神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成二十年 九月 2008.9)お名前の敬称は省略しています。

[9474] Re[9473][9472][9470][9469]: 黒曜石の流通  素人 2008/09/30(Tue) 00:14 [Reply]
佐々木様
ご指導有難うございます。
>そうした社会変動と黒曜石石材の流通の変化は無関係ではなく,管玉・勾玉・磨製石斧といった交換財が新たに登場したことで,互酬性的な集団関係維持のための交換財であった黒曜石石材はその役目を終えたと考えた.」と結論付けています。

弥生期でも主戦武器であった弓の鏃として、金属製が登場した後も黒曜石がしつこく残っていたように聞いていたのですが間違えだったのでしょうか。鏃は消耗品となるわけですから、大事な青銅や鉄の鏃は打ち損じて敵にとられてはもったいないですから、威力にそう差が無いのなら安価と思われる黒曜石がかなり後期まで残ったのではと考えていました。まして貧しい猟師などは鉄器時代になっても石器ではと夢想していました。
 交易の中で、水晶とか、河川に転がっていた自然銅とか美しい宝石(硬玉)、辰砂とかを獲得して外国に転売すれば珍しいものが手に入ったのではないかと考えたわけです。弥生期ですと中国・朝鮮などは青銅器から鉄器に切り替わっていた時期で、青銅器の入手が容易な時期ではないかと考えたわけです。珍しい鉱物を持ち込めば不要になった、青銅器をピカピカに磨いて高価なものだと押し付けて巻き上げたのではないかと考えたわけです。持ち帰ってピカピカですからそこそこの商売になったのではと考えます。夢想ですが国内の交易で得た自然銅とピカピカの青銅で銅鐸や鏃を作って商売をしたと考えると愉快になりますが無いでしょう。当時、鉄器は新兵器なので蛮族には売ってくれなかったのかもしれません。
とんでも青草失礼しました。

[9473] Re[9472][9470][9469]: 黒曜石の流通  佐々木 2008/09/29(Mon) 20:14 [Reply]
 中部地方における弥生時代における黒曜石に関する最近の論考を紹介致します。
馬場伸一郎さんが日本考古学24号(2007.10)に書かれていますが、
それによれば、
「@弥生中期後葉栗林期に原産地組成に明瞭な変化があり,諏訪星ケ台系の石材に加え,和田和田峠系の石材が一定量組成すること,
 A弥生中期後葉は原産地組成が変化する時期であると同時に,佐久盆地の例が示すように原産地組成が遺跡単位で多様化する時期であること,
 B弥生中期後葉の消費地遺跡では諏訪星ケ台系・和田和田系の双方の石材が搬入され,その大半は集落内の石器製作で消費されていること,
 C弥生中期後葉には,屋外石材集積例の欠落,石材の小形化,石材出土量の減少が認められること,
 D弥生中期後葉には原産地遺跡と消費地遺跡の間に石材中継集落が認められないことが判明した.」
 
 弥生中期後葉に流通システムの変化が起こったことは確実に言えると考えます.
 所謂「倭国大乱」との関係も少しばかり気になる時代であります.
 
 最後に氏は「このように変化の画期の多くは弥生中期後葉に集中し,当該期は原産地での石材採掘活動を含む「集団組織的石材獲得・流通システム」が欠落しているとした。弥生中期後葉の栗林期は水田稲作を基幹生業とする社会変動期であり,大規模集落の形成・遺跡数増加・特定遺跡で労働力を集約した手工業生産にそれは象徴される。そうした社会変動と黒曜石石材の流通の変化は無関係ではなく,管玉・勾玉・磨製石斧といった交換財が新たに登場したことで,互酬性的な集団関係維持のための交換財であった黒曜石石材はその役目を終えたと考えた.」と結論付けています。

[9472] Re[9470][9469]: 黒曜石の流通  かたばみ [Url] 2008/09/29(Mon) 19:05 [Reply]
>海人族だったと思われる物部氏の場合、遠祖の饒速日尊が河内の

大賛成(^^)
ある時点では全国海運ネットを構築していただろうとみています。
あの山のてっぺんから日が昇ってから10日後にどこそこ浜で合いましょう・・
暦が必要、それぞれの地域情報や方言辞書も必要。
これらを持てばそれだけで他者の優位に立てただろうと思います(身内用の暗号も必要になる(^^;)。

ウエツフミはその集団(≒ギルド)に伝わる伝承が源とみて、私は重視しています。
http://cgi.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/index.html

ただし、旧事本紀に渡来系の専門職らしきが見えます。
天孫に同伴した手工業者(平民)だとみていますが、海運と結合して製品を各地に運んでいたのではないか。
今でいう商社でもあって、どこへでもでかけてゆく。
戦があればますます儲かる(^^; 自衛用の軍事力も必要になると思います。

後に大勢力となった物部氏が、これをベースに天孫同格に格上げして海運者を含めた祖先として象徴化した、のが饒速日尊だと考えています。

[9471] Re[9468]: 豊浦寺  かたばみ [Url] 2008/09/29(Mon) 18:58 [Reply]
こちらに良い資料がいくつかあります。→資料館図録資料→蘇我三代
http://www.asukanet.gr.jp/index.php

現在の向原寺はぴったり20度・・ですが地形状況も20度あたりじゃないかなあ。
豊浦寺の伽藍配置はこれと90度向きが違うみたい。

[9470] Re[9469]: 黒曜石の流通  神奈備 2008/09/29(Mon) 17:26 [Reply]
 古そうな「海運にも長けたこの人たち」と言いますと、安曇族とか椎根津彦を連想しますが、さて、彼らが後世に大きい政治勢力に育っていたような雰囲気は感じません。

 海運業は津々浦々の港で連携を保てればいいのであって、農業のような大規模開発とか農地獲得の争いなどの必要がなかったので、強大な権力を握っていないと言えるのかも知れません。
 また、蓄えを持っていたとしても、航海中の船の沈没や、港での台風や津波による被害で、蓄えも水泡に帰すことが多かったのかも。

 海人族だったと思われる物部氏の場合、遠祖の饒速日尊が河内の哮峰に降臨の伝承を持っています。その中に当麻物部がいて、彼らはサヌカイトの産地の二上山そのものに降臨の伝承を持っているようです。
 物部氏は『日本書紀』の伝承では、神武さん以前に大和を支配していた長髄彦の上に君臨していたように記述されています。かれらこそは富を集積して大和国中の支配者となったと言えるのかも知れません。

[9469] 黒曜石の流通  素人 2008/09/28(Sun) 21:05 [Reply]
 三宅島のお隣の神津島では黒曜石が取れますが、縄文時代からかなり広い範囲に流通していたことが知られています。また、大分県姫島にも巨大な黒曜石の鉱脈があり、出雲の隠岐でも黒曜石が産出して広く海路で流通したいたようです。黒曜石はガラス質で美しく切れ味もいいためか、珍重されたようです。ナイフや鏃として広く活躍した様です。黒曜石に限らず、サヌカイト等多種類の石器原料も流通したと考えられますが、海路だけでなく、陸上も含めてどのような勢力があったのでしょうか。これらの代価として多種類の産物・鉱物の集積が有りかなりの富を築いて一大勢力になっていたのではと考えらますが、海運にも長けたこの人たちは弥生期以後どのような勢力になっていったのでしょう。
素人の夢想ですがご指導ください。

[9468] 豊浦寺  ペギラ 2008/09/28(Sun) 19:37 [Reply]
次はここですね。

明らかにこの地は、傾いているんですが、

配置、わかりません。
再び、レスキューです。(^_^;)




[9467] Re[9466]2: 坂田寺・檜隈寺  ペギラ 2008/09/28(Sun) 11:36 [Reply]
どんたくさん、すいませんです。

なかなか見つからなくて、救いを求めたとたんに発見でした。(^^;)

この二つのお寺の配置は、地形ですよね〜。
正方位に作ろうと思えば可能だが、
できるだけ、土地を有効活用しようと思えば
こんな配置になるんだと思いますよ。


[9466] Re2: 坂田寺・檜隈寺  どんたく 2008/09/27(Sat) 23:01 [Reply]
ペギラさん、こんにちは。

私が#9465をアップした時点で、ペギラさんの#9463を発見!

そこにある檜隈寺の配置図の方が、私が今日撮った案内板の写真よりもはっきりしているので、私の写真を神奈備さん宛にお送りするのは取りやめます。


[9465] Re: 坂田寺・檜隈寺  どんたく 2008/09/27(Sat) 22:50 [Reply]
ペギラさん、こんにちは。

檜隈寺って、奈良県明日香村の檜隈寺のことでしょうか?

それでしたら、たまたま今日行ったところです。(^_^)
近くで現地説明会があったものですから、その帰りに於美阿志(オミアシ)神社と檜隈寺(ヒノクマデラ)跡によりました。

檜隈寺跡にある案内板の図を見ると、配置の方向は、北よりも少し西へふっているようです。

写真の撮影者(=私)の影が案内板に映ってしまっているため、少々図が判りにくくなってしまっていますが、今日撮った案内板の写真を別途神奈備さんにお送りします。


[9464] Re[9463][9462]: 坂田寺・檜隈寺  ペギラ 2008/09/27(Sat) 21:08 [Reply]
坂田寺 発見!

http://www.asukamura.jp/chosa_hokoku/sakata/hokoku.html

すいません。自問自答です。




[9463] Re[9462]: 坂田寺・檜隈寺  ペギラ 2008/09/27(Sat) 20:51 [Reply]
檜隈寺、発見!

http://asuka.huuryuu.com/kiroku/teireikai-8/teireikai8-repo2.html#%E6%AA%9C%E9%9A%88%E5%AF%BA%E8%B7%A1

<


[9462] 坂田寺・檜隈寺  ペギラ 2008/09/27(Sat) 20:18 [Reply]
ここって、
どんな資料から、
>建物自体が聖方位に傾いており、(『聖徳太子と斑鳩京の謎』P53)

というのが出てくるのだろうか?
発掘資料とか、あるのかな???
ご教示をお願いします。



[9461] Re[9460][9459][9458][9456][9455][9451][9449][9443]: 建物の角度  かたばみ [Url] 2008/09/27(Sat) 19:54 [Reply]
飛鳥水落遺跡は中大兄皇子(天智天皇)が660に造営した水時計施設である可能性が高いですが、航空写真での方位は真北とみえます。
時計施設であれば方位に関する意識を伴って造るはず、斉明朝(皇極642-644、斉明655-660)では真北基準であったと考えられます。

で、その飛鳥川の対岸に飛鳥水落遺跡を見おろすように蘇我入鹿の屋敷とされる甘樫丘東麓遺跡(焼け落ちた痕跡がある)があって、こちらは斜面なりの建築とみえます。

[9460] Re[9459][9458][9456][9455][9451][9449][9443]: 建物の角度  佐々木 2008/09/27(Sat) 13:54 [Reply]
> >対角線の一つは西に20度ッポク
> 建物を設計するとき、対角線からはじめるのを見たことがありません。

 このマウント状建造物はまず中心を決定して、直交するある2方位線上を中心から等距離で盛り土したような基礎構造と拝見しました。ある方位に意味があるかどうかはまだこの時点ではわからない。

>その建物の目的はなにか、がまずありそうですね。

 これが最も重要です。
 石舞台古墳の場合は、石室の方位はわかるのですが、建造当時の石棺を安置時の「頭の方角」の向きがわかりません。

[9459] Re[9458][9456][9455][9451][9449][9443]: 建物の角度  かたばみ [Url] 2008/09/27(Sat) 12:52 [Reply]
>対角線の一つは西に20度ッポク

建物を設計するとき、対角線からはじめるのを見たことがありません。
四角形の方向をいうのに対角線を用いるのも聞いたことがありません。
もし、対角線の角度がこうだからうんぬんであるなら、「期待する角度」を探した結果、じゃないかなあ。

その建物の目的はなにか、がまずありそうですね。
住むための建物であれば日当たりの悪い造りはしないと思います(日本の場合)。
ついで周辺環境との関係で使いやすく造る、斜面とか川や山との関連などです。

先の島庄遺跡の建物は飛鳥川の川筋が今と同じであれば、その緩斜面をベースに建設されたとみるところです。
石舞台古墳はそのもうすこし上の斜面にある、島庄の建物を見おろす位置か、石棺の方位の先にも柱跡があるかもかも。

その南にある飛鳥稲淵川遺跡(宮殿跡)は方位が異なりますが、ここでの飛鳥川(稲淵川?)に対してその斜面に合わせて建設されているとみえます。
明日香村周辺の遺跡群、地形も入り組んでいるのでそのあたりを各個撃破すると面白いかもしれないですね。
(先入観なしで(^^;)

[9458] Re[9456][9455][9451][9449][9443]: 新年  神奈備 2008/09/27(Sat) 08:37 [Reply]
> 地図の上が北でしょうから、対角線の一つは西に20度ッポク傾斜に見えますが・・・

 四角が一つで4本の線が想定できます。一本位は約20度近辺に来ても不思議ではないですね。

[9457] 少々角度と建物について  佐々木 2008/09/26(Fri) 20:55 [Reply]
 大阪の天の川沿いですが、上の山遺跡というのがありまして、添付サイトよれば弥生時代中期前半(紀元前2世紀初め)の大型建物跡となっています。
 建物(長辺)の方角は真北から約40度東になっています。
 この大型建物の付近にある平安時代の建物の遺構はほぼ真北。
 また本遺跡トレンチ(1区)の弥生時代の期が不明の竪穴式住居と古墳時代の竪穴式住居もほぼ真北。
 
 なお最近大型建物跡としては石清水八幡宮の南側の女郎花遺跡で見つかっており、奈良時代中期の大型建物跡は、長辺が東西方向、奈良時代後期から平安時代前期の大型建物跡は北から20度西になっていました。
 特定遺跡での方角の変遷史を確認するのもなかなか興味深い。
http://murata35.chicappa.jp/katudohokoku/uenoyamaiseki01/index.htm

[9456] Re[9455][9451][9449][9443]: 新年  神奈備 2008/09/26(Fri) 20:52 [Reply]
> http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/ishibutai.jpg
> 航空写真では真北から東へ20度っぽく見えますが小さすぎて・・

地図の上が北でしょうから、対角線の一つは西に20度ッポク傾斜に見えますが・・・

[9455] Re[9451][9449][9443]: 新年  かたばみ [Url] 2008/09/26(Fri) 19:07 [Reply]
>真北から西に20度となっているようです

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/ishibutai.jpg
航空写真では真北から東へ20度っぽく見えますが小さすぎて・・
20度だとしても、方位の取り方が違うので、関連させるのは無理とみておきます。

http://www.asukamura.jp/chosa_hokoku/shimanosyo/index.html
蘇我氏の屋敷跡ではないかとされる島庄遺跡の柱跡ですが、7世紀前半とされる柱跡は「冬至での太陽の沈む」方向ではあるかもしれないけど、やはり20度とつなぐのは無理とみるか。

[9455] Re[9451][9449][9443]: 新年  かたばみ [Url] 2008/09/26(Fri) 19:07 [Reply]
>真北から西に20度となっているようです

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/ishibutai.jpg
航空写真では真北から東へ20度っぽく見えますが小さすぎて・・
20度だとしても、方位の取り方が違うので、関連させるのは無理とみておきます。

http://www.asukamura.jp/chosa_hokoku/shimanosyo/index.html
蘇我氏の屋敷跡ではないかとされる島庄遺跡の柱跡ですが、7世紀前半とされる柱跡は「冬至での太陽の沈む」方向ではあるかもしれないけど、やはり20度とつなぐのは無理とみるか。

[9454] Re[9450][9449][9443]: 新年  かたばみ [Url] 2008/09/26(Fri) 19:03 [Reply]
>見えないのに、作法だけは、継承する。

AD500の大阪から見るシリウスはペルセポリスとほぼ同じにみえます(緯度がほぼ同じ)。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/sirius_oosakaAD500.png
ただし冬至の日時はやはり画像からの判断なので暦とのずれはご容赦。

シリウスの沈む位置が真西から南へ20度あたりになるのは、北緯35度前後の地域。
遊牧民の活動地域に重なってきます、シルクロードにも重なる。
中央アジア〜ヒマラヤ北辺〜朝鮮半島〜日本列島まで、日時が若干ずれても同じに見えますから、その様式の具体性が途中で失われることはないのではなかろうか。

ただし日本では中国と日本の事情で文化流入が連続はしていないと思います。
ある文化(意識)が異なる文化の中に長くあったときどう変化するか。
江戸っ子と呼ばれるのは3世代江戸に住んでからとされますが、朱に染まるにはいい線かなと思ってます。

[9453] Re[9447][9441][9440][9437][9435][9434]: 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)  かたばみ [Url] 2008/09/26(Fri) 18:59 [Reply]
>葦原中国(日本国土)を平定前に、天孫族は、経津主と武甕槌を出雲のオオナムチと対決させる前に、天に悪しき神あり、名を天津甕星という、亦の名を天香香背男

記紀の場合だと、いつ・どこで・だれが・何をした、に分解して「何をした(何があった)」についてはまずは事実であるとしてスタートしています。
例えば「国譲り」神話の場合に、国土の割譲類似のことが歴史上存在したと見るわけです。
ただし、「だれが」「どこで」については危ない、「いつ」については基準点がないのでもっと危ない、とみなしています。
事象すら創作ということもありえるのですが、いまのところそこまでゆかずともなんとかなりそうと思っています。

天孫とは何か、出雲とはなにか・・
ひとつひとつを神話や信仰から切り離して具体化(歴史化)することで、中国の歴史の事象ともつなぐことができると考えています。

[9452] Re[9450][9449][9443]: 新年  神奈備 2008/09/26(Fri) 08:28 [Reply]
> 日本じゃ、どんな神様が、梅雨を知らせる神様なのだろうか?

 大阪北の露天神社には、社地より清水が吹き出すと入梅となり、それが命名の謂われだそうです。

[9451] Re[9449][9443]: 新年  神奈備 2008/09/26(Fri) 08:21 [Reply]
> 石舞台古墳の石室、近隣の掘っ立て柱列の方位はいかに??


 石舞台古墳の所謂石舞台に相当するのでしょうか、積み石を含む長方形の敷地の対角線の一本が真北から西に20度となっているようです。(栗本氏)

[9450] Re[9449][9443]: 新年  ペギラ 2008/09/26(Fri) 00:41 [Reply]

> だとして、もし、そういう意識を持った渡来人が日本で建物を造るとき、どーする?
> 石舞台古墳の石室、近隣の掘っ立て柱列の方位はいかに??
>

かたばみさん、そういうことなんですよ。
見えないのに、作法だけは、継承する。
そんなことが。。。

弥勒信仰がシリウスに関わるなんてのもあちこちにあるが、
関わらないって!
弥勒信仰に関わるのは、ミトラ。
ミトラとシリウスは関係ないわけじゃないけれど、同一ではない。

どちらかといえば、中東のシリウスは、雨の神様です。
雨期を知らせる星。

日本じゃ、どんな神様が、梅雨を知らせる神様なのだろうか?
ふと。思った。

[9449] Re[9443]: 新年  かたばみ [Url] 2008/09/25(Thu) 19:07 [Reply]
本を読んでないので、的外れかもしれないけど・・
先のプラネタリウムのBC500の冬至でのシリウスの昇る方角は真東から南へ約20度。
画像読み取りなので誤差があります、また太陽の昇る方向は7度ほどもっと南寄りです。

これをペルセポリスの航空写真(グーグル)と重ねますと
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/persepolis.png
20度うんぬんとやってるのはこれみたいですね。

ペルセポリスは冬至のシリウスの沈む方位を側面?として建造されている・・妥当にみえます。
日本でなら「冬至の太陽の昇る時」の方向で建てると思いますが、シリウスに注目する民族だと「夜の太陽が沈むとき」が「冬至の朝の始まり」、だからシリウスの沈む方向で建てた、と考えることができそう。

だとして、もし、そういう意識を持った渡来人が日本で建物を造るとき、どーする?
石舞台古墳の石室、近隣の掘っ立て柱列の方位はいかに??

[9448] Re[9445]: >[9423] Re[9422] シリウス ペギラ  ペギラ 2008/09/25(Thu) 16:56 [Reply]
> 留守をしていまして、失礼いたしました。浦島太郎の気分です。
>
お留守の間に、すいません。

0時に20度の傾きという基準。
そんな時代でもかなり正確に時間と方位は計測できたでしょうが、
どのほどのものか、
ファジイなところで見ていると、
約20度あたりというところには、かなりの日数でみることができる。
時間軸。方位軸をファジイに考えるなら、
約3週間ぐらい、0時に20度あたりに見える。

そうそう、星座早見盤で、すこぶる良い物がありました。
http://www.nep.chubu.ac.jp/~nepjava/javacode/seiza/pla1/pla.html
方角を南にして、
都市名を手入力
緯度、経度をペルセポリスあたりなら、30の53ぐらいでしょうかね。

時間は、ここの時間は日本時間なので、
現地時間を考えた時差を考慮して入力してください。

本当に20度じゃん!という話ではないですよ。

南中とか星出?とか星入?ならわかるけど、
そんな中途半端な20度なんて、崇拝の対象になんてありえん。

そして、冬至にシリウスなどという話は今のところ見たことがない。
冬至は、ミトラ一色。

[9447] Re[9441][9440][9437][9435][9434]: 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)  とみた 2008/09/25(Thu) 11:06 [Reply]
> >天狼を射る矢(に相当する星座)とは何か。これはわかりませんでした
>
> 中国では天狼星は星宿を構成しない独立星のようで、これを射ようとする星宿があるということは、(はるか古代から)天狼星の文化とそれを射ようとする文化との対立がうかがえて興味深いところです。
> 余談
> 書紀に登場する悪役扱いの天之背男命、天狼星であろうとみています。
> 日本でも良い印象の星神ではなかったことを受けているのかもしれないと思っています。

さすが、かたばみさんの慧眼です。
私も、天之背男命にこだわっています。
川村湊さんの著作で昨年?の読売文学賞をお取りになった作品に、”牛頭天王と蘇民将来”(作品社)があります。

本の中で指摘されています。小生はそれをベースに調べています。
葦原中国(日本国土)を平定前に、天孫族は、経津主と武甕槌を出雲のオオナムチと対決させる前に、天に悪しき神あり、名を天津甕星という、亦の名を天香香背男。これを先にやっつけなくってはと言ってます。

常陸久慈郡大甕に勢力を張った豪族でしょう。天孫族に服従しないのでフッツヌシとタケミカズチを派遣しますが、抵抗にあって,結局はこの豪族=天津甕星を鎮めたのが、倭文建葉槌命(機織の神様)です。常陸=茨城県の日立市に大甕神社がありこの機織神を祀っています。

鹿島神宮では星鎮祭や北星祭がありこの神を0鎮魂しているのでしょう。

甕星が北関東に多い妙見信仰のルーツとされています。

網野善彦先生は、西日本は伊勢神宮のアマテラスの太陽神で。東日本は、北辰信仰の妙見信仰と対照させておられます。妙見は渡来の馬買の羊一族が持ち込んだ。

天津甕星を金星とされるのが江戸時代の平田篤胤ですね。

太一信仰の北極星に、シリウスの天狼も加わる・・・

中央アジアやメソポタミの星が加わって、シルクロードが関係して面白い展開です。

楚国は長江中流域ですから太陽神でしょう。元々は苗族です。

周国は黄河沿いの西方からやってきた遊牧民です。













[9446] Re[9426]: 丹生大明神告門について  神奈備 2008/09/25(Thu) 10:05 [Reply]
 小生の丹生都比売神社のページに告門の字の読みがながをつけたものを出していますので、参照下さい。

http://kamnavi.jp/ny/nyuhime.htm

[9445] >[9423] Re[9422] シリウス ペギラ  神奈備 2008/09/25(Thu) 10:04 [Reply]
留守をしていまして、失礼いたしました。浦島太郎の気分です。

> ミトラとシリウスに関連性は、ないわけではないが、
> ミトラのなかで、シリウスを重視するようなことがあるのだろうか?
> 冬至の時だけ、20度なんて、本当に、話としてナンセンス。

 栗本慎一郎著『シリウスの都飛鳥』から引用します。
 「ペルシャではシリウスは夜間で最も明るい星で、副太陽として崇拝されていたそうです。紀元前500年頃、冬至の真夜中の12時、シリウスは真南から20度東に傾いた方向で輝いていた。ペルセポリス宮殿は真北から西に20度傾いて造営されている。
 しかし現在のイランの考古学者は20度の意味がわかっていない。忘れられている。これを私たち(渡辺氏栗本氏ら)は、方磁石によって宮殿の20度西への傾斜を確認した。また多分コンピューターシミュレーションによって、ペルセポリスで12月22日の真夜中にシリウスが東に20度の位置に来ることを発見した。」としています。
 [9439]でのかたばみさんの星図でシリウスの存在感がわかるような気がします。

[9444] Re[9442][9441][9440][9437][9435][9434]: 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)  かたばみ [Url] 2008/09/25(Thu) 09:00 [Reply]
シリウスとくれば古代エジプトですが、こちらはBC3000頃の期間限定のナイル氾濫時期チェック用。

もし中国以外でも狼のイメージが存在するなら、蒼き狼、遊牧文化と連想するところ。
エジプトに同時代に遡るならアンドロノヴォ文化か、スキタイ、サルマタイ、サカなどのおそらくは基礎文化。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/old/c_asia1.png
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/old/c_asia2.png
情報とぼしく謎の多い地域と民族ですがシリウスをどうみていたのか。

遊牧文化に対立するのは農耕文化。
強いけど日本ではやや好まれない傾向のある横綱(^^;

[9443] 新年  ペギラ 2008/09/24(Wed) 20:38 [Reply]
ミトラの新年が冬至近辺であるかのような記載がかの本には、あるようだが、
ミトラの新年は、どうも春分の日のようです。
バビロニアあたりから、そのようですね。

冬至の日に20度傾いたシリウスを拝み新年を迎えるようなことは
ないということです。



[9442] Re[9441][9440][9437][9435][9434]: 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)  佐々木 2008/09/24(Wed) 19:47 [Reply]
 かたばみさん
 いつものすばらしい画像をありがとうございました。

 いいヒントを得ましたのでちょっと補足させていただきます。

@中国ではシリウスは「狼(ろう)」「天狼(てんろう)」と呼び、シリウスの強烈な光の印象から狼の目を連想した。
 また、おおいぬ座β星を「野鶏(やけい)」と呼び、狼が鶏を狙って追いかけてゆく姿を想像したものではないかといわれています。
 さらに「おおいぬ座ε,κ星と、とも座κ,ο,π星,無名の星1」 からなる形を中国では「弧(こ)」と呼び、弓を指していて、「おおいぬ座δ,η星,とも座c(NGC2451),f星」をそれにつがえた「矢(し)」で、 狼の目(シリウス)を狙っているような弓矢を想像し、合わせて「弧矢(こし)」と呼んでいたとされます。

A古代バビロニアでは、おおいぬ座は犬の姿ではなく、4分割される前のアルゴ座の一
部を「弓の星」といい、 シリウスはその弓につがえた矢の先端に位置していたといわれています。
 
 参考:野尻抱影「星座春秋」講談社学術文庫



[9441] Re[9440][9437][9435][9434]: 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)  かたばみ [Url] 2008/09/24(Wed) 17:19 [Reply]
>天狼を射る矢(に相当する星座)とは何か。これはわかりませんでした

やはりプラネタリウムにて、BC500の12月31日の深夜の西安の空です。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/sirius04chinaBC500_123100.jpg

シリウスの隣に「弧矢」という星宿があります。キトラ古墳の星宿図にも描かれています。
中国では天狼星は星宿を構成しない独立星のようで、これを射ようとする星宿があるということは、(はるか古代から)天狼星の文化とそれを射ようとする文化との対立がうかがえて興味深いところです。

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48530/1/82_45.pdf
ここにも朝鮮の星図に天狼星が大きくは描かれていないとあります。

余談
書紀に登場する悪役扱いの天之背男命、天狼星であろうとみています。
日本でも良い印象の星神ではなかったことを受けているのかもしれないと思っています。

南地平線近くの老人星はカノープス、この星も星宿を構成しない独立星とみえます。
こちらは中国で好まれる星みたい。
少彦名命が去って嘆く大己貴命の前の波間に漂う神、カノープスだと見ております。

[9440] Re[9437][9435][9434]: 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)  佐々木 2008/09/24(Wed) 11:10 [Reply]
 とみたさん

 とみたさんには脱帽であります。頭も悪いそうです。

>シリウスの話・・・先日は中国戦国時代の楚の貴族、屈原の詩歌は楚辞、で九曲に出てくると書きましたが九歌の間違いでした。九歌に一つ東君の歌にあります。
長い矢を取り上げて天狼星=シリウスを射る。

 楚辞(これまた感慨深い)を拝読。
 冬の星座の歌ですね。天狼を射る矢(に相当する星座)とは何か。これはわかりませんでした。
 しかし長い矢とは、天文儀の射す矢の方角を天狼に合わせていると仮定すると、少しわかる気が致します。 

[9439] Re[9436][9435][9434]:ペルセポリスのシリウス  かたばみ [Url] 2008/09/24(Wed) 11:09 [Reply]
>真南から東に20度傾く方向にBC500年頃ペルセポリス地方では冬至の午前0時にシリウスが南の天空にただ一つ燦然と光り輝いていた

BC500のペルセポリスの冬至の時、はBC500のペルセポリスで太陽の昇る位置が最も南になる1月1日前後としてシミュレートしてみました(歳差を含んでいます)。
シリウスは黄道からだいぶ離れていますが、地上から見るシリウスと太陽の移動するルートはほとんど同じになるんですね。
オリオンが先行しますがペテルギュースは露払いか(^^;

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/sirius01.png
太陽が沈むと交替にシリウスが東南東から昇ってきます、まさに夜の太陽にみえます。
月はほぼ満月でシリウスとほぼ同時刻に東北東から上り天頂を通過します。

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/sirius02.png
南の中天にシリウスが輝き、月は天頂にあって地上を照らす、相当に印象深いのではなかろうか。

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/sirius03.png
シリウスが沈むとしばらくして太陽が上ってくる。日付は1月1日。

画面右下が日時ですが、時間表示が常識的な昼夜より4時間ほど先行してるように見えます。
計算誤差かなあ。
暦については、当時のペルシャでどうか、このソフトではどうか、の検証能力がないのでパス(^^;
しかし、先の記述は事実を書いている可能性大と思います。

Stella Theater Pro 3200円、お勧めします(フリー版は過去未来を表示できません)。
他のプラネタリウムだとどういう結果になるかはわかりませんけど。

[9438] Re[9437][訂正  とみた 2008/09/24(Wed) 08:03 [Reply]
すみません ミスです。打ってから気がつく悪い癖です。

(誤)シリアス論争は聖方位で (正)シリウス論争

パルティアは、アケメネス・ペルシャ王朝の次の(誤)アケメネス・ペルシャ王朝です。(正)アルサケス・ペルシャ王朝 です。 これはサカ人の王朝です。

[9437] Re[9435][9434]: 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)  とみた 2008/09/24(Wed) 07:52 [Reply]
佐々木さん 高齢で目も見辛いにかかわらず、いつも探求されるこの好奇心のすごさに敬服です。旧制高校の学びの姿勢に迫力を感じます。



>  ご参考までに、
>  渡辺豊和氏のよれば、「真南から東に20度傾く方向にBC500年頃ペルセポリス地方では冬至の午前0時にシリウスが南の天空にただ一つ燦然と光り輝いていた。
> (おそらくその時、新月だったのでしょう??)
>  これをゾロアスター教ではテシュトリアと呼び太陽神アフラ・マズダの次に重視した。
> (これがシリウスが副太陽と呼ばれた原因であろう。)
>  中世にアケメネス朝を復活したササン朝ペルシア(226〜642年)が繁栄するが、この時代もこの方位を神聖視した。」と。
>  久慈さんの本も、栗慎本2冊のどちらも、渡辺さんの研究によったのでしょう。

シリウスの話・・・先日は中国戦国時代の楚の貴族、屈原の詩歌は楚辞、で九曲に出てくると書きましたが九歌の間違いでした。九歌に一つ東君の歌にあります。

長い矢を取り上げて天狼星=シリウスを射る。

日食のとき、天の狼が太陽=東君を食べるので、銅鼓をたたき矢を太陽に放って天の狼を撃退する。天狼星は、大犬座にあり狼のように青白く輝く。星座の中で一番明るく輝く。

栗本慎一郎さんは、蘇我氏の出自でミトラ・ゾロアスター的文化(聖方位、水の利用、石積みの墳墓)へのこだわり、遊牧民的な上天思想などにこだわって、騎馬民族的な特徴、白鳥シンボリズム、鉱山の金属関係の技術とサカ族を関係なさっているのですね。シリアス論争は聖方位で皆さんが興味を持っておられるのでしょう。

日本への移動は5世紀前後。伝来ルートは日本海ルート、厳密には南北海道から秋田青森へのルート、北陸へのルートで特に前者のルートに注目されている。

5−6世紀の北陸ルートなら継体天皇の謎とも繋がりますが、皆様、このあたりは大変面白い話題が転がっています。

私もサカ続は興味の対象です。

目下継体や丹後も調べています。

サカはスキタイの騎馬民族と同義です。

ギリシャ語でスキタイ、
ペルシャ語でサカイ、中国語で塞人です。騎馬民族です。

バクトリアとパルティアがキーワードですね。
いずれもシルクロードですね。
バクトリアは今のアフガニスタン北部で、ガンダーラの近くです。

トハラとかトカラがあります。ミトラ信仰が西方から伝わったところ、大乗経の故郷でしょうか。

飛鳥時代、斉明女帝が都貨羅(トカラ)人を饗応しました。7世紀唐の時代に玄奘三蔵法師が天山山脈の北路を通って、シルクロードのトカラを通過してインドに向かいました。

パルティアは、アケメネス・ペルシャ王朝の次のアケメネス・ペルシャ王朝です。これはサカ人の王朝です。

ローマ軍を紀元前2世紀ごろは苦しめました。3世紀にサザン・ペルシャに取って代わられました。ササーン王朝はゾロアスター教を国教としましたが、サカ人もゾロアスター教を信仰しました。

シルクロードの交易の民のソグド人が、ゾロアスター教をアジアに広げました。ソグド人は3世紀には、中国の西域の敦煌の東の河西回廊の武威にはコロニーを作っていました。

こんな事実をベースに皆さんの議論をお待ちします。






に出ていました。 

[9436] Re[9435][9434]: 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)  ペギラ 2008/09/23(Tue) 22:06 [Reply]
>  ご参考までに、
>  渡辺豊和氏のよれば、「真南から東に20度傾く方向にBC500年頃ペルセポリス地方では冬至の午前0時にシリウスが南の天空にただ一つ燦然と光り輝いていた。

そりゃまた、むっちゃくちゃスゴイ話。

ありえない。


[9435] Re[9434]: 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)  佐々木 2008/09/23(Tue) 20:48 [Reply]
 ご参考までに、
 渡辺豊和氏のよれば、「真南から東に20度傾く方向にBC500年頃ペルセポリス地方では冬至の午前0時にシリウスが南の天空にただ一つ燦然と光り輝いていた。
(おそらくその時、新月だったのでしょう??)
 これをゾロアスター教ではテシュトリアと呼び太陽神アフラ・マズダの次に重視した。
(これがシリウスが副太陽と呼ばれた原因であろう。)
 中世にアケメネス朝を復活したササン朝ペルシア(226〜642年)が繁栄するが、この時代もこの方位を神聖視した。」と。
 久慈さんの本も、栗慎本2冊のどちらも、渡辺さんの研究によったのでしょう。 

[9434] 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)  ペギラ 2008/09/23(Tue) 17:28 [Reply]
まず
『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)
読書感想文

P13引用 
>シリウスとは、いわば「夜の太陽」である。

夜の太陽と言ったら、「月」の方が、、、ですよね。
シリウスは、冬しか見えないんですよ。どういう依怙贔屓。

さらに

P13引用 
>シリウスは、たとえば、ペルシャの首都ペルセポリスであれば、
>冬至の真夜中に真南から東に20度傾いたところに輝き、
>その光が差し込むのである。

これは、冬なら、ほぼ毎日差し込むって。
冬至の日にシリウスの軌道も最も高位置とか、低位置とか、(そんなのないけど)
そんな話なら、まだしも、
冬至の真夜中に、・・・・ということばは、何時であろうと、
何度であろうと、構わないのである。
冬至の日に20度の傾きで固定されているなら話はわかるけど。

この本では、上記の理由がシリウスと20度の関わりを表わした唯一の文章であろう。


そして、この本の中で、多く使われている「ミトラ教のシリウス信仰」という言葉。
この言葉と20度の傾きを証明する文章は、皆無だ。

ミトラのシリウスもゾロアスター同様、夏のシリウスを崇拝しているのであって、
冬のシリウスを無視しているわけではないでしょうが、
冬のシリウスの神話らしきものはないのではなかろうか。。

変な誘導が見えるのが、
P122引用   
>ミトラは水辺の洞窟で、シリウス星のように12月23日冬至の日に
>生まれたとされ、この日に生誕祭が行われる。

シリウスが12月23日に生まれたなどという話はない。
であるのに、シリウス星のように。。。

ミトラ、ゾロアスターでもそうですが、冬至が太陽復活という感じで
大事な日であることは、間違いない。

それ(冬至)とシリウスは関係ないというほうが普通だと思う。

であるが、シリウスを抜きにして、
20度の傾きというのは、冬至に関わるものというのは、
間違っていない方向かもしれない。

が、しかし、シリウスとは関係ない。くどいようだが。
シリウスをぱらぱらと散りばめて、いかにも!ッて感じの中東色を匂わせる。

詐欺師みたいだな。

[9433] Re[9432][9431][9429][9428] シリウス  佐々木 2008/09/22(Mon) 21:17 [Reply]
> 日本でも中東でも、シリウスがよく見えるのは、冬ですよ。もちろん。
> そのなかでも一番光輝く星が、印象薄いという話ではありませんよ。
> よく見えるというならば、オリオンもしっかり見えるし、
> シリウス以上のインパクトはあるでしょう。
> エジプト、メソポタミアあたりの
> 神話の世界では、夏の日の出まえのシリウスが、信仰というか、神話の対象。
> ということです。
> 太陽とシリウスが同じようなラインで動くということの話です。

 それは理解しているですが、何かまずいこと書いたかな?
 エジプト在住時はシリウスと日の出が重なって見えるが、象徴的だったのは記憶しています。焼け焦げるような印象を受けた。
 エジプトは、緯度が低いから確認できるのですが。イラクではもう見えなかったなあ。緯度は日本と同じぐらいですから。夏至でも経度が違うから見えるのかなあ。
 
 

[9432] Re[9431][9429][9428] シリウス  ペギラ 2008/09/22(Mon) 20:50 [Reply]

>  いやいやそうでなくて。
> ★シリウスは星天図では南半球のもので確認できますが、地球が23.4度傾いているから、時期によっては、日本でも見ることができます。 
>  その時期は9月から4月で、9月ごろはまだ見づらい。日本では冬至ごろが一番見やすい。
>冬至ごろが一番見やすい。

日本でも中東でも、シリウスがよく見えるのは、冬ですよ。もちろん。
そのなかでも一番光輝く星が、印象薄いという話ではありませんよ。
よく見えるというならば、オリオンもしっかり見えるし、
シリウス以上のインパクトはあるでしょう。


エジプト、メソポタミアあたりの
神話の世界では、夏の日の出まえのシリウスが、信仰というか、神話の対象。

ということです。
太陽とシリウスが同じようなラインで動くということの話です。




[9431] Re[9429][9428] シリウス  佐々木 2008/09/22(Mon) 20:06 [Reply]
> そうですか。無理ですか。。
> となると、ますます、日本では無意味ですよね。

 いやいやそうでなくて。
★シリウスは星天図では南半球のもので確認できますが、地球が23.4度傾いているから、時期によっては、日本でも見ることができます。 
 その時期は9月から4月で、9月ごろはまだ見づらい。日本では冬至ごろが一番見やすい。
   
★日本と、ペルシャ・エジプトは緯度経度が違います。

 それらのところが栗本さんの本に書かれているのでしょう。小生もまじめに読んでいないのですが。これは図など確認しないとわかりにくいですね。

[9430] Re[9420][9418][9416] シリウス  ペギラ 2008/09/22(Mon) 18:51 [Reply]

>  朝鮮半島南部の百済の興徳里古墳も、約20度傾く聖方位の古墳である。全北南原の月山里の古墳も約20度傾く聖方位の古墳である。しかし、この両者がシリウス信仰に基づくものかどうかは判断が難しいだろう。
> 以上 引用終わり

これって本当ですか?
あのあたりの古墳って、円墳が多いのでは?
方墳であったとして、前方後円墳モドキとしても、
全体的に 東に傾いていると思うのですが。

西に傾いている古墳って、どれを指しているのだろうか??


[9429] Re[9428] シリウス  ペギラ 2008/09/22(Mon) 18:26 [Reply]
そうですか。無理ですか。。

となると、ますます、日本では無意味ですよね。
ゾロアスターのシリウス(天馬)も、
内容は、ほぼエジプトと同じようなもので、シリウスののち、新年となる。

あのあたりでは、夏の星なんですよね。シリウス。

冬至でシリウス。
冬は見える間は、いつでも、20度の傾きのある時間は存在する。毎日。
冬至の時だけ、20度なんて、本当に、話としてナンセンス。

ペルシャって、本当にシリウスの方向として20度という傾きがあるのだろうか?

どの時点のシリウスを見て、20度なのだろうか?


[9428] Re[9427][9424][9423][9422][9421][9420][9418][9416] シリウス  佐々木 2008/09/22(Mon) 09:48 [Reply]
> オリオン座などは、夏の夜明けに見えると言われているが。
> シリウスはどうなんでしょうね。。。
> 見たことがないのでわかりませんです。

 星天図で確認したところ、やはり夏至にはちと無理です。日本の南方の海岸でオリオン座の一部が見える程度でした。
 天文は基本を知らない(今では高校では履修しないらしい)と、専門家の微妙な語で大きな大きな間違いを起こします。

[9427] Re[9424][9423][9422][9421][9420][9418][9416] シリウス  ペギラ 2008/09/22(Mon) 00:22 [Reply]

>  シリウスは日本では夏至の時期には観察できたのでしょうか。

日の出の方角が水平線、地平線ならば可能であろうとおもう。
http://koyomi8.com/cgi/magu/index.php?yy=2008&mm=7&dd=27

オリオン座などは、夏の夜明けに見えると言われているが。
シリウスはどうなんでしょうね。。。
見たことがないのでわかりませんです。

[9426] 丹生大明神告門について  伊奈夢那 2008/09/22(Mon) 00:10 [Reply]
丹生大明神告門の全文の正しい漢字の読みがなが知りたいです☆
もし、知っていたら教えて頂けませんか?
例えば、那賀郡は・・・なかごおりですか?なかのこほりですか?
赤穂山は、あかほやま、ですか?あかほのやまですか?
何卒宜しくお願い致します。

[9425] Re[9414]: 東漢氏の風水地理  佐々木 2008/09/21(Sun) 23:59 [Reply]
 とみたさん

 珠玉の記事であり、大変勉強になりました。

> 天武は藤原京の設営プランを練りますので、風水地理に明るいものと付き合ったはず。日置氏のレーライン(太陽の道)と関係があるのではなかろうかが私の仮説。

 私も同意見です。「周髀算経」を会得しているとしか説明できないように思います。

> 彼の詩歌に九曲がある。その中の一説に、シリウスは明るい大きな星で太陽を食べてしまう(日食現象でしょうか)。矢を放ち、シリウスを落とさんとする。

 これはシリウスの大きさが、太陽より大きいことを理解していたと考えるべきかもしれません。

> 中国古代ではシリウスと太陽の関係をそんな目線で見ていたのではなかろうか。

 つまり中国の伝承では、シリウスは不吉な印象ということになるのでしょうか。
 天武以降、シリウス信仰(N20°W程度)に基づく土木建築対象があると面白そうです。先週は毒米で・・・・でした。

[9424] Re[9423][9422][9421][9420][9418][9416] シリウス  佐々木 2008/09/21(Sun) 22:47 [Reply]
>冬至の意味
 古代エジプトの夏至は、年始つまり元旦(1月1日)にあたることから、日本では冬至のころとなった。ということではないでしょうか。
 シリウスは日本では夏至の時期には観察できたのでしょうか。

[9423] Re[9422][9421][9420][9418][9416] シリウス  ペギラ 2008/09/21(Sun) 21:32 [Reply]

> 冬の大三角形の一つがシリウスです。冬の星です。

ミトラとの兼ね合いで、ねじ曲がって解釈しているのではなかろうか?

ミトラとシリウスに関連性は、ないわけではないが、
ミトラのなかで、シリウスを重視するようなことがあるのだろうか?

冬至とミトラは深い関係ですが、
冬至とシリウスには、どこを探せば関連性が出てくるのでしょうか?

[9422] Re[9421][9420][9418][9416] シリウス  神奈備 2008/09/21(Sun) 21:27 [Reply]
> 普通は、夏至のシリウスでしょう。

冬の大三角形の一つがシリウスです。冬の星です。

詳細は、 『シリウスの都 飛鳥―日本古代王権の経済人類学的研究 』栗本慎一郎著
をお読み下さい。

小生、明日から三日間、武蔵の国の神社巡りです。

[9421] Re[9420][9418][9416] シリウス  ペギラ 2008/09/21(Sun) 20:42 [Reply]

>  冬至の日の真夜中のシリウスの位置が真南より東に20度振っているということです。
>

こんなシリウスを表示するような物が、エジプトやメソポタミアにあるんですか?

普通は、夏至のシリウスでしょう。
シリウス歴は、夏至のシリウス後に新年となる。

冬至の日の真夜中って何時なの?
誰がシリウスが20度傾いている時だけが、聖方位とするの?
何か目印みたいなものがないとわからんのじゃないだろうか?


[9420] Re[9418][9416] シリウス  神奈備 2008/09/21(Sun) 17:50 [Reply]
> 20度傾く理由が夏のシリウスの星の出でしょう?

 冬至の日の真夜中のシリウスの位置が真南より東に20度振っているということです。

 下記の全天星図の12月15日の午前20時頃を参照下さい。
http://www4.airnet.ne.jp/mira/begin/winter_map.html


> 百済とか、新羅、高句麗で20度の傾きってどうなの??

 『聖徳太子と斑鳩京の謎』(久慈力著 現代書館)p78 によりますと、「新羅の聖住寺もすべての遺跡が見事に聖方位(西に20度)を示しており、この寺は保寧郡聖住里にあり、もともと百済の創建で、鳥含寺と呼ばれていたが、新羅の文聖王時代に改号された。この聖方位は新羅と関係の深かったローマの影響と見ることができようか。(中略)
 朝鮮半島南部の百済の興徳里古墳も、約20度傾く聖方位の古墳である。全北南原の月山里の古墳も約20度傾く聖方位の古墳である。しかし、この両者がシリウス信仰に基づくものかどうかは判断が難しいだろう。
以上 引用終わり

 
 ついでですが、『シリウスの都飛鳥』(栗本慎一郎著 たちばな出版)によりますと、「聖方位の古墳は西日本にもいささか分布しているようですが、東日本のように時の流れにそって南下するような傾向は認められないとしています。従って、蘇我一族はシルクロードではなく、日本とペルシャの大圏コースに近い草原の道を通って北海道奥州にやって来た。」と想定しています。

[9419] 戌亥の隅  ペギラ 2008/09/21(Sun) 17:39 [Reply]
戌亥の隅

こんな言葉もある。
これが、北北西となるかどうかは、疑問もありますが。


[9418] Re[9416] シリウス  ペギラ 2008/09/21(Sun) 11:51 [Reply]
20度傾く理由が夏のシリウスの星の出でしょう?
間違えていたらすいません。
奈良や出雲では、南が山だから、見るのは無理ですよね。
伊勢とかならまだしも。
太平洋岸ならまだしも。
見えないけれど、その作法だけは、継承された。

>  飛鳥の坂田寺、藤ノ木古墳、なども20度。
>

そうですよね。飛鳥でも傾いている。(^_^;)

となると、恵方とかは、どうでしょう。
恵方とは、言わないでしょうが、それに近い吉兆の部類ではないか。

百済とか、新羅、高句麗で20度の傾きってどうなの??


[9417] Re[9415]: 横から失礼します。・・ちょっとむしかえし(^^;  神奈備 2008/09/20(Sat) 20:26 [Reply]
サン・グリーンさん、書き込みありがとうございます。サン・グリーンさんの声を聞きますと、発想が豊かになりそうです。

 大陸の史書に6世紀始めの『梁書』があります。この中に扶桑国が出てきます。
 この中で、列島の国として、倭・文身国・大漢国・扶桑国が並んでいます。

 倭はおそらく九州。大漢国は瀬戸内海の突き当たりの河内に想定できそう、扶桑国は女性が毛深いようなので、東北から北海道のアイヌ人の国。

 扶桑・・國王爲乙祁とあります。乙祁は顕宗天皇か仁賢天皇の弘計・億計のどちらかに相当するのでしょう。『山海経』では扶桑とは東にあり、この木のある所から太陽が昇るとされているので、奥州の日ノ本のことでしょう。

 『旧唐書』の、「日の本と呼ばれる北の小国が倭を併合征服した」の日の本に相当するのでしょう。

[9416] Re[9413][9412]: 二ツ塚古墳  神奈備 2008/09/20(Sat) 19:50 [Reply]
> シリウスには、非常に疑問を感じます。

 冬の第三角形の一角をなす星、全恒星中最大の明るい星。

 寒い頃の空気の澄んだ夜中に、南東の空に輝くシリウス、これを見た人はその高貴で鋭く強い輝きに感動を覚えない人はいないでしょう。

 ペルシャのペルセポリス宮殿、冬至の真夜中、この後の正面がシリウス。乾燥地帯の冬、実に見事な輝きとして見えたことでしょう。

> ここについては、飛鳥や三輪あたりを見ているのでは?というのは?

 飛鳥の坂田寺、藤ノ木古墳、なども20度。

[9415] 横から失礼します。・・ちょっとむしかえし(^^;  サン・グリーン 2008/09/20(Sat) 17:33 [Reply]
皆様すっかりご無沙汰しております。神奈備さま出雲ではお世話になりました。

天の岩戸開きの時にアマテラスが出てきて神々が大喜びした時に発した言葉として習った記憶があります。ほつまつたえの中にも踊る時などに出てくるようですよ。HPでも調べましたら下記のように書かれていました。

あなおもしろ(ああ面白い)あなたのし(ああ楽しい)あなさやけ(ああ爽やか)おけ(本当にそうだ!) ”ワッハハ”と声を出して笑いましょう!古神道で 清く 明るく 楽しく 生きよう!
★「おけ」が難解です神楽歌の囃言葉にもありますが感激の余り声が出て来たもの。

をけ(おけ)が難しいです。これらの言葉を現代に置き換えれば、コンサート会場や、スタジアムでの、ファンの熱狂くらいな物ですか。古代人の熱狂が伝わってくる言葉です。古代人が実際どのような言葉を使っていたのか、興味は尽きません。

> かたばみさん
>
> 「を」と「お」は古語においては違う音なのです。前者は wo 後者は o
> ですから「をけ」と「おけ」も別語です。端的には「をけ」天皇「おけ」天皇の兄弟名称も好例でしょう。
>
> 何時の頃か「を」の音 wo が「お」の音になっちゃったので、今は 桶のことを「おけ」と云うし、それに連れてそのように書きますが、古代から、明治・大正・昭和初期の教育を受けた人までは「をけ」で習ったはずです。
>
> 古語の「おけ」が本当に囃子詞か;何か違う意味がないか、というご研究なら、絶対にあり得ないと申し上げるほど力はありませんが、それが「をけ」のことだろう、というのは、古代の音の違いを無視していませんか、、、という指摘です。
>

[9414] 東漢氏の風水地理  とみた 2008/09/20(Sat) 05:34 [Reply]
私の謎追いのポイントです。

いろいろな本を見て、探り現地を訪れているんですが・・・・

@天武天皇は陰陽寮建設と天文遁甲を自らした。ツキヨミ秘された神(河出書房新社)戸矢学著。

天武は東漢氏に影響を受けた

東漢氏にもいろいろあって、漢土の騒乱を避けて、高句麗経由で明日香に入った連中がいます。

彼らの中に、製鉄、数理技術の得意のがいた。(続日本紀)

天武は藤原京の設営プランを練りますので、風水地理に明るいものと付き合ったはず。日置氏のレーライン(太陽の道)と関係があるのではなかろうかが私の仮説。
A聖徳太子や推古の時代に百済や高句麗から五経博士がやってくる。

推古趙の602年、百済僧の観勒が推古に元嘉暦と天文遁甲を伝える。高句麗僧の慧慈が聖徳太子(厩戸王子)に高句麗事情を伝えている。神武天皇陵を畝傍山近くに持ってきて寺に古墳のお守りをさせたのは彼の入れ知恵であろう。森浩一さんの馬・船、常民の本。(講談社学術文庫)その他

B中国の五胡16国の騒乱時代の流民。
 南北朝時代、鮮卑族はいろいろな勢力として暗躍します。
 436年、北魏に攻められて、北燕のヒョウ(ン馬)王が部族数万を引き連れて、
 高句麗に逃れます。王様の首は北魏に渡せれますが、ついてきた流民はたぶん新羅などに逃れた。

新沢126墳のローマングラスも彼らの貴族が持ってきた説もあります。

彼らも、倭国に何かを伝えている。
C朝鮮南部の洛東江ルートの安羅伽耶や南西の馬韓の栄山江ルートで5-6世紀に馬具・武器・冑の伽耶文化が倭国に入ってくる。
Dシリウスの話。

中国戦国時代の楚の国の貴族、屈原は楚の巫師のリーダーで九疑山に本拠。
最後は洞庭湖に出入りする川に身を身を投げる。

彼の詩歌に九曲がある。その中の一説に、シリウスは明るい大きな星で太陽を食べてしまう(日食現象でしょうか)。矢を放ち、シリウスを落とさんとする。

中国古代ではシリウスと太陽の関係をそんな目線で見ていたのではなかろうか。

E中国西域は、紀元前後はイラン系(ペルシャ系)の人が住んでいた。その代表が月氏です。チュルク系(トルコ系)に支配されるのは、紀元後6世紀の突厥の進出によります。ウィグルに占拠されるのは紀元9世紀以降でしょう。

以上を考えながら、考察をしております。
小林恵子女史の、聖徳大子は突厥人。栗本慎一郎さんの西域から来た蘇我氏・・・などを眉唾かどうかを見極めたいですね。






[9413] Re[9412]: 二ツ塚古墳  ペギラ 2008/09/19(Fri) 22:02 [Reply]
シリウスですか?

記紀には、なじみがない星ですよね。
だから、蘇我氏。って。

古代史に、青星の痕跡はどれほどあるのか。

日本では、冬にしか見えない星、オリオンと同類の星座

個人的には、
>若草伽藍は西20度です

ここについては、飛鳥や三輪あたりを見ているのでは?
というのは?

他の例も、山みたいなところを見ていたのでは?

シリウスには、非常に疑問を感じます。


[9412] 二ツ塚古墳  神奈備 2008/09/19(Fri) 09:05 [Reply]
 応神天皇と蘇我氏や聖徳太子との共通点は何かと言いますと、渡来系もしくは渡来人の集団にバックアップされた人物だと思われます。応神天皇の場合には『記紀』では天日矛の血を受けており、秦氏とは同族、秦氏の頭目筋は太秦を名乗りましたが、これはペルシャの意味。

http://asajihara.air-nifty.com/mu/2007/11/post_ce9b.html

 蘇我氏の台頭に合わせるように東日本では西に20度ふった古墳が増加しており、彼らもペルシャの思考を受け継いでいるのかも知れません。

 千田稔さんによれば、聖徳太子の斑鳩の町づくりは西12度で考えられているようです。若草伽藍は西20度です。

 このあたりについては、総じていささか疑わしいように思っていましたが、中之太子と呼ばれている羽曳野市の野中寺の地図をgoogleで見ており、何と西に傾いているではないか!とびっくりし、何となく聖徳太子にもペルシャを感じた次第です。

http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E7%BE%BD%E6%9B%B3%E9%87%8E%E5%B8%82%E3%80%80%E9%87%8E%E4%B8%AD%E5%AF%BA&ie=UTF8&ll=34.559101,135.592752&spn=0.001802,0.002441&z=18

[9411] Re[9410][9409][9407][9405][9404][9403][9402][9401]: 桶オケ・・ちょっとむしかえし(^^;  かたばみ [Url] 2008/09/13(Sat) 09:57 [Reply]
おつきあい謝々。
万葉ではホトトギスとウグイスが多数詠まれていますが飼ってる様子なし、それ以降に鳥を飼うようになったのだろうと思ってます。

[9410] Re[9409][9407][9405][9404][9403][9402][9401]: 桶オケ・・ちょっとむしかえし(^^;  大三元 [Url] 2008/09/12(Fri) 21:45 [Reply]
> どっこいさっさのホーホケキョでございます。
> http://www.jupiter-inn.com/page16.htm

ほぉ。籠の鳥ですな。
ま、私はここらで降ります。

[9409] Re[9407][9405][9404][9403][9402][9401]: 桶オケ・・ちょっとむしかえし(^^;  かたばみ [Url] 2008/09/12(Fri) 20:00 [Reply]
私も和名類聚抄をざっと眺めてみました(読めないので眺めるだけ)。
なんだぁ採録数はたったこれだけかあ、これじゃ民間ベースの歌謡の文言がでてるはずもないか。

そりゃそりゃ、やっこらしょ・・これらはリズミカルで直感的にもはやし詞(かけ声)だと思います。
では、オケをはやし詞だとみなした理由は・・おけおけ〜・・なんかつんのめりそう(^^;

>「や、おけや、鶯のおけや」というのも催馬楽にあるそうですが、「桶」とはつながりにくいような

どっこいさっさのホーホケキョでございます。
http://www.jupiter-inn.com/page16.htm


[9408] 豊中歴史同好会  神奈備 2008/09/10(Wed) 21:09 [Reply]
9月13日(土)14〜16時
場所 豊中市教育センター ルシオーレビル6F(阪急宝塚線蛍池駅すぐ西)
テーマ 5世紀ヤマト政権下における武器と軍事制度
講師 池田市立歴史民俗資料館 館長 田中晋作氏

[9407] Re[9405][9404][9403][9402][9401]: 桶オケ・・ちょっとむしかえし(^^;  大三元 [Url] 2008/09/10(Wed) 12:46 [Reply]
かたばみさん

調べてみました。
> (和名類聚抄を持ってないのでここに「オケ」が採集されているのかどうか知りません)
索引には「おけ」は出てきません。

なお、万葉集では「おけ」は「置く」の活用形としてのみ出てきます。「をけ」は桶の意味で三回。

> 古語拾遣807と三代実録(858〜887の記事)の時代にその音韻変化(用法)が存在しないといえるのか?

「お」と「を」の区別が無くなるのは11世紀初頭とされています(新版・国語学要説、佐藤喜代治編、朝倉書店、p34)

> 歌いやすければヲケであってもオケと歌いそれが採譜される可能性はいつの時代でもあると思うのです。
> (逆に意味を知った上で、ヲケの文字に採譜しなおす可能性もある)

間違いはいつの時代でもあるというのはそうでしょうけど。。。
「オケ」が囃子詞ではなくて「桶・ヲケ」の意味だと考えるのが適当なのが何例中何例ありましょうかね。あるいは、「桶」だとするとおかしい例がありませんかね。
「や、おけや、鶯のおけや」というのも催馬楽にあるそうですが、「桶」とはつながりにくいような。。。

> 引用例では文言を桶と解するほうが自然とみえる、その重さの判断。
> (古語拾遣は段ボール中で前後脈絡の判断が今はできず)
> 伊勢の火桶と伊勢志摩海人の歌・・これは興味本位と状況による重さの判断。
> 複数の情報の重ね合わせによって生じる濃淡(可能性)の分布、それをどうみるか。

口幅ったい言い方で恐縮ですが、発想と検証の入り口としてとても大事な姿勢だと思います。

[9406] Re[9402][9401]: 桶オケ・・ちょっとむしかえし(^^;  大三元 [Url] 2008/09/10(Wed) 12:07 [Reply]
かたばみさん

前に:
> 古語では、「を」≒「お」、である、というのは基本として宜しいでしょうか?
と書いたのは大失敗です。
「を」≠「お」 のつもりでした。即ち

古語では「を」と「お」は違う音である、という基本的認識のもとに、話を進めて宜しいでしょうか、という意味でした。混乱をお詫びします。

[9405] Re[9404][9403][9402][9401]: 桶オケ・・ちょっとむしかえし(^^;  かたばみ [Url] 2008/09/10(Wed) 11:23 [Reply]
研究どころではなく、時代別国語大辞典編纂の大先生に素人がちょっとみだけの疑念をふっかけているだけで、冷や汗ものでございます。

時代別国語大辞典の引用例は古語拾遣(807)と催馬楽(三代実録859が初出とみえる)。
催馬楽を全く知りませんが、現在残されている催馬楽はいつの時代に採取されたものなのか?

日本最古の辞書和名類聚抄931-938には桶→ヲケの読みが書かれている。
これに限らず、各種研究の基本文献はこれを用いる他はないのだろうと思っています。
(和名類聚抄を持ってないのでここに「オケ」が採集されているのかどうか知りません)
(つい最近「古写本和名類聚抄集成」が出版されたようですが、高級ステーキ6食分かあ(^^;)

古語拾遣807と三代実録(858〜887の記事)の時代にその音韻変化(用法)が存在しないといえるのか?
歌いやすければヲケであってもオケと歌いそれが採譜される可能性はいつの時代でもあると思うのです。
(逆に意味を知った上で、ヲケの文字に採譜しなおす可能性もある)

引用例では文言を桶と解するほうが自然とみえる、その重さの判断。
(古語拾遣は段ボール中で前後脈絡の判断が今はできず)
伊勢の火桶と伊勢志摩海人の歌・・これは興味本位と状況による重さの判断。
複数の情報の重ね合わせによって生じる濃淡(可能性)の分布、それをどうみるか。


[9404] Re[9403][9402][9401]: 桶オケ・・ちょっとむしかえし(^^;  大三元 [Url] 2008/09/09(Tue) 22:44 [Reply]
かたばみさん

「を」と「お」は古語においては違う音なのです。前者は wo 後者は o
ですから「をけ」と「おけ」も別語です。端的には「をけ」天皇「おけ」天皇の兄弟名称も好例でしょう。

何時の頃か「を」の音 wo が「お」の音になっちゃったので、今は 桶のことを「おけ」と云うし、それに連れてそのように書きますが、古代から、明治・大正・昭和初期の教育を受けた人までは「をけ」で習ったはずです。

古語の「おけ」が本当に囃子詞か;何か違う意味がないか、というご研究なら、絶対にあり得ないと申し上げるほど力はありませんが、それが「をけ」のことだろう、というのは、古代の音の違いを無視していませんか、、、という指摘です。

[9403] Re[9402][9401]: 桶オケ・・ちょっとむしかえし(^^;  かたばみ [Url] 2008/09/09(Tue) 22:21 [Reply]
ありゃ早いな(^^;
>古語では、「を」≒「お」、である、というのは基本として宜しいでしょうか

えーと、古語の一般的解析では「を」≒「お」が基本である、の意でしょうか。
あるいはかたばみ流だと「を」≒「お」だと見ているのか、の意でしょうか。

私の古語の解釈は辞書に書いてあるならそうなのだろう、どまりです。
(桶は麻笥の転と書いてあるなら、ヲ≒オとみてもよいのであろう・・)
しかし、この辞書の例は本当に「はやし詞」とみなせるのか、の疑念が生じたわけです。


しかしその疑念はそれだけのことであって、本当の興味は「伊勢志摩の海人の刀禰らが焼く火の気於介々々」とはなにかにあります。
火の気桶桶?・・ここでピピッとひらめく(^^;
朝日遺跡の円窓付土器と伊勢神宮の火桶、がつながるのではないか。
桶を調べなければ伊勢志摩の火の気於介々々なんぞに気がつくこともなかったところです。


以下青草を育てますので失礼(^^;
弥生の尾張周辺の状況はいかに、朝日遺跡の強烈な防御体制はなぜ生じたのか。
(ただし、北九州のごとくの大戦争があった様子はみえない)

持論は、先住の出雲系と後発の天孫系(天火明命)上陸の抗争が遠因にあり、後の天孫の東征行動が朝日遺跡の防御体制構築の主因、だがここでは大戦争にはいたらなかった。
少数だが武力に優れる天火明命系譜は伊勢〜熊野あたりの沿岸に拠点をもった。
しかし生活の糧にとぼしく、それを得るためには出雲文化と融合してゆくほかはなかったのだ、と考えています。

神武時代の合体よりはるか昔に尾張で合体氏族が生じていた。
(伊勢〜熊野沿岸では銅鐸は破片がひとつしか出ていない、朝日遺跡では2系列の文化の存在がみえる)

このあたりに先代旧事本紀の天火明命と饒速日尊なる人物記述の源流があり、東征説話での長髄彦と饒速日尊の「お話」登場にもつがってゆく。

伊勢神宮の火桶と円窓付土器の分布は、尾張における出雲と天孫の合体の可能性の補強データになりそうだ・・

[9402] Re[9401]: 桶オケ・・ちょっとむしかえし(^^;  大三元 [Url] 2008/09/09(Tue) 19:50 [Reply]
かたばみさん

古語では、「を」≒「お」、である、というのは基本として宜しいでしょうか?

[9401] 桶オケ・・ちょっとむしかえし(^^;  かたばみ [Url] 2008/09/09(Tue) 19:39 [Reply]
時代別国語大辞典/三省堂の「おけ」をみますと「はやし詞」とあってその例がいくつかでていますが・・
ここでの歌?の内容からは「はやし言葉」などではなく「桶の形状の具体物」をいっているようにみえる。
「火の気於介々々」は伊勢志摩の海人が暖を取るために桶の中に炭火などをいれる意でよい。
(伊勢神宮では火桶(現在は陶器だと思います)を祭祀具に使う)

たぶん、桶おけの語源は麻笥、だが「おけ」がはやし詞であるというのは時代別国語大辞典といえど鵜呑みにはできないなあ(ここの例だけでは(^^;)
小学館古語大辞典の記述は時代別の簡易版。
新潮国語事典/現代語・古語、では類似記述と桶は麻笥の転とあり、麻笥は納得したわけですが・・

横腹に穴のあいた謎の弥生土器(円窓土器)が尾張と畿内で出土しています、火桶の例から暖房用の用途ではないかと考えています。
http://www.geocities.jp/shimizuke1955/1060saori.html

[9400] Re[9398][9396][9395][9394][9384][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/07(Sun) 10:10 [Reply]
ペギラさん かたばみさん
 感謝します。「六国史」でしたね。アツルハイマー氏でした。
こんな調子では、当分卒業(大学の通信教育のこと)できませんね。
 またこれにこりずご指導方よろしくお願い申し上げます。   佐々木拝

[9399] Re[9397][9396][9395][9394][9384][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  かたばみ [Url] 2008/09/07(Sun) 10:05 [Reply]
>対訳付は現在削除されて
失礼、圧縮ファイルのほうに「定本日本書紀」でありました。

[9398] Re[9396][9395][9394][9384][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  ペギラ 2008/09/07(Sun) 09:59 [Reply]
> 早速処理しました。「日本書紀」もいいのがあれば。

日本書紀がない?という意味でしょうか??
六国史が「日本書紀」を含めた「紀」すべてですよ。


[9397] Re[9396][9395][9394][9384][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  かたばみ [Url] 2008/09/07(Sun) 09:50 [Reply]
横から失礼、例えば以下もあります。
http://www.j-texts.com/

以下の「上代諸学」をごらんください。PDFファイルでダウンロードできます。http://www.umoregi.com/
私はここの対訳付を頻繁に使いますが、対訳付は現在削除されているようです。
(ちなみに日本語の起源/田中孝顕の一部にセヤタタラなどの論あり)

文献の電子化は探すという時間を圧倒的に減らすことができますが、その他ペギラさん書かれるに同じくです。

なお、HPによってはダウンロードできない、あるいはパソコンが停止状態になるなどの「仕掛け」のあるものもありますから、リセットしてもよい状態でダウンロードすることをお勧めします。

[9396] Re[9395][9394][9384][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/07(Sun) 00:06 [Reply]
早速処理しました。「日本書紀」もいいのがあれば。
ペギラさま感謝感激であります。

> 正確には、それなりの書物を個人のレベルで、より考察してください。
>
> 日本古代史料本文データ
> http://kodaishi-db.hp.infoseek.co.jp/
>
>
>

[9395] Re[9394][9384][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  ペギラ 2008/09/06(Sat) 23:43 [Reply]
原文サイトは各所にありますが、

個人的に、検索などが容易なので、こちらを使っております。
が、

ここでも絶対は、ありません。
誤記誤述、表示不能は存在します。

正確には、それなりの書物を個人のレベルで、より考察してください。

日本古代史料本文データ
http://kodaishi-db.hp.infoseek.co.jp/



[9394] Re[9384][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/06(Sat) 23:34 [Reply]
 ペギラさん

 こんばんわ。9384の原文はどこのサイトからコピーされました。IT関係不得意にて、まんず見つかりません。教えてください。 佐々木拝

[9393] Re[9387][9384][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  ペギラ 2008/09/06(Sat) 22:39 [Reply]
「佐瑳羅餓多」

私的には、「たたり」であろうと、「ささら」であろうと
どちらでも良いのです。
といっても、全く無関心というわけではありませんよ。(^_^;)
どちらもゆっくり、じっくり、たっぷりと探求していきますが、
現状としては

「媛蹈鞴」

がおかしいぞ!という認識が広まるならば。

日本書紀記述漢字が絶対じゃないぞ!
深く探ればすごい鉱脈があるかもしれないぞ! です。

神奈備さんの辞書の症例(病気かよって。笑
我が家でも確認しました。

しっかり足元を見るという部分
上を見上げ過ぎて、見えていない自分には
雷直撃ものでした。

まだまだ、続きますよ!

[9392] Re69]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/06(Sat) 21:40 [Reply]
> 一次資料ではありませんが、『隼人の古代史』 (平凡社新書) あたりに出ているかと。そのものずばりが出ていなくても「隼人」について触れるならこれ位は目を通して老いたらよろしいかと思います。

 早速書店で購入してきました。今晩読んでみます。ありがとうございました。

[9391] Re[9390][9389][9388][9386][9385][9383][9380][9379][9377][9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  大三元 [Url] 2008/09/06(Sat) 21:10 [Reply]
>  大三元さん
>
>  ご教導ありがたく。
>
> > 隼人が近畿で竹細工の任にあったっていたのは8世紀頃以降、
>  
>  原典はなんですか。申し訳ないですが、年寄はひつこうて。深謝致します。

一次資料ではありませんが、『隼人の古代史』 (平凡社新書) あたりに出ているかと。そのものずばりが出ていなくても「隼人」について触れるならこれ位は目を通して老いたらよろしいかと思います。

[9390] Re[9389][9388][9386][9385][9383][9380][9379][9377][9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/06(Sat) 19:35 [Reply]
 大三元さん

 ご教導ありがたく。

> 隼人が近畿で竹細工の任にあったっていたのは8世紀頃以降、
 
 原典はなんですか。申し訳ないですが、年寄はひつこうて。深謝致します。
 

[9389] Re[9388][9386][9385][9383][9380][9379][9377][9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  大三元 [Url] 2008/09/06(Sat) 17:33 [Reply]
佐々木さん
> > ささらのをの」は、通説では「天にある野」ですが、これには従われないので、「ささら(楽器)の小野」と理解なさるのですね。

>  そんなこと知りませんでした。どこに出ていますか。

万葉集の420番を示されたのは佐々木さんでしたよね。3887番も少なくとも間接的には佐々木さんが示された。私は岩波の古典文学大系本で万葉集を見ていますが、何れも頭注に依っています。注記のない原文だけの本(あるのかな?)ならやむを得ませんが注記のある本なら注記を読まないと「ご損」です。

> もしかして「あめにあるや ささらのおの」だから、すると「ささら」とはなんですか。

「ささらのをの」が天にある小野のこと、とあります。それ以上の解析は為されていないようです。私流に考えますと「ささら」が小さい・細かいの意味ですから、「あめ(天)にあるや、微細な小野」あたりの意味になるものと思います。


> > 「紗」も「羅」も、うすもの、薄い絹織物、を意味しますが、その場合には、両字とも「さ」と読むようです。(「ら」行で始まるやまとことばは無い。)
>
>  「羅」が「さ」とはどこに書いてありますか。「やまとことば」と「万葉仮名の読み」は別なんですか。「やまとことば」は、いつごろからとされているのでしょうか。

時代別国語大辞典上代編の「さ」の項目に「紗・羅」と書き出しています。その余のことはネット検索でも、百科事典ででも勉強なさってください。


> > 文献上では8世紀以降の話ではないでしょうか。隼人の大住への移住でも7世紀。神武妃の名の解釈には時代が合わない、と思います。
>
>  大隅隼人の京都移住が7世紀とする原典は何でしょうか。

ネット検索で「隼人 移住」とでも入れて調べて下さい。歴史事典にも出ているでしょう。一次資料的な「原典」は私もハッキリしません;一つではないようで延喜式とか続紀あたりなのか。ご存知の方お願いします。

>  竹細工自体も8世紀以降の技術であると考えておられるのでしょうか。

隼人が近畿で竹細工の任にあったっていたのは8世紀頃以降、という認識です。竹細工の技術自体が8世紀以降とは申しておりませんツモリ・・・

[9388] Re[9386][9385][9383][9380][9379][9377][9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/06(Sat) 17:12 [Reply]
 大三元さん

> ささらのをの」は、通説では「天にある野」ですが、これには従われないので、「ささら(楽器)の小野」と理解なさるのですね。

 そんなこと知りませんでした。どこに出ていますか。
 それを指南していただければ幸甚でしたが。
もしかして「あめにあるや ささらのおの」だから、すると「ささら」とはなんですか。

> 「ささら(楽器)」の音が「かり、かり」という評価をしておられますが、そんな可愛くない、というか大きな衝撃音の繰り返しです。)

 棒ささらの方と思ったのですがね。竹の節で「かり、かり」、仏式のあれは、天台宗だったかやかましい。

> 「紗」も「羅」も、うすもの、薄い絹織物、を意味しますが、その場合には、両字とも「さ」と読むようです。(「ら」行で始まるやまとことばは無い。)

 「羅」が「さ」とはどこに書いてありますか。「やまとことば」と「万葉仮名の読み」は別なんですか。「やまとことば」は、いつごろからとされているのでしょうか。

> 文献上では8世紀以降の話ではないでしょうか。隼人の大住への移住でも7世紀。神武妃の名の解釈には時代が合わない、と思います。

 大隅隼人の京都移住が7世紀とする原典は何でしょうか。

 竹細工自体も8世紀以降の技術であると考えておられるのでしょうか。

 いろいろ聞きますが、よろしくお願い致します。

 しかしご経歴からして、まったく異分野ですが、ご関心の原点はなんですが。

 小生は、軍隊で戦友が歴史学者だったので、関心をもつようになったのだけど。

[9387] Re[9384][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  大三元 [Url] 2008/09/06(Sat) 15:55 [Reply]
> 「佐瑳羅餓多」

小形の文(あや)。こまかい紋。小さい模様。(時代別国語大辞典上代編)

「餓多」が「形」で模様のことですから織物にも関係するでしょう。

[9386] Re[9385][9383][9380][9379][9377][9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  大三元 [Url] 2008/09/06(Sat) 15:49 [Reply]
>  仮説などと大胆なものではありません。参考愚見です。

それも「仮説」だろうと思いますが、まぁ、言葉の意味範囲は人によって異なるのでしょうから(それで対話出来るのか、という疑問もありますが)結構です。私は、他人様の批判を頂くつもりがない(でも、笑って欲しい)場合には「茶飲み話」というジャンルを使ってます。

>  現在のところ「ささら」は竹(笹)製品で、古代楽器である可能性は高いと見ています。万葉集も示した2首は、それの裏づけと見ています。

「ささらのをの」は、通説では「天にある野」ですが、これには従われないので、「ささら(楽器)の小野」と理解なさるのですね。
先に紹介なさったサイトでは、ささらは、「檜の木片」を「108枚」連ねたもの、という明らかに仏教の煩悩に関わるもので、神武妃の名の解釈には頂けそうもないと思いました。
 (なお、このサイトの写真を見て、何年か前の仏式の葬儀を思い出しました。半分眠っていたら、バタバタバタという凄まじい音で目が覚めましたが、この写真のような仕掛けのものが音を出していました。
「ささら(楽器)」の音が「かり、かり」という評価をしておられますが、そんな可愛くない、というか大きな衝撃音の繰り返しです。)
 
>  (佐)沙羅が、絹布の可能性も捨てがたいですが。

「紗」も「羅」も、うすもの、薄い絹織物、を意味しますが、その場合には、両字とも「さ」と読むようです。(「ら」行で始まるやまとことばは無い。)あえて、さ・さ・ら が絹織物の意味で、多数あるために繰り返しているのだとして(山・山など)も三回繰り返している例は知りません。
 
>  小職の調査では、志賀剛先生も、古代から竹細工は大隈隼人族の特技とされており、神武妃が隼人族でもよいかなと思います。

日向で娶った「阿比良比賣」は隼人の人で良いでしょうが、ホトタタライススキ比賣は隼人ではないでしょう、少なくともそうは書かれていない。隼人の竹細工も「古代から」というと漠然としちゃうけど、文献上では8世紀以降の話ではないでしょうか。隼人の大住への移住でも7世紀。神武妃の名の解釈には時代が合わない、と思います。

[9385] Re[9383][9380][9379][9377][9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/06(Sat) 12:18 [Reply]
>仮説を立てて居られるのでしょう? 

 仮説などと大胆なものではありません。参考愚見です。
 
 もちろん万一公表する場合には、レフェリーのしっかりした雑誌に投稿しますが。

 現在のところ「ささら」は竹(笹)製品で、古代楽器である可能性は高いと見ています。万葉集も示した2首は、それの裏づけと見ています。
 
 (佐)沙羅が、絹布の可能性も捨てがたいですが。
 
 小職の調査では、志賀剛先生も、古代から竹細工は大隈隼人族の特技とされており、神武妃が隼人族でもよいかなと思います。
 
 愚見はそんなところです。 大三元さん。

[9384] Re[9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  ペギラ 2008/09/06(Sat) 11:55 [Reply]
「ささら」 か、、、面白い。衣通郎姫の歌なんかをみると、
「佐瑳羅餓多」
織物と関わるとしてもよかろうかと思うのですが。どうなんでしょうね。

八年春二月。幸于藤原。密察衣通郎姫之消息。是夕衣通郎姫戀天皇而獨居。
其不知天皇之臨。而歌曰。

和餓勢故餓。勾倍枳豫臂奈利。佐瑳餓泥能。區茂能於虚奈比。虚豫比辭流辭毛。

天皇聆是歌。則有感情。而歌之曰。

佐瑳羅餓多。迩之枳能臂毛弘。等枳舎氣帝。阿麻多絆泥受邇。多 比等用能未。

明旦。天皇見井傍櫻華而歌之曰。

波那具波辭。佐區羅能梅涅。許等梅涅麼。波椰區波梅涅孺。和我梅豆留古羅。

皇后聞之且大恨也。於是。衣通郎姫奏言。妾常近王宮。而晝夜相續欲視陛下之威儀。然皇后則妾之姉也。因妾以恒恨陛下。亦爲妾苦。是以。冀離王居而欲遠居。若皇后嫉意少息歟。天皇則更興造宮室於河内茅渟。而衣通郎姫令居。因此以屡遊獵于日根野。

[9383] Re[9380][9379][9377][9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  大三元 [Url] 2008/09/06(Sat) 11:32 [Reply]
佐々木さん

「ささら」が竹製品で、打楽器(?)であり、上代から存在している、という仮説を立てて居られるのでしょう? 
よって、虚心にその論証を伺おうとしているところですので「如何でしょう」と問われても「ぞんじません」としか申し上げようがありません。

[9382] Re[9381][9374][9371][9365][9362][9357][9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  佐々木 2008/09/06(Sat) 10:46 [Reply]
 かたばみさん

 いやあプロ(所謂職業研究者)以上です。ホームページの作り方のすばらしい。画像構成も抜群。ちょっと重いけど。大学の教養で使用できるレベル。博物館の展示でもOKです。とのこと。

 顔文字は若者だけかと思ったら、前期高齢者も使用するのですね。

 台湾の地図は一部見つかりました。東と西は客観的に見ても地名のつくりが違います。ふりがながあるけど、これが私にはみえない。
 ざっくり東はインドネシアからフィリピンの影響が強いように見える。昭和30から40年ごろの古今書院や大明堂の台湾関係の書籍でも確認できるそうです。

[9381] Re[9374][9371][9365][9362][9357][9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  かたばみ [Url] 2008/09/06(Sat) 09:50 [Reply]
>日向のプロのかたばみ

(^^; →掲示板が会議室なんて名称で使われている頃から使っていますが、おおまかには「冷や汗をかきながら」のイメージ(画像を使えない時代だったときの記号遊びでもあります)。
(^^) →「にこにこしながら」のイメージ、「笑い」と書く方もいらっしゃるけど、もっと軽く微妙な表現。
\(^^)/→大喜び、などなど

アプリなどでなんだかわからないアイコンがたくさん使われますが、これは「ごく小さな部族」の間でしか通用しない記号。
無理なく一般にわかりやすく広く使われるようになったものは、記号ではなく新しい表意文字(象形文字)とみなせる、と私は思っています。

日向のプロの・・(^^;
すべてにど素人です。素人ゆえにしがらみなしに(飯の心配なしに)好き勝手ができるわけです(^^)
プロとはその技や知識などで飯を食べられる人であって、必ずしも秀でている必要はない(とは限らない)とも考えています)

>文化と血縁の中間

例えば、異なる部族の両親の子供が言葉を覚えてゆくとき、母と父のどちらの影響を多く受けるか。
これだけでも単純ではないですね。
被征服部族の女性と征服部族の男性の間の子だと?

非常に高度な文化の持ち主である男性がそれほどではない文化の中にやってきて子をもうけた場合は?
周囲はすべて「それほどではない文化」だけれど、生活必需品はその文化のなかから得なければなりません。
その大根を1本わけてください・・どう表現するか。
日本でなら天孫降臨がその状況だと思います。
言語の変化を過去に遡るとき、こういった状況の解析が必須だと考えています。

[9380] Re[9379][9377][9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/06(Sat) 09:38 [Reply]
おはようございます。

> 巻16の338番の第二句のことでしたら、
> 16/3887/2 ささらのをのに 神樂良能小野尓
> ここの「ささら」は竹製品のことではないですよね?

 わかりません。
 これは仮名読みで「あめにあるや,ささらのをのに,ちがやかり,かやかりばかに,うづらをたつも」と。
 「かり、かり」が2回出てくるので、「ささら」から発する音としてを評価できる可能性があると思います。
 
 3巻の420では、「左佐羅能小野之 七相菅 手取持而(ささらの小野の 七節菅手に取り持ちて 」とありますので、この七節菅は「棒ささら」のことかと、如何でしょうか。
 ご参考までに。

[9379] Re[9377][9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  大三元 [Url] 2008/09/06(Sat) 08:47 [Reply]
> 万葉集では、仮名読み「ささら」は原文で「神楽」で1首確認しています。

巻16の338番の第二句のことでしたら、
16/3887/2 ささらのをのに 神樂良能小野尓
ここの「ささら」は竹製品のことではないですよね?

[9378] Re[9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/05(Fri) 23:43 [Reply]
添付漏れです。申し訳ない。
http://park2.wakwak.com/~hero/yatai-matsuri/06-dic/sa.html#sasara

[9377] Re[9376][9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/05(Fri) 23:36 [Reply]
> 出典は何ですか?

 文書情報は、明日以降に確認します。
万葉集では、仮名読み「ささら」は原文で「神楽」で1首確認しています。

 http://www.e-digitalpark.com/music/instrument/sasara.html

[9376] Re[9375][9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  大三元 [Url] 2008/09/05(Fri) 23:16 [Reply]
>  「こきりこ」のささら(編木子)は大化の改新ごろに生み出されたと伝承されていますが、当然それ以前ということですか。

出典は何ですか?

[9375] Re[9372][9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/05(Fri) 22:47 [Reply]
> 「ささら」が上代に竹製品を表象していたか判らないので私としては×

 「こきりこ」のささら(編木子)は大化の改新ごろに生み出されたと伝承されていますが、当然それ以前ということですか。

[9374] Re[9371][9365][9362][9357][9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  佐々木 2008/09/05(Fri) 22:35 [Reply]
 かたばみさん

> えーどこでそうなったのかなあ。日向地区に鍛冶製鉄遺跡があるとは書いていません。

 本疑問の他意はない。日向のプロのかたばみさまにお尋ねしたのみ。お気を悪くされたら謝ります。

> 倭王旨に送るとある百済の七支刀の銘文が神功皇后時代の日本側の「文献」かなあ。(神功皇后の存在は偽とみています、書紀は危なくなると女帝をだしてごまかす傾向あり(^^;)送った理由は・・うちでもこういう鉄を造れますよ、うちらと同盟結びましょ・・ で、同盟を結んで百済の敵である高句麗とも戦争を始めた。

 これはまちがいないと思います。さきの大戦では台湾満州などに転戦して居りましたので、あの舟や碑はなつかしい。
 ただ顔文字がどうゆう意味なのかがさぱりわからないのです。

> 文化と血縁の中間にあるのが言語だと考えています。
ここは紋ちゃんから一言ありそう。※ここでは所謂「紋語」はあまり通じないかも?

[9373] Re[9371][9365][9362][9357][9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  大三元 [Url] 2008/09/05(Fri) 22:29 [Reply]
かたばみさん

> 私的には「笥利」ケリ(^^;がついたか。

座布団一枚!

[9372] Re[9370][9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  大三元 [Url] 2008/09/05(Fri) 22:28 [Reply]
佐々木さん、
>  大変面白いと思いました。まんず「さ」は美称とか言い出すと頭痛の種ですが。
ども。
>  これ竹製品のささらに通じます。
「ささら」が上代に竹製品を表象していたか判らないので私としては×

なお、「鸕野【讃々良】皇女」という「ささら」が姫様の名に使われている実例を上げておくべきだった。

[9371] Re[9365][9362][9357][9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  かたばみ [Url] 2008/09/05(Fri) 21:44 [Reply]
>なんかで納得しちゃいませんか?(^^)

糸をいれるのに桶を使うんですね。そういう道具があるなら納得しちゃいましょう。
私的には「笥利」ケリ(^^;がついたか。

佐々木さん
>ヤミ族了解です。アミ族にも舟で「たたら」があるそうです。ヤミとアミは親交があったのか

弥生あたりまで遡ったとき、それらの勢力分布は現在とは異なるはずで、それぞれの過去にいかなる文化的、血縁的な交わりがあったかですね。
歴史的背景がわからないと、文化や言語の流れも推測の域を出ることができないと考えています。
で、文化と血縁の中間にあるのが言語だと考えています。
血縁については遠からず男性DNA分析もできるようになるでしょうからケリがつくと思ってます。


>持論の日向地区の鍛冶・製鉄遺跡は、どんな炉ですか

えーどこでそうなったのかなあ。日向地区に鍛冶製鉄遺跡があるとは書いていません。
日向宮崎にあったとみているのは邪馬壹国です。
邪馬壹国時代の製鉄遺跡があるとしたら・・箱形炉(舟形あるいは風呂桶型≒直接還元法)だと予測はしますけれど。

余談
持論の大王系譜と年代観は以下です(以前に何度か出してます、今のところ変更なし)。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/daiou.png

倭王旨に送るとある百済の七支刀の銘文が神功皇后時代の日本側の「文献」かなあ。
(神功皇后の存在は偽とみています、書紀は危なくなると女帝をだしてごまかす傾向あり(^^;)
送った理由は・・うちでもこういう鉄を造れますよ、うちらと同盟結びましょ・・

で、同盟を結んで百済の敵である高句麗とも戦争を始めた。
好太王碑(広開土王碑)に記されるのはむろん応神の軍勢のこと。
半島南西部に多数の前方後円墳が造られて半島在の倭人氏族が登場する。
多々良公もその子孫だろうと考えています。

[9370] Re[9369]: 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  佐々木 2008/09/05(Fri) 21:18 [Reply]
 大変面白いと思いました。まんず「さ」は美称とか言い出すと頭痛の種ですが。

 これ竹製品のささらに通じます。
 あれは唐人ササラ踊りの棒ササラ、こきりこ節のびんササラなど、五穀豊穣に通じるので、よさそうな感じではないでしょうか。
 唐人ササラ踊りの棒は、不思議なことに、浜松で見つかった祭祀用と記載された「タタリ」(ぺジラさんご案内)に似ているのも気になるところではありますが。
 http://www.searchnavi.com/~hp/tojin/sasara.htm

[9369] 絡挅 でも踏鞴でもないたたら  大三元 [Url] 2008/09/05(Fri) 20:55 [Reply]
絡挅 でも 踏鞴 でもない たたら の一案です。
http://www.dai3gen.net/tatara.htm

即ち、「たたら」とは「ささら」の古い語形ではなかっただろうか、ということだ。「た」と「さ」がしばしば交替することは「いたさ」「いささ」の例がある。
「ささら」は「細かく小さい意を示す」(時代別国語大辞典上代編)とある。
「細い、小さい」という意味の文字は姫様の名前に使われている
(孝霊天皇妃「細姫」。「細」は「くはし」とも読み、「くはし」ならば「妙」とも書く。「遠津年魚眼眼妙媛」、「倭迹速神浅茅原目妙姫」)

[9368] 麻糸体験  佐々木 2008/09/05(Fri) 11:59 [Reply]
麻糸作りの体験時の資料が見つかりました。

 http://www.hemp-revo.net/report/0512.htm

苧桶も写っています。ついでに麻糸の玉は苧環(おだまき)です。

 http://www5b.biglobe.ne.jp/~midorih/home124.htm

[9367] Re[9361][9360][9359][9352]: 不思議な角川新版『古語辞典』1989.10  佐々木 2008/09/05(Fri) 11:24 [Reply]
> 万葉巻五の八九六
>  難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ
> の後についている文中に、禍の伏す所、祟(たたり)の隠るる所を・・

 山上憶良、沈痾自哀の文ですが、当時の習慣が網羅されています。秦氏の出自まで。。
 祟は、原文では「出」の下が、「示」でした。新字源で確認したところ、読みはスイ、意味は、神の下す災い、神仏が災いを人に下す。とありました。

[9366] Re[9362][9357][9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  大三元 [Url] 2008/09/05(Fri) 11:03 [Reply]
かたばみさん
> 苧麻オマ(チョマ)あるいはカラムシ、苧は日本での麻系譜の総称でもあるので麻をヲと読むのに問題はなし。
> 「桶」はどーにも納得できない(^^;

この↓サイトだと 笥=ケ も 桶の用途も両方判りましょう。
http://ameblo.jp/sinsenseikatu/entry-10104553495.html

[9365] Re[9362][9357][9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  大三元 [Url] 2008/09/05(Fri) 10:58 [Reply]
かたばみさん
> 紡織関係でセットだとするならヲケとは・・麻笥=麻ハコ? 祝詞なら発音も伝わってるのかな。

http://www.yuki-tsumugi.co.jp/tumugi.htm
なんかで納得しちゃいませんか?(^^)
麻笥:やはり「ヲケ」と読みます。麻=ヲは納得して居られるらしいから、笥=ケの例を探しましょう。
万葉集 02/0142/2 けにもるいひを 笥尓盛飯乎
でどうかな。

[9364] Re[9362][9357][9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  佐々木 2008/09/05(Fri) 10:18 [Reply]
 かたばみさん

★ヤミ族了解です。アミ族にも舟で「たたら」があるそうです。ヤミとアミは親交があったのか、双方自国語で通じる様子。ヤミ族はカジキ、飛魚漁が有名なようです。これ万葉集でも散見されます。

★桶は、その箱枠の印象でよいのでは、単に紡いだ糸を入れるもの。金(きん)なら強度的に丸くなるのでしょうが。

★種子島では、たたらは川の堰(このあたりでは「たた」は規則的なという意味らしい)、多々良(大内)氏の根拠地、山口の多々良浜の付近に日本最古の絹糸伝承の碑が建っています。

★持論の日向地区の鍛冶・製鉄遺跡は、どんな炉ですか。

[9363] Re[9361][9360][9359][9352]: 不思議な角川新版『古語辞典』1989.10  かっぽれ 2008/09/05(Fri) 10:01 [Reply]
「祟り」もないのですか、それは失礼しました。
何か、抜けのような気がします。
「祟り」は小学館版で〔名詞〕のみ、福武も同様ですから、四段活用動詞と取っているのは手持ちでは岩波だけです。
どの辞典も、「立ち現れ⇒祟り」の折口信夫説は紹介していませんね。

[9362] Re[9357][9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  かたばみ [Url] 2008/09/05(Fri) 09:44 [Reply]
大三元さん
>「龍田風神祭」と題される祝詞に「金の麻笥(をけ)、金の?(たたり)、金の?(かせひ)」と三点セットの表現があります

別に書かれているということはヲケ?とカセヒは別物、でよさそうですね。
紡織関係でセットだとするならヲケとは・・麻笥=麻ハコ? 祝詞なら発音も伝わってるのかな。
苧麻オマ(チョマ)あるいはカラムシ、苧は日本での麻系譜の総称でもあるので麻をヲと読むのに問題はなし。
新撰字鏡の「布(糸+蘆)乎加世ヲカセの乎は「苧≒麻」ということになりそうです。

「桶」はどーにも納得できない(^^;
http://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/~kakukaweb/052000/experience/hataori/report04.pdf
ここにハコワクなる紡織関連の部品あり、こういう部品なら納得できるけど。


>ここなんか色々面白いです

ありがとうございます。日本財団にはよい資料がひょこっとでてきますね。
以前にここから宝満榊祉の赤米と神事(53号)などをダウンロードしていますが、古いものは削除されるようで今はない、もったいない。
しばらくアクセスしていなかったのですが、他の興味ある論文もダウンロードしました。
内容はまだ斜め読みですが、併記される出展等に直接あたってみたいもの少なからずです。


佐々木さん
>台湾の陸軍参謀本部の地図はありました。30年まえぐらいに柏書房から復刻
ありがとうございます。すぐにとはゆきませんが探してみます。

>慶尚南道に蹈鞴津がありました。現在は多大浦
神功紀ですね(神功の存在は偽、実際には「倭王旨=九州倭国の大王」の事象を神功に置き換えたもの、が持論の解釈です)。
ここでの蹈鞴は微妙な問題を含んでいると考えています。
神功の行動が新羅にあった鉄生産集団の日本への強制移住が目的だ、とみるなら蹈鞴(ふぃご)でもおかしくないからです。
すなわち、これが韓鍛冶系(竪型炉、鉄鉱石)の始まり、蹈鞴ふぃご=製鉄の象徴の始まり、がありえると考えています。

>沖縄か奄美に二階建てか2人乗りの舟で「たたら」がありました。文献不明。
非常に興味深いです、南西諸島に痕跡があっていいはずだと考えています。

>アミ族の「たたら」はどんな舟でしたか、帆つきの竹か木でできた小舟の印象がありますが
これは大三元さん紹介の日本財団資料の写真をごらんください(なお、アミ族はヤミ族とは違います)。
木製で、えとのすには詳細図がありますが現在段ボール箱中なので(^^;
帆はありますが、小さい帆なのでこの帆では外洋航海は無理だと思います。現在の運用法での帆だと思います。
(沖縄にサバニを2艘使う双胴の帆船があり、近世でもフィリピンまで航海(漁労)していたそうです)


[9361] Re[9360][9359][9352]: 不思議な角川新版『古語辞典』1989.10  神奈備 2008/09/05(Fri) 08:42 [Reply]
 角川の古語辞典には、
たた・り(立たり) 上代東北方言 立てり、の意。立っている。
がありますが、祟る、祟りは載っていません。
字引で意味を引かなければならないほど難しい意味ではないと言うことでしょうね。

万葉巻五の八九六
 難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ
の後についている文中に、禍の伏す所、祟(たたり)の隠るる所を・・

[9360] Re[9359][9352]: 不思議な角川新版『古語辞典』1989.10  かっぽれ 2008/09/04(Thu) 23:21 [Reply]
私の説明は少々分りにくかったかもしれませんので、もう一度トライ。

○見出しに連用形を用いる理由について、岩波古語辞典の「序にかえて」から引用します。
『終止形は実は全活用形の中で、わずか一割前後の使用度数しか持たない。最も多いのは六割に達する連用形である。・・(中略)・・これは、連用形が動詞の基本であるという国語史的事実の反映である』

[9359] Re[9352]: 不思議な角川新版『古語辞典』1989.10  かっぽれ 2008/09/04(Thu) 22:59 [Reply]
>  「たた」付近を眺めていましたら、祟るは載っていませんでした。古語ではないんでしょうか。

角川だけではなく、岩波や三省堂(全訳読解)、それに福武にも「祟る」の項目はありません。

岩波古語辞典では次のように説明されています。
【祟り】
1 四段活用動詞⇒ら・り・る・る・れ・れ ∴祟る=祟りの「終止形」
2 名詞

自信はありませんが、如何でしょう?

[9358] Re[9352]: 不思議な角川新版『古語辞典』1989.10  佐々木 2008/09/04(Thu) 22:45 [Reply]
ピンボケかもしれず。
琉球の首里方言に「たーり」がありますが、「憑くこと」。「たー(or一部たる)」は、「誰か」。「誰かが憑く」と解くが。何かかしら御霊神社事件のような。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN20045

[9357] Re[9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  大三元 [Url] 2008/09/04(Thu) 20:43 [Reply]
> 資料は20年も前の物ですし、この舟が今もその呼称で作られているのかさえ私にはわかりません。
> 「現在は弱小」となっている少数民族の言葉がどれだけ地名などに残っているか、できるだけ早く、できるだけ早くに収集しておかないとどんどん消えてしまいますね。

他にベターなものもあるかもしれませんが、ここなんか色々面白いです
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00695/mokuji.htm
地名も多少記録されてます。


[9356] Re[9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  佐々木 2008/09/04(Thu) 20:09 [Reply]
かたばみさん 雑多ですが
★台湾の陸軍参謀本部の地図はありました。30年まえぐらいに柏書房から復刻。
現物も見たことあります。関東なら東大理学部の地理学教室など、ほか駒沢、法政、国士舘、成蹊、学芸大、立正。

★慶尚南道に蹈鞴津がありました。現在は多大浦。

★沖縄か奄美に二階建てか2人乗りの舟で「たたら」がありました。文献不明。

 当時蹈鞴も船も風が重要だからさもありなんで、スルーしていましたが。

★アミ族の「たたら」はどんな舟でしたか、帆つきの竹か木でできた小舟の印象がありますが。

 ここからは参考情報(要観察事項)

★サカ語では「たたら」に近いものは、ttaura:塔、「たたり」に近いものはttaurrji:いくつかの装置←現在伝承されているたたりも2種類の器具から構成される。

★胡語では「たた」は、tab tab:補助器具で共通とする考えると、「ら」はlaub:頭と肩で叩く(つまりかなづちで叩くという意味か)、「り」はri:拡げる伸ばす。

★万葉集では「たたら」の事例はないが、「たたり」は2件、「多々理」と「多田?理」、うち1件は麻糸でした。

★羅を、raとriの間の音に位置づけている研究者(白川静先生と国崎望久太郎先生の門下)がおりました。

[9355] Re[9353][9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  大三元 [Url] 2008/09/04(Thu) 19:58 [Reply]
かたばみさん

> では、多々利に並べて書かれて「乎居」とは、これも紡績具であろうと仮定すると、銅鐸にもある「桛カセ」である可能性も・・

「龍田風神祭」と題される祝詞に「金の麻笥(をけ)、金の椯(たたり)、金の桛(かせひ)」と三点セットの表現があります。そして、たたり と かせひ が別記されていることから別物と判断します。


[9354]  いまでいう 万力   生田 紋次郎 2008/09/04(Thu) 18:44 [Reply]
 かたばみさん、ネパール語辞書みるべし!!

 「みかしめ(料金)」とか、絞るの kas がありますよ。
 尊台はまだネパール語を通覧なされてないと、オレは判断しました。まぁ、騙されたとお思いになって、ご覧遊ばしめせ。

 ○○どん、サカ語眺めちょるかね? われわれの文明時点は「我流しかない」という、又とないいいコーナー・チャンスにいます。
 じぶんの「この眼で」ごろうじあそばせ。

 書き込み文章を書き終わったら、“残余”を反転させ、そいつに delete ぶちくらわすと「裾空き」は解消される。ワカランときは、解ったひとに来てもらって「これが、こうだ」と、指さして、指導してもらっうだけの価値これあらむか。

 なお、文章が長が過ぎら、書き込む前に 2分間の冥想みたいなことやって、稿の想念煉るべし。
 わえらが、この文章、長いとわかったら、もう、読む気せんばい。

[9353] Re[9340][9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  かたばみ [Url] 2008/09/04(Thu) 18:18 [Reply]
>ご提案の「タタラ」=ヤミ語の tatala=(小型の)船も「現代地名」の観察

資料は20年も前の物ですし、この舟が今もその呼称で作られているのかさえ私にはわかりません。
「現在は弱小」となっている少数民族の言葉がどれだけ地名などに残っているか、できるだけ早く、できるだけ早くに収集しておかないとどんどん消えてしまいますね。
少なくとも地名索引事典程度の採集が台湾やフィリピンで行われることを期待しますが、それぞれの言葉の歴史的背景も伴わないとデータとしては価値がうんと下がってしまう。
(かっての日本軍の現地の地図は残っているのかなあ)

グーグルマップで台湾の地図を見ましたが・・
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&q=Taiwan&ie=UTF8&z=6&om=1
道路や大都市の地名だけ、おまけにこれらの漢字をどう読むのかすらわからない(^^;

余談
多々利はみなさまの情報等から紡績用具であろう・・私の今の時点での判断。
では、多々利に並べて書かれて「乎居」とは、これも紡績具であろうと仮定すると、銅鐸にもある「桛カセ」である可能性も・・

時代別国語大辞典によると、カセヒ、カセギ、「ヲガセ」、があり、新撰字鏡の「布(糸+蘆)乎加世」を参照していますね。
言語学的妥当性に関してはなにもいえませんが、ヒ、ギ、ヲなど都合の良い部分だけ取り出すと(^^; 当時の類似発音に当て字したものが「乎居」だと持ってゆけるか・・少なくとも「桶」より贈り物としては自然になりそうです。

[9352] 不思議な角川新版『古語辞典』1989.10  神奈備 2008/09/03(Wed) 21:14 [Reply]
 「たた」付近を眺めていましたら、祟るは載っていませんでした。古語ではないんでしょうか。『古事記』には、出雲大神が本牟智和気の御子に祟っているとの記事があり、振り仮名はタタリです。これがおかしいのか、辞書が単に掲載していないのか、言語音痴としてはとまどいます。

 たたら「踏鞴」ふいごのおおきなもの
 だだら−だいじん「駄駄羅大尽」金銀を湯水のように使う
 たたり「絡挅」糸をもつれさせないで繰るための道具
 たた−ゐ「徒居」なにもしないでいること

[9351] 欽明の多々利でわかったこと  佐々木 2008/09/02(Tue) 13:49 [Reply]
★金の多々利を献上の意味。
「詩経」の故事から、中国では女の子が生まれると、瓦(土製の糸巻き)を玩具として与えたというのがあります。いわゆる弄瓦の喜び。

考察
 金の多々利、つまりこれを金の糸車と考えると、欽明帝の皇女の誕生祝いの可能性が考えれられます。時代から見ると誕生された皇女は穴穂部皇女の可能性があります。
 また瓦から、「多々良」の謎が解けるのだろうか。 

[9349] Re[9326][9325][9322]: たたり  ペギラ 2008/09/02(Tue) 10:55 [Reply]
さらに、たたりの仕事が見えるところを見つけました。

http://www.joho-kyoto.or.jp/~hyomon/tosho04.html


[9348] Re[9347][9346][9344][9342][9337]: 「たたら」と「たたり」  大三元 [Url] 2008/09/02(Tue) 10:54 [Reply]
ペギラさん
> 別物。。
> このあたりの見方が大三元さんと共有できていない部分でしょう。

了解しました。確かに同じものに対して違う語がある、とか、同じ語でも違うものを指すとかいうことがありそうです。

駄洒落ですが・・・ 「手足」 で た・たら ?

[9347] Re[9346][9344][9342][9337]: 「たたら」と「たたり」  ペギラ 2008/09/02(Tue) 09:35 [Reply]
> 鞴 と 蹈鞴 は別物でしょうから、「たたら」が外国語、という(ひらめきはともかくとして)論理にはならないのでは?
>

別物。。
このあたりの見方が大三元さんと共有できていない部分でしょう。

別物といえば、別物でしょうが、
私としては、同じ物と言っても違和感を感じないです。

どちらも、同じ原理の送風器具です。
かなり極端に強引に例えるなら、手を使うか、足を使うかの違い。

コンピュータとパソコン という言葉の違いぐらいじゃないだろうか?

そのパソコンを、マックとか、DOSとか、表現しているというのが
ふきかわ と たたら の関係じゃないかと。
私の感覚です。

余計に難解でわかりにくいですかね。。(^_^;)
すいません。


[9346] Re[9344][9342][9337]: 「たたら」と「たたり」  大三元 [Url] 2008/09/01(Mon) 23:54 [Reply]
ペギラさん
> 明らかに願望を多大に含む空想なので、
そうでしたか。余り突っ込まないことにしましょう。
でも、一つだけ:
鞴 と 蹈鞴 は別物でしょうから、「たたら」が外国語、という(ひらめきはともかくとして)論理にはならないのでは?

> 「たたり」は、中国、朝鮮半島でどう表現されているのか。。。

前にも書きましたが:「たたり」の漢語が「絡垜」(らく・だ)、というのがあります。半島では、とか、時代のカバーは未明です(私には)。

[9345] Re[9343]: 未だ知らぬ *Tat       佐々木 2008/09/01(Mon) 22:52 [Reply]
なるほど勉強なりましたよ。
たたらには、粘土の薄い板、種子島の川の堰などもあるというご教示ですね。

[9344] Re[9342][9337]: 「たたら」と「たたり」  ペギラ 2008/09/01(Mon) 21:44 [Reply]
明らかに願望を多大に含む空想なので、
一石を投じるというか、投げてみたら何かに当たるかもという感覚です。(^_^;)

> > 鞴 という字の訓は、「ふきかわ」
> > 蹈鞴になると訓は、「たたら」
>
> > 明らかに現代風に言えば「外来語」
>
> 「ふきかわ」は和語だと思ってましたが。

ふきかわを和語だと思っていますから
蹈鞴=たたら が外来語じゃないか。。。という

「ふみかわ」とか、「ふみふき」とか、
「蹈鞴」の訓が存在してもよかろうと。

日本書紀作成時の「蹈鞴」というものは、
「ふみかわ」とか、「ふみふき」とかのレベルの
現代で言えば、夏の海で膨らませる大型イルカ形の浮き輪に空気を入れる
蛇腹の踏み空気入れに近い感覚の物だろうと思います。

日本書紀作成時には、もちろん製鉄にも使われたであろうが
多く使われたであろう部門は、鍛冶であろうし、青銅鋳造であろうし、
木炭製造、土器製造であろうし。

一時、多々羅というのは、多くの羅(織物)という思いもありましたが、
多多に多くのって意味が、感じられない。

多羅で、すむ言葉となる。

「たたり」は、中国、朝鮮半島でどう表現されているのか。。。
古代、現代を織り交ぜて、、(笑
知りたいところです。

[9343] 未だ知らぬ *Tat       生田淳一郎 2008/09/01(Mon) 19:06 [Reply]
 「たたら」という発音には、粘土の窯焼き土構、送風装置、それを「踏む」こと、泥舟、そういうことの金属精錬関係一切……が、こめられたみたいです。
 しかも、家とか氏族の名前にまで「たたら」が及んでいる現象は、やっぱ、金属精錬ということが、何百年かはわかりませんが、時代をリードした「恰好よさ」を露出してるように思えます。

 同時に、われわれが未だ見知らぬ *TaT があるのではないかと、愚考する次第です。たとえば、下に小生が出したような「霊現象がたつ」などです。」

 云いにくいことですが、 -ra はネパール語の強調末尾辞ですえらぁ(岡山方言)。まっぴらゴメンね。

[9342] Re[9337]: 「たたら」と「たたり」  大三元 [Url] 2008/09/01(Mon) 10:50 [Reply]
ペギラさん
> 「たた利」を元にして「たた羅」が存在するという文献があるということは
> 「たたり」と「たたら」が直接イコールだという暴論までは言わないが
> ある程度関係があり、全く関係がないというわけではないと思います。

そうかもしれないけど、「たたり公」(祟りのキミ)では気の毒なので、 事物としては全く関係ないのだが、音の近い「たたら公」にした、ということ「かもしれない」。ペギラさんが考えている「ある程度(の)関係」とはどんなことでしょうか。

> ここで思うことは、
> なぜあの紡績機械が「たたり」で
> 踏みフイゴが「たたら」というか。

これは「何故、犬をいぬと云い、猫をねこと云うか」というレベル(次元)の話じゃなくって、外来語である、という仮説への導入部だと理解して良いですか。

> 鞴 という字の訓は、「ふきかわ」
> 蹈鞴になると訓は、「たたら」

> 明らかに現代風に言えば「外来語」

「ふきかわ」は和語だと思ってましたが。(ただ、面白いのは「鞴」の音(呉音)が「び、ふく、ぶ」とあり、「ふく革」でこの字の構造を説明しているかに見えることです。)

蹈鞴:「蹈む、踏む」という行為は「立つ」という行為に基づく。「たたり:立テリの東国語形」、「タタラは『立たれ』の古い名詞形・・」。このあたりを考えると「たたら」が明らかに外来語、というのは俄には受容できませんが、何語の何という語だったと考えて居られますか?

> 同じように「たたり」も非常に謎
> 日本風に言えば「たたり」なんて、あまり使わないですよね。

「たたり」を使わなくなってきたらその語も廃れる、ってことではないでしょうか?糸を紡ぐ作業が身近だった頃はそれに関わるツールも身近にあり、その呼称も必要だったでしょう。

> それでも平安時代に残っているということは、
> それなりの意味があるということ。

平安時代にも「たたり」が使われていたということに過ぎないのではありますまいか。

余談:「たたり」と「たたら」は異なる語で、指し示す事物も相互に関係はない、と思っていますが、気になっていることは、「たたり」の漢語が「絡垜」(らく・だ)であり、この語を日本語に借用しようとするときに、上代日本語では、ラ行始まりの語がない、ので、さて、どうする?ひっくり返して「だら(く)」とする?否、当時の日本語には濁音始まりの語もない。∴「たら(く)」?こんな背景があるので「たたり」と「たたら」が混用された???かなりきついロングシュートです。

[9341] ことば界隈で心霊現象が立ちました     生田淳一郎 2008/09/01(Mon) 05:59 [Reply]
 ありきたりの評価では「天才」としか呼びようのない佐々木さんの頭脳は、すでにみなさん、十分に感知しておられるところと思います。

 小生、生田が台湾アミを読んでいると知った佐々木さん(アマカネ監査役・提督)が、二度にわたって「台湾アミ語の“北”はアミと云わないか」と、まったくあてずっぽうの問い合わせを書き込みされたのです、
 小生は「まさか」とは思ったのでしたが、二度ですので、調べてみました。
 ところがナンと、ほとんどズバリの正鵠だったのです。
 
 詳しくは紋次郎・言語考古学
http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/utubobbs.cgi
で観察できます。これは心霊現象の一つと表現したいところです。とにかく奇跡的なできごとですので、目を離さないでください。

 そこで申しあげたいのが、神奈備席亭が 6年ほど前に実体験したカンナリ現象のことです。
 われわれ現代人は物理化学のましゃくに合わない現象については、大幅にまちがった対応・処置をしがちです。とくに掴みきれてないのが自我現象です。
 自我現象については今日、明日じゅうに『呑み屋の価値観』に小生の存念を書き込みますのでアマカネ。
 
 巨大な理解不可能事に遭遇したときの個の反応は、「とにかく反発・攻撃しておけ」との判断を下し、平気で(正当性をでっちあげ)それを実行するという単細胞生物このかたのクセを展開します。
 まず、事実をシッカとみつめましょう。


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