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掲示板のログ(平成二十一年 五月 2009.5)お名前の敬称は省略しています。

[9870] Re[9867][9864][9861][9860][9859][9858]: 初めまして  素人 2009/05/30(Sat) 03:37 [Reply]
まさ様
>  三上山から銅が採れるのですか!?知りませんでした、、。

三上山はチャートの山で銅は取れないようです。
野洲川の6kmぐらい上流の左岸石部(灰山と松籟山の石部鉱山)で灰山では銅、石部鉱山では銅・鉛・亜鉛・鉄などが取れたということです。(地質図でも鉱山だと言うことが解ります。小さい2個の鉱床帯が見られます。)古代では御上神社の社領はかなり上流まで及んでいたということですからこの鉱山も含んでいたかも知れません。鉄鉱石も産出して居ますから製鉄して刀も製造したのかもしれません。
銅鐸の鋳型は大岩山古墳群のものとは違うと思いますが、三上山から少し離れた弥生遺跡から出土して居るようです。

[9869] 造船の記事  神奈備 2009/05/29(Fri) 13:52 [Reply]
 記紀風土記に見る船の種類。


常陸国風土記香島 年ごとに舟を造って津の宮に奉納する。舟三隻、それぞれ長さ二丈余。
                堀江謙一さんの最初のマーメイド号は二丈弱。一丈は3m。
〃 軽野から東の大海の浜辺に漂着した大船がある。長さ十五丈、巾一丈余。
播磨国風土記逸文 仁徳の御代に楠が井の上にはえていた。朝日には淡路島を隠し、夕日には
大倭島根を陰にした。その楠を舟にした。速いこと飛ぶようで速鳥の名。大倭島根とは大和の家郷か。
伊豆国風土記逸文 応神五年、日金山の楠で船を造った。軽いこと木葉のように走った。
相模国風土記逸文 足軽山の杉の木で舟を造ると舟足の軽いこと、他の材木の比ではない。
摂津国風土記逸文 美奴売の神が神功皇后に須義の木で船を造るが良いと託宣した。
神代紀上第四段 女が先に声をかけ夫婦の交り、蛭兒が産まれた。葦船にのせて流した。
神代紀上第五段 天磐豫樟船(豫は木豫)蛭兒を順風にのせて放棄した。
神代紀上第八段 素盞嗚尊曰、髯−杉−舟、胸−桧−宮、尻−槙−寝棺、眉−樟−舟。
神代紀下第九段 事代主を迎えに熊野諸手船〈亦名天■船。〉■=合鳥 はと を出した。
〃 大己貴命のために高橋・浮橋・天鳥船を造りましょう。天安河に打橋を造りましょう。
神代紀下第十段 竹を取って無目堅間で水に浮かぶ筏を作り、山幸彦を入れ海に沈めた。
神武前記 亀の背に乗り、釣りしつつ打ち羽挙き・・帆掛け船のことか。
崇神十七年紀 船は天下の大切なもの。諸國に命じて船舶を造らせよ。
応神五年紀 伊豆國に命じて船を造らせた。長十丈。軽く浮かんで速い。船を枯野と言う。
仁徳記 兔寸河に高樹あり。朝日の影は淡路島、夕日の影は高安山を越える。
この樹で船を作る。いと捷く行く船。その船を枯野といふ。
仁徳六二年紀 遠江国大井川の曲がり角にとまった流木で船を造った。難波津で御船とす。
皇極紀元年 百濟使參官に船を与えた。大船と母慮紀舟三艘。諸木舟とは木材接合船。
万葉集3300 押し照る 難波の崎に 引き上る 赤(あけ)のそほ舟・・・赤土を塗った舟
万葉集4336 防人の堀江榜ぎ出(づ)る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ made in izu

など。枯野、軽野のネーミングが目立ちます。カヌー日本起源説も魅力的です。

[9868] Re[9866][9865]: 難波津  神奈備 2009/05/29(Fri) 09:06 [Reply]
> 住吉側は、海人族。阿曇連、倭直吾子籠(淡路島)、隼人族が味方。
> 履中が勝利して倭直も寝返る。これは何を意味するでしょうか。

 慧眼!海人。恐れ入りました。

 仁徳天皇と菟道稚郎子と場合、漁師が鮮魚を献上しようとしていましたが、天皇ではないからと受け取るのを断られ、両方の宮を往復している間に鮮魚が腐ってしまった説話が記載されていますが、海人からの贈り物を受け取るということが大王位の標だったのかも知れません。

 履中天皇の場合には、海人を敵にまわしているのですが、この時代あたりから倭の五王として宋の国へ遣いを出し始めることになります。海人の力が必要になって来ます。そう言う意味もあるのでしょうか、後に住吉側の海人を許しています。

 河内王朝も三代目ともなりますと、治水・運河・巨大古墳と土木工事が進み、陸地での動員力が大王の決めてになってきたのかも知れません。海人の役割は相対的に低下して来たと言えるのかも。特に倭直は大和地域の長の役割が大きくなって来ているのでしょう。


 さて、神社を見る目から。
 住吉郡の式内社は15社、東生郡で3社、西生郡1社、難波地域でいいますと、最初に人々が住み始めたのが住吉郡、東生・西生郡は後ほど渡来人が多く住み着いたと言うことを語っているのではないでしょうか。5世紀は延喜の時代から500年近く経っているのですが、神社は生き物として古代を伝えていると思われます。

[9867] Re[9864][9861][9860][9859][9858]: 初めまして  まさ 2009/05/28(Thu) 16:49 [Reply]
素人様>初めまして。返答が遅くなりまして、こちらこそ申し訳ありません。
 三上山から銅が採れるのですか!?知りませんでした、、。
三上山の付近で鋳造して、、、>> 三上山山頂に天下りなさった神は天之御影神といわれていてまた天之御影神は天目一箇神と御同神であるともいわれています。天目一箇神といえば、『天岩戸伝説』で鍛冶の神として描かれています。前から三上山に天下りなさった神は鍛冶の神、、っということは金属に関係する何かないかと思っていて銅鐸に至っていたのですがまさか、鋳造を行っていたとは、、。考えが及びませんでした。
若輩ものですが、これからもよろしくお願いします。

[9866] Re[9865]: 難波津  とみた 2009/05/28(Thu) 13:13 [Reply]
神奈備さんの河内探求に興味を持って読ませていただいております。

>  難波津を征するものが国を征する。
>
> 難波津の意味 摂・河・泉と大和は一つの地域、日本最大の生産力、全>  応神・仁徳・反正 難波に宮を置いた。
>  履中天皇 大江去来穂別が住吉仲皇子を押さえて天皇になった。大江は淀川。

応神時代、今の新大阪の地に、大隈島があり大隈神社があるそうです。
大隈隼人の住んでいたところ、淀川を上って(川の横の道に牛馬を並べ船を牽かせて遡る)巨椋池に入り京田辺の大住にいたりツキヨミ神社を建てる。

応神の次の仁徳の息子の履中と住吉仲皇子の争いの謎。

履中側は、東漢氏の祖である阿知使主の渡来人と平群、物部が味方。

住吉側は、海人族。阿曇連、倭直吾子籠(淡路島)、隼人族が味方。

履中が勝利して倭直も寝返る。これは何を意味するでしょうか。

五世紀は、高句麗族が南下し伽耶や百済を攻める時代。百済は馬韓を攻める。その余波が河内に・・・中河内は五世紀に渡来人が増える。

>  聖武天皇 難波宮を再建。

下野(栃木県)の国は、律令期に東山道が伸びて蝦夷征討と東北開拓。
防人の狭い道が下野にあり、東国の農民が国司に連れられて、難波に向う。もちろん費用は自費負担。 難波の津から大宰府に瀬戸内海の航路で向う(これは国費)。九州や朝鮮への防衛の民。

隼人は、699年、702年、713年、720年に反乱を起した。隼人は調庸を出す代わりに6年交代で都に出仕する制度が適用された。

防人制は、律令制制定後に東国出身の防人であった、防人は三年の任期で行き倒れも少なくない。その後、 東国人は蝦夷征討に力を入れることになり、九州出身の防人制に替わった。

[9865] 難波津  神奈備 2009/05/28(Thu) 08:50 [Reply]
 難波津を征するものが国を征する。

難波津の意味 摂・河・泉と大和は一つの地域、日本最大の生産力、全人口の約10%。
  記紀         具体的行動
 神武天皇 長髄彦は草香津で迎え討つ。
 崇神天皇 河内青玉繋の娘を母とする武埴安彦はまず河内を確保しているようだ。
 日本武尊 難波の柏の渡りの悪神を退治した。
 神功皇后 忍熊王は住吉に陣を敷いたが宇治に撤退。
 応神・仁徳・反正 難波に宮を置いた。
 履中天皇 大江去来穂別が住吉仲皇子を押さえて天皇になった。大江は淀川。
 雄略天皇 河内の志幾大県主の家が堅魚木を付けていたので焼き払った。
 吉備上道臣 雄略没後、星川皇子に天皇位を継がすため、船軍四〇隻で難波津に来た。
 継体天皇 先ず、宮を交野の葛葉に置いた。
 欽明天皇 物部対大伴 = 難波津が住吉津・大伴津より重要な津となった。
 崇峻天皇 蘇我対物部、難波を主な拠点としていた物部を打倒した。
 推古天皇 聖徳太子が四天王寺を建立。
 皇極天皇 蘇我入鹿が山背大兄王を攻めた際、生駒山中に逃れた。
 孝徳天皇 難波長柄豊碕宮へ遷都。
 壬申の乱 近江側はいちはやく河内を占拠している。
 天武天皇 難波に羅城を造る。難波に副都を造るも、火災で炎上。難波に海軍を置く。
 聖武天皇 難波宮を再建。

[9864] Re[9861][9860][9859][9858]: 初めまして  素人 2009/05/25(Mon) 22:30 [Reply]
> 三神山と銅山(金山)と銅鐸
> 三神山を中心に北では、山間地からの出口でたくさんの銅鐸が出土し、南には野洲
訂正させいただきます。
三神山 誤)−>三上山 正)
大変失礼いたしました。
言い訳になりますが、時々新型のウイルスと思われるメールでキーボード入力と変換が異常になることがあり、設定を数日前に戻したりしているのですが、誤入力・ご変換が増えてしまいます。注意して書き込みいたしますので、お許しください。

[9863] Re[9862]: 内容の訂正  神奈備 2009/05/25(Mon) 18:54 [Reply]
> 細川神社のホームページの内容に誤りが多くあります。

リンク集に入れて頂き恐縮です。
刺激的なかき込みです。
具体的にご指摘頂ければ幸甚です。

http://kamnavi.jp/adress.htm

[9862] 内容の訂正  池田市細河地域コミュニテイ推進協議会 西野 [Url] 2009/05/25(Mon) 16:30 [Reply]
細川神社のホームページの内容に誤りが多くあります。当神社へ連絡し
正しい情報を掲載してください。

[9861] Re[9860][9859][9858]: 初めまして  素人 2009/05/24(Sun) 20:11 [Reply]
まさ様
>  とにもかくにも三上山、一度登ってみてください!!
大変興味を持っている山ですが、通過するばかりで登ったことがありません。
ぜひ登ってみたいと思って居ります。
私は金物の話が好きなので銅絡みで書き込みさせていただきます。
前にも書いていますが。
三神山と銅山(金山)と銅鐸
三神山を中心に北では、山間地からの出口でたくさんの銅鐸が出土し、南には野洲川の平野に出るあたりの石部で古くから銅が産出しています。近江富士(三上山)を中心にして南で産出した銅を使って、三上山の付近で鋳造して、北の大岩山古墳群(銅鐸出土地)付近で使われ、埋蔵されたのでしょうか。勝手な空想ですが。
Webの紹介
「かつて石部金山とよばれた灰山は,みじめな姿となっている。」銅山。
古い時代は自然銅とかあったのでしょう。
ふらっと旧東海道Web
http://www.asahi-net.or.jp/~vn6i-hgwr/toukaidou/ishibe208s.jpg
「灰山を過ぎ,右手に目をやると近江富士(三上山)が秀麗な姿を見せる。」
ふらっと旧東海道Web
http://www.asahi-net.or.jp/~vn6i-hgwr/toukaidou/ishibe210s.jpg
大岩山銅鐸出土地(野洲市大岩) 近くに銅鐸博物館がある。
地図閲覧サービスWeb
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350425&l=1360237
銅鐸の紹介
埋蔵文化財学習シートWeb
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2068/index.html
つまらない、青草でした。

[9860] Re[9859][9858]: 初めまして  まさ 2009/05/22(Fri) 20:19 [Reply]
さっそくのご返答ありがとうございます!

>  三上山にも一度登りたいと思っています。御上神社から約1時間程度で山頂のようですね。

 是非、一度登ってみてください!磐座、展望台付近からの眺めは最高で、晴れた日であれば琵琶湖はもちろん比叡山や付近の山々まできれいに見えます。
 山頂までは約1時間で登れますが、登山道途中に寺の跡地があり、巨岩や奇岩が無数に点在し、それに加え登山道も1本でないので僕の場合はいつもあっちへフラフラ、こっちへフラフラで・・・。結局、山中で丸一日過ごしてしまいます(笑 
 とにもかくにも三上山、一度登ってみてください!!


[9859] Re[9858]: 初めまして  神奈備 2009/05/22(Fri) 19:43 [Reply]
> 初めまして、まさといいます。
> 滋賀県の三上山の近くに住んでいるのです

 こんばんは。まささん。
 神奈備山、私もこの言葉を知ったのは10数年前でした。やはり三上山の写真があり、これぞ神奈備山と言う紹介でした。東京への出張のおりに時々見ていた山でしたが、富士山の小型と言うか、琵琶湖から運んだ土がこぼれて三上山になったとの伝承程度の知識でした。
 三上山にも一度登りたいと思っています。御上神社から約1時間程度で山頂のようですね。

[9858] 初めまして  まさ 2009/05/22(Fri) 17:02 [Reply]
初めまして、まさといいます。
滋賀県の三上山の近くに住んでいるのですが、恥ずかしながらここ最近まで三上山が神奈備山という事を知りませんでした。三上山が神奈備山と知ってからその他の神奈備山にも興味を抱きました。元来、アウトドア好きで登山などもしていて山頂の祠や磐座なども何気なく見ていましたが色々知ってから山に入ると視点が変わって余計に面白くなりました。そんな折、このように素晴らしいサイトにお目にかかれて幸いです。
無知な僕ですが、どうぞよろしくお願いします。

[9857] Re[9856][9855]: 難波津と住吉津  神奈備 2009/05/21(Thu) 10:36 [Reply]
>  港の位置も上町台地の海岸侵食とともに微妙に変化したのかもしれません。

 古代、港になる自然条件
 海につながったなだらかな岸 砂浜、葦の茂る地帯
 潟や川につながっている池

 満潮時に船を岸に着け、引っ張り上げて泊める。
 満潮時に船を押し出して浮かべる。

 『仁徳紀』二二年に、「難波崎の並び浜のように二人並んでいられるだろう。」との歌があります。難波津も高低の浜があって、高い浜に船を引っ張りあげていたのでしょう。難波津の場合ナミハヤと言うように、雨天や引き潮の際の水の流れは急だったのでしょうから、本流から少し入った湾のような場所が使われたのでしょう。

 砂州の場合には大阪湾沿いの難波砂州のような場所−海水浴場のような場所−でしたらどこにでも船をつけることが出来たのでしょう。後は荷役に従事する人々と荷物を一時保管する倉庫、どこかへ運ぶ道がついていればよかったものと思われます。

[9856] Re[9855]: 難波津と住吉津  佐々木 2009/05/20(Wed) 22:57 [Reply]
 数年前に聞いた話ですが、上町台地は弥生初期(2600年前?)には難波から南港あたりまであった、それが現在のように侵食され、その侵食物が天満砂州(おそらく1700年前)となって上町台地の先端についた。増田富士雄教授談。
 港の位置も上町台地の海岸侵食とともに微妙に変化したのかもしれません。
 海面の安定期は2400年前、1500年前らしいので、そのときに安定した港が発達していたとか?
 また南港あたりを1m程度掘ると上町台地と同じ堅い地層が出ているようです(新版大阪地盤図など)。
 とりいそぎご案内まで

[9855] 難波津と住吉津  神奈備 2009/05/20(Wed) 20:58 [Reply]
 上町台地の南北の代表的な港が難波津と住吉津です。この二つの津でどちらが先に王権の港として機能したのか、建設されたのか、これを考えて見たいと思います。

 『日本書紀』では神功皇后の所で、忍熊王が住吉に軍を退いたとのお話があり、また住吉三神が「わが和魂を大津の渟名倉の長狭に居させよ。」との託宣したことなどから住吉津が先に出来て、後に仁徳天皇の代で難波の堀江を掘ったとか、磐之姫皇后が難波の渡りに到着とかの記事があり、後で難波津が出来たとのイメージになっています。

 『住吉大社神代記』の「猪加志利乃神。二前。一名。爲婆天利神。元大神居坐」とあるのは、坐摩神社の元社の場所は住吉三神が元々居た場所と言う意味であり、大阪市中央区石町であり、難波の堀江の裔であろ大川の南側すぐになります。即ち難波津の場所に近く、これからは先に難波津、それから住吉津との考え方も成り立ちます。

 この月曜日18日の住吉セミナーで、積山洋氏が、考古学的にも難波津と住吉津の時期については若干難波津が先行していると指摘されていました。即ち、上町台地法円坂の古墳時代の遺跡は5世紀半ばのものと思われるのに対し、住吉津に近い南住吉・遠里小野・山ノ内遺跡は法円坂の遺跡に遡らないとの結論を出しています。

 倭の五王の津の主力は難波津であり、それにつれて住吉津の発展があったと理解できます。

[9854] 千木と高床式  ぎおん 2009/05/18(Mon) 10:20 [Reply]
素人さん、はじめまして。ご覧いただき有難うございます。
「ナナイの村をたずねて」写真R 千木と高床式らしき「家々の造り」は「匏宮」(宮津市)、「比沼麻奈為神社」(京丹後市)と「魚居匏宮」(舞鶴市)の神殿の造りと似ていると思っています。http://members.jcom.home.ne.jp/lerrmondream/eastnanai.htm
「比沼麻奈為神社」と「魚居匏宮」の鰹木は七体です。「ナナイ」を表現していると想像してしまいそうです。
「丹波が、その北部を分割して丹後国を設けたのは、713年。天の橋立の宮津に国府を移し籠神社を作り、その奥500mに真名井をもってきます。」という「とみたさん」。もう少し詳しい説明をお尋ねしたら「丹後の籠神社の奥500mに眞名井の奥宮があると神社の表札に出ていました。」とのご回答をいただきました。私は、籠神社の奥には「匏宮」があるが、ここには「眞名井神社」「真名井神社」の文字と、「ヒ」が「七(なな)」にみえたり「匕(ひ、さじ)」にみえたりする文字を持つ不思議な「眞(七or匕、ヒではない)名井神社」の文字があり、「まないがはら」との関連で、文字にこだわって調べています。また、「丹波が、その北部を分割して丹後国を設けた」とおおせの「丹波」についても、倭国に対する唐国の激しい干渉の時代と重なる713年、籠神社は誰の指図で、あの場所にどういう意図で建立されたかにも、こだわっています。
「比沼麻奈為神社」(京丹後市)の所在地も「まないがはら」です。「魚居匏宮」(舞鶴市)も「マナイ商店街」付近の紺屋町にあります。さらに「元伊勢」(福知山市)も「まない」の文字が付近にみられます。「匏宮」の参道に「匏訓吉佐瓢也」の石柱があります。「匏」は「ホウ、ビョウ、ひさご」で、「ホウ」は朴丸、鳳凰、赫哲、包丁、豊受、「ビョウ」は錨(碇)、苗、「ひさご」は瓜(クワッ)です。「クワッ」は、赫、葛、勝、桑、鰹の発音に注目しています。瓜は柄杓(北斗七星)、冬瓜の「とうか」は豊受、稲荷との関連を調べてみたいと思っています。
新羅本紀に登場する赫居世が赫哲の赫の文字を持ち、瓠公については、「その族と姓は未詳。本は倭人。初めは腰に瓢箪をぶらさげて、海を渡って来たことから、瓠公と 称される。」と記録されているそうです。與謝のゴオリ内にある朴丸の地名と半島の「朴氏」との関係、匏宮の「夸」を持つ「瓠公」を調査中に今回の書き込みとなったわけです。
「なないがはら」はなんらかの都合があって「まないがはら」に呼称が変化したのではないかと思っています。完全否定の史料が見つかるまで調べるつもりです。
「籠目、籠目、籠の中の隹は、いついつでやる 夜明けの晩に蔓(葛?)と亀(亀茲降る岳?)が統べった。」という妙な歌を聞いたことがあります。「よくもまあ、そんな歌い方をするねえ」とお笑いください。

[9853] Re[9851]: 幕の合間に  素人 2009/05/18(Mon) 00:45 [Reply]
ぎおん様
> 林蔵は北方先住民のひとつであるナナイ族に出会い、ナナイ族から彼らの特産である朝鮮五葉松製舟艇(丈夫で長持ちするという定評のある)を購入していると,『東靼紀行』に記している。
お初ですが、よろしくお願いします。
チョウセンゴヨウ聞いたことのない木でしたので調べてみますと大木になると食べられる木の実がたくさん取れるようです。縄文の栗のようなものでしょうか。
食用の木ですから大事にされていたのでしょう。高級材のようです。
松の実は日本ではチョウセンゴヨウの実である。
サンナッツ株式会社Web
http://www.vesta.dti.ne.jp/~sunnuts/matsunomi.html
松ぼっくりからとれるんですね。栄養価は有りそうですから冷間地では大事な食糧だったのでしょう。ナナイ族の食糧ですね。
材質としては皹が入りやすく、脆いようですから船材としてはどうだったのでしょう。
チョウセンゴヨウ材質:
「辺材は淡い黄白色、心材は淡い黄褐色〜淡い赤色を帯びる。木理は通直、肌目も緻密。やや軽軟で加工性がよく、狂いも少ないが、割れやすいので注意が必要。脂条(やにすじ)が多い。耐朽性は小〜中程度。」
森林の見える木材ガイドWeb
http://www.fairwood.jp/woodguide/wood/russia/benimatsu.html
強度的に心配な写真があります。
前にこちらで、雷で割れた栗の木などの話が出ましたが、チョウセンゴヨウでも有るのですね。
以前、雷で幹が割れたチョウセンゴヨウが強風で崩壊した。
写真・材質的に粘りはなさそうで脆い木のように見えます。
方長老の松折れる 盛岡天満宮境内
http://www.morioka-times.com/news/0408/21/04082107.htm
本筋ではない話ですみません。

[9852] Re[9851]: 幕の合間に  とみた 2009/05/17(Sun) 16:47 [Reply]
> ナナイ族も日本史でいうところのサンタン人(山丹人)であり,いわゆる鎖国を破っていた北方貿易である山丹交易で日本側が出会い,交渉し取引していた相手側にこのオロチ族やナナイ族が含まれていた可能性は高いと思う。

ナナイ族はロシアと中国国境を跨いで住む少数民族ですね。中国ではホジェンといいます。
中国の学者の王柯 さん(神戸大学文化部教授)が岩波新書に出せれている本で、

ホジェンは、中国で漁業を伝統的生業とし、犬橇を使うという独自の特徴を持つ。

ホジェン語の民族叙事詩〔イマケン〕が有名らしい。

別の人の資料から引用します。

雲霧の中にそびえる廟堂(イマカン)。太陽が輝き山河があり金銀の橋が架かり広い庭を持った広壮な建物がある。家畜がいて生前と同じ生活をする人々《尼山シャーマン》《オロチョン族シャーマン語り》あの世とこの世を行き来するシャーマンでしょう。

私が調べたものでは、サケマス漁撈、オホーツック人の系統か。

オロチョンは熊送りのイオマンテ、樹木に山の神の象、魂は山に帰る。死体は樹上葬。

ギリヤーク(ニブヒ)人はオホーツック人やアイヌ人と関係が深そう。
黒竜江(アムール川)とか松花江とかウスリー川あたりの狩猟民族と北海道や樺太のオホーツク人との関係が気になります。

現在の学説では、アイヌ人は12-13世紀に成立。アイヌ人は、江戸時代にもアムール川下流域の人々と交易して、すばらしい中国製の絹織物=蝦夷錦を交易で得た。これを山丹交易と呼ぶ。

質問がありましても答えられないときは、失礼しますのでお含みおきください。





[9851] 幕の合間に  ぎおん 2009/05/17(Sun) 13:40 [Reply]
MC
吉田悟郎のホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/lerrmondream/index.html

東アジア史への試み
日本が生まれた母胎である東アジア世界は全体としていまなお<近くて遠い>世界になっている。
林蔵は北方先住民のひとつであるナナイ族に出会い、ナナイ族から彼らの特産である朝鮮五葉松製舟艇(丈夫で長持ちするという定評のある)を購入していると,『東靼紀行』に記している。
ナナイ族も日本史でいうところのサンタン人(山丹人)であり,いわゆる鎖国を破っていた北方貿易である山丹交易で日本側が出会い,交渉し取引していた相手側にこのオロチ族やナナイ族が含まれていた可能性は高いと思う。
 http://members.jcom.home.ne.jp/lerrmondream/eawh.html

[9850] Re[9840][9839]: 大伴川  熊野川 2009/05/16(Sat) 14:20 [Reply]
大伴川の文献どうかよろしくお願いいたします。乙基、尾友がある北檜杖村に非常に興味をもっています。

[9849] 海神は何故三柱か?  神奈備 2009/05/16(Sat) 13:54 [Reply]
 神神とは安曇(三綿津見神)、住吉(三筒男神)、宗像(三女神)、船玉神(紀伊三所神:志摩神、静火神、伊達神)など。一柱で出現しているのは、椎根津彦神、塩筒老翁神など。

 港から港への航海は、出港、航行、入港の手順があり、それぞれを見守る神ではなかろうかと思います。住吉三神、安曇三神は底、中、表の冠を持っています。宗像三女神は辺津宮、中津宮、沖津宮に鎮座しています。これらは出港、航行、入港のイメージだと思われます。

 『古事記』では、天日矛が妻を追いかけて難波に到ろうとする際、難波の渡の神がさえぎって天日矛を入れなかったとあります。これは入港の神の仕業です。住吉神より古い神格とすれば船玉神の一柱の神の出現かも。

 『続日本紀』天平宝字七年八月 能登と云う船が高麗から帰国の際、波風が荒れ狂い船は海中をさまよった。船霊に祈って無事に帰り着いた。

 船霊を神としての船玉神なのか、一般論としての船によりついている霊力のあるモノに祈ったのか、どちらともとれる文章ですが。

 神功皇后の渡韓の際、舳先を護った神として住吉神、都農神、五十猛神、諏訪神、武内宿禰、事代主神などがいますが、これらは航行の段階の神として現れているのではと思います。
 さらに五十猛神や諏訪神は戦の先陣の神を兼ねているのでしょう。

[9848] 写真展「黙示録チェルノブイリ」  神奈備 2009/05/15(Fri) 12:05 [Reply]
 写真展「黙示録チェルノブイリ」
 中筋純氏
 場所 梅田ダイビルB1F
    旧大阪駅前郵便局の西 毎日新聞の東隣
 日時 5月14日 から 5月20日  17日の日曜日はお休み

 20数年前の原子炉の事故以降不毛の地となった町にのこされたものを通して考える。
http://www.japanese-page.kiev.ua/jpn/events_photo-chernobyl.htm

[9847] 聴かせてください 海部節  ぎおん 2009/05/14(Thu) 14:13 [Reply]
神奈備様
「ところで海部と言うのは、『応神記』に海部を定めたとする記事が初出ですね。」
そうなのですか。お聴かせください、海部節を。美声をお聴きする前に一節唸らせて下さい。「日本古事記曰、速總別命女鳥王苦走丹波吉佐隠于倉椅山於、、」
京都府宮津市須津の倉椅山に阿知江いそべ(山+石)神社がありました。別名の唄和津神社(祭神 隼別命 女鳥比賣命)。阿知江いそべ(山・石)部神社阿知江は前に同じいそべ(山・石)部は伊曾倍と訓べし等を唄ってみたいのですが、なにしろ喉の調子がわるくて(苦笑)。ではよろしくお願いします。


[9846] 横着者でございます  ぎおん 2009/05/13(Wed) 20:58 [Reply]
神奈備様
まじで、「応神紀」「応神記」を見ていないのです。達人の解説をあてにする横着者でございます。すみません。

[9845] Re[9844]: 誉津別命と品田別命そして分と部  神奈備 2009/05/13(Wed) 20:03 [Reply]
> 恥ずかしながら『応神記』を見たことがありません。

失礼いたしました。『応神記』とは『古事記』の応神天皇の条のことをさして言ったのです。

[9844] 誉津別命と品田別命そして分と部  ぎおん 2009/05/13(Wed) 15:20 [Reply]
「ところで海部と言うのは、『応神記』に海部を定めたとする記事が初出ですね。」

恥ずかしながら『応神記』を見たことがありません。旧・京都府熊野郡久美浜町は久美浜県という時期がありました。久美浜町海士付近には「品田」「二俣」、「一分」「二分」「三分」の地名があります。稲田姓や中原家は海士にあります。
誉津別命の母・狭穂姫は、川上麻須郎女の子。川上麻須は誉津別命の「ひいお爺さん」にあたります。
天武天皇が自を「生まれかわり」と称したという大解朱留王(大武神)縁の神社が、高梨字大谷の熊野新宮神社に大武神社(祭神・素盞嗚命)としてあります。
正直に申しまして「応神」はわけがわかりません。
凡牟都和希王の凡牟都を「ほむた」とは?ご無礼ながら下記を参照させていただき、その理由とさせていただきます。
(上宮記曰) 一云 凡牟都和希王娶 俣那加都比古女子 名弟比彌[賣]麻和加 生兒若野毛二俣王
(上宮記に曰く、) 一(ある)に云う。 凡牟都和希王(ほむつわけのおおきみ) 俣那加都比古(くいまたなかつひこ)が女子(むすめ)、名は弟比彌麻和加(おとひめまわか)を娶りて生める兒は若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/jyouguuki/01_fr.htm
 さて、私の独断と偏見による地名「なないヶ原」を現在、地元では難波野(なんばの)と呼んでいます。古書では「眞名井」、「魚居」の文字をみかけます。海の中に泥を入れて作ったような水田が広がっています。北狄という「エベッサン」が住み着いていたというのは本当かもしれない、と思ったりします。付近に「麓神社」と「匏宮」があります。ここに713年、突然、新規参入の「神社」が現れます。当時の住人は、神社の御名は?御祭神は?神官は、細目じゃないの?氏子は?と驚いただろうと思います。これが「籠神社」のスタートだったのではないかと想像しています。
「籠神社」について地元の人に尋ねてみたら、床下に潜ったことがあるという人がいて、「何かを隠してあるような五色の布があった」と教えてくれました。真偽は確かめようがありません。
成相寺は慶雲元(704)年には存在しています。「匏宮」には鏡から垂れている「五色」の帯があります。成相寺も同じ「五色」の幕で何かを語りかけているような気がします。幕には「菊」と「五七の桐」も並びます。「五七の桐」は舞鶴市紺屋町の「マナイ商店街」付近にある神社が正月に「五七の桐」幕を張ります。俎板(まないた)、包丁がなじむような伝承があるときいています。ホウチョ族が居たのでは?鮑は庿であり、庿は廟になった歴史を感じます。伊勢神宮での「鮑」は格別の扱いを受けており、語源は「あわび」より「塩の干物」なのでしょうか?調子に乗りすぎて、チョウシが外れてきました。この節はここまでとします。
私が、もし草原の王者だったら、この丹後で馬を「草原を駆け抜けるように走らせたい」。薦池〜世屋〜五十河〜薦池という今風に呼べば谷も、川も、橋もない「碇高原周回流鏑馬地帯」を関係者以外立ち入り禁止区域「天座」とし、その下地帯に「部」族でガードし、更に下に「部落」を置き、祭祀場所を雰囲気のあるところに配置し、塩や炭、鉄製品等の生産物を徴収したい。世屋に世屋神社(祭神・素盞嗚命、日本武命があります。やまとたけるのみことが誉津別命で、素盞嗚命は脱解尼師今辰韓王の子か孫ではないか?などと想像しています。下手な者ほど、3番まで歌いたがります。「アンコール」ならぬ「やめろコール」が聞こえぬうちに退場させていただきます。
神奈備や 五月の歌い手 前にして 調子外れに 唸る一節   お粗末でした。

[9842] 匕(さじ)+具の文字を持つ幟  ぎおん 2009/05/12(Tue) 10:45 [Reply]
神奈備様、じきじきの書き込み、恐れ入ります。
調査メモを整理しますのでしばらくのご猶予をお願い致します。
真名井神社の「真」に注目して現在調査中です。
「天渟中原瀛真人天皇」を抜きには語れないのではないかと思っています。
「「その奥500mに真名井をもってきます。」の意味をもう少し深くご説明いただくとうれしいのですが」について背景を説明させていただきます。
奈具神社の具+「十」=真。奈具神社の具+ヒ=眞。「その奥500m」には真名井神社も眞名井神社もないのではないか。常に私が抱いている「トンデモ疑念」です。奈具神社の具+(七or匕(さじ))=該当する文字が見つかりませんが、「匏宮」に菊の紋に続く文字「具+(七or匕(さじ))」+名井の幟が立っています。祭神・豊受の匏宮に立つ眞名井神社に似た具+(七or匕(さじ))の文字を持つ幟は何を主張しているのでしょうか。
とみたさんという高貴な発音のお名前をみて、これらの糸口が、開けるかもと思って、掲示板を汚してしまい、お詫び申し上げます。

[9841] Re[9836]: 奥500mにもってくるとは  神奈備 2009/05/11(Mon) 17:12 [Reply]
> 「その奥500mに真名井をもってきます。」の意味

初めに真名井神社の磐座祭祀があり、その里宮として天橋立ての突き当たりに籠神社がもうけられたのではないでしょうか。

ところで海部と言うのは、『応神記』に海部を定めたとする記事が初出ですね。

[9840] Re[9839]: 大伴川  神奈備 2009/05/11(Mon) 17:00 [Reply]
> 熊野川って大伴川って言われてたとありますが文献とかに何か書いてあるのでしょうか

こんにちは。知識として頭に残っていました。なお、文献に行き当たればまた紹介いたします。
なお、熊野川の上流の大塔川と混乱をしている訳ではありません。

[9839] 大伴川  熊野川 2009/05/10(Sun) 15:39 [Reply]
熊野川って大伴川って言われてたとありますが文献とかに
何か書いてあるのでしょうか
教えてほしいです。

[9838] 薦池の場所  ぎおん 2009/05/10(Sun) 09:58 [Reply]
とみたさん、くだらない質問をしてお騒がせしました。
「丹後の碇高原とは伊加里の高原を想像してしまいますねえ。場所は何処でしょう?」にお答えします。薦池を水源とする筒川は日本海に流れ出ています。長い航海をして、付着して船を腐らす虫を除去するには真水が必要だそうです。この川は浦島神社の横を流れているのですが、この川に船を停泊させておけば、虫の除去は可能だったと想像しています。安曇族にとっては「良港」だったのかもしれません。薦池の富田さん、和田さんから地名を解明せよと催促されていますがとても手に負えません。細々と調査結果を報告させていただいているのが現状です。薦池では節分に「豆まき」をしないと聞いています。むしろ、鬼は恩人であるとの伝承があり、薦池が「姫氏(きし)」の歴史を調査せよと告げているような気がしています。
調査を開始したころの私のメモをみると、「薦池を説明するには、東欧州〜イラク〜中央アジア、亀茲、于闐、ウルムチ、多婆那、トルファンの伏犧と女媧、ユニコーン(一角獣)等の、地、人、獣名の説明が必要であると考え、史料の収集を開始する。」と大げさな決意をしていますが、調査は進まず、情けない現状です。今回のとみたさんへの投稿の背景を説明しますと、薦池の和田さんが、豊受大神と何らかの関わりがあるのではないかとの調査中だったからです。「匏宮」の祭神といわれている「豊受大神」と「薦池の和田さん」の関わり、調査結果は「和田さん」には報告しましたが、此処では根拠とした稚産霊神(父・軻遇突智 母・埴山媛 頭に桑と蚕)、その子が豊受ビメだという伝承と中央アジアの和田(ホータン)の伝承(頭に桑と蚕を隠して漢王姫が嫁入り、秘伝の絹を国外に持ち出した)を故事つけると、和田と豊受が繋がるというばかばかしいお笑いだけを申しあげておきます。
隣接地に「朴丸(ほうまる)」という小集落があります。
私のメモには「朝鮮半島の朴は少彦名が持ち込んだ文字で、朴丸の朴は古い地名だと推測できないか。「新羅本紀」朴の由縁を記述。丸は「粟、泡」。小さな球体が想像でき、少彦名を連想させる。」と走り書きしていました。朴の文字は、列島と半島とどちらが先か、この朴丸が早いのではと勝手に考えています。
薦 一 セン 二 シン
会意 艸と廌(ち しかに似たけもの)とにより、廌が食う細かい草の意を表す。借りて「すすめる」
意味 一 @くさよもぎ。くさ。<あ>けものが食するくさ。まぐさ。<い>細かい草。また、しげった草。Aこも。むしろ。草を編んだ敷物。Cすすめる。
薦祼(せんかん)供え物をすすめ、酒を地に注いで神にいのる。
竹野(たかの)神社の祭礼は薦池から「ササ」が届かないと出発出来なかったという。
祭礼の最初の神事に「酒を地に注いで神にいのる」儀式があったと推測。
一角獣の「いち」は付近の山の名になっていると思える。
薦居(せんきょ) 遊牧民が移動しながら住み、定住しない。一説に薦は草で、草のある所を求めて住む。薦紳(しんしん) 高貴な人。地位のある人。薦羞(せんしゆう)まつりの供え物。 [角川新字源874]薦という文字は、「上は薦紳(しんしん)から下は厮(し)隷にいたるまで」という表現があり、また史記卷一 五帝本紀第一末尾に「薦紳先生」の文字がみえる。「薦紳先生」とは「身分学識のあるもの」という意味で使われている。
薦―草=廌。廌(ち)意味 @「解廌(かいち)」は鹿に似た一角の神獣。被疑者に触れると、罪のあるなしを明示したという。Aのり。法。[角川新字源331]
重要文字「解」の登場です。
新羅本紀
脱解尼師今 立 一云吐解 時年六十二 姓昔 妃阿孝夫人 脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里
脱解尼師今の生まれた多婆那國はどこか。候補地に薦池を推薦したいが、根拠がなくて残念というところです。
最後に、矢田神社の海神三神は「漢委奴国王」の印と関わる志賀海神社の祭神と同一だということ、須賀、菅、筒川、朴のキーワードを追跡すれば、薦池の正体が見えてこないかと考えています。関連情報の提供をお願いします。ご無礼いたしました。

[9837] ぎおんさん  とみた 2009/05/09(Sat) 23:49 [Reply]
ぎおんさん 私より余程お詳しいですね。

穴があたら入りたいですよ。(笑)
>「豊受大神が比治山の井戸の沼(真名井)に舞降りてくるとき、天道日女が出迎えました。」についての根拠が

この掲示板で登場される、大三玄さんは、神奈備さんと同様、伝承研究の大家です。

丹後風土記残欠として紹介されています。・・・・豊受大神が丹波の伊佐奈子嶽に天降りされたとき、天道日女命たちはこの大神に五穀と蚕などの種をお願いした。

その嶽に眞名井を掘りそれで灌漑して水田陸田を定めて植えた。・・・・

私は、摂津の高塚米谷から丹波に来たのかその逆なのかに関心を持っていました。

丹後の籠神社に、昨秋訪れ宮司さんにお会いし、その考えを纏めた伴とし子さんの”前ヤマトを創った大丹波王国”を購入し読みました。丹後の籠神社の奥500mに眞名井の奥宮があると神社の表札に出ていました。

丹後の国府の宮津に海部の根拠を移す前は、日本海に面する久美浜に海部の本拠があったとされるのは郷土史家で、お目にかかりました。

久美浜には弥生初期の貝殻施文の綾杉文土器が出土し、中国の紀元後の王莽時代のt通貨である貨泉も出ています。

私は、専ら考古学の方に重きを置いております。二上山博物館主催の”邪馬台国時代の丹波・丹後・但馬と大和”という報告書を読んでおります。京都府
埋蔵文化センターの高野陽子さんが各地の土器研究を比較考証され、丹後は栄えていた弥生後期は、因幡・伯キと対立していたとかの新鮮な見方に興味を持っております。

或いは、佐々木さんが指摘された古山陰道には月読神社が多いとか、地元の方が仰るように、加古川の東は、住吉神社が多いとかなど海の民との接点や吉備との関係などに興味を持って眺めています。

伝承は、古文書が不得手ですので良くつかめません。
丹後の碇高原とは伊加里の高原を想像してしまいますねえ。場所は何処でしょう?

伊加里姫神社が西舞鶴にありますね。水銀の女神でしょうか。大川神社の南の山が

碇山、五十里、威光、井光?

[9836] 奥500mにもってくるとは  ぎおん 2009/05/09(Sat) 15:51 [Reply]
青草という場所がふさわしいのか、場所もわきまえず、主様の許可も得ず、失礼します。
早速のご回答に感謝します。とみたさんが、ひょっとして大変高貴なお名前「豊御富登」の「とみた」様ではないかと思って投稿させていただきました。ご無礼をお許しください。
4月24日、魚居(まない)原と呼ばれる京都府宮津市大垣の匏宮(よさみや)の祭り(大昔は葵祭り、今は藤まつりと呼ぶ)に、なんでも今年は2500年祭だとのうわさをききましたが、「一角獣」の神楽が奉納されたそうです。丹後の碇高原山麓に薦池という集落があります。そこは、和田、富田、小松の三姓だけの集落です。薦は草と廌。ユニコーン(一角獣)の丹後名「廌」。
「豊受大神が比治山の井戸の沼(真名井)に舞降りてくるとき、天道日女が出迎えました。」についての根拠が伺えればうれしいのですが。また「その奥500mに真名井をもってきます。」の意味をもう少し深くご説明いただくとうれしいのですが。恐れ入りますがご教授をお願いします。

[9835] Re[9833]: とみたさん [9820]  とみた 2009/05/07(Thu) 10:42 [Reply]
> はじめまして。突然失礼いたします。興味深い記述につい、投稿させていただきました。
> とみたさんにお伺いします。
> 「比治の天女は豊宇賀能売命=豊受大神です。別の説では、豊受大神が比治山の井戸の沼(真名井)に舞降りてくるとき、天道日女が出迎えました。」
> 「丹波が、その北部を分割して丹後国を設けたのは、713年。天の橋立の宮津に国府を移し籠神社を作り、その奥500mに真名井をもってきます。」
> 上記2点についてもう少し詳しくご説明いただけないでしょうか。よろしくお願いします。

興味を持っていただいたことだけでも光栄です。
私は、現役時代は古代史のコも知リませんでした。
今は呆け予防に、やっています。

私の心がけているのは、記紀などの文献と考古学を併せながら見たい。考古学優先です。それに文献を絡め、神社研究を参照したい。
古代史は迷宮入りになりやすいので、すぐ妄想で短絡し勝ちです。百家争鳴で諸説が、飛び交っています、それを避けたい。確かな情報を博物館や資料館の学芸員に訊ね、シンポジューム報告者などの専門書を漁って確実な証拠を集めています。

その延長上で皆さんと会話しながら切磋琢磨したいと思っています。

ご質問の件は、神奈備さん、など私よりずっとお詳しいと思います。

ただ私が何を考えているかを、お伝えします。

伊勢神宮の外宮は、豊受ですね。食の神様でしょう。

渡会氏が宮司です。渡会氏は磯部氏です。内宮は荒木田氏ですね。

元は渡会氏の方が偉かったのに、荒木田氏は中臣氏と計って偉くなったのでしょう。

13世紀に渡会氏が内宮と同等に外宮もしようと、頑張りまして、倭姫命世紀という偽書を造り両部神道が出ています。倭姫のことは、元伊勢を巡って伊勢に落ち着く話でしょう。この話も作り上げられている、勢力争いが背景にあることです。

豊受けは稲作と関係があるとすると、摂津の宝塚の米谷あたりは入り江で稲作を持ち込んだ民がいるのではないか、

その近くに三国志時代の呉の年号に執着した海の民の安倉古墳がある。

でも、海部といえば、丹後の宮津の籠神社を考えます。

律令時代になって、丹波の北部が分離して国府が宮津にされてからです。

それでも。天橋立のある阿蘇海は、野田川が流れ込んでいて、弥生後期といえば紀元後2-3世紀前半の古墳があります。大風呂遺跡です、船底状の木棺はありますので海の民の墓でしょう。地元の郷土史家は海部の本拠は、日本海に面する久美浜とされています。

籠神社は国宝の海部氏の系図があることは、皆様ご承知のところです。

海部は但馬・丹後・丹波・若狭の海の民でしょう。海部は瀬戸内にも多くいます。

安曇氏や宗像氏の関係が微妙です。隼人かもしれません。海部は各地の海産物を取る部民として、水軍の水手として活躍するのでしょう。律令時代に阿曇氏が中央官僚として部民を仕切るようになります。

海部氏と物部氏と尾張氏の系図が混迷しているので良く分かりません。
多分、ご質問のキーはこのこととは思いますが、私は研究不足です。

私は古山陰道に月読神社が多いという指摘が気になっています。それと巨椋池です。

、この池(湖)は桂川と宇治川と木津川が合流する地点で、丹後但馬の弥生時代後期の土器が近くの久御山や八幡市の里八丁遺跡に入り、京田辺には隼人の足跡があります。皆、海の民です。ツキヨミは壱岐の壱岐氏です。これが神がかりして桂川=大堰川の下流の葛野に領地を取りツキヨミ神社を造ります。宮司は壱岐の人です。

秦氏が絡んでいるのではというつながりを見ています。

秦氏は平安京の地として桓武に提供する土地です。

長くなりました。皆様のご批判とお知恵をいただけるとありがたいと思います。






いただいたご質問には直接の回答になっていないことを、お許しください。

[9834]  真名井 峠 亀   生田淳一郎 2009/05/07(Thu) 08:09 [Reply]
 とみたさん、裏番組の青草掲示板へ真名井 峠 亀などを書きましたのでアマカネ

[9833] とみたさん [9820]  ぎおん 2009/05/06(Wed) 23:49 [Reply]
はじめまして。突然失礼いたします。興味深い記述につい、投稿させていただきました。
とみたさんにお伺いします。
「比治の天女は豊宇賀能売命=豊受大神です。別の説では、豊受大神が比治山の井戸の沼(真名井)に舞降りてくるとき、天道日女が出迎えました。」
「丹波が、その北部を分割して丹後国を設けたのは、713年。天の橋立の宮津に国府を移し籠神社を作り、その奥500mに真名井をもってきます。」
上記2点についてもう少し詳しくご説明いただけないでしょうか。よろしくお願いします。

[9832] 気になる余白  外野ファン 2009/05/06(Wed) 23:39 [Reply]
「神奈備掲示板」外野席ファンのひとりです。
いつも興味深く拝読しています。

余計なことで失礼かとは思いますが一言のみ。
投稿文中、文末に多くの余白部分が散見されますが、このスペースに意味があるのでしょうか?
もし、特に意味がないのでしたら、いつもそのような書き方をされる方は、詰めて頂きたいと思います。
その方が読みやすいしメモリの節約?にもなると思うのです。

[9831] 丹後再考  とみた 2009/05/06(Wed) 14:03 [Reply]
古代史は。クイズ パズルみたいです。横,縦、斜に埋まった情報から空白を埋める作業の繰り返しです。

丹後は、大江山で境されて、丹波と分断されます。

丹波には北丹波、南丹波(=京丹波)、西丹波(=兵庫丹波)と分けられるようです。北丹波は由良川が流れ、西丹波とは加古川流域と100m以下の低い峠で結ばれる。

これが瀬戸内海と日本海を結ぶ古代の基本ルート。

北丹波と南丹波は観音峠のある丹波山地が分断。

北丹波の福知山ー綾部から山を越えて、南丹波の園部ー亀岡⇒京都と山陰線が走る。

亀岡は保津川下りの出発点。

大井川(大堰川)とも呼び、その下流域は、秦氏が開拓した土地で、松尾神社がある。

佐々木さんから、上田正昭先生が丹波にお詳しいと紹介を頂き、神奈備さんから、すばらしい補足をいただきました。

ありがとうございます。
>亀岡市曽我部町穴太宮の小幡神社の社家へ養子に入ったのが上田正昭先生。この神社の祭神が開化天皇・彦坐王・小俣王の親子三代です。陸耳匹女の伝承ですが、『仁徳紀』十六年の条に、「丹波の桑田の玖賀媛の悲劇的な死の記事がありますが、これを思い起こします。

目から鱗のコメントです。日子坐の玖賀媛賀征討が仁徳時代とすると秦氏の開拓にも関与するかもしてませんね。

綾部市の綾部は漢部かも知れません。渡来人が由良川を挟んで、由良川にも集落を残しています。久保田丘陵の久保田古墳です。

秦氏の古墳群という説もあるそうです。(?青草かも)。桑が地名にあるのが気になりますね。秦氏の養蚕とはまさか、関係がないでしょう?。由良川中流域に桑飼上遺跡があります。


墳墓と土器の分析によると、丹後は弥生時代後期に栄えました。倭国大乱の時代です。鉄の中継地として鉄の集積・再配分のターミナルとして栄え、畿内への流通ルートとして栄えたという説が有力かもしれません。

その最も栄えた頂点が、卑弥呼と同じ時代の3世紀初めの赤坂今井墳墓で玉の頭飾りが副葬されていたことで有名です。この時期を過ぎると丹後は衰え、北陸勢が進出しますが、その後、弥生時代から古墳時代に移る庄内土器併行期に畿内の影響が強まります。

奈良県桜井市のホケノ山墳丘墓は、石囲い木槨墓で有名ですが、これと似たのが、

丹後の竹野川流域の涌田山古墳と南丹波の園部黒田古墳にあるそうです。園田の地

は、西に向かい天引峠を越えれば加古川に出て播磨に通じ、由良川に出て、北丹波や丹後に通ずる交通の要衝だそうです。畿内・摂津と播磨や丹後への交流の道だったのでしょう。

亀岡と亀の背(瀬)が水捌けの 山峡とは面白いですね。亀の名がついているのもなんだか不思議です。


地名に自信がありません。ミスがありましたらご容赦ください。


[9830] Re[9829]: 丹後再考  神奈備 2009/05/06(Wed) 08:55 [Reply]
> 亀岡盆地も昔、大きな湖があったらしいですね。

 口丹波のいくつかの神社の由緒に開拓のお話があります。
 神々が保津の山峡を切り開き、湖の水を流したとのようです。保津峡は両側が崖になっており、崩れればまた湖に戻るような雰囲気は、大和川が亀の瀬の上流での山崩れの防止工事を延々とやっていますが、これも奈良盆地が水没しないためのようです。諏訪盆地にもよく似た伝承があったと記憶しています。

 鍬山神社 大己貴命。
 桑田神社 市杵島姫命・大山咋命・大山祇命。
 村山神社 大山祇命・木花開耶姫
 請田神社 大山咋命 市杵嶋姫命

 この地域も秦氏の開発伝承がありますが、祭神を眺めますと、保津川が大堰川になる付近に鎮座する松尾大社の祭神の大山咋命・市杵嶋姫命の名が目をひきます。そこへ地元の民人の神であった大己貴命・大山祇命が参加したと言うイメージでしょう。


> こんな歴史の流れを見るとき、日子坐が由良川の福知山の大江山の麓の河守にいた土着の陸耳匹女=玖賀耳御笠を殺したのは、何時の時代であるのか。

 亀岡市曽我部町穴太宮の小幡神社の社家へ養子に入ったのが上田正昭先生。この神社の祭神が開化天皇・彦坐王・小俣王の親子三代です。陸耳匹女の伝承ですが、『仁徳紀』十六年の条に、「丹波の桑田の玖賀媛の悲劇的な死の記事がありますが、これを思い起こします。

[9829] 丹後再考  とみた 2009/05/05(Tue) 11:03 [Reply]
佐々木さん、素人さん 丹波の話で材料をいただきまして。オオキニです。

亀岡盆地も昔、大きな湖があったらしいですね。

巨椋池も河内湖も川が流れ込めば湖になりますし、治水が悪い時代ですから大雨の時期は洪水になりますね。亀岡の湖も然りでしょう。

土器の分析や古墳の分析に拠れば、丹後は、弥生後期から弥生末は栄えていた。その典型は赤坂今井墳丘墓です。

頭飾りの巫女王妃でしょう。この頃は丹後など北近畿は山陰と仲が悪そうです。由良川や亀岡あたりも丹後の土器や台状墓の型式が入ってきます。

その時期を過ぎ、弥生時代から古墳時代に移行する庄内式土器移行期には、北陸の土器の影響が深まります。北陸勢が勢力を張ったわけです。丹後の影響は消えてゆきます。

4世紀に入り古墳時代前期には、丹後には畿内の土器や墓制が入ってきて埴輪や葺石が影響を与えまして、福田川や野田川に大きな前方後円墳をもたらします。

こんな歴史の流れを見るとき、日子坐が由良川の福知山の大江山の麓の河守にいた土着の陸耳匹女=玖賀耳御笠を殺したのは、何時の時代であるのか。崇神時代とするのは作り噺でしょう。大江山を水源とする野田川が流れくだる途中に弥生中期や古墳時代の墳墓がある。野田川は阿蘇海に流れ込む。

535年には屯倉が出来る。継体の子供の安閑・宣化の時代でしょうか、欽明時代も盛んに、屯倉を造るのでしょう。三宅は屯倉で、この地に大和朝廷の楔を打ち込んだのでしょうね。関東でも武蔵や毛の国に屯倉をこの時代に造っています。


[9828] Re[9826][9823][9822][9820]: 丹後再考  素人 2009/05/05(Tue) 00:09 [Reply]
とみた様
> 桂川は保津川であり大堰川や大井川と名を変える。亀岡あたりから北が良く分かりません。
>
話はずれますが、保津川中流の亀岡市に屯倉が置かれたようです。
「『日本書記』には、535年、諸国に26の屯倉を設置されたとあります。丹波国には「蘇斯岐屯倉(そしきのみやけ)」が置かれたとあり、これが現在の三宅町付近と考えられています。」
丹波の屯倉が亀岡に置かれたと言うことは保津川流域が重要な交通の要衝であったのかもしれません。資材の集積には船による河川交通網が活躍したのかもしれません。
三宅神社 (神社は、この屯倉に併設されてつくられたものといわれています。)
京都府亀岡市三宅町121
http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/midori/cultureagri/treasure/kyoto/kyoto031.html

[9827] Re[9826][9823][9822][9820]: 丹後再考  佐々木 2009/05/04(Mon) 13:29 [Reply]
とみたさん
>現在の流路は干拓・開拓で古代とは変わっていること。
 概ね条里制地割の有無、○○新庄地名、○開地名の有無で見分けることができると思います

>今は由良川に注目しています。
 由良川は志高あたりまで、縄文時代海が来ていたそうです。
 また大江(比治?)町河守(こうもり)から福知山、綾部市外まで歴史的な水害常習地です。
 由良川上流で時間30mm以上降雨があれば、天気でも由良川流域ではまず一番に河守が浸水する傾向にあります。その後河口で高潮が起こる。由良川の河口域に港ができにくかったのはその関係か。
 遺跡は由良川右岸で標高20m以上の場所、犀川流域の物部・以久田野地区、八田(はった)川流域の私部・梅垣地区、左岸の土師川流域の天田(あまだ)、三和(みわ)地区、竹田川流域の六人部(むとべ)地区であろうか。○部地名が多いです。

>大和ー山城や摂津から丹波への道が、どうなっているかに関心があります。由良川に接続する道が分かりません。
 古山陰道ですね。
 木津(泉)川の左岸を通り、山崎津でから老坂、概ね国道9号線沿いを通過、また古山陰道沿いには月読神社が多く並びます。
 
>日吉町の胡麻とされるが、高さが不明です。
約200m
 ★南丹や中丹地区は、桑原公徳先生や上田正昭先生のご研究の地域でした。

[9826] Re[9823][9822][9820]: 丹後再考  とみた 2009/05/04(Mon) 11:52 [Reply]
 
神奈備さん 補足を頂きありがとうございます。

素人さんの徹底的追及の態度もありがたいです。
佐々木さんの参加も心強いです。

私は、京都府埋文センターの高野陽子さんの土器に研究で、丹波。・丹後・播磨・但馬あたりを追っかけています。

川と入り江(潟湖)の分布が謎解きの大きなヒントかと考えます。現在の流路は干拓・開拓で古代とは変わっていることを考慮せざるを得ません。それと分水嶺や峠が何処にあり、高さは低いか高いかも検討が必要でしょう。

丹後は北から南に向って、幾つもの川筋があります。

福田川、竹野川、野田川、由良川です。

弥生中期から後期ー終末期の墳丘墓があり、古墳時代前期の古墳もあります。

今は由良川に注目しています。

瀬戸内海の播磨の加古川を遡ると西丹波=兵庫丹波です。多紀郡(現在は篠山市)には加古川の支流が、氷上郡(現在は丹波市)は由良川の支流が流れて分水嶺は100m以下で低いのです。この分水嶺を越えれば由良川の河口の舞鶴に出られます。古代の瀬戸内と日本海を結ぶ基本ルートであったようです。

由良川の中流には福知山があります。その近くに河守という地名があります。
河守の地は、由良川の河口まで下り舞鶴で日本海に出るルートと、北に進むと大江山につながり日本海・丹後に向う山の道ルートとに分かれる、古代の交通の要衝です。

ここでは、昔、日子坐王が土蜘蛛の陸耳匹女などを殺したとする血原の伝説があります。

崇神天皇がが丹波に派遣したのは日子坐王かその息子の丹波道臣とされています。平定して殺したのは、玖賀耳耳御笠です。

舞鶴には、加佐郡にあり笠水(ウケミズ)神社がある。

祭神は笠水彦と笠水姫。笠水姫の父は、倭宿禰で鍛冶神。笠津彦の母は、伊加里姫、井比鹿(井光)で水銀の女神。

これって、大和の當麻の長尾神社の祭神とそっくりですね。吉野の井光にも似てますし・・・・

大和ー山城や摂津から丹波への道が、どうなっているかに関心があります。

由良川に接続する道が分かりません。

オオヤマト古墳群を北上し山辺の道に沿って?途中に天理には和邇氏の東大寺山古墳や和邇下神社がある、さらに北へ、椿井大塚古墳は木津川の畔です。

JR奈良線かな京都線でしたか、木津駅の近くでしょう。そこを北上すると宇治駅の近く、京阪電車の淀駅の近くに巨椋池があり、三川合流していた。木津川と宇治川と桂川です。

桂川は保津川であり大堰川や大井川と名を変える。亀岡あたりから北が良く分かりません。

ここが南丹波あるいは、京丹波と呼ばれる。

大堰川と由良川の分水嶺は、日吉町の胡麻とされるが、高さが不明です。

大堰川を西に辿ると園部町には黒田古墳があり奈良県桜井市のホケノ山古墳と似ている。そこから西に進むと加古川に着く。

素人さんの水路を参考にして眺めています。投稿内容にミスがありましたらご指摘ください。謙虚に皆様のご意見で修正させていただきます。


> 内陸河川を使った移動手段もあったようです。
> 丹後から摂津
> 内陸水路経由もあるようです。
> 意外と古い時代から河川交通の方が発達したのかもしれません。
> 淀川-桂川-保津川-園部川(園部町船坂)-中山峠-須知川-高屋川-由良川-日本海
> 園部川(園部町船坂)-中山峠- 地図
> http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350641&l=1352607
> 「この亀岡から保津川を北西に遡って園部市街地の南東部で保津川に注ぐ園部川を遡っていくと園部市街地を通り、船坂で船を下りて中山峠を越えて北西へ歩くと須知川に乗り換えることが出来ます。その須知川を下っていくと高屋川に合流し、高屋川は和知で由良川の上流域に合流し、和知から由良川を下っていくと綾部、福知山を経て栗田湾で日本海に注ぎます。」
> http://kn2006.blog66.fc2.com/blog-entry-334.html
> 由良川・大堰川-保津川-桂川から淀川などという水路も一部陸路ですが考

[9825] Re[9824][9823][9822][9820]: 丹後再考  佐々木 2009/05/04(Mon) 09:38 [Reply]
> > 由良川・大堰川連結通船路計画について
> 上記のサイトが読み込めませんが・・・
こちらの画面からトライされては如何でしょうか。
http://ci.nii.ac.jp/search?DOCID=110005107013&lang=ja

[9824] Re[9823][9822][9820]: 丹後再考  神奈備 2009/05/04(Mon) 08:40 [Reply]

> 由良川・大堰川連結通船路計画について
> http://nels.nii.ac.jp/els/110005107013.pdf?id=ART0008083405&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1241347916&cp=

上記のサイトが読み込めませんが・・・

[9823] Re[9822][9820]: 丹後再考  素人 2009/05/03(Sun) 22:20 [Reply]
神奈備様
勉強させていただいております。
> > なぜ、摂津から丹波(古代は旦波と呼ばれる)の比治に逃れたのでしょうか。
>
>  丹後と摂津、共通点が多そうです。
>  浦島伝説、倭宿禰、豊受乃売神、大江(大江山、淀川)、青龍三年鏡(弥栄町と峰山町の大田南古墳、高槻市安満宮山古墳)
>  古くから交通路が開けていたのではないでしょうか。武庫川、竹田川、由良川と主に川沿い。即ちJR福知山線、北近畿タンゴ鉄道宮福線など沿い。
>

内陸河川を使った移動手段もあったようです。
丹後から摂津
内陸水路経由もあるようです。
意外と古い時代から河川交通の方が発達したのかもしれません。
淀川-桂川-保津川-園部川(園部町船坂)-中山峠-須知川-高屋川-由良川-日本海
園部川(園部町船坂)-中山峠- 地図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350641&l=1352607
「この亀岡から保津川を北西に遡って園部市街地の南東部で保津川に注ぐ園部川を遡っていくと園部市街地を通り、船坂で船を下りて中山峠を越えて北西へ歩くと須知川に乗り換えることが出来ます。その須知川を下っていくと高屋川に合流し、高屋川は和知で由良川の上流域に合流し、和知から由良川を下っていくと綾部、福知山を経て栗田湾で日本海に注ぎます。」
http://kn2006.blog66.fc2.com/blog-entry-334.html
由良川・大堰川-保津川-桂川から淀川などという水路も一部陸路ですが考えられます。
由良川・大堰川連結通船路計画について
http://nels.nii.ac.jp/els/110005107013.pdf?id=ART0008083405&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1241347916&cp=
毎度の青草でした。

[9822] Re[9820]: 丹後再考  神奈備 2009/05/03(Sun) 16:18 [Reply]
> 伊丹は酒の本場であれば稲作の適地でありましょう。

 この付近には小丘が転々とあったようです。八十島の一角をなしていたのでしょう。稲作の発達は海水がひいてしまった縄文後期以降のことでしょう。

> 宝塚は、米谷・稲野里にある売布(メフ?)神社は豊受乃売神の御厨。

稲谷と稲倉、谷と倉、通じるのかも。


> 別の説では、豊受大神が比治山の井戸の沼(真名井)に舞降りてくるとき、天道日女が出迎えました。

 『丹後国風土記残欠』ですね。天道日女命の夫神は天火明命、天押穂耳命や饒速日尊とされ、はやはり稲作との関連がある神名と言えそうです。


> なぜ、摂津から丹波(古代は旦波と呼ばれる)の比治に逃れたのでしょうか。

 丹後と摂津、共通点が多そうです。
 浦島伝説、倭宿禰、豊受乃売神、大江(大江山、淀川)、青龍三年鏡(弥栄町と峰山町の大田南古墳、高槻市安満宮山古墳)
 古くから交通路が開けていたのではないでしょうか。武庫川、竹田川、由良川と主に川沿い。即ちJR福知山線、北近畿タンゴ鉄道宮福線など沿い。


> 豊受大神

 稲作神として宇迦之御魂神は素盞嗚尊の御子ですが、この神と豊受大神とは違うようです。

[9821] Re[9819][9818][9816][9815][9812][9811][9809][9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  素人 2009/05/02(Sat) 02:01 [Reply]
佐々木様
> 漉いていたのかどうかもよくわからないと思うわけです。
> ●蛾が出た繭(屑繭)は、それをお湯でほぐし拡げ重ね、紙状にしていた。
>  この製法は現在日本でも見られます(場所失念)。
> ●麻は、樹皮を伸ばし帯状にしてから、紙状にしていた。
>  紙状のものは、たたり?目を利用して、色んな太さ(番手)の麻糸に加工していた。
>  
>  ような勝手な印象をもっています。再生は洗うだけでよかったのかもしれません。
>  文字を書く筆の歴史はどうだったのでしょう。そちらも気になるところです。
臼などでついてすく事も出来るでしょうが、広げて伸ばしても紙状のものは出来るのですね。勉強になります。
知らべて見ると布に書いたりもしていた様ですから、勿体ないですが絹布・細い糸で織った麻布、葛布、楕布?などにも文字は書けたのですね。
絹でも、あしぎぬ、山繭・野蚕など色々有り立派な巻物など出来たかもしてません。
色々な素材が高級品(絹)から安価な木の皮を織ったようなものまで有ったようで色々な可能性が見えてきました。これらですと再生はシミ抜きとか洗濯になります。
あまり紙にこだわる必要はなかったようです。有難う御座いました。

[9820] 丹後再考  とみた 2009/05/01(Fri) 12:30 [Reply]
考古学と伝説を併行して、追っかけています。

二上山博物館の館長の石野博信先生の講演に、摂津宝塚の安倉古墳の話しが出ている。

宝塚は弥生時代は入り江で、武庫川の泊まり、つまり船の出入り口に近接する位置にある。
呉の年号である赤鳥7年(244年)銘鏡がでる古墳です。ここは海洋民の墓とされています。244なら弥生時代後期ー終末期です。

話は、神奈備さんが、丹波・丹後の話で解説なされた、摂津国風土記逸文〔稲倉山〕に私は連想を及ぼします。

宝塚は、米谷・稲野里にある売布(メフ?)神社は豊受乃売神の御厨。阪急宝塚線で売布駅があるし、伊丹空港も近い。伊丹は酒の本場であれば稲作の適地でありましょう。

弥生遺跡から籾跡の残る土器が発掘されています。摂津国は最古の稲作発祥地とされています。

豊受乃売神伝説は機織の伝承を伴っていますので。弥生後期でしょう。すると大和の勢力が及ばない丹後王国の時代です。

丹後の赤坂今井古墳の頭飾りをした巫女王の時代です。(邪馬台国の卑弥呼の時代と重なります)。

今井赤坂墳は比治の里と竹野舟木の里ー奈具の中間です。比治山は天女が舞い降りた地で、老夫婦が酒を作らせます。そして天女はご用済みになると捨てられ、奈具に逃げて落ち着きます。

比治の天女は豊宇賀能売命=豊受大神です。

別の説では、豊受大神が比治山の井戸の沼(真名井)に舞降りてくるとき、天道日女が出迎えました。

これは稲作のことでしょうか。移り住んだ奈具の神社には豊宇賀売命=豊受大神が

祀られます。

丹波が、その北部を分割して丹後国を設けたのは、713年。天の橋立の宮津に国府を移し籠神社を作り、その奥500mに真名井をもってきます。そして伊勢神宮の外宮に渡会氏が宮司として食の神様として移します。

豊受乃売神はオオクニヌシの娘でしょうか。

なぜ、摂津から丹波(古代は旦波と呼ばれる)の比治に逃れたのでしょうか。

或いは、稲作技術を持って進出したのでしょうか。

丹後の南部には大江山があります。大江王は弥生後期には、攝津に進出していたかも知れません。その進出を、応神が武内宿禰と九州からやってきて、仲哀の異兄弟の香坂王と忍熊王と戦って勝利する話と関連があるのでしょうか。応神に味方したのが振熊王で、丹後の水軍で海部を名乗り丹後国造になり籠神社に系譜を残します。

その大物が和邇氏?。

応神朝に大江一族に替わって摂津国を任された宿禰は蘇我石川宿禰といわれ、これは建内宿禰の子だとarashimayaさんの丹後考というサイトにでていました。

以上です。

も一つ付け加えれば、武庫川の東に尼崎があり、その近くに猪名川が流れています。この猪名は稲から転じたかもしれません。猪名には田能遺跡という弥生時代の遺跡が在ります。

土地勘とか記憶違いがありましたら、ご指摘いただいて修正願います。


[9819] Re[9818][9816][9815][9812][9811][9809][9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  佐々木 2009/05/01(Fri) 10:32 [Reply]
漉いていたのかどうかもよくわからないと思うわけです。
●蛾が出た繭(屑繭)は、それをお湯でほぐし拡げ重ね、紙状にしていた。
 この製法は現在日本でも見られます(場所失念)。
●麻は、樹皮を伸ばし帯状にしてから、紙状にしていた。
 紙状のものは、たたり?目を利用して、色んな太さ(番手)の麻糸に加工していた。
 
 ような勝手な印象をもっています。再生は洗うだけでよかったのかもしれません。
 文字を書く筆の歴史はどうだったのでしょう。そちらも気になるところです。

[9818] Re[9816][9815][9812][9811][9809][9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  素人 2009/05/01(Fri) 02:17 [Reply]
佐々木様
>  素人さん
> >裏を使ったり、すき直したりすれば安価な記録媒体となります。
>  当時の「紙」的なものにそのような活用方法があったのかどうかが、まずわかりませんね。おそらく文字(当時の感覚では記号?)を写書し、判別できる人物も限られていたのでしょうか。

文字自体が神聖なものとされていたのかと思えば7世紀後半からの日本での木簡は捨てられていたようですから道具としての文字であり文字の書かれた紙も特に神聖なものではないように思ったわけです。紙はすいて居たわけですからほぐして、すき直せばいいだけで、再生に特殊な技術は要らないのではと考えたわけです。
古い時代は勿論、文字自体が神聖なものであったのでしょうが。
 思い付きだけの青草でした。

[9817] Re[9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  素人 2009/05/01(Fri) 02:02 [Reply]
神奈備様
思い付きですが。
>  これに対し、前期難波宮は明確に南を正面とする宮室の、我が国における初現です。難波宮北西部の大蔵も南向きであったといえます。
>
南ですと朱雀で色は朱色でしょうか。辰砂・水銀朱を連想します。
方位と色は関係あるのでしょうか。
青草でした。


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