貞観二年であるから、現今より約千百年前の創建である。
(平成祭礼CD)

[8560] なぜか、将棋の王将……宗谷の岬    焼尻紋次郎 2007/11/23(Fri) 07:10 [Reply]
 同じ種類の魚ではなく、おなじ発音の名前が地方ごとに割り振りされているようですナ。
 遠賀川スジでは、ウグイ、アカハラ、オイカワは聞いたことなく、細い魚はみんなハヤでした。
 北島三郎のふるさと、木古内で漁民が「あんたら、こんな魚、要るならあげるよ」というので、なんという魚かと訊いたらウグイだという。 1m もありそうな大きな白い魚で海にいるウグイだそうです。
 遠軽のウグイは 30cm ぐらいの大きさばかりでした。
 名寄のアカハラは、上から見ると青黒く、腹のほうは白いスジ、その下が赤いといった魚で、全長 25cm はありました。

 あ、魚のお話はマイネ(津軽弁)だったか。
 宗谷の岬の売点の裏に民宿旅館みたいなの、まだありましょうか? そこでアシタバが越冬したんです。
 柏屋さんもまだご健在でっしゃろか。ぜんぜん「ひと疲れ」をしない、いいおじさんでしたが。
 営業としてアシタバを育てるなら北海道でっせ。沖縄・浦添にも置いたが小さくてマイネ。
 オレ、富良野の「唯我独尊」ではアシタバおじさんでした。

[8559] Re[8558]: はよカエルト  マルヤ 2007/11/22(Thu) 21:28 [Reply]
> 実は今度のウガネットはテーマが「食」なので、縄文食などを考えていました。貝塚などの遺跡から出たものでは議論としては面白くないので神餞に残っているであろう縄文の名残を吉野に探して見ました。お時間に余裕がございましたら中央公会堂におこし下さい。
>
神奈備さん、ありがとうございます。
前にはウガネットでお世話になりました。またお伺いしたいと思います。

[8556]「吉野川のハイジャコ」のリンク先ですが、
四国の吉野川と間違っています。今気付きました。
でも、まったく同じ魚種ですので大目に見てください。

[8558] はよカエルト  神奈備 2007/11/22(Thu) 20:17 [Reply]
> 私が思いますのは、腹赤とはオスのオイカワのことではと思います。この魚は見事に美しく、そして美味しいのです。

マルヤさん、貴重なアドバイスありがとうございます。ウグイは骨が多く、食べるのも難儀なことのようですね。

実は今度のウガネットはテーマが「食」なので、縄文食などを考えていました。貝塚などの遺跡から出たものでは議論としては面白くないので神餞に残っているであろう縄文の名残を吉野に探して見ました。お時間に余裕がございましたら中央公会堂におこし下さい。


> 食用ガエルは、堺の炉辺焼きの店でよく食べましたが、鶏肉のようで結構旨い。

蛙はインドネシアでソテー食べました。もも肉だそうです。あっさりとした味でよく言われるようにササミの雰囲気でした。

> 信濃の諏訪神社では土中の蛙を掘り出すことから神事がはじまる。

 蛇や熊も冬眠中を捕まえるのだそうです。おちおち寝てられんのも可哀想。


> 壺を利用してどのようにすれば灰汁抜きでるんやろか?

 煮ると灰汁が抜けるそうです。

[8557] 濃い〜方への件  KAG(恋川亭) 2007/11/22(Thu) 19:32 [Reply]
投稿の流れとは全然違うので済みませんが、話の腰を折るつもりはありませんので無視して進めてください。

この秋に関東での仕事があったおり、東京在住の友人の案内で恵比寿神社、神田明神、靖国神社、明治神宮を参拝してきました。この歳で初めてだったの。今まで、お江戸には仕事か本屋しか用事がなかったものでしたから。

んで、びっくり! 明治神宮!!!
境内(結界)に一歩入ったとたんの『場の気』の変わりようには驚きました。大三輪や伊勢や熱田の神域のレベルではないですか。一挙に明治天皇さまのことは吹き飛んで(ごめんなさい)、ここを(この聖地を)明治神宮として保護することに成功した人(人々?)のことを思い浮かべました。
明治神宮には古代から受け継がてきたような聖地の中心、たとえば磐倉や聖泉がありませんか?おそらく禁足地でしょうけど。すんごい聖地じゃないでしょうか。(念の為、明治天皇云々は除外してね。古代祭祀系のお話です)
ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示賜りたくお願い申し上げます。

[8556] はらかルト  マルヤ 2007/11/22(Thu) 18:17 [Reply]
腹赤の魚の話が出てきましたので、横からちょっと一言失礼します。

> > 腹赤の魚(うぐい)吉野川では鮎などもとれますが、腹の赤い魚が喜ばれたのかも。
>  アカハラは骨が堅くて食えたもんじゃない。が、昆布といっしょに漬けこんでおけば、少しは食えるとか。一種の保存食だったろうか。名寄市できいたお話です。
>

神饌として供えられる「腹赤(ハラカ)」の魚は、ウグイだと誰か初めに学者先生が言い出してそれが定説になってしまったようです。
地元の人がそう言っていると書いた本もあり、今では国栖奏の関係者の方もそのように思っているかも知れません。
でも私はウグイではなかった思っています。
ウグイは不味くて食えたものではありません。
それにハラワタ(内臓)が多く、臭いので子供の頃は釣っても捨てていました。
私が思いますのは、腹赤とはオスのオイカワのことではと思います。
この魚は見事に美しく、そして美味しいのです。
婚姻色の出たオスのオイカワは腹が真っ赤になっています。だいたい6月頃から赤くなり、11月末頃まで赤いようです。
やはり、この赤い色が喜ばれ、神饌とされたのではないでしょうか。
大きいのは20センチ位になるのもいますが、15〜18センチ位が一番美味しいです。
吉野では「ハイジャコ」と呼んでいました。(特にオスはアカハイ又はアカハエ)

> >毛瀰(赤蛙)……モミ。蝦蟇を煮たもの。

これは美味しいかも、と思います。
食用ガエルは、堺の炉辺焼きの店でよく食べましたが、鶏肉のようで結構旨い。
さすがに食べたことはないのですが、アカガエルなんかを上手に煮込めば美味しいかもしれません。
吉野では、食べ物が不味いことを「もむない」或いは「もみない」と言います。
これは、「モミ無い」から来た言葉だと聞いた、(あるいは書物で見た)気がします。

●これが「腹赤」の魚か――婚姻色の美しいオイカワ――
琵琶湖のオイカワ
http://www.biwa.ne.jp/~t-kondo/fish/oikawa.htm
吉野川のハイジャコ
http://www.toku-mlit.go.jp/river/manabu/ikimono/zukan/gyorui/churyu/oikawa.html

[8555] ありゃカルト     焼尻紋次郎 2007/11/22(Thu) 13:32 [Reply]
> 酒(一夜酒)……甘酒かも知れない。
 蒸溜酒は一夜では造れないものなのか? 族際語の arakki(焼酎)は、日本ではアラキとなって来てま。久留米市荒木町に荒木酒造KKがあったが、意味がわからなくなってせっかくの「荒木」名を放りだした。長い目でみると、これ優秀な無形財産あるよ。だれぞ意匠登録しておけば儲かるヨ。  

> 腹赤の魚(うぐい)吉野川では鮎などもとれますが、腹の赤い魚が喜ばれたのかも。
 アカハラは骨が堅くて食えたもんじゃない。が、昆布といっしょに漬けこんでおけば、少しは食えるとか。一種の保存食だったろうか。名寄市できいたお話です。

>毛瀰(赤蛙)……モミ。蝦蟇を煮たもの。
 モミジのモミ。赤かった籾殻。他言語での露頭はレプチャ語 vom(赤い)。
 蛙はビキとも言っていた。 bik(毒ある) i(もの)。
 いろいろ種類があるようですが、どんな蛙が食えて、どんな種類の蛙が毒をもっているのかを、徹底研究する必要これあらずや。ビキ(蛙)はタジク語系。
 信濃の諏訪神社では土中の蛙を掘り出すことから神事がはじまる。

> 国栖奏
 ネパール語 kusle は楽士。

> カシ団子……ドングリを灰汁抜きをして丸める。
 栲を叩いて繊維を重ねあわせたら、かなりの粗っぽい顆粒も流れ水につけることでアク抜きできることは、想像されますが、壺の出現と同時に縄文人口が増えた……んでしょう? 壺を利用してどのようにすれば灰汁抜きでるんやろか? 

 カシワの語源については、ワカリマへんが、N.H.K.のことばおじさんは、まったくデタラメな解釈を宣ってました。曰く、ニワトリとにてるんですって。
 「かしぐ(煮炊きする)」と関係これあらむか。
 ドングリは「くぬぎ」にもなったと思うが、まちがったか。タマトタケルが東征した折、つくば峰の麓にくぬぎの木がいっぱいあったので、そこで武器を整えたとか。金属精錬ね。ku(窯焼きを) nu(する) ki(木)。

 ドングリのドン……。ドン腹という。でっかい尻を津軽でドンス(>ドン尻)。
 ネパール語に dhuns-(膨れる・病気のため身体がむくむ)がある。

[8554] 食事3 縄文時代  神奈備 2007/11/22(Thu) 10:02 [Reply]
 『応神紀十九年』夫國樔者。其爲人甚淳朴也。毎取山菓食。亦煮蝦蟆爲上味。名曰毛濔。・・其土毛者栗菌及年魚之類焉。

 国栖の人は純朴で、山の木の実を取って食べている。またカエルを煮て上等の食物として毛濔とよんでおり・・・産物は栗、茸、鮎など。

 現在の奈良でも、平地と山との文化にいささか差があるようで、山には縄文の息吹が吹いているのかも。ましてや、1500年以上も昔なら、山や吉野の人々の食事は縄文時代とさほど変わらなかったでしょう。

 吉野の浄見原神社で行われる祭典で国栖奏が演じられ、神餞として以下の物が供えられるとか。。

酒(一夜酒)   甘酒かも知れない。
腹赤の魚(うぐい)吉野川では鮎などもとれますが、腹の赤い魚が喜ばれたのかも。
毛瀰(赤蛙)   モミ。蝦蟇を煮たもの。
菓(くり)
根セリ      春の七草の一の根。 芹の根も 棄てさりし妻と 若かりし 加藤楸邨
カシ団子     ドングリを灰汁抜きをして丸める。
粟飯

 これらも縄文時代の食事のようです。

[8553] タマス分け momo  山羊  焼尻紋次郎 2007/11/22(Thu) 08:04 [Reply]
 「たましい」の語源は五箇の荘にみられるシシ狩りのあとで行う「タマス分け」にあるのではなかろうか、と、Kさんは現地人の狩りへ参加させてもらって、汗だくになって山を走りまわりました。
 Kさんもアイヌ語で本をだした「街の」言語学者さんです。
 あちこちの辞書をみれば、すぐにわかったことでしたが、なぜか“見ない”!!
 フィリピン・タがログ語にもちゃんと tabas(cut into shape )とあるんです。
 「形にして」というところが、なにかイミシンのようです。「なおらい」あたりとも関係あるのかも。(膾……こまかく切ったもの)。

 古代史研究の上で山羊のことがとんと忘れられているようで、気がかりです。
 山羊の乳は牛乳よりも遥かに高い栄養素をもってま。杭につないで野っぱらにおけば、草の根まで掘ってむさぼり食うので、開墾には必要不可欠だったはず。
 熊野の宍垣は爆薬をとるために山羊を飼った跡ではないかと、邪推してま。
 シナの小説には、老人や仙人が山羊をつれて、遠距離を移動する風景が出てきます。あれは「生きているおべんたう」でしょうよ。

 mo というはネパール語で五十のこと。「五十・五十(良い)」で、sae(百・桃)。sae = sait(吉兆)。
 吉兆なんざは現代だけではく、昔も良いひびきやったんでっしゃろなあ。
 「i i(良い)」はトルコ語にもあります。この共通は、大昔、トルコの一派が日本列島ちかくにいたころの痕跡でっしゃろか。

[8552] 食い物2  神奈備 2007/11/21(Wed) 20:44 [Reply]
 『魏志倭人伝』に、「持衰は肉を食べない 近親者が死ぬと肉を食べない。」とあります。

明らかに、肉を食べること(獣を殺すこと)は天・神に対する不敬な行為と思われていたようです。この時代に仏教は大陸までは来ており、卑弥呼は鬼道をよくしたのですが、鬼道の中に仏教の殺生戒が入っていれば、当時の倭国もそのような思想があったのかも知れません。

 張魯伝注釈には禁酒・禁殺があったようですが、仏教との関係は不明。

 後世になれば、稲作との対立軸として肉食を諫める命令が出ているようです。

 天武四年 4月から9月の間(農事多忙時)うま 牛 犬 猿 鶏 を食べることは禁止。
 持統五年 農業の為に酒と肉を断ちことを命令。

 それ以前の倭の五王の時代より前になりますが、『日本書紀』から。
 神武  酒宍 を 食す
 仁徳  牡鹿
 崇峻  山猪
 雄略  狩りで得た鳥獣の膾(こまかく切ったもの)
 を食べるお話があります。狩りを行ったのは後の楽しみとしての獣肉を食べることがあったのでしょう。

[8551] 食い物  神奈備 2007/11/21(Wed) 20:10 [Reply]
大陸の発音では、逃、桃、刀は同じでトウ(tao)だそうです。
 これを利用して韻をふんでみますと
  伊諾岐尊走逃
  伊諾岐尊抜刀
  伊諾岐尊投桃
 となり、黄泉の国のお話の半分はできます。

 桃を魔除けとするのは刀が邪気を払うことから来ているとの説もあるようです。


 青草で牛乳を煮詰めたらしい酥について書きましたが、文献上に現れるのは『新選姓氏録』に和薬使主の謂われとして、難波に都した孝徳天皇に献牛乳でその名をもらったとあります。

[8550] とみたさんと恋川亭さんへ  神奈備 2007/11/18(Sun) 18:11 [Reply]
> 利尻富士がきれいに見えます。が・・・、暴風と雪で釣りなど出来まへんでぇ。たちどころに凍り死にですわ。

 何とか生き延びて正月をお迎え下さい。

 バブルの真っ最中の頃、会社が勤続XX年の者にはYY万円までの範囲で一週間程度の夫婦での旅行をプレゼントするとのことで、北海道見物をさせて頂きました。利尻富士への登山もやりましたが、山道には石がゴロゴロと歩きにくい登山でした。ここと比べると日本アルプスは銀座通り。

 稚内の神社 平成祭礼CDから
北門神社 稚内市中央1丁目1番21号
声問神社 稚内市大字声問村字コエトイ621番地
厳島神社 稚内市大字宗谷村字宗谷99番2
岬神社  稚内市ノシャップ2丁目375番地


> 石上麻呂

 舒明天皇12年(640)年に生まれているようです。
 亡くなったのは養老元年(717)ですから、享年78歳。この時代では稀にみる長寿。

 さて、ウィキペディアでは、歯や顎の骨から40代から60代と推定されているようで、どうなんでしょうか、この時代78歳では歯なんか残っていなかったのでは。


 万葉集の歌 元明天皇の時代
和銅元年戊申、天皇のみよみませる御製歌
0076 大夫の鞆の音すなり物部の大臣楯立つらしも

 これはまさに左大臣正二位石上朝臣麻呂の姿です。

 この姿が、藤原京付近から吉野までの春日神社をつなぐと浮き上がってくる武者像と想像されます。この辺りの春日神社は物部系だそうですね。

[8549] 北門神社  KAG(恋川亭) 2007/11/18(Sun) 14:28 [Reply]
大沼という巨大な水があるよ、沼というより湖。南極越冬隊が耐寒訓練する場所とか、そんな隣で仕事してます。例によって天照大御神様のみたまのふゆを賜る大規模装置。稚内はノシャップ岬と宗谷岬に囲まれた大きな湾ですね。利尻富士がきれいに見えます。が・・・、暴風と雪で釣りなど出来まへんでぇ。たちどころに凍り死にですわ。
さて、ここは神社の掲示板ですからね! 本来にもどって・・・、
北門神社、参拝してます。雪が積もった階段がとても怖いです、オロオロと登拝。

[8548] 高松塚の被葬者  とみた 2007/11/18(Sun) 14:20 [Reply]
神奈備さん のような大先達は、百も承知の課題に一石を投じたのですが私は所詮受け売りです。キトラも藤の木古墳も被葬者がなかなか、結着しません。今城塚が継体天皇陵という説が学会の定説になっているのは例外です。これも森浩一さんの近著”古代史おさらい帖”で異論も上げておられます。

高松塚の被葬者は、司馬遼太郎さん以来いろいろな説がありました。
天武天皇の皇子説、百済王説などです。

高松塚が天武陵に近い位置であり、百済系の渡来人の多い檜隈界隈にあることが根拠のようでした。星宿図も論争のポイントでした。

私も、迷宮入りと思い諦めていましたところ、白石太一郎さんの今年の講演で石上麻呂説を論拠を明示されて唱えられ、神泉社で昨年出された”三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国”という本の中でもこの説を岡本健一さんが支持されていることを知りこの掲示板に掲載しました。

論拠をいくつか述べさせていただきます。

副葬の海獣葡萄鏡は、全く同型のものが中国の西安の独孤思貞墓から出た墓誌から主は697年に死亡し698年に墓に埋められたことがわかった。

高松塚はこれより後であろう。

所謂、壁画に描かれた飛鳥美人の人物像、男女それぞれ八人の持ち物の色と形が儀制令により一位の官人だそうです。

年代と位階に相当する人物は石上麻呂しかいない。それ以外の傍証として・・・竹取物語の中で、かぐや姫にプロポーズした石上麻呂は燕の巣にある南海産の子安貝を取ろうとして屋根から転落して亡くなります。

高松塚の人骨もレントゲン撮影の結果、首の骨がずれていて、病床に臥して二週間以内で死んだ(717年没)事実と合致するそうです。

星宿図が高松塚にあることが問題視されたようです。、古代中国では星宿図は皇帝と皇族しか許されなかったから、石上麻呂は左大臣という高官でも官僚の身分ですから星宿図はもてないとされていました。ところが、唐朝の壁画古墳には政府高官が星宿図を許されていたことが判明しました。

以上の論拠により、白石さんと岡本さんは、高松塚の被葬者を石上麻呂とみておられます。





[8547] √・♪ あなた 変わりは ないですか ・♪  焼尻紋次郎 2007/11/18(Sun) 05:09 [Reply]
 アマカネ(これニューギニア高地石器時代人の挨拶、イミシンにして至便です)

 水がないのに「ワッカ・nai」……このナイは日本語だと思ったがいい。
 ついでにいうとノサップ、ノシャップはインドネシア語ではないかと、きのふ感じました。

 暴走老人……いいセンスいってら。
 わえらは共通の D.N.A.様を共に戴く有機質サイボーグならめや。
 若いもんはとしとったことがないので、ついつい若さにかまけて暴走しはる。
 それ、追い掛ける姿が暴走と目にうつるんとちゃうかァ?

 かぐさん、釣りやってますか? そこで釣りやらんかったら宝のもちぐさればい。
 √・♪ 日ごと 寒さが つのりますアマカネ ・♪

[8546] みてるよ  KAG(恋川亭) 2007/11/17(Sat) 20:19 [Reply]
稚内の宿から見てます。今回は長期滞在ですが、ロビーにPCがあったので。
紋爺、復活したんやね!(相変わらずだけど)
お葉書ありがとね、なかなか家に帰れないので拝読できたのは随分経ってからでした。ま、しかし、『暴走老人』(書籍の題名)と言われない程度の加減は必要かも(笑)。
私がお題の流れに参加できるのは、年度明け頃でしょうか。
みなさま愉しんでください。

[8545] 蘇塗の話、訂正追加  とみた 2007/11/17(Sat) 15:12 [Reply]
〔8544〕>蘇塗の話は、三国志東伝にでてきますから、紀元後の祭儀でしょうか

どうも抜けますね。すみません。
三国志東夷伝韓伝の記事です。東伝なんてありません。

お詫びに追加します。

韓国のソウルの中央博物館の展示品に発見した記事です。

農耕文青銅器・・・・

韓国は、初期鉄器時代は紀元前3世紀から紀元前後までです。その前は青銅器時代です。その時代の青銅器に描かれた絵です。

表面には、鋤で畑を耕す裸の男性とその下に鍬を持ち上げた人。

左側には壷に何かを入れようとしている人がいます。

この時期の農耕の様子を想像することができます。

裏面には、木の枝の端に鳥が留まっている様子が刻まれています。豊年を祈る意味で農村の前に建てられたソッテ(蘇塗)を連想されます。

このように解説されていました。





[8544] 古墳の祭りと神社の祭り  とみた 2007/11/17(Sat) 14:53 [Reply]
神奈備別荘で、鳥居と古墳が同居している写真を見ました。参考になる論がありましたのでご紹介します。

●古墳の祭りと氏神の祭りについて:

神道は、奈良時代の末、祖霊や農耕神、自然崇拝などの基層信仰の要素に、道教や祓いや清めの思想を加え、一方、古墳の終末と共に、その中のモガリ(石篇に賓)宮・埋葬儀礼などを仏教の氏寺に委ねて成立した(高取正男:神道の成立)

●古墳の祭り:
祖霊の祭りと農耕の祭りが合体したもの。埴輪の特殊器台や壷はなくなった首長との、また、農耕霊の神々との共飲共食祭祀。

●古墳の祭りから氏神の祭りへ:
古墳のまつりと並んで、祭祀遺跡が現れ、山・石・峠・海・樹木などの自然物を対象とする。

出土物は、古墳のものと較べてはじめは粗悪であったが、宗像祭祀の沖ノ島祭祀では古墳のものと密接になり上等な鏡がでる。ヤマト王権が関わったからであろう。
古墳祭りと、神社の祭りが結びつきがでてくる。

やがて、明らかに古墳を祭祀の対象としたらしい神社が現れる。乙訓の元稲荷神社と乙訓坐火雷神社などが典型。古墳まつりが氏神・氏寺に移行する。

私のコメント:鳥居の鳥は、死霊を天に運ぶもの
 
      韓国に、蘇塗の儀式があります。紀元前からあった可能性もあります      ね。まあ三国志東伝にでてきますから、紀元後の祭儀でしょうか。

      木の先に鳥竿をつけて、張った縄?に鈴・鼓をつけて鬼神(先祖霊)      をまつり群衆は天をまつり昼夜飲酒し歌舞します。

      農耕の祭りとされ、種を植える前と米の収穫の後の祭りです。
   
  この蘇塗のまつりと古墳の祭りが関係があるのかどうか、謎の一つです。





[8543] Re[8542][8541]: 高松塚の被葬者候補  神奈備 2007/11/17(Sat) 14:05 [Reply]
 高松塚古墳の被葬者については、多くの方々が色々と言われています。まるで青草板のようですね。
 それぞれの説の根拠については承知していませんが、高松塚古墳は天武・持統陵と文武天皇陵の中間の場所にあります。被葬者の年齢と当時の権力の推移から見ますと高市皇子あたりが有力なのでしょうが、皇子の墓は大和国広瀬郡と『延喜式』にはあるそうです。延喜式の陵墓の記事を否定してまで高市皇子と主張すると言うのはどういう事なのか、延喜式とはそれほど信用のないものなんでしょうか。

 高松塚古墳の飛鳥美人の絵は日本の白鳳時代から奈良時代の群像のようで、これからは半島や大陸からの渡来人説と言うことには直接にはつながりません。しかし何かアジア的なものを感じます。高松塚古墳の周辺の式内社としては、呉津孫神社、於美阿志神社、許世都比古命神社などがあります。渡来して来た王族の一人とする半島系の説も有力かも知れません。
 
 古墳を発掘して何が判るのか、ですが、被葬者も判らないと言うようでは、現在と言う時代は未だ発掘する資格と言うか技術に欠けているように思えます。例えば、今城塚古墳、本当の継体天皇陵とされていますが、被葬者についての情報−大王だったらしい−ことは判っても、どこから来たのか、名前はなんだったんなど、天皇家のルーツに関わることは何も判って居ません。棺があれば、その近辺の土壌から遺伝子の欠片でも検出できないものなのでしょうか。

 判らないと言っても神社の由緒というのはまだ判りやすいもの。昨日は奈良市の西大寺から秋篠寺、神功皇后陵、佐紀神社辺りを歩いたのですが、その由緒がさっぱり判らない神社が2社ありました。どなたかご承知の方がおられましたら、教えて下さい。


西大寺竜王町 竜王神社 仮のアップ先
http://kamnavi.web.fc2.com/as/ryuuou.htm

奈良市佐紀町 釣殿神社  仮のアップ先
http://kamnavi.web.fc2.com/as/turidono.htm


[8542] Re[8541]: 高松塚の被葬者候補  くず 2007/11/17(Sat) 10:23 [Reply]
とみたさん、ありがとうございます^^

高松塚は終末期の古墳で、装飾具の埋納が確認されている例としてあげさせてもらいました。
西日本、近畿で古墳造営が終わった後も東北では8世紀末まで造り続けられたようです。
単純に装飾具埋納の有無という点ではもっと新しい例があるかとは思います。

> 高松塚の被葬者は、石上麻呂説が有力だと思います。
> 蘇我氏に物部氏は滅ぼされましたが、一部は名を変えて生き残っているようです。

しかし物部系の石上麻呂の墓が古代日本における最後の装飾埋納例だとしたらそれはそれで興味深いです。

飛鳥寺の前身である法興寺の当時の塔の心礎中央の舎利孔から勾玉等のアクセサリー類、心礎の上面から馬具、武具などが見つかっています。
塔の心柱が立てられたのが593年(推古元年)高松塚等の埋納例より100年以上古いですが個人的にはこの時が象徴的な"画期"であったように思います。
http://www.bell.jp/pancho/travel/asuka-ji/figs/asukadera_history.htm

信濃善光寺の心柱とも言える八角金色の御柱を守屋柱と呼ぶのはこの古事によるものかと想像します。

> 長野県立歴史館の川崎保さんが、沿海州から見た縄文玉製品というタイトルで詳しく述べておられます。

先日長野で発見された銅戈・銅鐸は縄文からの玉文化生産母体の技術集団と深い関わりがあったのではにかと思っていますので、興味深く読ませて頂いてます。
http://www.nihonkaigaku.org/03f/i031213/t2.html
http://www.nihonkaigaku.org/03f/i031213/mokuji.html

[8541] 高松塚の被葬者候補  とみた 2007/11/13(Tue) 23:22 [Reply]
くずさん、お久しぶりです。
焼尻紋次郎さんの話も、読ませていただいています。

>高松塚古墳でも装身具の遺物は見つかってます。
具体的にこの人、この時期って明白なのでしょうか?ちょっと調べてみましたが解りませんでした。

高松塚の被葬者は、石上麻呂説が有力だと思います。

蘇我氏に物部氏は滅ぼされましたが、一部は名を変えて生き残っているようです。

石上氏も物部の一族ですね。壬申の乱で石上雄君が大海人皇子(天武天皇)の為に功労があったので、出世しました。

その子の石上麻呂が従一位左大臣(総理大臣)になりました。
竹取物語の中で、かぐや姫にプロポーズした石上麻呂は燕の巣にある南海産の子安貝を取ろうとして屋根から転落して亡くなります。

高松塚の人骨もレントゲン撮影の結果、首の骨がずれていて、病床に臥して二週間以内で死んだ(717年没)事実と合致するそうです。

星宿図が高松塚にあることが問題視されたようです。、古代中国では星宿図は皇帝と皇族しか許されなかったから、石上麻呂は左大臣という高官でも官僚の身分ですから星宿図はもてないとされていました。ところが、唐朝の壁画古墳には政府高官が星宿図を許されていたことが判明しました。それで石上麻呂が有力になったようです。

>三内丸山遺跡の特徴的な土器に円筒式土器(縄文前期〜中期)がありますが、この土器の出土地は北海道南部にも広く分布


土器ではありませんが、縄文時代の文化について、留学中国人の学者が面白いことを言ってました。

8000年前に存在した中国東北部=内モンゴルの赤峰の玉文化が、江南の河姆渡遺跡に7000年前に伝わり、そこから日本の福井の桑野遺跡や北海道の共栄遺跡に玉文化が伝播した。

長野県立歴史館の川崎保さんが、沿海州から見た縄文玉製品というタイトルで詳しく述べておられます。

中国の東北部だけでなくロシアの沿海州も含めた環日本海で日本との文化交流や交易が縄文時代から存在していたと考えられます。


[8540] 青草掲示板の住所  神奈備 [Url] 2007/11/13(Tue) 10:43 [Reply]
下記に変更しました。
http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/aokbbs.cgi

[8539] ミミぺツ          焼尻紋次郎 2007/11/13(Tue) 07:34 [Reply]
 くずさん有り難うございます。
 壙の字も有り難うございました。ダンナ様は悉知の御事ですが、オレ、漢字オンチなんです。これからもイッチョ・イッチョご高教、お引き回しのほど。

★ ヒスイ文化はシナの玉の影響はありません? 「瓊」というのがヒスイ玉のことですか? 
 旭川の西、カムイコタンには巨大なオパール系の美岩があったのですが、これには交換価値はつかなかったのでしょうか。

★ こういうことに、少しは関心をもっていたのですが、石附喜三男さんが夭折されたことから、関心も急に薄れてゆきました。
 もう石附喜三男さんといっても、誰ァれも知らなくなったのでしょうね。
 擦文土器の若手研究家として将来を嘱望されていた方です。
 この方が問わず語りに「アイヌは白人になる前の人種だ」との見解を語ってくれました。いまそかりせば、小生開発の「タジク語とアイヌ語」の近似を申し上げれば、大喜びしてくださったろうに。

★ 千歳(シコツ)は北から南へ南下する川と、南から北へ北上する川の分水嶺を占める地帯です。
 その南のほうですが、バード・サンクチュアリーで有名な ut-nai 湖があり、そこへ流れこんでいる川の一つが「ミミ・ぺツ」なんです。ミミがつく地名は宮崎県の東北部、海岸ちかくにもあります。
 アイヌの先住民族だと目されるギリヤーク民族もミズラを結っていました。

[8538] Re[8536]: 古墳研究へ三つのオネガヒ    くず 2007/11/12(Mon) 23:11 [Reply]
>この土曠墓がいつごろ造られたか、年代は把握できないものでしょうか。

曠の字は壙の字が適当と思われます。
今、長野の銅鐸との関連でヒスイを調べてるんですが、↓こんなのがありました。
http://www.nihonkaigaku.org/03f/i031213/t11.html
三内丸山遺跡の特徴的な土器に円筒式土器(縄文前期〜中期)がありますが、この土器の出土地は北海道南部にも広く分布しているので、当時の人々にとって津軽海峡はオラが海だっのだと思います。

>古墳の副葬品から忽然として…

日本書紀、孝徳天皇の詔(大化薄葬令)が646年で造墓や埋葬に制限がつけられますが、
それ以降のお墓、例えば高松塚古墳でも装身具の遺物は見つかってます。
具体的にこの人、この時期って明白なのでしょうか?ちょっと調べてみましたが解りませんでした。


[8537] Re[8536]: 古墳研究へ三つのオネガヒ    神奈備 2007/11/12(Mon) 20:57 [Reply]
力士像の埴輪は幾つかの地から出土しているようです。

 和歌山市 井辺八幡山古墳 6世紀前半頃 紀氏の族長でしょうが、忌部氏の可能性もあり。

 大阪府高槻市 今城塚古墳 6世紀後半 継体天皇の陵墓

 神奈川県厚木市  飯山登山古墳  円墳 坊主頭の力士像 古墳時代後期(6〜7世紀)になると

 愛知県豊川市 念仏塚5号古墳 5世紀のうちに始まったことが確実視される古墳群

 福島県泉崎村  原山1号墳  5世紀末頃

 土曠墓、副葬品  わかりません。

[8536] 古墳研究へ三つのオネガヒ    焼尻紋次郎 2007/11/12(Mon) 06:13 [Reply]
 オレいつのまにか古墳関係では門外漢になりました。
 が、気にかかる三つがあります。お教え。

★ 北海道千歳市には二つの土曠墓があるときいたことがあります。
 サンナイ・丸山遺跡の位置は後背地の焦点にあります。そういう眼で見れば、アイヌ文化の要衝はシコツ(千歳)に絞られます。
 「日本・ アイヌ文化 」の伝播を考える上での切所です。
 この土曠墓がいつごろ造られたか、年代は把握できないものでしょうか。

★ もう 30年もまえ、ある時期を画期として、古墳の副葬品から忽然として装身具が無くなったという事実を本で読んだことがありました。その本には王様の名前と時期が明記されていたと記憶していましたが、忘れました。だいじなことなので、このごろ出た岩波新書 ; 『アクセサリーが消えた日本史』をとり寄せて読んでみましたが、その“画期”はまったく書かれていないには呆れました。
 王朝交替、文化の混淆を考えるには不可欠な要素を孕んでいると思われるのですが……。

★ 角力とりを模した埴輪がいっぱい出た古墳は、なんという王様を祭った古墳だったでしたか?
 アラビヤ語系勢力の進展をみるに、不可欠なメルクマールだと思います。

 以上のうち、一つでもいい、ヒントでもいいですのでお教えあれ。

[8535] Re[8534]: 古墳と妃  くず 2007/11/12(Mon) 01:46 [Reply]
>島の山古墳とその東に鎮座する式内社の糸井神社です。

島の山古墳は後円部に竜山石を天井石に使った竪穴式石室があった事が知られ、それとは別に前方部に営まれた粘土槨と呼ばれる埋葬施設から大量の腕輪形石製貝製品が見つかっています。
石製貝製品は緑色凝灰岩で作られ、ゴホウラ貝輪を祖形とする鍬形石、イモ貝を祖形とする石釧、オオツタノハを元とする車輪石の3種なのですが、かつて(弥生時代)の貝輪ように司祭者の性別による使い分けがこの時代まで残っていたかは解りません。
ただ前方部の粘土槨に武器類の埋葬がなかった事。装身具の玉類が見つかっている事から、
そこに葬られたのはおそらく女性であり、首長的性格の後円部の被葬者に対し、呪術的性格をもった司祭者であったのではないかと思われます。

また上野市の石山古墳は後円部に3つの埋葬施設を持ちますが、そのうちの西槨だけから、
やはり大量の腕輪形石製品が見つかっており、他の2施設と比べて著しく武器類が少ない事から島の山古墳前方部の被葬者と同様の性格を持つ被葬者ではないかと思われます。

と、このあたりまでは白石太一郎さんの「古墳の語る古代史」から^^

また石山古墳の被葬者が3人というのは圓目王を祖とする遊部のお話とも関連しているように思えて興味深いです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%9B%AE%E7%8E%8B
被葬者の一人が女性であったなら、吉備の鳴釜神事を司る阿曽女ともなんら繋がるものがあったのかも・・・


[8534] 古墳と妃  神奈備 2007/11/10(Sat) 20:16 [Reply]
 天皇陵に匹敵しそうな古墳の特長としてそこそこ大きいことの他に、周濠、段築、葺石、埴輪があることだそうです。また、天皇の妃として召された娘は父親の古墳に埋葬されるそうです。前福井県発掘C長の中司照世氏の講演の中で聞きました。以下その受け売り。

 『応神記』に、「桜井の田部連の祖、島垂根の女、糸井比売を娶して生ませる御子隼別皇子云々。」とあります。ここに「島」と「糸井」のキイワードが出てきます。すなわち連想されるのは奈良県磯城郡川西町の島の山古墳とその東に鎮座する式内社の糸井神社です。島の山古墳は天皇陵に匹敵の条件をそろえているようで、女性に相応しい石製腕飾類も出土、また築造年代も4世紀末頃と推定されており、全てが揃っているようです。

 また『令集解』によりますと、「垂仁天皇の皇子の園目王が伊賀の豪族の比自岐和気の娘を娶って生ませた。」とあります。式内社の比自岐神社の鎮座地の近くに石山古墳があり、全長120m・3段築成・家形囲形埴輪が出土の4世紀末頃の建造だそうです。時代としてもあてはまりそうです。

 継体天皇の妃であった尾張連草香の娘の目子媛の古墳も愛知県の味美古墳とか断夫山古墳に比定されています。

[8533] 氏神曽根山房  神奈備 2007/11/08(Thu) 10:28 [Reply]
 対馬に山房・矢房(やまぶさ、やぼさ、やぶさ)と云う神を祀る場所を示すような言葉があります。「対州神社誌」(1686年)には矢房、約百年後の「対州神社大帳」(1785年頃)にはそれが山形と変わっていっているようです。
 山房の使い方は氏神山房、氏神曽根山房、山房社、天台山房、中には野菩薩社など。氏神曽根山房は現在の曽根崎神社(祭神は五十猛神)となっています。天台山房は天道神社の意味かも。

 『平成祭礼CD』で見ますと、「山房」とつく神社はなく、「矢房」とつくのは全国で14社、対馬では2社です。対馬市上県町女連に鎮座の地主神社の鳥居の扁額には地主神社と矢房神社の名がならんでいました。貞享三年(1686)の『対州神社誌』には女連の神社として佐奈豊軍殿(さなどいくさどん)と天台矢房(やぼさ)が記載されています。

 山形神社は対馬では摂社になっているのを含めて5社と『平成祭礼CD』では出てきます。『対馬神社誌』ではもっと多く、素盞嗚尊・五十猛神を祭神としている場合もあるようです。

 いずれにしても対馬の神社は基本的には神山の神籬磐境を拝する遙拝所であったのがかたちを整えてきたもののようです。これは対馬だけではなく本土の古い神社もそうだったのでしょう。

[8532] さらに敷衍……高橋の語源     焼尻紋次郎 2007/11/06(Tue) 18:06 [Reply]
 下をうけて、さらに延長させたら、いろいろな展開とならいしょ。
 たとえば、8世紀に日本で造られたことがハッキリわかっている高橋という姓。これがどういう内意を含んでいるのか……など、官捏語にらみの感覚で分析してみましょう。
 また、伊太祁曽様や滝の *tak が含まれているが、こうなると tak は「高い」か神のいずれかにしかなるまい。
 モンダイは“橋”です。
 そのまえに「はしら(柱)」をさわらないと本番にかかれません。
 
 「坐す」と書いてイマスと読ませる。これ、どうも「i-*bas 」で、神(i) が坐る、住む、留まる……だと、思われます。
 もともと、bas の s は、印欧語共通で主格を表すので、これを取り払えば、ただの ba となる。このへんから「ba = 神」が造語されたのがひとつ。
 その神 ba が“sir(しろしめす)”ところが、清音化・開音(母音づけ)化でハシラになったものだと……、ここはもう決定的です。
 
 古代日本では橋は聖地のように崇められていました。一方、hasira 末尾の -ra が強調末尾辞なので hasi だけでもハシラです。

 ここでアイヌ語と朝鮮語の橋をあげつらってみます。アイヌ語の橋は ruika といって、これは「rui(流れの)ka(上)」か「ru(道・流れを)ika(超える)」に分析できます。後者の ru は道東・滝の上町に広がっているサックル川の ru です。夏枯れの水路という意味ですが、川は道なんです。
 朝鮮語の橋は tari で、これは「足」と同音同義で、橋を造った丸太や板の構造物を人体に見立てて、それを足だと比定した造語のようです。朝鮮語にはもう一つkjoraη がありますが、これは漢音の橋梁です。

 こうしてみると、なぜ日本で橋が敬われたかが分ります。小川でも、流れに横たえられたハシラは神だったんです。
 そうすると「高橋」とは「たかい神」 or 「神・神」だったんでしょうか?
 どちらもブ−。小生に言わせたら「高い身分の hasi(ペルシャ人)」です。
 紀元前 200年ごろ、カスピ海の東南部にパルティア王国ができて、勢力を延ばしますが、651年に亡びています。そのパルティアの par をとってネパール人は par-si(si =ひと)と呼んでいたのです。
 第何代目かは忘れましたが、新羅の王様の墓はペルシャ武人の石像に護られています。
 おおぜいの高橋さんを集めて観てください。日本人ばなれをしています。少なくとも顔の肌色がちがいます。

 天橋立、股のぞき……ワ〜カッタかな?

[8531] 敷衍すれば ……滝の語源  焼尻紋次郎 2007/11/05(Mon) 13:37 [Reply]
 下記 [8530 ]の考え方を敷衍させれば、高級言語と呼ばれているすべての近代的スタイルを持っている言語は、国家形成時に神官僧侶や官吏たちから捏造されたものだということで、事実はそうだったろうと思いますヨ。
 文法・統語などがシッカリしているなんて、でっちあげの賜物とみたがいい。
 「そうろう文」を持った日本語、文語と日常語を持ったモンゴル語など、神官や官吏がつつきまわした残滓ではないでしょうか……ことだま思想などに振り回されたりしながら。

 こういうのを官捏造語……略して官捏語とよんでみましょう。

 伊太祁曽様に関係が出てくるだけに慎重を期さねばなりませんが、滝という語も官捏語と看たい。
 「びっくり(した)」はドイツ語が語源だといわれています。
 どこでどうなったかは知りませんが、ドイツ語の Tal(谷)とフィリピン・タがログ語の talon(谷)は同根でしょう。
 この tal をうけて、日本では「タルミ(垂水)」が滝でした。日本でもっとも古いとか最初だといわれている屯蔵は白猪のミクラで、白猪は現真庭市(旧落合)ですが、ここに垂水があります。
 タルミの「ミ」は神かもしれませんが、ここでは「水」です。水は mil が第二子音濁化のクセで miz , mid へと音転した語形です。「ミ」だけで湖や海のことを、そう呼んだ形跡があります。

 静岡で滝のことをダルといいますが、これはネパール語の dhar(水流)のほうからではないかと、小生は直感します。沖縄にもダルがあるのですが、それはユタが神がかりになるとき、天から降ってくる水に当ったような神経の騒ぎを覚えるので、それをダルといっています。・ ダルマ(宗教)。
 ところが、同じダルにも「おかね」のダルも入ってきましたし、なによりも大阪でアホンダラと云ったり、北陸〜上越でバカクソをダルというようになって(この* tal(V) もネパール語なんですが)神官や紀記編纂者たちは、このアホンダラをなんとかしなければならなくなったのでしょう。
 そこで「タキ(滝)」が造語された……と思うんです。

 「キ」には大地という意味がまず考えに浮びますが、マタギ、シラギ、チュラカーギ(人)あたりから「神」が造語されたのかもしれません。
 ダンナ様、末尾にキがつく神名は、ハハキのほか沢山あるのではないでしょうか。
 いずれにしろ tal-ki の l が脱落した語形であることは確かだと思います。
 

[8530] あやまりをただす おはばかり   焼尻紋次郎 2007/11/02(Fri) 10:00 [Reply]
 オレ、アチャラカを考えていたかもしれないので、或いは修正 or 訂正。
 日本語は紀記編纂の前後に、おもに神官から大幅に捏造・変形・変質されているとみたほうがいいようです。
 それら神官グループが「神のことばに即した音とは、こんなものではないだろうか」をアタマで考え、ハハ、トト、ミミなどをでっちあげた……と看るが正鵠かと思いなおしました。そして、その考えの源泉言語はやはりネパール語を中心とした“当時の高級言語”だったと、視点を変えてみたのでした。

 安寧の寧が neg みたいな発音から、すでに朝鮮で niη みたいになっていました。これを起点にして考えなおそうとしたのでした。
 オレ、学者でないのでここは少し不安なんですが、単音二つを並べるは「畳語」と呼ばれるかと記憶しています。
 ネパール語発とみられる畳語は案外目につくのです。
 ククノチ姫のククとは、ネパール語の khukuri(刀)でしょう。
 タタナヅクは、tad(語形はちょっと……遠い) na-尽きる ……遠く尽きない。
 タタリ、タタラは tar-tar(怖いこわい)i(もの)……バスク語にタルタロス。
 ナナつはネパール語 nana(いろいろの)。
 チチ(乳)は族際語 *dod から
チチブヒコは tutu-ub(破壊と創造)がヅ−ヅ−弁だと思って云い換えた。
 モモは ネパール通貨の単位で 2mohar が次の大きな単位になることから。

 上のようなことばの趨勢を見た神官たちは、神名のほか、ササ(笹・酒)、シシ(宍)、ソソ(注)、チチ・テテ・トト(父)、ヒヒ、なども高級語として捏造したのではないでしょうか。

 紀記編纂のとき、日本語は神官たちから大幅に捏造されたといいましたが、それは周辺言語と較べてみれば、容易に理解できます。
 N 音は漢字借用のとき、シナに適当な文字がなく、犬がべうと啼いたりしたことが三年半前にも話題になりました。
 その他日本語では長音がまず無く(沖縄は例外)、促音、撥音、拗音、半濁音を追い出し、いわゆる正音 50語で神名などを組み立てました。濁音はジンムなどのほか僅少です。
 日本語が周辺言語と較べてズバ抜けにちがうところは、動詞が語尾変化することですが、これもネパール語で説明でけま。曠類・乙類の母音類別もネパール語で説明でけま。

[8529] 池と船曳  神奈備 2007/11/02(Fri) 08:45 [Reply]
くずさん、おはようございます。

> 北側のケヤキの柱が阿須波神、南の松の柱が波比木神では?と^^

 面白い着眼点です。神殿の前に井戸があり、紀元前から大宮地之霊的な霊が祭られていたことも不思議な気がしませんね。


> 木の俣と井戸がこの世とあの世を分ける生死の境界と深く関係していると思います。

 木の俣とは、枝がV字になっていると云うよりは、木の根などで∧字になっている場所が境界らしい雰囲気ですね。



素人さん、おはようございます。

> 1000年前から船を引っぱって歩く専門の職業が現れた。

 興味深い写真の紹介、ありがとうございます。人力の方が馬力より使いやすい、コストが安いなどのことがあったのでしょうね。日経新聞朝刊の小説も人力ですね。

> 秀山市が鳥の頭となると思われる。(拡大すると解る。)

 拡大とはより広い地域を見ると云う意味です。左下を向いて飛んでいる燕が浮かびますね。

[8528] 鳥江の船引  素人 2007/11/02(Fri) 00:32 [Reply]
話題から外れますが。
揚子江流域、重慶市等の水銀地帯を流れる鳥江関連で船引の写真を見つけました。
「2006年10月8日、貴州(きしゅう)省の銅仁(どうじん)地区にある鳥江流域の黎芝峡(リズシャ)の近くで、船引きたちが船を引っ張りながら力強いかけ声をかけ、河原を前に進んでいく。話によると、黎芝峡の川には浜辺が多いので船の行き来がしにくい。そのためにここでは1000年前から船を引っぱって歩く専門の職業が現れた。」と解説がありました。以前こちらで、大和川の船引が話題になっていましたのでご紹介します。少人数で引けるようです。
http://www.recordchina.co.jp/shiten_show.php?gid=107
蛇足ですが。
解りづらくて、すみませんが地形で描かれたもので、近くに鳥江水路の柄杓もあります。鳥江の名前との関係はわかりません。勝手な思い付きかもしれません。
鳥江の鳥(下向きの燕か)幅:50km、長さ:150km巨大である。
秀山市が鳥の頭となると思われる。(拡大すると解る。)秀山市は現在でも水銀鉱山がある。
http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&t=h&om=1&ll=28.928843,109.720459&spn=1.362954,2.202759&z=9

[8527] ニグラッと笑う津軽衆    焼尻紋次郎 2007/11/01(Thu) 07:58 [Reply]
 云いそびれたことこれあり。おなじ単音を二つ並べる波波とか(ヤマ)トト、ミミなどが頻発していますが、この造語形態は一連の特殊勢力のことばグセで、ネパール語やタジク語あたりのことばではありません。
 推定ですが、これらは朝鮮半島経由の勢力に付着した造語ではないでしょうか。
 ネパール語には小生が「お調子ことば」と呼ぶ造語形態があります。いい例がスクナヒコナです。しかし、ハハ、トト、ミミなどは、スクナヒコナの造語とは基を一にしてるとは考えられません。
 こういう造語癖はかなり固有のものですので、或いはベトナムあたりの少数氏族語のなかにみられるのかもしれません。これらを既成の日本語感覚でまじめに取組むは、無益なことだと看たほうが早いのでは?
 あ、ニニギは ni(その土地) neg ・ nig らしいですね。 neg は国家形成当時のはやりことばで、「寧」だとおもいますよ。これを受けたか、津軽衆は「ニグラッと笑うよう」になってま。-ra ……強調末尾辞です。


>宮柱太知り立て、高天原に千木高知て
 フトマニのフト、ほとけの hut が顔だしてら。
 「知る」……しろしめす(支配)が意転する前の変化態らしい。 / ネパール語 ; sir =頭。 √ ときはいま あめがしたしる さつきかな(光秀詠む)。

[8526] Re[8521][8519][8517][8515]: 四方山の峠ばなし  くず 2007/11/01(Thu) 00:50 [Reply]
ありがとうございます^^

>阿須波は地を深く掘って立てられた宮柱の神、波比木はヒギ、チギと同じ性格のY字形の木の神との説明で、坐摩巫があげる祝詞に、「下つ磐根に宮柱太知り立て、高天原に千木高知て・・」を示しているとのことです。

古事記では、根の堅州国から須世理姫をさらって逃げる大穴牟遲(大国主)神に、姫の父、須佐能男命が言っていますね。
「宇迦能山之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理 於高天原、氷椽多迦斯理而居、是奴也」

前にも少し書きましたが個人的には池上曽根遺跡の立柱祭祀が浮かんでいます。
http://www.ioctv.zaq.ne.jp/ikegamisone/shiru/park5.html
北側のケヤキの柱が阿須波神、南の松の柱が波比木神では?と^^
宮の建築物からハシラとチギ(ヒギ)を抽出して神殿前の庭に神格化させたか、
もともと木柱の独立祭祀が存在し、それを神殿建築に取り込んだか。などと考えます。
後者の場合、祭祀対象の木柱に独自の呼称が存在し、それがハシラとアスハ。チギとハヒキへそれぞれ分化したとか。例えばiswal (?)
池上曽根の復元からは両柱の配置に太陽運行との関係も見えそうなので、坐摩巫が都下国造の童女というのも関係があるのではないか?です。

生井、栄井、津長井の神は記紀神話に直接出てきませんが、大国主と因幡の八上姫の子、木俣神が産湯とされた3つの井戸との事。(出雲、御井神社)
木俣神(御井神)の生い立ちは日の御子からしては亜流の神に思えますが・・・
やはり大国主神話において、木の国の大屋毘古神が木の俣から根の堅州国へ大穴牟遲神を逃がしていたり、木の俣と井戸がこの世とあの世を分ける生死の境界と深く関係していると思います。


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