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掲示板のログ(平成二十年 二月 2008.2)お名前の敬称は省略しています。

[8776] Re[8775]: 褐鉄鉱と弥生人  素人 2008/03/02(Sun) 01:26 [Reply]
手前味噌の追加。
> 以前、こちらでも話題になっていましたが古来の直接還元法は、江南地域で発達した製鉄法で、インドなどから入ったと考えられます。低温還元法ですと密度の高い磁鉄鉱ですとかなり温度が上がらないと還元できないと思われますが、密度の低い褐鉄鉱などですと古代の低い温度でも還元可能かと思われます。中国の秦統一時の江南地域の諸国の滅亡による難民流入とするとこの地域の製鉄技術で褐鉄鉱などで弥生時代にノロの発生しない低温還元法で不純物の多い軟鉄が製造されていたとするととても私には都合のいい話になります。
> いつも通の素人の手前味噌です。

春秋戦国時代の揚子江下流域は中流域の楚、下流域に呉越同舟で有名な仲の悪い呉と越が有り間に除があった。
早々と紀元前451年越が呉を滅ぼした。紀元前329年楚が越を撃破して越は弱体化して山東半島の付け根に都を移した。これにより、楚は揚子江下流域を領有することとなる。蜀を領有した秦は蜀の経営に成功した後に楚を攻めて揚子江下流域に楚を押し出した。蜀の経営中にも統治になじまない人たちの流出は考えられると思います。北方の統治は江南の人々に馴染まなかったかもしれません。紀元前223年楚が滅び、222年越が滅んだ。
紀元前225年頃から将棋倒しのように各国が滅び、紀元前221年の斉・衛を滅ぼして秦の始皇帝の天下統一は達成された。
ただ、燕(遼東半島)は紀元前222年に滅亡、斉(山東半島)紀元前221年滅亡で統一の直前まで中国大陸→山東半島→遼東半島→朝鮮半島→日本への経路は確保されていたようです。弥生時代に大陸から海に隔てられて安全な日本に大陸から難民が流れても不思議ではないようです。もちろん、黒潮経由の直行ルートも健在だったと思われます。
日本に来ていたらどの辺に落ち着いたか興味があります。
青草失礼しました。

[8775] 褐鉄鉱と弥生人  素人 2008/03/02(Sun) 01:18 [Reply]
くず様
> 素人さん、縄文の風さんのお話にも繋がりますが、
> 褐鉄鉱容器について。(長編青草になります^^;)
>
> 古事記の天之日矛の話(現代語=Wikipediaアメノヒボコから)
> 「昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。」
>
> この赤い玉、後の阿加流比売神ですが、自分は褐鉄鉱の神格化と思っています^^
> 褐鉄鉱は虹の石との別名があります。http://www.istone.org/funny/rainbow.html
> 表面に薄い酸化皮膜が出来て、虹色に光を屈折させる。
> これは沼地での褐鉄鉱の生成過程、鉄バクテリアの活動の影響にも見る事が出来ます。
> 水面に鉄の酸化皮膜が浮いて、油膜のように虹色に見えるんです。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%A2
> 戸隠神社の雨乞いの霊地「種池」で実際に見た事があります。
>
> 沼で虹のように日がさして生まれた赤い玉。
> これは褐鉄鉱ではないか?
>
褐鉄鉱とても興味があります。
以前、こちらでも話題になっていましたが古来の直接還元法は、江南地域で発達した製鉄法で、インドなどから入ったと考えられます。低温還元法ですと密度の高い磁鉄鉱ですとかなり温度が上がらないと還元できないと思われますが、密度の低い褐鉄鉱などですと古代の低い温度でも還元可能かと思われます。中国の秦統一時の江南地域の諸国の滅亡による難民流入とするとこの地域の製鉄技術で褐鉄鉱などで弥生時代にノロの発生しない低温還元法で不純物の多い軟鉄が製造されていたとするととても私には都合のいい話になります。
いつも通の素人の手前味噌です。
青草失礼しました。

[8774] Re[8772][8771][8755]: 縄文と海人  くず 2008/02/29(Fri) 00:32 [Reply]
> 禹餘粮?と勾玉は豊穣の祈りだろうなあ。
> 当時は赤ん坊の生存率が極めて低かった。子宝と食料、このふたつ以上に重要なものはなかったと思います。
> だとすれば、勾玉とは胎児の象徴説を採りたいところです。

素人さん、縄文の風さんのお話にも繋がりますが、
褐鉄鉱容器について。(長編青草になります^^;)

古事記の天之日矛の話(現代語=Wikipediaアメノヒボコから)
「昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。」

この赤い玉、後の阿加流比売神ですが、自分は褐鉄鉱の神格化と思っています^^
褐鉄鉱は虹の石との別名があります。http://www.istone.org/funny/rainbow.html
表面に薄い酸化皮膜が出来て、虹色に光を屈折させる。
これは沼地での褐鉄鉱の生成過程、鉄バクテリアの活動の影響にも見る事が出来ます。
水面に鉄の酸化皮膜が浮いて、油膜のように虹色に見えるんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%A2
戸隠神社の雨乞いの霊地「種池」で実際に見た事があります。

沼で虹のように日がさして生まれた赤い玉。
これは褐鉄鉱ではないか?

少し前の青草に下照姫がインド神話のシーター姫に関係しているのではないかと書きました。
シーター姫は、鋤でうなった畝を表し、鋤の刃先から生まれたとされます。
畝はまんま畝傍、畝女に通じるかもしれません。住吉大社の埴土の神事は畝傍山の土を使います。
宗形の三神もオリオンの三つ星を表しているとしたら、、
下照姫と味鋤高彦根神の母は宗形三神の田心姫です。
東南アジアと日本で、三ツ星と子三ツ星(オリオン大星雲)を指して、柄鋤と見る地域があります。
鋤の刃から生まれたシーターと妹のウルミーラは、ラーマと弟のラクシュマナに嫁ぎますが、
この4神を星と見て三ツ星(柄鋤)とあわせたらそれはオリオンの形。

シーターは、悪鬼から助け出されたあと貞操を疑われて火にかけられ、森に追放されてそこで双子を生み、最後は大地母神に抱かれて土に返ります。

唐古・鍵の2つの勾玉が入った褐鉄鉱容器は、このシーターへの信仰を具現化しているようにも思えます^^

> 住吉三神は後に勢力拡大した海の民に残った星神の痕跡・・オリオンの三つ星(底、中、上)だと考えています(^^;
> 以前にも神奈備さんの掲示板にだしましたが、以下は東から上るオリオンを周防灘から姫島(大分)に望むの図。
> http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/orion.png

長くなりました。残りの返信はのちほどに^^

[8773] 火の玉、勾玉  素人 2008/02/29(Fri) 00:04 [Reply]
かたばみ様
> 禹餘粮?と勾玉は豊穣の祈りだろうなあ。
> 当時は赤ん坊の生存率が極めて低かった。子宝と食料、このふたつ以上に重要なものはなかったと思います。
> だとすれば、勾玉とは胎児の象徴説を採りたいところです。
>
度々の、私の夢想ですが、生命の源・生命エネルギー・強力な霊魂のように思われます。前に写真(長野県黒姫高原)でご紹介しました気象現象の球電ではないかと思われます。
黒姫高原近くまで行きましたが、風の谷の出口で小川があり、近くに湖があります。
雪が降っていました。列車ですとスイッチ・バックなどあります。峠です。局地前線など現れそうな谷でした。
光り輝く球が尾を引いた火の玉です。雷の一種です。内部にケイ素などのかなり濃度の高い物質を含むようです。プラズマなどと考えられ含まれる元素によっては色など付くのではと考えます。
珍しい現象ですが結構発生しているようです。
飛び回っていたのが、立ち木などに掛って停滞するようですから古代人でなくてもびっくりするでしょう。古代信仰の対象であったかもしれません。
勾玉はかなりのこだわりが有ったようですから、かなり派手なインパクトのあるモノから来たと考えた方がいいと考えます。古代人には奇跡と思わせるものが必要です。
とんでもない、素人の青草でした。

[8772] Re[8771][8755]: 縄文と海人  かたばみ [Url] 2008/02/28(Thu) 21:15 [Reply]
禹餘粮?と勾玉は豊穣の祈りだろうなあ。
当時は赤ん坊の生存率が極めて低かった。子宝と食料、このふたつ以上に重要なものはなかったと思います。
だとすれば、勾玉とは胎児の象徴説を採りたいところです。

>彼等と渡来系の融合体が出雲を形成していったのではないか

私はそのように考えています。
記紀にいう出雲の場合はスサノオ尊という個人に端を発するようにまとめていますけど。

>縄文晩期では、中期に繁栄を誇った中部(特に諏訪、伊那)は空白域といってもいい時代で、

長野の縄文晩期の土器は貧弱で、かっての火炎土器のごときは影も形もなくなっています。
寒冷化によって壊滅状態になり、土器のデザインどころではなくなったからだとみております。
東北はもともと寒冷で落差は少なく、じっくり発達して亀ヶ岡土器のごとき弥生土器など吹っ飛ぶような土器を作る。
中部山岳はしばらくは低迷時代(過疎化)が続いてミシャグチなど古代神もそのまま残っていたのではないかと思います。

ちょい青草
10月を神無月といいますが出雲と諏訪だけは神有月ですね。
出雲に各地の国津神が集まるから出雲は神有でよいとして(平安末期あたりに登場する説話らしいけど)、諏訪はなぜか。
建御名方命は大国主命の指示に逆らって天孫と戦ったために諏訪に流罪となって諏訪から出ることを禁じられていたから。
弥生初期の諏訪は流罪地に最適の僻地だった(^^;
地元からは採用しにくいでしょうけど、歴史上の事実を示唆する話だとみています。

東海への出雲進出は弥生中期以降だろうとみています。
このあたりは朝日遺跡の複雑な状況やその周辺での銅鐸埋納状況がキーワードですね。
やはり寒冷化での食糧事情ひっ迫が原因で、年間晴天日数が最大の東海への拡大を目したとみています。
登呂遺跡などは出雲系文化と中部山岳から避難南下していた縄文系との複合でしょう。

伊豆〜千葉沿岸には出雲崩壊時の脱出者がやってきた。
日本武尊の出陣は出雲残党の制圧が目的であり、伊豆の来宮神社の縁起はそれを示すとみています。
東京にも漂着神伝承が散見されます。


>南九州と北九州西部、中部地方の美濃、尾張、越国あたりは外れるのかも

初期渡来文化が到達しにくい場所、それが東海や関東、東北の太平洋岸だったと考えています。
黒潮が荒っぽすぎて遭難者続出(^^; 漂流して助かったのは伊豆七島にひっかかった人々だけ。
(九州と伊豆七島から南方系の舟をくり抜くための石斧がでている)
それが太平洋側の海洋民の航海術を鍛えたのではないかな(記紀での椎根津彦の帆をあやつるとみえる様子など)。
(沖縄のサバニは近世でもフィリピンまでの航海をしているようです)

対して日本海沿岸は冬の季節風を除けばずっと安全に青森までも航海できた。
これが弥生以降の外洋航海術の衰退をまねく原因になったと考えています。
沿岸を櫂でこぎ、休み休みでゆけた→休んだ場所が後の沿岸の拠点になってゆく。

記紀における星神の悪役化(天之背男命)や消滅になるわけです。
(ウエツフミでは多数の星神とみえる神名が登場する→記紀以前の古い伝承を含んでいる)
住吉三神は後に勢力拡大した海の民に残った星神の痕跡・・オリオンの三つ星(底、中、上)だと考えています(^^;
以前にも神奈備さんの掲示板にだしましたが、以下は東から上るオリオンを周防灘から姫島(大分)に望むの図。


西南九州はもともと南方系海洋民の文化の拠点であり(最古が三苗文化)、そのために弥生初期では朝鮮半島経由の北方系文化は進出しにくかったと考えています。
阿蘇以南には険しい九州山地があり、地元の猿田彦命の案内がなければ日向宮崎へゆくことはできなかった(^^;

種子島の宝満神社に、赤米がうまくできなかったときに鵜草葺不合尊が白米を播いたという伝承があります。
新しい早稲種の登場を示唆する伝承だとみています。

ひょっとすると早稲種登場は九州かもしれないと考えています(熱帯種と温帯種の混血で早稲種が生まれるのは実証済み)。
早稲種なら台風被害を受けにくい、九州は台風の通り道、必要は発明(発見)の母。
サヒメ→早乙女、「サ」に「早」を当て字するのはこのあたりが源か。


[8771] Re[8755]: 縄文と海人  くず 2008/02/28(Thu) 00:33 [Reply]
だいぶ遅れてしまいました。

> 私はまず縄文にはいったのは畑作だと考えています。
> 山東半島は畑作の地域であり、稲作の地域は淮河より南であり数百年遅れでやってきただろうと考えています。
> 畑作であれば灌漑技術はいりませんし。
> http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/BC800.png

> スサノオ尊渡来以降の出雲の版図を考えるきっかけとなったハタの地名分布です(aboc/日本地名索引による)。
> http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/10/hata.gif
> ほとんどが畑で秦は2カ所のみ。
> 東北にも分布があるのが非常に興味深いところ。


山梨県北杜市の飯米遺跡(縄文中期)出土の土鈴の中から炭化した豆が見つかっています。
http://meiji.stm.ne.jp/doki/doki_iseki/dokijyoho.html#dorei
(豆は小豆なら藪蔓小豆など国内に原産種があるようです。)
食物の厳しい時代、土鈴の中に豆を入れるのは豆の栽培を背景にした豊穣の祈願だったかもしれません。
青草的ですが形状を追えば、唐古・鍵の"勾玉いり容器"に通じるものがあるのかも^^

小豆栽培では集団を賄うには心もとない。
本格的に栽培作物が入ってきたらそれは喜ばれた事と思います。
縄文晩期では、中期に繁栄を誇った中部(特に諏訪、伊那)は空白域といってもいい時代で、
そこを飛び越して縄文晩期文化が結実していた東北に畑作が伝わったとしたら、
(初期稲作も同様の伝搬をしたように思います。)
おそらく海を使ったと思われる畑作、稲作の伝搬者(海人)は、入植目的の避難民ではなく、
当時の集落分布を心得、交易を主目的とした集団であったのではないか?と思います。

海人の出自は・・・もしすれば縄文系^^
恐竜から鳥類が進化したように、縄文一万数千年は海人族を生んでいたのではないか。
北九州縄文最晩期において大陸起源の支石墓に埋葬されていたのは、渡来系ではなく縄文的特質を持った人々であった事。
三内丸山に起源をもつ出土物が津軽海峡を越えて分布する事。などから考えます。

彼等と渡来系の融合体が出雲を形成していったのではないか。
初期の基盤は畑の分布地域に重なりましょうか?
南九州と北九州西部、中部地方の美濃、尾張、越国あたりは外れるのかも。


[8770] Re[8767][8766][8763]: 勾玉いり容器  素人 2008/02/27(Wed) 00:06 [Reply]
縄文の風 さま
> > 「奈良県 磯城郡田原本町 唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき) その7
> > 唐古・鍵考古学ミュージアムより その5」
> > http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/burial-mound/karako-kagi-iseki-07.htm
>
> > 翡翠は材質は違いますが、玉は白ですが日本ではやはり白が好まれたのでしょうか。
> 中国の玉はしろ色ですが、日本の勾玉は、この唐子・鍵遺跡の場合でも緑色が好まれた。糸井川産。
>  2004年版、朝日新聞社発行で、24ペイジに載ってます
書込み有難うございました。
緑なんですね。
出雲でも緑の勾玉が出土しているようです。
中々立派です。
出雲大社、緑の勾玉
「出雲の玉造地方は、その名の示すとおり越の翡翠を勾玉に加工していたのであろう。出雲大社の真名井遺跡からりっぱな勾玉が出土している。出雲の製品かも(右図:『翡翠展 東洋の至宝』毎日新聞社)。」
http://yamatai.cside.com/katudou/image/mamai.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku241.htm

[8769] Re[8767][8766][8763]: 勾玉いり容器  素人 2008/02/26(Tue) 23:15 [Reply]
縄文の風さま
> 本物です。
> > 翡翠は糸魚川産で日本で10番目という大きい勾玉と美しい緑色の2個の勾玉が入っていたそうです。
> >蓋は粘土で蓋をして焼かれたと思われます。
> いいえ、粘土で蓋をして焼いたのではなくて、土器の破片を蓋代わりに使ったようです。
褐鉄鉱容器から取り出された、9個の土器片を復元したのが蓋のようです。
型取りした蓋を大きめに伸ばして焼いて蓋にしたか、手頃な土器片を削って蓋に加工したものでしょうか。土器蓋の左側にはめ込みの溝のようなものがあります。考えてみれば土器は焼くと収縮ますから隙間が出来てしまいます。
ご指摘ありがとうございました。

[8768] 唐古・鍵遺跡  縄文の風 2008/02/25(Mon) 00:42 [Reply]
布は、勾玉とは、別の地点での発掘物です。炭化した麻の、しかも最高級な織りかたの布だった様です。麻か絹かは、顕微鏡で見れば区別できます。わが連れ合いは、麻の織物の数少ない伝承者です。現在、月ケ瀬にしか伝わってません。
 出土したヒスイの勾玉も日本で、弥生時代最大級品ですので、ヤマタイ国は、唐古・鍵遺跡説の根拠の1つにされてるみたいです。
 皆さんの方が詳しいと思いますし、奈良、ヤマタイ国説には反論があると思います。かんなび、読んでいってますが、沢山ありまして、大層勉強させられてます。感謝

[8767] Re[8766][8763]: 勾玉いり容器  縄文の風 2008/02/25(Mon) 00:10 [Reply]

本物です。
> 翡翠は糸魚川産で日本で10番目という大きい勾玉と美しい緑色の2個の勾玉が入っていたそうです。
>蓋は粘土で蓋をして焼かれたと思われます。
いいえ、粘土で蓋をして焼いたのではなくて、土器の破片を蓋代わりに使ったようです。
> 「奈良県 磯城郡田原本町 唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき) その7
> 唐古・鍵考古学ミュージアムより その5」
> http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/burial-mound/karako-kagi-iseki-07.htm

> 翡翠は材質は違いますが、玉は白ですが日本ではやはり白が好まれたのでしょうか。
中国の玉はしろ色ですが、日本の勾玉は、この唐子・鍵遺跡の場合でも緑色が好まれた。糸井川産。
 2004年版、朝日新聞社発行で、24ペイジに載ってます

[8766] Re[8763]: 勾玉いり容器  素人 2008/02/24(Sun) 22:21 [Reply]
縄文の風さま
> 沼地でとれるかっ鉄鉱石を容器、宇宙、母体、子宮として、勾玉をいれて、須恵器だったか土器で蓋をした状態っで出土したのを、文化庁編、発掘された日本列島ー新発見考古速報で読んだ覚えがある、が今、何年度のだったか本棚さがしてない

本物かレプリカかわかりませんが、解説と写真のWebがありました。
翡翠は糸魚川産で日本で10番目という大きい勾玉と美しい緑色の2個の勾玉が入っていたそうです。蓋は粘土で蓋をして焼かれたと思われます。? 中の布が炭化していたそうなので勝手に考えました。蓋の土器は割れて中に詰まって居たようです。
「奈良県 磯城郡田原本町 唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき) その7
唐古・鍵考古学ミュージアムより その5」
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/burial-mound/karako-kagi-iseki-07.htm
やはり立派な翡翠2個を褐鉄鉱の容器に納めて粘土で蓋をして焼き固めて強固に封印したものと思われます。翡翠は封印されたようです。
翡翠は材質は違いますが、玉は白ですが日本ではやはり白が好まれたのでしょうか。
緑などの方がきれいですが。翡翠と出雲は関係が深いようですが、夢想ですが翡翠を封印した時にもめ事が起こったりしたのでしょうか。完全に人の口を封じるにはかなり血生臭いことも有りそうに思えるのですが。

[8765] Re[8764]: ありがとうございます。  神奈備 2008/02/24(Sun) 22:03 [Reply]
> 体調を崩しています・・・・。

おだいじに。


> ネットで参拝、お守りの通販・・・私は、神社は、その場所に行って神気を感じるものと思いますので、時代の流れとはいえあまり賛成的ではありません。

 おっしゃる通りです。今の所そのようなことをしている神社も一部のようです。

 おおかたの神社は、ここに鎮座していますよ、由緒は、祭神は、御利益は、歴史は、地域の状況は、駐車場は、祭日は、などのお知らせ的なものです。

 これがネット上で配信されていることが、これからどのような変化をこの国にもたらすのか、というあたりの答えが出ていないように思います。

[8764] ありがとうございます。  ぎん 2008/02/24(Sun) 01:36 [Reply]
神奈備様

返信が遅くなりました。スミマセン。
体調を崩しています・・・・。

返信して下さりありがとうございます。

私は、歴史は好きですが、持論を持っているわけではありません。
ネットで調べて、感覚的にこれはと思うことを読んでいます。

八乙女の舞いにしても以前はとても意味があったものと思います。
今は表面のことしかわかる人がいないように思います。

富神社は、比較的近くにありますが、まだ、行ったことがありません。スミマセン。
ただ、怨念めいたものはが出ていれば、当時の権力者に抹殺されているので、
現在は普通の鎮守さんなのかもしれません。
わからないようにするために、口伝くらいしか残っていないのかもしれません。

ネットで参拝、お守りの通販・・・私は、神社は、その場所に行って神気を感じる
ものと思いますので、時代の流れとはいえあまり賛成的ではありません。
代理参拝で、こんぴら狗と言うのを聞いたことがありますが・・・。

[8763] 勾玉いり容器  縄文の風 2008/02/24(Sun) 01:08 [Reply]
沼地でとれるかっ鉄鉱石を容器、宇宙、母体、子宮として、勾玉をいれて、須恵器だったか土器で蓋をした状態っで出土したのを、文化庁編、発掘された日本列島ー新発見考古速報で読んだ覚えがある、が今、何年度のだったか本棚さがしてない

[8762] Re[8756][8755]: 縄文が受け入れた文化   2008/02/24(Sun) 00:09 [Reply]
 江南地方からの渡来人と言えば、熊本県八代市にはその昔、「九千坊」という河童が一族郎党を引き連れ、大陸からやって来たという伝説があります。八代市には九千坊にちなむ「オレオレデライタ祭」という川祭りがあり、子供たちが「オレオレデライタ」と唱えつつ家々を回るそうです。オレオレデライタの意味は不明ですが、
「呉人多来了(ウーレンドゥオライラ)」
 という中国語のなまりではないかとも言われています。江南から東に船を出せば九州西岸に上陸するはずですから、九千坊の伝説はある程度史実を伝えているのかも知れません。

[8761] Re[8757][8753]: 「鳴る石」(奈良県)  素人 2008/02/23(Sat) 19:59 [Reply]
かたばみ様
> 勾玉が水中にぽちゃん、千年ほど経て褐鉄鉱の衣を着て掘り出された・・ちと可能性は低そう。
私もそう考えましたが、アシなどの根元に鉄細菌などによって生成した水酸化鉄の塊などを見ますと結構短時間に褐鉄鉱の密度の低い被膜ができたようにも思われます。淡水中でバクテリアの作用で大量の水酸化鉄を短時間に生成します。水の落ち口に黄褐色の厚い被膜ができているのがこれです。厚い被膜ができて乾燥した後に、熱変性を受けると結構短時間に出来てしまう可能性もあるのではと夢想します。奈良の「鳴る石」は黒く変色していたり、結晶が出来たりしていて熱変性を受けたように見受けられます。温度が高いように見えますので火山性かもしれません。
> 奈良盆地は縄文時代では湖であった可能性があります。
> 下図、白家は弥生遺跡、黒家は縄文遺跡、逆Uは銅鐸、その他は古墳など。
> http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/narako.jpg
> その湖底には「中身が泥で鳴らない石(^^;」もたくさんあった、そこに勾玉をいれた可能性少なからずと思います。

私も翡翠は古いが勾玉はそう古くないようですからかなりその可能性もあるのではと考えました。かなり固く焼き固まった殻のようですから殻を破った段階で細工はわかるのではと夢想します。詳細が知りたいところです。

> >中国に付け入られるので、秘されて来た部分かもしれません
>
> そのあたりの意識はまずは推古あたりの独立意識と菅原道真あたりでの自立意識で生じているかも。
> その後は近世に到る思想上の思惑から表にでなくなったのでしょうね。
>
固い殻に封じ込められた翡翠?の勾玉と同じでしょうか。
中国人の物欲の強さを知っての翡翠産地の封印でしょうか。
後世、これを目的にミャンマーを攻めて翡翠を手に入れています。
長く日本では翡翠は取れないことになって居ました。
余ほど徹底した封印だったのでしょう。
知恵者がいたのですね。

[8760] Re[8759]: 参考になれば・・・  神奈備 2008/02/21(Thu) 10:02 [Reply]
> 神奈備様、皆様、はじめまして、『ぎん』と申します。いつもROM専門です。
> 宜しくお願いします。

 ぎんさん ありがとうございます。こちらこそ宜しくお願いします。

 八乙女の舞いの存否が問題になっているようですが、沖縄は久高島のイザイホーも同じように途絶えかかっているようです。時代の変化は各地で伝統的なものを失わせているのですが、これも今に始まったことではなく、戦国時代や明治維新後にも多くのものが失われたようです。

 新たにできあがったものとしましては、神社自身でのHPによる情報発信があります。これのおよぼしてくる影響は今後現れてくるのでしょうが、今の所、ヴァーチャル参拝やネットでのお守り販売など短絡的なものですが、今後、どうなっていくのか楽しみです。
 

 司馬遼太郎さんが出雲の富氏のことを書いていましし、それに輪を掛けたように吉田大洋さんが、お話を聞くと云うことで、詳しいことが『謎の出雲帝国』に載っていました。もし本当のお話なら、実に面白いことと思っていましたが、先祖代々箝口令を敷かれてきたものが、今の時代になって公開されると云うのも、八乙女の舞いの存続と同じですね。現在の変化は2000年来で最大のものと云うことなのでしょう。

 出雲に行った際、肝心の富神社を参詣しましたが、普通の田舎の鎮守さんで、その奧に長きに渡る怨念の歴史が埋まっているようには見えませんでした。

[8759] 参考になれば・・・  ぎん 2008/02/21(Thu) 00:19 [Reply]
神奈備様、皆様、はじめまして、『ぎん』と申します。いつもROM専門です。
宜しくお願いします。

参考になればと思い書き込みました。
次のホームページご存知や、参考にならないと思われましたら流してください。

出雲について
http://d.hatena.ne.jp/ashetora/20061006/1160110484

志賀海神社の八乙女について
http://www.apa-apa.net/~jinrui/soturon/paper/ishibashi.pdf

[8758] 磯良の舞  神奈備 2008/02/19(Tue) 20:14 [Reply]
 安曇連百足の名は『肥前国風土記』に出てきます。隼人に似た言語を世と異にする土蜘蛛が住んでいた値嘉島に景行天皇に命じられて視察に行きます。二人の土蜘蛛を捕まえて、服従させます。

 安曇連百足は安曇の祖神である磯良の末裔です。この磯良は神功皇后の誘いに応じて登場するのです彼は海中に長く住んでいたため、顔にはあわびやかきがびっしりついて見苦しかったので白い布で顔をおおって出てきます。そうして舞を舞います。これを細男舞(磯良舞)と云います。磯良の舞は海幸彦の俳態に似ると云います。隼人舞です。

 宮中神楽の最初に唱える「阿知女作法」は、まさに安曇の磯良を呼ぶのです。それに答える「於ー々ー々ー」は磯良の返事と云います。磯良の舞は神楽の元になったようです。

 山城国綴喜郡の式内大社月読神社に宮中神楽の発祥の地の碑があります。また隼人舞伝承地として顕彰されています。要は隼人舞は宮中神楽のルーツとも言えるようです。

 安曇連百足は値嘉島におもむいたのですが、これは世と異にする言語を理解できたのではないかと思っています。安曇と隼人の舞が似ており、ともに宮中神楽のルーツとされているのです。安曇連百足は隼人の血を受けていたのではと思えるのです。

 宇佐神宮の境内には百体社というのがあり、由緒は、隼人の乱 の時八幡神 が神軍を率いて鎮圧に向かい細男(傀儡子)を舞わして隼人を惑わした故実に基づくと云います。仲間と思ったのでしょう。百体社の祭神は隼人の霊または磯良とされています。磯良と隼人の近さを示しています。

 百足はムカデのことでもありますが、それよりも磯良がその細男舞から傀儡子が各地で放浪しながら舞っていったものです。彼らは磯良を百太夫として祀ったようです。その百が百足につながっているのかも。

 ついでですが、百太夫は白太夫とは同じように見られているようです。「ヒャク」と「ハク」の近さ、白寿は「百ー1」寿です。白太夫とは普通、菅公が太宰府に流された際のお伴をされた白太夫命とされています。天満宮の摂社に太夫社が鎮座、従者を祭神としていますが、祭神とする理由もよくわからないし、百太夫の隠れ蓑とすれば、何とも不気味なことと思えます。

[8757] Re[8753]: 「鳴る石」(奈良県)  かたばみ [Url] 2008/02/19(Tue) 14:11 [Reply]
>鈴石、「岩壺」(岐阜県)、「鳴る石」(奈良県)

なにかの芯の周りに褐鉄鉱がくっついて、その芯が薬用になる場合もあり、石ころが残れば鈴みたいに鳴った。
勾玉が水中にぽちゃん、千年ほど経て褐鉄鉱の衣を着て掘り出された・・ちと可能性は低そう。

奈良盆地は縄文時代では湖であった可能性があります。
下図、白家は弥生遺跡、黒家は縄文遺跡、逆Uは銅鐸、その他は古墳など。



その湖底には「中身が泥で鳴らない石(^^;」もたくさんあった、そこに勾玉をいれた可能性少なからずと思います。


>中国に付け入られるので、秘されて来た部分かもしれません

そのあたりの意識はまずは推古あたりの独立意識と菅原道真あたりでの自立意識で生じているかも。
その後は近世に到る思想上の思惑から表にでなくなったのでしょうね。

ちょっと古くなっていますがDNA分析ではアイヌの人々のDNA多様性は少なく、韓国と西日本の多様性はほぼ同じ。
沖縄の多様性は大きく、中国の多様性はもっと大きいらしい。
これはそのまま民族の混合状況を現していると思います。
大和魂とかヤンキー魂なんてのはなんかのときのおまじない(^^;


[8756] Re[8755]: 縄文が受け入れた文化  素人 2008/02/18(Mon) 00:59 [Reply]
>
> 楚文化が日本へやってくるとすれば、そういう人々が運んだのだと考えています。
> ひとつは戦国時代の混乱だと思います。
釈迦に説法ですが、紀元前329年揚子江下流域の大国である越を楚の威王が撃破して、越王は斉を頼って山東半島に移ったそうです。それ以後、揚子江下流域を支配したようです。秦は蜀を攻め落としその後、蜀経営が順調になると楚に攻め入ったために楚は下流域に押し出されたようです。その後秦により攻められ滅亡(前224年)したようです。当たり前ですが始皇帝の国家統一の段階での多数の国家滅亡に伴う大量の難民発生と日本への大陸からの人の流入は何らかの関係があるのかもしれません。
 大陸からみると当時の日本列島への移動は新天地への移民であったのかもしれません。ヨーロッパとアメリカみたいなものでしょうか。日本は海で隔てられ安全です。
前住者との戦闘があり徐々に平定して図版を拡大した。その後、同化も進み安定した。その後、独立を果たした。さらにその後、近世になって本国を凌ぐ大発展を遂げて現在にいたる。
日本の場合は、アメリカと違って意外と前住者の人口が多くて極端な違いもないので同化して現在の日本人ができたのかもしれません。
大反発のある夢想ですので馬鹿の戯言とお聞き流しください。
中国に付け入られるので、秘されて来た部分かもしれません。

[8755] 縄文が受け入れた文化  かたばみ [Url] 2008/02/17(Sun) 23:14 [Reply]
だいぶ前の関連なので独立させます。

>箱入り森林文化の縄文と、大陸でもまれ育ってきた楚文化の血を別けた運命の出会いが出雲文化かも。
>水耕稲作を伴った渡来文化が楚の文化であれば受け入れる下地を縄文は持っていた思いますね

私はまず縄文にはいったのは畑作だと考えています。
山東半島は畑作の地域であり、稲作の地域は淮河より南であり数百年遅れでやってきただろうと考えています。
畑作であれば灌漑技術はいりませんし。



以下は大年神系譜です。



大年神系譜にはでてきませんが山陰のサヒメ伝承では大山祇神の領域を避けてサヒメが穀物を撒いたとあります。
こんなのが残してありました

http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/oogetuhime.html

−山陰の農耕民の伝承(畑作の民族/雄山閣より抜粋)−

太古に雲つくような大男が弥畝山(那珂郡弥栄村)をまたいでやってきてそっと腰をおろし、我は大山祇命なりといった。
それが源田山(三隅町)である(大山神社があるというがみあたらない)。

大男がおならをしたら土に穴があいて土砂が飛び散った、それでできたのが太田市の三瓶山。
大男が漁山(弥栄村)と高城山(三隅町)に足をかけてウンコをしたのが大糞山(みあたらない(^^;)。
そこでここでは肥料をやらなくても畑作物がよくできるという。
事実この一帯は蕎麦の産地で有名です。


大昔にソシモリにオオゲツヒメという五穀の女神がいた。
しかし、訪ねてきた荒ぶる神をもてなしたとき殺されてしまいます(記紀神話に同じ)。
女神はかけつけた末っ子のサヒメに形見をわたして遠い東の国へとんでゆけといった。

赤い雁に乗ってやってきたのがまずは高島(益田市の北の沖合の高島か)。
しかし、ここは大山祇神の治める地で五穀とは無縁だったので、天童山(益田市赤雁町〜下種町あたり)に降り、サヒメ山にとどまって五穀を広めた(比礼振山、山頂に佐比賣山神社あり)。
さらに東に進んで大糞山や三瓶山でも農耕をひろめた。

(大山祇神が内陸に進出していないことがうかがえます)

三瓶山周辺に三つの瓶が降ってきたという伝承がありますが、これにつながるものとみえます。
また、畑作の技術が半島南岸あたりから山陰沿岸に伝えられたことが推定可能。



それ以前に大山祇神が沿岸部?に先住していたことがうかがえて興味深い。
伊弉諾伊弉冉神の神生みの順番を抜粋すると
大屋彦神、倉稲魂神(書紀)、ククノチ神、大綿津見神、大山津見神、大宣都比賣神、金山毘古神・・
と並び、素盞鳴尊は伊弉諾神独り神から生まれた最後の最後での登場です。

原則として神々(文化)の登場した年代順に並んでいると解してよいと思います。

穀物神であろう大年神が伊弉諾伊弉冉神の子にはいっていないのは、半島出自の人々を記紀系譜上で素盞鳴尊の子として一括化したためにすぎないと考えています。
稲作神であろう宇迦之御魂神も同じくで、書紀1書では伊弉諾鋳伊弉冉神の子とされており、それが本来であろうとみています。

農耕は素盞鳴尊登場のはるか以前から存在していたはずです。
素盞鳴尊に農耕の様子は見えませんし、その子に穀物神が生まれるのは不自然でしょう。
荒ぶる神はオオゲツヒメを殺していますし(^^;



ウエツフミと古語拾遣の説話の歴史としての推理。

保守派と革新派の確執。
従来のしきたりを守る保守派(例えば純畑作派、例えば大年神の文化)
新しい農耕すなわち稲作を導入しその慣習も導入した革新派(例えば大国主命)。

大国主命の父は天之冬衣、天という尊称から天孫系とからむ可能性がみえます。
神武、綏靖、安寧は出雲系の娘を妃にしています。
この頃に出雲と天孫が合体しているわけで、文化も混じり合うでしょう。

仮に素盞鳴尊渡来がBC190頃(箕子朝鮮滅亡)であり天之忍穂耳渡来がBC150頃(呉楚七国の乱)で天孫降臨がBC100頃とみるならば、
神武を4世代後として1世代を30年とみればAD20頃の人物となります。

大国主命が素盞鳴尊の6世代後とみればBC10頃の人物となります。
ほぼ同時代の人物。 神武が大国主命の子の事代主命の娘を妃にいれるのがぴたりと一致してきます。

この時代の異文化の混合、その確執がウエツフミあるいは古語拾遣の農耕儀礼伝承の源になっている。
そう考えています。

ウエツフミでは味耜高彦根命と大国主命は現世の存在。
大穴牟遅命はお伺いを立てるということで微妙、ちょい前の祖先神の意じゃないか。
大年神、御年神、若年神は天界に住んでいますから、はるか昔の存在とみなせると思います。


古語拾遣はなぜ面倒なことをやっているのか。
稲作系の儀礼伝承が伝わっておらず肉を供える理由がわからなかったからだとみています。
なぜ伝わっていないのか。

「移動してきた人々」だから。
伝承は語り部や一般民にあるものと思います。移動したのは軍人や支配者(貴族)がほとんどだった。
後に調べようとしても本拠地での伝承はすでに消えてしまっていたのでしょう。




大年神は出雲神族とはなんの関係もなく、具体的な個人を示す名でもなく、「民の文化」(ほぼ農耕文化)を代表させる神名だと考えています。
山東半島系の農耕と山東半島経由の稲作(より新しい)をひっくるめたもの。
(話題の中国野菜の輸入先はほとんどが山東半島、関係ないか(^^;)


記紀はこの系譜をスサノオ尊系譜に取り込んでいる(半島及び半島経由はすべてスサノオ尊の系譜へ統合とみる)。
天津日子根命や活津日子根命や宗像三女神などを天照大神とスサノオ尊の誓約という不可思議な説話によってどちらの系譜とも見なせるように統合しています。
これらをみな出雲文化としてしまうと唐古・鍵遺跡や銅鐸などの出雲時代の文化と混同するので、自分流では初期開拓者と称しています。

スサノオ尊渡来以降の出雲の版図を考えるきっかけとなったハタの地名分布です(aboc/日本地名索引による)。



ほとんどが畑で秦は2カ所のみ。
東北にも分布があるのが非常に興味深いところ。

水稲は緩傾斜地と氾濫しない川が必要でどこででもはできない。
初期開拓者と後の出雲展開のメインはどこでも喜ばれたであろう種子と畑作技術だと考えています。
(五十猛命あるいは大屋彦命の植樹伝承ともつながるもの)


人々の生活は本来保守的だと思います。理由がなければ移動はしない。
移動する理由にはふたつがあると考えています。
ひとつは環境の劣化、洪水やひでり、あるいは長期的な寒冷化など。
もうひとつは戦乱やそれにともなう圧迫。

楚文化が日本へやってくるとすれば、そういう人々が運んだのだと考えています。
ひとつは戦国時代の混乱だと思います。
中国の周末期〜春秋時代〜戦国時代の気候に関する情報がありませんが、縄文の気候と類似と見れば寒冷化にもぴたり重なってきます。
これが「二番目の渡来文化」で弥生の始まり。そして温暖化によって九州の稲作発達と各地への伝播。

では最初の渡来文化は・・長江の三苗文化だとみています。
縄文後期のBC2000〜1500頃、この頃に長江の良渚文化が洪水で壊滅します(龍山文化も丘の上などに移動している)。
中国史書では尭舜禹の神話時代になるので正確な記録はないけれど、小柄族だけでなく巨人族もいます。

記紀が土蜘蛛と書く人々(アシナヅチ、長髄彦などの祖を含む)、あるいは猿田彦命の祖。
記紀における海の民(文化)とみえる天津日子根命などや椎根津彦の祖。
少彦名命の中国での祖も同じだとみています。

楚文化に到るはるか以前の長江系文化(海洋文化含む)の到来。
最初期の稲作、晩生種、赤米などは西南諸島経由がメインかなあ。これらがまずは九州へ。
祭祀では天照大神登場の源流、太陽神的部分と母系社会の合体。
村あるいは部族単位の呪術から部族連合での共通祭祀への変化。

九州縄文の採集と狩猟から焼き畑と狩猟への変化(森林を持つ地域の場合)。
照葉樹林文化のいろいろが縄文海路(貝の道)をもって各地へ伝播。


[8754] Re[8753]: 「鳴る石」(奈良県)  素人 2008/02/17(Sun) 21:47 [Reply]
> 仮説
> http://www.geocities.jp/unkonshi21/index-kaseki.html
> ご存じとは思いますが、結局はっきりしない青草でした。

URLが違っていました。
http://www.geocities.jp/unkonshi21/naruishi-shigaraki2.html

[8753] 「鳴る石」(奈良県)  素人 2008/02/17(Sun) 03:56 [Reply]
かたばみ様
書き込み大変遅れました。
化石ではないかという説があるようです。
> 以下は唐古・鍵遺跡の出土物、褐鉄鉱の空洞に勾玉が入っています。
> http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/uyoryou.jpg
> 非常に重要な出土物だと思いますが無視に近い扱いです(説明できないからだと思ってます(^^;)。
鈴石、「岩壺」(岐阜県)、「鳴る石」(奈良県)、と言われているようです。
仮説では棘皮動物、海産で、ウミユリ綱、ヒトデ綱、クモヒトデ綱、ウニ綱、ナマコ綱などが死滅後、周囲に皮膜が形成され中身が抜けたのではとの説があります。そうなると棘皮動物が勾玉を食べていたなどと有りそうにない事を考えなくてはなりません。説明は難しそうです。
鈴石(鳴石)、禹余粮(うよりょう)
http://www.kiseki-jp.com/japanese/stone-information/collection/collections/hydrohalloysite.html
士別市では「鈴石」と「高師小僧」が見つかったりしていて参考になるかもしれません。
http://www5.ocn.ne.jp/~shibegeo/sonota.htm
鳴石は中国漢方では、薬効があるとのことで、それがなんなのか、見当すら付いていませんでした。ところが、何らかの生物起源の有機物を含んでいれば、薬効があると推定。(後漢末3世紀頃の「神農本草経」という中国で一番古い薬の本にこの名が出てきます。)
http://unkonshi.exblog.jp/m2006-09-01/
仮説
http://www.geocities.jp/unkonshi21/index-kaseki.html
ご存じとは思いますが、結局はっきりしない青草でした。

[8752] Re[8750][8748][8740][8737]出雲と縄文   2008/02/17(Sun) 00:07 [Reply]
> たしか九州の海にも手長足長がでて、足長を見ると海が荒れるという話が記憶にあるんですが、
> どこで見たのか解らなくなってます。聞かれた事ありますか?

 神奈備さんのおっしゃる通り、水木しげるの本でなら読んだ記憶があります。いま手元にはありませんが、『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』だったような、違うような……(どっちだ)。
 ほかの本では見たことがないので、水木氏が独自に採集したお話なのかも知れません。ネット情報では、長崎県平戸市神崎山付近の伝説だそうです。
http://home4.highway.ne.jp/deadsoul/a/asinagatenaga.html

 ちなみに壱岐の天手長男神は、旗竿の神だと言われてます。たしかに長いですが、どうもいま一つ釈然としません。


> また鳥海山の神、大物忌神は豊受姫と同じ神とありました。

 豊受姫は国常立とも同一視されたりして、正体がわかりにくいですね。吉野裕子の『隠された神々』では、北斗七星の輔星の神とされてました。


> 山海経は成立が古いですから、古代では同じようなイメージ(手足が長い)が描けていて、
> 中国から書物が入ってきて、「あーこれだよ」となったとか。青草です。

 憶測ですが、単に「手足の長い巨人」だったものが『山海経』の影響で、2人に分かれたような印象があります。ダイダラボッチのような単独の巨人の方が、起源が古いのかも知れません。

[8751] Re[8750][8748][8740][8737]出雲と縄文  神奈備 2008/02/16(Sat) 21:47 [Reply]
漫画家の水木しげるさんは『山海経』の解説を書かれています。
> 九州の海にも手長足長
のお話も彼だったように思います。

天手長男命を祭る神社は『平成CD』によりますと、本社摂社合わせて38社、内埼玉県が35社。

これとは別に埼玉では手長男神社の7社は祭神が天手力男命となっています。
中には、壱岐天手長男神社「天手力雄命」なる壱岐からの勧請と思われる神社も鎮座。

壱岐には、式内社の天手長男神社、手長比賣神社が鎮座しています。

足長で云えば、生足長足姫命と云う神名がありますが、はどうやら息長足姫命のことのようです。

[8750] Re[8748][8740][8737]出雲と縄文  くず 2008/02/16(Sat) 13:12 [Reply]
>手長足長と言えば諏訪のほか、磐梯山や鳥海山にもその伝説がありますね。磐梯山・鳥海山は活火山なので、火山神の性格もあるかも知れません。諏訪周辺にも浅間山をはじめとして火山が多いですし、火山の噴煙を巨人に見立てたのではないでしょうか。

豺さん、
火山は大いに関係ありそうですね。
山、大地、海を母神とみたら、そこに悪さをするのは足でかき回す足長、男神で悪心。
天を父神とみたら、悪さして天気をかき回すのは手長で女神、
そんなイメージを描いてみました。

たしか九州の海にも手長足長がでて、足長を見ると海が荒れるという話が記憶にあるんですが、
どこで見たのか解らなくなってます。聞かれた事ありますか?

また鳥海山の神、大物忌神は豊受姫と同じ神とありました。
が、霊鳥である三本足の鴉を遣わすともあり、太陽神的な神格も重なりますね。

> 『山海経』>「長脚人常に長臂人を負い、海中に入りて魚を捕る」
> という記述があります。「狼狽」や「比翼」の故事にも似ており、中国人が好むモチーフなのでしょう。

足長が手長を背負って魚を取るというのは影響を感じますね。
山海経は成立が古いですから、古代では同じようなイメージ(手足が長い)が描けていて、
中国から書物が入ってきて、「あーこれだよ」となったとか。青草です。

[8749] レプリカ  素人 2008/02/15(Fri) 23:22 [Reply]
蛇足ですが。
可なり現物とは違うと思いますが、派手なレプリカの写真が載っています。
古代人は意外と派手好きだったかもしれません。
たたくと賑やかな音がしたのでしょうか。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/wadokan/doutaku.html
聴覚・視覚には未開の人々は大きなインパクトを受けたのでしょう。
売り物ですから忠実な再現かどうかわかりません。派手です。
http://www.tabiya.net/shop/72_615.html
大型のレプリカ
http://inoues.net/science/takutaku08.jpg
各種青銅器のレプリカ
http://inoues.net/science/wao.html
レプリカには派手なものがかなり有るようです。
URLの羅列のひどい青草で失礼しました。

[8748] Re[8740][8737]出雲と縄文   2008/02/15(Fri) 21:53 [Reply]
> 縄文→出雲系では手長足長ですかね。各地に伝承が残ります。
> 天をかき乱すのが手長。地(海)をかき乱すのが足長ではないかと思います。
> 足名椎命・手名椎命も手長足長からと思いますね。

 手長足長と言えば諏訪のほか、磐梯山や鳥海山にもその伝説がありますね。磐梯山・鳥海山は活火山なので、火山神の性格もあるかも知れません。諏訪周辺にも浅間山をはじめとして火山が多いですし、火山の噴煙を巨人に見立てたのではないでしょうか。

 諏訪の手長足長については、「足長が手長を肩車して諏訪湖に入り、手長が湖底の貝をとった」という伝説もあります。これは『山海経』の「長臂人・長脚人」が元ネタになっているようです。四世紀頃、郭璞という人が『山海経』につけた注釈に、
「長脚人常に長臂人を負い、海中に入りて魚を捕る」
 という記述があります。「狼狽」や「比翼」の故事にも似ており、中国人が好むモチーフなのでしょう。

[8747] Re[8746]: 中国の銅器  神奈備 2008/02/15(Fri) 09:04 [Reply]
> 金カネはすべての鉱物の総称、もともとは青銅のことを意味した。

 神名の金山彦などは金属の総称ですが、
 例えば、万葉集 巻五 八〇三
 銀(シロカネ)も 金(クカネ)も玉も なにせむに 優れる宝 子に及かめやも

 みんな、赤ちゃんだった。宝物だった。

[8746] 中国の銅器  かたばみ [Url] 2008/02/14(Thu) 18:23 [Reply]
金カネはすべての鉱物の総称、もともとは青銅のことを意味した。字訓/白川静より。
とすると金色というのは「黄金」の色にはあらずして、青銅のような色のことだったのかもかも。

中国での金属はいまのところ長江中流域屈家嶺文化(BC3300頃)の銅鉱石と銅片が最古、黄河下流の龍山文化(BC2500頃)の銅器が次と見えます。
黄河中流の仰韶文化(BC4000頃〜)では金属器は未発見、長江下流の良渚文化(BC3300頃〜)からも未発見。
しかし、龍山文化には良渚文化が流入しており、龍山文化の銅器は長江経由で入った可能性あり。

西アジアの銅器はBC8000に遡り(おそらくは自然銅)、青銅器はBC3500頃(合金技術)。
こちらからインド経由(ヒマラヤ南辺〜アッサム)から長江上流域〜四川省(遊牧回廊、やや持論(^^;)を経て青銅器が広まったとみるのがよかろうと思ってます。
長江上流域〜四川省


>金さんが勝って君になり、朴さんは負けて僕になったとさ
(^^;
新羅王統図(新羅本紀より作成、日本側の王と年代は持論)


[8745] Re[8744]: 多、太氏  神奈備 2008/02/14(Thu) 10:11 [Reply]
> 中国で、突然のごとく、青銅文化が登場するのですか、西から入ってきたのですか?

 wikipediaでは、(どう見ても西方から)持ち込まれたと云う見解と、5000年ほど前の中国には銅器が既にあったので、中国大陸で独自に発達したとの見解もあるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%8A%85%E5%99%A8


> おお氏は、大和征服朝廷の前の王ではなかったのですか?そういう説ありますか?

 この多氏につきましても、最古の皇別氏族説と渡来系とする説があるようです。両方とも正しいのかも知れません。

 『大和の原像』(小川光三著)の巻末に、「付・古代史の謎 オホ氏」があります。
 この冒頭で、太田亮博士の説として、「邪馬台国は火国にして卑弥呼女王は多臣族」と推測されています。以上

  
 大和征服朝廷の前の王としますと、物部氏や長髄彦を思い出しますが、彼らと多氏とは関連を持つような説には寡聞にて承知していません。

 尚、鳥越憲三郎氏は邪馬台国を大和の物部王朝とし、神武天皇からの葛城王朝がこれを滅ぼしたとの説を出されています。

 多氏の邪馬台国を抱いた物部氏が東遷し、大和に展開したと想像もできるでしょうが、多氏と物部氏とはこの後の歴史でも、交差するようなお話はなさそうです。

[8744] 多、太氏  縄文の風 2008/02/13(Wed) 23:39 [Reply]
中国で、突然のごとく、青銅文化が登場するのですか、西から入ってきたのですか?私、おおまかな、基礎てきな、つかみができてません。
 たんじゅんな疑問なんですが、おお氏は、大和征服朝廷の前の王ではなかったのですか?そういう説ありますか?

[8743] Re[8742]: 金  神奈備 2008/02/13(Wed) 21:23 [Reply]
> 金でも、銀色でも、その差、が問題になるのは、だいぶ後のことではないでしょうか。

 そうでしょうね。紀元ゼロ年頃ですから、縄文時代終了から300年〜600年後のことです。

 余談
半島から、金さんと朴さんがやって来て、どっちが主人でどっちが従者かを決めるジャンケンポンをしました。金さんが勝って君になり、朴さんは負けて僕になったとさ。


> 中国、日本、最初の金属として、金製品は少なくて、青銅が多いのは、金色が、好まれた訳ではないことをしめすのでは、ないでしょうか。

 初期の金属の使用は色の好みよりは手に入れ易さが優先したのものと思っています。

[8742]  縄文の風 2008/02/13(Wed) 16:18 [Reply]
縄文時代、金属物を見たことの無い、金属や、服、飾り物などを持って、行列して、やって来たのを見て、びっくり、仰天したことでしょう。金でも、銀色でも、その差、が問題になるのは、だいぶ後のことではないでしょうか。
 中国、日本、最初の金属として、金製品は少なくて、青銅が多いのは、金色が、好まれた訳ではないことをしめすのでは、ないでしょうか。
 氏名の、金氏と金、あるいは、金色との関係はあるのですか。私まだ、勉強してません。教えて下さい。

[8741] Re:[8676] 地味な銅鐸  神奈備 2008/02/13(Wed) 10:09 [Reply]
> 錫の多い初期のものは銀色、黄金色に輝きとても派手で、音も高く賑やかなもので古代の人々を驚かしかしずかせる道具としては優れていたのではと思います。

銅と錫の割合について『季刊 東北学』2008年14号に「色の考古学」(安斎正人)なる論文があり、この中に佐原真氏『万葉の色、縄文の色』から、下記の引用文があります。

 銅に錫をたくさん加えると銀色、少ないと金色、・・

 定量的な話ではないのですが、見せる銅鐸の材料として小さい銅鐸と銅を使用したとしますと、錫が少なくなり、金色に輝やくことが期待されたのかも。

「色の考古学」(安斎正人)なる論文
この掲示板に投稿されている方にお願いして頂きました。感謝。

[8740] Re[8737]出雲と縄文  くず 2008/02/11(Mon) 18:22 [Reply]
>楚文化とその変形が縄文に染みこんだもの、それが弥生での近畿やさらに東国での一般的文化の状況と考えています。
>黄河文化圏(荒野)→儒教(人間界と礼節)
>長江文化圏(森林)→道教(自然界と生命)
>環境の違いだと思います。縄文に受け入れられるのはむろん森林基盤の文化。

青草に自分が今思う縄文への思いを書いてきました。
縄文文化と、お話に伺う楚文化は似ていると思います。
縄文にも、特殊祭具の埋納がありました。
秋田の上掵遺跡で特大未使用の磨製石斧が4本出土しています。
http://www.netcity.or.jp/michinoku/izakaya/jyomon/j32koudo5.html
褐鉄鉱は縄文早期から岩料として使われていましたので、
褐鉄鉱の鳴石などにも早い時点で気がついていたと思います。
各地の縄文遺跡から出る土鈴などは鳴石や高師小僧を模したもの(かも)と思います。

水耕稲作を伴った渡来文化が楚の文化であれば受け入れる下地を縄文は持っていた思いますね。


> 余談
> ミノア文明や初期メソポタミア文明では蛇や大地母神が登場しますが、森林の消滅によって暴風など気候(水)を司る神が台頭して蛇は消えてゆきます。

この国には世界でも類稀な四季を通じての水のサイクルがあります。
船乗りをしていた知人から港に近づいて遠くからも全体が緑に見える国は日本だけだと聞きました。
熱帯雨林帯はともかくこの緯度ではやはり特殊環境だと思います。
今だ森林と共にあるクニ。

>気候を司る神

縄文→出雲系では手長足長ですかね。各地に伝承が残ります。
天をかき乱すのが手長。地(海)をかき乱すのが足長ではないかと思います。
足名椎命・手名椎命も手長足長からと思いますね。

オロチへの生贄にされかけたのは奇稲田姫でした。
オロチ=蛇神=女神なら生贄には男巫のほうが喜んでもらえそう(^^;
と思うのですが、このあたり・・・
三輪山型の神話にも、蛇神が男神である場合と女神である場合があります。
こじつけは出来ますがここではやめときます。

箱入り森林文化の縄文と、大陸でもまれ育ってきた楚文化の血を別けた運命の出会いが出雲文化かも。

[8739] 楚の鬼神祭祀    とみた 2008/02/11(Mon) 16:49 [Reply]
かたばみさん ありがとうございました
>漢書地理志では楚の信仰について「巫鬼とは巫者が鬼神を祭祷して福を請うなどの方術」とあります。

>1986、87年に長江中流域洞庭湖の北にある荊門市チンメンで楚の鬼神信仰を詳細に記した簡帛資料が発見されています(簡帛:カンパク、竹簡や木簡に書かれた古文>書)。

かたばみさんの投稿を見ました。
以下ですね。

以下鬼神信仰に関する抜粋
「鬼神とは死亡した人間の霊のこと」
「鬼は生人には見ることができないが、それをみることができるのが巫者で・・」
「巫者は鬼の正体を暴くのに、鬼を日月の光に照らしたり、鏡に写したり・・」
「鏡は大きい方が良い・・」


中国の戦国時代の楚の祭祀ですね。
戦国時代の墨子にも、鬼神の実在を強調する祭祀を重視していると、道教の研究家の福永光司先生が書かれています。

殷の時代は鬼道=巫術。春秋戦国時代(紀元前500年代)の孔子も、鬼神のことを行う。これが魏晋時代の卑弥呼の鬼道とどうつながるかですね。

楚は長江沿いの国ですし、五ト米道の道教も長江と縁が深い。楚の屈原もシャーマンの親分で洞庭湖に身を投げる、卑弥呼も道教と土地のシャーマニズムを融合させた鬼道を行っていたのでしょう。

荊門市は古代荊楚の地。楚はスッポン、巴は蛇、蜀は蚕を表わす文字。楚は西周が東周に交替するとき、巴を取り込み楚巴は蜀を狙う。
勢いを増した秦は紀元前316年蜀を破り、楚を紀元前223年滅ぼして秦始皇帝は中国を統一。

巴人は潜水漁法に長け、髪はチョンマゲみたいに後ろでくくる。

なんとなく倭人に似ているような気がしています。



[8738] Re[8735]: 楚の鬼神祭祀  かたばみ [Url] 2008/02/11(Mon) 13:15 [Reply]
1986、87年に長江洞庭湖の北の荊門市チンメンで楚の鬼神信仰を詳細に記した簡帛(木簡や竹簡)が発見され、「日中文化研究10/勉誠社」にその内容が書かれています。

漢書地理志では楚の信仰について「巫鬼とは巫者が鬼神を祭祷して福を請うなどの方術」とあります。
戦国時代末期の秦の文書にも類似の記録があり、淫ら、楽しみにふける、不従順といった意味の言葉が使われていて、黄河系の文化圏からは邪教のごとくみられていたようです(原文未確認)。


[8737] Re[8731][8717]弥生祭祀  かたばみ [Url] 2008/02/11(Mon) 13:12 [Reply]
続くといってもやたら長いので分割しただけであります。青草の続き(^^;

卑弥呼系祭祀と他の四道将軍系の祭祀、これに縄文の影響を受けた出雲祭祀・・葛藤と混合、やっかいしごく(^^;
大彦命は孝元〜開化〜仲哀とは別系、北九州の倭国争乱渦中の有力者か。
記紀はいったん消していた北九州系譜を大彦命を代表として再登場させ、全体を整えたものとみています。
景行(日向宮崎系譜)が足を踏み入れることのできなかった地域の系譜、武内宿禰系譜における渡来人吸収への伏線でもあります。

出雲文化も楚文化を受けたものと推定、古代楚文化圏には青銅器埋納慣習(周囲に居住遺跡のない山の斜面)もあります。
天孫系楚文化との違いは王族がもたらした新しいものか、民がもたらしたもっと古いものかの違いだと思います。
(古い方、戦国時代〜秦時代(箕子朝鮮滅亡)における東シナ海沿岸〜山東半島、おそらくは徐福もこの仲間)

ただし「九州を譲って以降」での出雲文化は最新の中国文化と接することが困難となった。
高句麗経由など北方系文化とのわずかな接触だけになって文化は停滞した。

天孫系出雲(天穂日命→出雲臣の祖)が島根以東の沿岸〜琵琶湖にあるとみますが、置いておきます。
記紀での国譲りで大国主命(書紀:大己貴命)の祭祀(杵築大社)を任された天穂日命、この記述は神代に遡って天孫系出雲の存在を記述したもの。

現代版豊後風土記といえる優れた辞典があります。大分歴史事典
http://www.e-obs.com/heo/heohome.htm
他の都府県でもやってもらいたいものです。

出雲文化が縄文文化へ浸透していた場合、そこでの文化はどうなるか。
いかに優れた文化であろうと生活のためには周囲から食料を得なければなりません。
農耕や医術など即生活改善につながるものでは周囲に影響を与える、しかし最新文化の持ち主であっても郷に入らば郷に従わねば生きてはゆけないわけです。
(武力による支配とか征服とは違う)

以下は唐古・鍵遺跡の出土物、褐鉄鉱の空洞に勾玉が入っています。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/uyoryou.jpg
非常に重要な出土物だと思いますが無視に近い扱いです(説明できないからだと思ってます(^^;)。
仙人思想(楚文化)での禹餘粮ウヨリョウ、医術と子宝(豊穣)が複合した祭祀といったところか。

楚文化とその変形が縄文に染みこんだもの、それが弥生での近畿やさらに東国での一般的文化の状況と考えています。
黄河文化圏(荒野)→儒教(人間界と礼節)
長江文化圏(森林)→道教(自然界と生命)
環境の違いだと思います。縄文に受け入れられるのはむろん森林基盤の文化。

森林文化の象徴が蛇、ミシャグチやアラハバキは蛇かなあ。母系社会的巫女も多く残っていたと思います。
縄文末期の九州も同様だったはずですが、近畿以西では縄文人口が少なくごく短期間でいわゆる弥生文化(農耕文化)に移行していった(日向宮崎など遠隔地を除く)。
余談
ミノア文明や初期メソポタミア文明では蛇や大地母神が登場しますが、森林の消滅によって暴風など気候(水)を司る神が台頭して蛇は消えてゆきます。


さて、出雲を制圧して大和に中枢をおいた天孫系譜はかっての出雲の二の舞を踏むことになります。
渡来文化の入り口である北九州から遠く離れて最新文化と情報にうとくなってしまった。
三角縁神獣鏡の年号ミスなんてのもその現れでしょう。
記紀が仲哀に「新羅なんて知らないぞ」といわせているのも同様。

海外情勢に敏感な北九州や日本海沿岸氏族からは不満噴出、ずばっと仲哀暗殺(^^;
応神パパがだれかはわかりませんけれど、応神は朝鮮半島に進出し、その勢力が西南部に多数の前方後円墳を作ったと考えています。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/shisekibo_hantou.png
広開土王碑に書かれる碑文もそれを現します。
(碑文が改ざんでないことは確定、好太王碑拓本の研究/徐建新/東京堂出版)
王朝の自慢になりそうですが記紀は新羅討伐としか書いていない、百済系氏族との関係もあって藪蛇になるのを嫌ったか(^^;

段落

[8736] Re[8732][8718]: ミシャグチとアラハバキ  神奈備 2008/02/10(Sun) 22:23 [Reply]
> アラハバキは(東北ではなく)関東で主に信仰された神ですから、これもないとは思いますが。

 東北にもけっこう沢山の荒覇吐神社が鎮座しています。多賀城の外の荒脛神社は有名です。勿論おっしゃる通り、関東は武蔵に多くの荒脛社が鎮座していました。また三河にも幾つかあります。
http://kamnavi.jp/jm/arahaba.htm

 面白いのは、ヤブサの神の仲間かも知れない養沢神社は門客人明神社で、訓はアラハバキ社でした。アラハバキがヤブサの神だとしますと、縄文的というか相当な古層の神で、それが何となく壱岐のヤボサ神のように零落していったようにも見えますね。



青草
Re[3585] 野暮ったいお話  琉球松
> 対馬の「ヤブ」も、木が生い茂っているような、鎮守の森のような、琉球圏の御嶽のような感じでしょうか?

 現在では神社そのものですが、かっては山中の神籬とか磐座だったようです。御嶽とはよく似ているとは言えないでしょう。ただ、薮薩御嶽に限っては浜川御嶽を拝殿と見なして、薮薩御嶽を本殿というか神籬とか磐座と見なしうるようにも思います。

[8735] 弥生祭祀  とみた 2008/02/10(Sun) 14:49 [Reply]
>現在資料確認がやりにくいので略しますが、中国戦国時代の楚の祭祀だとみてお>ります。
>楚の鬼道に関する竹簡が出土しており、ここには「鏡を用いて鬼を防ぐ」などの話が書かれています。

これに大いに興味があります。
出典を是非教えてください。

>中国戦国時代の楚の祭祀だとみております

先日紹介した本の、鬼の復権、萩原秀三郎著の177ページに楚文化の影響として
書かれています。

佐賀県川寄り吉原遺跡出土の鐸型製品では羽毛を付けた人物が盾や戈(矛)を持って踊っている。中国古代の銅鼓には羽毛を頭に戴き手に盾をや戟、弓と矢などを持ち、鼓面の中心に太陽紋がある。
中国の民族学者凌純声は、弓や盾槍や戟を手にする舞を楚国の祭祀であろうとしています。

東方に向かい日神を出迎え楽舞し、やがて東君との送別の際、東君の衛氏が長弓を高く揚げ邪悪を断ち太陽を保護して東君の平安な帰去を祈る祈念の祭りであると考察しています。

私がいつも不思議に思っていることです。清水風遺跡の絵画土器には羽を付けたシャーマンと盾を持った男の絵があります。

楚の貴族で憂国の屈原がシャーマンのリーダーであったこと。

韓国の馬韓(百済の前身)の蘇塗と言う祭祀との関係が気になっています。

魏志倭人伝東夷伝馬韓伝に、天君(シャーマン)を選び、蘇塗では木を立て鈴鼓を懸け鬼神に事える。天を祭る、昼夜飲酒し歌舞する。

この祭儀は対馬の天道信仰につながっていないか。そこには蘇塗と同じ石積の塔がある。

韓半島の蘇塗の儀礼は多分紀元前の青銅器時代に始まっているのでしょう。
蘇塗は楚からつまり長江の南方由来なのか、中国東北方の濊族=ツングース族から伝わったのでしょうか。高句麗、扶余、濊国は紀元前後から現れます。

高句麗には東盟祭、扶余には迎鼓祭、濊には舞天祭があります。

いずれも祭天の祭りです。天に豊作を祈願する祭りかと思います。

蘇塗は高麗?の時代からソナンダン(城隍堂)と言う祭りに変わっています。韓国ではムーダンという巫堂が活躍します。
鬼神とは何か。

卑弥呼の鬼道とは何か。いずれも鬼である。

鬼とは大抵は、死んだ人、通常死した人は先祖霊になり、異常死した人は祟る。

鬼とはあらぶる祖霊。



魏志倭人伝では「鬼道で民を惑わす」とありますがそれは魏側の見解。
楚文化は三国志時代の呉や蜀など南方系文化のベースであり、北方系の魏が敵方の祭祀をほめるわけがありません。
(天孫降臨時代がいつかがありますが、「降臨時の天孫」もほとんどが楚文化であったとみています)

卑弥呼本人が南方系文化であっても倭国連合にあっては皆の意見を聞かねばならない。
呉は遠く魏は近く、プレゼントももらった(^^;
卑弥呼が「楚の鬼道の重要な祭祀具である鏡」をほしがるのは

[8734] 焼畑  縄文の風 2008/02/10(Sun) 12:26 [Reply]
  かたばみさんの
 所をかえる焼畑と遷宮結びつけるのには、農民として、一言いいたいけど、まだ未熟者ですので、もう少し読み込んでからにします。(つぶやきですので)

[8733] Re[8731][8717]長野から縄文系祭祀について  くず 2008/02/10(Sun) 12:25 [Reply]
> 以下直接のコメントになっていませんが、大きな流れの前後左右を眺めながらの青草長文ご容赦。
>
ありがとうございます^^
つづくとありますので、卑弥呼と弥生祭祀については全文読ませて頂いたのちに。

長野から縄文系祭祀について。

長野県の中部、諏訪、茅野から伊那谷にかけては縄文中期は当時の人口比率からいうと異常ともいえる人口密集地だったと認識しています。
三内丸山と違って海産に恵まれるわけではなく、諏訪湖から伊那谷を流れる天竜川に鮭は遡上しません。
茅野の尖石遺跡では焼畑の痕跡が認められていますが、密集した多くの定住遺跡群を支えたのは焼畑にあり、
縄文のヴィーナスとは焼畑に関連した生産と豊穣の女神を偶像化したものと考えます。

中部地方は道祖神の宝庫と言われます。
どんど焼きという小正月の行事は、道祖神の社を萱で作り(お仮屋)その社を燃やす事に最大の意味があると思われ、そこにも縄文からの信仰が息づいていると思います。

記紀神話で、この信仰と結びつけやすいと思われるのは大山積神。
娘の木花之佐久夜毘売が火の中で海幸彦と山幸彦を生んでいます。
火の神、迦具土神の死体から8柱の山積神が生まれています。

神話では男神のようですが、生産を司る"古代の山"は女性神格と見るのが考えやすいと思っています。
交信できるのは男巫。クマルだったかもしれません。

諏訪大社上社前宮の神原の前のを、水眼(すいが)の清流が流れます。
その水の発する"力"に驚いて、水源を目指し山を登った事があります。
夕暮れがせまり、獣の気配が濃くなったので途中で引き返しましたが、地図で確かめましたら水源の山が中央構造線の"頭"(あるいはしっぽ)にあたる事に気がつきました。
あの山に蓄えられるエネルギーはあの清流に凝縮されている。
古代信仰の一端に触れた思いがしました。

狩猟+焼畑農耕民は山を女性神ととらえ男巫をつかわせたのでhないか。
(山と川を一体に捉えたか、川を山の使いと捉えたかは保留です)
稲作(漁労)民は山を太陽に近い、神(男神)のヨリ代ととらえ巫女をつかわしたのではないか。

垂仁天皇の皇后、狭穂姫命は火中で誉津別皇子を生みます。
言葉を失った彼は、出雲で言葉を取り戻した後、肥長比売と交わりますが、
彼女は蛇体でした。彼のお話はそれで尻切れのように終わりますが彼に縄文→出雲へ繋がる血の流れを感じます。

皇子が気にとめた鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越へと飛びますが、この地域が縄文祭祀を引き継いだ弥生中期から弥生後期の出雲系古大和の勢力圏であったのでは思います。

長野で銅戈の出土した柳沢遺跡は千曲(信濃)川水系は、太平洋側の水系と違って鮭が遡上します。縄文中期から始まる寒冷化に、おそらくは人口が増えすぎた中部の縄文文化は晩期に崩壊に至りますが、鮭が登る日本海側の水系には人々が残りました。
弥生中期が東北長野(千曲川水系)では水耕稲作の革新期にあたり、銅戈を持ち込んだ集団と水耕稲作が大きく関連したと思われます。
柳沢遺跡からの出土は北陸の小松式と在地の栗林式ですが、栗林式は縄文の影響が色濃くみられる土器です。
この地に銅戈をもたらした勢力は在地住民と融和策をとる事が出来た。
つまり縄文系の文化思想体系をなんらかに残していたのではないか。
そう思っています。

[8732] Re[8718]: ミシャグチとアラハバキ   2008/02/10(Sun) 00:46 [Reply]
>  おっしゃる通り戦後です。1941年に建てた家の天井裏から出たそうですから。
>  手元に『和漢三才図絵』や戦前までの論文・発掘資料などの資料だけであれをつくれたのなら凄い創造力です。何か元の資料があれば、それを開示してほしいですね。ひょっとしたら、アラハバキの神が降りたのかも。

 偽書であることが明らかになっても、「アラハバキ=遮光器土偶」というアイディアは複数の漫画で採用されてましたね(『ヤマタイカ』とか『石神伝説』とか)。アラハバキは(東北ではなく)関東で主に信仰された神ですから、これもないとは思いますが。


>  対馬では銅戈の出土と賽の神の祭祀場所とは共通点が多いと、『日本の神々1』で永留久恵氏が指摘しています。銅戈の呪力で邪神や悪霊を追い払ったのでしょう。

 春成秀爾氏は永留氏の説を受けて、対馬で銅矛の出土が異常に多いのは、対馬が日本の入り口だから守りを固める意味があったのではないかと説いてました(『農耕文化と古代社会』「銅鐸の埋納と分布の意味」)。いずれにしても銅矛には道祖神的な機能があるようです。

[8731] Re[8717]→卑弥呼と弥生祭祀  かたばみ [Url] 2008/02/09(Sat) 23:15 [Reply]
以下直接のコメントになっていませんが、大きな流れの前後左右を眺めながらの青草長文ご容赦。

出雲の系譜をみますと巫女であることを思わせる名がなく、男巫であろうとみえるのが事代主命。
ただし八島士奴美命以前の出雲神族では宗像三女神などがある・・これがスサノオ尊系譜であるかどうかは?なれど。
(朝鮮半島では巫女と男巫がありますが、この流れについては浅学につきパス)

天孫系譜の神武〜懿徳(后あるいは母は出雲系)では巫女らしきは見えず。
懿徳の兄弟から「磯城」を付する人物群が登場し、その系譜に意富夜麻登玖邇阿禮比賣命がある(意富オホに注目、懿徳とは異なる母)。
別名が蠅伊呂泥、ひどい文字を使ってますが対立する系譜からの当て字かな。
ハエとは南風のハエだと思います(日向宮崎沿岸にハエの地名が複数残存)。

意富夜麻登玖邇阿禮比賣命は孝元204-225(持論年代)の后となってその娘が倭迹々日百襲姫。
すなわち後漢書にいう倭国争乱の時代になにかの勢力の変化があったとみえます。
(あるいは記紀がある系譜だけを書いて、北九州系天孫系譜を削除している)
「倭」を付する重みのある名を持つ姫の登場、強い権限を持つ巫女だとみています。

ひょっとすると・・みな「女王」であって、孝昭、孝安、孝霊、孝元は女王に従う存在だったのではないかと思っています。
これらの諡は平安あたりに付されたとされるようですが、それでも当時には現在よりはるかに多くの情報が残されていて、それに元ずく諡であればその文字に意味がある可能性が大きい。
「孝」とは親孝行の意、女王(巫女)につくす夫の意・・ここでは血縁関係すら怪しいかもしれない。
魏志倭人伝が書くとおりの状況がここにあった可能性十分あり。

垂仁まで「倭」を付する姫が登場し、垂仁の娘では倭姫のみの名となって以降消えます。
「強い力を持つ巫女」から伊勢齋宮(齋王、権限を持たぬ奉仕する巫女)への変化があったのだと思います。


北九州は最新文化のシャッフル地域であり中国文化の影響を多大に受ける、いわば先進地域です。
そこに縄文の流れを引く母系社会が残っていたとはいささか考えにくく、強い権力を持つ巫女も存在し得ない地域だと考えています。
卑弥呼の国は北九州にあらずと考える理由のひとつがここにあります。

倭国の頭領になるには「倭国連合を統率できる国力を持つ国」の王でなければ混乱は増すだけ。
男王を立てたが乱れたわけで、国力十分の邪馬臺国の王(女王)を擁立する以外にはなかったのだと考えています。
寒冷化の時代、飢饉の時代に国力を保てるのは農耕も「まだ無事」であろう温暖で人口過密ではない地域。
母系社会類似が残って女性が首長でありえる地域、いろいろが日向〜宮崎を指し示す(^^;
(魏志倭人伝の文言も包含できる)

日向宮崎には近年まで焼き畑農耕が残っています、むろん南方系文化であり自然が豊かでなければできない。
場所を変えてまた戻ってくる焼き畑の象徴化、それが伊勢の遷宮だと考えています。

卑弥呼の祭祀はいかなるものか、鬼道とはなにか。
現在資料確認がやりにくいので略しますが、中国戦国時代の楚の祭祀だとみております。
楚の鬼道に関する竹簡が出土しており、ここには「鏡を用いて鬼を防ぐ」などの話が書かれています。

魏志倭人伝では「鬼道で民を惑わす」とありますがそれは魏側の見解。
楚文化は三国志時代の呉や蜀など南方系文化のベースであり、北方系の魏が敵方の祭祀をほめるわけがありません。
(天孫降臨時代がいつかがありますが、「降臨時の天孫」もほとんどが楚文化であったとみています)

卑弥呼本人が南方系文化であっても倭国連合にあっては皆の意見を聞かねばならない。
呉は遠く魏は近く、プレゼントももらった(^^;
卑弥呼が「楚の鬼道の重要な祭祀具である鏡」をほしがるのは当然でもあります。
開化や崇神が卑弥呼系であればやはり鏡を重視するでしょう・・大量の三角縁神獣鏡の登場。

続く
すいません、書込ミス8730削除お願いします

[8730] Re[8717]6@ :  かたばみ [Url] 2008/02/09(Sat) 23:05 [Reply]
> かたばみさん、はじめまして。
> >大物主命は蛇、倭迹々日百襲姫は人間界の巫女。
>
> 現人神(あらひとがみ)と言われたかつての諏訪上社の大祝は少年にその資格がありました。
> 伊勢斎宮を太陽神に仕える巫女としますと、そこから想定される初期の太陽神は男神であったろうと思います。同じように少年に資格があった諏訪の大祝も、元にあった信仰とは大地母神に仕える司祭者であったと思っています。 それが出雲系社会の伝統を継承したものであったなら、大国主も元は出雲系社会の最高神たる大地母神(蛇神)に仕えた司祭者であり統治兼務者。
> それが現人神、神そのものと意識される事によって、大地母神であった蛇神とも一体化したのではないでしょうか。
>
> > 男根と女陰の結合でもある箸墓伝承、出雲文化と天孫文化の当時のありようが形を変えた壮大な道祖神、なのかもしれません。
>
> 大地母神を信仰上の最上位に抱く社会(縄文からの影響を受ける)と、太陽神を最上位に抱く社会の統治権の入れ替わり、あるいは共立による祭祀の習合の影響が三輪山周辺の伝説を生んでいるのではないかと思います。
> “魏志倭人伝”において卑弥呼に食事を運び、伝達を職とする1人の男性がいたと、記録されています。
> 当時の統治(祭祀との複合)形態がすでに出雲系社会との共立の上になりたっていたのではないかと考えたとき”事代”というのがその男性の職名ではなかったかと思います。
> 時代は下りますが顕宗紀に阿閉臣事代が任那に遣わされ、日月の神の託宣を受けています。
> 阿閉は食に通じますし、同族に膳氏も輩出する大彦命の系譜がこの役職、事代だったのではないかと考えます。 
> 大彦の母は鬱色謎命。兄の鬱色雄命は先代旧事本紀で「活馬の長沙彦の妹、芹田真稚姫を娶り」とあって、この長沙彦が長脛彦の事であったなら鬱色雄命が記紀神話上の”饒速日命”と重なります。
> このウツシコオにも通じるかと思うのですが、ウズヒコ、ウツヒコは尊称ではなかったかと思っています。
> 記紀神話において神武軍が海上で出会う宇豆彦と国譲りのさいの事代主が似ます。
> 出雲大社近くの命主神社社殿裏の大岩の下から銅戈とヒスイ製の勾玉が見つかっています。
> 椎根津彦命を祭る神戸の保久良神社にも岩座群があり銅戈が出土しており祭祀上の類似が見られます。
>  出雲−若狭−近江−大和−摂津−河内−紀伊−播磨あたりを結んでいた出雲系の弥生中期の勢力が鬱色雄命、鬱色謎命に繋がり、その血を引く大彦命が出雲系の司祭を継承し、女王国の事代(職)についていたのではないかという考えです。
>

[8729] Re[8716][8713][8715]: ミシャグチとアラハバキ  かたばみ [Url] 2008/02/09(Sat) 18:14 [Reply]
>シヴァは主にカーストの低い人々に信仰されたそうですから、本来は征服された先住民の神なのでしょう。

シバ神の源流については浅学につきおいておきますが、征服者の神です。
多数の姿を持つとされますが、その必要があったのです。
被征服部族の様々な神や英雄をシバ神が姿を変えた存在であるとしてシバ神に吸収統合するためです。

そして、被征服部族(一般に下級カースト)にもシバ神が浸透してゆきます、征服者の作戦成功といったところ(^^;
これはどこでも常套手段、某国での「最高神」登場でも似ているかも・・太陽神のようでもあり男神のようでも女神のようでも、荒でも和でもある・・

[8728] 大彦命系図  くず 2008/02/09(Sat) 14:06 [Reply]
ありがとうございました。[8720]、[8722]〜[8727]の僕の書き込み削除をお願いします。
全角英数字、全角記号の1ドットに対し、全角漢字は約1.5倍に表示されるようでした。

                 ┌―倭迹迹日百襲媛命
          倭国香媛  ├―彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)
 押媛         ‖――┴―倭迹迹稚屋姫命
 ‖―――大日本根子彦太瓊尊 
日本足彦国押人尊 (孝霊天皇)
(孝安天皇)      ‖―――大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)
           細媛命       ‖――┬―大彦命(阿倍臣・膳臣・阿閉臣等祖)
                   欝色謎命  ├―少名日子建猪心命
                          ├―稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)
                          └―倭迹迹姫命 

[8721] Re[8720]: 大彦命系図  神奈備 2008/02/09(Sat) 09:04 [Reply]
>> 夜麻登母母曽毘売の命の一代上の年代ですから、つじつまはあうのかも。

大彦命が一世代若いですね。

夜麻登母母曽毘売の命が一代上の年代ですから、つじつまはあうのかも。

[8720] 大彦命系図  くず 2008/02/08(Fri) 23:10 [Reply]
                ┌―倭迹迹日百襲媛命
           倭国香媛 ├―彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)
 押媛         ‖――┴―倭迹迹稚屋姫命
 ‖―――大日本根子彦太瓊尊 
日本足彦国押人尊 (孝霊天皇)
(孝安天皇)      ‖―――大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)
           細媛命     ‖――┬―大彦命(阿倍臣・膳臣・阿閉臣等祖)
                 欝色謎命  ├―少名日子建猪心命
                       ├―稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)
                       └―倭迹迹姫命 
投稿画面で確認したのですがずれてしまったので再チャレンジ。
(またずれてたらすみません。)

[8719] Re[8718]: 弥生中期の信仰と賽の神  くず 2008/02/08(Fri) 22:59 [Reply]
>対馬では銅戈の出土と賽の神の祭祀場所とは共通点が多いと、『日本の神々1』で永留久恵氏が指摘しています。
>銅戈の呪力で邪神や悪霊を追い払ったのでしょう。
>命主神社も出雲大社の東側の境界だったのかも知れません。

長野で見つかった銅戈に磐座との直接的な関連は伺えませんが、地理的には善光寺平の北の外れに位置します。
集落の外れで墓群との関連もあると見られ、境界守護の意味もあったのかもしれません。

以前珍彦物語で神奈備さんが、宇豆彦と宇豆女の所作が似るとご指摘されていましたが、
唐古・鍵及び清水風遺跡(弥生中期)等から出土している、性器が描かれた袖振りの巫女と戈と盾を持ち羽飾りを付けた戦士こそが、宇豆女と宇豆彦ではなかったかと思ってます。
尊称としてですけど。
羽振りの巫女 ― 宇豆女―佐用津姫―→道祖神
鳥装の戦士  ― 宇豆彦―猿田彦?―→道祖神 
(青草ですが、猿田彦の鼻の表現は赤面に鳥の嘴をつけていたのではないか^^)


>夜麻登母母曽毘売の命の一代上の年代ですから、つじつまはあうのかも。

系図にしてみました。

               ┌―倭迹迹日百襲媛命
          倭国香媛 ├―彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)
 押媛         ‖――┴―倭迹迹稚屋姫命
 ‖―――大日本根子彦太瓊尊 
日本足彦国押人尊 (孝霊天皇)
(孝安天皇)      ‖―――大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)
           細媛命     ‖――┬―大彦命(阿倍臣・膳臣・阿閉臣等祖)
                 欝色謎命 ├―少名日子建猪心命
                      ├―稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)
                      └―倭迹迹姫命 

倭迹迹日百襲媛命は大彦命の叔母にあたります。
弟に少名日子建猪心命がいて出雲系であることをうかがわせます。
また大彦命は崇神天皇の詔で北陸道に向う途中、神懸りしたと思われる少女の歌を聞いています。
紀ではその後、報告を受けた崇神天皇が倭迹迹日百襲媛命に占わせていますが、
大彦命は神懸りの巫女の事を伝える役をはたしていると言えると思います。

[8718] ミシャグチとアラハバキ  神奈備 2008/02/08(Fri) 20:16 [Reply]
> 間違っていたらごめんなさい。『東日流外三郡誌』はたしか、和田喜八郎という贋作師が戦後になってつくったものではなかったでしょうか?

 おっしゃる通り戦後です。1941年に建てた家の天井裏から出たそうですから。
 手元に『和漢三才図絵』や戦前までの論文・発掘資料などの資料だけであれをつくれたのなら凄い創造力です。何か元の資料があれば、それを開示してほしいですね。ひょっとしたら、アラハバキの神が降りたのかも。


> 出雲大社近くの命主神社社殿裏の大岩の下から銅戈とヒスイ製の勾玉が見つかっています。

 対馬では銅戈の出土と賽の神の祭祀場所とは共通点が多いと、『日本の神々1』で永留久恵氏が指摘しています。銅戈の呪力で邪神や悪霊を追い払ったのでしょう。命主神社も出雲大社の東側の境界だったのかも知れません。

> 大彦命が出雲系の司祭を継承し、女王国の事代(職)についていたのではないかという考えです。

 夜麻登母母曽毘売の命の一代上の年代ですから、つじつまはあうのかも。

[8717] Re[8712][8710][8709][8708]: ミシャクジと道祖神  くず 2008/02/07(Thu) 12:11 [Reply]
かたばみさん、はじめまして。
>大物主命は蛇、倭迹々日百襲姫は人間界の巫女。

現人神(あらひとがみ)と言われたかつての諏訪上社の大祝は少年にその資格がありました。
伊勢斎宮を太陽神に仕える巫女としますと、そこから想定される初期の太陽神は男神であったろうと思います。同じように少年に資格があった諏訪の大祝も、元にあった信仰とは大地母神に仕える司祭者であったと思っています。 それが出雲系社会の伝統を継承したものであったなら、大国主も元は出雲系社会の最高神たる大地母神(蛇神)に仕えた司祭者であり統治兼務者。
それが現人神、神そのものと意識される事によって、大地母神であった蛇神とも一体化したのではないでしょうか。

> 男根と女陰の結合でもある箸墓伝承、出雲文化と天孫文化の当時のありようが形を変えた壮大な道祖神、なのかもしれません。

大地母神を信仰上の最上位に抱く社会(縄文からの影響を受ける)と、太陽神を最上位に抱く社会の統治権の入れ替わり、あるいは共立による祭祀の習合の影響が三輪山周辺の伝説を生んでいるのではないかと思います。
“魏志倭人伝”において卑弥呼に食事を運び、伝達を職とする1人の男性がいたと、記録されています。
当時の統治(祭祀との複合)形態がすでに出雲系社会との共立の上になりたっていたのではないかと考えたとき”事代”というのがその男性の職名ではなかったかと思います。
時代は下りますが顕宗紀に阿閉臣事代が任那に遣わされ、日月の神の託宣を受けています。
阿閉は食に通じますし、同族に膳氏も輩出する大彦命の系譜がこの役職、事代だったのではないかと考えます。 
大彦の母は鬱色謎命。兄の鬱色雄命は先代旧事本紀で「活馬の長沙彦の妹、芹田真稚姫を娶り」とあって、この長沙彦が長脛彦の事であったなら鬱色雄命が記紀神話上の”饒速日命”と重なります。
このウツシコオにも通じるかと思うのですが、ウズヒコ、ウツヒコは尊称ではなかったかと思っています。
記紀神話において神武軍が海上で出会う宇豆彦と国譲りのさいの事代主が似ます。
出雲大社近くの命主神社社殿裏の大岩の下から銅戈とヒスイ製の勾玉が見つかっています。
椎根津彦命を祭る神戸の保久良神社にも岩座群があり銅戈が出土しており祭祀上の類似が見られます。
 出雲−若狭−近江−大和−摂津−河内−紀伊−播磨あたりを結んでいた出雲系の弥生中期の勢力が鬱色雄命、鬱色謎命に繋がり、その血を引く大彦命が出雲系の司祭を継承し、女王国の事代(職)についていたのではないかという考えです。

[8716] Re[8713][8715]: ミシャグチとアラハバキ   2008/02/06(Wed) 15:06 [Reply]
> 萩原秀三郎 鬼の復権(吉川弘文館)が出典です。柱の信仰の謎解きの一環として、書かれていました。

 とみたさん、早速教えていただきありがとうございます! まだ新刊で買えるようですね。


> この土着のリンガ信仰をヒンズー教のシヴァ神が精力の象徴として取り込み豊穣多産の祈願対象とて広い信仰を集めている。

 シヴァの原型らしきものは、インダス文明の印章にも描かれていますね(脚を組んで座り、動物に囲まれた角のある神)。シヴァは主にカーストの低い人々に信仰されたそうですから、本来は征服された先住民の神なのでしょう。バラモン教の嵐の神・ルドラと習合されたようですけど。


> 明治以降の作成らしい『東日流外三郡誌』には、荒吐神の像を遮光器土偶の形にしています。

 間違っていたらごめんなさい。『東日流外三郡誌』はたしか、和田喜八郎という贋作師が戦後になってつくったものではなかったでしょうか?

 吉野裕子氏の『日本人の死生観』によれば、島根では荒神(御神体は藁蛇)を別名「アラハバキ」とも呼ぶそうです。ミシャグチとアラハバキ、また大元神は、本来似たような神だったのかも知れませんね。

[8715] 石棒型の道祖神  神奈備 2008/02/06(Wed) 14:06 [Reply]
五来重著『石の宗教』から
 石神である石棒や石杵は男根女根の石の模型であり、祖先のシンボルだった上に、道祖神として祀られていました。
 芭蕉の『おくのほそ道』に
 そぞろ神の物につきて 心をくるわせ、道祖神のまねきにあひて 取るものも手につかず
とあり、旅の神とされたのは珍しいケースで、男女和合、子孫繁昌などの信仰があったようです。

 面白いのは、石棒型の道祖神は荒帚神(あらはばき神)といい、東北地方の叢祠で、戦前までは男根形の石棒を山のように奉納してあったそうです。男女和合から性病の神になったそうです。
 以上は『石の宗教』から

 荒帚神はそれを祀る神社は三河以東以北に鎮座しています。石棒型の道祖神を荒帚神とする理由は石棒が多く奉納されていたからとしていますが、明治以降の作成らしい『東日流外三郡誌』には、荒吐神の像を遮光器土偶の形にしています。この神に唱え奉る唱文は「ホーイシャホー アラハバキ カムイ イシカ ホノリ ・・」とあり、イシカは女神のことだそうですが、石垣・石巻などに転訛していき、石神ともされたのかも。

 また、谷川健一著『白鳥伝説』には、アラハバキは土地の精霊で地主神であって、後から来た神に地位を奪われ、客人神となった。アラハバキは元は賽の神であったので、門神となった。したがって門客人神となったと記しています。

 いずれにしても、賽の神とは石神であり、境界の守護神でもあったのです。

[8714] ミシャクジと道祖神(訂正)  とみた 2008/02/06(Wed) 11:23 [Reply]
またミスりました。単純ミスで訂正します。相済みません。

>鳥取県西部の因幡と東部の伯キ

鳥取県東部の因幡と西部の伯キ

>インドにアーリア人がリグベーダやバラモンの教えを持ち込む紀元前100年ぐらい前でしょうか

紀元前100年でなく、紀元前1000年です。騎馬民族のアーリア人が北方から紀元前1500−前1000ぐらいにイランとインドの西北部に侵入し、さらに紀元前数百年前に東のガンジスの方に移動します(私の頭の記憶ですから、多少のずれは勘弁です)

[8713] ミシャクジと道祖神  とみた 2008/02/06(Wed) 11:11 [Reply]
豺さん

 >萩原氏のミシャグジ論は初めて見ました。とても興味深い内容ですね。全文を読んでみたいので、よろしければ出典を教えて下さい。

萩原秀三郎 鬼の復権(吉川弘文館)が出典です。柱の信仰の謎解きの一環として、書かれていました。

道祖神については、鳥取県淀江町(米子市に合併)教育文化事業団で出された伯キの国のサイの神さんの本に面白いことが書かれています。
県の西部の因幡と東部の伯キで趣が違うようです。因幡では樹木・祠・自然石をご神体とし、山道や峠・村境などに祀られています。
伯キでは因幡で見られない形のサイの神がたくさんあります。
石に神様の姿(男女像)を掘ったものが348もある。石に神様の名を彫ったもの23、因幡と同じ樹木・祠・自然石もあるそうです。

サイの神の信仰は、・・・悪者やはやり病は道を通って村の中に入ってくると信じられていました。そこで峠や村境、分かれ道、橋のそば等にサイの神をまつり悪者が入ってこないようにふせぎとめたのがサイの神の始まり。

天孫降臨の神話でニニギが天のやちまた(分かれ道)に出迎え地上に道案内した猿田彦命もサイの神さんでしょう。中国では旅に出るとき道祖神を祀り旅の安全を祈りました。これが日本に伝来し平安時代にこの風習が広まりました。

中公新書に森本達雄さんのヒンズー教の著作があります。

その中に、インドにアーリア人がリグベーダやバラモンの教えを持ち込む紀元前100年ぐらい前でしょうか。それより前には、リンガという男根信仰があったようです。

現在も街角に男根の石像〔リンガ〕があり、若い女性が願い事をつぶやきながら
黒光りのするリンガの丸い頭をいとおしげに撫で、その手で自分の腹部を押さえてる光景に出合った、淫靡な感じはせずマリヤ像の前に跪く西洋絵画の乙女を感じたと語っています。

この土着のリンガ信仰をヒンズー教のシヴァ神が精力の象徴として取り込み豊穣多産の祈願対象とて広い信仰を集めている。

韓国でも古代は村のお祭り(祭天儀礼)には自由恋愛が行われ、これを中国の史書は、淫乱と称した。中国南方の少数民族で今も残る歌垣も男女が歌の掛け合いで恋愛する。性にはそんな自由さがある。

儒教の道徳主義で性文化をみると美風良俗と婚前純潔が正いいのでしょうが、もっと古代人は性には大らかであり豊穣を祈っていたのでしょう。

明日香の飛鳥川に架けた勧請縄に男女のシンボルがつけてあります。これも村に魔物が入ってこない魔除け説と、豊穣のためという説があります。

道祖神の一つでしょう。




[8712] Re[8710][8709][8708]: ミシャクジと道祖神  かたばみ [Url] 2008/02/06(Wed) 09:51 [Reply]

神域である三輪山、その麓にある大三輪神社、大三輪神社は「境界」であり祀られるのは自然界(三輪山、蛇)。
大物主命は蛇、倭迹々日百襲姫は人間界の巫女。
男根と女陰の結合でもある箸墓伝承、出雲文化と天孫文化の当時のありようが形を変えた壮大な道祖神、なのかもしれません。

出雲の象徴はしめ縄にも代表される蛇、少なくとも当初は縄文文化の流れを濃厚に含む文化だったと考えています。
出雲の佐太神社の神蛇(東アジアの古代文化より)
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/07/sata01.gif

弥生中期以降の寒冷化によって諏訪の人々(古い出雲文化とみる)は関東と東海へ南下していった。
(建御名方命の約束を破ったことになる)
碓氷峠を東へ越えた群馬県安中市と富岡市に咲前神社と貫前神社があり、建御名方命と経津主命が戦ったことが縁起になっています。

[8711] 世界規模でみやしょうぜ     癪 爺 ぃ 2008/02/06(Wed) 06:23 [Reply]
 ポルトガル語に saita(出口)これあり。
 わが育ちのふるさと、稲築町の出外れにサイタ(才田)がある。

 十年ほどまえ、出羽三山に蜂子王子の似顔絵があるはず……と、手紙だしたら「宝積寺」さんから「シラン」いうて返事がきた。(xo ; 聖なる空虚)。

 もいっぺん書く、ネパール語 sait(吉兆)+ iya , iyo が小夜、サヨ。
 斉藤さん、瀬藤さんもこの範疇なるべし。 -au(△△する) ・ -ou 。

 セ ……、壱岐ではセーンガミ。妹尾(セノオ)、セミにも。

[8710] Re[8709][8708]: ミシャクジと道祖神  かたばみ [Url] 2008/02/06(Wed) 00:17 [Reply]
東京の石神井シャクジイの近辺在につき・・
石神井の初見は南北朝時代あたりの「石神井郷相伝系図」のようです(原文未確認)。
井は井戸を掘ったら石棒(石剣)がでた、あるいは石神が「居た」などいろいろあるようですがおそらくは同義。
石神をシャクジと発音していたのが地名に残ったものであろうことは想像できそうです。

石棒系であれば豊穣であり、石神系であれば境界であり、これの複合が道祖神の源であろうと考えています。
シャクジの発音と概念がいつ頃からのものかは検討がつきませんが、関東においては諏訪の建御名方命系譜の関東進出とつながる可能性をみています(ミシャグチ神→蛇説)。

常陸国風土記に「夜刀の神」(角を持つ蛇)がマタチなる人物の耕地をめぐって争い、マタチが境界に祠を置いて相互不可侵と夜刀の神を祀ることを約束する話があります。
ここでは、蛇は自然界を示し、人間界(農耕地)との境界に蛇神を祀ったものと考えています。
(蛇は男根の象徴でもある)

[8709] Re[8708]: ミシャクジと道祖神   2008/02/05(Tue) 23:36 [Reply]
> 民族写真家或いは民族芸能研究家として東アジアを広く研究されている萩原秀三郎氏(国際日本文化研究センター研究員)の説を紹介します。

 萩原氏のミシャグジ論は初めて見ました。とても興味深い内容ですね。全文を読んでみたいので、よろしければ出典を教えて下さい。


> 道祖神は単なる防塞神ではなく、ムラ立ての始祖神としての伝承とともに、子孫繁栄や生殖と結びつく。

 やはり始祖神としての性格もあるんですね。近親相姦も始祖説話に多いモチーフですし、地方によっては道祖神をイザナギ・イザナミと同一視しますし……(『道祖神のふるさと』)。
 でも、始祖が道の守り神でもあるというのは不思議な気がします。『怪』の論文では、
「始祖は始まり=入り口の神なので、境界の守り神にもなるのではないか」
 的な結論でしたが、それだけでは説明できないような……。始祖と境界には何か特別な結びつきでもあるのでしょうか?

[8708] ミシャクジと道祖神  とみた 2008/02/05(Tue) 20:46 [Reply]
民族写真家或いは民族芸能研究家として東アジアを広く研究されている萩原秀三郎氏(国際日本文化研究センター研究員)の説を紹介します。

長野県下の民族事例として正月に集中する柱立ての代表は、道祖神柱である。酉の祭りのミシャクジ神は中部山岳地帯を中心に関東に広がる道祖神と関連する神で、ミシャクジとは道祖神とみてほぼ間違いない。道祖神はムラで一番古い神様でムラの先祖神であるとか、夫婦神で先祖であるとかの伝承が多くあり、文化の起源にかかわる始祖神であることが確かめられている。

そこで注目されるのが信濃の真ん中・中信地方に分布する〔オンバシラ〕とか〔オンベ〕と呼ばれる道祖神柱である。

隣接する山梨県の道祖神祭りでは、これを〔神木立て〕や〔ヤマ立て〕といい、御神木には割り竹を垂れ柳のように垂らして御幣をつけた型が多い。長野県南安曇郡三郷村一日市場でみた〔オンバシラ〕には頂に月日が表裏をなして輝き、途中で
杉の葉の陰毛をつけ巨根が下がっている。

道祖神は単なる防塞神ではなく、ムラ立ての始祖神としての伝承とともに、子孫繁栄や生殖と結びつく。

[8707] 語源つかまえないでなにこくかね  癪(シャク)こいた爺ぃ 2008/02/05(Tue) 18:39 [Reply]
 休むにニタリ貝
 東京に上石神井、下石神井。シャクジイと読む。

[8706] Re[8705][8699]: 戌亥と塞ノ神   2008/02/05(Tue) 18:07 [Reply]
> 山口県宇部市奥万倉[二ツ道祖](ふたつざや)
> 山口県岩国市本郷町本谷延ケ原‐岡之迫 [道祖峠](さやのたお)
> 栃木県真岡市[道祖土](さやど)
> がありました。
> これに神奈備さんの
> 岡山県井原市上稲木町(備中国小田郡)鎮座の道祖山神社
> 茨城県下妻市高道祖(たかさい)神社・道祖神(さやのかみ)祭

 神奈備さん、くずさん、ありがとうございます! 栃木とか茨城とか、東日本にもあるんですね。

 そう言えば静岡県の「小夜の中山」にも、小夜姫の伝説がありましたね。妊娠中に峠の山賊に殺されて、生まれた子供が夜泣き石の傍で泣いていたという。夜泣き石と呼ばれる石には境界石の性格があるそうですから、この小夜姫も多分道祖神でしょう。


 シャグジ(「シャグチ」とも)の語源は柳田国男の言う通り、
「さく(裂く・避く)」+「ち(霊)」
 でいいんじゃないでしょうか? 兵庫県の「坂越(しゃくし)」という土地に「大避(おおさけ)神社」があるのも、シャグジと「避く」との結びつきを示しているのではないかと。

 シャグジは謎の神ですが、道祖神説はかなり有力視されてますね。土地の開拓神という性格もあるので、すっきり解決とはいきませんが。

[8705] Re[8699]: 戌亥と塞ノ神  くず 2008/02/05(Tue) 11:45 [Reply]
> 新幹線さん、
自分なりにも調べてみましたが解りませんでした。ありがとうございました。

サンスクリット語起源では繋がらないようですが、自分がシャクジ−将軍−境神(塞ノ神)が繋がる事に興味をそそられた理由の幾つかです^^

地元の"ドンド焼き"の前に子供達が各戸をまわった時の唄がありまして、
 「せいの神のかんじょ ぜにでも金でもわくわくと 戌亥の隅からわくわくと」
と歌います。
ここに境神と戌亥。

京都愛宕神社は火伏せの神であるとともに京の戌亥の方角の守護。
神仏習合時代には勝軍地蔵を本地仏としていました。

戸隠もまさしく善光寺の戌亥方向。
戸隠宝光社の本地仏も同じく勝軍地蔵で、火伏せの神、秋葉神社の三尺坊はこの宝光社で産まれたと伝えられています。

諏訪、御室神事では室の破風を板で塞いだとありますが、それが戌亥方向であったようです。
破風を塞ぐのは弥彦の弥三郎婆(妙多羅天女)伝説や渡辺(源)綱の鬼退治に関連しているようで、渡辺綱が羅生門の鬼を切った鬚切(鬼切)は信州戸隠山の鬼を多田満仲が退治したときの刀とも言われます。『太平記』

また韓国で村境を守護するチャンスンには「天上大将軍」「地下大将軍」等と書かれます。
http://www.koreanculture.jp/mame_view.html?page=1&number=57&keyfield=&key=
この将軍(大将軍)が各地の神楽の曲目「将軍」や、大将軍(方位神)として日本に伝わっているようです。
[神楽「将軍舞」の解説]
http://www.ichimon.jp/book/?md=2&st=6&px=1&vw=2&au=0106
[大将軍(方位神)]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D_%28%E6%96%B9%E4%BD%8D%E7%A5%9E%29

>豺さん、
>「九州性崇拝資料」古本市場で調べても最低8400円、高くて買えません(><)
図書館で探してみます。

>九州以外で「さや」と読む例をご存じの方は教えて下さい。

山口県宇部市奥万倉[二ツ道祖](ふたつざや)
山口県岩国市本郷町本谷延ケ原‐岡之迫 [道祖峠](さやのたお)
栃木県真岡市[道祖土](さやど)
がありました。
これに神奈備さんの
岡山県井原市上稲木町(備中国小田郡)鎮座の道祖山神社
茨城県下妻市高道祖(たかさい)神社・道祖神(さやのかみ)祭

>父子相姦説話
韓国の説話。
張という宰相が妻を失い、淋しさのあまり娘と通じたので、王は張を処刑し、見せしめのために、その像を立てるように命じたのがチャンスンである。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other-folk/sainokami.htm


[8704] Re[8696]: 縄文の意識の嵐  神奈備 2008/02/05(Tue) 09:59 [Reply]
> 伊太祁曽神から日前・国懸神へ代わったのは、祀る紀氏も代わったと考えられないでしょうか?

 紀氏の祖として武内宿禰の名がありますが、彼は傍系と云うか、男系の後裔ではありません。母系です。紀の国の国造の紀直が途絶えた際、武内宿禰の子孫である紀朝臣家から養子が出て紀直を後継しています。

 紀朝臣は紀ノ川北側にいた豪族でしたが、早々に時の中央の大和に出て、河内・平群・山城国紀伊郡付近に展開していたようです。淀川や大和川の水運を握っていたともされています。この中央の紀朝臣は、名草郡に祀っていた素盞嗚尊・五十猛神には未練がなく、天皇家と同じくの天照大神を祀っていたかったのでしょう。

 神話・伝承のお話と絡んでいるので、何処までが事実なのかはよくわかりません。

 祖神を取り替えるとは自身のアイデンティイに関することですから、そう簡単ではないでしょう。谷川健一著『白鳥伝説』の冒頭に、奥州秋田家は華族に列し、宮内庁への系図提出の話が紹介されています。その中には祖先をあの長髄彦の兄の安日彦としています。余談ですが、「異族の末裔たることを誇らしげに公言する秋田氏の胸中には「縄文の意識の嵐」が吹いていたに違いない」と谷川氏はコメントしています。

 出世・世渡りの為に祖神をないがしろにするのは氏族の恥のはずです。そのうな意味から、正体不明の国懸大神とは本当の祖神の伊太祁曽神のことだったのかも知れません。

[8703] みなべ  縄文の風 2008/02/04(Mon) 22:17 [Reply]
木の国南部(みなべ)は、さすが梅満開でした。3日の日にいろいろ見てまわろうかなと考えてましたが、家のある月ヶ瀬は、雪で道路ストップと聞いて、(みなべは雨)やめにしました。残念、せっかく紀州にきたのに、どこにも寄らずホテルの温泉のみ入ってきました。と言うわけで、報告記ありません。見ないうちにサヨとかエロエロ盛り上がってますね

[8702] Re[8700]: サヨヒメその2  神奈備 2008/02/04(Mon) 21:44 [Reply]
>  ちなみに「道祖」と書いて「さえ」「さい」と読む例はあちこちにありますが、「さや」と読むのは佐賀や長崎など、九州限定のようです。九州以外で「さや」と読む例をご存じの方は教えて下さい。

 例と言えるのかどうかですが、岡山県井原市上稲木町(備中国小田郡)鎮座の道祖山神社は「どうそやまじんじゃ」と読みますが、通称として、「さやまさま」の読みが残っています。

[8701] Re[8699][8698][8697][8695][8692][8686]: サヨヒメ  神奈備 2008/02/04(Mon) 21:43 [Reply]
新幹線さん サンスクリットについて教えて頂きありがとうございます。

シャクジの神は列島の古層の神の名だったと思います。

サンスクリットはどの程度列島の言葉(アイヌ語や沖縄の言葉)に残っているのでしょうか、これなどが解明されてほしいものと思います。

[8700] サヨヒメその2   2008/02/04(Mon) 17:06 [Reply]
 サヨヒメ信仰については、『九州性崇拝資料』という本がくわしいです。かなり昔に自費出版された本なので、図書館でもなかなか見れませんが……。

 それによれば、サヨヒメさんについてはだいたい似たような内容の父子相姦説話が伝えられているようです。
「ある男が娘を連れて旅をしていたが、娘が疲れて動けなくなる。父が娘を犯すと、娘は元気になる(なぜ?)。でもしばらく行くとまた歩けなくなり、父に『もう一回』とせがんだので(……)、怒った父はこれを斬殺(!)。土地の人はこの娘を憐れみ、道の守り神として祀るようになった(……??)。」

 東日本には兄妹相姦型の道祖神説話がありますが、それとはまた全然違います。なんというか九州人としては、こういう話が九州にあるということは秘密にしたいようなお話です。

 ちなみに「道祖」と書いて「さえ」「さい」と読む例はあちこちにありますが、「さや」と読むのは佐賀や長崎など、九州限定のようです。九州以外で「さや」と読む例をご存じの方は教えて下さい。

[8699] Re[8698][8697][8695][8692][8686]: サヨヒメ  新幹線 2008/02/04(Mon) 14:25 [Reply]
私は昔、仏教系の学校で少しサンスクリットを学んだことがあります。
しかし、シャグジなどという境神は見たことも聞いたこともなく、Google
で検索してもそれらしいヒンドゥ神(あるいはヴェーダ神)はなさそうです。
シャグジに近い神といえばShakti(Sakthiとも表記される)くらいで、これは
「力」の女神なので違うでしょう。

「境」「境界」は普通simaかsimanta(髪の分け目という意味もある)。

> 「境神はサンスクリット語でシャグジと呼ばれ、漢字で「将軍」と当てられた・・・」
> http://www.geocities.co.jp/Athlete/4001/yama8.htm
> とあって個人的には驚愕しています(笑)
>
> サンスクリット語の境神がシャグジとは本当なのでしょうか??

[8698] Re[8697][8695][8692][8686]: サヨヒメ  くず 2008/02/04(Mon) 00:37 [Reply]
> 『平成CD』には、お書きの神社は出てきません。それらしいのは以下に。

ありがとうございます。
松浦のサヨ姫ですから、肥前中心に祭られていますのは至極自然といえましょうか。

もっとも地元の道祖神信仰から鑑みますと、道祖神はある意味最も身近な地域民間信仰で、
神社から探すのは困難なのかもしれません。
路傍の石で作られた道祖神の他に、集落の集会場などに祀られる木造の道祖神さんがあったりします。
現地を歩き、聞き取りを重ねなければ全体像は見えてこないことなのかな。
と思い直しました。

長野の道祖神関係の話の続き。
小正月に焼かれていまう道祖神様の家は2月8日の事始めに立て直されるという一連の信仰上の流れがあって、(実際に立て直すわけではないです)
"道祖神の火事見舞い"に2月8日に藁馬に餅を載せてを引く行事があるそうです。
また南信の話なのですが、2月8日の事八日に、おんべをサンヨリ様と称する神送りの行事があるそうです。
http://www.mis.janis.or.jp/~takao424/hudoki/toutonokamiokuri1.htm

正月のドンド焼き行事。
萱の仮屋を建てて子供達が一晩そこに篭もる風習は、中世まで諏訪前宮で行われたという御室神事との類似をなんとなーくですが考えていました。
で、ネットで見つけた一節。
「境神はサンスクリット語でシャグジと呼ばれ、漢字で「将軍」と当てられた・・・」
http://www.geocities.co.jp/Athlete/4001/yama8.htm
とあって個人的には驚愕しています(笑)

サンスクリット語の境神がシャグジとは本当なのでしょうか??

[8697] Re[8695][8692][8686]: サヨヒメ  神奈備 2008/02/03(Sun) 22:01 [Reply]
> これによりますと北九州に分布するようですが、九州の実際の分布域は解りますでしょうか?

『平成CD』には、お書きの神社は出てきません。それらしいのは以下に。

田島神社摂社佐與姫神社「佐與姫命」 佐賀県東松浦郡呼子町大字加部島3956 肥前国 松浦郡
佐代姫神社「佐代姫」 佐賀県伊万里市山代町立岩430 肥前国 松浦郡
佐代姫神社摂社佐代姫塚「佐代姫」 同上
八幡神社「合祀 佐用比賣命」 長崎県南高来郡有明町小原名字久保乙950番地1 肥前国 高来郡
八幡神社摂社佐用神社「佐用比賣命」 同上
温泉神社「合祀 佐用都姫命」 長崎県南高来郡有明町大三東丁531番地 肥前国 高来郡
射手引神社摂社小夜神社「小夜姫神」 福岡県山田市大字上山田1539 筑前国 嘉麻郡

[8696] 紀氏の分裂・・・  和歌山(橋本) 2008/02/03(Sun) 20:22 [Reply]
 紀氏が朝臣と直に分かれ、或いは全国に紀氏が散らばっていたとすれば、伊太祁曽神から日前・国懸神へ代わったのは、祀る紀氏も代わったと考えられないでしょうか?つまり伊太祁曽神を祀る紀氏から日前・国懸神を祀る紀氏へと代わった。集団・組織であれば内部分裂等により分かれ権力闘争が起きるのは一の世も同じ。

[8695] Re[8692][8686]: サヨヒメ  くず 2008/02/03(Sun) 18:23 [Reply]
>豺さん、神奈備さん、

サヤ、サヨを性神とし陽物(男根)が祀られている例があるようですね。
ネットで性神を調べられているサイトがあったので、サヨ、サヤ関係を抜粋してみました。
http://www.geocities.jp/konseisamaweb/seishin.html

 長崎県 佐屋の御前(大村市)、佐代姫神社(佐代姫稲荷権現社)(北有馬町)
 大分県、佐用之神(宇佐市)、佐屋ノ元の山神社(豊後高田市)

これによりますと北九州に分布するようですが、九州の実際の分布域は解りますでしょうか?

*****************************************
 [神奈備掲示板の平成12年11月ログ、あかがねさんの投稿より。]

茨城県下妻市には、高道祖(たかさい)神社があります。(地名もたかさいです。)
「さやりぼう」と呼ばれる男根型のもちを夫婦で作り、奉納すれば夫婦円満になるという祭りがあります。境内にも大きな石像があるようです。
近くには道祖(さや)神社があり、同様の祭りを行っているということです。
*****************************************

とありましたので、
サヨ、サヤを道祖神とし男根を祀る。これは全国的なものかもしれません。
(が、自分の住む長野も道祖神は本場のようですがサヨ、サヤはまだ聞いた事がありません。)

今回の自分の興味は、弥生中期の銅鐸銅戈の祭祀とその祭祀を行った司祭者にあります。
唐古・鍵の両袖を振り上げた巫女には性器が描かれていますので、サヨと男性器が結びつくのは興味深くもあります。

サイの神、道祖神の話、
中部地方の例に漏れず、ここ長野、戸隠でも道祖神の信仰は盛んで、1月14、15日は各集落でドンド焼き、道祖神祀りが行われます。
人口減、若者減でお祭りのほうは簡略化(一部では観光化)を余儀なくされていますが、
このドンド焼き行事の最大の意味とは道祖神に仮の御社を萱で設営し、その社を燃やす事にあったと考えています。
燃える仮社から道祖神を助け出すのはその集落の子供達(男子)の役割でした。

まだ青草域ですが、
記紀で語られる木花咲耶姫や狭穂姫命(垂仁紀)に繋がるような古い祭祀が基層にあるのかもと思っています。

[8694] 紀氏の祖神は伊太祁曽か?  和歌山(橋本) 2008/02/02(Sat) 22:11 [Reply]
〉吉備国名方に遷ったと言う話は知りませんでした

 何かの本に書いてあったのだが思い出せない。たぶん間違いだと思う。
 
 奈具神社というのが京都にある。豊宇賀比売を祀っている。

 元々伊太祁曽神は紀国造が祀っていたのであるから紀氏の祖神は伊太祁曽神かも知れない。太陽神に乗り換えたか押し付けられたか?岩橋千塚古墳群は紀氏のものとされるが確証はない。

[8693] Re[8690]: 吉備は紀伊国内?  神奈備 2008/02/02(Sat) 18:05 [Reply]
> 日前・国懸神は琴の浦から浜の宮に移り吉備国名方、そして万代宮に鎮座した。

 吉備国名方に遷ったと言う話は知りませんでした。日前・国懸神を『倭姫命世記』の天照大神とすれば、二つの伝承を混ぜたようなことにはなりますが・・・

> 吉備は遠く吉備国ではなくて紀伊国内ではないだろうか?

 吉備国にも岡山県川上郡成羽町の布寄神社など、伝承の跡が残っています。諸説あるのでしょうね。
紀伊国については、以下にまとめています。
http://kamnavi.jp/ki/city/isebekaki.htm
http://kamnavi.jp/ki/nanki/kunituato.htm

[8692] Re[8686]: サヨヒメ  神奈備 2008/02/02(Sat) 15:42 [Reply]
>  九州ではあちこちに「サヨヒメ」または「サヤヒメ」という神が祀られており、そのほとんどは道祖神です。「塞ぐ」という意味の古語「さやる」から来ているという説がありますね。たしか『怪』の18号にそんな論文が出ていました。

 柳田国男さんは、『民俗学辞典』の中で、「佐用姫は道祖神の信仰に通じる」と述べているそうです。
 先に道祖神の賽神(サイノカミ)があって、これから佐用姫悲恋の伝説が生じたとも記しています。
 
 松浦佐用姫の意義をは、「佐用姫のサヨは賽(サヘ)の神を意味し、松浦のマツは神あるいは貴人に対する奉仕を意味する言葉としているようです。
以上は http://sidannkai.hp.infoseek.co.jp/sayohime_m.pdf を参考にしました。

 しかし、『平成祭礼CD』で見ますと、九州での賽神社や道祖神社の祭神には佐用姫の名はなく、また佐代姫を祀る神社には道祖神と思わせるものは残っていないようです。

 それだけに、お書きになっておられる「サヨヒメ」「サヤヒメ」の道祖神を大切にしたいものですね。

[8690] 吉備は紀伊国内?  和歌山(橋本) 2008/02/01(Fri) 23:42 [Reply]
日前・国懸神は琴の浦から浜の宮に移り吉備国名方、そして万代宮に鎮座した。吉備国とされるが、有田に吉備野があり海南市の柿本神社は最初はJR海南駅付近に鎮座していたがここを浜の宮と言った。津波の恐れがあるので遷座したとある。日前・国懸神遷座の話が紛れ込んだのかも!吉備は遠く吉備国ではなくて紀伊国内ではないだろうか?海岸沿いに北上したと考えた方が自然だろう。語呂合わせをすれば紀三井寺の紀三は吉備に通じる。
 海南市には名高、日方という地名がある。「日本後記」には「藤代の宿禰」が見えるが、室町時代の文献に守護代「ふじしろ」が熊野詣での宿の手配をしたとあり、熊野古道を管轄していたようだ。吉原の宿禰の名も見えることから各地域に○○宿禰が1人ずついたのかも知れない。

[8689] 凱旋者  素人 2008/02/01(Fri) 22:36 [Reply]
4.5世紀頃は丸木弓であったと思われますが、強力な大きな弓で弓の三分の一位を持って馬上から発射できる弓は日本の弓しかありません。射法もモンゴル射法と言って弓の右側に番えるモンゴル式の射法です。最近まで流鏑馬や犬追い等の弓射騎兵の訓練が残っています。大変に訓練が必要な弓射騎兵の技術が日本に残っていることを不思議に思っています。大陸の方が来たのなら複合弓の短弓など普通の人には扱えない強力な弓でなくてはなりません。弓は彼らの誇りですから途中で変わることはないでしょう。
大陸での成功体験を持つ者の末裔により伝えられた技術と考えて半島凱旋者による馬・弓射騎兵の伝播を考えた次第です。
高句麗好太王碑に自慢話と日本の大活躍が書かれています。何で敵が嘘を書くのでしょうか。朝鮮にとって都合の悪い真実なのでしょう。中国楽浪郡難民救済作戦で高句麗と戦わされていたのでしょう。
手前味噌の青草です。

[8688] Re[8680][8676]: 地味な銅鐸  素人 2008/02/01(Fri) 21:32 [Reply]
>  水銀を採る丹沙の粉末などで磨くとそれこそきれいな黄金色(白銀色)になったのではないでしょうか。
>
書込み有難うございます。
錫不足などで、奈良の大仏も鋳造に必要な最少量の錫を用いているため地味な銅鐸と同じような錫の成分だそうです。さえない赤銅色だそうです。このために金アマルガム法で水銀に金を溶かして、塗りつけ加熱して水銀を飛ばして金メッキしているようです。銀を溶かせば銀メッキになります。
開眼当時は金ぴかだったと聞きます。
弥生期ですと錫の含有率を上げたほうが簡単そうです。
思い付きですが、錫の高含有率のピカピカの銅鐸等が錫原料として鋳潰されてさえない銅鐸の原料にされたとも考えられます。銅は自然銅として産出したようですから。
少量の錫は鋳造に必須の様です。錫入手が困難との仮定ですが。
青草失礼しました。

[8687] 分遷は分祀かつ移動  神奈備 2008/02/01(Fri) 19:13 [Reply]
> 天武朝頃に中央神の分神である日前神が紀伊大神として新たに設けられ、大宝ニ年にイタキソ三神を各地に遷座させ、日前神が紀伊国名草郡の中心地に鎮座するという処置がとられている。

 伊太祁曽神社が山東に遷座さされたのは『永享文書』によれば、垂仁天皇十六年のことで、現在の亥の杜、三生神社)の場所であったとなっています。『倭姫世記』にあるように、豊鋤入姫命に天照大神を託し、紀の国にやって来たのを契機としたとの認識なのでしょう。
 実際にはもっと後の世だったのでしょう。その段階で日前国懸神宮が名草万代之宮として、現在地に鎮座したのです。


> 702年三神は分遷したがいずれも熊野古道沿いである。

 そうですね。また、伊達神社もふくめて、日前宮から等距離に鎮座しています。これ以上は近づくなと云う処置かも。
 三神分遷は亥の杜からそれぞれ分割されたようです。お書きのように熊野古道沿いですが、この道は紀の国の国道一号線のようなメイン街道でした。
 ついでですが、分遷は分祀かつ移動と云うことです。分祀は可能なのですよ、靖国さん。

 日前国懸神宮の現在地は陸地であったとしましても、古代には紀の川からの溝の出口であり、また波が荒い日には水没しそうな場所で、それほどの場所とは言えず、本当に遷座があったのかどうか疑っています。

[8686] サヨヒメ   2008/02/01(Fri) 15:29 [Reply]
 九州ではあちこちに「サヨヒメ」または「サヤヒメ」という神が祀られており、そのほとんどは道祖神です。「塞ぐ」という意味の古語「さやる」から来ているという説がありますね。たしか『怪』の18号にそんな論文が出ていました。


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