神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成二十年 三月 2008.3)お名前の敬称は省略しています。

[8838] わてほんまに よいわん ワ  紋爺ぃ 2008/03/31(Mon) 19:28 [Reply]
 
 juya juya ナムシを如何せむ。ウン(御)ジュもあとウン年でコ−キ乗り。
 熊野さんは穢れ受入れてくれはるそうでンナァ。それ信じまひょ。

 ケガレの「ケ」は、ホトケの「ケ」にまちがいないと思う。が、日本語に訳しにくい。「ケイ高くしあれ」だったか。お教えあれ。
 こういう高級抽象をいう語彙が沖縄にないので困っちょりますと。

 ケガレの「ガレ」は崩壊である。これ間違いナシ。

[8837] 後期高齢者  神奈備 2008/03/31(Mon) 18:05 [Reply]
 和歌山の高積神社の社家出身の民俗学者の松原右樹(まれき)さんの講演がありました。病み上がりの痛々しい姿ですが、松原節は健在でした。思い出しながら一部を紹介します。

 「熊野のケガレ」のタイトルでした。

 現在は三重県になっている花窟神社はイザナミの命の墓とされています。大きい岩が御神体でいくつなの窟があり、その中には白骨があり、昔の人々の墓地であったようです。そのような場所に神社が設けられているのです。イザナミの命はカグツチの命と言う火の神を生んでホトを焼かれて死んでしまいます。怒ったイザナギの命はカグツチの命の首を斬りました。飛び散った血は熊野の石や木々に飛び散りました。熊野の石や木々は血で穢れたのです。

 木をこすると火が起こります。石どうしを討てばやはり火ができます。火こそ最大の穢れを祓うものです。小さい穢れは大きい穢れを祓う働きがあるということです。これが熊野の神道なのです。伊勢神宮は徹底的に穢れを嫌いますが、熊野は穢れを受け入れて、大いなる穢れを祓うエネルギーとしてしまいます。

 熊野は明治22年の水害で大斎原にあった社殿は流されてしまいました。実は大斎原には上流の十津川から死体が時々流れ着いてくるそうです。水葬だったのでしょう。流れ着く死体は重い頭や体は砂の中に埋もれ、足だけが斜めに突き出ていたそうです。死体が山盛りに埋まっているのが大斎原です。ここで2〜3時間のんびり昼寝でもしているとパワーを回復できるそうです。

 また大斎原の社殿が流されたので、現在地である小高い丘の上に社殿が造営されました。実はこの地は墓地だったのです。明治になってからでも墓地の上に神社が造営されました。

 墓地の跡に出来た商店街は栄えるとか。

 那智の滝の水を飲めば長生きでき、飛沫にかかると長寿が得られると云いますが、実はこの滝壺には死体がたくさん沈んでいるとのこと。その水がパワーの源泉だということ。

 熊野古道が大阪の八軒屋から熊野まで続いていますが、古墳の横であったり、集落の集団墓地の中を通っているのも、穢れをいとわない立場を出しているのでしょう。

 以上前半の概略です。それにしても「穢れ」の文字ですが、「のぎへん」は加えると云う意味ですし、歳とは収穫期の祭りなどの意味があるのですが、年々歳々のように年でもあり、合わせて穢とは、年を重ねる−爺や婆−になると云う意味です。年長者を穢れとする思考が漢字の世界にあったのですね。日本でも行政は後期高齢者なる言葉を使うようです。爺にはなりたくないもの。

[8836] 沖縄に「お崇べ(オタカベ)あり   紋爺ぃ 2008/03/29(Sat) 15:26 [Reply]
 外間守善先生著『沖縄の言葉と歴史』(中公文庫)P178 にオタカベが出ていて、
崇拝の崇をタカと読ませています。

[8835] Re[8834][8830][8828]: 谷川健一さん  福島雅彦 2008/03/29(Sat) 01:35 [Reply]
>  確信犯とは頑固であり、己では説得に手を焼くであろう人への誉め言葉として理解できます。

※はい、文化功労者をして、褒めさせたと認識しています。

> > ∴私(福島)は、「奴國」の名残を考えている

>  この意味は 奴国の名残が竹奴国と云うことでしょうが、竹野国が狗奴国の名残の方が似合いそうですが・・

*“다가-논”(taka-non)國=竹野郡=「棚田が寄り集まっている國」の意です。
*高千穂の「高」も同伝=千の穂(山頂が鋸の歯状)が寄って集(たか)って…、と。
◆狗奴國=「高ン(格助詞)國=高氏・高句麗?」を疑っていますが、「卑彌呼」が敗れて男王が立った時点で征服されている、とも取れます。

[8834] Re[8830][8828]: 谷川健一さん  神奈備 2008/03/28(Fri) 20:32 [Reply]
> *話の途中「旧。竹野郡」を「たけのぐん」と言われたので、「たかのぐん」であり、丹後半島にも同地形に「竹野郡(たかのぐん)」が存在している。
> ∴私(福島)は、「奴國」の名残を考えている、旨開陳したところ、「君は、確信犯だ」と談じられた。

 地名にも一言持っているはずの谷川さんとしたことが、丹後と筑後の竹野は『和名抄』の読み方に「多加乃」とあるのをうっかりではしまりがありません。民俗学では多くの伝承等を縦横無尽に駆使しての解説は人を寄せ付けない凄さを感じるのですが・・

 確信犯とは頑固であり、己では説得に手を焼くであろう人への誉め言葉として理解できます。

 福嶋さん、実に楽しい公開講座だったようですね。


> ∴私(福島)は、「奴國」の名残を考えている

 この意味は 奴国の名残が竹奴国と云うことでしょうが、竹野国が狗奴国の名残の方が似合いそうですが・・

[8833] それって ほめ言葉?    紋爺ぃ 2008/03/28(Fri) 12:48 [Reply]
  
 福島さん、有り難うございます。
 “犯”という文字がついているので、これ、そういう行為者を悪者あつかいにしていますよね。刑法用語には、これ無かったのでは? 
 するってぇと、むかしいた黒幕たちもこれに該当しましょうか。日本に黒幕たちがいなくなって、集団形成のスジ掴みが壊れ、判断力を喪失した官庁などの組織のトップどもは、子供のときにブレーン・ストーミングで鍛えたアメ公どもの判断を金科玉条にしてるようで、心配です。
 みずから信じることを実行するたびに犯人呼ばわりされ、それを恥じる?
 みずから信じるものが無い人間が投票したら、どんなことになるか。

 確信犯扱いにされる人物とは、気骨があって、一旦コトが勃発したときには、周囲のものたちを指導してゆける……。ああ、確信犯とは、ほめことばなのかもしれませんね。

 西洋言語学は、他の分野(民俗、歴史)で、氏族や民族の分派系統がハッキリわかってしまって、動かし難い言語間だけを見たのですから系統樹や音韻対応がみられるは自明です。
 ソシュールでできた近視眼、単視眼を、東洋にまで適用しようとするのですから「こいつらバカか」しかなりません。それくらいに現代の学者はスジ掴みに弱い。
 バカをまじめに相手にするのも、これ叉バカです。

[8832] Re[8831]: 学者は見限ろう   福島雅彦 2008/03/28(Fri) 11:46 [Reply]
※全く、同感です。
*先哲の貴重な研究を貶める積りはありませんが…。
*既存の権威?(間違っているかも知れないが検証されずに学閥で守っている)に固執している。
*言語学者?は直ぐに「音韻の法則」を振りかざして他人の説を排除したがりますが…。その法則性の検証が未完成だとは思っても居ないみたいです。即ち、文献に残存しない言語は網羅されていない、偏った範囲での法則が完璧なはずがない、と謂うことに気付いていない。
◆「確信犯」=「道徳的・宗教的・政治的な信念に基づき、自らの行為を正しいと信じてなされる犯罪、思想犯・政治犯・国事犯など」(三省堂・大辞林)、ありますが国語辞典(岩波の第三版)には記載がありません。

[8831] 学者は見限ろう   紋爺ぃ 2008/03/28(Fri) 11:09 [Reply]
 福島さん、まっこと有り難うございます。じつにナイス・タイミングでした。
 「竹=たか」の用例の多くを渇望してました。これで tak(聖)が安定した地歩を占めました。
 アイヌ語 「 itak(+母音)」 が日本 ・ アイヌであれば、これで 再開発されたと、確信犯です。
 ところで、小生は非常識が発達してるのですが、確信犯とはどういうことでしょうか? 事実や真理に反し、法に触れることに気付いたあとも、従来のやり方を変えないまま、その横暴を続けるということなんでしょうか? そしたら福島さんは「おまえキチガイだ」と言われたことにはならないのでしょうか。
 
 文科系学問は急速に進展した物理化学の手法をマネして、さも完全な知的ヒエルキーを形成しているかのように装っていますが、その実、まだ親分・乾分の「組織でのトップごと」をやってるだけです。とくにそのトップが東大・京大出身者であれば、ほとんど例外なく情念や神経に狂いが生じ、それを矯正する人物がいないだけに、ふれあい面で野蛮状況を続けています。
 
 小生も三宅島にペンケ岬があることを発見し、大喜びしてもらおうと、川崎市にあった日本地名学会に電話したことがあります。そしたら件の人物らしいのが、出てきて「あ、そう」と、冷たく応対しただけでした。
 
 言語考究の面では、言語学者はまったく機能していません。こと言語に関しては、学者は見限ったほうがいいと思います。また、ほかの面でも学者に 100%の期待はすべきではないでしょう。

[8830] Re[8828]: 谷川健一さん  福島雅彦 2008/03/28(Fri) 00:11 [Reply]
>  あれだけ物部氏の反応しておられた谷川さんには弘法も筆の誤りがあったようです。20年前につかんでおられたら、四天王寺の奴俾とされた物部の末裔が現在も公人としてお仕えしている方々に話を聞くことが出来たであろうに残念なこと。
>
>  現在86才、いささか体調に不安があるようです。回復を祈りたいものです。

※久留米大学の公開講座で講師として来られ、筑後地名研究所の立ち上げを促されました。
*話の途中「旧。竹野郡」を「たけのぐん」と言われたので、「たかのぐん」であり、丹後半島にも同地形に「竹野郡(たかのぐん)」が存在している。
∴私(福島)は、「奴國」の名残を考えている、旨開陳したところ、「君は、確信犯だ」と談じられた。
*ご自分が理解の範囲を超えるものは排除する、姿勢に受け取れました。
*老醜を感じました。

[8829] 紋ちゃんを信じなさい ホレ    紋爺ぃ 2008/03/27(Thu) 14:14 [Reply]
 応答有り難うございます。
> 社と書いて so と読ませている例
★ とは人名でした。チャンとメモすりゃよかった。

> とうてい説得力はないでしょう。
★ いまは「説得力」を気にかけることはできない相談では?
 これまでの学者は、このような言語分析にはまったく手をつけていないといっても言い過ぎではないと思います。このような考究はミスなくしてはありえません。学者は一つでもミスをすれば、学者生命を断たれる。学者はできないと思う。

> itak をアイヌ語で理解するのであれば、
★ そりゃあ、十度も十五度もそうしてみる必要はありましょうよ。
  たしかにイタコは「おしゃべり」みたいなことで説明されていますが、itak が使われている類例があまりにもすくない。それを謂ってるのです。itak-i となっている例はほかには無いのでは?
 
★ 日本語からアイヌ語に入って itak-i ができている。それは √ i ○○ V の造語法にも叶っている。それゆえ so はアイヌ語でなくってもいい……がいえるとおもうがドンジャら。
 でも、山本多助エカシは「イタック」と促音いれていた。英語の talk に近いのではないだろうか。 r , l ・ 促音はいえる。

 信じるのは、もう少し先にしてほしい紋です。こういう場合、信じるとは八方に整合性が立つとの見込みへの強い自信なんだろうなァ。

[8828] 谷川健一さん  神奈備 2008/03/27(Thu) 10:28 [Reply]
 物部氏について情熱を傾けたであろう『白鳥伝説』(1986年)には、物部守屋のことが繰り返し登場するのですが、彼を祀る神社が大阪四天王寺の境内に祀られていることには触れていません。
 面白いのは『四天王寺の鷹』(2006年)の中で、守屋祠が四天王寺にあることを『摂津名所図会』に見つけたとしています。

 不思議なのは、ど素人の神奈備が物部を調べ始めるとたちどころに四天王寺の守屋祠のことを突き止めました。どこでこれを知ったかは忘れましたが、早速四天王寺に出かけて質問し、毎月21日に祠のある場所まで扉が開かれることを教えてもらいました。

 あれだけ物部氏の反応しておられた谷川さんには弘法も筆の誤りがあったようです。20年前につかんでおられたら、四天王寺の奴俾とされた物部の末裔が現在も公人としてお仕えしている方々に話を聞くことが出来たであろうに残念なこと。

 現在86才、いささか体調に不安があるようです。回復を祈りたいものです。

[8827] Re[8825]: √・♪ キイのくには音無し川の ♪  神奈備 2008/03/27(Thu) 10:27 [Reply]
> ★ 伊太祁曽様ちかくには岩根の露頭があるのだろうか?

 伊太祁曽神社は伝説の時代に一回(日前宮の場所から亥の森)、文書のある時代に一回(大宝二年 702年)の遷座を行っています。残念ながら現在地もふくめてそれらしい岩根は見あたりません。

 五十猛神が木種を蒔き始めたと伝わる荒穂神社の神体山には大きい岩が見えます。もうひとつのルーツのような出雲の仁多郡の五十猛神の神陵とされる鬼神神社にも大きい岩があります。


> ※ iso をいうのだったら、まず中東〜インドの *is(神……伊勢、磯など)のほうが、先に考えられるのでは?

 この発想がよくわからない所です。itak をアイヌ語で理解するのであれば、so も先ずアイヌ語で解釈をするのが先に行うべきことでしょう。自由自在に各地の言葉を組み合わせて解釈をしても、とうてい説得力はないでしょう。

 伊太祁曽の曽を、五十猛を磯竹と表記する石見国の村名もありますので、磯を持ち出すのは日本語の世界ですから、最優先に考えることには違いないことは認めますが、それなら伊太祁も日本語で何とかしたいものです。宗像の女神で、おそらくは託宣をする神の市杵島姫の市杵(イチキ)と伊太祁とが似ていると云うことで、アイヌ語を借りずとも、日本語の世界で「託宣の曽」とはできるのかも。


> 出雲大社の西一帯の浜辺を「その浜」と言っていること、社と書いて so と読ませている例があることに注意したい。

 『出雲国風土記』の国引き神話では、薗の長浜となっており、社と書いている例は so その場面では見あたりません。注意のしようがありません。社で koso は今でも使われています。

[8826] 日本古代史に関する新たな提言  広瀬満 [Url] 2008/03/26(Wed) 20:17 [Reply]
 私は関西で古代史を研究している広瀬満というものです。
 長年古事記とりわけ大国主神を研究していましたが、近年大国主神は天武天皇
の神格化であるという結論に達しました。

 例えば身の危険を感じたオオナムヂが木の国に逃げ、そこも危なくなったので
根の堅州国に脱出、そこで試練に耐えて力をつけ、根の堅州国を出て八十神の兄
弟たちを倒し、葦原中国の王となり国づくりを始めるという神話は身の危険を感
じて吉野に出家した大海人皇子が、その後東国に脱出し、近江朝廷を倒した壬申
の乱と同形の話となっています。 またオオナムヂの周りの人間関係も大海人皇子
の周りの人間関係とじつによく似ています。

 これらのことから大海人皇子が天皇に即位したいきさつが大国主の神話として
語られていたのではないかと考えたのです。
 また大国主神が天武天皇の神格化だとすると出雲大社には天武天皇が大国主神
として祀られている事になります。

 そう考えますと古事記に大国主神の話がなぜ並々ならぬ分量でいきいきと書か
れているのか、奈良時代なぜ出雲に巨大な神殿が建設(神魂神社に716年創建
の記録がある)されたのか、「出雲国造神賀詞 」に代表されるようになぜ天皇家
は出雲大社に大きな崇敬を寄せていたのかが理解できると思います。

 これは徳川将軍家が始祖の家康を東照大権現として日光東照宮に祀り崇拝して
いたのと同じ理屈です。

 また話が長くなりますのでここでは省略しますがスサノオは蘇我馬子の神格化
と考えられます。
スサノオの力強く傍若無人な性格は「日本書紀」等からうかがい知れる蘇我馬子
そのものです。
スサノオが牛頭天皇、新羅大明神、熊野権現、蔵王権現といった仏教の守り神と
同神、または習合されているのもこのためだと考えています。

 この2点(大国主神=天武天皇、スサノオ=蘇我馬子)を基点に記紀の研究を
進めたところ、神話の解釈が容易になっただけでなく日本古代史は実に意外な姿
を見せてくれました。

 たとえば大国主神=天武天皇、スサノオ=蘇我馬子の構図がわかれば例の明日
香村の高松塚古墳、キトラ古墳が蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子の墓であることが容易
にわかりますし、さらに重大なことはどうやら皇統は万世一系ではなく推古天皇
と舒明天皇の間に断絶があり、天皇家の祖が実は蘇我馬子であるということも神
話のその構図の中から浮かび上がってきます。
 また聖徳太子がなぜ天皇に即位しなかったか、なぜ中大兄が27年間も皇太子
のままで即位しなかったかという古代史の大きな謎も神話が理解できればその謎
も解けてきます。

 また本論は古事記論でもあります。古事記は天武天皇が芸能者を使っての国民
教化のために作ったものでその内容は天皇の体験、周りの人間関係、見聞等を基
に創作したものでそこには日本書紀には書かれなかった歴史の真実が塗りこめら
れています。また「古事記」は日本民族の誕生と深い関係があるというのが私の
古事記観です。

 これらのことは論文として纏め、HPに公開しております。

  本論はかなり衝撃的な結論を導き出していますのでそれを支持する、支持しな
いは読む方にお任せするとしか言いようがありませんがわたしとしてはかなり様
々な角度から検証を行ったつもりです。

 また数多くの新発見、問題提起があり、古代史、古代文学、天皇制、民
族、宗教(特に神道)を考える上で極めて重要な内容であると自負しています。
ぜひ一読していただければ幸いです。

 私のHPのアドレスは以下の通りです。
 http://www.kojikiden.com  

HPの「大国主伝」をクリックしていただきますと論文が出てまいります。

もし疑問等ございましたら質問してください。私の知識の範囲内とはなり
ますが返答します。

広瀬満 (ちなみにペンネームです。)

[8825] √・♪ キイのくには音無し川の ♪   紋 爺 ぃ 2008/03/26(Wed) 14:48 [Reply]
   
 伊太祁曽様の語源が「(われらが)誓言する・岩根」(と言い換えましたが)とは、信じられません。この掲示板は旦那の独断場でもあるので、旦那がそう信じていつのなら、それでいいということにもなりましょう。が、アイヤ、ウソ錯覚は信じさせたくないので、ひとこと。
 そういえば、ここらで、アイヌ語の itak を深掘りするタイミングにきていましたなあ。
 
 こう言い出した理由はいろいろある。
※ itak , iso の用例が少なすぎる。itak の末尾の k は外れ易いことは確かでしょう。福岡県にみられる板付、板井、伊田などは新羅領から鉄片(板)を輸入した跡ではなかろうか。もし itak が多用されていたのなら「イタカ」の地名、人名があってもいいのだが。
※ アイヌ語 itak は √i ○○V の造語法にピッタシ嵌っていて、「tak(聖なること)をする i(場所)」となる。アイヌ語 itak そのものが日本からの借用らしい。
※ iso をいうのだったら、まず中東〜インドの *is(神……伊勢、磯など)のほうが、先に考えられるのでは? is-o は is(神)にふたたび o(神)がついた語形。群馬県妙義山近くに磯部温泉はあるが、岩根〜岩盤のところにある磯の用例は少ないのではないだろうか。
※ so はまだ確定的ではないが、出雲大社の西一帯の浜辺を「その浜」と言っていること、社と書いて so と読ませている例があることに注意したい。
※ ヤシロをみると、これは ya(神)のシロ(地面)であることがわかる。シキもこういった概念だったと記憶しています。 伊太祁曽の so は宮殿建築が未発達な段階での「神域」ぐらいの意味ではなかっただろうか。これが意転してシナの「荘園」を受入れたか。園は「ソノ」。

★ 伊太祁曽様ちかくには岩根の露頭があるのだろうか?

★ 東京の上野〜赤羽間に「王子」があって、この王子駅のすぐ横に音無川があります。熊野の行者がこの地名を持ち込んだのでしょう。紀伊のくにの地名をうち眺めても、なかなかにアイヌ語地名はみあたらない。しかし、この音無川だけはアイヌ語で解釈するとピッタシ。
 「川尻(o)が急流( tunash)の i(もの、叉はギリヤーク語の川)」となります。
 旦那様はほかの川は放っておいて、この音無川調査を tun-ash-no (はやく)アマカネ。
√・♪ キイのくには音無し川の ・♪ ……姉ごが日本舞踊を習ってるときにこの唄やってました。

[8824] Re[8805]: 川上の霊威 十四 伊太祁曽神社の前を流れる和田川  神奈備 2008/03/26(Wed) 09:43 [Reply]
>青草[3757] 伊太祁曽様 の so

神奈備掲示板の[8805] に、伊太祁曽の解読を紹介しました。

小川琢治氏  アイヌ語で「物を云う岩」の義

itak は言葉とか話すの意だそうですから、残りのiso もしくは soが岩であれば、流石小川博士となるのでしょう。HP「浦瀬町の地名について」に、「ソ」は瀬・滝・岩の意味があるとしています。

 さて、24日から熊野三山に詣でて来ましたが、山桜のきれいにさいており、絶好の参詣日よりでした。熊野本宮大社で一つ変わっていることを発見しました。本殿が四殿並んでいる北側に満山社と命された石が置かれていましたが、ここがピカピカの社殿に変わっていました。何でも神仏習合時代の名残だったので社殿を造れなかったが、ぼちぼちいいだろうと云うことだそうです。

 熊野本宮大社で古代の祭の姿を示している場所と思っていましたが、大鳥居といいこれもピントきません。

 熊野の八咫烏の絵は三本足でした。記紀には三本足とは書かれていません。熊野本宮の説明では熊野三党の宇井・鈴木・榎本を表すとしています。そうすると、速玉大社の本宮であった三重県側に鎮座する牛鼻神社の祭神とされる千翁命が思い浮かびます。八咫烏とは熊野三党の者が務めたのかも知れませんね。

[8823] なぜ神社にクスノキが植えられるか    紋 爺 ぃ 2008/03/25(Tue) 13:33 [Reply]
どんたくさん、そりゃあんた(豊後弁 ; 有り難うございます)。
 オレのオヤジは切り株山で生まれたとですばってん、おら飯塚南の三井山野鉱業所・労務の前の大きなクスノキの下でうまれたとです。
 なし(どうして)クスノキが神社に植えらるるか、その理由を書いた学者はおらんとやろち(と)おら思いますばい。
 なし学者にゃワカランかぁちゅうと、学者なあんた、ちょっとでんミスしたら、そのほかでどげんいいこつ(と)発見してん(も)、そのミス一つがいのち取りになるっちゃき(から)やろうちおもいますばい。

 クスノキは早よ成長して、神社わきにサッサとホコラ(祠)つくるきたい。幹の中央にある木質は、削げおてて、外側だけで生き続けます。こんホコラが古代人には神そのものやったわけですたい。
 中央アジア方面での Xo はネパール語では kho ちなります。そんネパール語に khokra ちいう語があって、その意味は「(木のほらの中に)なんにもない」というへんな形容詞です。
 神庫(ホクラ)の語源なんちゅうとも、これしかなってっしょうが。

 学者諸賢は、すこしでんよそ見して、周辺言語ばあたりゃよかとですばって……、見きらんちゃんナア。これがぁ。

[8822] 柱信仰  とみた 2008/03/25(Tue) 09:37 [Reply]
クスノキにも巨樹信仰があるんですね。
佐藤洋一郎さんは、稲の学者でしょう。

ジャポニカ米とインディカ米のDNA研究で中国の河姆渡遺跡の米を分析した方。縄文中期の三内丸山のどんぐりが栽培されていたのをDNAの個体間の差が少ないことで実証された方ですね。その方がクスノキまで対象に分析されているのですか。

飛鳥の大槻の木は信仰の対象でその前では嘘は言えませんでした。
アジアの柱立ては興味を持っています。

諏訪の御柱、出雲の岩根信仰、伊勢神宮の心柱は太陽の依り代で上にヤタ鏡(内行花文鏡)、中国の少数民族の南方系のミャオ族や北方系のダフール族は村の中心に柱を立て、鳥を柱の上に置きます。

日本の吉野ヶ里にも同じ柱がありました。
中央アジアの、紀元前の岩絵には柱の上に太陽のシンボルを載せその柱に犠牲になる馬を繋いだ光景が描かれています。

柱は宇宙樹、世界樹の意味があるようです。柱の上の部分には、神々が住み、中程には人間と動植物が住み、下の部分には死者や鬼が住むとされています。

或いは地と天を繋ぐのが柱という見方もあるようです。

私は、河内の大和川の畔の玉手山古墳の祭祀跡に拘っています。

この古墳群は4世紀のものです。たくさんの柱を立て、火を焚いて煙を太陽のほうに向ける太陽信仰がなぜこの地にあるかです。

[8821] Re[8816]: 堤防とクスノキ  佐々木高久 2008/03/24(Mon) 22:28 [Reply]
 楠をはじめとする照葉樹林は背の高さぐらい根を張るので、堤防の補強にはいいのでしょう。防火防風林の役にも立っています。京阪電鉄の萱島駅の中には楠が生えています。
 大阪でよく見られるのは、地下水面が浅いよく育つためでしょうが、最近は公害に強い、楠木正成の関係もあって増加したと聞きます。そのおかげで、大阪に居なかったクマゼミまで九州から引越してきたとのこと。
 またよくは知りませんが、神主さんには紀氏の方が割合多く、楠木氏も紀氏の出自なので関係あるかもしれません????。



[8820] Re[8819]: 佐藤洋一朗著『クスノキと日本人』   どんたく 2008/03/24(Mon) 22:27 [Reply]
紋爺ぃさん、 どんたく と申します。横レス失礼します。

> 佐藤洋一朗著『クスノキと日本人』 

> その本よみたくて Google してみたのですが、ひっかかりません。
> 出版社をお教えいただけないでしょうか。キカイ・オンチですみません。

著者は「佐藤洋一朗」ではなく、「佐藤洋一郎」です。
Google で、著者名は入れなくても、「クスノキと日本人」で検索したら出てくる筈ですが。。。。

例えば、紀伊国屋書店BookWeb
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4896948483.html
に出ています。

クスノキと日本人―知られざる古代巨樹信仰
ISBN:9784896948486 (4896948483)
238p 19cm(B6)
八坂書房 (2004-10-25出版)

・佐藤 洋一郎【著】
[B6 判] NDC分類:479.71 販売価:\2,730(税込) (本体価:\2,600)
以上です。

[8819] 佐藤洋一朗著『クスノキと日本人』    紋 爺 ぃ [Url] 2008/03/24(Mon) 18:53 [Reply]
 素人さん、はじめまして。
 その本よみたくて Google してみたのですが、ひっかかりません。
 出版社をお教えいただけないでしょうか。キカイ・オンチですみません。

 小生は大分県豊後、森町が血の出自(用語 ?)です。
 そこに「切り株山」というのがあって、今はハングライダーというのでしょうか、人間ばなれした若者が翔び遊んでいるそうです。切り株山はピョコタンと平野に突き出てる、へんな丘です。
 ここに急成長したクスノキがあったとの伝説があります。玖珠郡とか玖珠町というのはそれです。
 それを伐ったのが「切り株山」です。
 国民学校 2年生の本には「千早丸」として出ていました。ひと漕ぎ千里です。

 でも、樹木の寿命は“永遠だ”そうですね。
 島というのは、周辺の浮遊物を寄せあつめ、磯波によって、浜へ打ち上げるそうです(茂在寅雄名誉教授)。
 そうすると、初期の人類は浜辺ちかくのクスノキの空洞を住居にしていたのではないかとの空想が出ます。
 内陸の巨大なクスノキが、大水や地震によって、大洋へ流れ出し、漂ったあげく、どこかの浜辺に打ち上げられるんです。
 人類が水棲動物だったとの説もありました。

 クスノキは、内部から湧出させる樟脳のせいもあって、なかなか沈まないそうです。
 「バルサ」は、フィリピン・タがログ語で「筏」と訳されています。コンチキ号、ハイエルダ−ルさんです。どうなってるんでしょうね。

[8818] どうもありがとうございます  竹田信二 2008/03/24(Mon) 04:45 [Reply]
お返事ありがとうございます。
なんとなくはですが、理解できたと思います。

[8817] 何でも火の玉  素人 2008/03/22(Sat) 23:22 [Reply]
とみた様
しばらくぶりで御座います。
また意味不明なことを書かせていただきます。
> このあたりは私は、理解不能です。
>
> 中国では魂魄思想が前漢時代ありました。准南子の宇宙起源論・・・混沌から澄んだ気は天に、濁った気は塊り地へ
> 魂は云=雲+鬼で動く霊魂として天に 魄は白=ドクロ+鬼で動かぬ霊魂として地に
>

*『魂は云=雲+鬼で動く霊魂として天に』
雲から発生する雷の一種の球電現象による白色のプラズマの球が尾を引いて漂い、石や木に掛って光り破裂して消滅する。後で低気圧などによる嵐が来るかもしれません。雷ですから。

*『魄は白=ドクロ+鬼で動かぬ霊魂として地に』
土葬のお墓などで雨の後などに見られる燐光、青白いユラユラとした火の玉。

両方共に自然現象による火の玉。
目に見えないものを信じたり、信仰したりは文字のない古代では難しいのではと考えるこの頃です。やっぱり、自然現象での奇跡等ではないか。
青草の書き込みお許しください。

古代人信仰で空からユラユラと降りてきて、木や石に掛り輝いて消滅するプラズマ球(球電)は消えた時に自分の体に新しい魂が宿ったと思わせるに十分な現象と思われます。たんに石や木を信仰することは考えにくくこれら現象と関連しているのではと常々夢想しています。

[8816] 堤防とクスノキ  素人 2008/03/22(Sat) 22:49 [Reply]
佐々木高久様
>  但し現在の池田や平池付近に茨田池などの池沼があったので、それを堤防建設時に水害時の遊水池としての性質を持たせて、河内湖への直接流入のダメージを軽減したように思います。これによって守口市土居の守居神社や渦神社付近の堤切れの防止効果があったと思います。しかし驚いたことは堤坊沿いの神社には、樹齢500年以上の楠が必ずにあります。
>
クスノキですか、前に色々書かせてもらいましたが、短期間で大きくなる木ですね。
近世ですと松などになるのでしょうか、短時間で大きくなって根を張る木が選ばれたのでしょう。関東地方ですと、舞鶴半島のクスノキ林など有用材としての手入れはしていなくても300年ほど経ってた巨木のクス林は中々立派で洪水などで揺らぎそうにありません。
 500年と言うと雷に打たれないで無事な木は普通少ないので、この地域は比較的雷が少ないのかもしれません。古代ですとクスノキは船の船底の材料として使われていましたので、選定されて真っ直ぐな巨木のクス林が堤防を覆っていたのかもしれません。有用材のクスノキは刈られ、使い道のない曲ったクスノキが神社などに残って来たのかも知れません。巨大なクスノキを切って船を造ったなどと言う伝説は近くに無いのでしょうか。
関係有りませんが大阪のクスノキの系統。
『クスノキと日本人』(佐藤洋一朗著)によりますと山口県楠町の巨樹は神功皇后によって刈られたとされており、この木の子孫の木の遺伝子と同じ木が住吉神社と平野区の神社の木にあるそうです。大阪市寝屋川市のクスノキは中国のクスノキと同じでした。大阪市(杭全神社)のクスノキの遺伝子は独立したもの。大阪府門真市のクスノキは宮崎県小林市(愛宕神社)のクスノキや熊本県熊本市(寂心のクス)と同じ遺伝子だそうです。
この本によりますと『分布がもっとも高いのは、門真市から寝屋川市にかけての一帯と東大阪市南部から八尾、堺市にかけての一帯の二か所である。・・・・・大昔にはこれら二か所付近はクスの巨樹が群れをなす鬱蒼たる森に覆われていたのだろうか。』
ありきたりの情報でした。
堤防沿いのクスノキを一度見てみたいものです。

[8815]  もののべの語源     癪 爺 ぃ [Url] 2008/03/22(Sat) 17:09 [Reply]
 飯野睦毅さんは、もののべの語源は 四つも五つもシナ語で割れると言っておられますが、小生が分析したところ、一つだけですが、「門番」からわれました。
 『紋次郎・言語考古学』を見てくださればアマカネね。

[8814] たまふり の 語源      癪 爺 ぃ 2008/03/22(Sat) 14:15 [Reply]
 日本語のたま(魂)は dam . tam の語形ではじまっているかとおもわれます。豊後浄瑠璃に
「だんなだんな、だまんねぇ早よからなにごつかえ」というのが、つい最近までしゃべられていました。「だまんねぇ」とは 「*dam(魂) an(ある)無い」の語形で、「ある」をいちど言っておいて、それに続けて「無い」をいいます。この用法は沖縄やネパール語(ho-ina . cha-ina)に顕著です。大笑いするとき、土佐っぽや豊後のシ(人)は「タマルカ・タマルカ」といいながら、そこらへんを転げまわりますが「(じぶんの)tam は(まだそのへんに)あるか」と叫んでいるわけです。
 たまふりの「ふる」もネパール語 hul-(いっぱいにする・押し込む)があって、いちど抜けた魂を身体の中に戻して、生気をいっぱいにすることを謂ってるかとおもいます。
 アイヌ語 ram(こころ)、ネパール語 Oh ram ram(ああ、神様!)。

[8813] 石上神宮鎮魂法  とみた 2008/03/22(Sat) 09:38 [Reply]
春めいて、桜もま間近です。
国際縄文学協会の講演内容を紹介します。講師は多摩美大の井戸理恵子先生。
魂の蘇生の鎮魂のために技法は、魂を振るわせ、より強化するさせることにより他の魂をも依り憑かせる。魂は疲れてくるので、年に一度 外来魂を身につける。

これが新嘗祭でしょう。

三つの流儀がある。
◎猿女=太陽が日々昇る高天原伝来、◎物部=石上鎮魂、倭を治める魂を取り扱った、◎安曇=魂の蘇生を促す。海部一族のもの、亡者の魂も扱う、春日大社の若宮オンマツリ これは祟り神、磯良はミタマフリとは異なる形

現在の宮中の新嘗祭は、猿女型と物部石上型の融合。

魂は身体が代わっても再生すると考えていた。

殖ゆ(分裂/分かれる/枝が出る)=フル(衝突/密着)

このあたりは私は、理解不能です。

中国では魂魄思想が前漢時代ありました。准南子の宇宙起源論・・・混沌から澄んだ気は天に、濁った気は塊り地へ
魂は云=雲+鬼で動く霊魂として天に 魄は白=ドクロ+鬼で動かぬ霊魂として地に





[8812] Re[8811]: 石上神宮鎮魂法  神奈備 2008/03/21(Fri) 09:23 [Reply]
 詳しくはありませんが、かって参列したことがあります。 

 鎮魂とは遊離魂を魄(身体)に付着させると云うような意味だったのでしょうが、さらには魂をふるいたたせると云う意味にも使われているようです。

 石上神宮に伝わっている「布瑠之言」があります。
「若し痛む所有らば、この十の宝を、一二三四五六七八九十と唱えて振るえ。ゆらゆらと振るえ。此の如くせば、死人も生き反らむ。」
 というものです。十の宝とは所謂十種瑞宝のことです。

 「ゆらゆらと振るえ」とは、魂振り(タマフリ)のことで、魂は生命力、これを振り動かして活力を与える呪術とされています。

 「死人も生き反らむ。」と云うのは、遊離魂が離れた身体(=死体)に遊離魂を再付着させることを云うのでしょうが、死んでいない人には一層元気になるとの呪術なのでしょう。

 鎮魂祭は毎年11月下旬の寒い頃に行われます。拝殿で座ることが出来れば、電気カーペットの上に座れます。また簾の向こうの神殿の奧で鈴がチリチリと鳴る音がかすかに聞こえ、いかにも秘儀らしい雰囲気が味わえます。おそく行くと拝殿前でしか参加出来ません。寒いし聞こえないし、です。行かれるなら是非早い目に行って下さい。

[8811] 石上神宮鎮魂法  竹田信二 2008/03/21(Fri) 01:13 [Reply]
石上神宮で鎮魂法というものが行われているのを最近、知ったのですが
どのような目的で行われているのかどうにもよく理解できません。
魂を肉体に固定させる?ようなことが書かれてあったのですがようは
精神を安定させるための儀式なのでしょうか?
詳しい方解説をお願いします。

[8810] 名草山周辺  和歌山(橋本) 2008/03/20(Thu) 23:21 [Reply]
和歌川周辺は戦前には塩田があったらしい。往古には名草山周辺は海だったのかもしれない。案外日前・国懸宮と海は近かったのでは?濱の宮や内原神社などは海に面していたのだろう!

[8809] Re[8808][8807]:川の塵芥  佐々木高久 2008/03/20(Thu) 17:07 [Reply]
>仁徳紀』北の河の塵芥を防ぐために、茨田の堤を築いた。この時・・・
>「日本書記」の作成時には、茨田の堤の造築目的が判らなくなっていたのかも。
>堤は太間町から京阪の萱島駅に南下し、それからは京阪の線路沿いに西へ延びて森小路駅付近までのイメージと思えばいいようですね。
 そうですね。太間から京阪寝屋川市駅東口付近と京阪寝屋川市駅西口から500m西の古川沿いから森小路までの全く違う性質の堤防が2つあったとイメージです。イメージなので京阪線路沿いでいいと思います。
 最近は、茨田堤を太間から京阪寝屋川市駅東口付近の方のみとする研究もあります。

[8808] Re[8807]:川の塵芥  神奈備 2008/03/20(Thu) 16:44 [Reply]
 『仁徳紀』北の河の塵芥を防ぐために、茨田の堤を築いた。この時・・・


 「日本書記」の作成時には、茨田の堤の造築目的が判らなくなっていたのかも。

 堤は太間町から京阪の萱島駅に南下し、それからは京阪の線路沿いに西へ延びて森小路駅付近までのイメージと思えばいいようですね。

[8807] Re[8804][8803][8790]: 川上の霊威 十一 大和川  佐々木高久 2008/03/20(Thu) 10:32 [Reply]
>実際には淀川の水を河内湖に入れないと云う工事だったと思われます。
 回答が不十分でした。寝屋川市田井あたりにあった茨田屯倉に古淀川の水を入れないための堤防と河内湖の防潮堤と2種類の堤防があった。
 古淀川は現在の淀川太間付近から寝屋川導水路石津付近を通って、概ね現寝屋川に合流して河内湖へ流れていたのでルート的には直接河内湖に入れなかったわけではないと思います。
 但し現在の池田や平池付近に茨田池などの池沼があったので、それを堤防建設時に水害時の遊水池としての性質を持たせて、河内湖への直接流入のダメージを軽減したように思います。これによって守口市土居の守居神社や渦神社付近の堤切れの防止効果があったと思います。しかし驚いたことは堤坊沿いの神社には、樹齢500年以上の楠が必ずにあります。

[8806] Re[8804][8803][8790]: 川上の霊威 十一 大和川  佐々木高久 2008/03/19(Wed) 22:45 [Reply]
総長20kmの大堤防だったそうですが、これは本当かな。

 茨田堤は、意賀美神社の旧地から太間天満宮、寝屋川消防署前の若宮八幡宮、八坂神社のラインで、堤防はおそらく旧淀川の氾濫避け堤防であると思います。神社のあるところは自然に出来た地形的に高いところなので、その間を少し連続しただけだと思います。この堤によって茨田の屯倉を水害から防御したと思います。
 最近の事例では秀吉の備中松山城の水攻めの堤防は、当時の地形を利用しただけで、実際に堤防を造ったのは、現在の残存して見られる部分のみだそうです(和歌山市立博物館額田学芸員)。
 あと寝屋川の大利神社から長栄寺、高柳神社、神田天満宮、堤根神社、門真の三番神社?、高瀬神社などの高みを利用したラインは、河内湖の防潮堤の役割があったと思います。
 ゆえに寝屋川の細屋神社が門真三番から移転してきたのが、古代の津波によるのであれば面白いのですが。
 あと吹田砂州のへりを堤防に流用し、今の神崎川あたりへ河内湖に水を逃がしていたと思います。
>水を吹田砂州沿いに神崎川付近に逃がしたと云うことになるのでしょうか。
そうなります。
 津嶋部神社の対馬江からの流出時期がわかるとさらに詳しくわかるのですが。

[8805] 川上の霊威 十四 伊太祁曽神社の前を流れる和田川  神奈備 2008/03/19(Wed) 21:27 [Reply]
 山東荘から吉礼、岡崎を通り、神宮郷から海に流れています。

 伊太祁曽神社の南東3km付近の和歌山市黒岩にある大池が最上流の水源地。黒岩邑には田の中に1.6m程の黒石があります。昔は妊婦が小石を投げて石の上に止まれば男子、落ちれば女子と言い伝えられました。『続風土記』によりますと黒岩には聖御前社「蔵王権現、若宮八幡、天照大御神、弁財天、熊野権現」や小祠である里神・山王權現社・天神社がありました。文政六年(1823)伊太祈曽と水争いをしています。

 和田川は北上して、南畑を流れます。東西は山々で、谷間ですが、若干広い地域。里神社・大将軍社・気鎮社が鎮座していました。

 川は更に北に流れて、大河内の北側で北西に曲がります。もはや谷間ではなく、山東盆地の南東の隅になります。東に松茸の産地だった鶏冠山(とさか)があります。八王子社二座・若宮・里神社がありました。ここは石を投げれば瀬藤さんにあたると云われる地域です。

 大河内から伊太祈曽に和田川は西に流れます。数十年前、境界に木の橋が架かっており、トラックが通った際、折れてしまって転落したことがあります。伊太祈曽は山東盆地の中心にあたります。

 往古、山東盆地は入海でした。現在、伊太祈曽で海抜8m程度、その西の吉礼で3m〜5m、この吉礼に縄文前期の貝塚があります。伊太祈曽で和田川と合流する永山川があります。また永山川に北から平尾川が合流しています。

 永山川は伊太祈曽から東3kmの大池を水源地としています。大池は那賀郡との境界になります。大池については、新義真言宗の覚鑁上人が山東平野東部は灌漑用水が少なく、村人を叱咤激励しつつ渓谷に池を造ったとの伝承があります。この大池には先土器の遺跡があり、ナイフ型石器がまとまって出土しています。サヌカイト製です。また縄文時代中期の土器片が出ています。

 大池から流れる永山川は永山に流れます。里神社・牛神社・天神社が鎮座していました。次ぎに木枕(こまくら)と山東中の境界を流れます。木枕は高句麗からの渡来人が居住した故の地名とする地元の方もおられます。ここに丹生四所明神・里神社・講庭神社「夷の神」が鎮座していました。現在は覚鑁上人の創建とされる足守神社が鎮座しています。この神社の西方の低い台地上に四基の円墳があります。このように山東盆地には小規模な古墳が散在しています。

 木枕の南を山東中と云い、江戸時代は中と云う地名でした。ここには牛神社・牛頭天王社・里神社・弁財天社・回神(めぐり)が鎮座。永山川はここから伊太祈曽北部を西流します。

 平尾川は山東盆地の北部の水をかき集めて南流し、平尾で永山川に合流します。ここは熊野古道が通り、平緒王子社が鎮座していました。また、伊太祁曽神三神分遷で都麻都比売神を祀ったとされる妻大明神社の論社が鎮座しています。他に産土神社・弁財天里神社・妙見社・牛神里神社・キシヤウ森明神社が鎮座していました。

 それぞれを合流して和田川は吉礼に流れ出ます。山東盆地から和歌山平野へ流れるのです。

 山東盆地には縄文時代以前から人々は営みをしていました。旧石器時代や縄文時代を営んだ人々は所謂アイヌ人と同族だったのではと思われます。アイヌは自らをカイと称したようです。(小林国太郎氏)大河内の東に鶏冠山がありますが、なだらかな山で別にトサカを思わせるものはなにもありません。鶏冠はカイと云う発音だったのではと思っています。鶏冠井と云う地名が向日市にありますが、訓はカイデです。カイはアイヌの痕跡ではないかと思います。鶏冠山の東側の貴志川に加伊多橋がかかっていることが実に薄い傍証・・・

 紀州には圧倒的に出雲系の神々を祀る神社が多く、アイヌの次ぎにやって来たのは、海の彼方からやって来た素盞嗚尊を奉する人々、出雲からやって来た五十猛命を奉ずる人々などだったのでしょう。

 紀州にはクマが付く地名や人名が多いのですが、このクマは稲の意味もあったとのこと。稲作をこの国に持ち込んだ人々も山東盆地に現れたのでしょう。紀の川や和歌山市内、伊太祁曽神社に九頭明神が祀られていましたが、これは水神でもあるので、稲作の民が祀ったのかも知れません。

 さて、山東盆地の中心の伊太祈曽には伊太祁曽神社が鎮座、先ほどから示しています各地の神社で明治末期まで残っていた神社を殆ど吸収してしまっています。明治期の伊太祁曽神社の宮司は神社合祀に賛成していたようです。合祀された跡がどうなったのかですが、大河内には名前の不明な小祠が鎮座していましたので、一度丁寧に回ってみたいと思っています。

 さて、言語に詳しい方々がもったいなくも当サイトの掲示板に来て頂いていますので、イタキソの解釈を小林国太郎氏の『伊太祁曽神社由緒記』等から紹介いたします。

イタキソとは
小川琢治  アイヌ語で「物を云う岩」の義
ポインタフスキー 調伏のために祈る
ポインタツキフル 魔法者
その他 カンボジア語で 顔に絵の具を塗った人
などがあるそうです。

 伊太祁曽神社の東側の音羽山山麓に6〜7世紀の山東古墳があります。
横穴式の円墳で、天の岩戸と呼ばれています。これは江戸時代、伊太祁曽の神を日出喜孫大明神と称して、祭神を手力男命と見なした動きがあったからのようです。
 
 吉礼には貝塚があり、また吉礼の都麻都比売神社付近には弥生集落遺跡があり、土器は後期のものが出土しています。吉礼大明神社・妻津姫神社・五十猛神大屋津姫神社。また弁財天社・牛神社・川御前社が鎮座していました。

 吉礼から岡崎荘に流れます。先ず小手穂(おてほ)があります。弘法大師御手掘と云う井戸があり、これが小手穂となったそうです。八王子社。

 次ぎに森と云う地域に流れます。ここは『雄略紀』九年三月、「紀の小弓の宿禰、蘇我の韓子の宿禰、大伴の談の連小鹿火の宿禰等に 勅して新羅を伐せたまふ條に是夕大伴の談の連及紀の崗前の来目の連皆力闘面死す」とあります。この崗前の来目の連の居住地とされています。
 清寧天皇即位前紀には城丘前来目宿禰が登場、星川皇子の叛乱に組みして焼殺されています。壬申の乱の際には紀氏は大海人皇子側についたのですが、来目連は大友皇子側に与したようで、その後裔は不明です。

 次は西なる地名の場所。十二社権現社は西熊野神社として鎮座しています。後は弁財天社。

 いよいよ川は名前の元となった和田に流れます。和田地名は瀬戸内海北岸から大阪湾、紀伊半島西部を経由して熊野本宮付近から北山川を遡って奈良三重の県境を北上し、吉野川の川上から奈良盆地へとギッシリ続いています。海人族の足跡そのものでしょう。椎根津彦(珍彦)の一族と思われます。
 和田付近は海岸だったのでしょう。ここには竃山神社が鎮座、生駒で長髄彦から矢傷を負わされた神武天皇の兄の五瀬命が祀られています。他には式内大社の静火神社・天霧神社・中言社などが鎮座。

 更に南西に流れて坂田から田尻に到ります。田尻は名草山の北麗でやはり中言明神社・岩御前社等が鎮座しています。現在はこれから和歌川に合流していますが、往古は田尻付近はすでに海だったのでしょう。


[8804] Re[8803][8790]: 川上の霊威 十一 大和川  神奈備 2008/03/19(Wed) 21:24 [Reply]
> 吹田垂水神社から守口高瀬神社にかけてありました従来吹田砂州が、縄文早期にすでに存在していたことがわかってきています。

 ありがとうございます。
 ウイキペディアによりますと、茨田堤は草香あたりから寝屋川市太間町経由門真市宮野町から千林につながっていて、総長20kmの大堤防だったそうですが、これは本当かな。
 実際には淀川の水を河内湖に入れないと云う工事だったと思われます。水を吹田砂州沿いに神崎川付近に逃がしたと云うことになるのでしょうか。

[8803] Re[8790]: 川上の霊威 十一 大和川  佐々木高久 2008/03/18(Tue) 21:42 [Reply]
 河内平野については最近かなりの年代資料が集まっておりまして、吹田垂水神社から守口高瀬神社にかけてありました従来吹田砂州が、縄文早期にすでに存在していたことがわかってきています。
 この事実は以下の書物の中に掲載されている図とも一致しています。
 山田宗睦著「日本書紀史注 巻第三」風人社、1998年2月1日発行(7000円?)
 この中の日下雅義先生の図が、もっとも最近の研究成果と矛盾の少ない河内平野の弥生時代以降の状況を表しています。
 なお古代は淀付近は余戸(よど)と呼ばれ、石清水八幡宮付近の八幡は甲作(カワラ)と呼んでいたそうです。瓦の窯跡が多く立地していたからでしょうか。
 



[8802] Re[8801]: 貴志川周辺  神奈備 2008/03/18(Tue) 16:35 [Reply]
> 私は以前、木津にある公共施設に勤めていました。

 木津には海南市歴史民俗資料館があります。ふさわしい立地ですね。

> 黒澤山の奥には生石山がありす、ここは「イワクラ」では?

 頂上付近に笠石、また生石神社の御神体の巨石もあるようですね。


 八幡神を祀る古社は欽明天皇の頃に創建されたとされています。野上八幡もその一つとされます。紀の国に八幡宮を勧請したのは蘇我氏の差し金で紀氏への牽制だったとの見解があります。古い八幡は日前宮からは離れた所にしか建立出来なかったような分布です。
 和歌山市有本の若宮八幡神社が日前宮から最も近い神社ですが、これは鎌倉からの勧請です。

 八幡神が日前宮を敬遠して建立されたのですが、江戸時代になると日前宮の建物は八幡造だったそうである。八幡造は二棟の切妻造平入りの建物がつながった形。共に神殿。

 黒岩山は509m、岩屋があり、大蛇が住むとの話がありそうです。岩屋の上に祠が置かれているそうです。

[8801] 貴志川周辺  和歌山(橋本) 2008/03/17(Mon) 20:25 [Reply]
 溝の口遺跡の北に野上八幡宮があります。貴志川や溝の口遺跡のある平野部を見下ろすように鎮座しています。日前・国懸神は溝の口神と呼ばれて周辺を開発したようですが、野上八幡宮も同じようなことがいえるかも!
海南市木津には、戦前牛市があったそうです。黒澤山の奥には生石山がありす、ここは「イワクラ」では?私は以前、木津にある公共施設に勤めていました。
 貴志川沿いには、神野市場、野上、野尻、原野、下津野など野がつく地名が多いです。他に海南市小野田、貴志川町上野山・・・
 昔の野上電鉄が懐かしい!

[8800] 川上の霊威 十三 貴志川  神奈備 2008/03/17(Mon) 17:23 [Reply]
 高野山の西の花坂付近が源流。花坂は貴志川の谷間の集落で鼻底の地名であった。岬底であって、此の地に諸山の尾岬が集まっているのでそう呼ばれたそうです。北から続く高野街道と南西遙かの神野市場からの高野街道の合流点です。面白いのは弘法大師は牛を嫌ったので、花坂から高野山へは馬に荷物を負わせたそうです。花坂には鳴川神社が鎮座、祭神は高野御子神等です。

 貴志川はさらに長谷庄に流れます。ここは貴志川の北側に平地が広がり、丹生神社(旧丹生高野両大明神社)が鎮座しています。長谷宮とも云います。『丹生大明神告門』に、「長谷原爾忌杖刺給比」とある長谷のことです。この神社の社地を楮皮杜(ちょひのもり)と言いい、孝元天皇の時、武雄心命(日本書紀では武内宿禰の父親)が来て当地の楮の皮で紙を漉く事を教えたと言う伝説によると言われています。武内宿禰の出自が紀の国だと云う主張の根拠になりそうですが・・・。

 丹生神社の境内に観音堂があります。これは大和の長谷寺の観音の末木で作られたと伝えられています。長谷は高野山領ですが、地名は長谷寺から頂いたのかも知れません。

 貴志川は次ぎに毛原に流れています。明神垂迹石があります。丹生明神の垂迹。途中に笹の瀬には弥生遺跡があります。毛原には丹生狩場神社が鎮座、村の東北の貴志川内に立石があり、近くの祝詞石から祝詞をあげるそうです。末社に犬飼明神社があり、犬甘籬津姫社のことと、高野山の資料にあるそうです。
 
 貴志川は西に流れて、鎌滝と云う所に行きます。川底に甌穴があります。丸い穴のことです。丸石が出来るのでしょう。この穴を地元では釜と云うようで、これが地名になったそうです。

 貴志川は同じく高野山の西側を源流とする真国川と神野庄で合流します。旧美里町・野上町を通り、海南市に流れて行きます。美里町に神野庄があります。この庄は平安時代後期の鳥羽院を本家としていたので、院の熊野御幸に際して雑事を負担したようです。荘民達は丹生明神垂迹の地と伝える蛇岩を拝して、遠く近露や滝尻王子の地までカンバン方式的に供御御菜・菓子・酒・薪・飼料を届けるように要求されていたのです。

 海南市に流れてすぐ、川の北側の段丘上に溝の口遺跡があります。これは縄文時代後期から末期の遺跡がでています。配石遺構や宮滝式の土器などと弥生時代の遺跡などが出土しています。また(『古代遺跡と神山紀行』井上香都羅著)によれば、南の黒沢山を頂点にした神奈備山が三重に重なっている場所だそうです。

 貴志川は西向きの流れが北東向きに変わります。木津なる地名があり、水運の歴史を思わせます。貴志川町に入ると国主淵(くにし)と云う深い淵があります。神蛇が潜むと云われます。その左岸に大国主神社が鎮座、八十神達に追われて五十猛神のものへ行こうとした大国主命が当地を訪れたのを由緒としたとされます。

 貴志川町は紀州明日香と呼ばれるように、遺跡や古墳の多い所です。次ぎに貴志川町と桃山町の境界を流れ、紀の川に合流します。桃山町は昔の荒川庄で、崇神天皇の妃の一人になった遠津年魚眼眼妙媛がいて、その親である荒川戸畔の居住地が桃山町です。崇神・妙媛の皇女の豊鍬入日売命が創建した神社が三船神社とされ、その元社が現社地の東約3kmの稲村明神社で、ここが荒川戸畔の拠点だったのでしょう。

[8799] Re[8798][8788][8787]: 神社について  佐々木高久 2008/03/16(Sun) 12:20 [Reply]
>古代の神社は山頂にあったのではないでしょうか?
 そうなんですね。
 しかし現在平坦なところも、古代はかなり起伏に富んだ場所だった可能性があります。その後土砂によって埋まっていった。平家物語の絵巻や荘園絵図、近世絵図を見ていても、はげ山ばかりで、その崩壊土砂が低いところを埋立てたと考えればどうなるのでしょう。

[8798] Re[8788][8787]: 神社について  佐々木高久 2008/03/16(Sun) 12:10 [Reply]
 ご指導ありがとうございます。
>鳥居から参道一直線に社殿が鎮座する神社は古社であっても、参道を削られてしまったような神社とも思えます。本来は直角に曲がるとか、参道の中心線を若干シフトして社殿があるのが本来の姿と聞いています。社殿が南面しているとしますと、入口に近い参道は東西になると言うことが言えるのかも知れません。
 荘園絵図や近世絵図を検分する上で、重要なことと思います。

>古社の鎮座地は断層にそって鎮座していることは有名なお話です。これを頼りに断層を探す場合もあるようです。水が出る、獣道が出来る、人が歩く、イオンが出ているなどで発見されて、おそらく聖地と見なされたのが由来かなと思っています。
水が無くては生きていけない上、畿内では街道沿いや古道沿いには水が出ているところが多いので納得できます。
>水害の被災地の神社について調べられた方がおられましたが、研究結果は承知していません。疫病や災いを退散せしめるには素盞嗚尊の力が求められたのでしょうか。よわかりません。
茨田堤沿いも神社が多数立地しますが、素盞嗚尊とは限定できないようです。

[8797] Re[8796]: 光に写真について  神奈備 2008/03/15(Sat) 18:00 [Reply]
> 父の光の写真は以下のサイトおよびブログで紹介しております。
>
> 聖庵
> http://www.e-nippon.net/moon/

 サイトがあったのですね。ありがとうございます。
 お父様によろしく。

[8796] 光に写真について  聖庵@管理人 2008/03/15(Sat) 02:30 [Reply]
父の光の写真は以下のサイトおよびブログで紹介しております。

聖庵
http://www.e-nippon.net/moon/

[8795] Re[8787]: 神社について  PONTA 2008/03/14(Fri) 16:11 [Reply]
>長年神社の参道の方角、拝殿の方角について確認しています。参道が東西方向の神社は、由緒書が式内社や平安時代以前のものが目立ちます。中世以降は南北方向が多いように感じます。何か傾向があるのでしょうか。

古代の神社は山頂にあったのではないでしょうか?
後世に、それでは気軽に参拝が出来ないと、里宮が山麓に建てられました。里宮は村と山頂を結ぶ線上に建てられたと思います。山の北側は日当たりが悪いので、南側に村が出来るわけで、山の南麓に本宮を背に(南向きに)里宮が建てられ、里と結ぶ参道は南北になるのでは?
三河の式内社や飛鳥時代の古寺の特徴は、山の上ではなく、川岸に立てられていて、これは「川で建築資材を運んだため」と考えられていますけどね。
長年にわたって確認はしていませんので、素人考えですみません。

>また菅原道真を祀っている神社(1633年ごろに永井氏によって合祀した神社は除きます)は、活断層沿いに多く分布しており、

菅原道真を祀っている神社って、京都と大宰府。活断層?
後世の天神社なら、活断層に関係なく、全国、あちこちにありますが・・・?
活断層って、日本には、けっこう、たくさんありますよね。

>スサノオの命、牛頭大王を祀っている神社は、水害を守る古代の堤に位置する傾向が見られます。何か傾向があるのでしょうか。

天竜川の川岸には水神として諏訪神社が建てられましたので、浜松市浜北区の諏訪神社を結んだ線が古代の天竜川の川筋だそうです。

奥三河では、堤防が決壊した位置に「水神」と彫られた岩が置かれましたので、同年代に置かれた岩を繋ぐと当時の川筋が分かるそうです。

スサノオ命=水神???

[8794] 川上の霊威 十二 飛鳥川上  神奈備 2008/03/14(Fri) 12:34 [Reply]
 明日香は日本の故郷と云われている地です。古代には宮が置かれ、また重要な事件が起こった地域です。この明日香村を北西から南東へ流れている川が飛鳥川であり、その上流部分を稲淵川とも云います。

 飛鳥川の周辺から東側は広い山地となっています。西側は平地と丘陵地と言えるでしょう。この飛鳥川の上流に稲淵と云う地名があり、ここの神奈備山とされているミヤヤマ山頂に式内社の飛鳥川上坐宇須多伎比売神社が鎮座しています。元々は飛鳥坐神社が鎮座しており、これが現在地に遷座した後に、後裔社として祭られたとも云われています。

 飛鳥川上坐宇須多伎比売神社(以下「臼滝神社」と略します。)を中心として川上約600mと川下約1kmにオツナカケとよばれる藁を使った勧請縄を川に渡します。綱を架けるのは神々を勧請することです。
 
稲淵(川下)の男綱 
栢森(川上)の女綱 http://www.7kamado.net/den_yamato/asuka_ina.html

 これは所謂「道切り」と云われるもので、正月行事として、村に悪霊が入らないとか、豊作の祈願とか、また川を通って来る霊への信仰、男女と云うことで神婚幻想、上流から流れ来る「福」を留め置く、地域から「福」が流れ出さないようにすることなど、目的については多岐に渡るのでしょう。

 男綱は写真で見るように藁で男根らしいものを付け、女綱は臼状のものを付けています。

 642年、皇極天皇は南淵(稲淵の一部)の川上で、跪いて四方を拝して祈ると、雷鳴がして大雨が降ったと『日本書記』にあります。面白いのはその前に蘇我入鹿が百済大寺に僧を多く招き、発願したら、小雨が降った程度だったので、天皇が直々に雨乞いを行って、大いに成果があったとしています。


 天武五年に、「南淵山、細川山は草木を切ることを禁ずる。また畿内の山野も云々。」と禁令がでています。この頃も旱魃多かったようで、水源地の保護をさせているようです。ムダなダムより遙かに安上がりで効果的な処置です。大いに先人の知恵に学びたいものです。

 話をオツナカケに戻しますが、桜井市の江包と大西にもオツナサンとよばれる神婚神事があります。江包の素盞嗚神社と大西の御綱神社「稻田姫命」の祭で、ツナを担いで練って歩き、オヅナ・メヅナを合体させる神事です。これには次のような伝承があります。上流から流れてきた二体の神をそれぞれすくいあげて祭り、二人が蛇体となって合体・結婚をして頂くようです。

オツナサン http://www.7kamado.net/otunahan.html

 大和にはノガミ系のツナ祭りがあります。例えば御所市の蛇穴の野口神社の「野口祭」です。蛇綱引汁掛祭で、5月5日に蛇綱引祭のみ行われています。稲藁で約10m程の蛇体を作り、これを当地各戸へ巡幸する祭りです。

野口神社 http://www.7kamado.net/noguti.html

 明日香村は吉野への通路です、神仙郷・常世の吉野路への道筋です。その道の飛鳥川上に入って行く所に橘の大字があります。ミソギの聖地だそうです。近鉄大福駅の北の小墾田宮から真南に大路が延びていますが、これは橘街道とよばれています。この道は南西に曲がり、中ツ道に合流し、飛鳥川沿いに吉野につながっています。

 明日香村の川上も聖地ですが、そこを入口としている吉野は究極の聖地と言えるのでしょう。

[8793] 丹生川上神社の写真  素人 2008/03/13(Thu) 23:55 [Reply]
>次はお空にできた三つの光の輪です。
http://6314.teacup.com/kamnavi/img/bbs/0000359M.jpg
突き出た尾根の先の小山の上の変な物の部分に光の輪ができるのでしょうか。
小山から上昇した温かいバブルが上空に積雲を作るのではと考えられますが、これらが変化してうず巻きなどを造り、光によって輝いて着色するかもしれません。
位置的にはもう少し上空かもしれません。天気で風のあまり強くない、雨上がりの日には積雲は見られやすいかもしれません。地元の古老に伺うと面白い話が伺えるかもしれません。
面白くない青草でした。

[8792] Re[8789][8785][8784][8779]: 川上の霊威 七  素人 2008/03/13(Thu) 23:11 [Reply]
神奈備 さま
> 写真を転載しました。
>
あまりに青草なので止めていましたが。
光の渦巻き
http://pds.exblog.jp/pds/1/200609/07/63/a0078363_152872.jpg
「花火についてたドラえもん眼鏡越しに。
この眼鏡を通して見る、高速道路(特にトンネル)が最高に楽しかった。」
http://ninglegle.exblog.jp/4243280/
光の渦巻きはあってもいいかなと考えていました。
地形が川の入りと出を塞がれた舟形の地形で、端に小山のトリガーがあるので、上昇風が上りそうに考えてしまいました。上空に積雲は湧くのでしょうが。
駄文お許しください。

[8791] Re[8788][8787]: 神社について  玄松子 2008/03/13(Thu) 22:06 [Reply]
お久しぶりです。

> > 参道が東西方向の神社は、由緒書が式内社や平安時代以前のものが目立ちます。
>
>  この辺りのことは式内社を多く参詣されている”おそらく日本一であろう”の玄松子さんにお聞きになるのがより確かだと思います。

いえいえ、僕なんかよりももっと沢山、丁寧に廻っている方を何人か知っています。
その何十倍も、何百倍も多くの方々が式内社などの古社を廻っているのでしょう。

さた、社殿・本殿の向きには意味がある「場合」があるでしょうが、参道は、より現実的な地理的(位置)条件によって決まっているのではないでしょうか。
人々が「参拝する道」ですから、神社と集落(人々)の位置関係が一番大きな理由ではないかと思います。

たとえば、山を遥拝する里宮が西麓にあれば参道は東西に、南麓にあれば参道は南北に延びるのではないでしょうか。

[8790] 川上の霊威 十一 大和川  神奈備 2008/03/13(Thu) 10:05 [Reply]
 古代、河内湾・河内湖に流れ込んで大阪平野を形勢してきた河川は淀川と大和川でした。

 淀川は三本の川が同じ場所で合流すると言う世界でも珍しい川です。琵琶湖から流れてきた宇治川、伊賀から山背街道を北上してくる木津川、丹波から嵐山の景観をつくって流れてくる桂川の三川です。

 淀川の表記に澱川が使われていました。ゆっくり流れて澱んでいるようだからと言う説もあるようですが、勝馬に賭ける男達の慕う女神を祀る與杼神社に因んでいるのではと思われます。式内社の與杼神社は佐賀郡河上神(与度日女神)を勧請したとされていますが、一方夢のない話としては此の地に古くから住んでいた大与等某という住民の祖神を祀ったとの説があるそうです。

 河内湾は縄文時代大阪の上町台地の北や東に広がる瀬戸内海につながる湾でした。神武東征物語の河内湖の進み方や退散の仕方はどうも縄文時代の湾を思わせる記述のように見えます。

縄文 弥生 
古墳 

 この河内湖に流れ込んできた土砂は主に淀川から来たようです。伊賀・近江・山城あたりが徐々に開発されて来て、土砂が流れて来て、河内湾は北側から埋まって来たようです。

 大和からの土砂の流れは少なかったようで、河内湖の南側はなかなか埋まって来なかったようです。

 大和川は大和国中を通って信貴山南麓の竜田大社の南側の狭い所を経過し、亀の瀬と言う浅い場所を過ぎて河内に流れ込んでいます。この経路は見れば見るほど不自然な気がします。普通には流れそうでない山中を通っているように見えます。JR大和路線の経路です。これは自然でない何かの力が働いて流れを造ったようにしか見えないのです。

 近鉄大阪線の経路の長尾街道が本来の流路であったのかも知れません。この場合には大和にも広い大和湖があったのでしょう。
 現在の大和川の大和側には石器時代の遺跡は出ていないのですが、近鉄大阪線の大和側の下田や狐井には遺跡があります。


 河内湖から舟で大和に行くことが考えられますが、亀の瀬辺りでとてもじゃないですが、通れないようです。さらにこの前後では14m程の落差があり、水は急な流れだったようです。

 推古天皇の時代に裴世清が難波津についてから飛鳥に行っています。裴世清が迎えられたのは海石榴市の路上です。飛鳥に入るのに三輪山の麓の海石榴市と言うのはいささか遠回りです。何故、海石榴市となったかですが、一つは頑張って大和川を遡り、その上流の初瀬川を辿って来たのか、ゆったりと淀川を遡って木津川経由、奈良坂は歩いて越えてと佐保川・初瀬川と言うルートだったのでしょう。 

[8789] Re[8785][8784][8779]: 川上の霊威 七  神奈備 2008/03/12(Wed) 11:36 [Reply]
写真を転載しました。

[8788] Re[8787]: 神社について  神奈備 2008/03/12(Wed) 09:27 [Reply]
> 参道が東西方向の神社は、由緒書が式内社や平安時代以前のものが目立ちます。

 鳥居から参道一直線に社殿が鎮座する神社は古社であっても、参道を削られてしまったような神社とも思えます。本来は直角に曲がるとか、参道の中心線を若干シフトして社殿があるのが本来の姿と聞いています。社殿が南面しているとしますと、入口に近い参道は東西になると言うことが言えるのかも知れません。

 この辺りのことは式内社を多く参詣されている”おそらく日本一であろう”の玄松子さんにお聞きになるのがより確かだと思います。


> また菅原道真を祀っている神社(1633年ごろに永井氏によって合祀した神社は除きます)は、活断層沿いに多く分布

 古社の鎮座地は断層にそって鎮座していることは有名なお話です。これを頼りに断層を探す場合もあるようです。水が出る、獣道が出来る、人が歩く、イオンが出ているなどで発見されて、おそらく聖地と見なされたのが由来かなと思っています。
 菅公を祀った神社は、菅公を後から合祀して母屋を取られた場合が多いようで、本来は天神を祀る古社だった可能性が考えられますね。


> スサノオの命、牛頭大王を祀っている神社は、水害を守る古代の堤に位置する傾向

 水害の被災地の神社について調べられた方がおられましたが、研究結果は承知していません。疫病や災いを退散せしめるには素盞嗚尊の力が求められたのでしょうか。よくわかりません。

[8787] 神社について  佐々木高久 2008/03/11(Tue) 20:30 [Reply]
 長年神社の参道の方角、拝殿の方角について確認しています。参道が東西方向の神社は、由緒書が式内社や平安時代以前のものが目立ちます。中世以降は南北方向が多いように感じます。何か傾向があるのでしょうか。 また菅原道真を祀っている神社(1633年ごろに永井氏によって合祀した神社は除きます)は、活断層沿いに多く分布しており、スサノオの命、牛頭大王を祀っている神社は、水害を守る古代の堤に位置する傾向が見られます。何か傾向があるのでしょうか。

[8786] 川上の霊威 十 河童  神奈備 2008/03/11(Tue) 15:49 [Reply]
 川の話には河童は付き物でしょうが、筑紫の地行浜には海にも河童がいるようです。ここは古代の海人族の安曇氏の拠点である志賀島が目の前にあり、その祖である安曇磯良は遠く宮城県の神社でお河童様として祀られています。

 宮城県加美郡色麻町の磯良神社は通称お河童様として、河童の生息地の伝承の碑が立っています。この色麻町には播磨の飾磨の射楯兵主神社から勧請した伊達神社が鎮座していますが、兵主神のお姿は見えないようです。

 兵主神は漢の高祖が祀った蚩尤(シユウ)のことです。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/anasi.htm

 これは見かけには河童でもあり、猿でもあり、傀儡の人形のようでもあり、児童のようにも見えます。河童のことをヒョウスベとも言いますが、兵主部とでも書くのでしょうが、実は兵主神でもあり、傀儡の祖神の磯良でもあるのでしょう。

 安曇と河童との繋がりのわかりやすい例は登山のメッカである上高地の明神池畔に穂高神社の奥宮が鎮座、また梓川には河童橋が架かっていることです。

 海神は小童神とも記されます。間際らしいのですが、通底しているようでもあるお話。小童は「こわっぱ」と発音されて、河童に近いようですし、大工が木屑で人形を作って命を吹き込んでこれを小童として下働きに使い、工事が終わったら、小童を川に捨て、それが河童になったとも言われます。

 実際には河童が男の子に擬せられるのは、昔は男の子はしばしば水死することが多かったこともあり、河童に引き込まれたとか、河童になったと言われたのでしょう。

 福岡県久留米市大字瀬下町の水天宮には、安徳天皇が祭神として祀られています。河童は水天宮の眷属と言われます。

 青森県西津軽郡木造町に水神信仰があり、水虎様と呼ばれているようです。ここには亀ヶ岡遺跡があり、遮光式土偶が出土しています。ひょっとしたら遮光式土偶も河童のイメージかも。

[8785] Re[8784][8779]: 川上の霊威 七  神奈備 2008/03/11(Tue) 15:49 [Reply]
「聖なる光」から写真を一枚転載したいので、許可を求めているのですが、応答がありません。もす暫く待ってみます。

[8784] Re[8779]: 川上の霊威 七  素人 2008/03/09(Sun) 22:21 [Reply]
神奈備さま
>  移転前の丹生川上神社で「聖なる光」の写真家の奧聖さんが撮ったものには、空中を舞う光と云うのかぐるぐる廻る虹のようなものが写っていました。これも私にはわからない世界。
> http://www.iwabue.com/media/kourin/kourin.html
>
>  いずれにしても、自然破壊、川上の聖地をつぶしてムダなダムを造る、このような行為にたいしての神の怒りがほとばしったように思われました。
>
青草ですが。
雲が渦巻くことはあるようです。
立冬の渦巻き雲
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/50/0000025050/74/img95c5f1a4zik0zj.jpeg
http://plaza.rakuten.co.jp/katatsumari/diary/200711080000/
形は崩れた時の写真のようです。
あまり高い位置でないので、地上で発生した上昇風が、上空で発ししていた雲を吸い込んだようにも見えます。上昇風のトリガーポイントの近くとかで見られるかもしれません。地形の影響が大と推定されます。
夕焼けのうずまき雲
http://www.photolibrary.jp/mhd2/img22/450-200609200050461305.jpg
http://www.photolibrary.jp/search/?p=%A4%A6%A4%BA%A4%DE%A4%AD
夕焼けの影響があると色も付くようです。渦の形は違いますが。
夢のない内容お許しください。
昔、こちらの近くに吉野から冬、入って熊野に抜けたことがあります。
とても雪の多いところだと記憶しています。湿った、とても、とても重い雪でした。

[8783] 川上の霊威 九 川下の祓い  神奈備 2008/03/07(Fri) 21:00 [Reply]
 日本武尊が熊襲を征伐して帰って来たとき、難波に着いた時、柏の渡にいた悪神を退治しています。この柏の渡ですが、日本武尊の時代にはその様に呼ばれていなかったのです。難波堀江の出口と云った所でしょうか。

 柏の渡の名前は仁徳天皇の皇后の盤之媛が宮中での酒宴である豊楽をするために紀の国の熊野の御崎に行き、そこ御綱柏を採って難波に帰ってきたのですが、仁徳天皇は皇后の留守をいいことに八田皇女を召したのを知って怒り千万、採ってきた柏を海に投げ捨てたので、葉済(かしわのわたり)と云ったとあります。

 柏の葉は『丹生大明神告門』に、応神天皇が美野国の三津柏や濱木綿(はまゆう)を丹生神に奉ったとの記事があるように、祭祀に重要な役割のある植物だったのでしょう。これを難波堀江に捨てるのは穢れの中に放り出すと云うことです。二度と使えないものとする意味があると思います。


 難波の掘江は仁徳天皇の時代に、河内湖の水を大阪湾に流すために掘られた運河です。現在は大川と云い、天神橋・天満橋・淀屋橋がかかっている大阪市内を流れる川です。この運河が開けたことで、難波の地は一挙に便利になり、その後高津宮・二度にわたっての難波の宮がおかれました。

 難波の堀江はその後上流から流れてくる土砂で段々浅くなってきて、運河とか港の機能を十分果たせなくなって来て、淀川の中流の長岡に遷都して行きました。

 難波の堀江は仏像の捨て場になりました。『日本書紀:舒明天皇紀』では、仏教が伝わった直後に国に疫病が流行り仏像を捨てたとあります。穢れたものの上陸の地であった難波堀江に捨てて、韓半島に帰れということだったとか。

 難波の堀江は異国の文化の上陸地でもあり、穢れの上陸地でもありました。また、大和や山城で生じた穢れたも流れ着く場所でした。物理的にも汚れが流れてくる場所です。

 古代からの祭りに八十島祭があります。難波の地で天皇の力をアップするための祭りです。これは難波坐生国咲国魂神社を中心とする祭りでした。この神社は大坂城を造る際、4km程南の現在の地に遷座しています。東面して建立されています。この東面はおそらくは大坂城大手門の地にあったときもそうだったものと思われます。なぜなら方角を変更する必然性は見あたらないからです。

 神社は東向き、祈るのは西方、すなわち難波の海なのです。海は難波堀江を出た所で、すでに穢れは祓われているのです。川下・河口にいる神は瀬織津姫神、速秋津姫神、速佐須良比賣神、氣吹戸主神などの祓いの神々が鎮座、海にはもはや穢れはないのです。その海にまさに多くの島々が出来つつあったのです。そのパワーを天皇に付着させるのが八十島祭りです。

 川下・河口の役割は穢れを祓うことですが、海からやって来た船の底には蠣などの海のものが付着しています。これを川水の所へ曳航しますと、蠣などは船から離れて行きます。これが逆には淡水の生物は海水では生きて生けませんから同じように働きます。古代の人々はこれらも穢れと認識して河口の機能を利用していたのでしょう。

[8782] Re[8781]: 継体天皇  神奈備 2008/03/07(Fri) 20:59 [Reply]
> 神奈備さま、今年の伊太祈曾の木祭りで、晴明さんが餅撒きをしまぁ〜す。
> 拾いに来られませんか?帰りにまたあの温泉に行きましょう(^_-)-☆

それはそれは! 4月6日が木祭りですね。

[8781] 継体天皇  サン・グリーン 2008/03/07(Fri) 11:19 [Reply]
神奈備さま。みなさま、お久しぶりです。
啓蟄と共に久々に顔をのぞかせていただきました。
3月23日(日)午後2時〜3時半
大阪府近つ飛鳥博物館で「考古学からみた継体天皇」の無料講演会があります。
講演者は館長の白石太一郎さんです。
財政難の大阪府ですが、橋下知事に近つ飛鳥博物館の存続をお願いしたいです。

ところで、
神奈備さま、今年の伊太祈曾の木祭りで、晴明さんが餅撒きをしまぁ〜す。
拾いに来られませんか?帰りにまたあの温泉に行きましょう(^_-)-☆

[8780] 川上の霊威 八  神奈備 2008/03/05(Wed) 16:07 [Reply]
 和歌山県橋本市の隅田八幡に保存されていた国宝の「人物画像鏡」が今は東京国立博物館におかれています。鏡の銘文は「癸未八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遺開中費穢人今州利二人等取白上同二百旱作庫此鏡」です。
 解読には色々な説があるようです。癸未の年で西暦383年、443年、503年。443年なら意柴沙加=忍坂=允恭皇后のこと、503年なら男弟王=継体天皇などです。

 継体天皇は北陸からやって来て大和に入るのに苦労したようですが、実は忍坂(桜井市の南部)にとっくに入っていたのだとの説もあります。忍坂は息長氏の拠点ですから、なしとは出来ないのかも。以下、継体天皇への進物として。

 銘文の中の斯麻は嶋王のことで、百済の武寧王となります。継体天皇と同年代の人。
 王   生誕   就任  死去
 武寧王 462−502−523
 継体帝 450−507−531(『日本書紀』)
 継体帝 485−   −527(『古事記』)

 武寧王の誕生の物語はいささか異常といわねばなりません。『日本書紀:雄略五年』「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として派遣する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」妊婦の場合、いつ頃出産の予定かぐらいはわかるはず、百済から僅かの距離の筑紫で出産、途中で子が生まれることは承知の上のはず、武寧王の出自を隠すための下手な作り話。

 継体もその出自に疑問の出る天皇です。その不明な二人が同じ時期に百済と倭国の王になっています。そこに底通するなにかがあるのでしょう。武寧王は継体天皇のことを男弟王と呼んでいます。男弟はヲオト、袁本杼はヲホド、似て非なる発音、これは素直に弟の王の意味で、継体天皇は武寧王の弟だったのかも知れません。盃をかわした兄弟かも。

 百済から任那の四県の領土割譲を依頼され、継体天皇はこれを認めています。これ以来、任那の人心は倭国から離れ、結局、倭国は半島での拠点を失うことになります。倭国の王としては国際的見地もない田舎者との評価でしょうが、実は確信犯として百済に割譲してしまったのでしょう。義兄弟の言い分を受け入れたのでしょう。義兄弟のお陰で天皇位になれたとの思いがあったのかも知れません。


 筑紫君磐井が新羅と手を結んだので、百済の要請もあったのでしょう、磐井を攻め殺して、九州をも配下に入れることで、西日本をほぼ制圧できたのでしょう。

 百済の歴史は北の高句麗からの圧迫で首都をどんどん南へ移転して来ています。最後には白村江の戦いで百済・倭国連合が敗れて消滅します。
 百済の首都は最初は漢江の南(ソウルの南)、次に錦江流域の熊津、更に錦江沿いの泗ヒ(さんずい扁に比)と遷都を繰り返しています。

 面白いには継体天皇の都です。最初は河内の樟葉宮、次に筒城、更に弟国となっており、淀川沿い、木津川沿い、淀川沿いと動いています。本格的な水運が可能な河川の側に都を造る、この考え方は大和の国にいた大王には発想が出来なかったのです。継体ならではと言えます。百済の考え方と同じです。

 今回のお話は、川上の霊威と云うことではなく、河川の流域の宮のお話でした。

[8779] 川上の霊威 七  神奈備 2008/03/04(Tue) 10:01 [Reply]
 貴船神社の創建譚に尼崎の貴布禰神社に着いた神が黄色の船に乗って淀川・賀茂川・貴船川を遡ったとあります。そうしてその神は大和は吉野の丹生川上神社(上社)から吉野川・紀ノ川を辿って大阪湾に出たようです。その吉野の丹生川上神社上社は、白鳳四年(676年)国中の大和神社の別宮として雨師明神を遷した社と伝わっています。

 近年、大滝ダムを造るため、水中に没する丹生川上神社上社を山の上に遷座させました。その跡地を発掘しますと縄文時代の祭祀跡など、実に古くからの聖地であったことが判明しました。まさに川上の霊威そのものです。

 遷座後、ある神職さん http://yonoto.com/ とこの神社を訪問しましたら、ア!、神様ガオラレル!! ついてきてくれたのだ。とのことでした。私にはわからない世界があるのですが。

 その大滝ダム、どうやら大滝ムダになりそうな気配が漂っています。あちこちで地滑りが起こっており、水をためることが出来ないのです。十分な調査もせずに約4000億円を投じて、予定通りのダムが出来たとしても下流域の洪水対策にはならない土木工事だったようです。
 引っ越しを余儀なくされた住民や神様はとんでもない迷惑をこうむり、国民一人あたり3600円の無駄をしたのでした。これが国交省の仕事です。

 移転前の丹生川上神社で「聖なる光」の写真家の奧聖さんが撮ったものには、空中を舞う光と云うのかぐるぐる廻る虹のようなものが写っていました。これも私にはわからない世界。
http://www.iwabue.com/media/kourin/kourin.html

 いずれにしても、自然破壊、川上の聖地をつぶしてムダなダムを造る、このような行為にたいしての神の怒りがほとばしったように思われました。

[8778] 川上の霊威 六  神奈備 2008/03/03(Mon) 14:33 [Reply]
青草に連載中ですが、流れと違うネタなので、青草話ですが、こちらに。

 今東光著『毒舌日本史』の中で、和尚が春日大社の水谷川宮司から聞いた話が載っています。
 「不比等は天智天皇の御落胤だと云うのです。それは皇室には常識として伝わっており、紀元は2600年に近江神宮を造営する際、その仕事を近衛文麿公に命じたのは藤原氏の後裔だからと云うことだ。

 春日大社の宮司は現在も藤原氏の末裔がつとめています。だいぶ前の宮司さんが水谷川というのも、面白い。即ち、春日大社の摂社に水谷神社(みずや)と上水谷神社が鎮座しています。上水谷神社は春日山頂に鎮座しており、禁足地の中のようです。水谷神社の横を流れる水谷川はその春日山から流れ出て来ています。水谷川とは春日大社とは切っても切れない関係があったのでしょう。水谷神社の祭神は素盞嗚尊、櫛稲田姫、大己貴命となっていますが水神であったとされています。。

 春日大社が鎮座した平城京も藤原京と同じように下水の排水効率が悪かった上に、平城京は水の入手も簡単ではなかった。佐保川・水谷川・能登川など、何れも春日奥山を水源とした川のみであり、とてもじゃないですが、豊富ながあったとは思えません。今でも奈良公園の周辺には溜め池が幾つか見られます。

 平城京では良い水が手に入らないこともあり、遷都百年を待たずに長岡京に遷都となったのでしょう。

、水谷神社の祭神の櫛稲田姫からの発想ではありませんが、現在は三重県である櫛田川上流の飯高町大字赤桶に鎮座する水屋神社付近までを昔は大和国の範囲でした。水屋神社の西方約700メートルのところには「閼伽桶(あかおけ)の井」があり、「旧記・古文書」の類によりますと、この「閼伽桶の井」の神水を二振の桶に汲み、貞観元年(859)11月9日より春日大社への奉納を始めたそうです。

 春日大社は遅ればせながら神祭りに使用する清水すら遠くから運んだと云うことです。これでは平城京は川上の霊威に守って貰うことなど期待できない訳で、早々の遷都となったのでしょう。平安京では曲水の宴など、川上から盃を運ぶ鳥形の船など流して優雅に歌を交わしたようです。神泉苑には常時きれいな水が沸き出していたようです。

 平安京の水を司ったのは貴船神社です。余談ですが奧宮は丑の刻参り、中宮にあたる結社は磐長姫を祀っており、縁結びの神だそうです。

[8777] 神仏霊場会?  和歌山(橋本) 2008/03/02(Sun) 23:29 [Reply]
住吉大社や比叡山など125の寺社を巡る神仏霊場会なるものが組織されたそうです。

[8776] Re[8775]: 褐鉄鉱と弥生人  素人 2008/03/02(Sun) 01:26 [Reply]
手前味噌の追加。
> 以前、こちらでも話題になっていましたが古来の直接還元法は、江南地域で発達した製鉄法で、インドなどから入ったと考えられます。低温還元法ですと密度の高い磁鉄鉱ですとかなり温度が上がらないと還元できないと思われますが、密度の低い褐鉄鉱などですと古代の低い温度でも還元可能かと思われます。中国の秦統一時の江南地域の諸国の滅亡による難民流入とするとこの地域の製鉄技術で褐鉄鉱などで弥生時代にノロの発生しない低温還元法で不純物の多い軟鉄が製造されていたとするととても私には都合のいい話になります。
> いつも通の素人の手前味噌です。

春秋戦国時代の揚子江下流域は中流域の楚、下流域に呉越同舟で有名な仲の悪い呉と越が有り間に除があった。
早々と紀元前451年越が呉を滅ぼした。紀元前329年楚が越を撃破して越は弱体化して山東半島の付け根に都を移した。これにより、楚は揚子江下流域を領有することとなる。蜀を領有した秦は蜀の経営に成功した後に楚を攻めて揚子江下流域に楚を押し出した。蜀の経営中にも統治になじまない人たちの流出は考えられると思います。北方の統治は江南の人々に馴染まなかったかもしれません。紀元前223年楚が滅び、222年越が滅んだ。
紀元前225年頃から将棋倒しのように各国が滅び、紀元前221年の斉・衛を滅ぼして秦の始皇帝の天下統一は達成された。
ただ、燕(遼東半島)は紀元前222年に滅亡、斉(山東半島)紀元前221年滅亡で統一の直前まで中国大陸→山東半島→遼東半島→朝鮮半島→日本への経路は確保されていたようです。弥生時代に大陸から海に隔てられて安全な日本に大陸から難民が流れても不思議ではないようです。もちろん、黒潮経由の直行ルートも健在だったと思われます。
日本に来ていたらどの辺に落ち着いたか興味があります。
青草失礼しました。

[8775] 褐鉄鉱と弥生人  素人 2008/03/02(Sun) 01:18 [Reply]
くず様
> 素人さん、縄文の風さんのお話にも繋がりますが、
> 褐鉄鉱容器について。(長編青草になります^^;)
>
> 古事記の天之日矛の話(現代語=Wikipediaアメノヒボコから)
> 「昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。」
>
> この赤い玉、後の阿加流比売神ですが、自分は褐鉄鉱の神格化と思っています^^
> 褐鉄鉱は虹の石との別名があります。http://www.istone.org/funny/rainbow.html
> 表面に薄い酸化皮膜が出来て、虹色に光を屈折させる。
> これは沼地での褐鉄鉱の生成過程、鉄バクテリアの活動の影響にも見る事が出来ます。
> 水面に鉄の酸化皮膜が浮いて、油膜のように虹色に見えるんです。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%A2
> 戸隠神社の雨乞いの霊地「種池」で実際に見た事があります。
>
> 沼で虹のように日がさして生まれた赤い玉。
> これは褐鉄鉱ではないか?
>
褐鉄鉱とても興味があります。
以前、こちらでも話題になっていましたが古来の直接還元法は、江南地域で発達した製鉄法で、インドなどから入ったと考えられます。低温還元法ですと密度の高い磁鉄鉱ですとかなり温度が上がらないと還元できないと思われますが、密度の低い褐鉄鉱などですと古代の低い温度でも還元可能かと思われます。中国の秦統一時の江南地域の諸国の滅亡による難民流入とするとこの地域の製鉄技術で褐鉄鉱などで弥生時代にノロの発生しない低温還元法で不純物の多い軟鉄が製造されていたとするととても私には都合のいい話になります。
いつも通の素人の手前味噌です。
青草失礼しました。

[8774] Re[8772][8771][8755]: 縄文と海人  くず 2008/02/29(Fri) 00:32 [Reply]
> 禹餘粮?と勾玉は豊穣の祈りだろうなあ。
> 当時は赤ん坊の生存率が極めて低かった。子宝と食料、このふたつ以上に重要なものはなかったと思います。
> だとすれば、勾玉とは胎児の象徴説を採りたいところです。

素人さん、縄文の風さんのお話にも繋がりますが、
褐鉄鉱容器について。(長編青草になります^^;)

古事記の天之日矛の話(現代語=Wikipediaアメノヒボコから)
「昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。」

この赤い玉、後の阿加流比売神ですが、自分は褐鉄鉱の神格化と思っています^^
褐鉄鉱は虹の石との別名があります。http://www.istone.org/funny/rainbow.html
表面に薄い酸化皮膜が出来て、虹色に光を屈折させる。
これは沼地での褐鉄鉱の生成過程、鉄バクテリアの活動の影響にも見る事が出来ます。
水面に鉄の酸化皮膜が浮いて、油膜のように虹色に見えるんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%A2
戸隠神社の雨乞いの霊地「種池」で実際に見た事があります。

沼で虹のように日がさして生まれた赤い玉。
これは褐鉄鉱ではないか?

少し前の青草に下照姫がインド神話のシーター姫に関係しているのではないかと書きました。
シーター姫は、鋤でうなった畝を表し、鋤の刃先から生まれたとされます。
畝はまんま畝傍、畝女に通じるかもしれません。住吉大社の埴土の神事は畝傍山の土を使います。
宗形の三神もオリオンの三つ星を表しているとしたら、、
下照姫と味鋤高彦根神の母は宗形三神の田心姫です。
東南アジアと日本で、三ツ星と子三ツ星(オリオン大星雲)を指して、柄鋤と見る地域があります。
鋤の刃から生まれたシーターと妹のウルミーラは、ラーマと弟のラクシュマナに嫁ぎますが、
この4神を星と見て三ツ星(柄鋤)とあわせたらそれはオリオンの形。

シーターは、悪鬼から助け出されたあと貞操を疑われて火にかけられ、森に追放されてそこで双子を生み、最後は大地母神に抱かれて土に返ります。

唐古・鍵の2つの勾玉が入った褐鉄鉱容器は、このシーターへの信仰を具現化しているようにも思えます^^

> 住吉三神は後に勢力拡大した海の民に残った星神の痕跡・・オリオンの三つ星(底、中、上)だと考えています(^^;
> 以前にも神奈備さんの掲示板にだしましたが、以下は東から上るオリオンを周防灘から姫島(大分)に望むの図。
> http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/orion.png

長くなりました。残りの返信はのちほどに^^

[8773] 火の玉、勾玉  素人 2008/02/29(Fri) 00:04 [Reply]
かたばみ様
> 禹餘粮?と勾玉は豊穣の祈りだろうなあ。
> 当時は赤ん坊の生存率が極めて低かった。子宝と食料、このふたつ以上に重要なものはなかったと思います。
> だとすれば、勾玉とは胎児の象徴説を採りたいところです。
>
度々の、私の夢想ですが、生命の源・生命エネルギー・強力な霊魂のように思われます。前に写真(長野県黒姫高原)でご紹介しました気象現象の球電ではないかと思われます。
黒姫高原近くまで行きましたが、風の谷の出口で小川があり、近くに湖があります。
雪が降っていました。列車ですとスイッチ・バックなどあります。峠です。局地前線など現れそうな谷でした。
光り輝く球が尾を引いた火の玉です。雷の一種です。内部にケイ素などのかなり濃度の高い物質を含むようです。プラズマなどと考えられ含まれる元素によっては色など付くのではと考えます。
珍しい現象ですが結構発生しているようです。
飛び回っていたのが、立ち木などに掛って停滞するようですから古代人でなくてもびっくりするでしょう。古代信仰の対象であったかもしれません。
勾玉はかなりのこだわりが有ったようですから、かなり派手なインパクトのあるモノから来たと考えた方がいいと考えます。古代人には奇跡と思わせるものが必要です。
とんでもない、素人の青草でした。


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