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掲示板のログ(平成二十年 四月 2008.5)お名前の敬称は省略しています。

[9020] 銅のリサイクル  素人 2008/05/31(Sat) 22:12 [Reply]
どんたく様
遅れた書き込みすみません。
前に銅鐸のことを書き散らかしていた素人です。お恥ずかしい。
銅鐸や銅についてつまらないことをいつも考えています。
ご指導お願いいたします。
>
> > http:// www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf
>
> 大変興味深い論考ですね。
> ついでに著者の顔写真も見つけました。(^_^)
> http://www.u-tokai.ac.jp/undergraduate/humanities_and_culture/fine_arts/shared/pdf/fine_arts.pdf
>
> この論考では、中国南部の青銅器と日本の銅鐸とを結びつけて考察し、
> 「朝鮮半島の小銅鐸→日本の銅鐸」
> という一般的に言われている図式に疑問を呈しているようですが、これは傾聴に値する論ではないかと思います。
 銅鐸を考えるとき材料である銅やスズのことを考えるのですが、金属としては鉄より腐食しにくく高価でリサイクルでは高値で売れるようです。外国人の電線泥棒などありました。古代でも貴重な銅や青銅は高値で取引されたのでしょう。外国からも屑銅や屑青銅などを購入したのでしょうか。李朝のころは朝鮮での仏教弾圧(儒教による。)で仏像・仏具・鐘などが売られ日本や中国で鋳潰されてリサイクルされた歴史もあるようです。
 逆に日本では、こちらでも最近、取り上げられました奈良の大仏建立時の銅・錫集めは当時としては集積される材料の量が莫大で日本国中から銅などが絞り出されたと推測されます。これらの銅材料の中には貴重な家宝や、現在で言えば貴重な文化財などが鋳潰されて日本の歴史のかなりの部分が消滅したように思われるのですがそんなことはないのでしょうか。目を付けられて取り上げられないように、密かに山中や畑に埋めて守ったりしなかったのでしょうか。(銅鐸のことではありません。時代が違います。)鏡の鋳造原料としては狙われることはあったかもしれませんが。
 結構、古代から鋳造原料として銅や青銅製品が狙われることがあり、争奪戦が繰り広げられたなど考えると楽しくなります。
近世では、太平洋戦争中の金属供出?などがある様に聞きます。お寺の鐘や銅像などが鋳潰されたようです。
重ねての質問ですが古代にも同じようなことがあり、銅や青銅の歴史に影響を与えたのでしょうか。
意味不明の青草で失礼しました。

[9019] 日置天神社追加  佐々木高久 2008/05/31(Sat) 10:43 [Reply]
 8つの山車に何かヒントがあるのではないかと思いましたら、なんと写真がありました。
 測量作業、計時作業など彫り物?がありました。
 また古代の交野を示唆するような彫り物?も多数見えます。

 http://www.ne.jp/asahi/senshu/danjiri2/hikarenai/hikarenai.html

[9018] Re[9008][9006][8965]: 牛馬の犠牲  佐々木高久 2008/05/31(Sat) 10:05 [Reply]
 とみたさん
 日置に関して、追記事項があります。
 日置郷は、上から見ると東西南北の方位盤になっており、日置天神社は北東にあります。
 また日置天神社の8棟の山車格納倉庫と社殿の配置を上から見ると見事な日時計になっています。グーグルなどの大縮尺の地図で枚方市招堤南町二丁目あたりを見ると再現できるかもしれません。

[9017] Re[9015][9010][9009]: 徒然に  神奈備 2008/05/31(Sat) 09:45 [Reply]
道州別天照大神・月読神を祀る神社の割合 %
摂社を含む(神社本庁 平成CDから)
    天照大神     月読神
北海道 26.6     0.5
東北  13.0     1.4
関東  10.2     0.8
北陸  23.8     0.3
甲信  12.3     0.5
東海  15.7     0.5
東日本平均 15.1    0.7
近畿   7.4     0.4
中国   5.9     0.6
四国   7.1     0.5
九州   6.0     0.4
西日本平均  6.6    0.5

12万の神社からの計算ですから十分に有意差があります。

天照大神の多寡
富山県の割合は 43.1%、福岡県で 3.5%です。
月読神の多寡
山形県  2.3%  富山県 0%(1社/2431社)。
月読神と月山信仰とは混ざっているようですから、月読神の割合と朝廷の威光とは関係ないと思いますのでこの部分は取り消します。

神社本庁『平成CD』では橘大神は弟橘姫のこととしています。

[9016] 銅鐸と日置の解説 ありがたく  とみた 2008/05/30(Fri) 23:04 [Reply]
どんたくさん
銅鐸のコメントありがとうございました。

佐々木さん
日置の話、とても興味深く読ませていただきました。

いずれも参考にさせていただきます。

[9015] Re[9010][9009]: 徒然に  佐々木高久 2008/05/30(Fri) 23:02 [Reply]
神奈備さま
>天照大神を祀った神社や月読神を祀った神社が東日本に多い傾向にあるのは、やはり大和山城朝廷の威光がききはじめたが遅かった地域であることが影響しているのかも知れません。
 すいませんが、これはどうゆうご判断基準によるのか、お教え頂けないでしょうか。あと先日、橘大神をはじめて見ましたが、これはどのような由緒の神様なのでしょうか。

[9014] Re2: 銅鐸の起源  どんたく 2008/05/30(Fri) 22:45 [Reply]
とみたさん、こんにちは。 どんたく です。

銅鐸の形に関して、もう一つ書き加えておきたいことがあります。

通常、世界的に見て、ベルを横から眺めた場合、「い」の字のように胴体の真ん中部分が膨らんだような形になっています。

それに対して、日本の銅鐸の場合には、「八」の字のように胴体の真ん中の部分がへこんだような形になっています。

この銅鐸の曲面は、数学的にいうと一葉回転双曲面(いちようかいてんそうきょくめん)になっています。
神戸のポートタワーの形が典型的な一葉回転双曲面であります。
銅鐸の鐸身の曲面は、これの一部分を切り取って作ったような形です。

このような曲面を持ったベルは世界的に見て他にはないように思います。
この点から考えると、銅鐸は単なる外国の真似ではなく、日本独特の発達を遂げた形をしているということができるかと思います。

[9013] Re: 銅鐸の起源  どんたく 2008/05/30(Fri) 22:29 [Reply]
とみたさん、こんにちは。 どんたく です。

> どんたくさんは銅鐸の研究家として、・・・・

いえいえ、単に銅鐸が好きだということだけでして、とても研究家と言えるような者ではありません。

> 銅鐸のルーツです。

銅鐸のルーツというのは難しくて、本当のところ私にはよく判りません。

一般的には、朝鮮の小銅鐸が祖型であるという説が有力なようですが、果たして本当にそうだろうか、という疑問を私は持っています。

東京国立博物館の井上洋一氏は、おおよそ次のようなことを言っておられます。※
「朝鮮小銅鐸が戦国から漢代にかけての中原ならびに遼寧の青銅器文化との影響のもとに誕生・発達したものと考えられるのと同様、弥生文化の銅鐸の誕生にあたっても、単に朝鮮小銅鐸からの一元的進化を説くのではなく、そこに中国青銅器文化を介在させて考える必要もある。」
(※ 井上洋一「銅鐸起源論と小銅鐸」東京国立博物館紀要 第28号 1992年)

私も日本の銅鐸は何らかの形で中国の影響を受けているのではなかろうかという気がしています。
朝鮮式小銅鐸が無文で鰭がないにのに対して、日本の銅鐸は有文で鰭があります。
実は、中国の西周時代のベルに、有文で鰭のあるものがあります。
(Mixi では、これを私のシンボルマークに使っています。)
こういうのを見ていますと、日本の銅鐸につながる何かがあるような気がしてきます。

なお、『東アジアの古代文化』77号 1993年秋号 p.253 に次のような短い記事が出ていました。
「新説・銅鐸の起源は殷の銅鈴」
「弥生時代の銅鐸のルーツは中国河南省で出土した殷代初期(約3700年前)の銅鈴であるとする説を、春成秀爾国立歴史民俗博物館教授が広島の講演会で発表した(読売5−9)」
残念ながらこの講演の具体的な内容については判りませんが、とみたさんのお説に多少とも近いものかもしれません。

[9012] Re[9010][9009]: 徒然に  玄松子 2008/05/30(Fri) 21:50 [Reply]

>  天照大神を祀った神社や月読神を祀った神社が東日本に多い傾向にあるのは、やはり大和山城朝廷の威光がききはじめたが遅かった地域であることが影響しているのかも知れません。

なるほど、そうかもしれません。

たとえば茨城。
日月神社として天照大神とセットで祀られる神社や、六所神社/十二所神社として神世七代の神々の一柱として祀られる神社が多いようです。

面白いのは、疱瘡神として数社。他県では少彦名神か素盞男尊なんですが。

[9011] Re[9008][9006][8965]: 牛馬の犠牲  佐々木高久 2008/05/30(Fri) 20:50 [Reply]
とみたさま
>招堤小学校の傍の高台で暮らしました。竹薮を開いたところで百足がワンサカいました。
 まさにそこが日置郷です。
 南に日置天神社があったと思いますが。旧版枚方市史によれば、日置郷は白河天皇御即位式大嘗会の御屏風に書かれていて、前中納言藤原信房が「日置の里人の都度集へるを見て」と題して詠じた歌に、「曇なき君が御代にはあかねさす日置の里は賑わいにけり」があるとか。片岡家所蔵の招堤寺内興起傳記によると日置郷千軒、巨刹ありと。また正平7年に兵火で荒廃に帰したとのこと。
 とにかく平安鎌倉にはかなり繁栄したところと見えます。これ以上はわかりませんが。
>日を置くつまり太陽信仰の関わり、太陽祭祀を仕切る部族。測量専門の部族かも知れません。火を置くとして鍛治に関係する部族かも知れません。新撰姓氏録では、高句麗出身だそうですね。伊利使主がご先祖とか。
 小字地名からは、平板測量と水準測量が読めます。
 日置氏が測量と関係あるならば、尺奴(尺土)という人たち?との関わりを考える必要があるのかもしれません。
 また太陽神と聞くとどうしても、サムソンとデリラーを想像してしまいますが、日置氏については下記の専門書があります。
 前川明久「日本古代政治の展開」法政大学出版局, 1991
 内容としては 8世紀における政治の特質とその裏面を、聖徳太子妃入内、蘇我氏の東国経営、私部と壬生・壬生部、飛鳥仏教、壬申の乱と湯沐邑、八姓の制、古代年号、陸奥産金と遣唐使、皇位継承と伊勢神宮、道鏡、近江・平城・平安各遷都等々を通じて追究。日置氏、名張厨司に関する論考。
 ちなみに白土三平のカムイ伝の舞台は架空(たぶん和歌山)の地日置であり、日置藩の謎を解くために古代測量の技術で解明する、弓道の日置流(これはあまり関係ないと思いますが)などありました。
 私のわかる範囲での案内ですが。
枚方市の文化財の案内ページです。
http://www.city.hirakata.osaka.jp/freepage/gyousei/bunkazai/serch/index
防府の阿弥陀寺鉄宝塔銘に多々良氏大原氏とともに日置氏の苗字が出ています。この3氏の組み合わせ手がかりでしょうか。http://bunkazai.ysn21.jp/general/summary/youroku.asp?mid=70059&cdrom=

 神奈備様玄松子様
 月読神には、月山信仰も混入いるのではないでしょうか。しかし山形は良いとしても千葉茨城静岡が多いのが不思議です。面白い結果です。

[9010] Re[9009]: 徒然に  神奈備 2008/05/30(Fri) 20:07 [Reply]
 ある方が鳥居の型について地域の差などを調べられた結果を見せて頂きました。
 これによりますと、神明鳥居系(伊勢、靖国、素木、黒木など)は東日本に多く、西日本は明神鳥居系(明神、台輪、春日、八幡等)が多い傾向にあるとの結果を披露されています。
 天照大神を祀った神社や月読神を祀った神社が東日本に多い傾向にあるのは、やはり大和山城朝廷の威光がききはじめたが遅かった地域であることが影響しているのかも知れません。

[9009] Re[9007][9005][9004]: 徒然に  玄松子 2008/05/30(Fri) 11:46 [Reply]
> >  古山陰道沿いには島根までは比較的月読神が多く分布しているよう(鳥取県が多い)です。これが壱岐までつながると面白いのだが。月読・・・築四道の当て字ではなかろうが。
>
>  本当ですね。『平成データ』から月読神を祀っている神社数を出して見ました。

他の県も確認しないと、多く分布しているかどうか・・・

ちなみに、20社以上確認できる県(境内社含む)は、
岩手 25社
秋田 27社
山形 41社
福島 24社
茨城 49社
栃木 20社
千葉 42社
新潟 30社
静岡 41社
愛知 24社
京都 27社
島根 23社
岡山 21社
大分 22社

西よりも東に多いような気がしますが。

[9008] Re[9006][8965]: 牛馬の犠牲  とみた 2008/05/30(Fri) 09:15 [Reply]
> とみたさん
>  完全にボケていました。まず馬の祭祀遺跡ですが、枚方市北楠葉(小字千冨内)で土馬による祭祀、同市禁野で馬頭を井戸祭祀が出土しておりました

佐々木さんの話は、信憑性が高いので参考になります。
谷川健一さんが、日経新聞の私の履歴書欄で今語っておられますが、手がかりは現地へ行き、地名と神社を探ることだそうですから、佐々木さんは河内湖周辺を同じ手法で究めておられるわけですね。
樟葉ですか。私は八幡市男山に接する大阪府の枚方市樟葉の高台に住んでいました。
土馬ですか。馬は高価なので代用として土で馬をつくり犠牲としたのですね。
馬頭の井戸祭祀もありましたか。

やはり枚方あたりは河内の馬の本場、継体にゆかりが深いのは頷けますね。



>  また同市招堤に日置郷があり、小字地名で九十分、中横、日の出、北向山、十丁垣内などの測量に関わる地名がありました。ぼちぼちですいません。

招堤小学校の傍の高台で暮らしました。竹薮を開いたところで百足がワンサカいました。

日置郷があるんですね。日置氏には大変興味を抱いています。枚方の御殿山の北に日置山があるはずですが。

日置氏の正体がわからないんです。

日を置くつまり太陽信仰の関わり、太陽祭祀を仕切る部族。測量専門の部族かも知れません。

火を置くとして鍛治に関係する部族かも知れません。新撰姓氏録では、高句麗出身だそうですね。伊利使主がご先祖とか。

日置の名前は各地にあります。日置川は因幡地方、確か青谷上寺地に、南九州の阿多は鹿児島県日置郡金峰町が本拠でしょう。阿多隼人の本拠化も知れません。

丹後の浦島子の住んでいた与謝郡日置里など有名です。
出雲の経島の別名は日置島です。日沈む宮があります。
関東の埼玉県の比企は日置でしょう。鎌倉幕府の時代に一族が殺されました。



[9007] Re[9005][9004]: 徒然に  神奈備 2008/05/30(Fri) 08:59 [Reply]
>  古山陰道沿いには島根までは比較的月読神が多く分布しているよう(鳥取県が多い)です。これが壱岐までつながると面白いのだが。月読・・・築四道の当て字ではなかろうが。

 本当ですね。『平成データ』から月読神を祀っている神社数を出して見ました。

日本海コース
丹波国 14社
丹後国 10社
但馬国  4社
因幡国  8社
伯耆国  5社
出雲国 11社
石見国  2社
隠岐国  3社
壱岐国  3社

瀬戸内コース
摂津国  8社
播磨国  5社
(美作国 13社) 
備前国  5社
備中国  3社
備後国  2社
安芸国  4社
周防国  5社
長門国  2社
豊前国  3社
筑前国  5社
壱岐国  3社

[9006] Re[8965]: 牛馬の犠牲  佐々木高久 2008/05/29(Thu) 23:42 [Reply]
とみたさん
 完全にボケていました。まず馬の祭祀遺跡ですが、枚方市北楠葉(小字千冨内)で土馬による祭祀、同市禁野で馬頭を井戸祭祀が出土しておりました。
 また同市招堤に日置郷があり、小字地名で九十分、中横、日の出、北向山、十丁垣内などの測量に関わる地名がありました。ぼちぼちですいません。

[9005] Re[9004]: 徒然に  佐々木高久 2008/05/28(Wed) 21:25 [Reply]
>どうなんでしょう。葛葉からは直線距離で13km程度、あまりに遠いのではないでしょうか。それとも何か伝承が残っているのでしょうか。明智さんは承知していますが・・。
 当時の丹波と山城の境界がわかりません。
 足利健亮氏の古山陰道の丹波への入口が老ノ坂あたりでした。古道はほとんど国道9号線と重なっていたと思います。芥川から摂津峡や梶原からポンポン山越はちょっと難所でしょう。葛葉から山崎まで行って古山陰道でしょうか。
 古山陰道沿いには島根までは比較的月読神が多く分布しているよう(鳥取県が多い)です。これが壱岐までつながると面白いのだが。月読・・・築四道の当て字ではなかろうが。


[9004] 徒然に  神奈備 2008/05/28(Wed) 20:27 [Reply]
> 国道9号線の老ノ坂だと思います。

 どうなんでしょう。葛葉からは直線距離で13km程度、あまりに遠いのではないでしょうか。それとも何か伝承が残っているのでしょうか。明智さんは承知していますが・・。


> 甘美内は、淀川と木津川と宇治川が交わる八幡市近辺の豪族、武内宿禰は紀ノ川と吉野川が接する五条つまり宇智あたりの豪族とされます。

 甘美内と武内、これはカミとタケとも読めます。神素盞嗚尊、武素盞嗚尊の例もあり、武内宿禰と甘美内宿禰とは実は同一人物で、盟神探湯の起源説話としたとか言うことでは。熱湯に手を入れて火傷しないはずはないのだから。

 八幡市と五条市、大和の端ですが、供に紀伊に続く地域。

[9003] Re[9002][8999][8998]: 壱岐の月読神  佐々木高久 2008/05/28(Wed) 10:55 [Reply]
とみたさま
>葛葉の近辺で、丹波へ通ずるとするとすれば、京阪電車と近鉄が交差している丹波口あたりでしょうか。これもあやしい。もっと枚方よりでしょうね。
国道9号線の老ノ坂だと思います。
>そうですか、大住と城陽にツキヨミ神社があるんですか。
小川月神社 亀岡市馬路町月読 月読神社 船井郡園部町船岡
大原神社 福知山市三和町 古事記の夜食の国付近
長田神社月読社 兵庫県神戸市長田区 ほか
そのた島根の月山富田、高知に月山神社など月関係があります。
筑、月、高月、綴喜などに連想することもありかもしれません。
>どちらが先に入っていて、後からやってきたのは誰だということですね。
森浩一さんは、雑談の中で、もともとは山代木だと言われていました。代木・・・新羅
>秦氏はその仲介者と思ったりしたのです。秦氏は朝鮮を経由して壱岐島を経由して大和に入る。中臣や天武までつながり仏教や陰陽などの宗教にも関わったのではなかろうかという青草です。
秦氏は、いまなら伊藤忠丸紅でしょうから、売れるものなら何でもありでしょうか。
古代秦氏と近世近江商人の販売構造を比較をすると面白いかもしれません。かなり良く似ていると踏んでいます。
以下のページは参考までに
これは鞆魯岐(ともろぎ)郷石津(着く紫津)の近くです。
http://homepage1.nifty.com/motohiro/kusunoki.htm
これは内神社の案内です。
http://www.asahi-net.or.jp/~UW8Y-KYM/burari02_uchijinjya.html



[9002] Re[8999][8998]: 壱岐の月読神  とみた 2008/05/28(Wed) 06:57 [Reply]
佐々木さん 早速のコメント助かります。
>  とりあえず雑多な内容ですが。
>  甘美内宿禰の根拠地の八幡市内里には小字内もあるし、小字日向堂があります。
>  日向は日向諸県君牛か仁徳帝の大草香皇子を生んだ日向諸県君牛の娘の髪長媛。
> 甘美内宿禰は後者の髪長媛は慕っていたのか。このあたりの真相がわかる面白いかもしれません。

神武も日向出発で、その妃と、大和侵入後の妃と持ってますから、仁徳や日向と大草香の媛と葛城の媛をもらっていますね。

確か崇神か垂仁の時に、日向の方が謀反を起こしますね。葛葉の近くでしたか、うろ覚えです。

四道将軍の丹波担当が向う道中でしたか、吉備津彦が成敗したのでしたっけ。ウロウロ覚えです。

これは本で確かめられますがサボっています。

葛葉の近辺で、丹波へ通ずるとするとすれば、京阪電車と近鉄が交差している丹波口あたりでしょうか。これもあやしい。もっと枚方よりでしょうね。
>
>  月読神社は、大住隼人の根拠地の京田辺市大住に月読神社があります。城陽市水主には樺井月(読)神社があります。水主氏は仁徳帝の栗隈の大溝の管理をしていた。

そうですか、大住と城陽にツキヨミ神社があるんですか。
>
>  さらに万葉集巻三、264、柿本人麻呂の有名な短歌を見ると
>  もののふの 八十氏河の 網代木に いさよう 波の行くえ知らずも
>  物部能 八十氏河乃 阿白木爾 不知代經 浪乃去邊白不母
>  これは宇治(宇智、兎道)付近で詠まれてものとされていますが、漢文の方を見ると物部八十氏、新羅(秦氏)、内(不知)氏、紀氏(白木、去邊白)など氏が見え群雄割拠の地とも読めます。
>  
群雄割拠の地なんですね。尤もですね。

山代は秦氏の本拠。山代は和名抄によれば、紀伊郡、綴喜郡、宇治郡とあるそうですから紀伊の紀氏が関わり、綴喜郡の大住や城陽にツキヨミが、綴喜郡八幡市の甘美内が、隣の枚方交野には肩野物部が関与するのは頷けます。

どちらが先に入っていて、後からやってきたのは誰だということですね。

物部はニギハヤヒだから先行していて、内は葛城ソツヒコの先だとすれば5世紀でしょう。宇治は4世紀後半の須恵器が出ていますから、どうなんでしょう。秦氏は後から入ってきたような気がしますね。

秦氏は、何処からやってきたかで、本題の壱岐のツキヨミのクエスチョンなんです。

壱岐は交易の拠点で、卜骨もたくさん出ていて、占いの本場です。

占部氏がでていますね。

中臣もシャーマンで占い専門です。中臣鎌足の出自はいろいろな説があります。河内湖の畔の枚岡神社は元春日で中臣氏ゆかり。中臣氏の祖の天屋根命の後裔としての壱岐氏ということで面白いと思っただけです。

ツキヨミの月は勾玉。伊勢神宮の外宮の豊受をツキヨミと考える人もいます。

三種の神器に勾玉を外して剣と鏡だけで持統天皇は大嘗祭をやっています。
月は、陰陽にとってはとても大切ですねその動きによって吉凶を知ります。天武が占星台を設けて陰陽に凝った。

北方騎馬民族の匈奴は月日を拝みます。月の満ち欠けによって軍の進退を判断していました。

秦氏はその仲介者と思ったりしたのです。秦氏は朝鮮を経由して壱岐島を経由して大和に入る。中臣や天武までつながり仏教や陰陽などの宗教にも関わったのではなかろうかという青草です。

[9001] 銅鐸の起源  とみた 2008/05/28(Wed) 06:03 [Reply]
どんたくさん はじめまして、 とみたです

どんたくさんは銅鐸の研究家として、銅鐸のデータベースをお持ちであることを存じております。

私も、多少調べているんですが、見解をお教え願いませんか。

銅鐸のルーツです。

小銅鐸は、シベリヤからモンゴルを通り中国遼寧省を経て朝鮮に入ったとされています。これを起源とする説があります。

これは、10cmぐらいの小さい銅鐸ですね。しかも無文です。

も一つは、中国の中原の編鐘(いくつもの鐘を並べた楽器)に起源を持つという説もあります。
日本の銅鐸は小さな聞く銅鐸から大きな見る銅鐸に発展し、文も豊かで区画を持ったりしています。

それで、長江流域の楚越や雲南省の銅鼓に起源を発するのではと個人的に考えておりますが、どんたくさんは如何にお考えでしょうか

[9000] Re8994: 古代船  どんたく 2008/05/27(Tue) 21:19 [Reply]
佐々木高久さん、こんにちは。 どんたく です。

早速の御返事、有難うございました。

> http:// www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf

大変興味深い論考ですね。
ついでに著者の顔写真も見つけました。(^_^)
http://www.u-tokai.ac.jp/undergraduate/humanities_and_culture/fine_arts/shared/pdf/fine_arts.pdf

この論考では、中国南部の青銅器と日本の銅鐸とを結びつけて考察し、
「朝鮮半島の小銅鐸→日本の銅鐸」
という一般的に言われている図式に疑問を呈しているようですが、これは傾聴に値する論ではないかと思います。

また私は、古代日本にアウトリガーのついた船があったとしてもおかしくないのではなかろうかと窃かに思っています。

ただ、この論考にあるように、側面から見てイタリア・ベニスのゴンドラに似たような形をしている船は、すべて双身船であるというように考えるのは、少し結論を急ぎすぎているような印象を持ちます。

井向(いのむかい)1号銅鐸にある船は、側面から見た形をしていると同時に、真上から見た形もしていて、1本の船体の両側にオールが並んだ形で描かれています。
このような絵を「多視点画」(※)と言い、こういう描き方を「展開描法」(※)というそうですが、いわば側面図と平面図とを組み合わせて描いたような絵になっています。

そうして、これを平面図として見ると、1本の船体の両側にオールが並んでいて、双身船の形にはなっていません。

このようなことから考えて、井向1号銅鐸の船が双身船であると断言することは難しいのではないかと私は思います。

(※)
国立歴史民俗博物館編『銅鐸の絵を読み解く』小学館 1997年
p.47 及び p.93

【参考】
辰馬考古資料館所蔵の井向1号銅鐸については、下記の文献に詳述されていますが、この中では船が双身船であるという見解はとられていないようです。

辰馬考古資料館『考古学研究紀要』5 2003年
執筆者:矢野健一、難波洋三、春成秀爾、他

[8999] Re[8998]: 壱岐の月読神  佐々木高久 2008/05/27(Tue) 20:27 [Reply]
 とみたさん
 とりあえず雑多な内容ですが。
 甘美内宿禰の根拠地の八幡市内里には小字内もあるし、小字日向堂があります。
 日向は日向諸県君牛か仁徳帝の大草香皇子を生んだ日向諸県君牛の娘の髪長媛。
甘美内宿禰は後者の髪長媛は慕っていたのか。このあたりの真相がわかる面白いかもしれません。

 月読神社は、大住隼人の根拠地の京田辺市大住に月読神社があります。城陽市水主には樺井月(読)神社があります。水主氏は仁徳帝の栗隈の大溝の管理をしていた。

 さらに万葉集巻三、264、柿本人麻呂の有名な短歌を見ると
 もののふの 八十氏河の 網代木に いさよう 波の行くえ知らずも
 物部能 八十氏河乃 阿白木爾 不知代經 浪乃去邊白不母
 これは宇治(宇智、兎道)付近で詠まれてものとされていますが、漢文の方を見ると物部八十氏、新羅(秦氏)、内(不知)氏、紀氏(白木、去邊白)など氏が見え群雄割拠の地とも読めます。
 

[8998] 壱岐の月読神  とみた 2008/05/27(Tue) 16:38 [Reply]

壱岐の島の謎、環濠集落、原の辻は交易拠点として栄えました。

アマテル神が対馬島(対馬は元は津島・・・港の多い島)とすると、月読神は壱岐島。

壱岐氏は天の児屋根の9世孫。卜占で有名です。卜氏は後の吉田神道に繫がる。
天児屋命は中臣氏と繫がります。

中臣とは天と人をつなぐシャーマンでしょう。

壱岐氏は航海民の顔も持っています。

壱岐氏が阿閉臣に神懸りして、山代の葛野に壱岐の月読神を分祀せよと神託します。

ご承知のように秦氏の松尾神社の近くにツキヨミ神社を建てます。禰宜は松尾神社の神官もかねます。
秦氏が後ろで指示しているようです。

ところで、6世紀になると磐井の乱が生じて、継体は大伴と物部を筑紫に派遣して大童です。

そのとき、航海民の壱岐が磐井につくか継体につくかで戦いの帰趨は決まるようでしたが、壱岐氏は継体側に味方しました。それの御礼に6世紀から7世紀にかけて壱岐ではたくさん(338基)の古墳を造ることを許したと考えられています。

壱岐直の祖先の真根子は、武内宿禰を、弟の甘美内宿禰の讒言攻撃に対して、盟神探湯(くがだち)に持ち込んで救います。甘美内は、淀川と木津川と宇治川が交わる八幡市近辺の豪族、武内宿禰は紀ノ川と吉野川が接する五条つまり宇智あたりの豪族とされます。

このあたり、秦氏、武内宿禰、壱岐氏、中臣氏は交わって面白そうですが。
何かネタはありませんか

[8997] 情  報      紋爺ぃ 2008/05/27(Tue) 10:20 [Reply]
 素人さん、こちらでは初めまして。
 小生の出自が大楠木伝説がある豊後森(現、玖珠町)の切り株山であることは、お読みになられたことでしょうか。ここの水は地球生成当時、分子になりきれなかった素粒子を含んでいるのではないかと、小生は思っています。
 目下『アイヌ語地名考』で生田原(釧路の北の町名)をめぐって、釧路がアラビヤ語起源だとの奇説を展開中ですので、ご覧いただければ幸いです。

 エポック・メーキングな巨大情報でも、なかなか世間に沁み透らないという現象があることに驚いています。
 1996年 9月 23日、パウロ・世の「進化論容認宣言」は、世間からは無視されたままだと思います。
 
 昭和 52年 2月 27日付、読売新聞は BC 3世紀末〜3世紀と目される広州の造船跡遺跡を報じました。船の巾 6 〜8m, 長さ 30m 。 3基の造船跡は、鉄釘、鉄棒が散らばり、現代とほとんど変わらないことを報じたのですが、これも忘れられたままではないでしょうか。
 ですから 208年の赤壁の戦いには、200人乗りぐらいの巨船は、すでにあったはずです。
 「そのうちの 4〜5隻を奪った僮客が熊襲に化けた」……は小生の空想です。

 神奈備どん、ハヤ=岩は朝鮮語でいえます。pay(岩)が開音(母音づけ)されれば paya 。
これが弱音化によって「ハヤ」。
 遠野のハヤチネ(チ・ネは 霊・峰か)山頂には、まるまっちい異質の大きな岩が出てま。
 同じハヤでもいろいろあるので、要注意。パーリ語のハヤは「馬・速い」。

[8996] Re[8992]: 古代船  素人 2008/05/27(Tue) 01:09 [Reply]
とみた様
書込み有難うございます。
日本の船ですから、刳り舟に館をつけたものでしょうか。
> 素人さん とみたです。お互い古代史ロマンの追っかけの同輩ですね。
>
> 実験考古学とか、理数系人間にはなんとなく実証できないと納得できないようです。素人さんは確か、木を植えて確かめておられるようです。
>
> 古代の船も話題として賑わすのですが結局は闇の中です。
>
> 私の考えもまだ、それほど進んでおりませんが、敢えて語るとすれば次です。
>
> 5世紀前半は河内湖まで瀬戸内海?を経由して準構造船で馬を運んだ。
>
> 1-2匹の馬が船に乗せる限度でしょうか。
>
いつも考えているのですが、西暦404年に海路、帯方郡に陽動作戦を日本は仕掛けているので、この作戦のためには、かなりの馬を乗せることの出来る巨船が必要でないかと考えています。これと関連して神功皇后の時代に巨大なクスノキが刈られた話が残っていますので、直径4,5m、長さ20m〜30m位の真直ぐなクス材で船を造ればかなり大きい船ができたのではと夢想するわけで、作戦用の馬と兵員を乗せられたと考えるわけです。西暦404年の大作戦と神功皇后の名で刈られたクスノキの巨木を結びつけたくなります。当時の貿易用の外洋船ですとここまでの大きさは必要なく当時の大きめのクスノキを刈れば作れたのではと考えるわけです。後世にいい伝えられるクスノキですから予想以上に大きな巨木だったのかもしれません。
青草です。
巨石の輸送についてはバラスト代わりを考えるわけです。丸木船のままでは喫水が低くて不安定な為にバラストを積んで重心を低くして喫水を上げて安定化していたのではと考え、鉄や石を用いたと夢想するわけです。
前にも書きましたが、巨木が有れば巨船も可能と言う安易な発想です。
現実には有名な巨木を切ること自体が困難と思われます。

[8995] Re[8994]8993: 古代船  佐々木高久 2008/05/26(Mon) 20:07 [Reply]
どんたくさん
はじめまして。
>銅鐸に船の絵はありますが、双胴船は記憶にありません。
下記論文をダウンロードしていただければ。
本文一部引用しますが
 「この船の形に似た例を銅鼓胸部に探してみると,広西貴県羅泊湾M1:10号銅鼓が挙がってくる。この船の種類は双身船であると考えられている。現在の南洋の双身船として紹介されている図を見ると,井向1号銅鐸の船の形に非常によく似ている。。。」
  www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf
これはデータベースですが、おまけです。
 http://www.nichibun.ac.jp/iseki/index.html






[8994] Re8993: 古代船  どんたく 2008/05/26(Mon) 19:25 [Reply]
佐々木高久さん、こんにちは。 どんたく と申します。

> ちなみに双胴船の絵は銅鐸の文様にも確かありましたね。

銅鐸に船の絵はありますが、双胴船は記憶にありません。

双胴船の絵が描かれている銅鐸というのは、どこのどういう銅鐸でしょうか?

参考文献:
国立歴史民俗博物館編『銅鐸の絵を読み解く』小学館 1997年

[8993] Re[8992]: 古代船  佐々木高久 2008/05/26(Mon) 13:20 [Reply]
 とみたさま
 古代船といえば、寝屋川の長法寺遺跡(寝屋川郵便局建設時)の井戸枠になっていた準構造船がありました。たしか推定で10m以上とありました。
 近くの木田元宮には住吉さんが少し離れると茨田池の廻りに大利神社、御年神社(池田の三つの野神さん)があります。茨田池は舟だまりだったとか。河内湖通過いいですね。
 また、ころもの子絶間(寝屋川市太間から高槻市柱本)の下流には寝屋川市石津(たぶん幡多津)があります。絶間の難所(浅瀬早瀬)の前なので、石材の陸揚げ地だったかもしれません。石津小字神馬屋敷があります。とみたさんの記述のとおり、ここから馬であろうと考えることができます。馬は寝屋川市対馬江や摂津市鳥飼にはたくさん居たようです。あとは乙訓の石作職人ですが。
 実験考古学では高槻市津之江町まで行って石材を下ろしている。ちょっと無理があるような。
 阿蘇ピンク石は比重の軽い石材なので、ある程度の大きさならば、海水なら浮く可能性もあるでしょうが。
 しかし阿蘇ピンクを上物とする慣習は今のラパキビ花崗岩を上物とするのは今の昔も同じようです。
 ちなみに双胴船の絵は銅鐸の文様にも確かありましたね。

[8992] 古代船  とみた 2008/05/26(Mon) 10:53 [Reply]
素人さん とみたです。お互い古代史ロマンの追っかけの同輩ですね。

実験考古学とか、理数系人間にはなんとなく実証できないと納得できないようです。素人さんは確か、木を植えて確かめておられるようです。

古代の船も話題として賑わすのですが結局は闇の中です。

私の考えもまだ、それほど進んでおりませんが、敢えて語るとすれば次です。

5世紀前半は河内湖まで瀬戸内海?を経由して準構造船で馬を運んだ。

1-2匹の馬が船に乗せる限度でしょうか。

石は、各地に運ばれています。吉備の古墳は讃岐の安山岩を使い、大和川沿いの古墳の石は阿波の吉野川流域の石です。

4-5世紀の古墳に用いられている。

石室や石槨を造るとしても全部調達するのではなく、多くは地元の石を使いますが、大事な組み立て式家型石棺などに阿蘇の石を使うようです。組み立てるわけですから分解して持ち込めば重量的に船で運べると考えています。

埴輪などには船を象ったものがかなりあるのは、申すまでもありません。

縄文時代に三内丸山などや沿海州にも黒耀石は丸木舟で運ばれているようです。

ミクロネシアのヤップ島などへは石の貨幣をアウトリガーのカヌーで今も遠方から運ぶ技術が残され、双胴船もあったかと思います。
丸木舟は、中国杭州の7000年前の河姆渡遺跡でも発見され、さらに古い8000年前の跨橋遺跡でも見つかっています。日本の南九州ではそれより古い丸木舟があったとされています。

鳥取県埋蔵センターでは、鳥取の潟湖(ラグーン)遺跡である、桂見遺跡から出土した3500年前の丸木舟が陳列されていました。外海用は7.2mの長さで杉材。

内海用は、6.4mと学芸員は説明されていました。



[8991] Re[8988]: 大きな石  旗幟(きし) 2008/05/26(Mon) 08:34 [Reply]

 素人さん オハヨウ御座います。
双胴船などで網などに入れた石棺を 海中に吊り下げ 運搬したのデハ?と考えます。
旋網 まわしあみ
“まき網”とは,魚群をはじめとする水産動物を,漁網を用いて囲い込むことにより,捕獲対象物の逃げ路をたちきり,そののち,漁網の周囲をしだいに縮小することによって捕採する網具をいう。旋網には,網袋のついている“有袋”のものと,網袋のつかない“無袋”のものとがある。一般に有袋のものは,網の中央部分に網袋があり,左右は同じように袖網(翼網ともいう)が対称的にとりつけられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/R/R233L100.HTM
如何でしょうか?

[8990] 大王のひつぎプロジェクト  佐々木高久 2008/05/25(Sun) 23:14 [Reply]
素人さま
 かつてこんなプロジェクトがありました。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/it50803b.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/
 阿蘇ピンク石は、九州全域から宇部まで到達した阿蘇火山最大噴火である阿蘇4火砕流で出来た凝灰角礫岩であるので、もしかすると九州北部でも調達できたのかもしれませんね。近畿では日本海側や三笠山・二上山にも良質の凝灰角礫岩があるのですが。わざわざ九州から持ってくるとは。

[8989] 仮説  神奈備 2008/05/25(Sun) 22:21 [Reply]
> 隼人が石の運搬人とするのが確か神奈備さんの推量でしょうか。

 恐らく、隼人=安曇 があって、安曇が運搬人と。


> 枕詞

 吉本隆明さんが、「さねさしの相模」について、同じ地域を先住民(アイヌ?)はさねさしと言い、後から来た連中は相模と呼んだ。戦ったのではなく、平和的に融合した証と言っていたように思います。ひとつの仮説として面白い。

[8988] 大きな石  素人 2008/05/25(Sun) 21:32 [Reply]
とみた様
いつもお世話になります。
教えてください。
> 創建時の平安前期には紀氏出身者が神主を務める。淀川水系には紀伊の勢力が古墳時代から及んでいたのではないか。
> 今城古墳に近い、茨木の6世紀後半の海北塚の石室の石材は紀の川流域の緑泥片岩で紀直の岩橋千塚の石棚のものと同じだという指摘です。
>
> 隼人が石の運搬人とするのが確か神奈備さんの推量でしょうか。
>
> 紀ノ川と吉野川が接する五条には、阿多隼人の阿多の地名があり、木津川の田辺市の近くには大隅隼人の大住の地名がある。
>
> 隼人はゴホウラ貝を沖縄から運ぶ仕事にもついていたというのが森浩一先生の説です。船に強い物流業者でしょうか。淀川の今城塚や紀ノ川の大谷古墳の石は阿蘇の凝
> 灰石やピンク石です。隼人は石の運搬人でしょうか。
>
大谷古墳の石の写真を探してみると結構大きな石でした。
http://www.bell.jp/pancho/travel/tango/images/h18j/0930-31.jpg
http://www.bell.jp/pancho/travel/tango/sec-7.htm
沖縄などの船はどちらかと言うと小さい船が多いように思われるのですが、筏とかカタマランなどで運んだのでしょうか。船は現在でも大型の外洋船と小型の近海の船が別々に運用されているように思えますが、いかがでしょうか。
北九州あたりから大型外洋船のバラストと、として運べば問題なく運べると思うのですがいかがでしょうか。外洋船などは渡来系の船員かと夢想してしまいますが、ご指導お願いいたします。
青草ですがお願いします。

[8987] Re[8986][8985][8984][8983]: 星田のこと、継体のこと 谷町筋について    佐々木高久 2008/05/25(Sun) 10:55 [Reply]
とみたさま
関心をお寄せ頂きましてありがとうございます。
>紀伊と山背は繫がっていますね。森浩一さんも山背の紀伊に関心を払われていますね。山城(代)の紀伊郡の南は宇治で菟道。鴨川と桂川と木津川が合流する地が淀津で岩清水八幡宮がある。
 そうですね。紀伊山城は源義経のころには、稜線に道があってつながっていたようですね。水がないから道は出来ないと思いましたが、紀伊から金剛生駒の山地には豊富な水源があります。平野は金気のある水が多いですが、山地の水はいい水です。吉野には吉水がありました。石清水には石清水が。

>隼人が石の運搬人とするのが確か神奈備さんの推量でしょうか。
紀ノ川と吉野川が接する五条には、阿多隼人の阿多の地名があり、木津川の田辺市の近くには大隅隼人の大住の地名がある。
阿蘇ピンク石(阿蘇4火砕流)の切り出しは熊本県宇土の馬門です。また馬です。
記憶はさだかでないですが、隼人には大隈と薩摩の2系統あって、どちらかが琉球か南方系の人だったと聞きましたが、南方系ならば舟の技術にも長けていると思います。舟形石棺の持ち主がそうなのかもしれません。たしか京都の大住の隼人は、最初は捕虜だったと思います。
>墓の向き、頭の向きが気になりますね。
後醍醐帝が死ぬときに、頭の向きを作法と違う方向に指示した(わが魂魄は・・・)とあります。これは北畠親房か吉田定房の作文となっていますが、どちらも当時の総務のトップなので埋葬の作法の伝聞はまちがっていないと思っていますが。
>継体も高句麗出身説がありますし、猫塚も武具や蒙古鉢型冑がでていますので北方系の鮮卑かもしれませんね。自信がありませんけれど、何でも拘ると古代史は面白いんです。
 ちなみに継体のころ、越前加賀能登越中越後前は、すべて古志または越(こし)の国と書いたようです。国の名は筑、肥、豊、備、馬(播磨・但馬・対馬)、丹、越、濃、河、総、野、江が共通するのも面白いかなと思っています。
 最近枕詞と掛詞に凝っていまして、あをによしとならの関係を熟考しておりますと、鋳造直後は赤(丹)でその後青くなるものは青銅だなと、ならは鳴らすと解釈して当時あまり使われなくなった銅鐸のことも懐かしんでもいるのかなあと。

[8986] Re[8985][8984][8983]: 星田のこと、継体のこと 谷町筋について    とみた 2008/05/25(Sun) 08:08 [Reply]
佐々木さんの投稿は楽しみです。嘗て住んでいた京阪沿線、阪急沿線(今年は阪神タイガースは強うオマスナ:冗談)の古代にお詳しい。
>石清水八幡宮の田中家の関係かなと、紀氏がなぜ田中家、善法寺家などの苗字になったのか少し妄想してしまいます。田中家は後村上天皇の行宮だったこともありますし、現在八幡宮の文書類はまさに整理途上であり、またとんでもないものが出てくるのではないかと期待しております。

紀伊と山背は繫がっていますね。森浩一さんも山背の紀伊に関心を払われていますね。山城(代)の紀伊郡の南は宇治で菟道。鴨川と桂川と木津川が合流する地が淀津で岩清水八幡宮がある。

創建時の平安前期には紀氏出身者が神主を務める。淀川水系には紀伊の勢力が古墳時代から及んでいたのではないか。
今城古墳に近い、茨木の6世紀後半の海北塚の石室の石材は紀の川流域の緑泥片岩で紀直の岩橋千塚の石棚のものと同じだという指摘です。

隼人が石の運搬人とするのが確か神奈備さんの推量でしょうか。

紀ノ川と吉野川が接する五条には、阿多隼人の阿多の地名があり、木津川の田辺市の近くには大隅隼人の大住の地名がある。

隼人はゴホウラ貝を沖縄から運ぶ仕事にもついていたというのが森浩一先生の説です。船に強い物流業者でしょうか。淀川の今城塚や紀ノ川の大谷古墳の石は阿蘇の凝
灰石やピンク石です。隼人は石の運搬人でしょうか。


>また今城塚の前方部の方角が半島か大陸を向いているのもおかしいなあと思っています。渡来人系の古墳の前方部と同じ方向を向いています。

墓の向き、頭の向きが気になりますね。弥生時代の 土井が浜人は、顔を故郷の西を向く。

百済の武寧王は、南枕です。朝貢していた中国南朝の梁は確かに南にありました。
中国漢民族は北枕です。

出身地に向くという説と、太陽が上がる東を向くという説があるようです。

騎馬民族のスキタイ人の馬の骨は石堆に埋めてありますが、これは東を向いてあります。

藤の木古墳は、東向きの筈です。
五条の猫塚は頭は北西です。

継体も高句麗出身説がありますし、猫塚も武具や蒙古鉢型冑がでていますので北方系の鮮卑かもしれませんね。自信がありませんけれど、何でも拘ると古代史は面白いんです。

[8985] Re[8984][8983]: 星田のこと、継体のこと 谷町筋について    佐々木高久 2008/05/24(Sat) 23:58 [Reply]
神奈備さま
> 北畠親房の『神皇正統記』に継体天皇の出自について以下のように書かれています。継体天皇は応神五世の御孫あり。応神第八の御子隼総別の皇子、その子大迹の王、その子私斐の王、その子彦主人の王、その子の男迹の王と申すは、この天皇にまします。」とあります。この伝承は『古事記』に応神天皇の皇子の若沼毛二俣王の子孫とするのとは違っています。天皇家の懐にいた北畠親房はひょっとしたら、『日本書紀』と一緒に作成されたと云う失われた系図一覧を見ていたのかも知れません。
 そうでしたね。継体に関する記述(それ以外もあるでしょうが)はそれぞれ人名や地理が違っていて何度読んでも忘れます。
 継体の美しくないらしい姫が亡くなったところ、亡くなった姫の名前、第8皇子の墓地(東京の八王子もあれば八幡の八王子、京田辺の八王子塚など)、継体の父の墓は、太田茶臼塚や田中大王(うし)塚などあって変ですね。田中大王と聞くと、石清水八幡宮の田中家の関係かなと、紀氏がなぜ田中家、善法寺家などの苗字になったのか少し妄想してしまいます。田中家は後村上天皇の行宮だったこともありますし、現在八幡宮の文書類はまさに整理途上であり、またとんでもないものが出てくるのではないかと期待しております。また今城塚の前方部の方角が半島か大陸を向いているのもおかしいなあと思っています。渡来人系の古墳の前方部と同じ方向を向いています。 

[8984] Re[8983]: 星田のこと、継体のこと 谷町筋について    神奈備 2008/05/24(Sat) 20:30 [Reply]
>  この図では東西の断崖絶壁地形の西側あたり、やはり坐摩神社行宮のところが良いですね。旧地名では北大江ですか。

 地図を作製された寺井学芸員も後の渡辺津(八軒屋)付近だろうとのことでした。



> 高向氏出自には他の難升米や蘇我氏などの説もある。

 「高」がつく名前と高句麗とは何らかの関係があると、李寧煕は書いていました。
 蘇我高麗の子の塩古からの系譜は高向氏につながっています。先祖帰り?

 北畠親房の『神皇正統記』に継体天皇の出自について以下のように書かれています。
 「継体天皇は応神五世の御孫あり。応神第八の御子隼総別の皇子、その子大迹の王、その子私斐の王、その子彦主人の王、その子の男迹の王と申すは、この天皇にまします。」とあります。

 この伝承は『古事記』に応神天皇の皇子の若沼毛二俣王の子孫とするのとは違っています。天皇家の懐にいた北畠親房はひょっとしたら、『日本書紀』と一緒に作成されたと云う失われた系図一覧を見ていたのかも知れません。

[8983] 星田のこと、継体のこと  佐々木高久 2008/05/24(Sat) 13:55 [Reply]
勝手なる「難波津」の解釈図を別荘の方に掲示させて頂きました。
まず星田ですが、
 星田は石清水八幡宮の荘園であった。つまり布施田であったわけです。
布施は「ふせ」と読むのが普通であるが、和歌山の行基さんの布施屋は「ほしや」と読む。ゆえにもともとは布施田という文字である可能性が高い。
 また星田から見ると寝屋川の下流の細屋神社は星神社とも呼ばれているが、これは行基の布施屋の場所の可能性も考えられる。行基の父は百済人である。
 継体の母は振姫ですが、振姫は日本書紀では高向氏の出身とある。高向氏は遣唐使の高向玄理で有名であるが、高向氏は魏の曹操の末裔とする。高向氏出自には他の難升米や蘇我氏などの説もある。
 越の前国坂井郡高向郷の港は、三国湊というが、確かに魏呉蜀の三国に通ずる名称である。
 継体の父、彦主人王はウシの大王とも言われ、滋賀県高島市にある牛塚と呼ばれる。彦主人王は息長氏の出身との説もある。
 葛葉宮の南に、枚方市の杉ヶ本神社に牛墓がある。これは桓武が殺牛祭祀を行った場所(交野柏原:柏原(かいばら)は桓武陵名と同じ)との不確かな伝説がある。しかしこれは継体の父の分骨供養地での可能性はあるのではなかろうか。
 それが桓武の殺牛祭祀と混同されているのではないだろうか。


[8982] Re[8981]: 谷町筋について  佐々木高久 2008/05/23(Fri) 23:39 [Reply]
神奈備さま
 拝見しました。谷町は上町台地の概ね西落ちに並行する谷間地がメインの様子。
 標高から津波や高潮の影響を考えて倉庫位置、宮を配置しているように見えます。
 寺井氏はどの地図を基図としてこのコンターを抜いたのかわかりますでしょうか。
 地形的には難波大津は、扇状地が水面に入って三角州になったような場所(要するに陸からの運積土が多い)です。港として維持するには不適でしょう。
 この図では東西の断崖絶壁地形の西側あたり、やはり坐摩神社行宮のところが良いですね。旧地名では北大江ですか。

[8981] 谷町筋について  神奈備 2008/05/23(Fri) 21:18 [Reply]
 谷町筋があたかも古代には全部が谷であって水が流れているような印象を当掲示板[8904] 「難波大津」で表現してしまいましたが、どちらかと云うと谷町筋を谷が縦横に横切っているように見えます。古代の大阪市北部の復元図が雑誌『葦火』(大阪市の考古学会誌)113号に、寺井学芸員(大阪歴博)の労作を発見しましたので、写真を「写真掲示板」に載せましたのでご覧下さい。これを見ますと難波大津は天満橋よりやや東の大手前病院の北側となりそうです。丁度、難波宮に付属する倉庫群の北側と言えそうです。

[8979] ラオ と ウル      紋爺ぃ 2008/05/21(Wed) 19:45 [Reply]
  「なかなかに、新しい記憶ができないこと」と「好奇心欠如」を摺りかえられたも気づかずに、ヘイコラと応じたは、これやっぱ、ボケならずや。
 先便では「ウル=牛」とまで、書き込んだのに、肝腎のことを言い忘れました。やっぱこれ、ボケちょるばい。
 すでにご存じでしょうが、「ウル(牛)」は、ほんとうに云えることです。ウル文化は文字化されていると思います。これも奥深い探険へと案内してくれるでしょう。

 記憶力が逓減するは生理法則です。それに抗うには、一切を、驚きの意識下で、記憶取り込みをやらかすのがいい。取り込んで鼻穴の奥に異物を感じ……ハハ・ハッ ハァ〜〜クッシェッ!!
 たまるか。

[8978] Re[8977][8976][8974][8972]: 角大師は  神奈備 2008/05/21(Wed) 10:27 [Reply]
> 牛王尊

 『捜聖記』と云うフィクションに面白い話が出ていました。
 
 牛王尊は四天王寺の基礎をなす神だそうですが、境内案内図には載っていないとのこと。夜に四天王寺の全僧侶が集まって、この前で儀式が行われるとのこと、仏教でも神道でもなさそうで、印象としてはミトラ神の儀式に似ているとのこと。摩多羅神? 夜だから火を使うからそう思うのかも。


> 天満宮でよく牛が横になったもの

 菅公は丑年の誕生、牛に載って太宰府に流された、遺骸を載せた牛車が北東へ行く途中、牛が止まった場所に葬られたのが太宰府天満宮、などなど。牛の供養ではなさそうですね。

[8977] Re[8976][8974][8972]: 角大師は  佐々木高久 2008/05/20(Tue) 23:55 [Reply]
神奈備さま
>南無大聖牛王尊と云われ四天王寺創建の時その材木・材石を乗せてひいた牛変じて石神となったものが祭られています。
 これは牛の供養塔だろうと思いますが、天満宮でよく牛が横になったもの(瓦や銅やはんれい岩など)がありますが、同じものでしょうか。
 あと四天王寺のどやどやで配られる牛王札や熊野牛王符との関係が気になります。
 さらに京都府京田辺市の朱智神社にある三面の牛頭天王ですが、道教の馬頭観音にも似ているのですが、牛馬犠牲との関係があるように思うのですが。

[8976] Re[8974][8972]: 角大師は  神奈備 2008/05/20(Tue) 19:38 [Reply]
 四天王寺の北側にも元三大師堂があります。おみくじの創始者だそうです。
 魔を退ける角大師の姿を示現しており、至心に祈りを捧げる参詣者には無限の守護と霊験を与えるようです。
 ここは伝教大師が創建したとあり、天台密教との繋がりがありそうです。比叡山の奧の横側にも元三大師堂があるようです。

 角大師の姿は何となく兵主神とされる蚩尤のようにも見えますが、角が二本、牛でもあるようですね。画像掲示板にアップしました。

 無関係でしょうが、四天王寺には南無大聖牛王尊と云われ四天王寺創建の時その材木・材石を乗せてひいた牛変じて石神となったものが祭られています。

[8975] Re[8974][8972]: 角大師は  佐々木高久 2008/05/20(Tue) 13:55 [Reply]
 とみたさま
 ありがとうございます。
>ところで、八幡市の石清水八幡宮の馬殺文字のことを書かれていましたが、この謂れはどうでしょうか、教えていただけませんか。
 たしかこれは石清水の放生会という(生類憐み)行事の関係だったと思います。
殺馬(サツマ)地名は葛葉村です。
 実は少しこんなことがわかったきました。
 馬飼首の荒籠の子孫らは木津(こづ)氏、河原氏、蓑葉氏などを名乗ったらしい。
 延暦寺の良源(元三大師)は木津(こづ)氏の出で、角大師と呼ばれている。おみくじの祖でもある。角大師の姿は、牛頭天王に似る。お互いの伝説も似ている。
 とりあえず牛頭の「ごず」と木津(こづ)と近いので、同じものと仮定すると。
 牛頭天王社の分布=馬飼の情報拠点と考えることができるのではないだろうか。
 また馬飼の出自が牛頭天王から東南アジア系を推定させる。
 祇園祭の馬長稚児の存在から、祇園祭=馬飼の全国の首会議ではないだろうか。

以下は妄想です。
>牛王の中の一番立派な牛が牛王が牛頭天王。天台の法事には牛頭天王を祀る牛王法事があり、多聞天=毘沙門天を本尊とする。
 楠木正成は幼名は多聞丸、彼は修験道や陰陽道に通じ、石清水八幡宮には正成のお手植えの楠もあります。牛頭天王社には楠の巨木がある。 


[8974] Re[8972]: 角大師は  とみた 2008/05/20(Tue) 12:26 [Reply]
佐々木さん

>  延暦寺の元三大師、角大師の御札を見ておりますと牛頭天王とよく似ているように見えるのですが、何か接点があるでしょうか。石清水八幡宮では神馬舎から三の鳥居をくぐった後に元三大師堂がありました。関東では川越大師、千葉厄除け不動尊

難問です。

いろいろな本を読んでおりますので、その中から少し関係がありそうなネタを提供させて頂きます。

秦氏と八坂氏は、桓武の長岡京と平安京の造営に関係するというのが先般の論考にありました。
八坂造氏は、高句麗からの渡来人とも書かれていました。

八坂神社は、牛頭神社を祀り七夕祭りが祇園祭の起源でもあるようです。

帝塚山大の上垣外憲一先生は、スサノオの降りた新羅のソシモリは、韓国語でソー牛、モリは頭の意で、牛頭を意味するようで韓半島の東部の江原道の道庁の所在地である美川の近くに牛頭山があると書かれています。

この地は元々は高句麗の支配地でした。それが6世紀に新羅がぶっどった所です。
牛頭天王は高句麗との接点があるような気がします。

武塔神とスサノオと牛頭天王はゴチャゴチャで習合して、蘇民将来の話しがあります。コタン将来は、牛頭天王を粗末に扱い、蘇民将来は大事に扱ったので、蘇民将来は病魔を逃れ、コタンは滅ぼされたという話しです。

このあたりは川村湊さんが牛頭天王と蘇民将来伝説として読売文学賞を最近とられました。(作品社)牛頭天王の本地は毘沙門天で14世紀の天台密教の仏書、〔渓嵐拾葉集〕巻85には牛王法事という章があり・・・・牛頭は東北方に住み、帝都自り比叡山は東北方牛宿の方に当て立てする山がゆえに牛宿と号す。

牛王の中の一番立派な牛が牛王が牛頭天王。天台の法事には牛頭天王を祀る牛王法事があり、多聞天=毘沙門天を本尊とする。

このあたりが繫がっていそうです。牛頭天王は、行疫神でその子供の八王子神も病魔の神です。

修験道や陰陽道が絡んでくるようです。

この本にはその辺のことが書かれています。

ところで、八幡市の岩清水八幡宮の馬殺文字のことを書かれていましたが、この謂れはどうでしょうか、教えていただけませんか。


[8973] ウルウルでいこう!     紋爺ぃ 2008/05/20(Tue) 05:33 [Reply]
 とみたさん、手とり足とりで世話やかせました。有り難うございます。
 さいきん注目したことでしたが、小生が持っている羅和辞典には、個人名や地名の字名、家族名がいっぱい掲出されているのです。
 こんなの、どうでしょうか。ソシュールさんは、語彙の発音は恣意的に配られているみたいなことを言いましたが、歴史の堆積のうちに、このような「ウルマン」・ 「元気爺ぃ」みたいなのが定着し、 「ウル=牛」が“恣意的に”出ている現象となった……。
 オレ、最初の職業はセールスマン。ウレしいな。

[8972] 角大師は  佐々木高久 2008/05/19(Mon) 22:49 [Reply]
とみたさま
 延暦寺の元三大師、角大師の御札を見ておりますと牛頭天王とよく似ているように見えるのですが、何か接点があるでしょうか。石清水八幡宮では神馬舎から三の鳥居をくぐった後に元三大師堂がありました。関東では川越大師、千葉厄除け不動尊などでも御札がありますが。http://www.yaku-yoke.com/newpage32.html
 幸之助爺のお話懐かしいです。

[8971] ウルマン  とみた 2008/05/19(Mon) 21:27 [Reply]
>紋爺さん
サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman, 1840年 - 1924年)は、アメリカ合衆国の実業家兼詩人---
80歳の記念に自費出版した詩"YOUTH"(青春)は名高い。。経済界の先に立つ人物の間では古くから有名で、故・松下幸之助氏も座右の銘としていたと言われている。


[編集] 引用(『青春』全文)
青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。
若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安・易(やすき)に就こうとする自らを戒め、冒険する心を忘れてはならない。
人間は年齢(とし)を重ねた時老いるのではない。理想をなくした時老いるのである。
歳月は人間の皮膚に皺を刻む
が情熱の消失は心に皺を作る。

・・・・・・・・・・

現代は、年来は若くとも、年寄りじみた人がいます。その逆もあり、歳をとっても若々しい人もいます。
好奇心を失わない人は、若いんです。

中国では若くとも立派な先生は老師です。老僧は、有徳の僧のこと。江戸時代には若くとも老中、大老でした。

老酒でも飲んで、古代史を楽しみましょう。

中国の古代史に詳しかった白川静先生、騎馬民族征服説の江上波夫先生は確か96歳まで長寿を全うされました。

古稀はまだまだ若いようです。


[8970] 強い紐だったか?     紋爺ぃ 2008/05/19(Mon) 15:10 [Reply]
とみたさん、いろいろと有り難うございます。
 「しず」が持っている「 Z < S 系統の音」に惑わされていたようです。shi-Du なんですよね。
 シトリガミとあったので、念のため『野史呼び名辞典』をひいてみたところ「倭文織 ; しどり」とありました。 シトリガミの「シ」は断定できませんが、shi-Dori が先にあって、末尾のほうから「織り」が派生した語形かと思います。
 すなわち、いま「シ」を「強い」とおけば、シトリガミは「強い紐業」ではなかろうかと思われます。 dori はもとどりの dori で、紐です。
 藁細工製品などに古布が使われるので、ついついシズを「賎」に持ってゆかれたようでした。
 そういえば、「紙は水によわい、紙と糸とか紐はちがう」と思っていたのですが。考えてみたら、こうぞ、ミツマタなど使う繊維は同じですよね。

 分らんものに、またまたウルマンが 一つ追加されたんやがな。
 マンは「方向を持った精神性」じゃろ? へば(弘前弁)、ウルとはなにぞ。水、龍、逆……? 

[8969] 日本領土にウシハいた百済王    紋爺ぃ 2008/05/19(Mon) 14:14 [Reply]
 オレなんざはボケ始まって頭わ〜るいので、見易い場を探して、そこで推論したほうがいいと思ってま。
 シナは 16世紀に列強がやってくるまで、王朝はあっても nation という概念はありませんでした。そういう観点でみると、日本列島や南朝鮮はシナよりも早く nation に近い概念にたどりついていたのではないでしょうか。
 ということは、たとえば 7世紀なら 7世紀のうごきをみる場合、いっそう nation の先入観を容れてなならぬことの自戒を迫るかと。
 これからいよいよ自前の日本を造ろうと、その象徴として奈良に大仏を造ろうとしたとき、メッキに使う金が足りない。ありゃぁ〜となって慌てた 750年ごろ、その金塊をポンと供給したのが「百済の啓福王」でした。その金塊、海を越えて来ようにも、もう、百済の国は百年ちかくも前に消滅しているのです。この啓福王はどこにいたかというと、今の宮城県の涌谷。
 江戸期での涌谷の殿様とは、例の「モミの木は残った」の原田甲斐さん。この原田甲斐は「鉄びと、雷神」という意味です。
 この涌谷の百済王にはおどろきましたが、啓福王たった一人ではすこし淋しい。
 そうこうするうちに、「百済王」という肩書きをもっている「俊哲」さんが本の行間から転がりでました。永いあいだ、この俊哲王のことはわからなかったのでしたが、このほどぽろりと、桓武天皇即位の 8年前、征夷大将軍の副官として蝦夷征伐に出軍していたことが分りました。その領土がどこだったかは、まだ掴んでいませんが、二人の百済王がこの日本列島で活躍したことは事実です。

 ということは……
 西南日本には夥しい数の新羅神社があるのに、東北には「甲府からやってきた新羅三郎義光に因む神社」が三つあるだけです。ということは、東北地方では、なにも取りたてて「われわれは新羅系ですぞ」という必要がなかったということで、蝦夷征伐とは日本列島内に巣食っていた新羅勢力をやっつけようとした百済勢力……すなわち、新羅と百済の代理戦争だったということでしょう。
 前九年、後三年の役は派遣社員が中央を裏切ったことから興ったとなっているようですが、その裏は蝦夷ではなくって、新羅だったのではないでしょうか。

[8968] 難波の牛馬の犠牲(葦火から)  神奈備 2008/05/18(Sun) 17:39 [Reply]
 飛鳥時代前半の長原集落の遺跡の柱穴の中から牛の骨がぎっしり詰まった場所が発見されています。前足の上腕部、大腿骨など肉の多い部分ですが、ぎっしりと並べられた状態でしたから、肉のない状態だったようです。この牛は爪先から肩まで120cm。建物の建て替えに関しての祭祀で、肉を神々に捧げ共食したものと思われています。

 また長原では5世紀末に馬とそれう曳く人の埴輪が出ています。乗馬は5世紀になってから行われたようで、当地にいた馬飼人のものと思われます。

 奈良時代後半の加美遺跡の溝跡からは古代の絵馬が出ています。絵馬は土馬の代用品、土馬は馬の代用品でしょう。絵馬は墨描き。絵馬は現在では神社に奉納し、水には流しませんが、この風習が変化してきたのかも。
 森ノ宮からは馬の骨もでており、土馬(を意図的に破壊したもの)もでています。馬は疫病の神の乗り物で、これを壊して動けないようにした呪術だったと思われます。

[8967] 小字地名に見る牛馬殺など  佐々木高久 2008/05/18(Sun) 14:03 [Reply]
とみたさんには感謝します。
長い間読みきらなかった、葛葉の明治以前に消された地名の謎がわかりそうです。
ミノハ・・・ミノとハツ
千冨口・・・センとミノクチ
サツマ・・・殺馬
河原・・・革
河原には交野天神社が立地。一丘越えると甲作郷。革は甲作郷で加工。全国販売は馬飼たちが協力、全国の情報を入手した。

[8966] Re[8965]: 牛馬の犠牲  佐々木高久 2008/05/18(Sun) 11:48 [Reply]
 とみたさま
 以下のサイトにキーワード(著者名など)を入れると、どんな論考があるかわかります。一部無料で読めるものもあります。千葉大の図書館は「研究目的」的なら一般入場可だと思います。
 http://ge.nii.ac.jp/genii/jsp/index.jsp
 町楠葉に楠木氏の出自とされる橘神社があるのでちょっと違和感があったのですが、百済王一族(和氏)の存在と楠葉に楠木氏の支族の和田氏が居たことから考えて、出自不明の楠木正成は百済王の末裔の可能性もありかと思いました。
 話は変りますが、イボダイは「しず」とも言いました。


[8965] 牛馬の犠牲  とみた 2008/05/18(Sun) 11:06 [Reply]
佐々木さん ありがとうございます

>牛殺は下記の論考があります。
 http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/26-2/26-2.html
 の伊藤をクリックすると読めます。まだ読んでませんが

速読しました。さすが、学者の論考ですので読み甲斐がありました。
すばらしい論考の紹介ありがとうございます。

普通、4世紀までは族長は、呪術による権威、つまり神霊と人との仲介が出来るシャーマン的力で治めていました。それで鏡や玉や水字貝などの霊力を重視した。
5世紀になると馬具や武具など社会実力の時代に入り鏡が重要視されなくなるとされています。

桓武はこの、呪術による祭祀を族長から取り上げ、呪術を国家の祀りに独占しようとした。

殺牛祭祀も各地の族長の儀礼として、朝鮮特に新羅系の渡来人が広く行っていたのを、桓武は各地の殺牛を禁止し、国の祭祀として独占し、郊祀として殺牛を行うことにした。

天皇の神格化が始まる。
こんな風に読み取りました。
その後、大乗仏教の広まるとともに、肉食はご法度になり殺牛は忌み嫌われるようになるのでしょう。

それでも、平安期には、卜部氏や陰陽氏の呪術的祭祀は広まり、朝廷の権威を増す為に、疫神祭や四角四界祭が行われ、鬼神から護る。

一つ気になったのは、魏志東夷伝、扶余の条に扶余でも殺牛の儀礼があったことです。

扶余はツングース族。これが3世紀後半、伽耶に進出したこと、卒本扶余が高句麗の元祖、百済は南扶余の一族が王権を握ったこと。

も一つ注目点。
河内国・交野に住む百済王の末裔、百済王一族(和氏)の力の背景に桓武は長岡京に遷都する。桓武の側近である藤原種継も母は渡来系の秦氏の出自で、ある。山背国に遷都し平安京の礎を築く際も、秦氏、八坂氏などの渡来系氏族の強力なしでは、不可能であった。

やはり秦織物の神を祭る、蚕の社は山背、太秦に、これは織物と秦氏のつながりを
見て、八坂神社は八坂氏とつながりがあっての牛頭天王と関係があるのか?

などなど興味が深まりました。

>倭文神建葉槌はなんという発音なんでしょうか

紋爺いさん、まだお若いですよ。年齢には体力的な年齢と精神的な年齢とあります。

好奇心旺盛ということはお若い証明です。ウルマンの青春とは・・・
確かに物覚えは減ってますが、仲代達也や森光子はまだ現役。

歳をとったなあと思うことが、若さを失うマイナスの力。偉そうなこと云ってすみません。自戒の言葉でもあります。
倭文神建葉槌はなんという発音・・・シトリガミタケハヅチです。

倭文織りは・・・シズオリです

[8964] Re[8958][8957][8955]: 牛馬の犠牲  佐々木高久 2008/05/18(Sun) 10:18 [Reply]
 とみたさま
 誤りがありました。あいすいません。
 葛葉には、カタカナ小字でサツマがありました。殺馬と当てることができます。トップセンター(南楠葉1)のところと言えばおわかりかもしれません。
 そして駅前の南北水路が対馬川(現天満川用水路)でした。
 カタカナ小字でミノハ(現在朝日)もありますが、これは牛殺という意味かもしれません。牛はたしかミノ?で、ハは殺か破?
 船橋の二ノ宮神社の拝殿の北側に字天王がありました。なお枚方市史(昭和26年発行)は継体宮は字天王(現在北船橋)と書かれていました。

[8963] 牛 の 屠 殺 人 Go hat ya    紋爺ぃ 2008/05/18(Sun) 07:56 [Reply]
 牛は神そのものですが、それを屠殺する専業人と思われる gohatya という語が辞書にあります。
 go は牛、 hat は殺す( ・ 果たし状?)、ya は八百屋、魚屋の ya です。

小生は詳しくは知りませんが、神を殺すなど、たいへんな職業です。
 ここをキー・ワードに検索すれば、かなりの収穫があるのではないでしょうか。

[8962] 発音を教えてください     紋爺ぃ 2008/05/18(Sun) 07:36 [Reply]
  
 とみたさん、発音といいますか、読み方をお教えいただけませんか。
 倭文神建葉槌はなんという発音なんでしょうか。
 小生のEメールは ijyana@rb3.so-net.ne.jp。
 半月ほどまえ、手がすべって必要なEメール・アドレスがぜんぶ消えてしまいました。

 倭文は「しず」だった……でしたか?
 八千代町だったでしたか、志津という地名がありますね。瓜連にも志津神社があったかと。
 なにせ、このごろ記憶がどんどん落ちていってる紋爺ぃです。
 神奈備どんと淡路島を共同調査をしたとき、「しず」という地名が三つ(?)ほどあって、面くらったことがあります。
 しず織りとは青を基調にした織物でしたか。これに関連した、直系 20cmぐらいの小さな丸まっちい御幣をなんとか言っていたまでは覚えています。
 しず織りでは、着物などの大きな織物はできたのでしょうか? ここを疑紋にするには理由があります。
 関東以北の大平洋岸庶民は、家康が入ブするまで、丸裸だったとの仮説を措いているんです。
 千倉地域では、江戸期になって「ボタンド−ロク(意味不明)」という官制労働着物が制定されています。昭和 35年ごろまで、九十九里浜の漁民は男女ともふるちんで地引き網を曳いていました。べつに宗教行事からではないらしいです。
 結城織りは「毛のくに」の産物だったのでしたが、結城に出張所を設けたとのことです。
 日本の百貨店は京大坂から江戸に持ち込んだ古着屋さんが始発だったといわれています。

 そこへ 1週間ほどまえ、塩原温泉地方に皮なめしで売り出したと思われる文化集団(?)を見い出した……つもりでいます。
 しかも、ここで「くず・クド・善知鳥」などの原意原音が割りだせそうです。

 なお、船橋を単に「舟の橋」と解釈するのには、違和感をおぼえます。

[8961] Re[8958][8957][8955]: 牛馬の犠牲  佐々木高久 2008/05/17(Sat) 20:45 [Reply]
> も一つ異なものを発見しました。天津甕星、香々背男は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配し、朝廷の天孫族のフッツヌシとタケミカズチを派遣しても、反抗してまつろわなかった。奈良時代に北辰を祀る星祭が風俗を乱すものとして禁令を受けた(続日本紀)。これは妙見信仰と習合するようです。
とみたさま
> この天津甕星を成敗したのが、常陸の茨城県日立市にある倭文神建葉槌命で織物の神様です。
> この神様はアマテラスを岩屋から引き出すときに布を織った、天羽槌雄神です(それから神衣を織ったのが天棚機姫神)。
> この神は、倭文氏の祖先神で葛城の二上山の麓の葛木倭文坐天羽雷神社がありますが、どこかから移てきたようです。
 これはわかりません。
 七夕は秦の始皇帝の命日らしいということぐらいしか。これは高松塚やキトラ天文図にそのなぞが封じられているのでしょう。また天文技術は江戸幕府も支配体制の維持のために庶民には明確にしなかった。天保の改革で儒学者で南町奉行鳥居耀蔵、幕府天文方の渋川六蔵、商人の後藤三右衛門の3羽烏が権力を握ったころから、天の河川伝説がちらほら出てきた。
 今城塚古墳ではご指摘の「馬のはにわ」がたくさん出てました。兵馬俑もそうでした。追記まで。舌足らずにてごめん下さい。

[8960] Re[8958][8957][8955]: 牛馬の犠牲  佐々木高久 2008/05/17(Sat) 09:38 [Reply]
とみたさま
 牛殺は下記の論考があります。
 http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/26-2/26-2.html
 の伊藤をクリックすると読めます。まだ読んでませんが。
>蝦夷の頭のアテルイは枚方で処刑されたようですね。
枚方は天皇の牧なので、ここで処刑はするわけがないというのが最近の考察です。
>武内宿禰に讒言をかけた甘美内宿禰の本拠は、山背の八幡市八幡近辺ではなかろうかとされているのが森浩一先生です。
八幡市内里(有智郷)があり、そこだろうと言われております。都々城という地名も残っています。
>綴喜郡甲作(カワラツクリ)郷があります。崇神紀にに伽和羅という地名があるようです。
現在は神原(かはら)でして、善法律寺があります。足利義満の母(紀良子)の実家があります。
> 枚方には機織神社がありますし、生駒山から流れ下る天野川があります。星の社(現在は星田妙見宮)もあります。七夕の牽牛は殺牛儀礼が絡んでいそうです。
七夕は、蚕の棚倉(養蚕)と機織を集合させた蚕糸紡と織布の一貫製造のことで、いつのまにか星を使って、秦氏を信奉させているようですが。7月7日は秦氏のだれかと何か由縁があるかもしれません。
>船橋の船、牧野の馬・・・継体が琵琶湖を渡って淀津、巨椋池辺りから船で降り、馬に乗り換えて大和の勢力と対峙した???
船橋は千葉と同じ船橋がありました。継体さんは経済力の乏しい大和に入るよりも、経済力や人口ではるかに上回っている山城河内に居る方がよかったのではないでしょうか。定年後大和に形式的に入った。
 馬墓はたぶん馬飼首荒籠の墓でしょう。市が発掘したようです。  

[8959] Re[8956][8944][8943][8926]: 百済  神奈備 2008/05/17(Sat) 09:29 [Reply]
>> 谷那鉄山(こくなかねむれ)が辰韓、後の新羅の領域。
> 枝の沢山ある国宝の刀でしょうか。4世紀後半の百済とされていますから百済ではないでしょうか。

 おっしゃる通り百済でした。神功皇后五十二年には、百済王の言葉として谷那鉄山の鉄を採って、日本王朝に奉るとあります。

 『魏志東夷伝 弁辰』には、「国、鉄を出す。」とあり、弁韓、辰韓が鉄を産出しているようです。

[8958] Re[8957][8955]: 牛馬の犠牲  とみた 2008/05/17(Sat) 07:15 [Reply]
佐々木さん(様は堅いのでさんで失礼させていただきます)

ありがとうございます。実は私は20年前の大阪赴任時代、枚方樟葉に8年も住んでおりましたが、当時は古代史のコも知りませんでした。
佐々木さんのお話しで懐かしく地名を辿っています。牧野や船橋も承知しています。野暮な質問もしますので、よろしくお願いします。恥をかきながら古代史の楽しさを追っかけています。今は下総の国に暮らしております。


>  馬ありました。交野郡大字牧野郷坂村に小字に馬墓がありました。これは伝アテルイの墓になっています。実際にはアテルイ伝説時より古いとのことです。

蝦夷の頭のアテルイは枚方で処刑されたようですね。

>  これより北は石清水八幡の関係で、馬殺文字はご法度です。
>  しかし牛殺はあったようで、平安時代から武具用の黒革白革の生産者集団が居たようです。

武内宿禰に讒言をかけた甘美内宿禰の本拠は、山背の八幡市八幡近辺ではなかろうかとされているのが森浩一先生です。綴喜郡甲作(カワラツクリ)郷があります。崇神紀にに伽和羅という地名があるようです。

甲作は、武具製作集団。やはり5世紀のようです。
八幡市の南山城古墳群の一角に、ヒル塚方墳(4世紀末?古墳時代前期末)があり伽耶系の渦巻き文鉄剣が出土。

集団が動いているようです。金メッキ工人は忍海、金属加工は朝妻・・・




>  阿波、大和、丹波の亀岡には、美馬や馬美(真美)など地名があり、馬を食していた人が居たようですが。長岡京の発掘現場では、牛馬の骨をよく見ました。

参考にさせていただきます。

も一つ異なものを発見しました。天津甕星、香々背男は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配し、朝廷の天孫族のフッツヌシとタケミカズチを派遣しても、反抗してまつろわなかった。奈良時代に北辰を祀る星祭が風俗を乱すものとして禁令を受けた(続日本紀)。これは妙見信仰と習合するようです。

この天津甕星を成敗したのが、常陸の茨城県日立市にある倭文神建葉槌命で織物の神様です。

この神様はアマテラスを岩屋から引き出すときに布を織った、天羽槌雄神です(それから神衣を織ったのが天棚機姫神)。

この神は、倭文氏の祖先神で葛城の二上山の麓の葛木倭文坐天羽雷神社がありますが、どこかから移てきたようです。

枚方には機織神社がありますし、生駒山から流れ下る天野川があります。星の社(現在は星田妙見宮)もあります。七夕の牽牛は殺牛儀礼が絡んでいそうです。

秦氏や肩野物部もゆかりがあります。

船橋の船、牧野の馬・・・継体が琵琶湖を渡って淀津、巨椋池辺りから船で降り、馬に乗り換えて大和の勢力と対峙した???




 

[8957] Re[8955]: 牛馬の犠牲  佐々木高久 2008/05/16(Fri) 23:16 [Reply]
>殺馬牛犠牲祭祀の痕跡が河内にないかとお尋ねしました。この祭祀は古代を考えるには大変大切なことだと個人的に考えています。
とみたさま
 馬ありました。交野郡大字牧野郷坂村に小字に馬墓がありました。これは伝アテルイの墓になっています。実際にはアテルイ伝説時より古いとのことです。
 これより北は石清水八幡の関係で、馬殺文字はご法度です。
 しかし牛殺はあったようで、平安時代から武具用の黒革白革の生産者集団が居たようです。
 阿波、大和、丹波の亀岡には、美馬や馬美(真美)など地名があり、馬を食していた人が居たようですが。長岡京の発掘現場では、牛馬の骨をよく見ました。
 

[8956] Re[8944][8943][8926]: 百済  素人 2008/05/16(Fri) 21:48 [Reply]
神奈備さま
書き込み遅れました。
>  『三国志魏志』には、「朝鮮半島南部には鉄を産出し、韓、倭の人々が、この鉄を求めてしきりにやって来る。」とあるように、ひとつには谷那鉄山(こくなかねむれ)が辰韓、後の新羅の領域にあったこともあるのでしょう。
>
枝の沢山ある国宝の刀でしょうか。
4世紀後半の百済とされていますから百済ではないでしょうか。
高句麗が開発して、百済領になった地域のようですからこの当時の新羅、百済、高句麗の国境地帯のようです。朝鮮で多いスカルン鉱床で現在、石灰山といえば限られてくるように思います。
青草でした。
 

[8955] 牛馬の犠牲  とみた 2008/05/16(Fri) 21:38 [Reply]
神奈備さん、佐々木さん 早速回答を頂きありがとうございました。
殺馬牛犠牲祭祀の痕跡が河内にないかとお尋ねしました。この祭祀は古代を考えるには大変大切なことだと個人的に考えています。
@国学院大学の鈴木先生の新羅の古代形成の論で・・・・6世紀前半は、新羅は支配者が定まらず、6部が合議制で盟約したことを殺牛によって誓った。

A福井大学の小林道憲教授の本で・・・雨乞いなどで牛馬を犠牲に捧げる風習、殺牛馬の風習が韓神信仰によって越地方に盛んであった。5世紀頃から見える。
馬を犠牲馬として天の神に捧げる風習は高句麗・新羅・伽耶を通って馬の普及に伴って日本列島に渡来したであろう。羽咋の気多神社に近い寺家遺跡から牛馬の歯や骨が出土する

B今年読売文学賞をとられた、牛頭天王研究の川村湊さんの本から・・・聖武天皇は韓神の祟りを怖れて7年間毎年殺牛祭った。
 韓神を祭ったのは秦氏である。
 韓国の慶尚北道では殺斑牛の文字を刻んだ新羅時代の石碑がある。牛を犠牲として祭る風習が古代からある。

天日矛やツヌガアラシトがが殺牛儀式に関係する神であることは疑えない。気比神社は殺牛儀礼を持ち込んだ渡来人の一族の祀った神の社である。朝鮮からの渡来した馬飼いは河内に星祭りの妙見信仰を導入した

C四条畷資料館の野島先生の説明で・・・河内の馬飼いは、馬を犠牲に祭りを行った。馬は貴重なので土で作った馬を用いるようになった。

その土の馬の展示品を見せていただきました
D桓武天皇は、枚方交野で郊祀壇を設け天神を祀る(続日本紀)。桓武の牛殺しは有名。

以上の事実から、牛や馬の犠牲とした祭りが行われていることは確かでしょう。この痕跡を追うと、渡来人の移動が推測できるのではと考えていました。

馬の犠牲と牛の犠牲への関心です。

牛の犠牲は前漢武帝の天神地祇の郊祀が始まりですが、南方の少数民族のミャオ(苗族)でも牛の犠牲が有名です、この場合は水牛を使います。

馬の犠牲は中央アジアやインドの馬祀祭が有名です。

そこで牛の犠牲や馬の犠牲のルートを知りたかったのです。




[8954] 継体の宮 その後  佐々木高久 2008/05/16(Fri) 20:17 [Reply]
 葛葉は、もともと越と呼ばれ、私が葛葉宮に比定した二ノ宮神社の南を流れる船橋川は、かつて片足羽川と呼ばれていた。小字名で越田(えつでん)もありました。これはまた面白い。
 二ノ宮神社の北には桓武天皇に仕えていた藤原継縄の屋敷がありました。
 二ノ宮神社の南の塚本村には、とみたさまがよくご指摘になる歴代天皇の即位時の祭祀集団がいたそうです。その西隣りの養父村は物部村だそうです。
 馬飼首荒籠ですが、地名では痕跡がありません。鳥飼部(摂津市)、葛葉村鳥部はありますが、午を殺す人たちなので、午を消すと次には未申(裏鬼門)が来る(縁起が悪い)ので、結局申の次の酉にしたのかも???
 またとみたさまご指摘の牛殺しですが、枚方市中宮に牛墓という小字がありました。これはおそらく長岡京大極殿の真南です。
 牛焼の煙は、人工降雨をもたらすヨウ化水銀散布に近い効果があって、星を見るために雨雲を消す技だったとか???
 今の課題、継体出ずるところ、白山神社ありとなるとまたまた面白いことが。。
 失礼しました。


[8953] Re[8952]: 牛と馬の犠牲の祀り  神奈備 2008/05/16(Fri) 19:50 [Reply]
 牛や馬が生贄に捧げられたのには有用な動物であり、かつ図体が大きいと云うこともあったのかも。
 日本での殺牛・馬の祭祀をやっていた頃の遙かに昔、トロイの木馬とか蜀への侵入道を蜀に造らせた黄金の糞をする石牛のお話ができあがっていて、日本にも伝わっていたのでしょう。これから牛や馬は災いをもたらす部分もあると思われていたのではないでしょうか。従って災いを避けると云う意味もこめて犠牲獣とされたのでしょう。
 加えて殺牛・馬儀礼は祈雨儀礼で、川に首を放り込んだり、血を流したりしたのですが、これは川の神=水の神=雨の神を汚いものでよごして神々を怒らせることで、雨を降らせたのでしょう。
 大正12年(1923)に、武庫川では屠殺場から貰ってきた牛の頭を川の石の上に祀り、血を流していたようです。

 現在ではドライアイスやヨウ化銀を空中散布するのですが、昔の人々は神を怒らせるのが最も科学的な方法だったのかも知れません。

[8952] 牛と馬の犠牲の祀り  とみた 2008/05/16(Fri) 12:09 [Reply]
大御所の会話を楽しませていただいております。
越前の三尾と近江の息長が継体の父母の出身でしたか。調べるのが億劫ですから頭から引き出しています(どこか違っているときは、ご容赦ください)。

馬飼首荒籠は継体を河内に案内するようですが、これは渡来人と見て高句麗か新羅かどちらから来たのかで迷っています。伽耶や百済かもしれません。

河内湖周辺ですから5世紀に入ったのでしょう。

気にしていることがあります。

新羅には殺牛儀礼が多いようです。星祭もどこかで繫がっていそうです。

牛頭天王とか、七夕の牽牛は殺牛儀礼と関係があるのではなかろうか。

秦氏は、新羅出身説が有力ですが、韓神や竃神は秦氏により祭られた。

桓武は牛殺しで有名です。

殺牛儀礼で長岡京の南の郊祀で祭天の儀式を牛を殺して行います。牛を焼いて煙で天に通じ、血を撒いて地と交わる儀式を中国に倣ってやったのでしょう。

新羅は6世紀前半は7王が乱立して同盟は牛を殺して誓いましたこれは史実です。

桓武の母親の高野新笠は韓神や竃神を大切にしまして、桓武朝は盛んになります。
7-8世紀には牛の犠牲は雨乞いのためにも行われていました。

河内の馬飼は馬を殺して祭祀をするようです。後になると馬は貴重なので土で馬を使って祭りをやったらしい。

馬の犠牲と牛の犠牲のルーツが判断できません。馬と牛は同時に犠牲にするのか所によって別々なのか?

何かありましたら教えてください。






[8951] Re[8950][8949]: 大感謝  佐々木高久 2008/05/15(Thu) 12:32 [Reply]
>>筒木宮はどこなのかわかりませんが、三山木(みやまき)越前
>これは面白い! 越前なる地名があるとは。地元では継体さんを越前様などと呼んでいたのかも。
 さらに継体さんの育った越前国坂井郡高向なので、三山木越前は、たしかに木津川を挟んで多賀(高)の向いで、どんぴしゃ。
 弟国宮も向の文字(西向寺、向日)と高台がある。長岡京で地名の伝承がわからないが。
 葛葉宮は関連するものは見つけていないが、肩野津付近に堺地名がありました。肩野津の二ノ宮神社境内には、そこが葛葉宮としても問題のない遺物遺構が残存する。また付近には今も太田姓が多い。継体さんの父の墓に比定されつつある太田茶臼塚の太田とつながるのでは???。妄想でした。


[8950] Re[8949]: 大感謝  神奈備 2008/05/15(Thu) 10:11 [Reply]
 浄楽神社の北東数百米の水取御家に森の宮が鎮座、西光寺の西側。
http://www15.plala.or.jp/momota2005/page392.html

> 筒木宮はどこなのかわかりませんが、三山木(みやまき)越前

 これは面白い! 越前なる地名があるとは。地元では継体さんを越前様などと呼んでいたのかも。


> 「伊香色雄」というのは、大津または枚方の「伊香」の関係でしょうか。

 枚方に鎮座の意賀美神社は元は伊香色雄の邸内に鎮座していたとされています。

 伊香色雄は物部氏の祖の一人で、孝元開化天皇の時期の人、河内の人、後裔の一部が近江に行ったのかも。近江国伊香郡に物部地名があります。

[8949] 大感謝  佐々木高久 2008/05/15(Thu) 00:13 [Reply]
とみたさま
 アルタイは確かに金(山)です。ありがとうございました。
神奈備さま
 金は、朱智神社の末社の金神社と何か関係あるのでしょうか。
神奈備さまの韃靼の示唆で、普賢寺宇頭城(うづき)の筒木宮の線は弱まりました。
 たぶん宇頭城は、旧暦の卯月のことで東大寺お水取りでつながっていると思いました。
 水取浄楽には森の宮はなくて、確か浄楽神社だったと思います。
 ただ水取連は灌漑工事専門職人であったらしく、想像の域は越えませんが、仁徳の「栗隈の大溝」の開削工事に関わったのではないかと思います。
 そして栗隈の大溝の開通によって、木津川中流域と桂川とのバイパスができて、弟国宮から鴨川と桂川合流点の草津・船津−淀津(与度神社)−丹波津(玉田神社)−市田−栗隈の大溝−佐(狭)山−宮津・三山木浜(佐牙神社)などの港を通じて筒木宮へ移動した?これはまだまだ妄想ですが。
 筒木宮はどこなのかわかりませんが、三山木(みやまき)越前という宮と継体の出自を示唆する地名と宮津や三山木浜という港津地名があって、そちらの方ではと思い始めています。継体のころの木津川は、ほぼ近鉄京都線のところを流れていたことはこれら港津的地名からも地形的にも合うので。
 以上青草でした。

[8948] Re[8947]: 達陀  佐々木高久 2008/05/14(Wed) 16:44 [Reply]
 以前素人さまが奈良大仏の鋳造と多々羅の仮説を述べていらしたので。
 東大寺達陀行事の竹は確かに水取付近の竹を使用しています。また達陀の所作は元寇時の火術(鉄はう?)の所作に酷似しているので何か感じるものがあります。
 さらに水取の奥には打田(だったと読める)があるので、この谷筋はダッタン人の村のように見えます。
 高(たか)という文字も韃靼と関係ありましたか。
 「伊香色雄」というのは、大津または枚方の「伊香」の関係でしょうか。どこかで聞いたのですが思い出せません。
 とみたさまのお話で、タルタルソースやら韃靼海峡を蝶が渡る詩を思い出しました。

[8947] 達陀  神奈備 2008/05/14(Wed) 15:02 [Reply]
 とみたさん、モンゴル高原のお話、ありがとうございます。民族の入れ替わり、ダイナミックなことですね。

 お水取りと言いながら、どうやら主役は火のようで、ダッタン人によって拝火教などが持ち込まれているのかも。

 水取につきましては、「姓氏録」の左京神別に、「水取連 饒速日尊大世孫伊香色雄之後也」とありますが、これとの関係は不明。水取はモイトリのルビで、moisture を思わせます。

 『京都府の地名』(平凡社)によりますと、水取村の氏神は浄楽にある森ノ宮だそうで、雨乞いに霊験のある神社だそうです。朱智神社の御旅所とあります。朱智神社には天照國照彦火明命が拝祀されており、一応、物部とも繋がりがありそうです。


[8946] タタール  とみた 2008/05/14(Wed) 09:39 [Reply]
韃靼は韃靼蕎麦も有名ですね。

韃靼人の踊りはボロジンのオペラ イーグル公に出てきます。ボロディンは中央アジアの平原にてという局も有名です。

冬季オリンピックで優勝したフィギュア スケートの舞姫、荒川静香の曲はプッチーニのツーランドントの誰も寝てはならぬのアリアでした。これは、タッタン人の王子がツーランドット姫の愛を勝ち取る物語です。

韃靼はタタールとして、ロシアではモンゴルを想定してますね。
タタールのくびきといって、ロシアがジンギス ハンに攻められて支配下にされ重税を課せられた嘆きを伝えています。

今は、カスピ海に流れ込むボルガ川の中流域にブルガル人の本拠があり、これはタタールスタンつまりタタール人の国と名乗っていますね。ロシア領です。

でも元々は、モンゴル高原にいた族でしょう。

匈奴がモンゴル高原から去ったのが紀元後3世紀、その後に鮮卑がきて彼等が中国の中原に南下したのが五胡16国時代の4世紀以降。

モンゴル高原には柔然が進出します。その王の下で鍛冶職人をしていたのが 王様を破って552年に突厥を興します。チュルク人です。今のトルコ人はこの後裔が西に動いたとしています。

突厥は、アルタイ山脈の麓が原郷です。

アルタイとは金とか金属の意味でしょう。モンゴルと中国新疆とロシアとカザフスタンが交わる一帯です。

モンゴル高原には柔然、突厥時代にタタール人が関わりました。九姓タタールとか30姓タタールです。

これはジンギスハンがモンゴルで進出する契機になっています。

モンゴル帝国が1206年生まれる前にツングースの金国を滅ぼします。ここは鉄を有していたのが魅力だったのです。

現在も、モンゴルは鉄が取れるようでロシアやアメリカも狙っていますし、日本も関心が深いようです。

以上頭の記憶から引き出しました。どこか間違っているかも知れませんが(そのときはお許しください)凡そは正しいかと思います。


[8945] Re[8944][8943][8926]: 百済  佐々木高久 2008/05/13(Tue) 17:06 [Reply]
神奈備さま

>トルコ系民族の突蕨(とつけつ)をダッタン人と云います。ダッタンの語源は塔塔児(タタール)、これが製鉄炉のタタラになったのがまさに多々羅。彼らの製鉄技術が半島を経由して我が国にもたらされたのでのでのでしょうが、それにはダッタン人も来邦しているのでしょう。

 東大寺のお水取りも、達陀(だったん)というそうですが、確かにお水取の竹は京田辺の竹林から持って行くのを毎年各報道で見ます。水取という地名が普賢寺の奥にあります。何かつながっているように思います。

[8944] Re[8943][8926]: 百済  神奈備 2008/05/13(Tue) 16:24 [Reply]
> 新羅とも関係があるのでしょうか。

 トルコ系民族の突蕨(とつけつ)をダッタン人と云います。ダッタンの語源は塔塔児(タタール)、これが製鉄炉のタタラになったのがまさに多々羅。彼らの製鉄技術が半島を経由して我が国にもたらされたのでのでのでしょうが、それにはダッタン人も来邦しているのでしょう。

 これらが神話として、素盞嗚尊・五十猛命や天日槍、卓素などの渡来として語られているのでしょう。

 半島では辰韓の技術が進んでいたと、『鉄から読む日本の歴史』(窪田蔵郎著:講談社学術文庫)にあります。

 『三国志魏志』には、「朝鮮半島南部には鉄を産出し、韓、倭の人々が、この鉄を求めてしきりにやって来る。」とあるように、ひとつには谷那鉄山(こくなかねむれ)が辰韓、後の新羅の領域にあったこともあるのでしょう。
 

[8943] Re[8926]: 百済  佐々木高久 2008/05/13(Tue) 10:45 [Reply]
多々羅の続きですが、多々羅都谷という場所があります。このあたりは都は「つ」と読むところがあるので、「たたらつだに」とも読むと慶尚南道多大浦の古地名にあたることわかりました。新羅とも関係があるのでしょうか。
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/140.htm

[8942] クドウ、ウトウ、善知鳥     紋爺ぃ 2008/05/13(Tue) 09:22 [Reply]
  
 クズをみる場合、アラビヤ語の qutr( t の下に“・”)と、クドウ(工藤さん?)が離せなくなった……を、感じています。Qutr が久志呂になったのは、まちがいないところと思えてきました。クドは窯でしょうが、使用例がすくない。
 那須塩原駅からまっすぐ西西北に行った突き当たりに善知鳥(ウトウ)沢があり、そこから峠を越えた先にはクドウ沢とウドウ沢があります。この「クドウ、ウドウ、善知鳥」は、なにか謎解きの、大きなヒントを隠していると、小生には感じられます。
 この三つに関連があるとしたら、その謎を解くことができる実力者は“世界広しといえど”素人さんしかいないでしょう。素人さん、頑張ってみていただけませんか。
★ khu には金属精錬の窯焼きがあると看たのですが……。
★ 那須塩原にはインナミさんが大勢います。皮なめしの塩と狩猟が重なった文化地方だと思われます。nam-i は名前を同じくした族、同族。 イン(犬)は狩猟かと。

[8941] 穂高神社嶺宮  素人 2008/05/12(Mon) 00:17 [Reply]
神奈備さま
> > 神奈備さま
> > 私のパソコンでは表示されません。
>
> これでいかがですか。
> http://kamnavi.jp/h17024.jpg
有難うございました。
「穂高神社嶺宮」はっきり読めました。

[8940] Re[8939][8932][8930][8928][8926]: 百済  佐々木高久 2008/05/11(Sun) 23:10 [Reply]
神奈備さま
>和歌山でも継体と「くず」のことがさかんに議論されていました。
この掲示板のことです。
http://kamnavi.jp/log/kinokawa.htm
「くず」の話は白土三平の漫画「サスケ」か「カムイ伝?」にも出ていました。
 久須々美神社の北に養父地名がありますが、交野郡一宮(片埜神社)の神官を務めた養父氏は物部守屋の子孫なんですね。


追記
 GIFファイルは著作権問題があって見れないようです。
 また下記のサイトを見ると嶺宮と山頂にもお社が見えます。立山も山頂にお社、9mぐらい下?に立山頂上雄山神社がありました。

 http://tobotobo.sakura.ne.jp/20070817hodaka/20070817-230.html

[8939] Re[8932][8930][8928][8926]: 百済  神奈備 2008/05/11(Sun) 21:25 [Reply]
> 継体さんと九頭(葛)も大変気になりました。

枚方市の字名の九頭神に式内社の久須々美神社があり、どうやら江戸時代までは神社はあったようです。
http://kamnavi.jp/en/kawati/kususumi.htm

継体天皇が最初に都したのが葛葉宮です。また継体天皇が育った越前国坂井郡には九頭竜川が流れており、この川の上流から長良川上流につながり、尾張の目子媛との繋がりもこの川の恵みと言えるでしょう。
宮を置いた天皇が故郷の神を祀ったのが九頭神だったかも知れません。


> 和歌山でも継体と「くず」のことがさかんに議論されていました。

承知していません。具体的に教えて下さい。

[8938] Re[8937]: 穂高神社峰宮  神奈備 2008/05/11(Sun) 21:07 [Reply]
> 神奈備さま
> 私のパソコンでは表示されません。

これでいかがですか。
http://kamnavi.jp/h17024.jpg

[8937] 穂高神社峰宮  素人 2008/05/11(Sun) 20:51 [Reply]
神奈備さま
私のパソコンでは表示されません。
> > 平成17年2月28日投稿の穂高神社嶺宮の写真
>
> http://kamnaviphoto.web.fc2.com/hei17/h17024.gif
青草の蛇足ですが。
穂高神社さまのWebが有ります。
嶺宮でなくて峰宮と書いてありますが嶺宮が正しいのでしょうか。
それとも違う神社でしょうか。主峰奥穂高岳頂上鎮座ですが。
穂高神社奥宮案内にも小さい写真が有るようです?
峰宮 北アルプスの主峰奥穂高岳頂上(3190m)に鎮座
http://www.hotakajinja.com/images/myoujindake2.jpg
http://www.hotakajinja.com/htm/oku.htm
いらない書き込みですが。

[8936] Re[8935]: 穂高神社嶺宮  神奈備 2008/05/11(Sun) 14:39 [Reply]
> 平成17年2月28日投稿の穂高神社嶺宮の写真

http://kamnaviphoto.web.fc2.com/hei17/h17024.gif

[8935] 穂高神社嶺宮  ほまれ 2008/05/11(Sun) 14:01 [Reply]
 今日は。こちらでは初めて書き込みさせて頂きます。過去ログ(多分)平成17年2月28日投稿の穂高神社嶺宮の写真を見たいのですが画像が表示されていません。穂高神社嶺宮の写真はどんなサイトにお邪魔してもなかなか見ることが叶わずやっとこちらに辿り着いて大喜びしていたのですが見れません。奥宮までは行けるのですが、さすがにあそこまでは素人ではなかなか・・・是非是非画像表示できるように改定お願い致します。

[8934] Re[8933]: 総社市の秦村  佐々木高久 2008/05/11(Sun) 10:45 [Reply]
 素人さま
 秦氏は鉄や土器以外に蚕の社が示すように養蚕業にも関与していた。日本最初外国蚕飼育旧跡の記念碑が普賢寺の近くにあります。
 森製鉄遺跡については「続日本紀」神亀5年2月17日条に鍛冶造大隈賜守部連の本貫地は交野郡とのこと。交野郡の北には月読神社で有名な大住郷も立地するので説には何か通ずるものがある。
 長屋王木簡で有名な肩野津は、従来は交野市郡津でなく、交野郡船橋郷の二宮神社付近とのこと。郡津は天野川の流域であるが当時の天野川は無能河川なので港機能は考えることが不可能で、これは支持できる。西田敏秀「河内国交野郡素描」網干善教先生古希記念考古学論集1998を参考にしました。http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA35335086

[8933] 総社市の秦村  素人 2008/05/11(Sun) 01:06 [Reply]
佐々木高久さま
色々勉強になります。
>  今さらわかったこと、京田辺の多々羅付近は「日本最古の蚕の産地」「機(秦)織も盛ん」だった。「つつき」には筒城、筒木、都々城の当て字がある。当時の山城河内の境界は現在の京都府の中にある。
養蚕ですか。
弥生前期は華南でしょう。それ以後は、
華北からのようで、やはり山東半島・遼東半島・楽浪郡・伽耶等から日本でしょうか。
製鉄を考えますと伽耶から日本にミナマ伽耶崩壊後に総社市秦村に移住して製鉄を始めた製鉄華僑は半島に伝わった縦型炉の製鉄で銑鉄を作る間接製鉄法でなくて、直接法・角型などの背の低い炉で海綿鉄を作る方法の変形である、軟鉄系の塊錬鉄を作る南方系と思われる山東半島・遼東半島・楽浪郡・伽耶経由の大陸の比較的新しい技術によって製鉄を始めたと思われます。技術からすると大陸から比較的新しい時代に半島に渡った集団とも考えられます。鉄官系の溶鉱炉とは技術の系譜が違います。
こう考えますと養蚕をやった集団も半島に定住して長い人たちでなく、比較的新しい時代に半島に渡った、新しい養蚕の方法を持った人々とも考えられます。
受け入れ側も、旧技術よりは最新技術集団の方が好ましくも有ります。
私の夢想ですが、帰化人・渡来人も半島に渡った時代の新旧により、技術も違っていたのではと考えます。昔から日本人は新しい物好きでしょう。
素人の青草でした。

[8932] Re[8930][8928][8926]: 百済  佐々木高久 2008/05/10(Sat) 18:02 [Reply]
 継体さんと九頭(葛)も大変気になりました。葛葉には木津寺(久修恩院)があり、南には九頭神(葛上)廃寺があった。乙訓郡の北には葛野(かどの)郡がある。桜井付近には葛上郡葛下郡がある。筒木には葛がない。南に江津、宮津、木津はある。こじ付けで牛頭の牛を九にするとなにか手がかりがでるかもしれない。さらに九個の頭なら、間は8つなので、ヤマタと関係あるのかとも思った。
 和歌山でも継体と「くず」のことがさかんに議論されていました。何か関連があるのでしょうか。

[8931] Re[8929][8927]: たたらと銅  佐々木高久 2008/05/10(Sat) 10:26 [Reply]
 今さらわかったこと、京田辺の多々羅付近は「日本最古の蚕の産地」「機(秦)織も盛ん」だった。「つつき」には筒城、筒木、都々城の当て字がある。当時の山城河内の境界は現在の京都府の中にある。南山城から枚方は陶邑の衰退期に、土器の一大生産地(JR松井山手駅一帯)になった。大阪の森小路遺跡と久御山の市田斎当坊遺跡では、ともに淀川流域の弥生中期の港湾遺跡でつながった。

 朝来郡には多々良以外、朝来・生野などの半島に由来する地名、物部という地名もある。天目一神社付近には製銅の遺跡がある。
 物部は綾部の以久田野台地にもあって、鍛冶屋地名もある。これらの状況証拠がなにかにつながれば。以上青草でした。

[8930] Re[8928][8926]: 百済  神奈備 2008/05/10(Sat) 09:02 [Reply]
 今日の10日の土曜日には豊中歴史同好会があります。
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

 以前に会員さんが言ったお話ですが、「継体天皇を葛葉宮で即位させてから、越前まで迎えに行った大伴氏や物部氏は継体さんを置いてきぼりにして大和へ帰ってしまったのではないか。」と。

 確かに、即位以降皇后を迎える段取りをつけてから大伴・物部の名が出てくるのは6年目です。

 12年に山城国乙訓へ都を遷しています。山城国の豪族の平定とか支持を取り付けることも考えられますが、大和内で継体を暗殺する計画とか襲撃計画があったので、難を避けたのかも知れません。

 さて、『百済本記』には、「日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった。」とあります。これを継体さん、皇太子の安閑さん、安閑さんの男の子と解釈する方もおられるようです。安閑さんの弟の宣化さんは欽明さんと組んで安閑さんをやっつけたとのことです。宣化さんの代に蘇我稲目が大臣に登用されています。安閑さんと皇子の暗殺には背後で蘇我氏が操っていたのかも知れません。蘇我氏は後々も暗殺の癖が出ており、これは大伴氏や物部氏のやり方ではなさそうですね。

[8929] Re[8927]: たたらと銅  素人 2008/05/10(Sat) 02:16 [Reply]
佐々木高久さま
ご指導有難うございました。
>  たたらと銅のことが出てきたので、チョッと確認しました。
>  銅山で、朝来市に多々良木鉱山がありました。偶然ですが少し南に下がると西脇の天目一神社がありました。また多々良木鉱山の北には古山陰道がありました。
多々良木は地名で残っているのですか。
同じ朝来市多々良木の多々良鉱山がリストに載っています。銅山です。
明延鉱山、生野銀山などと言う古い鉱山が近くにある鉱床地帯のようですから、古くから採鉱されていたかもしれません。
あまりたたら製鉄とは関係ないようなところですが、鞴のタタラでしょうか。
昔は朝来市多々良木は朝来郡多々良岐庄であったらしい。
夢想ですが多々良 岐庄でもとは多々良かもしれません?
兵庫県の鉱物リスト
http://www7b.biglobe.ne.jp/~hryk/03-30.html
青草です。

[8928] Re[8926]: 百済  佐々木高久 2008/05/07(Wed) 22:56 [Reply]
 継体さんの宮は葛葉宮(枚方市樟葉丘説と京田辺市松井柏原説)、筒木宮(京田辺市多々羅都谷)、弟国宮(長岡京市今里)と動いていますが、不思議と古山陰道上にあります。一旦南東に行って、北西に行っています。これは方違えなのでしょうか。
 京田辺あたりを含めて南山城はほんとうににぎやかだったようです。弥生中期以降の集落遺跡件数から推定した人口も江戸時代と変わりません。いや多いかもしれません。

[8927] たたらと銅  佐々木高久 2008/05/07(Wed) 20:46 [Reply]
 たたらと銅のことが出てきたので、チョッと確認しました。
 銅山で、朝来市に多々良木鉱山がありました。偶然ですが少し南に下がると西脇の天目一神社がありました。また多々良木鉱山の北には古山陰道がありました。
古山陰道沿いには朝鮮半島系の遺物が集まっていることや、普賢寺のある京田辺市のとなりの八幡市には金振郷という地名が残っていて、近くに相槌神社があったとのことでした。青草でござりました。
 そういえば古今書院からこのような書籍が出ていました。 http://www.kokon.co.jp/h1458.htm

[8926] 百済  神奈備 2008/05/07(Wed) 20:39 [Reply]
 綴喜郡である京田辺市と言えば北側に月読神社があって隼人舞い発祥の碑が立っているように隼人の関係に注目していましたが、南部には百済人、西部には息長氏と賑やかな場所だったようです。継体天皇の宮を淀川水系の水運に注目して見ていたのですが、枚方は百済の学者の王仁や百済王敬福の土地でもあり、継体最初の宮である楠葉宮や次の筒城宮も百済人の多く住む所であり、百済人の支援を受けていたのでしょう。
 隅田八幡宮から出た鏡に、百済の武寧王から継体さんに送られたと思われる文字があり、継体・百済は実に仲のいい組み合わせだったようです。これに磐井・新羅の対立があったのでしょう。

 継体さんの弟国宮は乙訓郡で、渡来人としてはおそらくは秦氏の多い地域だったのでしょうが、秦氏は百済や新羅と言う立場ではなく、大陸の秦始皇帝の末裔を名乗っていて、日本の王位継承の争いなどには介入せず、ひたすら調庸の民として地域開発に取り組んでいたのでしょう。継体さんの弟国宮遷都はこれら秦氏を掌握しておく目的もあったのでしょう。

 佐々木様の京田辺市の多々羅地名の御指摘、素晴らしいヒントになりました。深謝。

[8925] 屁理屈  素人 2008/05/07(Wed) 00:57 [Reply]
佐々木高久 さま
噂程度の話ですが。
> 素人さま
> 少し補足を。
> 普賢寺のほか、付近では九頭神廃寺(枚方市牧野)、美濃山廃寺(八幡市美濃山)、足利健亮説の古山陰道前にあった志水廃寺(八幡市月夜田)、伽耶地方と関係がある渦巻き飾り付き鉄剣の出土したヒル塚古墳(八幡市水珀ヒル塚)、継体天皇の樟葉宮の裏山には西山廃寺(八幡市西山)や四天王寺の瓦窯跡などがありました。
>  廃寺の瓦は美濃山廃寺を除けば、朝鮮半島とのつながりが指摘されています。http://www.city.yawata.kyoto.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::3543
> 参考文献:八幡市遺跡地図2005年版 八幡市教育委員会
>
ネットで調べていますと、東大寺大仏の話自体が白水江の後の難民で日本に来た連中の末裔(僧侶?)が持ち込んだ話であるとか書かれていますし、百済系技術者・国中連公麻呂ですが当時百済系は官吏に採用されることはほとんどなく、例外中の例外であったなどの記述がみられます。裏で色々あったのかもしれません。
青草の思い付を一つ。
百済系の登用
大仏建立において百済系技術者が新参者にもかかわらず登用されているのは、官吏の大半を固めていた古い時代からの中国系が、中国においても過去に前例を見ない非常に技術的に困難な巨大銅製仏像の製作への関与を躊躇したためと思われる。この間隙を突いたのが白水江後に日本に渡来した百済系の自称中国系技術者集団と思われる。中国系にしがみ付かないと、蕃族と言うことになり人間扱いされなかったからでしょう。
中国系官吏は「君主危うきには近寄らず。」でお手並み拝見であったとも思われます。
中国からの新技術、踏み鞴と縦型溶解炉を使って色々トラブル続きで大幅に遅れたが、何とか恰好がついて百済系は名を挙げたものと思われる。
完成後も亀裂が入ったり、火災で首が落ちたりしてその後はそこそこの評価であったのかもしれません。大仏建立以後は中国系の官吏も百済系の追い落としに躍起になったのかもしれません。福島県での古代製鉄遺跡の技術変化で踏み鞴とともに導入された縦型炉が短期間で従来の縦型炉に取って代わられたことも、朝鮮の溶鉱炉が縦型炉で有ったので、技術指導した百済系への反発から日本式の方形炉に戻ったのかもしれません。朝鮮系ですから有頂天になり中国系や日本系の技術者に威張り散らし顰蹙を買っていたのかもしれません。溶鉱炉として縦型炉は連続稼働としては、下部を耐火材で製作すれば非常に優れた溶鉱炉ですから定着しなかったのには不慣れな炉と言うだけの理由ではないように思われます。後に縦型炉が北日本で使われています。この時代は国家が意識され愛国心が前面に出ていた時代かもしれませんが。
とんでも夢想すみません。
百済系の僧がとても偉い方に取り入って工作したのではと藤原の時代ですから
考えてしまう素人です。

[8923] Re[8922][8921][8920]: 多田羅の屁理屈  佐々木高久 2008/05/06(Tue) 13:54 [Reply]
素人さま
少し補足を。
普賢寺のほか、付近では九頭神廃寺(枚方市牧野)、美濃山廃寺(八幡市美濃山)、足利健亮説の古山陰道前にあった志水廃寺(八幡市月夜田)、伽耶地方と関係がある渦巻き飾り付き鉄剣の出土したヒル塚古墳(八幡市水珀ヒル塚)、継体天皇の樟葉宮の裏山には西山廃寺(八幡市西山)や四天王寺の瓦窯跡などがありました。
 廃寺の瓦は美濃山廃寺を除けば、朝鮮半島とのつながりが指摘されています。http://www.city.yawata.kyoto.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::3543
参考文献:八幡市遺跡地図2005年版 八幡市教育委員会

[8922] Re[8921][8920]: 多田羅の屁理屈  素人 2008/05/06(Tue) 02:56 [Reply]
佐々木高久さま
ご指導有難うございました。
大変参考になります。簡単には繋がらないようです。
> 普賢寺については最近発掘されて一部公表されていました。
> http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/articles/record/detail.asp?xml=record20070128.xml
> http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/research/report/
> 大宰府と同じ瓦が出たようです。今後の発掘では何かわかるかもしれませんね。
上の下のWebのpdfファイルに
1)
「主体となる瓦をもとに年代を推定すると、奈良時代に建立された塔跡とも考えられる。先述の網氏の論考では、瓦積み基壇は百済系の寺院建築技術で、7世紀後半の流入例が多いようである。その後、畿内から在地への広がりの中で8世紀に分布が広がったとされている。」
http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/research/report/report10/fugenji.pdf
百済系の寺院建築技術との記載あり。
2)百済系技術者・国中連公麻呂
大仏建立の技術責任者。特に鋳造に精通していたらしい。
3)神奈備さまの投稿
[8918]  Re[8917][8915][8914][8911][8910][8908]: 渋河路は 神奈備
>平凡社 歴史地名辞典の『京都府の地名』から。
>多々良地名は欽明天皇の代に百済からの渡来人多々良公が当地に住したことによるという。

大仏、普賢寺と多田羅地名すべて百済に関係有るらしい。強引なこじつけですが。

> 普賢寺と近くの交野市、森製鉄遺跡と何か関係あるのでしょうか。
京田辺市多田羅に由来と同じ鍛冶遺跡ではないかと思われます。
鍛造、鋳造遺跡と思われます。
大半の鉄は吉備で鉄を作るまでは伽耶からの輸入であったかもしれません。
5世紀の初めですから西暦400年の高句麗侵入の伽耶難民と関係有るかもしれません。青草でした。

[8921] Re[8920]: 多田羅の屁理屈  佐々木高久 2008/05/05(Mon) 11:46 [Reply]
普賢寺については最近発掘されて一部公表されていました。
http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/articles/record/detail.asp?xml=record20070128.xml
http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/research/report/
大宰府と同じ瓦が出たようです。今後の発掘では何かわかるかもしれませんね。
普賢寺と近くの交野市森の製鉄遺跡と何か関係あるのでしょうか。

[8920] 多田羅の屁理屈  素人 2008/05/05(Mon) 00:26 [Reply]
神奈備さま
普賢寺について調べてみました。
>多々良の西隣が普賢寺で息長氏の拠点、いかにも鉄っぽい感じもありますね。
夢のない話ですみません。
普賢寺の略寺歴
天平16年勅願、良弁僧正開基(興福寺官務牒疎による)
白鳳2年、義淵僧正開基・天武天皇勅願の筒城寺(親山寺)が前身で、天平16年に聖武天皇の勅願により、良弁が伽藍を拡大増築して、普賢教寺と称した。(寺伝による)
山城普賢寺塔心礎Webより
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_fugen.htm
「天平16年(西暦744年)に良弁が伽藍を拡大増築して普賢教寺と称した。」とあります。
良弁は天平18年(西暦746年)に聖武天皇によって金鐘寺を改めて東大寺とする工事が起こされると、これに尽力しました。この功績により初代別当となっています。その後、東大寺大仏建立の功績によりに少僧都となり、天平勝宝8年には大僧都に任じられています。
大仏建立の中心者でもあります。
大仏建立の経緯。
天平十七年(西暦745年)  大仏建立が東大寺の地で開始される。
天平十八年(西暦746年)  大仏鋳造原型が完成した。
天平十九年(西暦747年)  大仏の鋳造を開始した。
天平勝宝元年(西暦749年) 大仏の鋳造を終了した。
大仏建立の1年前に大仏建立の中心者である、聖武天皇の勅願により、同じく中心者である良弁が伽藍を拡大増築して、普賢教寺と称したことになり、この寺院の門前に多田羅と言う地名が残り、この地は渡来人の金属加工者が古くから住まっていた地とすると中国から導入された踏み鞴・縦型銅溶解炉との関係が予想されます。私の夢想ですが、拡大増築された伽藍に中国からの技術者が,逗留して門前の多田羅地域の金属加工者を使って、炉の試作や稼働訓練など大仏鋳造への準備と下級技術者への技術移転などが行われ、東大寺の現場へはこちらを拠点として少し遠いですが、通ったりしたのでしょうか。都には逗留させたくなかったのかもしれません。
その後、中国人か機密保持を考えれば技術移転された、多田羅地域の下級技術者が福島などの官営製鉄へ技術移転を行ったのではと夢想します。福島などで、縦型炉と踏み鞴の組み合わせでの技術移転が上手くいっていない点を考えると日本人による技術移転の可能性も高いのではと考えます。
瓢箪から駒で、砂鉄と方形炉と踏み鞴が組み合わさり、後世のたたら製鉄が出来てしまったかもしれません。
こんな屁理屈が正しければ、日本での多田羅の発祥の地などとも言えないことはないかもしれません。
踏み鞴も中国では、小規模の製鉄、金属溶解炉で使用される2級技術であったようです。中国人は当然ですがお人よしではなかったようです。中原では古くから水車駆動の鞴も有ったようです。それでも、大仏建立が効いたのでしょう、重要な軍事技術をよく移転したものです。これが目的の大仏建立などと言うことはないと思いますが。一石二鳥はあるかも知れません。
あまりに私に都合のいい長文の青草失礼しました。

[8919] Re[8918][8917][8915][8914][8911][8910][8908]: 渋河路は  佐々木高久 2008/05/04(Sun) 20:54 [Reply]
http://www.pref.kyoto.jp/archives/shiryo4/tnbunrui/tn5.html
筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図でも何とか位置は確認できました。この辺は素盞鳴命の密度が高いですね。

[8918] Re[8917][8915][8914][8911][8910][8908]: 渋河路は  神奈備 2008/05/04(Sun) 15:11 [Reply]
京田辺市の多々良

 平凡社 歴史地名辞典の『京都府の地名』から。
 多々良地名は欽明天皇の代に百済からの渡来人多々良公が当地に住したことによるという。

 『新撰姓氏録』山城国諸蕃)に、
任那 多々良公 出自御間名国主爾利久牟王也 天国排開広庭天皇(欽明)御世。投化。献金多々利金乎居等。天皇誉之。賜多々良公姓也。」とあります。

京田辺市多々羅新宮前 新宮社「素戔嗚命」本来の祭神は多々良公の祖先の余璋王と云う。

 由緒 この地は欽明天皇の御よわが国に来朝した百済国人爾利久牟王の居住のあった所という。この人は鉄工の業を伝えた人で朝廷より多々羅の姓を下賜きれた当社はその子孫のものが祖神と仰ぐ百済国余璋王を祭神として祀った氏神社であって当時渡来人がこの地に住んでいた事が察せられる。いまは素盞鳴命を祭神としているが朱智神社との関係であろうか。式外社ではあるが由緒はすこぶる古い。今はもとの鎮座地を明らかにしないが一説に多々羅田中山にあり、一に田中山宮と称した現在は朱智神社の境外末社となっている。

多々良公は鉄工の業でその姓を賜ったようですね。

[8917] Re[8915][8914][8911][8910][8908]: 渋河路は  神奈備 2008/05/03(Sat) 15:53 [Reply]
> 神奈備さん
>
> > 絡をタタリとよむのははじめて知ったのですが、繊維からタタラの地名がついた例は他には知りませんので、珍しいことでしょうね。
>
> 肥前風土記 姫社の郷 の段にあるのはご存知だったのでは?
>  忘れっぽくなった、というご同病だとは思いますが。




 大三元さん、こんにちは。
 おっしゃる通り。アルツハイマ菌に祟られて来たようです。
 そう云えば、○神社に参詣したことがあるかないかを忘れることも時々!

 ご指摘のように絡垜(タタリ)が出ています。
 糸くり台です。昔、毛糸の束を両手にくぐらせで、母が糸を巻き取っていくのに合わせて手を傾けていくことをやりましたが、それを機械化した回転車のようなものを云うようです。
 肥前国のこの付近は一〜二回通っているのですが、姫社神社には寄れていません。一度、参詣しておきたいと思います。

[8916] Re[8914][8911][8910][8908]: 渋河路は  佐々木高久 2008/05/03(Sat) 11:01 [Reply]
素人様 神奈備様 ありがとうございました。
素人様 
>大陸や半島で土木技師の助手でもして現場で腕を磨いた熟練した技術者が必要だったのでしょう。読み書きも必要に思いますがいかがでしょうか。
そのとおりだと思います。自国の国土尺を外部に出すこと自体は、国力を教えているようなものですが、自国の支配下という認識で支配各国の国力をきちんと整理したかったのかもしれません。
神奈備さま
>多々羅の東向いの高神社の北側の青谷川沿い鑓ケ谷あたりで、よく古そうな鉄の塊を見るので何か感じます。 


 

[8915] Re[8914][8911][8910][8908]: 渋河路は  大三元 2008/05/03(Sat) 09:49 [Reply]
神奈備さん

> 絡をタタリとよむのははじめて知ったのですが、繊維からタタラの地名がついた例は他には知りませんので、珍しいことでしょうね。

肥前風土記 姫社の郷 の段にあるのはご存知だったのでは?
 忘れっぽくなった、というご同病だとは思いますが。

[8914] Re[8911][8910][8908]: 渋河路は  神奈備 2008/05/03(Sat) 08:31 [Reply]
> 確か生駒山地東麓に京田辺市に多々羅という場所があります。筒城宮があったとされるところでもありますが、古代製鉄と何か関係がある場所なのでしょうか。


http://chimei.hp.infoseek.co.jp/tushin2.htm
京都地名研究会の通信誌の第2号に「京田辺市の『多々羅』地名」綱本逸雄氏
の考察が掲載されています。

一つは製鉄の多々良(踏鞴)、もう一つに紡績の絡(たたり)で、出土物からは何も言う程の物がないようですが、記紀などからは繊維説が多いとしています。

絡をタタリとよむのははじめて知ったのですが、繊維からタタラの地名がついた例は他には知りませんので、珍しいことでしょうね。

多々良の西隣が普賢寺で息長氏の拠点、いかにも鉄っぽい感じもありますね。

[8913] 単位と踏み鞴  素人 2008/05/03(Sat) 02:11 [Reply]
> 素人さま
> >土木工事がらみでお教えください。工事ですから長さをはかったりしたと思うのですがどのような単位をつかったのでしょうか。
>  古墳の場合、一尋(1.6m)×1.9=約3mという説があります。古代道路もおおよそ約3mの倍数です。定数1.9の根拠はわかりません。1間に近い数値ですが、非常に関心のあるとこですが。http://suido-ishizue.jp/daichi/part3/01/02.html
単位はあるのですね。結構複雑でやはり熟練した専門技術者がいるように思えます。
3mですと時代はずれますが、唐尺0.3m*10尺=3mとやりたくなってしまいます。
しかし、そう簡単ではないようですから大変興味があります。独自の単位系でしょうか。大陸や半島で土木技師の助手でもして現場で腕を磨いた熟練した技術者が必要だったのでしょう。読み書きも必要に思いますがいかがでしょうか。
> ちなみに素人さま
> 確か生駒山地東麓に京田辺市に多々羅という場所があります。筒城宮があったとされるところでもありますが、古代製鉄と何か関係がある場所なのでしょうか。お教え下さい。
>
一般論ですが、多々羅は踏みふいごのことで前に書きました福島県の官営の古代製鉄での技術的発展で見ますと8世紀中頃に登場します。はじめは大陸系の縦型炉との組み合わせで登場します。この踏みふいご技術はたぶん、大仏建立のために唐から縦型の溶解炉とセットで新技術として導入されと思われます。これが官営の製鉄に移転導入されたと思われます。初期は中国人の技術者の技術指導があったかもしれません。
しかし、縦型炉はこの時点では定着せずに従来の方形の炉との組み合わせで定着します。これがいわゆるたたら製鉄として日本に定着します。踏みふいごの導入で鉄の生産量は画期的に増加します。このとき製造していたのは、白銑鉄で銑鉄を製造していました。銑鉄を脱炭素して鋼や軟鉄を造って居ました。原料は不純物は多いが入手の容易な海砂鉄でした。一部直接還元で出来る塊錬鉄も出来ていましてが副産物で主製品ではありません。塊錬鉄は後に出雲で生産される玉鋼とは似て非なるものです。
このように多々良は本来、踏みふいごのことですから導入された8世紀後半以後の地名の名前と思われます。律令期ですから全国的な技術移転が行われていたようです。
原料の砂鉄・鉄鉱石のある地域でたたら製鉄が行われて、地名として残ったのではと推測されます。
福島の製鉄遺跡
http://www.culture-center.fks.ed.jp/event/kodai/seitetsuiseki.htm
青草でした。

[8912] Re[8911][8910][8908]: 渋河路は  佐々木高久 2008/05/02(Fri) 20:20 [Reply]
 追記です。なぜ1.9をかけるのかはわかりません。土木や構造の世界では安全率を加味するという考え方があります。
 なお尋以外なら、当時の大阪湾の干満の差(現在は1m程度)を基準にした可能性もありそうです。
 ちなみに丹後半島は最短は誤植で最安です。

[8911] Re[8910][8908]: 渋河路は  佐々木高久 2008/05/02(Fri) 11:41 [Reply]
素人さま
>土木工事がらみでお教えください。工事ですから長さをはかったりしたと思うのですがどのような単位をつかったのでしょうか。
 古墳の場合、一尋(1.6m)×1.9=約3mという説があります。古代道路もおおよそ約3mの倍数です。定数1.9の根拠はわかりません。1間に近い数値ですが、非常に関心のあるとこですが。http://suido-ishizue.jp/daichi/part3/01/02.html
>鉄は青銅のように塩水に対する腐食耐性にかなり劣る
これ書き間違いです。青銅は海水に対して不導態被膜をつくるので耐食性を示すが、鉄は表面処理(クロム酸やリン酸など被膜など)が出来ていなければ錆びる。
>半島の鉄は丹後王国の加悦にまず納めさせて、丹後王国の収益源にしたのでしたか。
これは説明不足ですね。半島南部から無気力航海で舟を出すと、丹後半島あたりに到着するので、最短最速低輸送コストで到着できる港として販売権を奪取し王国として発展、ついには自主生産に踏み切ったのかと空想しています。
 鉄は比表面積が大きいと良く燃える。現在ならカナたわしのようなもの。しかし酸素も相当量必要なので、単なる火事では無理でしょうね。
ちなみに素人さま
確か生駒山地東麓に京田辺市に多々羅という場所があります。筒城宮があったとされるところでもありますが、古代製鉄と何か関係がある場所なのでしょうか。お教え下さい。



[8910] Re[8908]: 渋河路は  素人 2008/05/02(Fri) 01:41 [Reply]
> 渋河路という太子道があったと思うのですが、今はどの付近が比定されているのでしょうか。たしか柏原から難波宮までの直線古道とか、長瀬川の堤防とか聞いたことがあるのですが。
ご質問はわかりませんが、土木工事がらみでお教えください。工事ですから長さをはかったりしたと思うのですがどのような単位をつかったのでしょうか。ちなみにエジプトの単位(エジプト:cubit、キュービット)で、戦国・秦・前漢では1尺=0.231m、1丈=2.31m、1引=23.1mなどが使用されていました。
231m(100丈)などと言う古墳は無いと思いますが。
関係なく一尋(1.8m)など手を広げた長さなど使う手もありますが。
180m(100尋)などと言う古墳もないでしょう。
>  鉄は青銅のように塩水に対する腐食耐性にかなり劣るので、海岸近くには長期保管しないだろうと聞きました。また鉄は実はよく燃える物質なのですと先日米村伝次郎先生が説明されていました。半島の鉄は丹後王国の加悦にまず納めさせて、丹後王国の収益源にしたのでしたか。いろいろと深謝。
鉄は燃える。
高温で燃えるようです。純鉄は融点が1500℃以上ですが、純鉄である海綿鉄を一部燃焼させると1600℃以上の高温が簡単に発生して純鉄を溶かして純鉄の鉄塊を生成するようです。たたらでも最後に酸化雰囲気で過熱している時には同様な現象が起こり純鉄を溶かしてノロ中の鉄塊に純鉄部分を生成するものと思われます。比表面積の大きい海綿鉄・純鉄粉などでは簡単に反応します。
丹後半島は吉備に入った低温型の直接還元法で海砂鉄から製鉄しようとして鉄中にイルメナイトなどが残り失敗した所のようです。(最初の砂鉄製鉄?)後に高温型の炉での間接製鉄法で白銑鉄を作り脱炭素して鋼や軟鉄を製造(大鍛冶)したようです。
青草でした。

[8909] 訂正「鋋」  素人 2008/05/02(Fri) 01:08 [Reply]
神奈備さま
ご指導有難うございました。
>鉄艇(金扁に廷)ネリガネなら、持って行かれたのか、錆びて消えたのか、よくわかりません。

難しい第二水準のようで、とんでもない間違いをしてしまいました。
「鋋」でしたすみません。


>  『神功紀』52年、七枝刀と谷那の鉄山から出た鉄が奉じられています。
>  『応神記』に、「文化の渡来」の項があります。「もし賢し人あらば貢上れ」との百済王への命令に対して、手人韓鍛名は卓素(たくそ)や秦の造の祖、漢の直の祖などがやって来ています。
>
>  鉄素材の半島からの持ち込みは、鉄技術者の渡来と同様に王権に必要なことだったのでしょう。
>
上質の大量の鉄の専売と加工された武器の供給は大和朝廷に従う諸部族を統制していくのに重要な物品であったのだと思います。北方での蝦夷との戦いの為にも必要であったと思われます。律令期に鉄の国産化に成功してすぐの7世紀後半には福島県など北方で海砂鉄を原料として大量の鉄が生産されています。間接製鉄法ですから脱炭素がひつようでした。

>  神功応神あたりのお話も神話に近いのでしょうが、神代では素盞嗚尊が「韓郷の島には金銀がある・・」と云っています。五十猛らを率いて出雲に来るのですが、真弓常忠さんが五十猛神を韓鍛冶としていますが、五十猛神を祀る伊太祁曽神社のイタキソと韓鍛の卓素の名が似ているのが気にかかっています。
 神功皇后の半島での大活躍は際立って後世に伝えられていますので、何か語り継がれるような際立った事実があったのではと考えます。
時代が少しずれるのですが、西暦400年に高句麗に伽耶地域に進攻され、その後その軍団が新羅に居座り日本に鉄が輸入できない時期が続き大変に困って、西暦404年に日本が海路当時高句麗の最重要地域であった帯方地域に上陸してこの地域を荒らしまわり、この陽動作戦により新羅の高句麗軍が本国に戻り伽耶地域は平穏を取り戻したようである。これ以後再度高句麗が侵入した記録もないので遠征日本軍は帯方地域で殲滅されたと広開土王碑には記載されているが、たとえ事実であっても作戦的には大成功であったことになる。
後世の唐との白水江の戦いの錦江よりはるかに北の朝鮮半島西岸に海路侵入して上陸し、帯方地域に大打撃を与え、高句麗の新羅遠征軍を帰還させた作戦はあまり語られないが大作戦ではないかと考えられます。これは大敗戦後の大勝利言えるかもしれません。神功皇后がこの作戦にかかわっておられれば、後世に語り継がれるのではと思う次第です。
雄略天皇の時代に高句麗の長寿王は南下政策を推進して西暦475年百済を撃って首都・漢城を陷落させ、事実上、百済は一度滅んでいます。高句麗により大打撃を受けたと思われる。前にご紹介した中国への上奏文はこの後と思われます。
勝手な推測ですが、雄略天皇の時代に住吉大社に神功皇后を祭られたとありますが、大敗戦後の大勝利を祈願されたと考えられないでしょうか。
青草の妄想です。


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