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掲示板のログ(平成二十一年 九月 2009.9)お名前の敬称は省略しています。

[9971] Re[9967]: 和邇氏から阿部氏へ  神奈備 2009/09/29(Tue) 17:47 [Reply]
> 古代豪族に詳しい加藤謙吉さんは、阿部氏は和邇(王耳)氏系の倭安倍氏とされ、考昭天皇の王子の天押帯日子命の後裔と称する春日・大宅・小野・粟田・柿本・倭安部らの諸氏の総称であり、単一のウジではない。

 擬制同族伝承でしょう。この中の倭安部というのがよくわかりません。

 『古事記』では、「兄天押帯日子命は、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟耶臣・都怒山臣・伊勢の飯高君・壱師君・近淡海国造の祖なり。」とあり、和珥臣も出てきませんし、倭安部の名も見えません。加藤謙吉さんはどこから引っ張ったのでしょうか。

 また、和珥臣と春日臣とを結びつける根拠は、『日本書紀』にあります。
『日本書紀』巻十四雄略天皇元年  次有春日和珥臣深目女。曰童女君。生春日大娘皇女。

 春日和珥臣と言う表現は春日臣と和珥臣とは同族と見なされているとの意味でしょうから、和珥臣も天押帯日子命を遠祖としているとのことでしょう。


『日本書紀』巻十四雄略天皇十三年(己酉四六九五)八月◆秋八月。播磨國御井隈人文石小麻呂有力強心。・・天皇遣春日小野臣大樹領敢死士一百。

 春日臣と小野臣とも同族視されています。

 和珥臣の名は
 『日本書紀』継体天皇元年 次和珥臣河内女曰(草冠に夷:ハエ)媛
 を最後に『紀』から消えています。
 
 どうようの内容は『古事記』では、「阿倍の波延比売に娶ひて・・」とあり、和珥臣と阿倍をつないでいます。

 「古事記は後宮の文学」と言いますが、これらの作成編集に和珥部臣君手がからみ、和珥臣の伝承を加えていったのでしょう。擬制同族伝承とでも言うべきことなのでしょう。その中心に和珥臣がいるのは和珥部臣君手のさしがね。

[9970] 「八ッ場」の由来は「簗場」だった・・・  多美 2009/09/28(Mon) 15:37 [Reply]

神奈備さん

以下の記事を見つけました。しかし、これは間違いだと思います。
念のため、長野原町教育委員会に聞いてみました。簗場と吾妻渓谷とはミスマッチ。谷のある場所が正しいと言っていました(問い合わせに答えているそうです)。

>「八ツ場」の由来は「簗場」だった!?
9月26日8時0分配信 スポーツ報知

 建設中止をめぐり波紋が広がっている群馬県長野原町の八ツ場ダム。ところで「八ツ場」は、なぜ「やんば」と読まれるようになったのか。「地名情報資料室」を主宰する地名研究家の楠原佑介さん(68)によると、「八ツ場」のルーツは川を下るアユを竹のすのこを使って取る古来漁法「梁(やな)漁」にあるという。

 「魚を取る時の名残としての簗場(やなば)という地名は関東だけでも秩父の簗場鉱泉などに残っています。地名の漢字は後から当てたものが多いのですが、『梁』という字は難しいから『八』を当てて『八ン場』と言われていたのかもしれない。『ン』と『ツ』は文字が似ているから一回間違えて使われれば、そのまま通ってしまい、定着していた『ン』という読みだけが残った可能性があります」(楠原さん)。

 一方で、地元の長野原町には「獣を追い込む八つの穴があった」「弓矢の『矢』が『八』になった」「谷を『や』と読んでそのまま『八』になった」などの言い伝えも残されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%90%8D%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%AE%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E5%8E%9F%E4%BD%91%E4%BB%8B

>八ツ場の語源の解説ありがとうございます。
 沈没予定地にも、またその近隣にも多くの神社が鎮座しているようです。
 奈良県の都祁村には國津神社から雄神神社へと渡った神様の足跡として「休んば」と呼ばれる田の中の叢が点々とつづいています。
 ひょっとして、これが八ツ場へと等と考えていました。
http://kamnavi.jp/as/uda/tugeogami.htm






[9969] Re[9967]: 和邇氏から阿部氏へ  神奈備 2009/09/26(Sat) 22:18 [Reply]
> ワニ氏から阿部氏に向かいます。
>
> 神奈備さん、皆さんご意見を窺えませんか。

難しいし、雑用に追われるは、暫時猶予を!

[9968] Re[9966][9965][9963][9962]: 豊中歴史同好会 塚口義信さん講演から  神奈備 2009/09/23(Wed) 18:24 [Reply]
> それが、美濃赤坂の金生山の鉄。今は石灰の採掘で有名ですが、弥生時代は鉄や銅の産地、特に赤鉄鉱の成分が高く東海式土器のパレススタイル土器の塗料(ベンガラ)に使われ古墳時代は鉄器の原料にされた。

 赤坂地名は全国に分布しており、おそらくは金属に関わる地名なのでしょう。大和には和爾坐赤阪比古神社が鎮座、ストレートに和爾と赤坂を結びつけています。

 赤坂比古命を祀る神社は和爾坐赤阪比古神社以外には、次の神社が見いだせます。
  新潟県西蒲原吉田町 赤坂諏訪神社「和爾坐赤坂比古命」
  群馬県安中市 榛名神社「赤坂彦神」
  奈良県大和郡山市 賣太神社摂社八柱神社「赤坂比古命」
 これらの神社の鎮座地が赤土なのかどうかよくわかりません。

 なお、和爾坐赤阪比古神社の祭神が阿田賀田須命と市杵嶋比賣命となっており、これ宗像神社の神々に見えます。『新選姓氏抄録』大和国神別に和仁古と言うのがあり、大国主六世孫阿太賀須命之後也とあります。また吾田片隅命は大神朝臣と同じく宗像朝臣の祖とあります。和爾さんは天孫系から国津神系まで幅広い氏族集団だったようです。

 和爾氏は石上神宮の祭祀氏族になっており、また『延喜式』神名帳の備前国赤坂郡に「石上布都之魂神社」が載っています。この赤坂との関連を指摘しているのが大和岩雄氏です。

 和爾氏の武振熊は武人であり、神剣の魂を祀る石上神宮の祭祀氏族であったというのは物部市とも通じるようです。
 

[9967] 和邇氏から阿部氏へ  とみた 2009/09/21(Mon) 14:43 [Reply]
老人の日にて、所作がないので、ひぐらし、硯に向かいてならざる、パソコンに向かいて、よしなし事を綴らせていただきます。

ワニ氏から阿部氏に向かいます。

神奈備さん、皆さんご意見を窺えませんか。

継体のお姫様は沢山います。阿部波延比売は和邇氏の出身のハエヒメとするのが日本書紀で、古事記では大彦命・大淳河別命とします。

古代豪族に詳しい加藤謙吉さんは、阿部氏は和邇(王耳)氏系の倭安倍氏とされ、考昭天皇の王子の天押帯日子命の後裔と称する春日・大宅・小野・粟田・柿本・倭安部らの諸氏の総称であり、単一のウジではない。

安倍仲麻呂が唐で故郷の春日山の御蓋山を偲んで歌を詠んでいる。
春日神社は、中臣氏の氏神になって春日の地は中臣氏の本拠になっているが

元々は阿部氏の地であったと思われる。

阿部氏といえば、阿閉氏との関係が気になる。阿閉氏は三重県は伊賀の地、青山高原辺りに本拠があるとされるのが真弓常忠氏(住吉神宮の宮司)です。伊賀上野には大彦命は阿部(阿閉)氏の先祖で伊賀上野には敢国神社があり、大彦命と金山ヒコ神を祀っている。

阿部氏には鉄が関係しているように見受けられる。伊賀上野の近くには佐那具(鉄の鐸)という駅名がJR関西線にある。

阿部氏は奈良県の桜井市の近くに本拠がある。桜井茶臼山やメスリ山古墳は大和と伊勢をつなぐ道筋にあり途中に青山高原がある。


青山高原は木津川の上流域でもある。
木津川は和邇氏の本拠でもある。琵琶湖の水運で若狭にも通ずる。

阿部氏の同族の膳氏は若狭の出であり、千葉県の房総にも進出している。一族の高橋氏は天皇の料理係として磐鹿六雁命を祀る。
阿閉氏は、雄略の後の顕宗天皇の時代に任那に船で行くとき、対馬の日神に、壱岐の月神が神がかりして、磐余(阿部氏?)の地に日神を太秦(秦氏)に月神の領地を割くことになりまっす。

阿部氏も膳氏の本拠も桜井の近くにあるようです。伊賀と大和磐余と若狭をつなぐ糸は何でしょうね。

阿閉・阿部氏と対立するのは出雲神オオナムチの子、出雲建子命またの名は伊勢津ヒコです。
韓鍛冶 VS 倭鍛冶でもあるのでしょうか。


[9966] Re[9965][9963][9962]: 豊中歴史同好会 塚口義信さん講演から  とみた 2009/09/21(Mon) 11:33 [Reply]
>  和珥氏には面白い伝承が付いているようですね。
>  武振熊さんは飛騨の両面宿禰を退治しています。飛騨方面の伝承では悪い怪物ではなさそうですが、公から見ると許しておけない存在だったのでしょう。

仁徳紀は、両面宿禰を討伐した人物を和邇臣の祖難波根子武振熊としています。ワニ氏はヤマト王権と強い姻戚がある。ワニ氏にはいろいろな伝承がありそうです。

近江の野洲には三上(御上)山があり、天之御影神を祀っていますね。この娘の息長
水依ヒメが和邇氏系譜の日子坐と結ばれて何人かの子供が居ます。

一人は淡海=近江の安国造の祖先です。この安=野洲の支配者でしょう。
三上山下に古墳があり。獣帯鏡が出ている。これは6世紀中葉の古墳です。

この鏡は、百済の武寧王陵や群馬県高崎市の綿貫観音山古墳からも同範型鏡が出ています。

中国の後漢時代に作られた鏡を、中国の南朝・梁?で踏み返し法で作られた鏡でしょう。

安国造は、継体天皇のヤマト進出に協力したが、壬申の乱で大海人皇子に背いて記紀には消されている。記紀は天武・持統天皇の協力した人を出世させ取り上げている。

日子坐王と息長水依ヒメとの間には大根王がいる、これは美濃の本巣(三野)国造の祖です。

日子坐王の墓は岐阜の伊波之西神社に隣接しています。

和邇は息長氏と結ばれる。息長は鉄関連、天之御影は鉄関連。和邇氏は息長と結託して美濃の赤坂の鉄を狙って進出したのでしょうか。

それが、美濃赤坂の金生山の鉄。今は石灰の採掘で有名ですが、弥生時代は鉄や銅の産地、特に赤鉄鉱の成分が高く東海式土器のパレススタイル土器の塗料(ベンガラ)に使われ古墳時代は鉄器の原料にされた。

[9965] Re[9963][9962]: 豊中歴史同好会 塚口義信さん講演から  神奈備 2009/09/16(Wed) 21:01 [Reply]
 和珥氏には面白い伝承が付いているようですね。
 武振熊さんは飛騨の両面宿禰を退治しています。飛騨方面の伝承では悪い怪物ではなさそうですが、公から見ると許しておけない存在だったのでしょう。

 また一夜孕みは神話の世界だけかと思っていましたが、『日本書記』では、雄略天皇の妃に春日和珥臣深目が娘の童女君が一夜で孕んだお話が載っています。やはり天皇は我が子かと疑っています。瓊々杵尊が木花咲耶姫を疑ったのと同じですね。

 遠来の客を一夜妻を以て歓待するのは昔も変わらない風習だったのでしょう。

[9964] 総社市福井 神明神社 萩野様よりのお便り  神奈備 2009/09/15(Tue) 14:27 [Reply]
htp://www12.atpages.jp/kamnaviholiday/gazou/h1312.htm
題名:神明神社 名前:泊瀬女 日時:12/24(月) 平成13年
 神明神社:総社市福井
元伊勢伝承地、吉備国・名方浜宮 比定地?

 実は泊瀬女さんという方からの記事で大変感謝しておりますので、メールします。
2001年11月に神明神社のほうへ参拝していただいている内容の文が掲載されていて、そんなに以前に参拝されてたいう事実に感動致しましたが、この泊瀬女さんの写真つき記事を見て、子供のころの記憶を思い出しました。またその中に出てくるおばあちゃんのお話の内容から、自分の氏神様を人に祭っていただいていたという反省点から、急ぎ関西から岡山に帰省致しました。それから、修理、お祭りと・・・・現在に。

こちらの掲示板に約三年前にお目にかかれたおかげで、一族としては約70年ぶりにお祭りを復活することができました。
どうも有り難う御座いました。また、泊瀬女さんへもご連絡する機会が御座いましたら、感謝していたことをお伝えください。


[9963] Re[9962]: 豊中歴史同好会 塚口義信さん講演から  とみた 2009/09/14(Mon) 11:26 [Reply]
>  健振熊については以下の注釈がついています。
>  此若狭木津高向宮に海部直姓定賜て楯桙賜国造仕奉き 品田天皇御宇
>>  直接の祖先は健振熊となっていますが、彼は『古事記』では忍熊王を琵琶湖で騙し討ちをした将軍です。ワニ氏(和珥、丸邇)の祖とされています。河内政権の誕生に功績大の健振熊に系図を繋ぎ、応神天皇の頃に国造となったとの伝承は、海部氏にとって応神朝は画期の時期であったということです。

琵琶湖周辺、木津川(山代川)、宇治川辺りには同じような伝承がありますね。

旧辞の中に、古くから存在していた。これを素材にして組み立てたらしい。

応神天皇の後継者争い。大山守を木津川辺りの田辺の伽和羅で溺れさせて、宇遅能(宇治)和紀郎子が勝つ。これはワニ系皇子。若死にして大雀命=仁徳に皇位を取られる。

ワニ氏は宇治川・木津川水系の渡船人と船頭集団とするのが黒沢幸三先生。ワニは水上の民で海部や川の民とつながりそうです。海部は水手で水上生活と軍人で関与する。ワニは鰐で水棲動物に由来させたのでしょうか、船頭は軍人にも早代わりできます。また交易の民でもあり力を得たのでしょう。

仲哀の畿内の皇子である忍熊王に、仲哀と神功皇后の間の子の応神が九州からやってきて戦うときにワニ系の建振熊が助太刀する。記紀にも菟道(宇治)にて軍するとある。
丸邇臣の祖の日子国夫玖命は、反乱を起こした建波邇安王を山代の和カ羅川で破る。
みんなワニ氏にまつわる同根の旧辞の伝承。この素材を紀記は都合のよいように料理しているだけでしょうね。
継体天皇は若狭近江からやってきて大和に入るのに難儀する。大和入りを可能にするのは山代に本拠を持つワニ氏の応援によるらしい。

ワニ氏の娘ハエヒメが継体天皇への輿入れが契機になって応神天皇とヤカエヒメとの聖婚譚が創作された。

古事記では阿部ハエヒメが登場、この阿部氏はワニ系の倭安部氏のこと。

阿部氏が勢力を張るのは、阿部倉橋麻呂の時代、阿部氏はワニ氏の伝承を乗っ取ってハエヒメを取り込んだ。

いずれにせよ、琵琶湖周辺は5-6世紀の大舞台です。そこにワニ氏が大きく関わっていたのでしょう。応神などの軍事に関与。

7世紀になると阿部氏が、羽ばたき、阿部の比羅夫などが活躍する。壬申の乱の功績で阿部御主人が出世する。持統天皇の時代に阿部氏の氏族伝承を形成する。



[9962] 豊中歴史同好会 塚口義信さん講演から  神奈備 2009/09/13(Sun) 10:15 [Reply]
 籠神社祝部系図

 火明命− −三世孫倭宿禰命−−孫健振熊宿禰命−Π−兒海部直比−−兒海部直懸−−

 健振熊については以下の注釈がついています。
 此若狭木津高向宮に海部直姓定賜て楯桙賜国造仕奉き 品田天皇御宇

 若狭国木津とは、大飯郡木津郷(昔は遠敷郡)で子生川(こびがわ)下流域で、高向宮は場所不明ですが、宮崎、若宮、塩土などの地名が見られ、式内社の佐伎治神社が鎮座しています。
 木津郷にいた海部直比が応神天皇の頃、国造になったと言うことを言っています。系図の書き方に子孫につながる経線の横に長方形が書かれているのは、そこより上は他の系図からの借用、下は海部直の系図と言う意味だそうです。

 直接の祖先は健振熊となっていますが、彼は『古事記』では忍熊王を琵琶湖で騙し討ちをした将軍です。ワニ氏(和珥、丸邇)の祖とされています。河内政権の誕生に功績大の健振熊に系図を繋ぎ、応神天皇の頃に国造となったとの伝承は、海部氏にとって応神朝は画期の時期であったということです。

 誰でも祖先は猿ですが、海部氏が天皇家と並ぶ古い家系だというのは伝承に過ぎないのでしょう。塚口先生は籠神社の海部宮司さんの前では言いにくいお話だと言っておられました。

 丹波(後の丹後)や若狭、但馬など日本海側の古墳は実質5世紀から造営されたようで、これも河内政権が日本海側の海人集団を支配していった足跡だろうとのことでした。

 また、吉備などの古墳も5世紀に入ってから模様を一新するようで、各地の古墳を見ていくと河内政権の発足と支配の進捗がうかがえる特長があるとのことでした。

[9961] Re[9958][9955][9954][9953]: 白村江  素人 2009/09/12(Sat) 22:19 [Reply]
神奈備さま
>  百済軍最後の地で、三千人余りの官女が落ちる花のごとく天馬江へ身を投じた所として、落花岩と呼ばれる場所があります。その河口を船で見物しましたが、まさに夕日が水を照らし、倭国水軍の兵士の血で染まった白村江を見る思いでした。
> http://kamnavi.jp/it/sosimori2.htm
絵のように川に落ちないで、岩に激突したのではないでしょうか。
地形図でも岩にぶつかるように思えます。本当に錦江が血で赤く染まったのでしょう。
岩からの飛び降りといいますと韓国の前大統領盧武鉉さんの金海市の裏の岩山からの飛び降りを思い出します。韓半島は飛び降り自殺とか多いのでしょうか。
橿原日記Web
http://bell.jp/pancho/kasihara_diary/images/h19a/0113-17.jpg
落花岩の写真(川まで届かないでしょう。)
http://bell.jp/pancho/travel/korea-5/images/0414-22.jpg
青草でした。
>
>  白村江の戦の後、10年も経たない間に内戦をやっています。壬申の乱です。のんびり内戦とは言いませんが、この頃になると、すっかり唐の恐怖はなくなっているようです。
百済救済派が大クーデターで粛清されたのでは。
唐の影響も考えられますし、唐の恐怖をもろ被ったのかも知れません。
素人の青草でした。

[9960] 豊中歴史同好会  神奈備 2009/09/10(Thu) 21:28 [Reply]
2009 9 12 堺女子短期大学 名誉学長 塚口義信
5世紀のヤマト政権と丹波 市教育センター
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2009.html

[9959] Re[9957][9956][9951][9950]: 越国からの報告 鼠  多美 2009/09/09(Wed) 11:57 [Reply]
>  そういえば、三白眼とか言われた方がおられましたね。

そういえば変だと思いました。

「宮崎みどり」で検索したら「宮崎緑」の間違いでは、と出ました。
言われて見れば、三白眼でしょうか。


[9958] Re[9955][9954][9953]: 白村江  神奈備 2009/09/08(Tue) 20:33 [Reply]
 百済軍最後の地で、三千人余りの官女が落ちる花のごとく天馬江へ身を投じた所として、落花岩と呼ばれる場所があります。その河口を船で見物しましたが、まさに夕日が水を照らし、倭国水軍の兵士の血で染まった白村江を見る思いでした。
http://kamnavi.jp/it/sosimori2.htm

 白村江の戦の後、10年も経たない間に内戦をやっています。壬申の乱です。のんびり内戦とは言いませんが、この頃になると、すっかり唐の恐怖はなくなっているようです。

[9957] Re[9956][9951][9950]: 越国からの報告 鼠  神奈備 2009/09/08(Tue) 19:34 [Reply]
> 宮崎みどりさんとは、NHKキャスターをやっていた女性ですか。

 そういえば、三白眼とか言われた方がおられましたね。
 その方とは違う方です。『古事記のものがたり』の作者のお一人。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~izanami/

 富士山の上の方は岩だらけ。裾は深い樹林、まさに岩長姫と木花咲夜姫がお二人で守っている領域、それゆえ、”言い得て見事”と言う意味の名言。

[9956] Re[9951][9950]: 越国からの報告 鼠  多美 2009/09/08(Tue) 14:59 [Reply]
神奈備様

>  富士山にいます神、頂上付近には岩長姫が、裾には木花咲夜姫、とは宮崎みどりさんの名言。

宮崎みどりさんとは、NHKキャスターをやっていた女性ですか。

この”名言”とは、どのようなことでしょうか?

[9955] Re[9954][9953]: 白村江  素人 2009/09/06(Sun) 23:57 [Reply]
神奈備様
書き込み有難うございました。
>  白村江の戦いの後、日本にとって幸いなことに唐と新羅とが戦い始め、ともに日本を味方に付けようとの外交があったようです。そういう意味では「攻め込まれる恐怖」は一時的なものだったのかも。

外交は朝廷が独占しており、情報も管理しやすかった時代ですから国内向けには長期に渡り外国からの侵略が有ると宣伝して、国内を緊張状態に置くことは可能であったと思われます。律令体制整備への反発を抑える手段に使えたかもしれません。
現在でも国内を掌握するのに、外圧を使うことは普通でしょう。
青草失礼しました。

[9954] Re[9953]: 白村江  神奈備 2009/09/06(Sun) 18:27 [Reply]
 百済王として20年ぶりに帰国した豊璋にはその寸前に織冠を授けられています。織冠と言えば鎌足ですが、白村江の戦いの前後に鎌足は何をしていたのでしょうか。中大兄皇子の側近らしい活躍は見られないどころか、姿も見えません。白村江の敗北の中で豊璋は姿を消します。その後鎌足が出てきます。青草ですが、同一人物説があるそうです。鎌足は死ぬ前に「生則無務於軍國 生きては軍国(おおやけ)に務(つとめ)無し」と言います。百済救援に失敗をわびたのか、百済王として敗れたことをわびたのか、鎌足と軍国、むすびつきにくいお話です。

 白村江の戦いの後、日本にとって幸いなことに唐と新羅とが戦い始め、ともに日本を味方に付けようとの外交があったようです。そういう意味では「攻め込まれる恐怖」は一時的なものだったのかも。

[9953] 白村江  素人 2009/09/05(Sat) 22:58 [Reply]
この時代ですと白村江(西暦663年)の戦は非常時大事な戦いだったと思われます。
戦闘は唐なども属国の強兵などを寄せ集めて、来るでしょうから日本も隼人や蝦夷などの強兵を獲得して唐軍にぶつけたのでしょう。大敗を喫したとなっていますが、死を恐れない勇敢な兵たちですからかなりの戦果は有ったのでしょう。
海上に長く延びた兵站線を確保して万単位の難民を救済しているのが証拠でしょう。敗走したのではこうは行きません。百済難民よりも、伽耶地域に残留していた製鉄華僑等や技術を持った日系の技術者などの難民が総引き揚げをして、日本に引き揚げたことが大きな成果であったと思います。
実質的な白村江(西暦663年)の戦での実質的被害は少ないと思われますが、唐軍が日本に攻めてくると言う恐怖は大変なもので、元寇並みであったと思われます。
大陸からの戦争難民は家族と自分の安全のために、身を粉にして防衛戦争の為に技術を提供して鉄などの軍需品の生産に協力したと思われます。100年前の任那滅亡時の製鉄華僑の吉備への移転とは大違いで有ったと思われます。
日本への技術提供に積極的な難民を得たことは、その後の日本にとって僥倖であったと思われます。北陸・東北(福島)などでの律令の製鉄遺跡などがそれでしょうか。
戦争難民と渡来人では大きく立場が異なるのでしょう。
ずれた、青草失礼しました。

[9952] Re[9949]: 越国からの報告 鼠  神奈備 2009/09/03(Thu) 09:36 [Reply]
> 651年に新羅からの使いがきて、彼らが余りにも唐風に染まっていて属国化していたのでそれを嫌って、653年に中大兄皇子は難波宮から去り孝徳を捨て飛鳥に戻る。

『日本書紀』の記事によりますと、以下の時系列。

白雉二年(651)この年、新羅の使いは唐の国の服を着て筑紫についた。朝廷は追い返した。

 巨勢大臣が「今、新羅を討たなかったら、きっと後に悔いを残すことになる。」と新羅を討つべしと提言しています。所が翌年・・・ 

白雉四年(653)六月、百済、新羅の使いが調を奉った。

 新羅を討つと言う進言は孝徳天皇に聞き入れられず、却下だったのでしょう。

この年、皇太子等は皇極上皇、間人皇后らをつれて飛鳥へ帰った。

 新羅を討つのか討たないのか、天皇と皇太子との間の外交方針の差が訣別となったとの解釈ですね。

 異論を唱えるのではないのですが、『偽りの大化改新』中村修也著 には以下の考え方が示されています。
 めでたい広い雉が手には入り、めでたいことと盛大にお祝いの儀式が行われています。
 これは孝徳天皇が自ら企画したものではなく、皇太子らが企画実行したものでしょう。この儀式の意味は「孝徳天皇さん、ご苦労様でした。これを機会に皇位を譲って下さいな。」との意味であって、これをKYな天皇は読めなかったので、置いてきぼりにされたのだと。

 尤も、孝徳天皇は判っていたのだが、息子の有間皇子の立場が悪くなる、あの中大兄皇子なら暗殺もやりかねない、今位を譲るわけにはいかない。との判断もあったとしています。

[9951] Re[9950]: 越国からの報告 鼠  神奈備 2009/09/02(Wed) 10:20 [Reply]
 皇極天皇の時代は聖徳太子の皇子の山背大兄王を襲撃したり、蘇我本家が滅ぼされたりと武力行使の目立つ時期ですが、一方で、まじないなどの横行した時代でもあったようです。呪術と武力の古代の交差点なのかも。

 呪術では雨乞いが有名です。牛馬を殺して諸社の神に祈ったり、市を別の場所に移したりしたが雨乞いの効き目はなかった。と群臣が語り合います。つい戦前まで武庫川でも雨乞いが行われていました。牛の屠殺場から牛の頭と血を貰ってきて川の中に置き、川には血を流したようです。川を汚すと川の神=水の神が怒り、結果として雨が降ると言うことでしょうか。

 雨乞いのために蘇我蝦夷大臣が多くの僧を集めて経を読ませたりしましたが、小雨が降った程度。そこで皇極天皇が飛鳥の南淵の川上に行き、四方拝を行うと大雨が降ったとのこと。


 また、国内の巫女達が蘇我蝦夷が橋を渡る時に競って神霊の言葉を述べたとあります。

 その後、山背大兄王を襲撃する事件が起こっています。

 また、巫女達が橋の上で蘇我蝦夷大臣が橋を渡る時に、競って神がかったお告げの言葉を述べたとあります。「時勢が変わろうとする前兆だ。」と噂されたようです。蘇我本家の滅亡や大化の改新の政治の始まりが近いことを示していたのでしょうか。

 つづいて、常世の神騒動が起こります。

 朝廷での権力者の蘇我氏、また山城の秦河勝、かれらは仏教徒でした。世の中は天変地異などで苦しんでいる中、仏教のための伽藍を建築など行政の方向が民の苦しみに向いていない中での蕃神への抗議と言うことで巫女や巫覡たちの運動だったのかも知れません。

 常世信仰は彼方からのよりくるものを待つなり行くなりの信仰でしょうから水平的な感じがします。富士山の頂上は常世のイメージが少ないのではないでしょうか。

 富士山にいます神、頂上付近には岩長姫が、裾には木花咲夜姫、とは宮崎みどり山の名言。

[9950] Re[9949][9948][9946][9944][9942][9940]: 越国からの報告 鼠  琉球松 2009/09/01(Tue) 23:59 [Reply]
 "常世神は現世利益を求める道教まがいな運動" 。。。これは重要だと思います。

 そもそも卑弥呼の「鬼道」は、「五斗米道」など中国道教と「倭」の習合では?との説に説得力がありますし、墨子の"専守防衛思想" の影響も考えられます。

 今、話題になっている時代の東アジアは、ほとんど仏教全盛でしょうけども、その国家的暴力?に反発する勢力は「弥勒」をメシア神として氾濫を起こしてますね。
 韓国済州島と琉球圏における"反釈迦"の説話は、だいたいこの時代のものではと推測できます。

 それと、常世神の信仰が富士山との関わりで語られるのは、どうでしょうか、「コノハナサクヤ姫」との関係ありでしょうか?

[9949] Re[9948][9946][9944][9942][9940]: 越国からの報告 鼠  とみた 2009/09/01(Tue) 13:36 [Reply]
>  641年。百済で義慈王が就任、弟王子一族と大臣達を島に流し、権力を集中します。百済からの人質であった王子豊章を頼って、流された一族と大臣達は倭国にやって来ました。反義慈王の工作が行われたのでしょう。
>
> 642年。高句麗、泉蓋蘇文がクーデターで王朝を倒し、傀儡の王を立て、唐と対峙します。また百済、新羅を攻めます。

東アジアの緊張があるのでしょう。唐が高句麗に攻めてくる。
642年 高句麗のクーデターですね。泉蓋蘇文は道教を唐から入れて、高句麗の既存の仏教を追い出すことによって政権交代:栄留王→宝蔵王へ そして唐に勝利。

高句麗から追い出された仏教の高僧は普徳和尚が百済へ、大徳が新羅・日本にやってきます。
641年 百済の義慈王はクーデターを鎮圧し、権力集中
642年に蘇我入鹿のクーデター
常世神の信仰が高揚する。常世虫が若返りと富をもたらすという信仰が東国の富士川から始まり都周辺にも広がるという騒動が発生し秦河勝が収集する。常世神は現世利益を求める道教まがいな運動です。
644年に蘇我の入鹿と蝦夷は周辺を防御。
645年乙巳の変 蘇我入鹿を倒すクーデター


朝鮮三国の使いが皇極天皇に、謁見する日に起こる。居合わせた古人大兄は発した謎の言葉〔韓人、鞍作臣を殺しつ〕
>
>  朝鮮での王朝の改革は権力の集中による国難への対処の現れで、これは倭国での天孫による権力の集中か、蘇我氏による権力の集中か、政局が緊張していくことになります。

蘇我氏は百済が手本ですね。飛鳥寺は百済の王興寺を模倣し、甘樫丘は百済扶余の山城ー要塞を模倣している。
>  645年、乙巳の変が起こります。『紀』では、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺、翌日には蝦夷も死に、蘇我本家の滅亡となります。
>  この後で大王になったのが孝徳天皇(軽皇子)ですから、彼が首謀者だったのでしょう。これには外交政策も関連しているのでしょう。孝徳天皇は親新羅親唐の政策、所が唐は女性国王を認めないので皇極天皇に退位を迫る目的もあったのでしょう。新羅の工作員の姿が見えそうです。ここにも僧旻の姿が・・。

僧旻は、殷から周への王朝革命を教授した。革命をあおったのでしょう。
孝徳には、唐が親新羅政策を求めたため、唐と新羅に傾倒して難波宮は唐をモデルに造った。

651年に新羅からの使いがきて、彼らが余りにも唐風に染まっていて属国化していたので
それを嫌って、653年に中大兄皇子は難波宮から去り孝徳を捨て飛鳥に戻る。
670,673年、678年に百済と高句麗は新羅ー唐の連合軍に敗れて滅び、新羅は669年に唐からの独立戦争を起こす。

唐は676年周辺の強国、吐蕃(チベット)の攻勢を受け新羅との戦争から撤収する


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