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[10000] Re[9997][9996][9995][9994]: 関東圏の古代人  PONTA [Url] 2009/10/29(Thu) 20:13 [Reply]
>『扶桑略記』は平安時代のものです。このような伝承が伝わっていたのでしょう。

結局、死体は見つからず、落ちていた靴を代わりに埋めたそうです。
発掘して、遺体が出てくるか、靴が出てくるか確かめたいものです。

[9999] おひさしぶりです。  PONTA [Url] 2009/10/29(Thu) 20:07 [Reply]
宣伝に当たるかもしれませんが、
「旧浜名郡神社調査」
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya.htm
というサイトを開設しました。
*気に入ってるのは、「和名抄」の「浜名郡」の「坂本 大神 駅家 贄代 英多 宇智」の前半の「坂本 大神 駅家」を湖南(坂本=橋本、大神=中之郷、駅家=中之郷の三ツ谷地区)、後半の「贄代 英多 宇智」を湖北(贄代=鵺代、英多=三ヶ日、宇智=宇志)という考え方です。他の方はされていないようなので、「PONTA説」として掲載しておきました。
*美和氏についてのいい資料があったら教えて下さいね☆
*別館に7枚、貼らせていただきました。

[9998] 天命開別天皇(天智天皇)  神奈備 2009/10/28(Wed) 17:42 [Reply]
 天智天皇七年(六六八)七月◆秋七月。・・・又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至。又饗夷。又舍人等爲宴於所々。時人曰。天皇天命將及乎。

 最後の文章の「天皇天命將及乎。」は、天皇は王朝交代をするのかい、天皇はやめるんかい、と言う意味です。石炭や石油が献じられたとか、御殿の下に魚が集まって水が見えないようだとか、蝦夷に舎人に命じて各地で饗応の宴をさせた、と言う程度で、どうして天皇がやめると予想されたのかよくわかりません。

 天智天皇は天命開別天皇と呼ばれたようで、これは天命によって皇運を開いた天皇とのとの意味があり、これとなにか関連しているのかな。

 天智さんは白村江の戦いで大敗を喫した皇子です。よく天皇位につけたものだと思いますが、最初からフラフラの低空飛行政権だったのでしょう。

[9997] Re[9996][9995][9994]: 関東圏の古代人  神奈備 2009/10/25(Sun) 09:38 [Reply]
> 榛名山東南麓の保渡田古墳群のある場所は車評となった。

 車持神社が同じ様な場所に鎮座しています。
 由緒一部 勧進年月日も詳らかでないが上野国神名帳所載乃従五位上車持明神は当社のことである。本村は榛名山に登る東南の入り口なので昔から榛名神社の分霊及び車持乃公をいつきまつる境内の鳥居に掲げてある古い額面へ満行宮と彫刻がしてある。以上。


> 鎌足と関係が深い天智天皇も、山科に陵がありますね。
 
 不比等さんは天智さんの子供との説があります。長男を出家させたのもそれ故かと。

万葉集 内大臣藤原の卿の釆女(うねべ)安見児(やすみこ)を娶(え)たる時よみたまへる歌一首
0095 吾(あ)はもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり

懐妊中だったようです。


所で、『扶桑略記』に、天智天皇の死去の記事に、「一云。天皇駕レ馬。幸二山階郷一。更無二還御一。永交二山林一。不レ知二崩所一。」とあります。一説には天皇は山科へ行き、帰ることはなく、どこで崩じたのかわからない。と言う意味です。

 『扶桑略記』は平安時代のものです。このような伝承が伝わっていたのでしょう。

[9996] Re[9995][9994]: 関東圏の古代人  とみた 2009/10/24(Sat) 13:25 [Reply]
>  田辺史と言えば、山科の田辺史大隈の家で育てられたのが藤原不比等。

>  毛野氏は古い時代から畿内の住人だったようで、

群馬は車評でした。
8世紀郡郷名の好文字2字化で、車が群馬に替わりましたが。読みとしてはクルマと読んでいたようです。

上毛野氏は車持氏と祖先を同じくしている。雄略天皇に乗せる輿を献じた功で車持ち
の姓を賜ったという伝承がある。

榛名山東南麓の保渡田古墳群のある場所は車評となった。
鎌足の妻は車持氏という低位の豪族のムスメでその子供が藤原不比等ですね。

幼年期を田辺史氏に養育された。その地が神奈備さんのコメントで山科ということでしょうか。養育は母方でされるとすると車持氏も山科に住んだ。

鎌足と関係が深い天智天皇も、山科に陵がありますね。
百済と関係が深いとすると山科の近くの大津は志賀漢人の本拠です。近江の琵琶湖の大津あたりは宇治川や瀬田川の流れ込む湿地帯だつたのを干拓したのが志賀漢人かとおもいます。



なんとなく百済からの渡来人

[9995] Re[9994]: 関東圏の古代人  神奈備 2009/10/24(Sat) 09:04 [Reply]
 田辺史と言えば、山科の田辺史大隈の家で育てられたのが藤原不比等。

 毛野氏は古い時代から畿内の住人だったようで、狗奴国にまでつながってくれれば、狗奴国畿内説が有力になるのかも。

> 私はふと、連想しました。仁賢のムスメが手白香で継体の皇后です。
> 埴輪の場面はこれではないでしょうか。

允恭天皇の即位の際、妃の忍坂大中姫命がお洗手水をとり捧げて大王位に就くように勧めたのですが聞かず、妃の捧げた鋺の水が溢れて腕に凍るほどで気を失いそうになっていたとの印象的なシーンを思い出します。五世紀後半でしょうか。

[9994] 関東圏の古代人  とみた 2009/10/23(Fri) 10:10 [Reply]

神奈備さん から教えていただきました
>手白香(手志良加)とは水が入った容器で土瓶のことです。新嘗祭に使う壷です。皇后には血のつながりと巫女が求められました。手志良香を司るのは水部(もいとり)ですが直接天皇に捧げるのは采女の役割です。

昨日、群馬県の三つ寺遺跡と保渡田古墳に関する、若狭徹さん(考古学研究者)の本を読んでまして、ふと思いつきました。天皇とシャーマンのことです。

古代史で群馬県の保渡田古墳の八幡山古墳の埴輪列のことは有名ですね。(西の大阪府、摂津の継体陵の今城塚、東の郡馬県、上毛野の保渡田古墳。いずれも埴輪列がたくさんあって有名です。)

座した男=首長に飲み物を勧める女性。脇には壷がある。壷から水を汲んで捧げている。


これは5世紀末から6世紀はじめの古墳の埴輪です。

謎があります。
上毛野氏始祖が新羅の四邑の民を連れ帰ったという日本書紀の伝承や、渡来系の文官氏族である田辺史氏が奈良時代に進んで上毛野氏へと姓を改める事実があります。(若狭さんの著作引用)。

学者名を失念しましたが、住吉と渡来人という真面目な学術論文があります。
田辺史については、新撰姓氏録に孝謙天皇の天平時代に上毛野公の氏姓を賜り、田辺史、豊城入彦命4世孫、大荒田命の後也とされています。

田辺郷は摂津住吉郡田辺郷があります。本来の本拠は住吉郡でなく河内の安宿郡のようで
河内国飛鳥戸郡に田辺史伯孫という人物がいます。
柏原市国分には田辺廃寺があります。

飛鳥戸部民は河内飛鳥にちなむ一族でしょう。飛鳥戸神社は百済の昆支王を祭っています。石川だから蘇我氏とも縁があるのでしょうか。関東圏に5−6世紀ごろにやってきたのは膳氏と壬生吉士、飛鳥戸吉士のようです。屯倉の管理人として流れ込んできた。それと毛野国との関連が気になります。



水の祭祀とかかれていましたが。

私はふと、連想しました。仁賢のムスメが手白香で継体の皇后です。

5世紀と6世紀はじめです。


埴輪の場面はこれではないでしょうか。


[9993] Re[9991]: 前期難波宮の二棟の八角殿(楼)  神奈備 2009/10/20(Tue) 13:00 [Reply]
 難波と”八”から飯蛸を連想する人は食い倒れの国の住人に相応しい人。黒鯛を茅渟と言うのは大阪湾の名産です。出世魚で性転換もするそうで、幼名はババタレ、やはり”八”に帰着する??

 難波の宮の朝堂に北を向いて立つと左右に八角形の楼閣が見えたのでしょう。二棟建っていると言う事はペアであることに意味があるのでしょう。素直に見ますと、前殿、内裏の為の門神のようなものかも。櫛磐窓・豊磐窓の両神、日光菩薩・月光菩薩とか、対になって何かが置かれていたのでしょう。

[9992] 「夢殿への道」  史実探偵: 平 素人 (ヒラ モト) [Url] 2009/10/20(Tue) 07:15 [Reply]
再度、お伺いします^^!
卑弥呼が永々とつづた銅鐸文化を主神・太陽・銅鏡文化に変えようとしたのは前に申し上げました。その後、列島でも銅鏡が造れるようになると銅鏡への“入魂式”の要が発生します。その入魂式は“冬至の陽光を銅鏡に採り入れる”儀式です。(なぜ冬至なのかは別紙で^^)その施設は環状木柱列で、石川県・チカモリ遺跡、富山県・小矢部市にあります。光陰矢のごとし」と云いますよね。地をはうように射し込む朝日を谷間に設えた木柱列で受け入れる。鞆の浦の千光寺」等も冬至のアサヒに関係しているそうですね。周りを囲い“十方暮れ”にして。今でもお葬式や、建物を幕で覆うというのはその名残かな。十方とは八方に天地を加えたもの。木柱列の柱の数の後先は知りませんが、8本のものもあったのでは?と看ています。八の字」については、BC2001年12月25日の未明に東北地方に光臨した巨大隕石『竜』が(別紙)八方に飛び散ったことに起因していると推理しました。これらの文化の伝播を助けたのは<童男童女三千人を伴い不老不死の薬草を求めて列島に渡来した除福>と、八百万の神(お太夫さん)がこの神無月に出雲へ集合したことではないでしょうか。日本には先進国の文化をうまく採り入れて独自のものをつくり上げていく能力があるようです。今も昔も・・・、(わたしの求める夢殿の入り口はどの方向にあるのですか^^? 以上、素人考えでした。笑)

[9991] 前期難波宮の二棟の八角殿(楼)  神奈備 2009/10/19(Mon) 15:43 [Reply]
 朝堂院の並ぶ広場から大極殿に相当する前殿へ行く途中に南門があり、それと回廊でつながった八角殿が東西に二棟建っていたようです。

 建築物としての八角では法隆寺の夢殿がよく知られています。天平十一年(739)の建築で難波の宮より約90年後のことです。聖徳太子をモデルにした救世観音が安置されています。八角は仏教的には佛舎利を入れる建物として建てられたこともあるそうです。

 神社で八角の建物は京都の吉田神社の大元宮がありますが、神仏習合に道教の要素を加えた吉田神道を形にしたものとあり、何故”八”であるかはよくわかりません。
 八大竜王とか八幡神、八王子、五男三女神、八咫蛇、八坂神社など、日本の神々には”八”が大いにからんでいます。聖数と言われる由縁でしょう。

 銅鏡では八角形のものが出ているようです。八角形の古墳では天武持統陵が有名ですが、舒明天皇から文武天皇までが八角形とされています。難波宮の孝徳天皇の古墳は八角か円形かは不明だとのことです。

 大陸では三国志の孔明の八陣図という不思議な迷宮のお話が出てきます。休門、生門、傷門、杜門、景門、死門、驚門、開門と言う遁甲の理屈での戦略のようです。他に八卦も。

 難波宮の八角殿については、歴史博物館の積山洋氏が、孝徳天皇の仏教傾倒の気持ちからの仏教建築、宮殿を立派に見せる荘厳装置、官人の勤務と時刻を支配ための鐘楼とかの説を紹介されています。

 さて、皆さんはこの八角殿をどうお考えでしょうか。


[9990] 「卑弥呼が埋めさせた大量の銅剣と銅鐸」  史実探偵: 平 素人 (ヒラ モト) [Url] 2009/10/14(Wed) 09:32 [Reply]
はじめまして(^-^)♪ 表記の広報をしています。
歴史まったくの素人なので、その探偵を名乗っています^^。
出雲と野洲と神戸で、大量の銅鐸がヒレという部分を寝かせて埋めてあった。その出雲で358本もの銅剣が出土している。“共通の文化があれば共通の事象あり” 大量の銅鐸と大量の銅剣は『その荒神に、その剣二度と持たせてはならない!』と分離して埋められている! であるならば、出雲「岩倉」と同様な雨乞い文化があり、岩の地名が付く、野洲「大岩山」、神戸「いわや」、総社市「岩屋」でも、必ず大量の銅剣が出雲と同じような関係場所に埋められている♪(吉備の総社市では、両方が未掘ですよ^^!)
では、何故それが「卑弥呼」と結びつくのですか?
「銅鐸文化」から「銅鏡文化」への移行・変換は何人も否定できず、その“変換点”に「魏」からの銅鏡100枚があり、卑弥呼がいる!!ヒミコは、幼児の人身供儀を伴う銅鐸(は荒神(水神・竜)を呼び寄せ乗り移す媒体)文化から、「天気を司るのはお日様であり竜神はそのお使者である」とし、銅鐸と銅剣を持ち寄り封印し、その代わりに主神太陽の象徴である銅鏡を与え幼児の人身供儀を止めさせようとした。卑弥呼は、もとはと云えば“衆生・雨乞い”のため人里離れた境内で“人身供儀用”に育てられていた3歳〜7歳までの稚児であったが・・・、 myブログへつづく^^!

[9989] Re[9988]: 倭鍛冶と韓鍛冶  素人 2009/10/10(Sat) 19:04 [Reply]
とみた様
> 1歩1歩亀の歩みで確実な情報を積み上げます。急がば回れです。
>
 基本と言いますと鍛冶では炭ですが、松・クヌギ類・ウメバ樫など原料によって出来てくる炭の性質が違います。炭の使い方が鍛冶の命であるようです。基礎的なことなので、よくご存じと思いますが、炭の見掛比重が違うのです。松炭は軽い炭で火持ちが悪くすぐに燃えてしまします。一度七輪でも買われて、各種炭を使われることをお勧めします。自分でやって実感を得ることも、古書を漁るよりも有効なことも多いのではないでしょうか。松炭は鍛冶では多用されますが、タタラなどの製鉄には使わないようです。鍛冶用の松は炭にするのですから巨木である必要はないと思われます。炭にする松ならそんなに育つのに年数はかからないでしょう。
クヌギはもちろんですが、細い松のために移住はしないでしょう。
戦争とか大事件がないと生まれ育った土地は捨てないのではないでしょうか。
何度も書いていますが、釜山市の郊外にスカルン鉱床の勿禁邑(ムルクルップ)鉄鉱山などがあり最近まで磁鉄鉱が掘られていました。周辺に6世紀ごろの製鉄遺跡があるようですがどうなのでしょう。鉱山は大事です。釜山市近郊の洛東江東岸のこの辺がミナマ伽耶ではないのですか。金海博物館で縦型炉や羽口をご覧になったのでしたら、鉱山・6世紀製鉄遺跡によられては、いかがでしょうか。
素人は七輪と各種炭を買って3年ほど前から暖房に使って炭に慣れようと無駄な努力をしています。

[9988] 倭鍛冶と韓鍛冶  とみた 2009/10/10(Sat) 11:45 [Reply]
1歩1歩亀の歩みで確実な情報を積み上げます。急がば回れです。

大化改新以前、各豪族に属していた鍛冶を職とした鍛冶部(かぬちべ)は在来の技術による倭鍛冶と渡来系の韓鍛冶があった。

倭鍛冶は天津真浦で、物部造の祖、天目一箇命の子孫で鍛人で、石こりど命で鏡や矛を作った。

韓鍛冶は宅素が代表です。

宅素といえば、宅素吉士で肥君猪手の庶母で、筑前国嶋郡(糸島や伊都地方)で製鉄を行ってました。吉士ですから朝鮮からの渡来人で、航海や外交にも長じていました。 

聖明王の子供の恵王子が欽明期の554年に西播磨に亡命します(その従者に韓鍛冶職人がいます)が、帰りは556年に肥君に故国まで送還させています。

これが機縁で肥君は博多湾の交通の要衝の守になりました。

大伽耶の製鉄炉は円筒炉であることは、現地の博物館で確認しております。

日本で、備後の製鉄炉は筒型炉(平面図は円形)とされています。その他の備前、備中、美作は箱型炉(平面図は長方形)とされています。

製鉄炉の最古のものは、総社市のカナロク谷遺跡4号炉 6世紀後半。

鍛冶遺跡は5世紀にはいると備中南部では総社市窪木薬師遺跡に大型のものがあるようです。





[9987] Re[9983][9982][9981][9978]: 倭鍛冶と韓鍛冶  素人 2009/10/09(Fri) 01:14 [Reply]
>
とみた様
> 中国では、二つの製鉄技術があるそうです。
> 華北では坩堝の精錬法(間接法)による。これは高温ですがピストン送風機で高温維持、耐火性壁を求められる。鋳鉄とか銑鉄でしょうか。
>
> 楚など江南では砂鉄精錬の錬鉄(直接法)
前漢の時代に鉄官が設けられた時代に、技術は平均化していたのではと思われます。
中原を中心に鉄官が漢帝国の領域に設けられたと思います。
縦型炉での鋳鉄で鋳型を用いた民生品の鋳造。直接還元の角型炉などを用いての海綿鉄(純鉄)の製造これを用いての武器などの鍛造品の製造が行われていました。
中原では耐火煉瓦を用いた本格的な大型炉が築かれていたようです。(陶磁器用の築炉の技術)東の方では、小型で耐火土で築炉する簡便なものであったようです。
炉の耐久性と使用法に中原と東方(半島など)では違いがあったのでしょう。
耐火煉瓦の大型炉では現在もそうですが、炉の中で鋼が出来て固まったのでは困るわけです。海綿鉄を作る直接還元炉でも耐火煉瓦を用いる場合は海綿鉄だけを作れば灰と海綿鉄で炉材をあまり傷めないと思われます。酸化雰囲気にして海綿鉄を燃やすと1500℃以上の高温で海綿鉄を溶解すると灰や鉱物の不純物が溶けてノロとなり耐火煉瓦を侵食したり、耐火度が低い耐火煉瓦が溶けて炉が傷んでしまうわけです。
その都度補修がいるので、炉を傷めないように運用したのではと考えています。
海綿鉄製造炉では塊錬鉄の生成や低炭素鋼の生成は耐火煉瓦を使用した本格的な炉では邪魔ものであったのかも知れません。しかし、耐火煉瓦を用いない東方の簡易炉では耐火土でその都度補修するなり、作り直せばいいので事情は違ったのかもしれません。海綿鉄製造炉の炉内で海綿鉄を纏めて低炭素鋼などを作る作業工程を短縮化した手法に進歩したのかも知れません。これが、ミナマ伽耶地域から吉備に導入されたのかも知れません。これが、日本で改良され、海砂鉄を用いて始め浸炭を進めて鋳鉄を作る角型炉になり、後に炉内で高品位の製鋼をする直接還元法へと進化したのでしょう。玉鋼の発明へと繋がるわけです。
中国では耐火煉瓦製の縦型炉で鋳鉄(白銑鉄)を製造していたので角型炉での間接製鉄法を開発する必要はなかったわけです。日本にも本格的な縦型炉が大仏建立の時に踏み鞴とともに導入されたようですが、角型炉が優勢であったようです。(福島製鉄遺跡)よく解りませんが、砂鉄とのマッチングでしょうか。
思い付きの青草でした。

>
> 日本にはそれ以前に褐鉄鉱を低温で密閉型炉で海綿鉄と錬鉄を作る技術があったのでしょうか。
海綿鉄は低温直接還元なのでノロとかなかったりして、確認しずらいのかも知れません。
この辺は詳しくありませんので、この辺で。

[9986] Re[9980]: 信濃・諏訪  かたばみ [Url] 2009/10/09(Fri) 00:49 [Reply]
>(soe-wa)=諏訪=鉄来る(直訳)。

出雲=島根半島という固定観念があるとやっかいですが、自論の流れでは周防、周防灘、これが運ばれて諏訪となったと解釈しております。
すなわち建御名方命(の本拠地?)とともに運ばれた地名。
周防がなにを意味するかはわかりませんけれど、素盞鳴尊=箕子朝鮮王族の自論からは周防が「半島の古代語」と関連を持つ可能性はあると思います。

[9985] Re[9979][9976][9972]: 伊勢津彦命  かたばみ [Url] 2009/10/09(Fri) 00:46 [Reply]
>神話の世界にまで遡れるかどうかですが、伊勢津彦命→出雲建子命→建御南方命とつながるのかどうかですね

伊勢津彦命の年代はいつか。一番のポイントはこれだと思います。
伊勢志摩は良い場所だと思います、伊勢津彦命がここを捨てる(追い出される)には命にもかかわる大事件が生じたためであるはずです。

伊勢津彦命→出雲建子命→建御南方命・・
この地でそういう状況があるとすれば、先代舊事本紀に書かれる天火明命の渡来だと思います。
(自論では天孫降臨はBC154+50年あたりと推定、すなわち天火明命の伊勢志摩渡来はBC100+α頃とみる)
この頃だと(やはり自論ですが)出雲系譜は深淵之水夜禮花命か淤美豆奴命あたりとなって
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/shindai01.pdf
大国主命の国譲りより100年ほど前となります。
すなわち、大和へでも東海へでも、移住先として僻地の諏訪(^^;よりずっとよい土地があったはずで、いまのところこの線は薄いと考えています。

もうひとつははるかに下って開化225-248崇神248-273での天孫の大和制圧です(書紀における神武東征説話でもある)。
この時代ですと出雲系譜の脱出先は関東か信州あたりしかなく、伊勢津彦命は建御名方命を祀る諏訪へ脱出した。
仮に伊勢津彦命が島津氏の祖であるなら、建御名方命は信仰としてであり、血縁関係はないとなります。
いまのところ伊勢津彦命の年代はこちらの線が濃厚とみております。

[9984] Re[9977][9976][9972]: 倭鍛冶と韓鍛冶  かたばみ [Url] 2009/10/09(Fri) 00:44 [Reply]
>古い製鉄ですと直接還元法による海綿鉄(純鉄)ではないかと思います

私のHPのDNA分析による日本人形成仮説からの引用です。
−−−−−−−−−−−−−
タイ東北部のバンドンブロン遺跡では鉄生産がBC300〜BC200頃に始まっています。
鉄生産でも中国での鉄生産と数百年の差しかありません。
これらの文化の流路、9塩基欠失の人々はBC2000以降のアジア情勢の重要なキーワードになると考えています。

なお、バンドンブロンの製鉄は粒状水酸化鉄を炭で直接還元する製鉄法であることが出土物から判明しています。
粒状水酸化鉄は粘土粒に水酸化鉄が皮膜を作ったものでタイ東北部に無尽蔵にあります。
粒状の原料を炭で直接還元する手法はタタラの砂鉄製鉄と同じ。

水酸化鉄が凝集したもの、これが褐鉄鉱です。
平成3年に長野県飯田市で発見された褐鉄鉱(鬼板)で9回の実証実験がおこなわれ、小刀を作ることに成功しています(伊那史学会)。この実験では小型の竪型炉が使われています。
−−−−−−−−−−−−−

この製鉄遺跡(その製鉄法の源流はインドだと思う)の存在を知って弥生製鉄の可能性は100%と考えるようになりました。
技術的連続性に関してはなんともいえませんけれど、粒状褐鉄鉱と直接還元法が後の砂鉄製鉄の源になったと考えています。

ただし、当初の弥生製鉄では原料に褐鉄鉱を用いても半島経由の韓鍛冶?系の縦型炉を使う製鉄ではなかったか。
(これが伊奈史学会での実証実験の形態だと思います)

後にタイないしベトナムあたりから海路で粒状原料と直接還元法の技術が運ばれ、日本では砂鉄による製鉄に変化していったのではないか。
これが倭鍛冶の源流と考えています。
製鉄が朝廷直轄(韓鍛冶系)となってこの製鉄法は地下にもぐったが、鎌倉時代の農耕の大発達(うんこの活用(^^;)によって民間鉄器の需要が急増して復活とみています。

[9983] Re[9982][9981][9978]: 倭鍛冶と韓鍛冶  とみた 2009/10/08(Thu) 15:32 [Reply]
素人さん いつも古代鉄の技術についてありがとうございます

> 筒の中に真ん中あたりに穴をあけて大型の円錐形の先を切ったような羽口を60°位で下向きに差し込んだ構造で温度が上がりそうな炉です。浸炭が進むので白銑鉄となるのでしょう。
中国の海綿鉄炉(角型の低い炉)が起源でないかと考えています。この製鉄は半島では洛東江東岸地域で行われていたのではないかと考えています。
中国の発掘で塊錬鉄

中国では、二つの製鉄技術があるそうです。
華北では坩堝の精錬法(間接法)による。これは高温ですがピストン送風機で高温維持、耐火性壁を求められる。鋳鉄とか銑鉄でしょうか。

楚など江南では砂鉄精錬の錬鉄(直接法)

日本にはそれ以前に褐鉄鉱を低温で密閉型炉で海綿鉄と錬鉄を作る技術があったのでしょうか。

鉄鉱石は元々酸素を含むので還元して酸素を奪い、炭素を入れて=加炭して鋼にする。

銑鉄は炭素が多すぎるので炭素を奪う=脱炭して鋼にする。

夾雑物を除くためにトントコと打ち、形を変えるのが鍛冶ですね。炭素が多すぎると硬く少なすぎると柔らかになる。これが基本でしょうか。

海綿鉄は柔らかいのですね。白銑鉄とは何でしょうか。

倭鍛冶と韓鍛冶は技術的に製品としてどのように違うのでしょう。

韓国では鉄が採れる場所が4世紀ー5世紀の初めまでは金官伽耶(金海)であり、その技術が倭鍛冶で、洛東江を400年に高句麗に攻められて破れ難民が日本に5世紀初めにやってきて河内などに入り倭鍛冶を伝えた。5世紀後半になると、内陸の大伽耶(高霊)に鉄産地が移り円筒形の炉で生産したのが韓鍛冶と考えてよろしいでしょうか。

百済の武寧王の息子の聖明王が大伽耶と一緒に新羅と戦い敗れます。これが554年です。欽明時代で聖明王の恵王子と一緒に、加古川上流の三木と神戸の間の丹生山に亡命して韓鍛冶を伝えます。葛城山麓の寺口横穴式石室の円墳は百済の鉄職人の古墳です。忍海漢人が鉄の職人として全国に散ったようです。

その後、元正天皇の722年には、伊賀の金作、伊勢の金作、忍海漢人、近江の韓鍛冶百嶋、忍海部大須、播磨の忍海部漢人麻呂などの身分を高めています。この播磨の忍海ぶ麻呂こそ、三木の縮見の屯倉(鉄の生産)の管理人でしょう。

562年に大伽耶は新羅に敗れ新羅の領地になりました。百済が奪い取るのは、645年の直前、義慈王が新羅から奪還します。

[9982] Re[9981][9978]: 倭鍛冶と韓鍛冶  素人 2009/10/07(Wed) 23:36 [Reply]
訂正
> 半島のは円筒形の上から大60°位の角度で取り付けた、大きな羽口で空気を府吹き込む溶鉱炉と同じ間接還元法です。
大60°位の角度で取り付けた(誤 → 60°位の角度で取り付けた(正
筒の中に真ん中あたりに穴をあけて大型の円錐形の先を切ったような羽口を60°位で下向きに差し込んだ構造で温度が上がりそうな炉です。浸炭が進むので白銑鉄となるのでしょう。

> 純鉄の溶解は海綿鉄の一部溶解による1,500℃以上の高温でしょう。
海綿鉄の一部溶解(誤→海綿鉄の一部燃焼(正
海綿状の比表面の大きい純鉄を高速度で燃焼させると非常な高温とヘマタイトを生成して1500℃以上の高温のために純鉄が溶解して炭と接触して浸炭するのでしょう。浸炭時間が短いと純鉄に近い低炭素濃度のてつとなり、浸炭時間が長いと融点が下がって液体の鉄として炉から取り出せる鉄となるのでしょう。浸炭時間が丁度いいと刃物にいい鋼になるのでしょう。少し違いますが、卸金のように鉄を固めて浸炭させる操作を最後に遣るように思われます。通常のタタラでも最後に酸化雰囲気で海綿鉄を部分燃焼させて海綿鉄を溶解してノロの中に落とすようですがこれを還元雰囲気に抑えて浸炭して融点を下げて液化してノロの中に落とすのでしょうか。

間違えを訂正させていただきます。

[9981] Re[9978]: 倭鍛冶と韓鍛冶  素人 2009/10/07(Wed) 00:59 [Reply]
とみた様
> 5世紀後半になると、朝鮮南部の大伽耶は製鉄が発達したようです。円筒形の炉で木炭を使います(日本は箱型炉ですがこれは何時からか。)
>
半島のは円筒形の上から大60°位の角度で取り付けた、大きな羽口で空気を府吹き込む溶鉱炉と同じ間接還元法です。大きさは巨大になりますが、中国大陸が大元です。
脱炭素による製鋼操作が必要です。
中国大陸での海綿鉄・直接還元炉が高さの低い角型炉で、多く発掘されています。この系統でしょう。自然風製鉄で海綿鉄を蓄積してから高温として浸炭させて製鋼して炉の中で固めると炉が駄目になると困るので液体の白銑鉄にして取り出したりしたのでしょう。日本に半島から吉備に入ってきたころは、海綿鉄を溶かしたような炭素含有率の低い鉄を製造していました。角型の低い炉でした。純鉄の溶解は海綿鉄の一部溶解による1,500℃以上の高温でしょう。
元は中国の海綿鉄炉(角型の低い炉)が起源でないかと考えています。この製鉄は半島では洛東江東岸地域で行われていたのではないかと考えています。
中国の発掘で塊錬鉄などと言われているのが、これに当たるのかもしれません。
> 大伽耶では山に木が少なくなって製鉄技術者が失業して、日本に山の木が多いので
> 移住してきたそうです。多分これがスサノオが韓半島では木が少ないので日本に来た話と繋がるのでしょう。
製鉄用の炭はクヌギなどの雑木ですから、杉やヒノキ・松などのように生育に年数が掛からないので切ってもすぐに生えてくるので、枯渇の心配はないのではないでしょうか。普通の炭焼きやシイタケ栽培も同じでしょう。
雑木を目的に日本には来ないでしょう。鉱山を失ったなど、鉄原料であれば別ですが。
青草失礼しました。
金屋子神は比較的新しいのではないでしょうか。
天目一箇神は多度津などを考えると鍛造だけでなく、鋳造との関係が深いように思われますが如何でしょうか。

[9980] 信濃・諏訪  福島雅彦 2009/10/06(Tue) 22:17 [Reply]
※ご無沙汰しています。何時も拝見しています。
*“쇠-나-논”(soe-na-non)=信濃=鉄出る野(直訳)。
*“쇠-와”(soe-wa)=諏訪=鉄来る(直訳)。
※皆様の論説から地名の語源が割れました。多謝 謝々!

[9979] Re[9976][9972]: 倭鍛冶と韓鍛冶  神奈備 2009/10/05(Mon) 16:20 [Reply]
> 書紀以前の天孫系譜の武神は手力雄命であったと考えています。

 同感です。伊勢船木氏の拠点である伊勢国多気郡の佐那神社は天手力男命を祭神としています。近くの多気町四匹田から銅鐸が出土しています。神社名の佐那との関連にも興味が湧きますが、皇太神宮の相殿にも天手力男命が祭られており、古来から神威の高い武神と思われていたようです。

 『住吉大社神代記』に住吉大神を祭る神社として九箇處の名は出てきます。紀伊國伊都郡丹生川上天手力男意氣績ゞ流住吉大神と言う神名も登場しています。これも船木氏の祭る所であり、金属採取を行っていたようです。

 住吉大社の太鼓橋を渡り、池の東側を北に行きますと、島津忠久の生誕地とする場所があります。丹後ノ局が源頼朝の子を生んだと言う伝承地です。もとより俗説でしょう。

 薩摩には隼人と豊前国から大量に移住した当時でいえば開明派とでも言える人々がいました。おそらく秦氏の系統の人々だったのでしょう。宇佐八幡の信仰を持ち込んだのでしょう。頼朝も八幡信仰で、島津と頼朝との繋がりは八幡信仰経由だったのかも知れません。

 確かに鹿児島には建御南方神を祭る神社は総神社数の 9%にも及び、九州他県の1〜2%程度に比べて格段に多いようです。


> (すなわち島津氏は伊勢津彦命を祖にもつとみる)。
 神話の世界にまで遡れるかどうかですが、伊勢津彦命→出雲建子命→建御南方命とつながるのかどうかですね。

[9978] 倭鍛冶と韓鍛冶  とみた 2009/10/05(Mon) 14:20 [Reply]
弥生時代に、水辺の葦などに付く鉄分が褐鉄鉱になって低温で焼いたのでしょうね。これが鉄鐸か。

倭鍛冶と韓鍛冶はその後の古墳時代でしょう。
5世紀後半になると、朝鮮南部の大伽耶は製鉄が発達したようです。円筒形の炉で木炭を使います(日本は箱型炉ですがこれは何時からか。)

大伽耶では山に木が少なくなって製鉄技術者が失業して、日本に山の木が多いので
移住してきたそうです。多分これがスサノオが韓半島では木が少ないので日本に来た話と繋がるのでしょう。

日本の5世紀以降にU字型の鉄製の鋤鍬ができて丈夫で農業効率が高まります。

鉄の神様に敷衍します。

金屋子神は、阿部氏が関係しています。

播磨の西部、宍粟の伊和から出雲安来・能義へ移っています。

金山彦神社は、天菩比(天穂日)神で柏原、諏訪、美濃、美作、竜田山の多い。風の道、フイゴに風を送る。

天目一箇神は、天津日子神。忌部,タカムスビ系。筑紫、伊勢に関係がありそう。

天津日子系は、河内より出て、上総馬来田、常陸茨木へ。天穂日系は出雲より出て、武蔵、房総の伊甚、上菟上、下菟上へ

播磨は出雲族と大和族の交流地。

播磨東部の三木市は縮見の屯倉があった。鉄を献納する屯倉です。播磨地方には天目一箇神が住まわれて倭鍛冶の祖神となられ、製鉄の祖、金山彦命が播磨に天降されたあと出雲に移られたという伝承がある。

百済の聖明王の王子恵とともに帰化された人たちによって倭鍛冶に韓鍛冶のすばらしい技術が加わり鍛冶の町、三木が出来上がったとされています。

[9977] Re[9976][9972]: 倭鍛冶と韓鍛冶  素人 2009/10/04(Sun) 21:57 [Reply]
 かたばみ 様
> 荷物運びと日曜大工で古宅?と新宅をいったりきたりしております。
>
> 褐鉄鉱にからみまして青草をちょいと。
> 建御名方命は主(大国主命)の和睦決定に従わなかったために諏訪に放逐(蟄居)を命ぜられた・・なぜ諏訪か。
> 褐鉄鉱の産出地を確保する極秘任務を帯びていたから・・(^^;
> (倭鍛冶の源流か、韓鍛冶の源流かはなんともいえずですが、砂鉄製鉄の源流ではあろうと考えています)
 古い製鉄ですと直接還元法による海綿鉄(純鉄)ではないかと思います。海砂鉄などには、イルメナイトなどの融点の高い不純物が多く含まれているので海綿鉄に除去しにくい不純物が多くて古い製鉄には向かないようです。融点の高い不純物の少ない褐鉄鋼や高品質の磁鉄鉱などを用いると不純物の少ない、海綿鉄が生成して海綿鉄を一部燃焼させればそこそこの純鉄が生産できたと思われます。海綿鉄ですと800℃位から反応は可能ですが、反応速度の関係で1000℃位での反応が実用的なようです。これぐらいの温度ですと自然風による送風で鉄の生産ができるようです。古代製鉄には向いています。
最近では、鉄鐸(諏訪にも有るようです。)などの付いた吹管で海綿鉄を製鉄炉の中に自然通風で長時間をかけて蓄積した後に強制送風で温度を上げて還元雰囲気で急激に浸炭させて白銑鉄を製造する方法もありかなどと考えています。最後の段階でノロが生成して白銑鉄が生成して、口での吹き込みは最後の段階だけとなるので、吹管でも可能な間接製鉄法などと考えています。
褐鉄鉱などは海綿鉄・直接法製鉄には向いているように思います。古代鍛冶も初期は加熱鍛造もなかったり、加熱温度も低かったようですから、製鉄は比較的新しい古墳時代に入ってからかもしれません。
素人の思い付きです。

[9976] Re[9972]: 倭鍛冶と韓鍛冶  かたばみ [Url] 2009/10/03(Sat) 21:29 [Reply]
荷物運びと日曜大工で古宅?と新宅をいったりきたりしております。

褐鉄鉱にからみまして青草をちょいと。
建御名方命は主(大国主命)の和睦決定に従わなかったために諏訪に放逐(蟄居)を命ぜられた・・なぜ諏訪か。
褐鉄鉱の産出地を確保する極秘任務を帯びていたから・・(^^;
(倭鍛冶の源流か、韓鍛冶の源流かはなんともいえずですが、砂鉄製鉄の源流ではあろうと考えています)

以前にも出しましたが
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/kattekou/index.html
黒姫山の戸隠神社は縁起不明とされますが、奥社の御祭神は手力雄命でこれが本来の主神であり、自然神(地主神)や密教系の神仏融合が結合していった結果が現在の複雑な戸隠社になったものと考えています。

東京では湯島天神の御祭神が手力雄命で雄略時代の縁起を持ちますが、書紀以前の天孫系譜の武神は手力雄命であったと考えています。
(天武天皇の意識としては、自身の意識する「倭根子系譜」独自の明確な武神がほしかったのだとみております、武甕槌神の登場です)
古墳時代での関東残存の出雲勢力の抑えが湯島天神、長野での出雲勢力の抑えが戸隠神社ではないか(点在する手力雄命の関連をチェック中)。

諏訪のミシャグチ神、これを赤蛇とみるのはいい線じゃないかとも思ってます。
褐鉄鉱のイメージ化ですね、九頭龍の原形かもしれない。

島津氏は薩摩ですが、これは鎌倉時代に伊勢志摩あたりから移封されたことによります。
原典をあたっていませんが、島津氏は諏訪に飛び地の領土を持っていたそうです(おそらくは後の信濃島津氏)。
なぜ諏訪に飛び地を・・伊勢津彦命が源と考えています(すなわち島津氏は伊勢津彦命を祖にもつとみる)。
薩摩(鹿児島)に少なからぬ建御名方命(南方あるいは諏訪)がみえるのもこれに源を発すると考えています。

伊勢津彦命(おそらくは出雲系)はいつ伊勢志摩を脱出したのか。
神武東征説話(偽とみる)とからむなら開化225-248、崇神248-273頃の天孫の大和制圧からの脱出と考えられますが考慮中。

[9975] Re[9974]: 倭鍛冶と韓鍛冶(訂正)  素人 2009/10/03(Sat) 04:04 [Reply]
とみた様
> >播磨の東部は秦氏などの古い鍛冶で、西部は漢人の新しい鍛冶と分けられるのが平野先生です
>
> 播磨の西部が秦氏。東部が漢氏です。加古川は東部で、忍海漢人もいたことになります。
鍛冶ですが、後の野鍛冶のような簡単な加工が鉄器の伝播とともに北九州から瀬戸内海を弥生時代に東進したものと思われます。鍛冶炉などの発掘が裏付けています。
これらが、完全に駆逐されるとは思われず古い鍛冶として残って新技術を加えて発展したとも考えられます。鍛冶・製鉄では秘密主義が横行していたようですから確信は持てません。倭鍛冶に相応しいように思うのですが。
 鍛冶・製鉄技術の伝播は渡来人と言うよりは、戦争などの難民が支えていたように思われます。
400年伽耶地域への高句麗の進行、新羅への駐留に伴う、大量の日本への戦争難民の流入。鍛冶集団の吉備などへの移住。
562年任那伽耶地域の崩壊に伴う戦争難民。鍛冶・製鉄集団の吉備などへの移住。
663年百済滅亡に伴い、百済、伽耶地域からの日系人引き上げ、漢人・半島人など大量の戦争難民の日本への流入。鍛冶・製鉄集団も難民に含まれた。
これらが、半島からの鍛冶・製鉄技術者と考えられます。
吉備の初期製鉄地域(6世紀後半)は総社市秦村周辺だったりします。
加熱鍛造や焼き入れだけでなく高度の精製・製鋼技術も持っていたと思われます。
渡来系の鍛冶でしょうか。
以後、製鉄は律令期(北陸・東北地方の海砂鉄から主として白銑鉄)の製鉄へと入り技術が進歩(踏み鞴と角型炉)して、全国へ広まったのではないでしょうか。その後、良質の砂鉄資源の豊富な山陰地域で大発展したのでしょう。
いつもながらの素人の手前味噌な発想ですが、如何でしょうか。

[9974] 倭鍛冶と韓鍛冶(訂正)  とみた 2009/10/02(Fri) 14:12 [Reply]
>播磨の東部は秦氏などの古い鍛冶で、西部は漢人の新しい鍛冶と分けられるのが平野先生です

播磨の西部が秦氏。東部が漢氏です。加古川は東部で、忍海漢人もいたことになります。

[9973] Re[9972]: 倭鍛冶と韓鍛冶  とみた 2009/10/02(Fri) 14:04 [Reply]
> > 伊賀上野には大彦命は阿部(阿閉)氏の先祖で伊賀上野には敢国神社があり、大彦命と金山ヒコ神を祀っている。
>
>  大彦命を祭神にしたのは明治七年。創祀は美濃の南宮大社から勧請した金山比売命、その後少彦名命も合祀。近くに銅鐸が出土した佐那具があり、金属にかかわる土地柄。
>  『伊勢国風土記逸文』に、「伊賀の安志の社においでの神は、出雲建子、またの名は伊勢津彦の神、天櫛玉命。略。ここに阿倍志彦の神が来襲してきたけれど、勝つことができず還り去った。」とあり、これが伊勢の国号の謂われ。

伊勢国風土記逸文によると、神武が大和に入ってきた際、忌部氏の祖の天日別に命じて伊勢津彦を平定します。平定された伊勢津彦は諏訪に逃れます。

諏訪神社は南宮で南方。鉄鐸=佐奈具があるわけですね。

それが美濃の関が原の近くの不破にも南宮があり金山彦を祀っている。
美濃赤坂の赤鉄鉱の山が近い。伊吹颪の風を利用すれば銅や鉄を精錬できる。これは伊福部とされるのが谷川健一さん。不破と諏訪は風の通りであると同時に東山道のルートでもある。

これは古い鉄鍛冶なのでしょうか。


伊勢津彦は出雲系で旧式の鉄鍛冶=倭鍛冶で新羅系。
阿部志彦は新式の鉄鍛冶=韓鍛冶で百済系。

平野邦彦さんの秦氏研究があります。

4世紀末ー5世紀初め。 新羅から倭鍛冶が来る。鉄てい(金+延)を輸入した鍛冶。秦氏。

5世紀末。百済から韓鍛冶が伝わる。砂鉄採鉱。漢氏。

千賀久先生の考古学的な研究では、金剛山の麓の南郷辺りに5世紀の鉄鍛冶などの遺跡があり、御所の北西の葛城山麓には5世紀後半-6世紀の寺口忍海
古墳群があり180ぐらいの円墳には横穴式石室があります。これは百済の様式で鉄鍛冶職人の墓が多いそうです。

播磨の東部は秦氏などの古い鍛冶で、西部は漢人の新しい鍛冶と分けられるのが平野先生です。実際、加古川上流の三木市と想定される縮見屯倉は、雄略の没後の481年に屯倉となり、鉄の献納をしていますがこの屯倉管理人は忍海部造細目です。

真弓常忠さんは、最も古い鉄鍛冶の原料を水草についた水酸化鉄の褐鉄鉱、高師小僧、鬼板の俗称で呼ばれるものを挙げておられます。

鉄鍛冶には、倭鍛冶、韓鍛冶の前に高師小僧などの粗悪な鉄原料を用いた鍛冶=佐那具製造の段階があったのでしょうか。
いずれにせよ韓鍛冶が近江や河内や北九州に入ります。宅蘇吉士一族の存在です。鉄で儲けたのでしょう。筑前志摩郡は伊都で交通の要衝に本拠を置いています。宅蘇の

一族と肥国の君の猪手は結び宅蘇の財力を活用したのでしょう。猪手宅蘇=イテタクソ=伊太祁曾 は瓢箪から駒かもしれません。

[9972] 倭鍛冶と韓鍛冶  神奈備 2009/10/01(Thu) 11:41 [Reply]
> 伊賀上野には大彦命は阿部(阿閉)氏の先祖で伊賀上野には敢国神社があり、大彦命と金山ヒコ神を祀っている。

 大彦命を祭神にしたのは明治七年。創祀は美濃の南宮大社から勧請した金山比売命、その後少彦名命も合祀。近くに銅鐸が出土した佐那具があり、金属にかかわる土地柄。
 『伊勢国風土記逸文』に、「伊賀の安志の社においでの神は、出雲建子、またの名は伊勢津彦の神、天櫛玉命。略。ここに阿倍志彦の神が来襲してきたけれど、勝つことができず還り去った。」とあり、これが伊勢の国号の謂われ。

 『風土記』の吉野裕さんの注に、「阿倍志彦の神とは敢国神社と関係があるか。」とあります。金山彦・比売神は王権の金属神、新しく構想された神のように思えます。技術進歩をした金属神、それが国津神の子である伊勢津彦に勝てないと言うお話は不思議な気がします。
 現に神武天皇に指示された忌部氏の祖の天日別命は伊勢津彦命を追放しています。追放された伊勢津彦命は信濃の国に住んだとあります。長野市大字風間に鎮座する風間神社の祭神となっています。三重県三重郡菰野町の多比鹿神社の摂社の八風神社の祭神でもあり、風の神のようで、金属神にかかわっているようです。天然の風による精錬、倭鍛冶的な技術水準なのでしょうか。また、倭鍛冶とは5世紀初めに伝わってきた新羅系の金属技術のこととあります。

 一方、悠久の昔から王権に所属していた鍛冶が倭鍛冶とする見方もあるようです。そうしますと銅鐸はともかく銅鏡製作などは倭鍛冶の仕事とあるようです。

 『播磨国風土記』揖保郡 伊勢野
 この野に人家ができるとその旅に安らかに暮らすことができなくなる。そこで衣縫猪手・漢人刀良ら(百済系渡来人)の祖は、ここに住むことにした時、社を山麓に立ててうやまい祭った。山の峰にいる神は伊勢津彦・伊勢津姫命である。それ以後、安らかに暮らせるようになった。

 5世紀末に百済から渡来した鍛冶の技術を韓鍛冶と言うようです。倭鍛冶よりは技術が進歩していたようです。揖保郡伊勢野では倭鍛冶と韓鍛冶とが協調したと言う意味なのでしょう。

 真弓常忠さんは五十猛神を韓鍛冶の神と見ています。新羅に降臨し、木を植えずにこの国に戻った神ですが、百済から来た神となります。

 さて、『日本の神々1』(白水社)高祖神社:奥野正男氏)によると、筑前国志摩郡の郡大領を肥君猪手(いで)と言い、二代にわたって宅蘇吉志と婚姻関係を結んでいる。この宅蘇とは『応神記』に見える韓鍛宅素のこと、猪手の宅蘇となれば伊太祁曽になっても不思議ではなさそうです。
  


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