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掲示板のログ(平成二十年 十一月 2008.11)お名前の敬称は省略しています。

[9640] 塚口先生の「鴨集団と四世紀末の争乱」  神奈備 2008/11/30(Sun) 20:49 [Reply]
 塚口先生の「鴨集団と四世紀末の争乱」の講義録と資料は[9616]から[9639]です。

[9616] 鴨集団と四世紀末の争乱
[9618] Re[9617][9616]: 鴨集団と四世紀末の争乱
[9626] 鴨集団と四世紀末の争乱
[9627] 神武と応神、日向
[9633] 大和平定と橿原宮即位の伝承
[9639] 神武天皇の皇后選定伝承

 
 葛城地方に住んでいた鴨族は、新しい勢力であった神功・応神の勢力に加担せず、従って加担した葛城氏に葛城地域の主導権を奪われたとの説です。鴨族が忍熊王側に加担しなかったので、新勢力の神功・応神に服属したことが神話から推測されています。

 鴨族の古墳は比較的小さく、佐紀盾列古墳群ほどの大きさもないようです。ということは彼らの勢力にも従順でなかったのかも知れません。副葬品がなかなかのものですから、独自の勢力を持っていたのでしょう。

 さて、鴨氏の祖神は大物主神から天日方奇日方尊を経由して大多々禰子尊・大賀茂都美命へつながります。 天日方奇日方尊の天日方って天日矛に似てるとの青草話もありましたが、鴨の女神の下照比売と天日矛にまつわる比売許曽神とされる赤留比売とを同じ神とする底深い伝承があるようで、このことは鴨族のルーツに関わる一つのポイントだと思われます。

 天日方奇日方を祭神とする石部神社と兵主神社との分布、また石部神社と銅鐸の出土の謎、、実に面白いテーマです。

 天照大神と共に大神とさ大賀茂都美命れる迦茂の大神が味耜高彦根命です。この二大神の役割は稲作の神と麦畑の神のように思えてなりません。
 縄文時代から葛城の地にいて進取の心を持って時代に対応して来た氏族なのか、はたまた鴨のように渡り鳥のようにバイカル湖付近からやって来て葛城に住み着いた氏族なのか、天日矛の末裔として秦氏と同じ様な渡来系の氏族なのか、謎が多い氏族です。

[9639] 神武天皇の皇后選定伝承  神奈備 2008/11/30(Sun) 08:27 [Reply]
1.「古事記」の物語を少し読んでみましょう。
  故、日向に坐しし時、阿多の小橋君の妹、名は阿比良比売に娶ひて生みませる子、多芸志美美命、次に岐須美美命、二柱坐しき。然れども更に大后と為む美人を求ぎたまひし時、大久米命曰さく、「此間に媛女有り。是を神の御子と謂ふ。其の神の御子と謂ふ所以は、三島湟咋の女、名は勢夜陀多良比売、其の容姿麗美しかりき。故、美和の大物主神見感でて、其の美人の大便為る時、丹塗矢に化りて、其の大便為る溝より流れ下りて、共の美人のほとを突く。爾に其の美人驚きて、立ち走りいすすきき。乃ち其の矢を将ち来て、床の辺に置けば忽ちに麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人に娶ひて生みし子、名は富登多多良伊須須岐比売命と謂ひ、亦の名は比売多多良伊須気余理比売と謂ふ〔是は其のほとと云ふ事を悪みて、後に改めし名ぞ〕。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり」とまをしき。 
 そこで神武天皇は、大久米命に命じ、高佐士野で友達と野遊びをしているイスケヨリヒメに自分の気持ちを伝えさせます。イスケヨリヒメがこれに応じたので、神武天皇は狭井河のほとりにあるヒメの家に出かけ、一晩、寝床を共にします。

 一方、「日本書紀」のほうの伝承はどのようになつているのかと申しますと、その内容は、「古事記」とかなり違っております。
 庚申年の秋八月の癸丑の朔戊辰に、天皇、正妃を立てむとす。改めて廣く華冑を求めたまふ。時に、人有りて奏して曰さく、「事代主、三嶋溝橛耳神の女玉王櫛媛に共して生める兒を、号けて媛踏五十鈴媛命と曰す。是、国色秀れたる者なり」とまうす。天皇悦びたまふ。

 九月の壬午の朔乙巳に、媛踏鞴五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ。(神武天皇即位前紀)

 又曰はく、事代主神、八尋熊鰐に化為りて、三嶋の樴橛姫、或は云はく、玉櫛姫といふに通ひたまふ。而して児姫踏鞴五十鈴姫命を生みたまふ。是を神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。(神代紀上)

 決定的に違う点は、父親に関する所伝です。r古事記」が三輪山の神である大物主神だといっているのにたいして、「日本書紀」では事代主神だといっております。
 事代主という神様は、鴨(賀茂)氏の守護神です。京都に上賀茂神社、下鴨神社がありますが、これらはいずれも、鴨氏ゆかりの神社です。鴨氏は大和にも住んでおりまして、現在の橿原市霊梯町に、式内社の高市御県坐鴨事代主神社に比定されている河俣神社があります。また、古代の葛上郡に当たる現在の御所市にも、鴨氏関係の神社が三社ほどあります。御所宮前町に鴨郡波八重事代主命神社、大字櫛羅に鴨山口神社、そして大字鴨神には高鴨阿治須岐託彦根命神社があり、これらはそれぞれ、下鴨神社、上鴨神社、高鴨神社の通称でもってよばれています。
 そのほかにも、いろいろ違いはありますが、初代天皇の皇后の出自が違うというのは、系譜を尊重していた古代社会にあっては、大きな問題です。なぜ、このような違いがでてきたのでしょうか。また、どちらがより古い伝承なのでしょうか。

 ここで、私の考えをさきに申しますと、「古事記」より「日本書紀』の伝承のほうが、古いのではないかと思います。理由は四つほどあります。

 一つは、「大物主神が丹塗矢と化し、厠に入ったセヤタタラヒメの陰部を突き」云々、という、神婚伝承のあり方です。このタイブの話は、丹塗矢型神婚説警よばれているものですが、同じく大物主神にかかわる意富多多泥古や倭迹迹日百襲姫命の三輪山説話は著しく類型を異にしています。むしろこの説話は、鎌倉時代に編纂された「釈日本紀」に収録されている「山城国風土記」逸文の、「可茂の社」の条に記されているつぎの説話に似ています。
  賀茂建角身命、丹波の国の神野の神伊可古夜日女にみ娶ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日売と曰ふ。玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち取りて、床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。・・(中略)・・乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と号く。


 この説話が、鴨氏にかかわるものであることはいうまでもありませんが、そうすると、「記」「紀」の丹塗矢型説話もまた、元来、鴨氏によって語られていた可能性が強いと考えられます。
 ただ、「書紀」の伝承cでは、事代主が八尋熊鰐と化して婚しており、この点が異なっていますが、これは異伝の一つではないかと考えています。この問題については、また別の機会に改めてお話し申し上げたいと思います。

 二つめは、「記」「紀」に、三輪の地から遠く離れた摂津の三鳥の地名が出てくることであります。セヤタタラヒメの父の三島溝咋というのは、今の茨木市に当たる、摂津国嶋下郡の地名です。そのことは、「延喜式」嶋下郡の条に、溝咋神社がみえていることからして、明らかであります。ところが興味深いことに、同じ「延喜式」嶋下郡の条に、鴨氏とゆかりのある三嶋鴨神社(三島鴨神社・高槻市三島江二丁目に鎮座)の名がみえているのです。つまり、このあたりには鴨氏が住んでいて、三嶋鴨神社を祭っていた、ということです。したがって、同じ嶋下郡にある溝咋神社もまた鴨氏ゆかりの神社であった、と考えるのが自然であります。しかも、この溝咋神社が鎮座する五十鈴町から南西の方角に二キロメートルほど歩いていきますと、銅鐸・銅戈の鋳型やフイゴなどの出土した奈良遺跡があり、このあたりには、鋳造関係の仕事に携わっていた人々が住んでいたようです。そういたしますと、セヤダタラヒメやホトタタライススキヒメのタ(ダ)タラは、鋳造のさいに用いる踏鞴の意味で、この付近には、鴨氏系の鋳造技術者集団が住んでいた可能性があります。

 ちなみに、嶋の下とか、上とかいっている「上・下」は一体何を基準にしていっているのでしょぅか。それはおそらく、土地の高低が基準になつているのではないかと考えられます。したがって川の上流のほうが上郡に当たり、下流のほうが下郡に当たると考えてよいと思います。

 それはともかく、以上のようにみてまいりますと、この伝承は、元来、鴨氏によって語られていた可能性が強く、したがって、その守護神である事代主神が登場する「日本書紀」の所伝のほうが本来的なものである、ということになります。おそらく「古事記」の説話の前半部と後半郎とは本来、別個の伝承であって、述作者は、鴨氏の丹塗矢型神婚伝承に三輪関係の伝承を接合させることによって、皇后の父を大物主神とする所伝を作り上げたものと考えられます。

 三つめは、皇后の父が大物主であるとすると、それは「古事記」崇神天皇の段に記されている、意富多多泥古が大物主神を祭る話と矛盾してしまうことです。意富多多泥古が大神を祭ることになった理由は、ほかならぬ彼が大神の子孫であったことによります。ところが、皇后の父が大物主大神であったとすると、崇神もまた大神の子孫であったことになります。そうすると、「古事記」の記事に則して考える限り、崇神みずからか、もしくは崇神の血脈につながる人が大神を祭ればよいわけであって、わざわぎ意富多多泥古をさがし求める必要もないのです。これは明らかに「古事記」の自己矛盾です。しかるに、「日本書紀」は皇后の父を事代主神としているから、何の矛盾もありません。この点からも、「古事記」より「日本書紀」のほうが、より古い伝承であったということができます。


 四つめには、天皇の出自と陵墓伝承との整合性の問題があります。「日本書紀」によると、神武天皇、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇の陵墓はそれぞれ畝傍山東北陵、桃花鳥田丘上陵、畝傍山南御陰井上陵、畝傍山南纎沙谿上陵と称され、鴨氏が奉斎していた高市御県坐鴨事代主神社(積原市雲梯町)が鎮座する畝傍山近傍の地に営まれた、と伝えられています。ところが興味深いことに、これら四人の天皇はいずれも出自の上で、鴨氏と非常に深いかかわりをもっているのです。神武天皇の正妃の媛踏鞴五十鈴媛命、綏靖天皇、安寧天皇の母はいずれも事代主神の娘であり、懿徳天皇の母は事代主神の孫である鴨王の娘と伝えられていますじこれは決して偶然とは思えません。陵墓地選定の背景にはさまぎまな事情が考えられ、簡単にはいえないのですが、被葬者の出自にかかわる場合が少なくありません。すなわち、被葬者の本拠地にその奥津城が営まれている場合が少なくないのです。
 とすると、彼らの陵墓が畝傍山近傍の地に営まれたとするこれらの伝承は、じつは事代主神との関係から生じてきたものではないかと推察されます。もちろん、これらはあくまでも一つの伝承であって、歴史的事実とは考えられませんが、ともかく彼らの陵墓伝承は事代主神と不可分の関係にあったと考えられるのです。
 
 一方、事代主神との関係を一切伝えない「古事記」にあっても、彼ら四人の陵墓の所在地は「日本書紀」のそれとほぼ同じで、畝傍山近傍の地に営まれたと伝えられています。「古事記」では神武天皇の嫡后の父や綜靖天皇の祖父を大物主神とし、安寧天皇、懿徳天皇の母を師木県主の出身としているのですが、なぜ三輪山や師木(磯城)の地から遠く離れた畝傍山近傍の地に彼らの陵墓が営まれたとされているのでしょうか。大物主神や師木県主が畝傍山近傍の地と深いかかわりをもっているのなら理解できるのですが、そうした証跡はほとんど知られていないので、「古事記」の陵墓伝承は不可解というほかありません。
 このようにみてまいりますと、事代主神との関係を語る「日本書紀」の所伝のほうが本来的なものであり、「古事記」の所伝は「書紀」のそれを改変したものではないかと推察されます。ただし、「古事記」の所伝が改変されたものであるといっても、皇后の父を大物主神であると主張するだけの根拠はあったと考えられます。「古事記」のこの所伝は綬靖、安寧、懿徳の各天皇が師木県主の祖先の娘を娶ったと伝えられていることからみて、師木県主系統の伝承であったと推測されますが、この一族の本拠地は三輪山のすぐ近くにありました。したがって、大物主神をもち出す根拠はあったのです。

[9638] Re[9636][9634][9632][9629]: 尾張国一宮  ぽんた [Url] 2008/11/30(Sun) 01:13 [Reply]
> 一宮は国府の近くにあるというのは一般的な説です。総社や印鑰社も国府の近くにある場合が多く国府の地を想定する材料になっています。
> 1の宮は国司が参拝する訳ですから近い方が良いというのが一般的な説です。総社や印

なるほど。神奈備説じゃなくて、一般説なんですね。
一般説=定説かな?
確かに、国司にしてみたら近いほうがいいわけで・・・総社に行ったからよしってわけにはいきませんからね。

>国府の地を想定する材料になっています。
なるほど。
何でこんな場所に国府が・・・と不思議に思ったら、一宮の所在地を見れば解決ってことですね。

[9637] Re[9626]: 鴨集団と四世紀末の争乱  ペギラ 2008/11/29(Sat) 23:39 [Reply]
もう、終わってしまっていたのですね。

昨今、時々、神奈備さんより、漏れ聞こえていた内容ですね。

鴨神、高鴨神という、いかにも鴨という神が葛城に存在しますが、
葛城一族というか、蘇我一族というか、武内一族というか、
渡来系の人々の神は、葛城に存在するのでしょうか?

そんなことを思う。

[9636] Re[9634][9632][9629]: 尾張国一宮  橋本 2008/11/29(Sat) 23:04 [Reply]
> > > 神奈備様が問題にされているのは、真清田神社が名神大社ではないということですが
> > そうではなくて、「近いから」と言う理由もあるのではと言うことです。
>
> 了解。
> 神奈備説は、名神大社ではない真清田神社が一宮なのは国府に近いからでしたね。


一宮は国府の近くにあるというのは一般的な説です。総社や印鑰社も国府の近くにある場合が多く国府の地を想定する材料になっています。


1の宮は国司が参拝する訳ですから近い方が良いというのが一般的な説です。総社や印

[9635] Re[9622][9621][9620]: 遠江一之宮  ぽんた [Url] 2008/11/29(Sat) 21:12 [Reply]
> > 所で、高松神社も一之宮とされた時代もあったようですね。

調べたら、高松神社は式内・己等乃麻知神社の論社であり、式内・己等乃麻知神社が一宮であれば、高松神社が一宮だってことだそうです。

また、式内・己等乃麻知神社のご神体が戦火を避けて式内・小國神社や式内・砥鹿神社に疎開したことがあり、その時に両社が遠江国一宮、三河国一宮になったとのことです。亀の甲の事任神社が一宮を称したのもご神体を借りていた時期であり、社紋が式内・砥鹿神社と同じなのも式内・己等乃麻知神社つながりだそうです。

あと、式内・己等乃麻知神社の本当のご神体は夜泣き石で、式内・己等乃麻知神社は夜泣き石の場所にあったそうです。(現在、社殿は無く、夜泣き石も小泉屋の横に移動してます。)

[9634] Re[9632][9629]: 尾張国一宮  ぽんた [Url] 2008/11/29(Sat) 21:03 [Reply]
> > 神奈備様が問題にされているのは、真清田神社が名神大社ではないということですが
> そうではなくて、「近いから」と言う理由もあるのではと言うことです。

了解。
神奈備説は、名神大社ではない真清田神社が一宮なのは国府に近いからでしたね。

[9633] 大和平定と橿原宮即位の伝承  神奈備 2008/11/29(Sat) 08:42 [Reply]
 神武伝説が形成されるに当たって五世紀代前半という時期がきわめて重要な時期であり、かつそれが”四世紀末の内乱”(神功・応神伝承)と不可分の関係にあったとすると、大和平定伝承の成立の問題についても新たな展望が開けてくる。

  まず神武伝説の構造をみてみる。

(一) 『紀』によると、神武が橿原宮で即位したのち論功行賞が行われ、大伴氏の遠祖の道臣命に対しては築坂邑(橿原市鳥屋町付近)のなかに、また大来目(久米直等の祖)に対して
は畝傍山より西の川辺(畝傍山の西を流れる高取川から橿原市久米町にかけての地域)にそれぞれ居所が与えられた。これらはいずれも畝傍山近傍の地であるが、彼らがこれらの地を賜った理由はほかならぬ、宇陀・忍坂・磐余(蜃原市東南部から桜井市西部にかけての地域)地方で「賊虜」を制圧したことによる。
 すなわち『紀』による限り、宇陀・忍坂・磐余地方の平定と畝傍山(橿原宮)付近の地の制圧とは不可分の関係で絵はれている。

 従来、大和東南部平定の伝承については、神武のカムヤマトイハレビコの名に注目し、それは磐余に宮が営まれたと伝えられる時代、なかんずく五世紀代後半(雄略朝)ないしそれ以降の時代(清寧・継体・用明朝)に形成されたのでほないかとみる研究者が少なくなかったが、それはきわめて一面的な考察であると評さざるを得ない。なぜなら、橿原宮即位伝承との関連がほとんど不問に付されているからである。これら二つの伝承はそれぞれ別個に考察されるべきではなく、相互に関連した一つの伝承として把握されるべきであろう。

(二) 兄磯城・弟磯城は磐余から忍坂・宇陀にかけての地域と深い関わりを有しているが、この地域にはトミノナガスネビコの名に冠されているトミ(鳥見山・等弥神社(式内社)など)の地名がある。この地名が古代から存在していたことは迹見駅家(「紀」天武八年八月十一日の条)、迹見庄(「万葉集」)、大和国城上郡登美山(「類聚三代格」所収元慶五年(881)十月十六日の大政官符)などの史料によって確認できるが、一方、大和北西部にも古代からトミの地名が存在する。鳥見郷(登美郷)、迹見池(「紀」垂仁三十五年十月の条)、登弥神社(式内社)などがそれであり、現在の奈良市中町・三碓町・鳥見町・富雄元町付近に当たることは上記のとおりである。
   このようにして、トミノナガスネビコの名の由来となったトミの地名が大和東南部と大和北西部の双方に見られるわけであるが、それにとどまらず、両地方にはともに物部氏系の氏族が盤据していたという共通点まで見いだせる。すなわち前者には弟磯城の後身と伝える磯城(師木)県主が、また後者には登美連・鳥見連・矢田部連・矢田部造・矢田部首などが盤据していた(「新撰姓氏録」による)。生駒山と深い関わりをもっている登美能那賀須泥毘古が、「記」では大和東南部とも閑係を有しているように記されている(忍坂における土雲八十建と兄師木・弟師木討載の問で登美毘古討滅のことが語られている)のも、おそらくこのような事情によるのであって、この人物の伝承は元来、”トミ”の地域を拠点として活動していた複数の物部氏系政治集団の間で語られていたものであろう。

 このようにみてくると、神武伝説でほ大和北西部、大和東南部、畝傍山東南の橿原付近の地の制圧は、たがいに不可分の関係にあり、これらはほぼ同時に行われたと伝えていることが知られる。では、このような構造の物語が形成されたのは、一体いつか。

 ここで注目されるのが、神功・応神の宮居伝承である。すでに述べたように、”四世紀末の内乱”の結果、大和北西部の政治勢力ほ神功・応神に象徴される政治勢力によって打倒されるが、「紀」によれば、そののち神功が「磐余稚(若)桜宮」で政治を執り、その子応神は畝傍山東南の地の「軽島豊明宮」で即位したと伝えられているのである。神武の伝説は、構造的にこれと全く一致している。とく神功・応神の宮が神武伝説における大和平定の舞台となっている地域と重なっていることは、たんなる偶然の一致とは考えにくい(神功が、神武伝説を除けは磐余に宮を築いた最初の人物と伝えられていることも、この際、改めて注意される)。また逆に、大和北西部、大和東南部、畝傍山東南の地がほぼ同時期に制圧されたと考えられるのは、四世紀末前後(五世紀にかかる可能性もある)の時期をおいて他にはない。

 しかも、この帰結は、前章の考察結果すなわち「日向」出発、「日下」上陸のストーリーが”四世紀末の内乱”および”五世紀前半における日向王族の動向”と不可分の関係にあったと考えられることと、期せずして一致する。

 とすると、大和平定・橿原即位の伝承が形成されたのも、やはり五世紀代前半という時期ではなかったか。おそらくそれらは五世期代前半の時期に、”四世紀阿上の内乱”と”河内大王家誕生”の史実を念頭に置いて、神功・応神を祖と仰ぐ大王や王族たちによって形成されたものと考えられるのである。とくにこの場合、日向系の大日下王が健在であった履中天皇の時代(五世期前半)の宮が「磐余稚桜宮」であることが普されるであろう。

[9632] Re[9629]: 尾張国一宮  神奈備 2008/11/29(Sat) 08:40 [Reply]
> 神奈備様が問題にされているのは、真清田神社が名神大社ではないということですが

そうではなくて、「近いから」と言う理由もあるのではと言うことです。

[9631] Re[9624][9620]: 遠江一之宮  ぽんた [Url] 2008/11/29(Sat) 01:02 [Reply]
> :この鎌倉時代の紀行文とは作者は誰でしょうか、。
> (※慶長に光広卿を諏訪社へ案内したのは戦国での亡失かさめやらぬ誘導でしょう。)

そうでした!
間違えました。江戸時代です!
烏丸光広『春の曙の記』(1668 年刊)ですね。

[9630] 尾張国一宮  ぽんた [Url] 2008/11/29(Sat) 00:27 [Reply]
今、PONTAの優子先輩に聞いたら、「熱田神社は伊勢神宮と同じで別格。伊勢国一宮が椿大神社であって、伊勢神宮ではないのと同じ理由で熱田神社は尾張国一宮ではない。伊勢神宮や熱田神社は、伊勢国や尾張国の守りというより、日本国や天皇家の守りだから」「尾張国にはもともと一宮と二宮しかなかった。ところがなぜか熱田神社を一宮制に組み込もうとして三宮として付け足した」とのことでした。

[9629] 尾張国一宮  ぽんた [Url] 2008/11/29(Sat) 00:12 [Reply]
尾張国の場合は、皆様ご存知のように、、
・一宮:式内・真清田神社 一宮市真清田 ご祭神:天火明命
・一宮:式内・大神神社 一宮市花池 ご祭神:大物主命
・二宮:式内(名神大社)・大県神社 犬山市宮山 ご祭神:大県大神
・三宮:式内(名神大社)・熱田神社 名古屋市熱田区神宮  ご祭神:熱田大神
・総社:式内・尾張大国霊神社 ご祭神:稲沢市国府宮 尾張大国霊神
であり、神奈備様の説は「国府に近い神社が一之宮とされた場合もあるようです。例えば尾張国」そうでなければ「尾張国の場合、一宮が式内小社である真清田神社であって、名神大社である熱田神社でないことを説明できない」ということだと理解させていただきました。つまり、名神大社の大県神社や熱田神社が一宮になれなかったのは、真清田神社が最も国府(稲沢市国府宮)に近いからだということですよね。なるほど。個人的には総社が国衙の近くにあれば、それでいい、一宮が国を守る神社なら遠くでもいいと思いますけどね。実際には、国司が公務で一宮へ行くことが多く、国衙から遠いと大変だったのかもしれません。また、一宮が国を守る神社ではなく、国衙の鎮守社であれば、国衙の近くにないといけませんけどね。三河の「守公神社」は三河国衙の鎮守社でしょう。

真清田神社のご祭神は、八頭八尾の龍に乗ってやってきて、尾張国を開拓し、8つの郡を置いた人物=尾張国開拓の祖であり、大県大神=大荒田命、熱田大神=尾張国造であれば、天火明命の後にやって来た人たちですので、個人的には、真清田神社が一宮でいいかなと思います。(大県大神、熱田大神の正体は不明ですし、真清田神社のご祭神も大己貴命説とかありますけどね。)

神奈備様が問題にされているのは、真清田神社が名神大社ではないということですが、延喜式の成立から一宮制の成立までは100年くらいありますので、その100年間で式内各社のポジションがどう変化しかという点も考慮しないといけないと思います。大化の改新で国造のかわりに国司が中央から交替で派遣されるようになり、国造家は国内の大社(後の一宮になった神社もある)の宮司家にさせられたケースがあります。尾張氏は、尾張国造から熱田神社の宮司になってますので、大化の改新で一宮制が作られたのであれば、熱田神社が尾張一宮になったと考えられます。延喜式の成立時にも名神大社でした。延喜年間に一宮制が作られたのであれば、熱田神社が尾張一宮になったでしょう。ところが、熱田神社は、熱田大神が「桜花ちりなんのちのかたみには松にかかれる藤をたのまん」と詠まなければいけない状況におちいってしまいます。単純に言えば衰退したわけで、宮司家が尾張氏から藤原氏に変わるわけです。この熱田神社の衰退期に一宮制が成立したようです。衰退の理由は分かりませんが、神奈備様の説を考慮すれば、国の中心となって繁栄した国府所在地から遠かったからってことでしょうか。

PONTAの研究範囲は東三河&西遠ですので、実は尾張のことはよく分かりません(汗;)

[9628] 遠江一宮  ぽんた [Url] 2008/11/28(Fri) 22:44 [Reply]
ようするに、遠江一宮は小國神社。でも、吉田家が遠江一宮と認めたのは事任神社(任事神社)ってことですね。PONTAとしては、その小國神社、事任神社が現在のどの神社であるかを知りたいのですが、それぞれ小國神社、事任八幡宮ってことなのでしょうね。

http://www.town.morimachi.shizuoka.jp/sigh/tsuushi/honbun/03_01_03_01.html

 小國神社は遠江国の一宮(一の宮という)である。一宮というのはその国の神社の中で最も信仰があつく、勢力が強い神社のことで、11世紀から12世紀初めにかけて神社の過去の伝統と国ごとの条件に規定されながら成立してきた。伯耆国の一宮倭文神社境内から発見された1103年(康和5)の銘がある経筒に一宮大明神とあったり(『平安遺文』金石文163号)、『中右記』1119年(元永2)7月14日の条に因幡国一宮宇倍神社とあり、『今昔物語』に周防国の一宮玉祖大明神などとあるのが早い例である。鎌倉時代になるとおおよその国々で成立していた。
 一宮の発生には2つの説がある。1つは、在地領主層(在庁官人)の守護神として生まれたという説であり、もう1つは、国衙(こくが)による一国支配を実現するために荘園の神や在地住民の産土神などから超越する神として祭るようになったものだという説である。いずれにしても律令制度の変質にともなって国衙との関係で現れてきたもので、その国内でもっとも有力な神社が一宮となっていった。国衙との関係で生まれてきたものであるから総社とのつながりもあるし、本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想によって国分寺や有力な寺院との関係もあった。
 平安時代の後期から全国的に一宮の制が広まっていき、1191年(建久2)に後鳥羽天皇は宣旨を出して、一宮・二宮の修理を命じているから(「三代制符」『鎌倉遺文1』)このころにはかなりの国々では一宮が成立していたであろう。しかし、遠江国の一宮の記録はまだない。その初見は鎌倉中期になってからである。それは1235年(文暦2)の起請文である(『鎌倉遺文』4727号、『森町史』資料編2、補遺1号)。
 すなわち藤原家貞の子息である源次郎(20歳)と袈裟(19歳)は、竪者御房に所従を相伝するように約束したがおろそかにしてしまったから、今後は約束を守ります。もし約束を破ったなら、日本国中の大小の神々はもちろん当国の鎮守である「小國一宮」の神罰を受けます、と誓ったものである。ここに「小國一宮」という言葉が初めてでてくるから、このころには小國神社が遠江の一宮になっていたことがわかる。
  それでは、一宮といわれるようになったのはいつごろであろうか。平安時代の末期の1165年(永万元)の「神祇官諸社年貢注文」(資料編2、68号)に、
   遠江国 小國社 八丈絹五疋進
とある。律令制が衰退して神祇官の経済が破綻したために、各国の有力神社から年貢を徴収するようになった。そのとき遠江国では小國神社だけが神祇官へ年貢を納める社となり、8丈絹5疋を納めていたという内容である。式内社の名神大社であった2つの神社にかわって、小社であった小國神社が頭角を現してきていたことがわかる。しかし、まだ一宮とは表現されていない。このことから、一宮に指定されるようになったのはこれ以後の平安末期から鎌倉時代初期になってから、ということになる。
 この後、南北朝時代になって1352年(正平7)の「筑紫古文書追加」に、小國神社の荘園を一宮荘といったことが出てくる。それは足利尊氏が少弐資経に、亡父貞経の本領である一宮荘の一部を安堵したものである(『静岡県史』資料編6、479号、『森町史』資料編2、93号)。
 以後、遠江国の一宮は小國神社に定着し、室町初期の1351年(正平6)には、「たうたうミのくに、一のミや」(資料編2、91号)とあり、中期の熊野の御師の「旦那場配分注文写」(資料編2、106号)にも一宮とある。1575年(天正3)の棟札には「小國一宮鹿薗大菩薩」とあり(資料編2、266 号)、中世から行われているという田遊び祭の祝詞の中にも「小國一宮事任神社」とあって、籾種をまくとき「東は大井川、南は海、西は境川、北は信濃」と大声で唱えて遠江国内の平安と豊作を祈って国境より外へ悪いものを追い払い、遠江国の一宮としての役割を果たしている。こうして小國と一宮とは常に並列して呼ばれるようになった。
  ところが南北朝期から江戸初期の間にまとめられたという「大日本一宮記」(『群書類従』所収)には、
   己等乃麻知神社 号事任神/猿田彦命 遠江佐埜((野))郡
とあって、遠江国の一宮は周智郡にある小國神社ではなく佐野郡にある己等乃麻知神社で、祭神は猿田彦命であるという。この己等乃麻知神社というのは掛川市日坂に鎮座する事任八幡宮のことだといわれている。この神社は東海道の小夜の中山のふもとにあることから、『枕草子』で有名になっていたばかりでなく、ここを通る旅人は無事に山越えができることと、願い事が思いのままに(事のままに)叶うようにと祈った神社のことで、紀行文に多く残されている有名な神社である。このように人口に膾炙(かいしゃ)された神社であるということから遠江の一宮がここであるとされるようになったらしい。こうして森町一宮の小國神社を一宮とするものと、掛川市日坂の事任八幡宮を一宮とするものの2説がうまれてきた。
 しかし、事任神社を一宮とするものは『大日本一宮記』をはじめとして、江戸時代に編纂された『神社便覧』や『諸社一覧』、『諸社根元記』などであって、これらはすべて京都の吉田神道の系統のものばかりである。つまり『大日本一宮記』を写したものだけのようである。だから吉田神道の流れをくむ橘三喜は、元禄時代に諸国の一宮を順拝したとき事任八幡宮ではなく、小國神社へ参詣しているのである(「一宮巡詣記」・『日本庶民生活資料集成』所収)。このことからみても元禄時代には遠江の一宮は小國神社であるという認識があったことを示している。それは中世からも同じであった。東海道に面していて立地上の有利な点から一宮の名称が日坂の事任八幡宮にされたこともあったけれど、小國神社は古代末から中世初めには遠江国の一宮となり、遠江国の最も重要な神社となっていたのである。

[9627] 神武と応神、日向  神奈備 2008/11/28(Fri) 21:34 [Reply]
      神武伝説       四世紀末の内乱

1      日向を出発      応神・日向の一族が九州を出発 *1

2      倭直の祖の槁根津彦  倭直と同祖と海直(明石国造)が明石海峡
       が明石海峡付近で先導 付近で応神一行を先導

3      難波津到着      難波津到着

4      大和北部を基盤とする 大和北部を基盤とする忍熊王と戦争
       登美能那賀須泥毘古と    
       戦争

5      内部分裂(饒速日尊) 内部分裂 *2

6      畝傍山東南で即位   畝傍山東南で即位

7      日本国建国      河内王朝を樹立

*1 日向の諸県君(もろがたのきみ)一族が河内大王家の姻族となっているのは、彼らが応神側に加担し勝利に貢献したことを物語っている。
*2 麓坂王との分裂か


応神に荷担した日向の中心勢力

 応神に荷担した日向の中心勢力は、生目古墳群を築いた政治集団にかわって五世紀代に日向広域首長連合の盟主権を掌握し、巨大古墳を築造した西都原古墳群の被葬者集団であったと見るのが妥当であるが、この集団と応神の勢力との連合関係ほ、四世紀後半に展開される日朝関係を通じて形成された可能性がきわめて強いと思われる。なお、柳沢一男氏は盟主権の交替の理由を、「大王墳の大和盆地から河内平野への移動に伴う変動に関連するもの」(「南九州における古墳の出現と展開」<前掲>、「生目古墳辞シソボジゥム99〔報告書〕浮かぴ上がる宮崎平野の巨大古墳」宮崎市・宮崎市教育委員会・二〇〇〇年、など)、すなわちヤマト政籍(畿内政権)の政治的変動に伴う現象として理解しておられるが、支持しうる見解である。なぜなら、私見によれば、本文にも記したとおり、四世紀末前後にヤマト政権内で争乱が起こり、その結果、王権は佐紀西群の政治集団から河内の政治集団のもとに移動し、いわゆろ河内新政権(応神新政権)が誕生することになるが、この政権交替は地方の政治集団にも大きな影響を及ぼし、首長系列の変動を生じさせたと考えられるからである。日向における盟主権の移動もその一つであったと理解することができる。

 日向系の王族、なかんずく女性についてほ、ヤマト王権の日神信仰に関わる宗教祭儀のなかで、ある一定の役割を担っていたことを推測させるような伝承がある。大日下王の妹の若日下部王が雄略に対して「日に背きて幸行でましし事甚恐し」(「記」雄略の段)と言ったという伝承や、「住吉大社神代記」に、住吉の大神の御魂である猪加志利之神(坐摩神)が波多毘之若郎女(若日下部王)の夢の中に見れ、託宣を下したという伝承などがそれである。庄野勉一氏は、これらの伝承を手がかりにして種々考察を加え、若日下部王は日神信仰に関わる巫女であった可能性が強いことを推測されている(「仁徳皇女−波多毘能若郎女が事」横田健一編「
日本書紀研究」第二十四冊、所収、塙書房、二〇〇二年)。日向系の女性と宗教祭儀との関わりについては、この点も含め、今後なおよく考えてみたいと思う。なお、坐摩神については、大和岩雄氏に要を得た解説がある。同「座摩神社」(「日本の神々−神社と聖地」第三巻、白水社、一九八四年)。


[9626] 鴨集団と四世紀末の争乱  神奈備 2008/11/28(Fri) 21:31 [Reply]
四、鴨集団の服属神話
 鴨集団のヤマト王権への服属を語る神話が、『紀』神代下(第九段の一書の第二)に記され
ている。

 是に、大己貴神報へて曰さく、「天神の勅教、如此慇懃なり。敢へて命に従はざらむや。吾が治す顕露の事は、皇孫當に治めたまふべし。吾は退りて幽事を治めむ」とまうす。乃ち岐神を 二の神に薦めて曰さく、「是、當に我に代りて従へ奉るべし。吾、将に此より避去りなむ」とまうして、即ち躬に瑞の八坂瓊を被ひて、長に隠れましき。故、経津主神、岐神を以て郷導として、周流きつつ削平ぐ。逆命者有るをば、即ち加斬戮す歸順ふ者をば、仇りて加褒美む。是の時に、歸順ふ首渠は、大物主神及び事代主神なり。乃ち八十萬の神を天高市に合めて、帥ゐて天に昇りて、其の誠款の至を陳す。
 時に高皇産霊尊、大物主紳に勅すらく、「汝若し国神を以て妻とせば、吾猶汝を疏き心有りと謂はむ。故、今吾が女三穂津姫を以て、汝に配せて妻とせむ。八十萬神を領ゐて、永に皇孫の為に護り奉れ」とのたまひて、乃ち還り降らしむ。

 この神話では、大物主神が帰順した首領の中心の神として記されているが、これは後代の改変によるものであろう。神話のなかで、三輪山から遠く離れた高市御県坐鴨事代主神社(橿原市雲梯町の河俣神社に比定される)が鎮座する高市郡(「天高市」)に八十万の神が集められたと語られていることからすると、この神話の本来の形は事代主神のヤマト王権への服属を語るものであつたと考えられる。

 とすると、その時期は四世紀末前後であつたとみるのが、考えられる限りにおいて最も自然である。なぜなら、畝傍山近傍の地を制圧し、そこに初めて宮居(軽島豊明宮)を営んだのは四世紀末の争乱に勝利した、『記』『紀』にホムダ(タ)ワケノミコトの名で語られている応神であつたからである。

 一方、その応神と四世紀末の争乱の史実を背景として成立した「原神武伝説」により近い『紀』の神武の伝承は、別稿で考察したように、事代主神服属神話と不可分の関係にある。神武が事代主神の娘を后にしたと伝え、また神武や事代主神の血を引く綴靖・安密丁敢徳の各天皇の陵墓が高市御県坐鴨事代主神社の鎮座する畝傍山近傍の地に営まれたと伝えているのも、事代主神を奉斎する鴨氏との関わりから生じてきたものである。してみると、その時期は「原神武伝説」が形成された四世紀末〜五世紀前半をおいて他には考えにくい。

 このようにみてくると、四世紀末の争乱によってその権力の座を追われた葛城南部の鴨集団らの神々も、高市郡の鴨集団の神とともに王権に服属した「八十万の神」のなかに含まれていたとみるのが妥当である。そして事代主神がその後もなお王権の直轄領たる高市御県のなかに鎮座していることからすると、四世紀末の争乱ののち王権に服属した高市郡の鴨集団はその後、神話が語っているように「永に皇孫の窺に護る」神、すなわち王権を守護する神に変貌していったことが考えられる。事代主神が『出雲国造紳賀詞』(『延喜式』巻八)のなかで、王権に服属して「皇御孫の命の近き守り神」になったといい、また壬申の乱のときに「皇御孫命」(大海人皇子)を守護したというのも、おそらく四世紀末ないし五世紀初頭以来のこうした伝統によるものであろう。


むすび
 以上論じてきたことをまとめてみると、次のようになる。
(一)古墳の在り方から考えると、四世紀末前後の時期に葛城南部の地域において、鴨・寺口和田らの集団から葛城集団への首長交替があつたとみられる。

(二)一方、高市御県に鎮座する事代主神の服属神話や神武の宮居伝承・后妃伝承などを手がかりに、その時期を探ってみると、畝傍山近辺を制圧してこの地に宮を構えた応神の時代(四世紀末〜五世紀初頭前後)であつた公算が最も大きい。

 このようにして、(一)と(二)とは、鴨集団らの王権への服属が四世紀末〜五世紀初頭前後の時期であつたという点において、ともに一致する。これは決して偶然ではなく、葛城南部の伝統的勢力を代表する鴨集団は、四世紀末の争乱の結果、ヤマト政権の最高首長の権力を背
景として当地域に入植してきた葛城集団に、そのリーダーの座を明け渡したことが推察されるのである。(本文終わり)

[9625] Re[9622][9621][9620]: 遠江一之宮  神奈備 2008/11/28(Fri) 21:30 [Reply]
>> 国府に近い神社が一之宮とされた場合もあるようです。例えば尾張国。
> 熱田神宮が一宮ではなく、三宮なのは、そういう理由かな?
> 個人的には、一宮は国内で最も社格の高い神社であって、国府から遠くてもいいと思いますけどね。国府の近くに総社を建てて(国府から最も近い神社を総社とした国もあるようです)、その総社に一宮のご祭神のご分霊を祀れば済む事かと。

 そうしますと、尾張国の場合、一宮は式内小社である真清田神社であって、名神大社である熱田神社でないことをどのようにお考えでしょうか。

[9624] Re[9620]: 遠江一之宮  たん 2008/11/28(Fri) 19:04 [Reply]
こんばんわ。
pontaさんの埋もれた社を気遣う姿勢に共感しつつ楽しく拝見しております。

さて、本年梅雨時に遠江を散策した折りに「粟ヶ岳ー事任本宮(山)−春岡(山名)」の位置関係と地勢が気になり、暇を見てですが色々文献にあたっているところです。遠江はちと遠くて中々文献等に出会うことは少なくお近くの方の情報を戴けますと幸甚です。

RE:[9620] 遠江一之宮、を拝見し色々疑問を持ったのでお手すきの時にでもご教示ください。

>『和漢年代記』 :この資料の年代はいつ頃の版?でしょうか。
>--勅使が差遺せられ、社殿を造営し、正一位の神階を授けられた :と社記にありますが続日本後記に承和7(840)従五位下との初見、この辺りはどの様に判断されますか。
>「事任神社→八幡宮→日坂」という道順だったことが分かります。これは、「事任神社(諏訪神社)→八幡宮(誉田八幡宮=事任八幡宮)→日坂」 
:この鎌倉時代の紀行文とは作者は誰でしょうか、。貞応2の源光行の海道記なら「山口(今宿)を過ぎ古くからの道を通り野原を過ぎ点々とある里村を過ぎ事のままという社に参拝す。(要約」とありますが。
>「事任神社(諏訪神社)→八幡宮(誉田八幡宮=事任八幡宮)→日坂」 :この「事任神社(諏訪神社)→八幡--」は現在の伊達方(旧山口)の諏訪神社と思われますが上記光行の海道記の情景とは会わないですね。

私の現時点での解釈は、己等乃麻知=事任八幡宮ですが、
:枕草子直後の相模の歌集「東路に在ることのまま--、」。鴨長明「さやの中山--、」。歌枕名寄「さやの中山--、」。
源親行東関紀行「事の儘--ゆうだすき--ことのまま」(1242)。くだって鴨真淵(地元)岡部日記「八幡=己等乃麻知」など。
:事任八幡宮の社伝によると源頼義が京より石清水八幡を勧請とある。が八幡と残る資料の初見は宝治2(1248)の地頭忍十郎の遠州百社参り。
=「ことのまま」は東国から京への街道筋でさや(佐屋)とセットで認識されている。女性が詠うことも多く祭神が女神であることも納得できる。また粟ヶ岳(山だて)ー本宮山(古宮)−忌部−己等乃麻知媛の関連も見逃せない。
(※慶長に光広卿を諏訪社へ案内したのは戦国での亡失かさめやらぬ誘導でしょう。)

小国と事任は、小国が常に進階が上位です。小国にコトマチ神が奉られた可能性があるのは、平安末期から戦国末期。(延喜神名帳から字類抄(-1177)までは周知郡3座=小国1座。)
家康×武田で、元亀から目代武藤刑部「事任奉斎」が武田側につき宮代・真田山に築砦。約十年後小国の神主鈴木重勝は家康につき小国社殿に自ら火を放つ。天正1氏定は家康に降り亀の甲に己等乃麻知を奉じた、これが現在の掛川駅近くの事任社。天正9氏定は勝頼が落とした高天神へ戻り、討死。。
徳川になり事任八幡も奉幣を受け将軍代替わりには祠官が江戸まで出向き「太玉串」を奉じている。だが当然ながら小国社への待遇は格別だった。

と現在での解釈の要旨ですが。間違い、他の資料・伝聞などありましたらぜひご教授ください。

[9623] Re[9622][9621][9620]: 遠江一之宮  ぽんた [Url] 2008/11/28(Fri) 16:59 [Reply]
>同時に立てられた

「同時に建てられた」でした。

[9622] Re[9621][9620]: 遠江一之宮  ぽんた [Url] 2008/11/28(Fri) 16:45 [Reply]
> 国府に近い神社が一之宮とされた場合もあるようです。例えば尾張国。
熱田神宮が一宮ではなく、三宮なのは、そういう理由かな?
個人的には、一宮は国内で最も社格の高い神社であって、国府から遠くてもいいと思いますけどね。国府の近くに総社を建てて(国府から最も近い神社を総社とした国もあるようです)、その総社に一宮のご祭神のご分霊を祀れば済む事かと。

> 所で、高松神社も一之宮とされた時代もあったようですね。
高松神社は遠州熊野三山の新宮ですね。同時に立てられた小笠神社が那智、三熊野神社が本宮。「遠江国一宮」は「笠原荘一宮」の間違いでしょうね。それか自称。遠江国一宮は、式内・小國神社(周智郡)、あるいは、式内・己等乃麻知神社(佐野郡)かと。
式内・小國神社(周智郡)も式内・己等乃麻知神社(佐野郡)も国府からけっこう遠いです。高松神社はさらに遠い。

[9621] Re[9620]: 遠江一之宮  神奈備 2008/11/28(Fri) 14:44 [Reply]
国府に近い神社が一之宮とされた場合もあるようです。例えば尾張国。

所で、高松神社も一之宮とされた時代もあったようですね。
遠江国 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によります。

[9620] 遠江一之宮  ぽんた [Url] 2008/11/27(Thu) 18:27 [Reply]
 遠江国には、式内・角避比古神社(浜名郡)、式内・敬満神社(榛原郡)という名神大社があるにもかかわらず、一宮は、式内・小國神社(周智郡)、あるいは、式内・己等乃麻知神社(佐野郡)だそうです。
式内・小國神社(周智郡)の論社は、
・事任神社(現・小國神社):周智郡
・小國神社(現・秋葉山本宮秋葉神社):周智郡
式内・己等乃麻知神社(佐野郡)の論社は、
・旧東海道沿いの事任神社(現・諏訪神社):佐野郡
・旧東海道沿いの誉田八幡宮(現・事任八幡宮):佐野郡
・掛川城下の事任神社:佐野郡
・事任神社(現・小國神社):周智郡
です。

 『和漢年代記』に「欽明天皇16年乙亥(555年)2月、大己貴命、遠州周智郡に現れたまふ。事任神社と祟む」とあります。周智郡にある「事任神社」は現在の「小國神社」だけです。これは、「人皇第29代欽明天皇の御代16年(555)2月18日に本宮峯(本宮山)に御神霊が鎮斎せられた。後、山麓約6kmの現在地に都より勅使が差遺せられ、社殿を造営し、正一位の神階を授けられた」とする同社の社記の記述とも一致します。大己貴命の命により、山麓に遷座した時に「小國神社」と社名を変えたのでしょう。『枕草子』に出てくる事任神社は、現・小國神社のことでしょうね。

 鎌倉時代の紀行文からは、当時の東海道(鎌倉街道)が「事任神社→八幡宮→日坂」という道順だったことが分かります。これは、「事任神社(諏訪神社)→八幡宮(誉田八幡宮=事任八幡宮)→日坂」であり、鎌倉時代には、現・諏訪神社が事任神社として認識されていたようです。『延喜式』にも「佐野郡 己等乃麻知神社」として登場していますから、式内・己等乃麻知神社は、佐野郡の現・諏訪神社であり、周智郡の現・小國神社ではないでしょう。

 誉田八幡宮を事任神社とし、さらに「遠江一之宮」の称号を与えたのは、「神祇管領長」と自称し、神位・神号の授与権や祠官の補任権を独占した吉田家です。吉田家の仕事は、管轄下の多くの神社の由緒書を、本地垂迹時代に作られたものから吉田神道に基づくものに書き換えることだったようです。(その書き換えの謝礼の額に応じて、由緒書に登場する有名人が違うとか。)現在、一部の神社に書き換え前の由緒書と吉田家が書き換えた後の由緒書が残されていますが、両者を比較すると、「似て非なるもの」です。

 現在、遠江国で、全国レベルで最も有名な秋葉山本宮秋葉神社については「当寺の鎮守の神は、延喜式内小國神社と号し、神体は大己貴命、これを秋葉権現と称す。一山護神に三尺坊を同社と祀る」とあります。つまり、「行基が養老2年(718年)に大登山霊雲院を建てた。その鎮守社が式内社の小國神社で、ご祭神は大己貴命。山頂の寺社であり、水に不自由していたが、永仁2年(1294年)三尺坊が降りて、井戸を掘った。この井戸にガマガエルがやってきて、その背中に「秋葉」と書かれていたので、小國神社に三尺坊を祀り秋葉神社、大登山霊雲院を秋葉山秋葉寺と改称した」ということです。

*神社の由緒書には、本来の正しい由緒→神仏習合による書き換え→吉田家による書き換えという歴史があり、本来の由緒書を調べることが重要です。
*「式内社(式内・〜神社)」とは、延長5年(927年)に成立した『延喜式』に掲載されている神社であり、式内・小國神社(周智郡)にしても式内・己等乃麻知神社(佐野郡)にしても、当時の名称と鎮座地の住所で考える必要があります。


小國神社
http://www.okunijinja.jp/
秋葉山本宮秋葉神社
http://www.akihasanhongu.jp/
事任八幡宮
http://www.geocities.jp/kotonomachihime/index.htm
事任神社
http://www.kakegawa-net.jp/cntr/cntr120/user3/index.htm

[9619] Re[9618][9617][9616]: 鴨集団と四世紀末の争乱  佐々木 2008/11/27(Thu) 11:06 [Reply]
>  鴨族はどこから来たのか? 
>  この話題が興味のある所ですが、皆さんに仮説を出して頂くしかありません。

 今も勉強中でありますが、上賀茂神社の社家には西村氏があります。
 西村氏は山城では平安京の碁盤の目の周辺に多く分布、とくに南部に多い有力氏族です。平安期には斎藤実盛、戦国時代には斎藤道三を輩出しています。現在も有力氏族です。
 彼らの一部の聞き取りでは、隼人を出自とされています。また甲作をしていたとも聞いております。
 甲作に重点をおくと、その隼人は3、4世紀?ごろいわゆる「近習隼人」として移住してきた人たちではないかと思います。
 該当地区周辺の古墳、集落遺跡等々の出土品等々を、さらに詳細に検討する必要がありますが。京田辺周辺の古墳・横穴群など。
 次に鴨族が隼人とするならば、候補としては楠の大木で有名な鹿児島の蒲生(かもう)があります。これが候補でないかとにらんでいます。 

[9618] Re[9617][9616]: 鴨集団と四世紀末の争乱  神奈備 2008/11/27(Thu) 08:34 [Reply]
> 剣根って、どんな位置にあるのだろうか?

 鴨族はどこから来たのか? 
 この話題が興味のある所ですが、皆さんに仮説を出して頂くしかありません。

二、四世紀末の争乱
 では、葛城南部の葛城氏は五世紀代になってて、なぜそのような巨大勢力を持つことができたのであろうか。それは、おそらく四世紀末の争乱が契機になつていると考えられる。
          
 私は『ヤマト王権の謎をとく』で、四世紀末に、争乱が勃発したことを提起した。それによると、日向の諸族の支援を得て九州から摂津に進軍してきた応神の名で語られている政治集団(以下、単に応神と記す)は、大和北部から山城南部・近江南部・摂津・河内北部を勢力圏とするところの、四世紀後半にヤマト政権(畿内政権)の最高首長権を保持していた政治集団(その奥津城は佐紀盾列古墳群・西群)の正統な後継者である忍熊王の名で語られている人物の軍勢と戦い、これを打倒したのち、大和の畝傍山近傍の軽島の明宮で即位し、「河内大王家」の基礎を築いたと考えられる。私見によれば、応神はもともと山城南部の綴喜(京都府京田辺市附近)を本拠とする政治集団の出身で、のちに、古市古墳群の所在する河内誉田地方の一族のもとへ入り婿のかたちで入っていった人物と考えられるから、この争乱の本質は、佐紀盾列古墳群(西群)を築いた政治集団の内部分裂であつたと言ってよい。

 このように、四世紀末に勃発した争乱はヤマト政権の内部抗争に端を発しているから、私はこの争乱を「四世紀末の内乱」と呼んでいる。
 それはともかく、葛城氏は四世紀末の争乱で勝利した応神方に荷担していたので、五世紀代になると台頭し、大王家の外戚として繁栄することができたと考えられるのである。
 では、葛城氏が台頭する五世紀以前の葛城南部で勢力を有していたのは一体、どのような政治集団であつたのか。それを直接に示している文献史料は、ほとんどない。そこで、ここでは視点をかえて、古墳の在り方からこの間題に迫ってみたい。


三、鴨都波一号墳と鴨都波遺跡
 葛城南部における五世紀以前の築造と推測される主な古墳は、およそ以下のようである。

@寺口和田13号墳(葛城市)http://www.isekiwalker.com/m/iseki/?iseki_id=189356&PHPSESSID=1d784faf8c101d318f07926b550881d3
  円墳(径約五〇メートル)。主体部は粘土槨。勾玉・管玉・ガラス玉・刀子形石製品・棺金具・刀・鏃・斧・巴形銅器などが出土。埴輪・葺石を有する。四世紀後半の築造と推定される。

A西浦古墳(御所市)
  円墳(径約二四メートル)。主体部は粘土槨。細線式獣帯鏡・筒形銅器・勾玉・刀剣等が出土。四世紀後半の築造と推定される。

Bオサカケ古墳(同右)
  島本一の「琴柱形石製品の新例」(『考古学雑誌』第二八巻第六号、一九三八年)では前方後円墳かとされているが、当地域には前方後円墳が見当たらないので、数基存在する円墳の一つかとも言われている。主体部は粘土槨か。鏡・刀剣・勾玉・石製合子・車輪石の出土が伝えられる。
 
C巨勢山四一九号墳(同右)
  方墳(一辺約十一メートル)。主体部に舟形木棺を直葬し、棺内より短剣一本が出土。埴輪を有する。

D鴨都波一号墳(同右)http://homepage3.nifty.com/yamatoiseki/page021.html
  方墳(南北約二〇メートル、東西約一六メートル)。周囲に幅三〜五メートルの隍(からぼり)が巡る。主体部は粘土榔。出土遺物は多量の布留式土器のほか、以下のものが出土し、四世紀中葉の築造と推定される。

 《棺内》
 棺内鏡(三角縁神獣鏡)1・漆塗杖状木製品1・緑色凝灰岩製紡錘車形石製品1・玉類(硬玉製勾玉5・碧玉製管玉8・ガラス小玉44)・鉄剣1

 《棺外》
 棺外東 鉄刀2以上・矢箭(鉄鏃)10・漆塗靫1・漆膜(盾?)1・碧玉製大形紡錘車形石製品1

 棺外西
 棺外鏡(三角縁神獣鏡)3・方形板革綴短甲1・漆塗靫1・矢箭(鉄鏃)25・槍2・

 南小口 
 板状鉄斧1・有袋鉄斧2・鉄剣4以上・鉇5程度・不明鉄製品1

E鴨都波二号墳(同右)
  方墳(一辺約八・五メートル)。多量の布留式土器が出土。

F鴨都波三号墳(同右)
  方墳(一辺約一〇数メートル)。緑色凝灰岩製の管玉や布留式土器が出土。

G山本山古墳(同右)
  前期の前方後円墳の可能性があるとも言われているが、詳細は不明。四世紀代の築造と推定される。

 以上のように、葛城南部の地域では前期の大型古墳は見当たらず、五世紀初頭に出現する室宮山古墳との格差は決定的である。しかし、出土遺物に目を転じてみると、三角縁神獣鏡をはじめとする豪華な副葬品を有していたD鴨都波一号墳の存在が注目される。この古墳は済生会御所病院の増築工事に伴って、平成十二(二〇〇〇)年一月から九月にかけて御所市教育委員会によって調査されたものだが、その副葬品は四世紀代の葛城南部において群を抜いている。したがってこの古墳の被葬者は四世紀代の葛城南部の地域における、最高級の有力首長の一人であつたと考えられる。では、それはどのような政治集団の首長であつたのか。

 この疑問を解く手がかりは、その所在地にある。この古墳は、実は弥生時代の拠点的大集落として知られる鴨都波遺跡(南北約五〇〇メートル、東西約四五〇メートル)の西北端に位置しているのである(図5を参照)。EFやGも同様で、おそらくAもこの遺跡と関係しているものと思われる。では、鴨都波遺跡と深い関わりを有するこれらの古墳の被葬者たちは、どのような集団に属していたのか。それはこの遺跡上に鴨都波八重事代主命神社が鎮座していることから知られるように、鴨集団であつたと考えられる。

 以上の古墳とともに見逃せないのは、径約五〇メートルの規模を持つ@寺口和田13号墳である。この古墳の被葬者もまた鴨集団の首長とともに四世紀代の葛城南部における首長層を形成していた人物であつたと考えられるが、ここで注目されるのは、この地域の古墳が五世紀代になると急速にその規模を縮小していることである。こうした古墳の在り方は鴨集団のそれと共通し、五世紀代には巨大な葛城集団に従属する一集団となつていたことが推測される。
 これを要するに、四世紀末前後の時期に葛城南部の地域では、鴨・寺口和田らの集団から葛城集団への首長交替があつたと推測されるのである。

[9617] Re[9616]: 鴨集団と四世紀末の争乱  ペギラ 2008/11/26(Wed) 22:13 [Reply]
> 鴨集団と四世紀末の争乱(豊中歴史同好会 機関誌つどいから) 塚口義信氏の講演を会員の方がまとめられたものに若干手を加えたもの。
>
> これを数回にわけて報告します。
>

うわ〜(^_^)
うれしいです。
可能ならば、豊中へ行きたかったという思いです。

感想は、報告終了後、で。

剣根って、どんな位置にあるのだろうか?
今後の展開に期待。

[9616] 鴨集団と四世紀末の争乱  神奈備 2008/11/26(Wed) 09:17 [Reply]
鴨集団と四世紀末の争乱(豊中歴史同好会 機関誌つどいから) 塚口義信氏の講演を会員の方がまとめられたものに若干手を加えたもの。

これを数回にわけて報告します。

はじめに
 御所市を中心とした葛城南部には、どのような政治集団が盤据していたのであろうか。
『古事記』『日本書紀』(以下、『記』『紀』と略す)をはじめとする文献史料によると、五世紀代には葛城集団が盤据し、巨大な勢力をふるつていたと考えられる。
 ところが一方、葛城南部の神社を調べてみると、鴨氏の神社が三社(鴨都波八重事代主命神社・御所市御所宮前町、鴨山口神社・同櫛羅、高鴨阿治須岐託彦根命神社・同鴨神)も鎮座し、かってのある時期には鴨集団も有力な政治集団として葛城南部で勢力をふるっていたと考えられる。
 では、これら二つの集団は葛城南部において、どのような関係にあつたのか。それを探るのが、今回の講演の主たる目的である。もとより一つの推論にすぎないが、文献史学と考古学の
両面からその実相に近づいてみたいと思う。


一、葛城集団の台頭
 『記』『紀』によると、葛城氏(「氏」の成立は五世紀後半以降と考えられているので、正確には「葛城氏およびその前身の一族」とでも言うべきであろうが、ここでは仮に、このように言っておく)の大族長であつた葛城襲津彦は、四世紀後半に日本の対朝鮮外交で活躍した
将軍の一人であり、また、その娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后(大后)となつて、のちの履中・
反正・允恭の三天皇を生んだと言う。さらに、履中天皇は襲津彦の孫にあたる黒媛を娶って市辺押羽皇子をもうけるが、その子の意豆・袁豆二王は清寧天皇亡きあと相次いで即位し、顕宗(袁祁王)・仁賢(意祁王)の両天皇になつたと伝えられる。このように葛城氏は、対朝鮮外交で活躍する一方、五世紀代の大王家の外戚として、大いにその権勢をふるっていたのである。
 ただし、ひとくちに葛城氏と言っても、実はそこにはいくつかの系統の葛城氏が存在してい
た。少なくとも『記』『紀』による限り、次のふたつの系統の葛城氏が存在していたと考えら
れる。ひとつは、
「襲津彦−[]−玉田宿禰(襲津彦の子とする所伝もある)−円大臣」
の系統であり、他のひとつは、
「襲津彦−葦田宿禰−蟻臣−荑媛」
の系統である)。
 葛城南部と深い関わりを持っていたのは前者の系統の葛城氏であり、葛城地方最大の前方後円墳として著名な
@室宮山古墳(室大墓古墳・墳丘長約二四六メートル・五世紀初頭)や
A掖上鑵子塚古墳(墳丘長約一五〇メートル・前方後円墳・五世紀中葉)は、
この系統の葛城氏の族長墓であつたと考えられる。
 おそらく@は葛城襲津彦、Aは玉田宿斑の奥津城であろう。

室宮山古墳 http://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/d08338fc96476736df9bf535a2455a25
掖上鑵子塚古墳 http://74589594.at.webry.info/200811/article_9.html

[9615] 磁北  神奈備 2008/11/24(Mon) 10:19 [Reply]
 大阪歴史博物館の学芸員に積山洋さんがいます。古墳時代の16棟の倉庫跡などを掘った方です。彼れに発掘の際の図面の方位について聞きますと、大阪市では基本的に磁北を以て北としているとのことでした。
 

[9614] Re[9613][9612][9610][9609][9605]: さすが神奈備ご一族(*^_^*)  サン・グリーン 2008/11/23(Sun) 06:54 [Reply]
> おはようございます。
>
> 佐々木様、神奈備様、ご教授ありがとうございました。
すみません、とみたさんにもお礼を言うのを忘れていました。(;一_一)
ご教授頂いた永留久恵さんの本「古代日本と対馬」が届くのを楽しみにしています。ありがとうございました。

[9613] Re[9612][9610][9609][9605]: さすが神奈備ご一族(*^_^*)  サン・グリーン 2008/11/22(Sat) 06:48 [Reply]
おはようございます。

>  弁才天と市杵島姫とは神仏習合時代ですから、もっと早い時期に習合したのでは。
>  着眼は流石。しかし神々を記紀に登場する神に結びつける必要はないと思います。
>
> > それなら、津嶋部神社と対馬の関係は濃厚になるのでは?
>
>  これは本末転倒のような感じもしないでは。両者は名前が一緒だけの関係でよろしいのでは。

そうですね、結論をあせって、ついつい、『古事記』信奉者になっていたようです。
反省、反省(;一_一)
長年の疑問、「比売大神」探究と一緒に謎とロマンを求めてさすらうことにしますね。
佐々木様、神奈備様、ご教授ありがとうございました。

[9612] Re[9610][9609][9605]: さすが神奈備ご一族(*^_^*)  神奈備 2008/11/21(Fri) 20:30 [Reply]
> 私の考えでは弁財天と市杵島姫が習合されるのは七福神信仰が盛んになった江戸時代以降と思っていますので。850年に書かれた文献に出てくる女神というのは、古事記国生みの箇所に書かれた対馬の別名「天の狭手依比売」のことではないかと思います。

 弁才天と市杵島姫とは神仏習合時代ですから、もっと早い時期に習合したのでは。
 着眼は流石。しかし神々を記紀に登場する神に結びつける必要はないと思います。

> それなら、津嶋部神社と対馬の関係は濃厚になるのでは?

 これは本末転倒のような感じもしないでは。両者は名前が一緒だけの関係でよろしいのでは。

[9611] Re[9610][9609][9605]: さすが神奈備ご一族(*^_^*)  佐々木 2008/11/21(Fri) 11:44 [Reply]
>寝屋川周辺は一昔前は雨が降るとすぐに水害になっていたように記憶しています。古代の河内湖の大きさが想像できる気がしますね。

 その寝屋川は第2寝屋川と言いまして、天満橋あたりで大川に合流する川で、東大阪市・大東市・鶴見区のあたりですね。河内湖のど真ん中です。

 対馬江については、寺前治一(寝屋川史話100題)は、日本書紀にある継体のころ近江臣毛野が亡くなった場所「対馬」は毛野の妻の歌「ひらかたゆ・・・」から寝屋川の対馬であろうとしています。 

[9610] Re[9609][9605]: さすが神奈備ご一族(*^_^*)  サン・グリーン 2008/11/21(Fri) 10:05 [Reply]
>  サングリーンさん
>  河内も津島も地形の変化、著しく激しく。
>  寝屋川市駅前の早子商店街のはずれに100円のレンタサイクルがあるので、あれを借りてぼちぼち回っています。

寝屋川周辺は一昔前は雨が降るとすぐに水害になっていたように記憶しています。古代の河内湖の大きさが想像できる気がしますね。
>  
>  確認できないご様子と見まして、一部転載します。
対馬の島大国魂神社と愛知の津島神社の関係がよりはっきりしました。
ありがとうございます。

神奈備さんへ
延喜の時代より数拾年先行する文徳天皇の代の出来事を記した『文徳実録』巻二嘉祥三年(八五〇)十二月癸酉の記事に、「進河内國和尓神階加從五位上堤。津嶋女神從五位下。」があり、津嶋女神との表示になっています。

 この「女」については「部」の転訛という説もあるようですが、『式内社調査報告』の中で田村利久さんは、これを批判し、元、神宮寺であった金龍寺の懸佛は津嶋部神社の御霊代とされており、弁財天と思われる女神像だそうで、やはり、「女」が正しいのではとしています。

 地名の津嶋も、古川の中州のような場所が津島江と呼ばれていたが、神社と同じ名であることを憚って対馬江と変えたとされています。壱岐対馬とは関係はない津嶋部神社のようです。
したがって祭神は津嶋女神となっています。先の田村さんは厳島から津嶋として祭神を市杵島姫と見ています。

私の考えでは弁財天と市杵島姫が習合されるのは七福神信仰が盛んになった江戸時代以降と思っていますので。850年に書かれた文献に出てくる女神というのは、古事記国生みの箇所に書かれた対馬の別名「天の狭手依比売」のことではないかと思います。それなら、津嶋部神社と対馬の関係は濃厚になるのでは?

古代の河内と海洋民族の繋がりもあなどれないのでは?

永留久恵さんの本もネットで注文しました。
それから玄松子さんのサイト(島大国魂神社と禁足地の浜)参考になりました。
現地に行った気分です(*^_^*) ありがとうございます。




[9609] Re[9605]: さすが神奈備ご一族(*^_^*)  佐々木 2008/11/20(Thu) 10:41 [Reply]
 サングリーンさん
 河内も津島も地形の変化、著しく激しく。
 寝屋川市駅前の早子商店街のはずれに100円のレンタサイクルがあるので、あれを借りてぼちぼち回っています。
 
 確認できないご様子と見まして、一部転載します。
 津島神社のある「津積」地名を、全国に確認すると、行橋市、柏原市(大県郡津積として)ありました。
 行橋では、神奈備さん「九州・豊の国の五十猛命」のサイトで詳述されているように、津積周辺は素盞嗚尊・五十猛命のゆかりの土地であります。
 柏原市の方は私は知りません。

以下抜粋です。
 対馬教育会編「対馬島誌」
村社 宇奴刀神社 所在 八幡宮神社境内
一 祭神 須佐男命
一 由緒 神功皇后新羅征伐畢らせ給いて凱還の時、上県郡豊村に着せ給ひて、島大国神社(祭神須佐男命)を拝し、夫れより同郡佐賀村に着御す。此地に島大国魂神社の神霊を分って皇后親ら祭り給ふ。是れ「廷喜式神名帳」に載る上県郡宇奴刀神社なるを、延徳三年六月十四日佐賀村より下県厳原清水山鎮座八幡宮神社境内に遷奉る。此神を祇園と称することは 清和天皇貞観十一年山城国愛宕郡八坂郷の須佐男神を祭らせ玉ひて祇園(今の官幣大社八坂神社)と称するより此称号によるならん。須佐男神を此州に祭ること上県郡豊村に始まる。
豊村鎮座あるの地は須佐男神其子五十猛神を率いて韓地に渡らせ給ふ時、行宮の古蹟なり。此神は八十木種を植施し給ふ干今此神の恩頼を蒙らざるものなし最も崇敬すべきの神なり。

附言 此神を尾張国津島に分霊のことに就て「津島紀事(平山東山:文化6年)」」には、欽明帝元年庚申対馬国進雄(すさのを)の神霊分って尾張国海部郡津島に祭るは則ち此神なりとあり。又「尾張名所図絵」には正一位津島牛頭天王社、孝霊天皇四十五年素尊の和魂、韓郷の島より帰朝津島に留り此処に年を経給ひ欽明天皇巳未津島に光臨し玉ひ云々とあり、巳末は宜化天皇崩御 欽明天皇即位の年なるが其年より翌年に亘りて分霊をなし、神社を建てしなるべし。但し「名所図絵」に拠るときは須佐男命を始めて対馬に祭りしは、孝霊天皇四十五年とあり、是れ豊村の島大国魂神社を祭りし時か。

[9607] Re[9605]: さすが神奈備ご一族(*^_^*)  神奈備 2008/11/20(Thu) 09:14 [Reply]
> 守口市金田にあります式内津島部神社のこと、初耳でした。
> こんな近くにスサノオを祭る式内社があったとは、感激です。

 延喜の時代より数拾年先行する文徳天皇の代の出来事を記した『文徳実録』巻二嘉祥三年(八五〇)十二月癸酉の記事に、「進河内國和尓神階加從五位上堤。津嶋女神從五位下。」があり、津嶋女神との表示になっています。

 この「女」については「部」の転訛という説もあるようですが、『式内社調査報告』の中で田村利久さんは、これを批判し、元、神宮寺であった金龍寺の懸佛は津嶋部神社の御霊代とされており、弁財天と思われる女神像だそうで、やはり、「女」が正しいのではとしています。

 地名の津嶋も、古川の中州のような場所が津島江と呼ばれていたが、神社と同じ名であることを憚って対馬江と変えたとされています。壱岐対馬とは関係はない津嶋部神社のようです。
したがって祭神は津嶋女神となっています。先の田村さんは厳島から津嶋として祭神を市杵島姫と見ています。

 島の中の神社、妥当だと思います。

 また、淀川近辺(だけではありませんが)織田信長の目を恐れ、地域の神社は織田信長が信仰する祭神として牛頭天王と直したことが多く伝わっています。そういう意味では尾張の津島神社とは無関係ではありませんね。


> 月末に貴志川駅の「たま駅長&卿」に会いに行きまぁ〜〜す。

 貴志川町の大国主神社、貴志川八幡宮に是非お立ち寄り下さい。特に貴志川八幡宮では、「いわくらみつけた」になると思います。

[9606] Re[9604]9598: 熱海  神奈備 2008/11/20(Thu) 09:14 [Reply]
> ズ : 受 数 事
> ヅ : 豆 逗 図 圖 途 徒 頭 杜

> この方が、私の記憶にはあっている感じです。(^_^)

どんたくさん、ご指摘ありがとうございます。

角川新版 古語辞典(1989)から。
図はづとなっています。

岩波 国語辞典 第三版 1985 
図解 ずかい

古典は古語で見る、納得です。

[9605] さすが神奈備ご一族(*^_^*)  サン・グリーン 2008/11/20(Thu) 08:09 [Reply]
とみたさん、神奈備さん、佐々木さん、ありがとうございます。

対馬の島大国魂神社が元社と推定されているそうですね。
それから、阿麻氐留神社の名前は君が代のルーツを調べている時に名前を知ったのですが、対馬にあったことは忘れていました。壱岐、対馬に三貴子の幻影がちらほら! さっそく永富久恵さんの本を探して読みたくなりました。

それから、佐々木さん。はじめまして。
守口市金田にあります式内津島部神社のこと、初耳でした。
こんな近くにスサノオを祭る式内社があったとは、感激です。
日本国内では、アマテラスが主祭神の神社よりスサノオが主祭神の神社の方がずっと多いとのことなので、畿内にスサノオを主祭神とする式内社があって当たり前かもしれませんね。大阪府守口市なら近いので行ってみようと思いますが浪速は古代と地形が大変身しているので、古地図を参照する方がいいかも?(堀田宮司のファイル残念ながら読めませんでした。)

いつも、いつも、神奈備一族の方々の博識には脱帽しています、これからもご教授よろしくお願いいたします。

神奈備さま。
今年の忘年会は天井が回らないように自嘲しますね。(;一_一)
月末に貴志川駅の「たま駅長&卿」に会いに行きまぁ〜〜す。


[9604] Re9598: 熱海  どんたく 2008/11/19(Wed) 19:40 [Reply]
神奈備さん、こんにちは。どんたく です。

No.9601 by 神奈備さん:
> で、ず を見ますと、 ず 図 杜 徒 途  づ 豆 逗 厨 頭 となっており、

私は、学生時代はずっと歴史的仮名遣いを使っていました。
(就職してから、苦労して新仮名遣いにスイッチしました。)
ただ、それから半世紀経ってしまって、だいぶん記憶が薄れてきてしまっています。

でも、上記の神奈備さんの書き込みは、私の記憶と食い違っているものですから、ちょっと調べてみました。

「歴史的仮名遣ひ教室」−「字音仮名遣ひ表」
http://www32.ocn.ne.jp/~gaido/kana/srdu83.htm#ズ)
には、次のようになっています。

ズ : 受 数 事
ヅ : 豆 逗 図 圖 途 徒 頭 杜

この方が、私の記憶にはあっている感じです。(^_^)
どうでもよいような細かいことを申し上げて、すみません。m(_ _)m

[9603] Re[9598][9594][9590][9589][9588]: 熱海  佐々木 2008/11/19(Wed) 16:05 [Reply]
サングリーンさん はじめまして

> 対馬=津島(つ=港、上陸に好都合な入り江)納得です。やはり、現地に足を運ぶことは大切ですね。愛知の津島神社もそのような場所でした。津市もそうですね。海洋民族の目線で古代を考えると楽しいです。
 津島については、「津島市史」と「津島神社と太々講社」によりますと
@『和名類聚抄』の郡郷名中の尾張国海部(あまべ)郡には津島の郷名はなく、該当場所には「津積(つつみ)」と「志摩(しま)」がある。
A『尾張地名考』は「此の津積・志摩の二郷、雑混て後世、津島と呼有もの歟(か)」と推測し、「志摩は天王島、津積は川東に方(あた)る」
B古文書の中で「津島」の地名の見られる最古のものは、名古屋市中区門前寺の七ツ寺(発祥地は尾張国中島郡萱津里、現在の稲沢市七ツ寺)に所蔵されている大般若経巻二百三十一の奥に印記されている承安五年(一一七五)正月十八日の勧請文である。
 津島牛頭天王・津島天王社・津島社の名は『延喜式』神名帳には見えていないが、十二世紀後半には、「七ツ寺鎮守十五所権現大明神」の一つとして伊勢内外・梵尊・土所・牟山・白山妙理・熊野三所・山王三聖・多度・南宮・千代とともに「津嶋」の名がみられる。
 津島名の成立は10世紀から12世紀の間といえる。

 津島神社の社伝の建速須佐之男大神は欽明天皇の元年西海対馬より来臨になり、対馬より転じて津島と称したことと食い違いますね。

 寝屋川市対馬江にあったが淀川の氾濫によって遷座した守口市金田にあります式内津島部神社の方がまだ可能性があるかと愚考する次第です。

なお津島神社については、堀田宮司が下記のホームページにまとめられていますが、これ一太郎ファイルなので読めないと不評ですが。
 [9602]の神奈備さんの書き込みのうち、津島神社の部分については重なると思いますが。
 http://www.clovernet.ne.jp/~m_hotta/siryo.html


[9602] Re[9599]: 熱海  神奈備 2008/11/19(Wed) 15:53 [Reply]
サン・グリーンさん
> 家の二階から見ると金剛山の山頂付近がうっすらと雪化粧(*^_^*)奇麗でしたよ。

 いよいよ忘年会の季節ですね。


 尾張に式内社の国玉神社があり、その論社として津島神社があげられています。玄松子さんは国玉神社の名から対馬の島大国魂神社を元社と推定されています。
 とみたさんの紹介されているように、津島神社も島大国魂神社からの勧請と見ていいように思います。
 牛頭天王を祀る京都の八坂神社や播州の広峯神社なども式内社になっていませんが、これらは生魚などを供えない仏教的な雰囲気があったからでしょう。


> 壱岐氏がツキヨミなので、スサノオの元が対馬にあったとすれば・・・三貴子のアマテラスもあの周辺が原型では?? などど、想像をたくましくしています。

 アマテラスと素盞嗚尊との誓約で生まれたとされる宗像の沖の女神も壱岐の手長の神を祀ったもものとの推測があり、永富久恵さんも支持されています。さらに式内の手長の神は三社あります。

[9601] Re[9597]: 熱海  神奈備 2008/11/19(Wed) 15:52 [Reply]
> >  ・・・しかし伊豆は「イズ」です。ついでに出雲は「イズモ」ですから、斎は「イツク」で、伊豆も出雲も神祇に関係する地名ではなさそうです。

> 「豆」は「ヅ」ですから「伊豆」は「イヅ」。「ズ」と「ヅ」は混乱の例はなくはないかもしれませんが、結構峻別されているようです。

 角川最新 漢和辞典 第二版 昭和59年では

 豆 トウ(漢) ズ(呉) | まめ
 とあります。

 しかし、よく見ると歴史的かなづかいを示さないとありました。
 で、ず を見ますと、 ず 図 杜 徒 途  づ 豆 逗 厨 頭 となっており、小生の誤読でした。慣れぬことはしないこと。

[9600] Re[9596]: 熱海  神奈備 2008/11/19(Wed) 15:51 [Reply]
> 秦氏の居た場所は、地形的には河間洲なので、おそらく後世の「河原乞食」のような身分の低い集団として扱われていたと考えられないだろうか。しかも平安京で早くからさびれた右京のはずれ。そういうことがずっと渡来人=身分が低いとして受け継がれてきたのか。

 葛野郡の氏族の内、秦のついている氏を『五畿内志』の「山城志」から。
 秦忌寸 神饒速日之命の後  秦忌寸 秦始皇帝之後   秦忌寸 秦始皇帝五世孫弓月王之後  秦冠 秦始皇帝四世孫法成王之後

 祖先を秦始皇帝に発するとして誇り高く生きた氏族だったのでしょう。

[9599] Re[9598][9594][9590][9589][9588]: 熱海  とみた 2008/11/19(Wed) 13:23 [Reply]
サン・グリーンさん お久しぶりです。

> 家の二階から見ると金剛山の山頂付近がうっすらと雪化粧(*^_^*)奇麗でしたよ。

Sun Greenさんでしょうか。太陽と緑に囲まれた神域にお住まいですね。

今春、金剛山と葛城山の間の水越峠も行きました。


>
> 壱岐・対馬についての話題がでているので質問させてください。
> すさのおが主祭神の古い神社(八坂さん以前)を探して愛知の津島神社に行きました。由緒書きに昔、対馬より勧請されたとあったように記憶しています。しかし、肝心の対馬のどの神社から遷座されたのかは今では判らないそうです。

スサノオ関連の臭いは嗅ぎ取れませんでした。

読売新聞男の賞をとられた川村湊さんの、牛頭天王と蘇民将来の著作のp191−202で愛知県の津島天王社と対馬の島国魂神社の関連が出ていることはご承知だと思います。対馬にはスサノオの神霊を尾張の対馬に分霊したという伝承があり、津島には対馬から分霊されたという伝承がるので信憑性ありとされているが、近世の相互参照だから必ずしも保証できないとされています。
島大国魂神社は対馬の上県(北部)の御嶽と最北部の大島にあります。概して北部に御子神社も分布しているようです。
> 確か海の中に鳥居が立つワタツミ神社があるそうですが、とみたさんは対馬のスサノオ関連の神社をご存じでしょうか?
対馬島の中央を横切る浅茅湾の北が上県、南が下県です。
確かにワダツミ関連の神社は対馬には多いようです。海の民でしょうね。上県で島国魂のある地の南に峯町と豊玉町があります。そこは正しく豊玉姫の謂れが多いところでしょう。

トヨタマヒメの元祖。ワダツミのルーツとされていますね。天照神社つまりアマテルのルーツは対馬の阿麻氐留神社とされるのが、千田稔先生ですが、これは今にも壊れそうな神社でした。浅茅湾の東部の小船越に位置します。

天道信仰も在地の太陽信仰と思いますが仏教の普及と関係するようです。これは下県で南部です。卒土山が信仰の山でその麓です。

面白いのは、多久頭神社がありこれが対馬の固有の天道の神とされている。そこは豆酘(ツツ)という地名です。海人、住吉神社の筒男は豆酘の男とされる学者もおられます。

卒土は蘇塗、浮屠(スチューバ)です。石を三角錐状に積み上げて鬼神(先祖霊)を祭るもので韓国百済には多い。これが対馬の各地の集落に多く残っている。

対馬壱岐については考古学的にも神社についても、永富久恵さんが第一人者のようです。著作も多いと思います。

民俗資料館もあります。峯町歴史民俗博物館は、TEL:0920−83−0301

です。

神奈備さん、フォローをよろしくお願いします。



> 壱岐氏がツキヨミなので、スサノオの元が対馬にあったとすれば・・・三貴子のアマテラスもあの周辺が原型では?? などど、想像をたくましくしています。
>
>
> > 私も先月、対馬と壱岐に行ってきました。対馬は南北80km、東西18kmの山がちの島で入り江がやたら多いので津(港)島が元の名ですね。
> >
> 対馬=津島(つ=港、上陸に好都合な入り江)納得です。やはり、現地に足を運ぶことは大切ですね。愛知の津島神社もそのような場所でした。津市もそうですね。海洋民族の目線で古代を考えると楽しいです!
> ありがとうございます。
> ナギ、ナミ、2神が国生みで生んだ島を守りたいです!
>

[9598] Re[9594][9590][9589][9588]: 熱海  サン・グリーン 2008/11/19(Wed) 11:51 [Reply]
とみたさん、神奈備さん、みなさまへ

ごぶさたしています。
今朝はめっきり冷え込みましたね。
家の二階から見ると金剛山の山頂付近がうっすらと雪化粧(*^_^*)奇麗でしたよ。

壱岐・対馬についての話題がでているので質問させてください。
すさのおが主祭神の古い神社(八坂さん以前)を探して愛知の津島神社に行きました。由緒書きに昔、対馬より勧請されたとあったように記憶しています。しかし、肝心の対馬のどの神社から遷座されたのかは今では判らないそうです。
壱岐には行ったのですが対馬はまだです。確か海の中に鳥居が立つワタツミ神社があるそうですが、とみたさんは対馬のスサノオ関連の神社をご存じでしょうか?
壱岐氏がツキヨミなので、スサノオの元が対馬にあったとすれば・・・三貴子のアマテラスもあの周辺が原型では?? などど、想像をたくましくしています。


> 私も先月、対馬と壱岐に行ってきました。対馬は南北80km、東西18kmの山がちの島で入り江がやたら多いので津(港)島が元の名ですね。
>
対馬=津島(つ=港、上陸に好都合な入り江)納得です。やはり、現地に足を運ぶことは大切ですね。愛知の津島神社もそのような場所でした。津市もそうですね。海洋民族の目線で古代を考えると楽しいです!
ありがとうございます。
ナギ、ナミ、2神が国生みで生んだ島を守りたいです!

[9597] Re[9595][9594][9590][9589][9588]: 熱海  大三元 2008/11/19(Wed) 09:07 [Reply]
神奈備さん

>  ・・・しかし伊豆は「イズ」です。ついでに出雲は「イズモ」ですから、斎は「イツク」で、伊豆も出雲も神祇に関係する地名ではなさそうです。

「豆」は「ヅ」ですから「伊豆」は「イヅ」。「ズ」と「ヅ」は混乱の例はなくはないかもしれませんが、結構峻別されているようです。

それで「出雲」も「厳藻」だ、という説があったりしますね。

あと、自分ではいまだに不思議なのは何故「対馬」が「ツシマ」なのか、です。「ツイマ」という二重母音を嫌うとすると「ツマ」とか「チマ」とかになるのかなぁ、と思ったり、「マ」だけで「島」の意味かなぁと思ったり(参照:ハテル・マ、カケロ・マ、等々)。


[9596] Re[9595][9594][9590][9589][9588]: 熱海  佐々木 2008/11/18(Tue) 23:26 [Reply]
>最初の鎮座地が歌荒樔田だそうですが、場所がどこかについてはよくわかっていませんが、前に探して見て、現在地へ遷座する前の場所は見つけました。そこは上桂公園の西側で現在はマンションになっている場所です。昔は盛り土があり、木が生えていたと地元の古老は語っていました。

 その地点を山城国上桂荘差図(1316年ごろ)の絵図で確認すると、当時は桂川(大河)左岸(現在右岸)なのです。
 上述の場所は楢原(上野)里の二十坪ぐらいですが、三宮敷という社地がありました。これはその後桂川の洪水、流路変更等によって消滅したのかもしれません。
 参考:金田章裕「微地形と中世村落」吉川弘文館

 昭和6年の地図でも盛り土は確認できます。ちなみに歌荒樔田地名のうち、荒樔は地形用語のアラス(荒洲)のことで、河と河の間の中洲(河間洲:カマス)のこです。歌≒秦のことか?
 三宮神社と月読神の関係まではわかりませんでした。
 
>顕宗天皇の代の話としています。この頃の山城の葛野の桂川右岸には豪族がいたようです。秦氏が既に開拓していたのかも知れません。この頃には多くの渡来人がやって来ていたのでしょうが、秦氏が同じように古い渡来人としますと、何故、平安時代まで渡来系とされていたのでしょうか。いささか疑問を感じる所です。

 秦氏の居た場所は、地形的には河間洲なので、おそらく後世の「河原乞食」のような身分の低い集団として扱われていたと考えられないだろうか。しかも平安京で早くからさびれた右京のはずれ。そういうことがずっと渡来人=身分が低いとして受け継がれてきたのか。

[9595] Re[9594][9590][9589][9588]: 熱海  神奈備 2008/11/18(Tue) 21:08 [Reply]
> 対馬には、厳原町があり港です。これをイズハラと読むようで、伊豆=イズと繋がるようです。

 厳原は伊豆波留から明治になってつけた地名のようです。

 漢和辞典では 例えば安芸の厳島は「イツクシマ」です。しかし伊豆は「イズ」です。ついでに出雲は「イズモ」ですから、斎は「イツク」で、伊豆も出雲も神祇に関係する地名ではなさそうです。
 厳と言う字を使ったのはあまり厳密には考えなかったのでしょう。


> 壱岐のツキヨミ神を山代の葛野の秦氏の縁の地に勧請しています。

 最初の鎮座地が歌荒樔田だそうですが、場所がどこかについてはよくわかっていませんが、前に探して見て、現在地へ遷座する前の場所は見つけました。そこは上桂公園の西側で現在はマンションになっている場所です。昔は盛り土があり、木が生えていたと地元の古老は語っていました。

 顕宗天皇の代の話としています。この頃の山城の葛野の桂川右岸には豪族がいたようです。秦氏が既に開拓していたのかも知れません。この頃には多くの渡来人がやって来ていたのでしょうが、秦氏が同じように古い渡来人としますと、何故、平安時代まで渡来系とされていたのでしょうか。いささか疑問を感じる所です。

[9594] Re[9590][9589][9588]: 熱海  とみた 2008/11/18(Tue) 14:47 [Reply]
私も先月、対馬と壱岐に行ってきました。対馬は南北80km、東西18kmの山がちの島で入り江がやたら多いので津(港)島が元の名ですね。

壱岐は南北17km、東西15kmの小さい島。平野部が多いですね。

> 壱岐の話を続けて恐縮ですが・・・
>
>  素人さん、黒曜石と熱海のお話、ありがとうございます。

対馬も古代の交易拠点で、佐賀県の伊万里腰岳から黒曜石を入れ、青森からは釣り針用の骨格を入れ、沖縄からホシキヌタ貝を入れて垂飾りを作っています。朝鮮からも牙を入れてペンダントを作り、在地は対馬石の産地で、石斧を作り五島列島に出しています。
>
>  狛犬に雌雄が出来てきたのは室町時代だそうです。その昔は雄のみ。

対馬には、厳原町があり港です。これをイズハラと読むようで、伊豆=イズと繋がるようです。

対馬の神社の狛犬は尾が垂直に立っていてこれは伊豆特有という説があるとか。

対馬・壱岐は卜占が盛んです。亀の卜だそうです。壱岐氏はツキヨミです。

中臣氏は、鹿の卜ですね。

中臣氏が、鹿の卜だけでなく最新の亀の卜も取り込むために壱岐のツキヨミを支配下に置いたのでしょうか。そして神祇官として力を強めたのでは。

壱岐のツキヨミ神を山代の葛野の秦氏の縁の地に勧請しています。

秦氏が気になりますね。



[9593] Re[9592][9591][9583]: 難波の怪異  佐々木 2008/11/18(Tue) 10:19 [Reply]
>千里の目を窮めんと欲して
 難波宮の北が、現在千里といいますが、この漢詩に由来するのだろうか。
> > お互いなお一層の精進をしようと会議しているのか?
> ずばりかも。
> 聖武天皇の頃です。
 続日本紀の741年から742年のところに、多くの官人の昇位の記述が見られますね。
 三世一身の法で、土地管理制度が代わり手間が増え、まさに墾田永世私財法の直前。その上、741年は国分寺建立。。。。現場役人の不満が多く、モラルが下がった(たとえば8時−14時勤務から)のかもしれません。
 とりあえず昇級だけでも。。。

追記
 万葉集に見られる河内熟田津(かわちにぎたつ)の場所ですが、綱本逸雄編「大阪地名の謎と由来」2008年6月、プラネットアース発行に拠りますと、泉北高速鉄道の栂・美木多駅北方の和田(にぎた)とされていました。
 温泉があってもよさそうの場所ですが、現在それらしいものは存じません。

[9592] Re[9591][9583]: 難波の怪異  神奈備 2008/11/18(Tue) 08:43 [Reply]
佐々木さん、面白い着想、ありがとうございます。
朝8時頃来て、昼の2時頃にちりぢりに飛び去るとあり、少し遅い目の役人の勤務ですね。

鸛鵲楼に登る  王之渙

   白日 山に依って尽き
   黄河 海に入って流る
   千里の目を窮めんと欲して
   更に上る 一層の楼

> お互いなお一層の精進をしようと会議しているのか?

ずばりかも。

聖武天皇の頃です。

[9591] Re[9583]: 難波の怪異  佐々木 2008/11/17(Mon) 20:55 [Reply]
> 天平十三(741)年三月、連日、百八羽の鸛(こうのとり おおとり)が難波宮の殿舎のうえにやってきて、楼閣のうえに集まったり、大政官の庭に降りたりしている。政府は鎮めの儀式を行った。
 おそらくこれは、
 百八→八省百官のことではないだろうか。
 鸛→冠雀(後漢書)→八省百官の長官クラス
 楼閣の上に集まる→王之渙の有名な五言絶句「登鸛鵲楼」の引用?
 お互いなお一層の精進をしようと会議しているのか?
 この結果、国分寺・国分尼寺建立が合意されたのだろうか。

[9590] Re[9589][9588]: 熱海  神奈備 2008/11/16(Sun) 20:44 [Reply]
壱岐の話を続けて恐縮ですが・・・

 素人さん、黒曜石と熱海のお話、ありがとうございます。

 狛犬に雌雄が出来てきたのは室町時代だそうです。その昔は雄のみ。

 壱岐の玄関である郷ノ浦の国津意加美神社の狛犬は少し変わっています。 
 阿吽の吽は子供を抱いている狛犬です。初めて見ました。おそらく雌と思われます。阿の方は口の中に玉を含んでいます。玉含獅子、子抱獅子の一対です。

 また、住吉神社には真っ白な多分大理石で出来た狛犬がありました。

 壱岐のパンフレットを港でもらって見てみますと、神社発祥の地、月読神社とありました。これはこれはと参詣したのですが、石段付近の木々は伐採され、実に明るいさっぱりとした明るい晴れの場所だったのかも。

[9589] Re[9588]: 熱海  素人 2008/11/16(Sun) 01:41 [Reply]
堅い話で。(石の話)
>  壱岐島には何故かモミジの木が少ないようです。島の北側を暖流が流れているので植生が南紀などに似ているようで、照葉樹が目立ちます。山中には山芋の蔓が目立つようです。今の人はいちいち掘らないのでしょうが、昔の人にとっては貴重な栄養源だったのでしょう。石器時代からの遺跡があるのも頷けます。

信州の黒曜石を調べていましたら、伊万里市の腰岳で「からす枕」と呼ばれている黒曜石が有り、九州全域はじめ、半島から沖縄まで縄文遺跡等からここの黒曜石の石器が出土するようです。鏃など多いのでしょうが。壱岐島でも出土しているはずです。これらの流通地域から古代からの形成された勢力の関係が推定できるのかもしれません。
腰岳のWeb
http://unilab.web.infoseek.co.jp/kokuyou/kokuyou.html
黒曜石の加工(腰岳山産、姫島産(黒くなくて、鏃用)は加工しやすい。)Web
http://www.geocities.jp/rhapsody5k8h/page007.html
姫島産は大分県と西瀬戸内(近くに宇佐神宮)・隠岐産は山陰北陸(出雲大社と関係?)
縄文から弥生期の勢力圏的なものもあるのでしょうか。
青草でした。
磐梯熱海(郡山市)は伊豆の熱海に語源があるようです。ウル覚えですが、近くを通ると川の色が茶色だった気がします。また、神津島産の黒曜石と関係の深い熱海です。(伊豆三島大社)
蛇足ばかりで済みません。


[9588] 熱海  神奈備 2008/11/15(Sat) 15:40 [Reply]
 壱岐島には何故かモミジの木が少ないようです。島の北側を暖流が流れているので植生が南紀などに似ているようで、照葉樹が目立ちます。山中には山芋の蔓が目立つようです。今の人はいちいち掘らないのでしょうが、昔の人にとっては貴重な栄養源だったのでしょう。石器時代からの遺跡があるのも頷けます。

 所で、壱岐の温泉地帯に式内社の阿田彌神社(アタミ)が鎮座しています。ほかに温泉地帯と云えば、伊豆の熱海、福島県郡山の熱海、山形県温海(アツミ)など。語源としては海の中で熱湯が噴き出している所があり、これを熱海と称したなどと思いつきますが、郡山は海の近くではないようで、没か。

 壱岐に式内大社の住吉神社が鎮座しており、なかなか立派な神社で、古社に相応しい雰囲気を醸し出しています。一の鳥居から下がって境内に行くのですが、この鳥居の扁額の真後ろに何と石製の「小槌」が飾られています。おそらく「打ちでの小槌」なのでしょう。
 はて、壱岐の住吉さんと小槌?、摂津の住吉大社と一寸法師とは繋がりがあるのですが、このお話が壱岐の住吉さんに伝播したのでしょうか、よくわかりません。

 壱岐の住吉さんの神々は航海の神として摂津、長門、筑前とつながる国家祭祀の神なのですが、「波の音の聞こえない所に鎮座したい。」とは解せないお話があります。
 波の音を耳障りと嫌った神が他にもいます。伊豆の熱海の来宮神社の五十猛神なのです。この神も渡しの神として佐渡の度津神社などの祭神ですが、ここも海岸に鎮座していたのを洪水を理由に山中に遷座しています。あまり露骨に海に面していると、その沖を通る船がいちいち挨拶をしなくてはいけないので、紀州の須佐神社のように隠したのかも知れません。

[9587] Re[9586][9583]: 難波の怪異  神奈備 2008/11/13(Thu) 22:42 [Reply]
 佐々木さん、『壹岐神社誌』件、ありがとうございます。

 それはそうと当麻皇子と穴虫峠、これにも深いつながりを感じます。怪異ですね。


 所で、壱岐の話。延元三年(1338)の調査で、壱岐島の神社数が出ています。
 壱岐郡 106
 石田郡 109
 合計  215

 また、現れたる小神は 844社
    隠れたる小神は 888社

 これだけ神社が多い理由として、壱岐は人智人力の乏しさから何物かみすがってとの念願が強く、八百万の神々を祀って、一度祭祀をした神は廃することができず、神の怒りを恐れる余り、神社は増加の一途を辿った。

 と考えられています。

 『平成CD』では、本社で150社、これは対馬より多く、和歌山県の1/3にのぼります。実に近い所に式内社どうしが鎮座、まるで大和のようです。

[9586] Re[9583]: 難波の怪異  佐々木 2008/11/13(Thu) 11:24 [Reply]
少々検討してみました。
>用明天皇の頃 ・・・・・・・追って行くと住吉の浦に走り出て、水に入り失せた。これは螢惑星(火星)
 
 用明天皇の頃、螢惑星の2つのキーワードとして考えると、螢惑星→侍神相天王→用明天皇第6皇子→当麻皇子?

>鼠
 中国の「説文解字」では鼠は穴蟲の総名である。すると穴虫峠を越える人々のことなのだろうか。

>壹岐神社誌 / 後藤正足著 -- (BA36363225)
志原村 (長崎縣) : 錦香亭, 1926.4
 大阪女子大学 附属図書館 堺市中区学園町1-1 TEL: 072-254-9152 FAX: 072-254-9939 に蔵書あり。

[9585] 一支国弥生まつり  神奈備 2008/11/13(Thu) 10:48 [Reply]
 壱岐の神社巡りをして来ました。魚も美味しいのですが、米がまた美味しい。

 島は殆ど開発されていないようで、丘陵地帯が多いのですが、狭い道路が縦横にめぐっています。地元を走り慣れていないととてもじゃないが、目的地にたどり着けないように感じました。
 タクシーの運転手さんが言っていましたが、壱岐では現在でも占いは盛んなようです。占い師の中には一財産をなし、寺院を建立する人もいるようです。

 郷ノ浦の図書館で『壱岐神社誌』を見ようとして定休日の火曜日を避けて行ったのですが、あいにく貸し出し中とのことで、「ない」、と言う最悪の結果。当然書庫に二〜三冊はあるだろうと思い、要請したのですが、一冊しかないとのこと。普通、そのような『神社誌』などは貸し出し禁止が多いのですが、いささかびっくり。

 そこに神社好きのおばさんがおられて、原の辻遺跡の図書館で見たことがあると教えて頂いたのですが、往復10km、借り上げたタクシーも帰しているので、これは諦めました。原の辻遺跡を中心として、11月15日から24日の間、一支国弥生まつりが行われるようです。

 で、壱岐島の各町史や壱岐名勝図誌などをめくってだいたいの所はつかめましたが・・・

 その『壱岐名勝図誌』を見ていまして、五十猛神が祀られている壱岐の神社は三社と思っていましたが、もう一つ発見、祇園社とありました。それも図書館から船着き場の間の小高い丘に鎮座、帰路に立ち寄れました。好天にも恵まれました。

[9584] 日本のイエネコ  多美 2008/11/12(Wed) 07:36 [Reply]
日本のイエネコ

www.necozanmai.com/zatsugaku/cats-japan.html

奈良時代には、まだ化け猫は出なかった模様。

[9583] 難波の怪異  神奈備 2008/11/09(Sun) 22:06 [Reply]
その頃としては最新の宮城を築いた難波宮ですが、さまざまな怪異が起こっているようです。

用明天皇の頃 難波の宿館に、土師連と云う者がいた。声妙なる謡の上手。夜、家にて謡を謡うと、屋の上で謡う者がした。怪しんで謡を止めれば音もせず、謡へばまた謡う。驚いて外に出てみると、逃げる者があり、追って行くと住吉の浦に走り出て、水に入り失せた。これは螢惑星(火星)がこの謡を賞でて化けて坐しける。ことこと『聖徳太子伝』に見えたり。
○歌謡は人間の本性ですね。しかし何故難波から住吉まで?住吉は筒神、星の世界とのつながりがあるのでしょう。

大化元年(645) 孝徳天皇は難波長柄豊碕宮に遷都した。老人等は語り合い、「春から夏にかけて鼠が難波に向かったのは遷都の前兆だったのだ。」と言った。
○孝徳天皇達を鼠に例えたのかな。

大化三年(647) 十二月の晦、皇太子の宮に火災がおきた。ときの人はおおいに驚き怪しんだ。


白雉四年(653) 皇太子は「倭の京に遷りたい」と申し入れたが、天皇は許さず、百官は間人皇后まで飛鳥に遷ってしまった。
○孝徳天皇の皇后まで裏切っていた!

白雉五年(654)元旦 鼠が倭の都に向かって走った。
○皇太子達を鼠と見立てたのでは。

朱鳥元年(686) 難波大藏省からの失火で宮はことごとく燃えてしまった。或いは、阿斗連藥の家から失火、その火が宮に燃え移った。ただ、兵庫職は燃えなかった。
○これは別に怪異ではありませんが、難波の宮の発掘と検証に燃えた跡が役立ちました。

天平十三(741)年三月、連日、百八羽の鸛(こうのとり おおとり)が難波宮の殿舎のうえにやってきて、楼閣のうえに集まったり、大政官の庭に降りたりしている。政府は鎮めの儀式を行った。
○目出度いことと思われますが、何故鎮めの儀式?煩悩の数だから?

天平十三年閏三月、難波宮で、庭に狐の頭だけがころがっていた。怪を鎮める儀式が行われた。
○これはいやですね。老いたる動物。狐は老狐。タヌキは古狸。犬が老犬。猫は?

延暦三年(784) 体長四分ばかりで黒い斑の蝦蟇二万匹あまりが、難波の市の南の道から三町ほどの行列をつくって南に向かい、四天王寺の境内に入って、どこともなく消え去った。
○この記事が難波市の場所を探すのに役立っています。

[9582] Re[9581][9575][9573]:  飛躍に恵まれました      神奈備 2008/11/08(Sat) 09:47 [Reply]
> 最近、地元の「平家物語」関連を追っかけています。
> 結構面白いものですね。

 この時代が日本の古代の終焉のように思えます。小さい頃、義経ファンだったので、読んだことの無かった源氏物語とは平家物語の源氏版のように思っていました。

 鹿児島県と平家、すぐに思い出されるのはキセル乗車の薩摩守忠度、鬼界が島、島津忠久の父親疑惑の頼朝。
 為朝は一〜二世代前の人。

 平安京は町中が糞尿の臭いに満ちており、天皇の行幸には、隼人が犬吠をしながら先導して汚穢を攘ったそうです。

 『物語・京都の歴史』の著者の脇田修さんは、大阪歴史博物館の館長をされており、時々立ち話などをさせて頂いています。実に腰の低いおだやかな人ですが、所謂安土桃山時代の言い方を織豊時代として、館内の表示は全て織豊時代としており、これについては断固譲らなかったそうです。
 少し前までの教育を受けた人は安土桃山で記憶しており、織豊時代なる言い方に慣れていませんので、見学者の方々に時々、コメントをしています。
 要するに安土にも桃山城にも都があったわけではなく、かつ桃山の名は江戸時代に城の跡に桃が植えられたことによる命名で、秀吉の時代には伏見だったようです。今で言えば、江戸時代を東京時代と呼ぶようなものでしょう。

[9581] Re[9575][9573]:  飛躍に恵まれました      隼人 [Url] 2008/11/08(Sat) 03:14 [Reply]
この辺りは「新平家物語」でしょうか。
最近、地元の「平家物語」関連を追っかけています。
結構面白いものですね。

父の痰の吸引をやったりしたら眠れなくなった。
誰かさんと同じで「寝とぼけ」てとんでもないポストにならない程度に短めに。
では。

[9580] Re[9579]: 徒然草  神奈備 2008/11/07(Fri) 19:46 [Reply]
>  延暦十四年(795)、藤原冬嗣が東市に宗像大神を祭ったとの記事が『金光寺縁起』に書かれているそうです。現在、その近辺に宗像大神(市杵島姫等)を祭った神社は見あたりません

 『物語・京都の歴史』脇田夫妻著:中公新書 には市比売神社がそれに当たるようです。現在は賀茂川の西側の六条に遷座しています。

[9579] 徒然草  神奈備 2008/11/06(Thu) 21:56 [Reply]
> 現在も石清水八幡宮の頓宮の別名は、疫神殿と言いますが、上記の運動に反応して造営されたのかもしれません。

 知りませんでした。ありがとうございます。この神社に参詣する際、ケーブルの往復切符を買ってしまい、どうやら見落としているようです。仁和寺の坊主は参詣の折り、付属の極楽寺・高良を拝んで、石清水八幡宮に参詣したものと思いこんだお話が徒然草にありました。


 全く話は違いますが、:−

 市は村落の周縁というか境界にたつと言われています。そこで他の村落などの異人(まれびと)との接触と言うか交換が行われる場所です。そこには平和と正直が必須のことでした。その為に『魏志倭人伝』では、「国有市 交易有無 使大倭監之」とあり、それを保障していたのでしょう。
 大化前期の市の運営は人々の自治的運営がなされていたようです。

 市にはそれを象徴する木がありました。河内の餌香市は橘、大和の軽市は槻、阿斗桑市は桑、海石榴市は椿だったようです。難波市は海岸に近い場所だったようですので松だったのかも。この木には自然神的に塞の神、境の神が祭られていたのでしょう。

 平安京の東市は今の西本願寺付近だと思われます。(『物語・京都の歴史』脇田夫妻著:中公新書)

 延暦十四年(795)、藤原冬嗣が東市に宗像大神を祭ったとの記事が『金光寺縁起』に書かれているそうです。(『周縁の古代史』小松茂文著:有精堂)

 現在、その近辺に宗像大神(市杵島姫等)を祭った神社は見あたりません。大和の石上市神社には少彦名命が祭られています。市に市杵島姫とはゴロも合うようで、各地の市杵島姫を祭っている神社の中には昔の市の神だったのが生き残っているのかも知れません。

[9578]  かしわ手 と 三和土(たたき)    焼尻紋次郎 2008/11/05(Wed) 16:20 [Reply]
  さっそくのご教導、まっことありがとさんに存じます。
 「si(真に)tar(恐)」ではなかたか! ……。手拍子の神様がいた。手拍子打ったら牛が湧いてでてくる……。ま、よかっぺぇ。あたまごなしに、そう信じまひょ。
 そうするっとですよォ〜(佐賀弁)、かしわ手の「シ」に手打ちの意味があるのでしょうか。
 あれはカシハ手でしょうか、カシワデでしょうか。直感として“ワ”のようです。
 更にそうするとですよォ〜、「wad」に「打つ」という意味があることになりましょうか。

 そこで、思い出すのが「三和土」と書いてタタキとよませる文字のこと。入り口から居間までの通路のことで、粘土みたいな土に藁や塩を入れて叩き固めて作る昔流のコンクリート。
 おそらく……ですが、三つの材料を「石を手に握って」叩き固めて作ったんでしょう。なぜ“石”なのか……。
 このへんまで書いて、あとは『紋次郎・言語考古学』へ逃げかえりまひょ。

 明確な改革意識がないままに、ワーワー騒いだとするなら、この民衆は朝鮮文化ですね。
 神にとりもって貰って、願いごとを実現させないことには、承知できねぇと、暴れるなんざはとても即物的な民衆ですよね。じぶんの「魂ごと」はお寺のほうかな?
 当時の人びとは博打に明け暮れていました。博打の神様なんてぇのもあったのでは?
 あったとしたら、それらは「ハギ神社、ハゲ神社、カリ神社、カラ神社」などといったはずですが……。 
 サムライには「神は敬うべし、頼るべからず」というジンクスがあったそうですね。
 こういう精神性がどのような事件や経路をへてでき上がったのか。このへんに日本人とはなにかの本質が隠れていそうな気がしてるんでふぅ。

[9576] Re[9570]: 志多羅神とは道真公の霊魂か?  佐々木 2008/11/05(Wed) 10:54 [Reply]
>民衆の不満は自在天や八幡の名を借り、石清水八幡宮に強訴したのでしょう。
この年から北野天満宮の造営が開始され、二年後の天暦元年(947)に完成したようです。

 現在も石清水八幡宮の頓宮の別名は、疫神殿と言いますが、上記の運動に反応して造営されたのかもしれません。(西垣晴次「神々と民衆運動」毎日新聞社) 
 また八幡領内で生津郷(現在伏見区淀生津町)だけが北野天満宮領だったので不思議でしたが、この運動がらみで生津郷が北野天満宮領になったのであろうかと思います。さらに生津郷の天満宮にあります、摂社の祭神が志多良神と考えると菅原道真と結びつくのかもしれません。ちなみに生津郷は石清水八幡宮の鬼門にもあたります。

[9575] Re[9573]:  飛躍に恵まれました      神奈備 2008/11/05(Wed) 09:35 [Reply]
> 947年、民衆運動が興ったとのことですが、それは藤原氏の衰退と関係ありませんか?
 この頃から藤原氏の優勢な時代が始まるようです。源氏もぼちぼち登場です。
 宗教では空也が延喜三年に生まれています。

> 辻説法に励んだ坊主さんとか、一向一揆の謂う理想と、どう絡みあいますか?
>  その 947年民衆の願い(イメージとしてのアイデンティティー)こそ、後世の日本人を決めたのではないかと愚考します。愚紋でしょうが、神奈備どん、お導きあれ。

 この辺のことはよくわかりません。いずれにしろ、貴族の神通力に民衆が疑問符をつけたと言えるでしょうね。


延喜 三年  903 菅原道真太宰府で死去
延喜 九年  909 藤原時平病死(道真追放の策謀者)
延喜二一 年 921 空海に弘法大師の号を贈る
延長 七年  929 台風・豪雨、平安京をおそう
延長 八年  930 清涼殿に落雷、醍醐天皇没す(道真に流罪を命じた)
承平 元年  931 平将門決起
承平 三年  933 京に盗賊多発
承平 四年  934 藤原純友決起
承平 五年  935 京で大地震、伝染病が流行
天慶 二年  939 平将門・藤原純友の乱、活発化
天慶 三年  940 平将門 滅ぶ
天慶 四年  941 藤原純友 滅ぶ
天慶 八年  945 志多羅神登場
天慶 九年  946 陸奥の蝦夷が反乱

以下、『大阪伝承地誌集成』より。
「しだら」とは、音楽の時にとる手拍子のこと。
『玉類集』
 月は笠着る八幡は種まくいざ我らは荒田開かむ
 しだら打てとて神は宣(のた)まふ打つ我らは命千載
 しだら打てば牛は湧ききぬ鞍打敷(うちしか)ば米負わせむ

[9574]  si(とても) tar(恐ろしい)神  焼尻紋次郎 2008/11/05(Wed) 06:42 [Reply]
 tar(恐)は世界中にあるようですね。
 そのときの中心気がかりは菅原道真の怨霊だったことでしょう。
 
 民衆を恐ろしがらせておけば、倫理のスジがビッシャ〜ッと決まるのでは? 集団形成です。…… / 地獄極楽。

 金光教の艮(コン、うしとら)、方角の神。
 厳密に計算されていて、それはそれは怖い神様でした。

[9573]  飛躍に恵まれました      焼尻紋次郎 2008/11/05(Wed) 06:29 [Reply]
 神奈備どんから板もらって、『紋次郎・言語考古学』つづけていますが、ここにきてタガログ語との関係でおおきな飛躍にめぐまれました。あがあが。

 タガログ語には、端的にいえば nilay nilay(冥想)があるとですよ。これがまたネパール語にも通じる。
 神奈備どんから「日本の貴族や皇室の風習には、南方的な要素が濃厚だ」ということば聞いたのは、8年も前のことでした。それが台湾の(言語での)断崖絶壁に阻まれてその腑分け作業が今になったんです。
 
 歴史知らんもんで、へんな質問するようでしょうが、947年、民衆運動が興ったとのことですが、それは藤原氏の衰退と関係ありませんか?
 藤原とは *puj(尊敬、礼拝) *bala(氏子)から成り、669年に鎌足が他界した折に中大兄皇子がこの姓を賜ったと伝えられていますが、談(たん)坂、多武(とう)もネパール語。
 このとき、インドのカースト制を導入しようと計ったらしいのです。が、佐々木さんのお教えによれば、藤原一統は同族結婚しかできなくなって、身体の素成から崩れていったそうです。

 その、947年にアッピールした民衆は、どんなことを希っていたのでしょうか?
 辻説法に励んだ坊主さんとか、一向一揆の謂う理想と、どう絡みあいますか?
 その 947年民衆の願い(イメージとしてのアイデンティティー)こそ、後世の日本人を決めたのではないかと愚考します。愚紋でしょうが、神奈備どん、お導きあれ。

[9572] 設楽郡  ぽんた 2008/11/04(Tue) 17:57 [Reply]
設楽(したら)郡には白鳥神社が多いので、「し(尊称)+たたら(古代の製鉄法)」が詰まって「したら」になったかと思うのですが、古代の製鉄所が発見されていないので、物的証拠はないです。

[9571] 志多羅神  ぽんた 2008/11/04(Tue) 17:52 [Reply]
志多羅神には興味あります。
愛知県に「設楽(したら)郡」があり、その語源はなんだろうと、常々考えています。

[9570] 志多羅神とは道真公の霊魂か?  神奈備 2008/11/03(Mon) 17:51 [Reply]
 志多羅神の出現は天慶八年(945)のこと。
 この10年前には平将門の新皇宣言があった。八幡大菩薩と菅原道真の霊による宣言でした。ほぼ同じ頃には西国で藤原純友の乱が起こっている。何とかこれらの乱を鎮圧していますが、民衆は律令国家の運営に不満をつのらせ、将門を英雄視しています。
 志多羅神は三台の御輿に乗り、河辺郡(伊丹市)から豊島郡(池田市)、つづいて西国街道を島下郡(茨城市)へと民衆の群が膨れ上がりながら、進んで行ったのです。いつの間にか御輿は六台に増えていました。一台の御輿には自在天の掲額、もう一台には宇佐八幡大菩薩とありました。山崎の渡しから石清水八幡宮へと押しかけたのです。

 民衆の不満は自在天や八幡の名を借り、石清水八幡宮に強訴したのでしょう。

 この年から北野天満宮の造営が開始され、二年後の天暦元年(947)に完成したようです。

 『梁塵秘抄口伝集』には、続いて志多羅神のことが書かれています。
 長和元年(1012)に設楽神が自ら九州から上ってきて船岡山に到着、しかしそこには先に疫神がいたので、社殿は造らなかったが、とにかくお祀りしたとのこと。

 民衆の不満は全然解消されていなかったということ。特に貴族階級は神祇を独占していて、少ない人数で民衆をおさえていたのですが、もはや神祇の独占はならず、民衆が御輿をかついで強訴する世になっていたのでしょう。
 今度は武力によっての統治と言うことになったのでしょう。その武士達をも貴族がおさえるのか困難になって来たのが平安末期となります。

[9569] Re[9568]: 創作怪談  佐々木 2008/11/02(Sun) 21:41 [Reply]
神奈備さん

>先の大王の大隅宮にたむろしていたのですが、弓月秦女が難波宮から一人舞い戻って山海経を唱えていたので狸達は住み難くなり、淀川の河原に来たり、高津宮に出入りしていたのです。狸は堤防に穴を開けて住んでいたので、よく決壊したのです。

 狸は、やはり穴を掘らないようです。穴を掘るのはアナグマの方かと。
 淀川堤防に穴を掘っていたのは蟹が多かったようです。追い出されて堤防に棲みついたのでしょう。しかしアナグマとは、一体どの勢力のことかと。
 またアナグマの生息地は平野でなく、丘陵周辺なので、大隈宮は吹田砂州でなく、上町台地の方が分がありますね。

>堤防に多くの岩石を埋め込み、丈夫な物に仕上げました。

 寝屋川市太間から旭区千林の古い民家あたりを歩いていますと、かなり大きな岩石が路上に散乱していますが、それが堤防の名残なのでしょう。



[9568] 創作怪談  神奈備 2008/11/02(Sun) 17:48 [Reply]
千林 絶間池
 恋い侘びて お落つる涙の 積もるかな あはで絶間の 池となるらん

太間村 衣子
 逢ふことは 絶間の池の 垣つばた 隔つる仲と 成りしやしつらん


 現在の高津宮付近には妖怪・陰獣が徘徊・出没していました。相模から宮廷への出仕をもくろむ強頸の村主は武勇を誇っては狸の住処を探ってこれを撲殺していました。

 一方、茨田衣子は狸を近づけないような仕掛けでおどかしていました。

 そもそも狸がこれほど跋扈しているのは、先の大王の大隅宮にたむろしていたのですが、弓月秦女が難波宮から一人舞い戻って山海経を唱えていたので狸達は住み難くなり、淀川の河原に来たり、高津宮に出入りしていたのです。狸は堤防に穴を開けて住んでいたので、よく決壊したのです。

 毎年、淀川に堤防をつくろうとして人夫が集められましたが、二ヶ所だけ運び込んだ大量の土砂がとどまらず、流されてしまう場所がありました。千林と太間です。

 人夫の指揮にに当たる者達が、「水防困難な所は人柱を立て、水神をなだめると工事がうまくいくとの言い伝えがあります。」と言い、人柱を宮廷に要請したのです。宮廷では検討を行い、罪人で死刑に決まっている者を人柱にすると言う案が奏上されました。しかし、罪人とは国津神を犯した災い者であり、彼らを築堤に利用しても水神が納得しないとの意見が出ました。

 大王もそれらを聞いて多いに悩んだのでした。ある日、大王の夢に、「相模の国の強頸と茨田衣子の二人に命じて築堤させて下さい。」と河伯が現れて奏上しました。

 命令を受けた強頸は喜び勇んで千林の絶間に赴きました。

 堤防が切れて強く流れている所があり、一挙に土嚢を八個〜十個ほどまとめて投入し、すぐに前後にも土嚢を投入する必要があると見て取ったのです。強頸は屈強な男二名を選び、土嚢を六個づつ持たせて自分が飛び込んだ場所の前後にほぼ同時に飛び込んでくるように命令し、残った連中には三人が脱出したのを見計らってから、土嚢をドンドン投げ込むように指示しました。
 強頸は背中に六個両手に四個かかえ、決壊の中央に飛び込みました。ほぼ同時に前後になるように二人が六個づつ抱えて飛び込んだのです。所が強頸が脱出しないまますぐに次から次へと土嚢が投げ込まれ、強頸は土嚢の下敷きになってしまいました。前後に飛び込んだ二人は魚に変身して下流へ泳いで行き、岸に着いてから狸に戻りました。集められた人夫の中には狸が化けていた者が混ざっていたのです。狸は強頸に仲間が多く殺されたのでその復讐を遂げたと言う訳です。

 一方の茨田衣子に対して、狸が化けた人夫達は人柱になるように迫りました。しかし衣子は執拗に迫ってくる人夫に水をかけました。たちどころに老狸の姿に戻ってしまいました。衣子は狸に言い放ちました。「正体を現した以上、打ち殺すのが筋であるが、汝ら、人を騙し、堤防に穴を空けないことを誓うなら、許してつかわす。」と。老狸は、「いかにも仰せに従おう。しかし昔は我々は堤防の穴には住んでいなかった。大隅の宮跡で暮らしていたが、異形の神怪を使役して我々を追い出した者がいる。従って堤防に住まざるを得なかった。大隅宮跡に住めるようにしてほしい。」と申し出ました。

 茨田衣子は大隅宮跡に行きますと、弓月秦女がいました。そこに住んでいる理由を聞きますと、「この宮に住み慣れていましたが、新しい世になり難波宮に移りました。そこになじめず、戻って来ますと、妖怪どもが居るので、山海経を唱えて妖怪を追い払っていたのです。」とのこと。そこで衣子は、妖怪とは狸が化けて出ていたことを知らせ、老狸に弓月秦女をお守りするように言いつけたのです。

 太間村の堤防の決壊場所に戻った茨田衣子は水の流れを調べるために瓢を二つ投げ入れました。瓢は川上に遡るように流れていきました。この場所は川下から水が流れていたのです。決壊場所に大量の土嚢を投げ入れ、川下からの流れに対する土留めの柵を設け、鵜殿の葦を移植し、堤防に多くの岩石を埋め込み、丈夫な物に仕上げました。

 築堤の成功は叡聞に達しましたが、強頸が命を失ったことを残念がりました。後に生贄と誤伝されました。

 強頸の身は さながらの人柱 衣子(キシ)に習はば 沈まじものを

[9567] Re[9566]: 河原の宝  神奈備 2008/11/02(Sun) 17:47 [Reply]
> 正確な時差ではないですが、方位をずらして時差を取っていたことなどはないのでしょうか。

 面白い着想だとは思いますが、一体どことの時差を考えたのか、それよりも各地で時差を考慮する必要性があったのかどうか、が疑問だと思います。その地方の、そのポイントでの時刻がわかれば昔の人には十分だったのでは。
> 朝を早くして夕方を早める。

 この事は時差とは言わないのでは。夏時間とかの問題。標準的な日時計板と言うものがあるとすれば、真北を若干西に振ると「朝を早くして夕方を早める」ことになりますね。面白い。

[9566] 河原の宝  素人 2008/11/01(Sat) 22:37 [Reply]
>河原も古代は宝の山だったかも知れません。お役にたてばと思います。
追伸
河原は宝の山と書き込みましたが、前にも書きました諏訪大社付近の河原にも上流からの石の河原があるようです。
*上流に和田峠などの原石の産地を持つ砥川の下流に諏訪大社下社春宮があります。
諏訪大社下社春宮 砥川 浮島神社 その下流の中州
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=36.07863841&lon=138.08429533&sc=2&mode=aero&pointer=on
秋宮下流の中洲の拡大図、上流の石が浮島のために遅くなった水流のために沈積してできた。たぶん鉱石も堆積している。石の中洲?
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=36.07823407&lon=138.08346708&sc=1&mode=aero&pointer=on
*麦草峠や冷山(大露頭)など鉱石地帯が上流に広がる上川が前宮の前を流れている。
手前の川は御射山方面から流れている宮川である。
前宮前から広がる河口域は砂防ダムなどで堆積物が減っても砂利の堆積が見られる水域である。当然ながら古代では河川並びに流域の堆積層として鉱物の採取が可能であったと推定される。
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.99324784&lon=138.14194964&sc=4&mode=aero&pointer=off
河原1(一番上流、石の河原が右に90度方向を変えた川の下流に形成されている。)
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.99166471&lon=138.14555725&sc=2&mode=aero&pointer=off
河原2
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.99424178&lon=138.14294465&sc=2&mode=aero&pointer=off
河原3(一番下流)
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.99743939&lon=138.14243881&sc=2&mode=aero&pointer=off
諏訪大社の近くの河原の石でした。
思い付きですが、雪解け後や大雨の後などに河原の宝が拾えたのかもしれません。
この地域は水利でも重要な地域でしょう利権絡みの土地とも思えます。

神社などの方位ですが、思い付きですが朝廷は水時計などで時を管理していたようですが、他の地域では日時計とか香時計と聞きます。日時計ですと正確な時刻を知るには北に向けて設置するわけで方位は重要だったと思います。これに建物の方角を合わせれば南向きですし便利と思うのですが、ずれているのが多い、正確な時差ではないですが、方位をずらして時差を取っていたことなどはないのでしょうか。
朝を早くして夕方を早める。日が落ちると明かりがなくて危険なためなど屁理屈ですが無かったのでしょうか。すごい青草でした。


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