神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成二十二年 十月〜十二月   2010.10〜12)お名前の敬称は省略しています。

[10555] Re[10554]: 年末年始  琉球松 2010/12/31(Fri) 23:37 [Reply]
 こちらでは、長渕剛のコンサートで年が明けます。
 「♪俺たち島人は琉球の国で・・・」って、鹿児島人が歌うのも若干違和感ありますが、島へのエールとして歓迎しますね。

 島内の琉球八神社(ほとんど熊野権現)も大勢の参拝者で賑わってますよ〜。

 今年もいろいろありがとうございました。来年もお騒がせすると思いますがよろしくお願いします。

[10554] 年末年始  和歌山 2010/12/31(Fri) 21:38 [Reply]
 奈良へ来て初めての歳越しです。
 今日、春日大社で大祓詞を唱える会と大祓式、除夜祭に参加してきました。
 正月三が日も春日大社へ行きます。東大寺や興福寺なども周ります。
 元旦朝7時20分から春日大社の特番が再放送されます、是非見てください。
 今年1年間有難うございました。来年もよろしくお願いいたします

[10553] Re[10549][10548][10547]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  琉球松 2010/12/31(Fri) 01:22 [Reply]
 「刀自」は、現在の琉球方言でも妻「トゥジ(奄美沖縄)・トゥズ(宮古八重山)」を意味しますが、古くは神酒を醸す資格もあったようで、本土側の「杜氏」とに分化したのかもしれません。
 「戸畔≒刀自」だとすれば、ほとんど普通名詞ということになりそうですね。

 それと、名草山が神奈備山であるとすれば、島根県荒神谷遺跡のように銅鐸の出土例はないでしょうか?「備」を「ヒ(樋)」と解釈し、筒状の銅鐸と関連ずける説もあります。

 "神武軍はアメとムチ"。。。これは、『三国志』の曹操の戦略を連想しますね。神武東征はたぶん同時代でしょうか。

[10552] Re[10551][10549][10548][10547]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  和歌山 2010/12/31(Fri) 00:10 [Reply]
>  それと、名草山が神奈備山であるとすれば、島根県荒神谷遺跡のように銅鐸の出土例はないでしょうか?「備」を「ヒ(樋)」と解釈し、筒状の銅鐸と関連ずける説もあります。

 和歌山県での出土例は多いんです、和歌山平野でも有本などで出土していますが、名草山周辺では今のところありません。しかし、名草山のすぐ南側を流れている亀ノ川下流域で銅鐸型土製品といって銅鐸を模った土を焼いたミニチュアが出土しています。県下で最も出土例が多いです。

[10551] Re[10549][10548][10547]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  琉球松 2010/12/30(Thu) 23:45 [Reply]
 「刀自」は、現在の琉球方言でも妻「トゥジ(奄美沖縄)・トゥズ(宮古八重山)」を意味しますが、古くは神酒を醸す資格もあったようで、本土側の「杜氏」とに分化したのかもしれません。
 「戸畔≒刀自」だとすれば、ほとんど普通名詞ということになりそうですね。

 それと、名草山が神奈備山であるとすれば、島根県荒神谷遺跡のように銅鐸の出土例はないでしょうか?「備」を「ヒ(樋)」と解釈し、筒状の銅鐸と関連ずける説もあります。

 "神武軍はアメとムチ"。。。これは、『三国志』の曹操の戦略を連想しますね。神武東征はたぶん同時代でしょうか。

[10550] Re[10548][10547]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  和歌山 2010/12/30(Thu) 23:06 [Reply]

>  和歌山さんは、戸畔敬称説?を紹介されてますね。
>  大国主命をも連想してしまいますし「長髄彦」の「ナガス(名草?)」、「ヤマ  トトトヒ百襲姫」の「トヒ(戸畔?)」など、想像が膨らみますね。

 神武軍はアメとムチを使ったのかも知れませんね!

[10549] Re[10548][10547]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  神奈備 2010/12/30(Thu) 15:26 [Reply]
>  神奈備さんは、この辺りにお住まいでしたか。
>
 紀州生まれで大阪に流れ着いています。考えてみますと親戚の多くは名草山の周辺に分布しています。また伊太祈曽でも少し高い所からは名草山の頂上が見えます。やはりこの山は神奈備山なのでしょう。

 「戸畔」の「戸」は、扉の意味というより、どちらかと言うと、戸数とか言う「家」と言う意味があるのではと思います。

 「刀自」も同じ様な使われ方をしているようですが、聖徳太子の妃で蘇我馬子の娘が刀自古郎女と言う名前です。同じく妻であった膳大郎女は膳大刀自とも書きます。郎女と刀自が同じ意味になります。先ほどの刀自古郎女は刀自古刀自、または郎女古郎女となり、何のこっちゃらになります。


> 「長髄彦」の「ナガス(名草?)」

 『富士古文書』には、「矢傷を負った五瀬命は名草戸長之家に入って手当をします。しかし名草戸長は長髄彦の教唆に応じて五瀬命を急襲します。五瀬命は闇夜の中でしたが、名草戸長を切りましたが、負傷して死んでしまいました。」との物語が残っています。
 少しは関係があるのかも。

[10548] Re[10547]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  琉球松 2010/12/30(Thu) 00:26 [Reply]
 神奈備さんは、この辺りにお住まいでしたか。

 「戸畔」の語義は「戸女」との説があるようですが、どうなんでしょう? 入り口の女性とか、先頭の女性とかの意味はあるでしょうか。

 和歌山さんは、戸畔敬称説?を紹介されてますね。
 大国主命をも連想してしまいますし「長髄彦」の「ナガス(名草?)」、「ヤマトトトヒ百襲姫」の「トヒ(戸畔?)」など、想像が膨らみますね。

[10547] 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  神奈備 2010/12/29(Wed) 13:59 [Reply]
名草戸畔の本を送らせていただいた和歌山のいとこからのメールの一部です。

名草戸畔の本 とっても興味深くよませていただきました。
年末忙しいのでさっとしか読みすすめませんでしたのでもういちどゆっくり 落ち着いて読みたいと思っています。
友人にすすめましたところ 徹夜で読んでしまったとのこと。
私も毎朝 ベランダから名草山を眺めながら 洗濯物を干していますし  ますます名草山に思い入れがふかくなりました。
昨日 帯伊書店でもう一冊買い求めました。長男に送ってやろうと思います。

小野田さんとなき父上は友人だったそうです。また祖父はしばらく千種神社の神主だったようです。


帯伊書店は和歌山市の繁華街ぶらくり大通りにあるしにせの書店です。

[10546] Re[10541][10539][10538][10535]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  よかおごじょ [Url] 2010/12/28(Tue) 20:37 [Reply]

> 九州と関係あります。
> そう、弥五郎伝承とも似てますよね。
>

弥五郎のページリンクをミスってました。
こちらをどうぞ

http://hayato.com/mado/yagoroh.html

iPadは、スクリーンが綺麗だから、写真も見栄えがありますね。

[10545] Re[10540][10538][10535]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  和歌山 2010/12/28(Tue) 20:08 [Reply]

>  そうだとすると、この時点で神武側の呪詛に敗北すれば、名草軍?は一人の戦死者も出していないと考えらます。。。破れた名草トベは、むしろ英雄ですね。

和歌山市立博物館の寺西氏は名草戸畔やその他の戸畔の付く氏族について、戸畔は相手を称えて付けられたものだという説を出しました。(和歌山地方史研究に掲載)

[10544] Re[10543][10541][10539][10538][10535]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  なかひらまい [Url] 2010/12/28(Tue) 18:51 [Reply]

> 流石、iPadは早くてストレスがありませんわ。

現在プログラマーさんががんばってます!

[10543] Re[10541][10539][10538][10535]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  よかおごじょ [Url] 2010/12/28(Tue) 16:27 [Reply]

> iPadをお持ちなんですか?
> iPad版は少し遅れて1月になりますが、
> こちらは写真の臨場感がすごいですよ。

サーチしましたが、ヒットしませんでした。
そうですか、お年玉拝読ですね。愉しみですわ。
iPadには古文書が100冊入っています。
長年、PDA(携帯型パソコン、ポケット版)に入れて読んでいました。
しかしメモリーが少ないので閲覧に時間がかかりました。
流石、iPadは早くてストレスがありませんわ。

[10542] Re[10540][10538][10535]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  なかひらまい [Url] 2010/12/28(Tue) 13:08 [Reply]
琉球松さま

>  なかひら まいさん!これはワクワクしますよ。

でしょ?
ありがとうございます!

>  五瀬命との関係がありそうですけど、神武兄弟を敵とみなしていたとすれば、久米島の「君南風(チンペー)」のように相手に呪詛を放つ高級神女だったかもしれません。

神武軍は、おそらくイツセが大将でしょうね。
わたしは、神武というのは、後で付け足したのではないかと考えています。
あまりにも実態がないので。
久米島のチンペー、興味津々。
名草戸畔高級神女説、ありですね。
面白い!

>  そうだとすると、この時点で神武側の呪詛に敗北すれば、名草軍?は一人の戦死者も出していないと考えらます。。。破れた名草トベは、むしろ英雄ですね。

なるほど、名草軍が一人の戦死者もだしていない想像は面白いですね。
口伝を考えても、ありそうな気もしてきます。

[10541] Re[10539][10538][10535]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  なかひらまい [Url] 2010/12/28(Tue) 13:00 [Reply]
よかおごじょさん、こんにちは。

> 九州にも脚を運んでおられるんですね。
> 当地の<a href="hayato.com/jisya/yagoroh.html">弥五郎伝承</a>とダブらせながら拝読しました。

九州と関係あります。
そう、弥五郎伝承とも似てますよね。

> 今度はiPad版で読みましょうか

iPadをお持ちなんですか?
iPad版は少し遅れて1月になりますが、
こちらは写真の臨場感がすごいですよ。

[10540] Re[10538][10535]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  琉球松 2010/12/27(Mon) 22:12 [Reply]
 なかひら まいさん!これはワクワクしますよ。

 五瀬命との関係がありそうですけど、神武兄弟を敵とみなしていたとすれば、久米島の「君南風(チンペー)」のように相手に呪詛を放つ高級神女だったかもしれません。

 そうだとすると、この時点で神武側の呪詛に敗北すれば、名草軍?は一人の戦死者も出していないと考えらます。。。破れた名草トベは、むしろ英雄ですね。

[10539] Re[10538][10535]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  よかおごじょ [Url] 2010/12/27(Mon) 18:06 [Reply]
九州にも脚を運んでおられるんですね。
当地の<a href="hayato.com/jisya/yagoroh.html">弥五郎伝承</a>とダブらせながら拝読しました。
今度はiPad版で読みましょうか

[10538] Re[10535]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  なかひら まい [Url] 2010/12/18(Sat) 14:21 [Reply]
さっそくお読みいただき、ありがとうございます。
神奈備さんに気に入っていただけるとは、本当に嬉しいです。
そして、ホッとしました。

「神奈備へようこそ!」のトップページにもご紹介いただき、
ありがとうございます。

http://kamnavi.jp/

一部ドキュメンタリーなので「カンナビさん」も登場します。
神奈備サイトファンの皆様もぜひ。
皆様にも読んでいただき、
いろんな意見が出てくれば楽しいと思います。


> 出版されました。早速読みました。面白い、実に面白い、よくぞここまでとの印象です。
> 皆様もご一読を!
>
> 名草戸畔 古代紀国の女王伝説
> 著者:  なかひら まい
> http://www.studiomog.ne.jp/kodaishi/index.html
>

[10536] Re[10532]: 春日若宮おん祭  和歌山 2010/12/18(Sat) 01:44 [Reply]
<24時間以内に社殿にお戻りになる還幸の儀が11時ころから始まりますのでまもなく出かけます。

 今戻りました。奉納舞楽が早く終わりましたので還幸の儀も早まりました。遷幸の儀と同じように暗闇の中無事お戻りになりました。私も後方から同行させていただきました。拝殿での社伝神楽のあと、神職(創建当時から奉仕されている中臣氏の末裔)の方から参列者にお礼の挨拶があり、874回途切れる事なく行われる事は世界に誇るべき事である、来年も催行できるように皆さんの協力をお願いしたい等の挨拶がありました。秘儀であっても続けなければなりません。しかし、明かり等は駄目なのにオーという声を録音している人がいました。録音はいいのですがスイッチオンの赤いランプがついていました。私が注意すると消しました。研究者らしき人(隣の若い女性にオーという声を聞き漏らすなとかの会話が聞こえてきました)のようでしたが研究者であっても守って欲しいですね!

 日・月曜日の春日大社の朝拝、21日の旬祭に参加します。寺院や神社でも大きいところは敷居が高く感じるんですが誰でも参加できる祭事があると親しみを感じますね!だれか春日大社関係の方いらっしゃいますか?

 今まで和歌山という名前で投稿してましたが奈良に来ても和歌山で投稿しますのでみなさんよろしくお願いします。

[10535] 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  神奈備 2010/12/17(Fri) 21:14 [Reply]
出版されました。早速読みました。面白い、実に面白い、よくぞここまでとの印象です。
皆様もご一読を!

名草戸畔 古代紀国の女王伝説
著者:  なかひら まい
http://www.studiomog.ne.jp/kodaishi/index.html

[10534] Re[10533]: 追伸  神奈備 2010/12/17(Fri) 21:10 [Reply]
> 和歌山こと私はいま奈良に文化財関係の仕事で赴任してきまして奈良公園近くに住んでいます。今後ともよろしくお願い申し上げます。毎週1度は春日大社に参拝しております。

朝の春日大社は本当に気持ちが良いですね。大好きです。
これからもよろしくお願いいたします。

[10533] 追伸  和歌山 2010/12/17(Fri) 20:19 [Reply]
追伸 
和歌山こと私はいま奈良に文化財関係の仕事で赴任してきまして奈良公園近くに住んでいます。今後ともよろしくお願い申し上げます。毎週1度は春日大社に参拝しております。

[10532] 春日若宮おん祭  和歌山 2010/12/17(Fri) 20:12 [Reply]
 今日、春日若宮おん祭が行われています。
 昨晩深夜0時から遷幸の儀が行われ行ってきました。1時間前には既に数百人の見学者(参拝者)が参道の両脇に列をつくっていました。(20年ほど前には殆ど見学者はいなかったそうです)0時になると全ての明かり(外灯・自販機、携行品の明かり等)が消され松明に先導された若宮の御霊が1k離れた御旅所まで宮司に抱えられ(らしい)周りを白布と榊で囲まれオーという声と楽人による演奏と共にお移りになりました。なぜ12月17日の深夜月明かりの元でなければならないのか分かりません。このような厳粛な儀式は初めてです。御霊は宮司しか知らないそうです。御旅所の仮御殿では芝舞台(芝居の語源となった)で日本古来の伝統芸能が昼から休みなく奉納されます。細男舞を見てから一旦帰宅しました。今雅楽の演舞中です。宮司は藤原氏の方ですがこの祭自体は興福寺が春日社の祭祀に関わろうとしてはじまったそうです。興福寺貫主や東大寺別当も参列されていました。
 24時間以内に社殿にお戻りになる還幸の儀が11時ころから始まりますのでまもなく出かけます。

[10531] Re[10528]: 伊勢神宮  和歌山 2010/12/16(Thu) 22:26 [Reply]

> 中臣氏は鹿の鹿嶋の鹿の卜骨による卜占です。

春日大社の春日は滓鹿とも書く。香取も鹿取。麻績王の子が流されたという値嘉(血鹿)島、倭建命が亡くなった鈴鹿、気比神宮の角鹿(敦賀)。
志賀島の阿曇磯良は、「八幡宮御縁起」に、「磯良と申すは筑前国鹿の島の明神の御事也。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、是みな一躰分身、同躰異名」。磯良が舞ったという「細男舞」が奈良の春日若宮神社の例祭「春日若宮おん祭」で舞われてる。鹿島神宮より鹿の背に乗って奈良に勧請した春日大社。同行してきたのが中臣氏。藤原氏の祖は中臣氏。今でも中臣氏の子孫が春日に奉仕している。
 藤原氏、中臣氏、鹿、春日・・・

[10530] Re[10529][10528]: 伊勢神宮  神奈備 2010/12/16(Thu) 19:20 [Reply]
> 大嘗祭は、もともと冬至正月に行われた祭りでしょうから、太陽を再生させる目的でしょうかね。

 天皇即位後はじめての新嘗祭を大嘗祭と言います。

 天皇が新穀をまず天照大神にささげて感謝の奉告をした上で、これを神よりの賜りものとして食する儀式。
 天皇の生命の甦りをはかるべく、天皇は天照大神からミタマの籠もった稲魂をいただく。
 天皇が天照大神の霊威を頂き、天皇の資格を得るなり、自身の霊威を高める祭り。

 冬至の時期に行われるのは太陽の復活にあやかって天皇の生命力を盛り上げると言う意味でしょうね。

 冬至の日に行われる儀式は、冬至以降に太陽は再び復活してくることを承知の上での祭だったのではないでしょうか。

[10529] Re[10528]: 伊勢神宮  琉球松 2010/12/16(Thu) 15:43 [Reply]
 大嘗祭は、もともと冬至正月に行われた祭りでしょうから、太陽を再生させる目的でしょうかね。民間伝承の「大晦日の客」も瀕死の太陽を蘇生させるために乙女を必要としていますよ。

 とすると、"猿田彦神は阿邪訶の海で魚を捕っていて貝に手を挟まれて"って「日光感照神話」の変形とも考えられないでしょうか? このあたりにも「加賀の潜戸」のような洞窟があるといいんですけど。。。
 それにしても、阿邪訶の地が伊勢志摩半島からそう遠くないのはやはりも気になりますよね。

[10528] 伊勢神宮  とみた 2010/12/16(Thu) 09:27 [Reply]
和歌山さん、神奈備さん、琉球松さん いろいろありがとうございました。要するに大嘗祭の秘儀に至ります。三種か二種の神器です。真床の白布の神性、再生。

布は阿波忌部の三木家(後藤田官房長官とか三木首相に繋がるのでしょう)。
これは度会氏ー磯部との関係です。忌部の系統に麻積がいて青和幣を出す。

中臣氏は鹿の鹿嶋の鹿の卜骨による卜占です。

中臣、卜部、忌部は語り部です。いわばシャーマン。占い師。

中臣とは神と人を繋ぐ役割の意です。シャーマンです。

中臣は壱岐氏の亀卜を取り込んで神祇官として出世しました。

ここに伊勢の伊勢大鹿氏が加わります。

伊勢大鹿氏はその娘の菟名子と敏達と結ばれまして糠手姫が生まれます。これが田村皇女でしよう。

皇女は押坂彦人と結ばれて舒明が生まれます。押坂彦人は敏達と息長真手王の娘の広姫との間の子供です。

伊勢大鹿氏は鹿島の出身でしょう。彼が日奉り部民を率いたのでしょう。他田日奉部神護は下海上国造です。

敏達が百済大井宮から他田(訳語田)宮へ移しました。日奉(日祀)部を置くためです。

古事記によれば、他田宮は春日神社の昔の名前です。

敏達が日の御子として天皇の神性の継承を行う儀式
を担ったのが日(奉)祀部や日置部でしょう。

それが後の孝徳時代以降天智天武持統時代にになると度会氏と荒木田氏との争いが激しくなったのでしようか。内宮は太陽神を祀り天皇の祖神として荒木田氏が祭り外宮は豊受として度会氏が太陽神への食事係にさせられます。

平安期の平城天皇に忌部広成が古語拾遺で訴えます。南北朝になって度会氏が反撃して外宮を持ち上げた伊勢神道を作ります。以上は皆様のよく御存じのところです。

敏達の時は、息長系を取り込み経済的な支援を、伊勢大鹿を取り込み宗教的なバックアップをもらったのでしょう。息長氏は琵琶湖の東岸、伊吹山の北、息長川が流れています。天目一箇命を祀りますから、鉄族でしょう。

伊吹ー桑名(天目連)−鈴鹿(ヤマトタケル終焉地)ー伊賀ー忍(押)坂  なんとなく繋がりますね。

伊勢大鹿も伊勢の鈴鹿川河曲辺りに住んだようです。こちらは大鹿で鹿島命の子孫でしょうね。大鏡によれば中臣・藤原氏は常陸の出身とされています。
近くの下総に他田日祀部もいたようです。



[10527] Re[10518][10516]: オウミ  和歌山 2010/12/16(Thu) 01:17 [Reply]


> 一つ。大嘗祭の真床覆衾で使うのは白い布ですか。
> これは阿波の三木氏が作るのでしょうか。
> 麻には呪術的な臭いがします。

忌部三木氏は、践祚大嘗祭に御衣御殿人として,麁服を貢進していました。麁服(あらたえ)とは,天皇が即位後の践祚大嘗祭の時にのみ,阿波忌部氏が調製・供納する麻織物で,天皇が神衣(かむそ)としてまつります。

[10526] Re[10507][10506][10503][10502][10501]: 「麻続」の発音をおしえてください       和歌山 2010/12/16(Thu) 01:04 [Reply]
> > 阿波徳島の美馬の「馬」も麻という見方があってもよさそうに思います。
> ▲ 麻をヲと呼んだ地方、マと呼んだ地方があってもおかしくはないとおもうのですが……。

阿波には麻植、美馬という地名がありますが阿波では忌部氏が麻を生産していたといいます。これらの地名は麻からきているのではないでしょうか?

[10525] Re[10523][10522][10520]: 阿阪と猿田彦  琉球松 2010/12/15(Wed) 23:36 [Reply]
 シャコ貝は、確かに「ギーラ(太陽?)」とも言いますね。
 人工衛星を追いかけるパラボラアンテナのように、たえず太陽に向かって口を開けています。

 "アザは「交」" 。。。これはよく理解できます。十字路などは「アジマー」ですから、三重県?の地名「アザカ」も交通の要所って感じがしますね。

[10524] Re[10518][10516]: オウミ  和歌山 2010/12/15(Wed) 21:38 [Reply]
大嘗祭の真床覆衾で使うのは白い布ですか。

折口信夫氏や岡田荘司氏の著書には出てこないですか?

[10523] Re[10522][10520]: 阿阪と猿田彦  神奈備 2010/12/15(Wed) 20:19 [Reply]
>  こちらでは、シャコ貝を「アジケー(アザカ?)」と呼びますよ。

 シャコ貝に猿が手をかまれるお話はインドネシアにもあると、南方熊楠さんが言っています。
 また谷川健一さんは、「沖縄の御嶽にアザカと言う木があり、下の葉は南北、上の葉は東西、上から見ると十字。」だと言っています。
 アザは「交」、校倉のアゼ、田の畦、この印は魔除けだそうです。

 シャコ貝の寿司はギラと言うとか。

[10522] Re[10520]: 阿阪と猿田彦  琉球松 2010/12/15(Wed) 18:37 [Reply]
とみたさんへ

 "猿田彦神は阿邪訶の海で魚を捕っていて貝に手を挟まれて海に溺れた" 。。。この貝は二枚貝でしょうか。

 こちらでは、シャコ貝を「アジケー(アザカ?)」と呼びますよ。

[10521] Re[10519][10515][10512][10511]: オウミ  神奈備 2010/12/15(Wed) 14:52 [Reply]
 皆さん、興味深いお話、ありがとうございます。

 鬼無里には幾つかの伝承が残っているようです。

 都から流された高貴な姫が盗賊の首領となって鬼女と呼ばれるようになって、それが都に聞こえて退治されてしまい、それまでの水無瀬の地名が鬼の無い里となったそうです。

 また、岩下という人里の近くを流れている裾花川のほとりに「機織石」と呼ばれる大きな岩があり、機織りの時の使う道具に似た形で、さらに雨が降りそうだという天気になると、カラカラと音をたて、その音が、機を織るときの音とよく似ているから、「機織石」と呼ぶようになったと伝えています。

 瀬に坐る鬼女、また川の側で機を織る、何となく神を待つ巫女を思わせます。その神とは、瀬織津姫なら似合いそうです。

[10520] 阿阪と猿田彦  とみた 2010/12/15(Wed) 11:13 [Reply]
猿田彦は天孫降臨するニニギ尊を天
の八衢(道の分岐点)で地上へ道案内

雲出川下流域
阿坂(阿邪訶)に、荒ぶる神
(倭姫命世記=度会神道)
建砦子(アザコ:一志県造の祖)を畿内勢力が平らぐ(皇太神宮儀式帳)

猿田彦神は阿邪訶の海で魚を捕って
いて貝に手を挟まれて海に溺れた
(古事記 猿女君・猿田彦の段)

東海式土器のS字甕の発祥地
(雲出川の砂を使う)
雲出川支流中村川には前方後方墳
(4世紀)が多い(庵ノ山、西山、筒野)

中村川の氾濫平野には、4−5世紀
片部遺跡(S字甕)水田の堰・
灌漑水路(導水溝)

物部十市根の息子の膽咋が
一志(市師)郡と安濃郡の豪族
と姻戚→目→尾興→守屋

雄略474年、物部目が朝日郎(アサカのいらっこ)を討つ(日本書紀)

櫛田川右岸には、5-6世紀に前方後円墳。飯高郡には飯高氏=和邇系壱師君(水銀の採掘)、中央から移住

7世紀(孝徳、天智)に多気・渡会の評。
10郷に度会、新家、磯連牟良、麻続、磯部
そして飯野評(久米勝麻呂が評督領)

[10519] Re[10515][10512][10511]: オウミ  大三元 2010/12/14(Tue) 21:50 [Reply]
> 広辞苑では、おうみで苧績、おみで麻績があります。麻績では「オウミの約」とも記されています。

時代別国語大辞典上代編より抜粋:
うむ:麻や苧(を)を細く裂きつなぎ合わせてよる。つむぐ。
を :麻・苧
をみ:麻を績(う)むこと。また麻を績む人。麻・績(を・うみ)の約。
うむ:【考】「続」は「績」と書くのが正しいが、古写本には「続」の字が書いてある
(抜粋終わり)

を・うみ のように合成したとき二重母音が生じる場合には二重母音を回避するように変形される。を・うみ → をみ

「鬼」と麻煮: おに と をに、 違うというか微妙なマッチというか・・・

[10518] Re[10516]: オウミ  とみた 2010/12/14(Tue) 13:02 [Reply]
佐々木さん
和歌山さんも加わって論が弾む。とてもありがたいことです。みなさんの意見が重なるところに何かヒントがあるのでしょう。知的探究心の極みです。

> 伊勢神宮の4月神衣祭の祝詞には服織氏(服部)、麻積氏のことが出てきます。

愚問を呈しますのでよろしくヒントがございましたらよろしくお願いします。

一つ。大嘗祭の真床覆衾で使うのは白い布ですか。
これは阿波の三木氏が作るのでしょうか。
麻には呪術的な臭いがします。

忌部はタカミムスビを祀ります。北方系です。
布帛(絹?)に包まれて天降りするのは北アジアの特にアルタイ系民族の間で首長となるべきものがフェルトなどの布団の上に載せ人が揺すって失神状態で日の神の霊魂を入れる儀礼に似ています。大嘗祭は高句麗起源とする説もあります。

二つ。伊賀の北部は阿閉郡です。
ここの佐那具というところに敢国神社と御墓山古墳があります。敢国神社は南宮山に秦氏の祠があり少名彦命を祀っていたのを大彦命に変えたようです。大彦命の墓は阿部氏、阿閉氏、膳氏、伊賀臣と筑紫国造先祖の祖先です。敢国の敢は饗のアへに通じています。膳氏でしょう。

なんとなく鉄に関係がありそうです。

ところが戦国時代の織田信長の伊賀攻めの時、名前を隠して、服部氏と名乗りました。
どうも秦氏が絡んでいるような土地のように感じています。

[10517] オウミ  和歌山 2010/12/13(Mon) 22:14 [Reply]
麻積氏は渡来系と考えられています。全国各地に散らばったのかも?

[10516] オウミ  和歌山 2010/12/13(Mon) 21:48 [Reply]
伊勢神宮の4月神衣祭の祝詞には服織氏(服部)、麻積氏のことが出てきます

[10515] Re[10512][10511]: オウミ  佐々木 2010/12/13(Mon) 20:32 [Reply]
> 和歌山の方言でしょうか?
広辞苑では、おうみで苧績、おみで麻績があります。麻績では「オウミの約」とも記されています。
 なお製麻の工程は、最初麻煮(おに)工程で麻釜(おがま)で麻を煮る。麻剥ぎ(おはぎ)工程で煮た麻のくきから繊維をはがす。麻掻き(おかき)で繊維からいらない部分を取りのぞく。麻績み(おうみ)で繊維を長くつないで、より合わせる。麻撚り(おより)工程で繊維をねじって強くする。糸合わせ工程でさらにより合わせる。
 方言ではなさそうです。
 ちなみ麻で有名な産地で長野市鬼無里があります。鬼無里の「鬼」と麻煮が微妙マッチして面白く感じました。

[10514] Re[10512][10511]: オウミ     生田淳一郎 2010/12/13(Mon) 19:14 [Reply]
和歌山さん、あり難うございます!
まさに「ズバリそのもの」。快挙です。

「帯」とか「おぶ(帯ぶ)」、「踊り」、「うぶ(産む)などにも、どれが中核概念か「派生概念」かわからぬままに巾広い地平の浮上を約束してくれそうです。

[10513] オウミ  和歌山 2010/12/13(Mon) 18:46 [Reply]
機織で使う糸をよることです、奈良晒やその他の地域でもオウミと言うようです。

[10512] Re[10511]: オウミ  神奈備 2010/12/13(Mon) 15:31 [Reply]
> 麻の繊維を撚って麻糸にすることをオウミといいます。関係がありますか?

ずばりそのものでしょう。

和歌山の方言でしょうか?

[10511] オウミ  和歌山 2010/12/13(Mon) 11:40 [Reply]
麻の繊維を撚って麻糸にすることをオウミといいます。関係がありますか?

[10510] Re[10509][10508]: 飯高氏       神奈備 2010/12/11(Sat) 10:29 [Reply]
> 続、績 はやはり、共に「ミ」という発音でしょうか? 

麻続 麻績 となって 「ミ」なのでしょう。単独では無理では。

> 三重嬉野温泉
あり。
http://nara.cool.ne.jp/fukucyan/MyHomePage/onsen/uresino.html

[10509] Re[10508]: 飯高氏       生田淳一郎 2010/12/11(Sat) 09:29 [Reply]
すでにお気づきだったらご寛恕あれ。

● 嬉野は佐賀県の温泉で有名。それだけなら問題でもなんでもないのだが、広島県北の三次(みよし)市から、ひょいと北へ峠を越えたところにも「ウレシノ温泉」があります。三重県の嬉野に温泉があるかどうかは未確認。
飛び離れた三つのウレシノ。氏族移動の軌跡にはならないでしょうか。
ウレシノの内意はアオクサでもむずかしい。

● 下流域には新興勢力がとりつき、旧勢力は川上に追い上げられるという図式が成り立つとか、成り立たないとか。

[10508] 飯高氏  とみた 2010/12/10(Fri) 19:25 [Reply]
またお付き合いください。私のアプローチは地形です。川がキーです。海の民は潟湖から川を遡って集落を作るからです。
中伊勢は、津市は安濃川、松阪市は阪内川と雲出川です。

雲出川には中川が合流します。この辺りは嬉野、とか一志郡です。一志は市師のようです。この氏族は和邇系だとされています。

櫛田川は松阪の少し南です。下流域に斎宮があります。
櫛田川と雲出川に挟まれたところが飯野のようです。この近辺には飯高氏が勢力を張っていたらしい。
水銀を採掘し商いしていたとも書かれています。

5世紀初めの宝塚1号墳はこの勢力の墓とする説もあるようです。
ところが、倭姫命世記に拠れば、倭姫が伊勢の地を求めて、市師の県造の祖である建砦古(タケ アザコ)の命に訊ねると、我が国は害行阿佐賀の国といった。

阿佐加、昔の一志郡・嬉野、今は松阪市阿阪。ここに猿田彦が祭られてる。
猿田彦は、倭王権にとって反逆の国に思えます。

ところが倭姫命世記は偽書とする人が多い。度会氏に都合よく書かれているのでしょう。


[10507] Re[10506][10503][10502][10501]: 「麻続」の発音をおしえてください       生田淳一郎 2010/12/09(Thu) 08:29 [Reply]
とみたさん、佐々木さん、神奈備ドン、あり難うございます。

● お陰さまで、35年間追いかけ回した「浅葱色」の意味がなっとくできました。
  おたしは浅葱という漢字にこだわりすぎていました。
  アイヌ語にも asangi(青、青の)があるのですが、 印刷業関係でいうアサギはすこし黄色がかった明るい緑です。
  アサギの原義原音は「麻・きれ(布)」でしょう。布を ki , - gi としている例は多いとおもいます。
● お陰さまで、青草に「わからぬ」と書いたばかりのツキヨミの「ヨミ(計算する)」も半分理解できたようです。
  沖縄に残っていた縄での計算方法は、この 続、績 のたぐいでしょう。「撚る」の関連語でしょうか。
● 続、績 はやはり、共に「ミ」という発音でしょうか? 
● 徳川家康、織田信長がのしあがった背後には、綿の栽培・集荷があったそうですね。
  斯かる消耗品 兼 基礎産業を抑えたのが発展の基盤だったのでしょう。

> 阿波徳島の美馬の「馬」も麻という見方があってもよさそうに思います。
▲ 麻をヲと呼んだ地方、マと呼んだ地方があってもおかしくはないとおもうのですが……。

[10506] Re[10503][10502][10501]: 「麻続」の発音をおしえてください     神奈備 2010/12/08(Wed) 21:41 [Reply]
> するってえと、続 = 績 で、これは書き違いによるものでしょうか。

続 糸が長く続くことをあらわす。角川漢和辞典
績 糸を撚って紡ぐをあらわす。   〃

 よく似た意味なんでしょうね。

 伊勢神宮ゆかりで神麻續機殿神社と言う神社があります。祭神は伊勢神麻續連等の祖となっています。神社名からは麻糸から織物を織る建物に坐す神を祀っているようにも思えます。

[10505] Re[10504][10502][10501]: 「麻続」の発音をおしえてください     佐々木 2010/12/08(Wed) 21:35 [Reply]
トミタさん
 一つの氏族を丹念に追跡なさって、いろいろな副産物が得られる。まさに古代史の醍醐味です。大変興味深く勉強させて頂いております。

>糸に関係がありそうです。麻糸でしょうか。

  たぶん麻(糸)そうでしょう。信州は有名ですね。東近江地区の麻も適度に有名です。阿波徳島の美馬の「馬」も麻という見方があってもよさそうに思います。
 なお、梶:白栲(しろたへ)の葉は紙の原料だったように記憶しています。
また梶の葉は甕が三つつながった形であり、これも先般の討議にあった「再生」を意味するのかもしれませんね。

[10504] Re[10502][10501]: 「麻続」の発音をおしえてください     とみた 2010/12/08(Wed) 11:06 [Reply]
神奈備さん お付き合いありがとうございます。

生田さんの信濃の更級の麻続郷は当然承知しています。

> 横から 『和名類娶抄郷名考証』より
>
> 伊勢国飯野郡麻続郷  乎宇美  をうみ
>
> 下総国海上郡麻続郷
>
> 信濃国伊那郡麻続郷  乎美   をみ
>       麻績   乎美
>
> 信濃国更級郡麻続郷  乎美
>       麻績   乎美
>
> 陸奥国伊具郡麻続郷
>
> 阿波国麻殖郡     乎恵   をゑ

阿波忌部の天日鷲命のを祀る後裔の主流、支流が黒潮に乗って天竜川を遡上し、飯田の座光寺あたりに麻続郷を拓きさらに諏訪に足を延ばし、さらに更級にも進んだのでしょう。
麻続族は天白羽神を祀ります。これは天日鷲命の孫とされています。一族には違いないようです。
天日鷲命は穀(カジ、楮の類)の樹皮から木綿(ゆう)=真っ白を作り、天白羽命は麻から麻布=青みを作ります。穀の葉が諏訪神社上社本宮の社紋であることが頷けます。

忌部神道です。
度会氏は磯部で、天日鷲命を祀るようです。

中臣氏が荒木田氏を内宮の神官にし、中臣神道にしました。律令期前後でしょう。

忌部を追放したのでしょう。神武の時、度会・忌部が伊勢津彦を追いやって伊勢国造になっていたのを、中臣氏が律令期に追いやった。神武は弥生以降でしょう。
伊勢津彦が伊勢船木氏なら渡来人の入植した5世紀かもしれません。
阿波忌部 天日鷲命の仲間の天富命が房総の上総に入り穀麻を植えます。

房総も阿波と同様にアワと読みます。相馬は倉麻とも書きます。麻の倉庫です。
上総では、本来は大伴氏が祭っていた国造社を安房神社に変えて、安房忌部氏が祀るのが元正時代717年です。
初代出雲国司は忌部子首です。彼は壬申の乱で大海人皇子側に立ち飛鳥の倭京を守る貢献により出世しましたが所詮地方官です。その間、中臣大嶋は大出世しています。
続は元々、糸篇に売るの旧字です。績も糸篇です。糸に関係がありそうです。麻糸でしょうか。

[10503] Re[10502][10501]: 「麻続」の発音をおしえてください     生田淳一郎 2010/12/08(Wed) 08:31 [Reply]
神奈備ドン、あり難うあがあがございます。
斯くも濃密資料がペラペラァ〜と、機関銃式に連発されるとは ! さすが 歳の効、年期がはいりましたナァ〜。

● するってえと、続 = 績 で、これは書き違いによるものでしょうか。
おたしが住んでいる旧浦和市太田窪の「太」は江戸期の官僚が「大」を書きまちがえたというのが定説になっています。
● 長野県上田市には小海の地名があります。小諸から南下する高原列車は小海町を通る小海線です。
 「をみ」が「おうみ」となまって、小さい海と当て字したのが始まりだったのかナ?
 「塩のみち」で塩を運んできたボッカは、塩の代りに麻をはこんで帰ったか。
● mi には着物の意味があるかと思います。例 ; アイヌ語 chi mi p(着物)。蓑にも関係あるでしょう。
● 下総国海上(うなかみ)町には肌の白いアイヌそっくりさんがいました。
  じつは、豊後の旧松木村の松木さんにも異形の人相がみられたんです。
● 陸奥国伊具郡……、鹿島神宮と香取神社を直角三角形で結ぶ息栖神社。飯塚市の伊岐須。
● 麻袋(またい)の ma は、江戸期までの日本には定着しなかったのかナ? 

こげな書き込みは、青草むきやったかの。

[10502] Re[10501]: 「麻続」の発音をおしえてください     神奈備 2010/12/07(Tue) 21:57 [Reply]
横から 『和名類娶抄郷名考証』より

伊勢国飯野郡麻続郷  乎宇美  をうみ

下総国海上郡麻続郷

信濃国伊那郡麻続郷  乎美   をみ
      麻績   乎美

信濃国更級郡麻続郷  乎美
      麻績   乎美

陸奥国伊具郡麻続郷

阿波国麻殖郡     乎恵   をゑ

[10501] 「麻続」の発音をおしえてください     生田淳一郎 2010/12/07(Tue) 07:56 [Reply]
とみたさん、日進月歩の進展ですね。おめでとうございます。
お書き込みに「麻続」がありますが、これはナンと読むのでしょうか、お教えくだされば幸甚。
「松木姓」との関連が気になっているのです。
「麻績(おみ)」なら大町近くの長野にありますね。
きのふ、「天のムラクモ」を釣り逃がしました。青草掲示板をご一瞥くだされば幸甚。

神奈備ドン、サルタ彦の内意に「交易」、「運搬」、「世話人」の三つを加えていただけませんか?
青草ですこし詳述します。

[10500] 猿田彦  神奈備 2010/12/04(Sat) 20:27 [Reply]
> 猿田彦も磯部氏とされています。

 猿田彦は単純に割り切れない神です。整理してみます。

 諸説

1.佐太大神 平田篤胤 支佐加比売命が加賀の潜戸を射た時、光輝き顕現した太陽神
2.狭長田 「伊勢の狭長田の五十鈴川の川上」に由来する神
3.道祖神 琉球のサダル神の倒置 前馳神 谷川健三氏
4.境界神 異様な面相の神
5.戯人 サルメは戯女
6.塩土老爺などと異名同神
7.猿が日の出の前に啼きさわぐ 太陽神
8.天の八衢にいて輝く神 星

 白髭神ともされています。だから渡来神かも知れません。鉱山師。ただ半島には猿は少ないようで、列島で猿に見立てられたのかも知れません。

磯部氏の神としますと、海神ですが、貝に手を噛まれて溺れるようでは海神とは言いにくいかも。インドネシアでは実際に猿が貝に噛まれることがあるとのことです。

[10499] Re[10498][10497]: 麻続氏  とみた 2010/12/03(Fri) 11:42 [Reply]
>  『伊勢国風土記逸文』に、神武天皇が天日別命に命じて、伊勢の国から古い神である伊勢津彦を追い出した話が載っています。風を巻き起こし太陽のように光り輝いて波に乗って東に去ったとあります。信濃に逃げていったとの注もあります。天日別命とは天日鷲命のことだそうです。忌部の祖。
外宮の度会氏は祖神を天日鷲命として祭るそうです。

度会と宇治土公は磯部氏です。

伊勢国内の立評は孝徳時代に行われています。度会・多気の二
評が立評、山田原屯倉と竹村屯倉です。それらは十郷を纏めたものです。

新家連、磯連牟良、磯部真夜手、麻績連のものでした。
麻積が出てきます。磯連牟良はいかにも天牟羅雲のムラを想起します。

この地は天智時代に飯野評に再編成され、久米勝麻呂が評督領に任命されます。

久米氏は櫛田川左岸に進出したようです。

猿田彦も磯部氏とされています。
猿田彦を祀る宇治土公も磯部のようです。

猿田彦が天孫族のニニギをヤチマタで案内し地上に導きました。

日本書紀は天武の意向に藤原氏の修正が入っている気がします。

磯部氏の度会氏と猿田彦を封じて、中臣氏の神道を入れたのではないのでしょうか。

[10498] Re[10497]: 麻続氏  神奈備 2010/12/03(Fri) 10:04 [Reply]
 『伊勢国風土記逸文』に、神武天皇が天日別命に命じて、伊勢の国から古い神である伊勢津彦を追い出した話が載っています。風を巻き起こし太陽のように光り輝いて波に乗って東に去ったとあります。信濃に逃げていったとの注もあります。天日別命とは天日鷲命のことだそうです。忌部の祖。

 東とか光など、伊勢らしい雰囲気です。

 『日本書記』の雄略紀に、伊勢の朝日郎を、物部菟代宿禰と物部目連に命じて討たせた記事が載っています。この朝日郎の名は、伊勢津彦の所作を思わせます。語り継がている間に二つの時代のものとして語られたのかも。

 
 『伊勢国風土記逸文』の話を裏付ける話は、『旧事本紀』に、「伊勢国造。橿原朝、天降る天牟羅久怒の孫、天日鷲命を以て、国造に定む、」とあります。天牟羅久怒とは天村雲命のことで、度会遠祖とされています。
 阿波国麻殖郡に式内社の天村雲神伊自波夜比賣神社二座が鎮座、天村雲の名がついた式内社はここ1社だけです。天村雲命は天香語山命の御子との伝承もあり、物部氏にもつながります。古い伊勢の神に対処した神が忌部氏であったり物部氏であったりしているのは、そんな所にも関係があったのかも。

 員弁、伊名部、これも忌部と物部との関わりが見えそうです。

[10497] 麻続氏  とみた 2010/12/02(Thu) 12:46 [Reply]
神奈備さんのお知恵を頂こうと投稿しました。
いつも貴重なコメントを頂いています。

神道でもいろいろあります。
物部神道、中臣神道、伊勢(度会)神道、卜部神道などがありますね。

度会神道は外宮が内宮より上とする主張に見えますね。14世紀でしょうか。

忌部が神武東征の時も伊勢の豪族の伊勢津彦を追い出して、伊勢国造になった。

さらに天武の時代の前後でしょうか。中臣氏が荒木田氏を担いで度会氏を追い出し

た。忌部神道と中臣神道の勝負があったのでしょうか。持統天皇のときに中臣大嶋が天神壽を読み、忌部色夫知が剣と鏡を奏上している。

忌部氏は、やはり壬申の乱のときは大したことはないですね。大伴吹負の子分とし

て活躍したのが出世の契機なのでしょう。文武天皇時代、出雲の初代守になっています。

忌部連子首は記紀の元ネタの帝紀、上古の制定に関わっていますので、忌部の一族を尊大に見せているのでしょうね。

北伊勢には員弁=猪名部の造船工人、麻糸・布の麻続、木材伐り出し業の船木氏

がいたのでしょうね。麻は阿波忌部、鉄鍛冶は桑名の一目連(天目一箇神)こちらは伊勢と筑紫の忌部です。

木は紀伊の忌部ですが、船木氏との関係が分かりませんね。
天竜川は古代は麁玉河とか天中川と言われていたそうです。

麻続氏の先祖の長白羽神は、衣服の白羽のことで青和幣を作り阿波忌部の祖神の天日鷲神は穀木を栽培し白和幣を作らせたことになっています。

忌部というのが面白い。

[10496] Re[10495][10494]: 麻続氏  神奈備 2010/12/01(Wed) 21:40 [Reply]
>  『日本書記』が出来たのが720年、本来はその頃に信濃に建御名方命を祭る神社が出来ていないと都合がわるいように思います。

訂正します。
 『日本書記』には建御名方命の話は書かれていません。『古事記』だけです。
だから、急いで(紀の公表までに)諏訪に神社を造る必要はなかったようです。

[10495] Re[10494]: 麻続氏  神奈備 2010/12/01(Wed) 18:00 [Reply]
> 諏訪神社は忌部神道らしい。

このことと関係があるのかどうかですが、忌部氏のルーツ国らしい阿波国名方郡に延喜式内社の多祁御奈刀弥神社が鎮座しています。

、その神社の社伝によると、信濃諏訪郡の南方刀美神社(現在の諏訪大社)は,この阿波の多祁御奈刀弥神社から、宝亀十年(779)に移遷されたと伝わっているそうです。
 また、『名西郡史』にも、「社伝記ニ光仁帝ノ御宇宝亀十年信濃國諏訪郡南方刀美神社名神大,阿波国名方郡諏訪大明神ヲ移遷シ奉ル」と書かれているとのこと。

 『日本書記』が出来たのが720年、本来はその頃に信濃に建御名方命を祭る神社が出来ていないと都合がわるいように思います。

 『続日本紀』によりますと、大和国宇陀郡に鎮座の八咫烏神社は慶雲三年(706)に創建されたとあります。『アマテラスの誕生』で、著者の築紫申真氏は、「この直前に神武天皇の八咫烏伝説が形を整えられて、正史の中で大きくその位置を与えられることが決まったので、急いでその説話の具象化を行った。現に八咫烏神社が存在していますよ。」と歴史に真実性を与えたと指摘されています。

 これから考えますと、信濃に南方刀美神社が出来たのが宝亀十年(779)では遅いように思います。阿波からの伝承そのものがおかしいのか、年代がおかしいのか、それらはともかく、諏訪大社と忌部氏が関係があるということは面白い話です。

[10494] 麻続氏  とみた 2010/12/01(Wed) 11:05 [Reply]
北伊勢には員弁氏、伊勢船木氏などがいますが、麻続(績)もいるようです。

天白羽命で麻糸や麻布を作る民に見えます。

天白神でもあり名古屋の天白区にも通じ、飯田の座光寺にも麻続郷があり麻続神社があるようです。
阿波忌部の天日鷲命の孫とされています。

阿波忌部も麻や穀を作りますね。

諏訪上社本宮の社紋は穀(梶)の葉です。これと関係がありそうです。諏訪上社前宮の大祝いのの即位式には天白神を招くことになっています。

諏訪神社は忌部神道らしい。麻続氏の本拠は北伊勢という説と、中伊勢の多気郡とか明和町?勢和町のあたりとする説があります。多気郡には麻積郷があり、明和町は斎宮に近く麻積機殿神社があります。

、天白信仰は伊勢の天白羽神起源説を山田宗睦先生は肯定されています。

大和朝廷が7-8世紀に全国支配を進めると、忌部神道系の員弁(猪名部)、麻積の民は伊勢から追い出されて三河から伊那谷へさらに諏訪に深志に動いたのかもしれません。
長野県にも更級に麻積郷があります。

[10493] 船玉神社  神奈備 2010/11/30(Tue) 10:01 [Reply]
 住吉大社の摂社に船玉神社が鎮座しています。摂社になっていますが、式内社です。『住吉大社神代記』には、船玉神「今謂。齋祀紀国紀氏神。志麻神。静火神。伊達神本社。」とあります。「斎祀るは紀国の紀氏神。志麻神。静火神。伊達神の本社なり。」
と訳されています。
 この解釈ですが、紀氏神、志麻神、静火神、伊達神の四神の本社とするのか、紀国の紀氏が斎祀る神である志麻神、静火神、伊達神の本社であると解釈するのが妥当だと考えています。というのは、延喜式の名神大社として伊達神社、志磨神社、静火神社が並んでおり、紀伊三所神と呼ばれている神々です。

 紀氏を名称とする神社はないわけではなく、紀氏栗栖神社と言う神社が鎮座していました。本國(紀国)神名帳正一位紀氏栗栖大神と紀国内では格の高い神社でした。栗栖と言う場所に鎮座していて、紀氏の祖神である天道根[アメノミチネ]ノ命を祀っていたと『続紀伊風土記』に記載されています。式内社でもなく、かたや紀伊三所神とセットで呼ばれていた神々がいますので、上記『神代記』の解釈は三神の本社とするのが妥当と思っています。
http://kamnavi.jp/ny/newtai.htm

[10492] 大帯姫廟神社  神奈備 2010/11/28(Sun) 14:21 [Reply]
 皇統の内、瓊〃杵尊以降の方々を祭神とする式内社は見あたりません。しかし父神に当たる天忍穂耳尊は山城国式内社の許波多神社と想定されています。
 『紀』によりますと、降臨した瓊〃杵尊以降は陵に葬られています。瓊〃杵尊は日向可愛山陵。彦火火出見尊(山幸彦)は高屋山上陵、不合尊は吾平山上陵。

 神功皇后の場合、実在の人物と見なされているはずです。豊前国の大帯姫廟神社[オホタラシヒメノ・](名神大)は、通説では神功皇后を祭神としているとされています。それを認めるとしますと、「廟神社」の表記は、死んで神となったと言う前提での「廟」でしょう。

 住吉大社の場合、住吉坐神社四座となっており、第四宮は姫神宮と記載されており、姫神廟宮でも姫廟神宮でもありません。姫神が祭神であり、これを神功皇后と見なすのはいささか疑問を挟まざるをえません。
 宇佐八幡の比賣神社、枚岡神社の姫神や春日大社の姫神などと同じく、よくわからない女神ですが、そのままにしておくのが女神に失礼に当たらないように思っています。

 『神代記』に、「吾は御大神と共に相住まむ。」と皇后がおっしゃったことになっていますが、書かれた頃には姫神を皇后と見なすようになっていたのでしょう。後からの作文かもしれません。

 ただし、『記』では、建内宿禰が、「恐し、我が大神、その神の腹に坐す御子は、何れの御子ぞや」と皇后を神と呼んでいるシーンがあります。『岩波文庫』の注では、皇后が神懸かりしていたので、神と呼んだとしています。こんな所でしょうか。

[10491] Re[10490][10487]: 阿南市の鶏卵  琉球松 2010/11/26(Fri) 00:08 [Reply]
 仏教などの「輪廻転生」って、若干の脅迫観念がありますよね。生前に悪い事をすると地獄に落ちるとか、カエルなどに生まれ変わるとか。

 これは、伝統的琉球圏の発想とは相容れないですね。
 どんな人も無条件に生まれ変われますし、感覚的には、自らの子孫として生まれて来るって感じです。祖父や曾祖父の名をそのまま赤子に命名したりしますね。

[10490] Re[10487]: 阿南市の鶏卵  神奈備 2010/11/19(Fri) 11:58 [Reply]
> "壷や甕に再生の要素があった" と考えて無理はないと考えます。

 埋葬や墓にかかわるものに再生への願望がある、ということは確かに言えそうですね。
 それ以外にも水車のような回転体は輪廻転生の呪具でもあったようで、多くのものに再生の要素を見ていたのでしょう。

 子供の遊び歌の、カゴメカゴメ、 も色んな説があるのでしょうが、ぐるぐるまわると言う行動に再生があるのかも。現在でもお寺でのお参りの際、人々が一方方向に回る、坊さんが回る、神社でのお百度石も幾度も回る、これらも部分的な意味(病気が直る)も含めて再生祈願なのでしょう。

[10489] Re[10488]: 蒙古襲来      生田淳一郎 2010/11/19(Fri) 06:23 [Reply]
日本語はシナ江南〜揚子江で筏の上で暮らす湖上生活者の「蛋民」語を土俗語として底に敷き込み、これをヒンディー(ネパール)語系勢力が指導層・指導言語となってできあがったものと確信するに至っています。
で、白村江の負けいくさまでは日本と百済は融和した状態にあったので、さきに愚生は百済を「ku(いいこと)dar(いっぱい)」と分析したのでした。が、ふとみると、これはネパール語の hudar(オオカミ)ではなかろうかと、感じとったのであります。
S と H は入れ代わりやすいです。これはちょっと例がわ〜るいのですが、台湾ブヌン語として捉えられちる言語は、蠻地区と群地区の二つからなるのですが、これは蠻で「K」という音が群では「H」になっているちがいで、大きく区分けされています。
kudar は hudar に音転しやすい・・・・・が、いえるのでは? kudar → kurada の末尾の a は、開音化現象です。

どこかで「イリ=オオカミ」の語をみてオッと驚いた記憶があります。どこだったかナァと、きのふ一日かけて探してみましたが、何語か特定できずじまいでした。google検索ではヌクテ(オオカミ)という朝鮮語がひっかかってきます。が、もう一つ、「イリ」みたいな音で、同じ朝鮮語のオオカミがあるのでは? すなわち、イリ王朝のイリです。 ボケ記憶でスンマッセン。紋ちゃんもとしですなぁ〜。

ローマ人の先祖もオオカミでしたね。

[10488] 蒙古襲来  神奈備 2010/11/18(Thu) 11:21 [Reply]
 酷いと云う言葉は文永弘安の役でのモンゴルのやりようから派生したと云われています。
 明治時代、子供が泣くと、蒙古が来るから泣くのをやめろ、と脅かしたようです。この蒙古とは蒙古襲来の蒙古ではなく、狼の遠吠えの声が「モウ・モウ ・・」と聞こえ、これが始まると多くの狼が同調するそうで、不気味な雰囲気を醸し出すようです。

 ただ、モンゴルの語源も「青き狼」と云われるように、狼の遠吠えの声から国名になったそうです。

[10487] Re[10484][10483][10482][10480][10479]: 阿南市の鶏卵  琉球松 2010/11/18(Thu) 11:03 [Reply]
 "壷や甕に再生の要素があった" と考えて無理はないと考えます。

 吉野ヶ里遺跡の甕棺は子宮を表すと思えますし、遺骸の右腕には沖縄諸島産の貝輪が装着されいます。巻貝は女性(子宮)ですね。
 同じく、穀物の新鮮さを保つ意味でも、土器には再生の意味があるのではないでしょうか?

 蛇足ですけど、いわゆる屈伸葬には「死者による災いを防ぐ」との説があるんですけど、胎児の姿に戻し、再生の時を待っているようにも見えます。

 卵は、外室した子宮と考えるのはどうでしょうか? 鶏は太陽にとっての目覚まし時計でもあり、道しるべですから、四国阿南も伊勢の地も鳥居を構えるのに最も相応しいですね。

[10486] Re[10485]: 百済名  神奈備 2010/11/16(Tue) 13:24 [Reply]
> 最終的に高句麗との戦いに敗れた倭は百済をぺくちゅうと呼ぶ地名になりました。

この文章の意味を分かり易く直して下さい。

[10485] 百済名  古墳 2010/11/16(Tue) 10:00 [Reply]
 縄文弥生時代から対馬・壱岐を中心に倭国は朝鮮半島半分(ソウル位から南部)と九州を勢力範囲というのは多少の位置ずれはあっても半ば定説であることはご案内の通りです。そのときの朝鮮半島半分の地域の言葉は倭人が話す倭語でしたが、代表的な言葉の一つに百済があります。これはくだらと呼びますが、ひゃくさいをくだらとはよびません。倭人の言葉です。最終的に高句麗との戦いに敗れた倭は百済をぺくちゅうと呼ぶ地名になりました。現代の韓国語の基層の一つに日本語らしきものがあるのはこの倭国とも関連があるのです。

[10484] Re[10483][10482][10480][10479]: 阿南市の鶏卵  神奈備 2010/11/16(Tue) 09:03 [Reply]
>  大和岩雄さんは「前方後円墳は土器を寝かせて半分土中に埋めた様」との説を書いてますけど、これもまた再生を意味していると考えられます。

 三品彰英さんが『古代祭政と穀霊信仰』の中で、「神霊の容器である壷を横にして半ば大地に埋め、しかもその周囲に更に壷を埋め(=前方後円墳)る。これが古代人の神霊観念にもとづく実際的葬法であったろう。」と指摘しています。

 壷や甕に再生の要素があったのかどうかです。神霊の出入りと再生の観念とは少し違うのかもしれません。卵生説話の多い国(華南から朝鮮)では、壷・甕からの誕生・再生の物語は聞いたことがありません。


> 前方後円墳が羊水に浮かぶ胎児だとすれば、これはどうでしょう?「母なる海(ワタツミ)に浮かぶ常世の国」なんて。。。

 いいですね。いかにも常世の国らしいイメージ。

[10483] Re[10482][10480][10479]: 阿南市の鶏卵  琉球松 2010/11/15(Mon) 15:41 [Reply]
 ヒョウタンなどのウリ類は、自身が水を多量に内包する水筒でしょうし、材質を粘土にしたものが土器なのでしょう。

 大和岩雄さんは「前方後円墳は土器を寝かせて半分土中に埋めた様」との説を書いてますけど、これもまた再生を意味していると考えられます。
 土器は、女性が考案・製作し、移動・破壊をも受け持っていたようですしね。

 前方後円墳が羊水に浮かぶ胎児だとすれば、これはどうでしょう?「母なる海(ワタツミ)に浮かぶ常世の国」なんて。。。

[10482] Re[10480][10479]: 阿南市の鶏卵  神奈備 2010/11/15(Mon) 14:01 [Reply]
 天が匏形であるというのは、鞍部があると云うことで、前方後円墳を思わせます。天の二つの頂上、日と月?

 韓国の民俗でシャーマンがひさごを水に浮かべて、ごはんを食べるサジでたたきながら出生を祈る巫事がある、と『古代史ノオト』の中で谷川健一氏が韓国からの手紙を紹介されています。

 子宮の中の胎児のイメージでしょうか、水に浮かべるとは面白いことです。まるで古墳の周囲の池を思わせます。

 常世虫への信仰も繭がヒサゴ形だと云う所と関係があったのかも。


[10481] Re[10480][10478][10473][10472][10471][10470]: 阿南市の鶏卵      生田淳一郎 2010/11/15(Mon) 11:13 [Reply]
どこまで広がっているのかはしりませんが、ニワトリの産卵や包卵を促進させるスマブリというデコイの風習が、気仙沼南にあります。卵に似た小石を藁で造った巣に入れておくのです。
スマはアイヌ語にみられる「石」、ブリはフィジーを除く「南一帯」にみられる pur(卵)かと思われます。「南一帯」とは、ペルシャ〜インド〜オセァニアです。


中央公論事業出版から出た『中エジプト語辞典』という本を持っています。この辞典の P231 に msi(産む)があります。なぜ「常世虫信仰」に「虫」の字があるのか……です。

[10480] Re[10478][10473][10472][10471][10470]: 阿南市の鶏卵  佐々木 2010/11/14(Sun) 11:50 [Reply]
たいへん興味深く読みました。
>瓢は卵と同じく再生の意味を持っており
 ヒサゴで思いつくのは、仁徳紀での記事、茨田連衫子がヒサゴ2箇を水に投げ入れます。この場面で再生を意識するとヒサゴ自体が水に沈むか見えて浮く動作が再生と見たのか。それとも堤の再生を願ったのか。・・・・
 ほかに仁徳紀の記事をそうゆう観点で見ると、「河の神」には再生を抑止する能力があったのか。またヒサゴ2箇とは月と太陽の象徴なのか?
少し気になりました。 
 なお再生といえば水銀、常世虫、すでる。月読の神の持っている若返りの水(万葉集 巻十三 3245)、元旦行事、最近はips細胞でしたか、人類の願いでしょうか。
 ※再生と水はなにか関係があるのでしょうか。

[10479] Re[10478][10473][10472][10471][10470]: 阿南市の鶏卵  琉球松 2010/11/14(Sun) 11:00 [Reply]
 "日や月への信仰と卵生説話とは共存できる"。。。これは考えてもみなかったことです。琉球圏では、もうほとんど太陽信仰一辺倒のようで、なかなか卵による再生の発想はないですね。
 ただ、「ミシクーガ(見せ卵)」と言って、子宝に恵まれない女性に鶏の卵(他人の子に置き換える場合もある)などを関わらせたりする事がありますので、皆無ではないのでしょう。

 それから、蛹による昆虫の完全変態もその変形と言えるかもしれないと考えますが、どうでしょうか。蚕のマユと東北地方の「オシラサマ」は関係があると聞きますし、「常世虫」信仰?も再生祈願でしょうかね。

[10478] Re[10473][10472][10471][10470]: 阿南市の鶏卵  神奈備 2010/11/14(Sun) 10:27 [Reply]
> かぐや姫(この場合は竹)などに導入されたかもしれませんよ。

 このかぐや姫と垂仁妃になっている迦具夜比売とを同じ女性と見ますと、かぐや姫も始祖女王の資格が十分あることになります。前田晴人さんが卑弥呼に比定しているのも、むべなるかなの思いです。


万葉巻一 0292 久方の天(あま)の探女(さぐめ)が岩船の泊てし高津は浅(あ)せにけるかも 

 天若日子についてきた天の探女の降臨の地が高津にあって、その高津は今は浅くなってしまっていると往古を偲ぶ歌です。『摂津国風土記』にも載っていたようです。

 具体的には天王寺区味原町天理教教会の敷地内に旧蹟碑が立っています。
http://kamnavi.jp/kumano/osk/koudu.htm

 さて、枕詞の「久方の:ヒサカタノ」は、「瓢形の:ヒサゴガタノ」の変形だったそうです。瓢は卵と同じく再生の意味を持っており、それが「天」の枕詞になっているということは、天もまた卵形ととらえることができ、生まれや再生に通じるものなのでしょう。
 天を動く日や月への信仰と卵生説話とは共存できるものと考えています。

[10477] 往古の役人  神奈備 2010/11/13(Sat) 18:53 [Reply]
 今日の豊中歴史同好会の講師は阪大の市大樹先生。
 盛りたくさんの話題から一つ。

 奈良遷都1300年で再建された大極殿ですが、これは藤原京の大極殿を移設したものだそうです。この建物は次ぎに礎石ごと恭仁京の大極殿に移設され、最後は国分寺に転用されました。恭仁京の礎石は飛鳥の石だそうです。
 再び都が平城京に戻った際は大極殿は前の場所の東側に建てられたようです。

 長岡京の場合も難波宮から建物を移設しています。往古の役人は節約と云うかエコの観念を強く持っていたようですね。

[10473] Re[10472][10471][10470]: 阿南市の鶏卵  琉球松 2010/11/11(Thu) 20:45 [Reply]
 倭国〜日本に「卵生説話」が定着しなかったのは、そもそも太陽信仰が根をはっていて、その必要がなかったのかも?

 再生の象徴は日月で十分でしょうけども、流れついた卵から生まれたっていうのは「ウツボ船」の伝承や、スクナヒコナのガガイモの船、かぐや姫(この場合は竹)などに導入されたかもしれませんよ。

 後にも先にも本気で「卵で生みたい!」って言ったのは、女優の秋吉久美子だけですね(笑)。

[10472] Re[10471][10470]: 阿南市の鶏卵  神奈備 2010/11/11(Thu) 18:44 [Reply]
> 卵生説話

 始祖王に卵生説話が付き物ですね。倭国には直接的には出てきません。

 しかし、倭の五王の一部に比定される河内王朝の大王はどうも半島からのコピペのようです。

初代
応神   神功皇后が生まれるのをおさえるべき鎮懐石を腰に付けた。卵のイメージ。
赫居世  大きい卵から生まれたと云われる。

二代目
仁徳   大ささぎの命  
次々雄  ススング

三代目
履中  
儒理王

四代目 
反正  背丈 九尺二寸半 歯一つ骨の如し
脱解王 背丈 九尺七寸  歯凝如一

 1、2,4 代がよく似ています。

[10471] Re[10470]: 阿南市の鶏卵  琉球松 2010/11/11(Thu) 10:25 [Reply]
 「アル」は「有・在・新」とも言えるでしょうか。
 これは「孵」とも繋がりそうで、太陽が日々再生を繰り返す様をも連想させますね。


 『記紀万葉の朝鮮語/金思Y(六興出版)1979 』より

*** 古代の東夷人は一様に君主やその始祖は「日の子」だと信じていて、族名や王の諱に「バル・アル」をつけている。「バル→アル」の「アル」は「日・光明」を表すのであるが、「アル」はまた「卵」の訓とも一致していて、君主の始祖の誕生神話に卵生説話が多い。***

[10470] 阿南市の鶏卵  神奈備 2010/11/09(Tue) 09:41 [Reply]
 卵を朝鮮語ではアルと云う。日本語でアルとは「生る:アル」で出現を意味しています。再生でもあります。伊勢神宮の鎮地祭に、鶏と鶏卵10個を神前に供えるそうです。大地が再生の場所だからと云われています。
 そう云えば、徳島の阿南の磐座である巖座龍宮総宮社に詣った際、地元の方が鶏卵を持参されて供えられていました。それも聴くところによりますと1個1000円以上の滋養たっぷりの卵だったそうです。

[10469] 『古屋家家譜』  神奈備 2010/11/05(Fri) 14:56 [Reply]
 『古屋家家譜』とは大伴氏の古系譜であり、甲斐一宮の浅間神社の宮司古屋家に伝えられていたもの。
 これにより神武天皇の東征にお供をした道臣命(日臣命)までを以下に紹介します。

高皇産霊尊 大和国添上郡宇奈太理坐高御魂神社、武蔵国都筑郡杉山神社

安牟須比命

香都知命 紀伊国名草郡香都知神社

天雷命 紀伊国名草郡鳴神社

天石門別安国玉主命 紀伊国名草郡朝椋神社 同郡九頭神社
妻神 八倉比売命

天押日命 山城国葛野郡伴氏神社

天押人命

天日咋命

刺田比古命 紀伊国名草郡刺田比古神社

道臣命(本名 日臣命)


 四世孫に天石門別安国玉主命の名と妻神の名が見えます。現在、天石門別安国玉主命を祭神とする神社は土佐国 吾川郡に、天石門別安国玉主天神社(あまのいわとわけやすくにたまぬしてん)一社だけが出てきます。
 土佐のお隣の阿波には妻神と思われる八倉比売命を祀る式内大社の天石門別八倉比売神社が鎮座しています。

 八倉比売とはどのような女神様かと色んな論議がありますが、こんな所にも顔をだすのですね。

[10468] 久米歌  神奈備 2010/11/05(Fri) 10:50 [Reply]
 神武東征譚で、大和へ攻め込んだ際に、所謂久米歌が幾つか歌われます。久米歌は磐余彦(神武天皇)が歌っています。神武=久米のようです。

 また、大久米命が伊須気余理比売達七人を見いだして、妃を天皇に選ばせています。親衛隊兼執事のような働きです。

 久米は大和の王権の創始者の一人だったとの伝承があったのでしょう。

 『古事記』には、次ぎに「久米」の文字が出てくるのは、建内宿禰の御子として、久米摩伊刀比売です。この人のことは以降には出てきません。久米邑にでも住んでいたのでしょうか。

 次の「久米」は垂仁天皇です。伊久米伊理毘古伊佐知命と云います。この長い名から久米が取り出せるのは、『日本書紀』に、來目の高宮に皇后の狭穂姫を置いていたとの記述があり、「クメ」に関係する大王として書かれています。

 前田晴人著『古代女王制と天皇の起源』で、垂仁天皇の皇子とされる凡牟都和希命を男系天皇家の祖と見なし、継体天皇も元々はその凡牟都和希命の子孫であることを王位継承の理由付けにしていることを述べていますが、あながち的はずれではないような気がしてきました。

[10467] 名草戸畔  神奈備 2010/11/02(Tue) 19:29 [Reply]
 名草戸畔の伝説を掘り起こした『名草戸畔 古代紀国の女王』が刊行されます。
 詳細は
http://www.studiomog.ne.jp/kodaishi/index.html
参照のこと。

[10466] Re[10464][10462][10461][10460]: [10459]の訂正     神奈備 2010/11/01(Mon) 12:10 [Reply]
> ヒミコはクマリでしょう。イヨさんもクマリでしょう。

 二代目の台与さんは13歳で女王に選ばれました。この13歳と言う年齢は古代では結婚年齢に達した女性だったと言う意味です。『養老令』にも、「凡そ男の年15,女の年13以上にして、婚嫁することを聴せ。」とあります。

 当時、クマリのような制度があれば、女王はクマリ卒業者から選んだのかも。

 また、土蜘蛛の女頭領は戦っています。あきらかに女性を葬った古墳からも剣や刀が出土しています。卑弥呼さんも戦う女王でもあったのでしょう。

 男弟か男一人のどちらかがサニワの役割を行っていたのかも知れませんね。仲哀天皇、神功皇后、武内宿祢を考えた場合、サニワは武内宿祢でしたから、執事的な男一人だったのかも。

[10465] Re[10463][10461]  神奈備 2010/11/01(Mon) 12:09 [Reply]
> そう考えたならば、「男子」が卑弥呼よりも目上ということはないのではないか、というように思うわけです。

 トロイカの一角と見ますと、対等な立場と言えるのかも知れませんね。『倭人の登場』では、「その男が飲食を給し・・」とあり、これは現代文の「給」です。国語辞典では、目上から目下に与える、また給仕する、の二つの意味があります。


 『日本書紀』に、「給」の文字がいつくか使われていますが、殆どは天皇が家臣ないし客人に土地や酒を与えている場面で使われています。給仕的な使い方はないようです。
 『日本書記』も一応は漢文で書かれているので、『倭人伝』の、「給」も、目上から与えると理解しますと、卑弥呼より上席の者、親父か夫婿か神霊となりますね。

[10464] Re[10462][10461][10460]: [10459]の訂正     生田淳一郎 2010/11/01(Mon) 07:43 [Reply]
ヒミコのことを女王と表現した記述が 1ヶ所か 2ヶ所あるみたいですね。
ヒミコを現代ふうにそのまま女王と解釈するので、ムリが出るのでは?
ヒミコはクマリでしょう。イヨさんもクマリでしょう。
そう思ってみると「弟うんぬんの男」はサニワということにならいしょ。
神がかって喋ることばを通訳する人です。

[10463] Re[10461]  どんたく 2010/10/31(Sun) 16:45 [Reply]
神奈備さん、レス有難うございました。

京都産業大学教授の森博達(もり ひろみち)先生は、日中語文交渉史を研究テーマにしておられ、『日本書紀の謎を解く』(中公新書)の著者でもあります。

大阪外国語大学の中国語科を卒業され、我が国の古代史関係の分野では、最も古代中国語に詳しい方ではないかと思います。

この森博達先生が、「男子」を「男弟」と同一人物と見ることには無理があると言っておられるので、私はこれに従いたいと思っています。

そう考えたならば、「男子」が卑弥呼よりも目上ということはないのではないか、というように思うわけです。

[10462] Re[10461][10460]: [10459]の訂正  佐々木 2010/10/31(Sun) 14:23 [Reply]
>  誰か一人の男が卑弥呼に飲食を給した、飲食を(gei 3)する・・・、この男は卑弥呼の目上の男なのか部下なのか、どちらなのでしょうか。

 少し失礼しました。私は漢文を読んだ印象から、戦国から江戸期のお小姓に近い年代のように感じました。9代将軍に仕えた大岡忠光的印象もありました。
 どちらにせよ他人を寄せ付けないらしい「卑弥呼」の言葉を理解できる唯一の男子ではないかと思いますが。

[10461] Re[10460]: [10459]の訂正  神奈備 2010/10/31(Sun) 11:01 [Reply]
 どんたくさん、アドバイスありがとうございます。おっしゃる通りで、中国語辞典が手元にないので、古語なら似たものと言う気持ちで参照してみました。

> 「給飲食」という場合の「給」は、前者のケイ(gei 3)に相当するのではないかと思います。

 誰か一人の男が卑弥呼に飲食を給した、飲食を(gei 3)する・・・、この男は卑弥呼の目上の男なのか部下なのか、どちらなのでしょうか。

 飲食を差し上げたのか、差し下したのか?

 目上の場合、具体的にはどんな人なのか? 女王と男2人のトロイカ体制が統治機構だったと言えるようですね。


> (ji 3)の場合

 給仕のようなイメージでしょうから、部下と言えますね。

[10460] [10459]の訂正  どんたく 2010/10/30(Sat) 22:31 [Reply]
[10459]で書いた
> 森浩一編『日本古代1 倭人の登場』中央公論社
は、次のように訂正いたします。

森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』中央公論社 昭和60年

[10459] Re:[10458]『魏志倭人伝』の卑弥呼の説明  どんたく 2010/10/30(Sat) 22:22 [Reply]
いわゆる『魏志倭人伝』は中国の『三國志』の一部で、中国人が中国語で書いたものです。
従って、これは中国語として読まなければなりません。

例えば、英語の文章は英語として読まなければならず、英語を知らなければ読みこなすことはできません。

同様に、中国語の文章は中国語として読まなければならず、中国語を知らなければ読みこなすことはできません。

いわゆる『魏志倭人伝』は、色々な先生方が解釈しておられますが、私は次の本にある解釈を一番信用しています。

森浩一編『日本古代1 倭人の登場』中央公論社

この本の中の“4『魏志』倭人伝を通読する”は、古代史が専門の杉本憲司先生と、中国語が専門の森博達先生が共同で執筆しておられ、ここに書かれている解釈を私は一番信用しています。

> 原文 唯有男子一人給飲食傳辭出入居處
について、この本では次のように解釈しています。

“男子が一人だけいて、飲食物を運び、言葉をとりつぐのに出入りしていた。”

そうして、次のような説明がなされています。

○【唯有男子一人給飲食】
「有」を述語とする構文では、「有」の補語となる名詞は、不定(indefinite)の人(または事物)を指すのが普通である。
したがってこの文の「男子」は‘a man’であって、‘the man’ではない。
誰か男が一人だけいて、その男が飲食を給した云々という意味である。
この「男子」を、前文に見える、卑弥呼を補佐して国を治める男弟と同一人物と見る説が従来有力であるが、漢文の文法から見て無理がある。

余談ですが、現代の中国語で「お茶を下さい」というのは、「請給我茶」と言います。
このときの「給」はケイ(gei 3)と発音します。

一方、「配給」という時の「給」はチ(ji 3)と発音します。

「給飲食」という場合の「給」は、前者のケイ(gei 3)に相当するのではないかと思います。

いずれにせよ、いわゆる『魏志倭人伝』は、中国語の文章でありますから、これを解釈するのに日本語の古語辞典を利用するのは不適切だろうと思います。

[10458] 『魏志倭人伝』の卑弥呼の説明  神奈備 2010/10/30(Sat) 10:40 [Reply]
 原文 唯有男子一人給飲食傳辭出入居處
 翻訳(『倭人伝の考古学』小南一郎氏)男子がただ一人だけいて、飲食物を運んだり、命令や言上の言葉を取り継いでいた。

 「出入居處」については訳されていません。住居に出入りするの意味ですが、この文の後ろに宮室楼観とつづき、住居の形容と見ているようです。

 この前に卑弥呼には夫婿はなく、男弟がいて、国の統治を補佐したとあります。
 
 上記の翻訳では、男子が卑弥呼にお仕えしているような書き方です。さらに言葉の取り継ぎをしています。給飲食を給仕と解釈しているようです。

 さて「給飲食」の”給”は、古語辞典では「お与えになる くださる」とあります。 「男子が卑弥呼にお与えになる」とは、男子の方が卑弥呼より偉いと理解できるのでしょう。『古代女王制と天皇の起源』(前田晴人著)では、給を配給、給付などの語義から知られるように、高位の組織・個人から下位の者へ賜与することと理解しています。漢和辞典の通りです。そうしますと、卑弥呼より高位の男子が居ることになります。

 卑弥呼には夫婿なしとありますので、神霊以外にない、と結論されています。神人共食となります。神霊なら出入りは自由でしょう。

 夫婿なしは誤解だったとしますと、すなわち卑弥呼に夫がいたとしますと、神霊を持ち出さなくともつじつまがあうのですが。

 
 『崇神紀』には、大物主の御子の大田田根子に大物主を祀らせることにして、さらに倭迹迹日百襲姫命が神妻となっています。

 百襲姫の場合には国の統治は甥である崇神天皇がおこなっています。男弟にあたるのが崇神天皇としていいのでしょう。本当の弟は吉備津彦(桃太郎)ですが。

 百襲姫に食事を与えた男一人とは大田田根子であったか、大物主であったか、迷う所です。
 この二人から選ぶとしますと、人間と思われる大田田根子となるのでしょう。

 百襲姫の墓を箸墓として、昼は人が造り、夜は神が造り 大坂山の石を運んで造った 云々 とあります。『記紀』の400年前の出来事の伝承です。現実に葺き石は大坂山の石が使われていますので、伝承の一部に事実が残っていたのです。これは凄いことです。

[10457] Re[10456][10455][10454][10453]: 迦具夜比売  神奈備 2010/10/27(Wed) 14:49 [Reply]
 大伴氏の遠祖道臣命は築坂邑を賜ったのですが、ここは畝傍山南麓地域になります。また畝傍山西麓に来目邑があります。久米御縣神社が鎮座。

 欽明元年に大伴金村が任那割譲問題で責任を問われ、「住吉の宅」に隠居します。また、星川皇子反乱事件に加担した河内三野県主小根が大伴室屋に命乞いをして「難波の来目邑の大井戸の田十町」を献上しています。この場所は岩波文庫日本書記の注では「阿閉久米庄」と言う地名の存在を指摘しています。大伴氏に献上した土地で、難波ですから、難波の南側で大伴氏の地所に近い場所だったのでしょう。

 大伴氏は紀伊国名草郡に拠点を持っていました。これは雄略天皇が大伴郷に「紀郷と同じ国近き隣の人にして、由来ること尚し」と言っています。同国の人とは紀の国の人と言うことです。大伴氏の遠祖の道臣命は名草郡片岡之地に生まれると、『古屋家家譜』にもあり、式内刺田比古神社が鎮座。

 雄略九年、新羅遠征で大伴談連、大伴津麻呂とともに紀岡前来目連が戦死しています。岡崎は日前国懸神宮と伊太祁曽神社の中間の地です。紀氏や大伴氏と近い所の人だったのでしょう。

 さて、紀国のことは別にして、住吉と畝傍山と言いますと、埴土の神事が思い起こされます。「住吉大神に祈願して国を支配したい」、その願望を持っていたのが大伴氏か来目氏に居たのでしょう。

 『古事記』によりますと、九州で、建内宿禰が沙庭に出て、神の命(みこと)を請いました。神は、「この国は皇后の御腹の御子が治める国」と託宣、ここで建内宿禰は、「その御子は何れに御子や(男か女か)」と尋ねています。

 これは不思議な質問だと思います。

 神武天皇以来、男王が支配して来たこの国を治めると聞けば、男の子が生まれてくると思うのが普通です。そこを敢えて「男か女か?」とつっこんで質問しています。
 ひょっとしたら、男王も女王もその時の都合でこの国の王になっていたのか、女王制が続いてきており、百済との同盟や半島情勢も緊迫して来ており、強力な男王政権が求められてきていたのか、最後の女王神功皇后の生む御子こそ求められて来た大王になるとか、大王家の用心棒兼執事たる大伴氏や来目氏の切実な祈願だったのかも。

[10456] Re[10455][10454][10453]: 迦具夜比売  佐々木 2010/10/26(Tue) 22:39 [Reply]
>大伴氏と同族のようです。
 以前大伴と久米(+佐伯)は同族であろうと勉強したことがあります。確かに家持の歌が引用されてました。
 少し飛びますが、門脇禎二さんか水野正好さんだったと思いますが、目耳首?彦足の職階に注目して、垂仁はもともと大きな勢力の長だったと伺ったことがありました(門脇禎二「邪馬台国と地域王国」吉川弘文館)。
 しかし「いりびこ」と聞くと入婿と少し聞こえてきます。一旦久米へ養子に出して戻したのかな?

>垂仁天皇の普段の宮は纏向の珠城宮のようです。
 
 ウィキでは、だれが言い出したか典拠不明だと思うのですが、伝承地は久御山町の珠城の方になっていますね。珠城地区も弥生から古墳の地面は地下数mなので、前回のように高速道路でも通過しなければ、発掘はなさそうでしょうが。

神奈備さん、いろいろキーワードを頂きました、ちょっと思い出してきました。

[10455] Re[10454][10453]: 迦具夜比売  神奈備 2010/10/25(Mon) 10:45 [Reply]
佐々木さん、コメントありがとうございます。

 垂仁天皇は いくめいりびこいさち の名を持っています。狭穂姫が暗殺しようとした宮は「来目の高宮」でした。いくめ は 斎 + くめ と見ていいのでしょう。来目と関係が深かったのでしょう。

 クメは神武さんの頃から天皇の親衛隊のようです。大来目命は神武さんの皇后を捜して来ています。執事もやっていたのでしょう。

 継体天皇を越前から引っぱり出してきたのは大伴氏です。よく似た役割を果たしていたのでしょう。

 面白いのは大伴家持の歌(万葉4094)には、「大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負い持ちて・・」とあり、親衛隊の親玉と思われる大伴氏と同族のようです。

 垂仁天皇の普段の宮は纏向の珠城宮のようです。『大和志』に桜井市穴師の辺りとしています。

[10454] Re[10453]: 迦具夜比売  佐々木 2010/10/23(Sat) 21:17 [Reply]
 神奈備さん
 大変難しい物語でありました。
>三山本
 三山木。山本、山崎、南山と高木が合併して出来た合成地名でした。
 山崎だったか南山に小字越前(こしまえ)がありました。
>迦具夜比売
 かぐを輝くと考えると輝く夜の姫、それは月の姫。
>垂仁天皇
 名前「目」がつく天皇。
 宮址伝承地は京都府久御山町市田?
 市田といえば旧巨椋池地下の市田斉当坊遺跡(いちださいとうぼういせき)。
 遺構として、弥生時代中期の木組みの井戸。縦板の内側を横桟で止めたもので、同時期の日本列島では類例がなく、朝鮮半島の井戸とよく似た構造を有す。
 市田の上流に樺井月神社、大住月読神社が立地。地名で月夜田。
>大筒木垂根王
 筒木宮を想像
>御室戸斎部
 三室戸から宇治市の地名を想像

 総じて京都南部あたりの話であることがなんとなく理解できました。

[10453] 迦具夜比売  神奈備 2010/10/22(Fri) 14:56 [Reply]
 前田晴人著『古代女王制と天皇の起源』と言う書物は、そうとう大胆な仮説を提起されています。卑弥呼・台与から暫く女王制が継続し、凡牟都和希王(『記紀』では垂仁天皇と狭穂姫の皇子)が大王となったと言う仮説です。
 理由はその本に縷々書かれていますので、ご覧下さい。古書で¥二千円。

 で、卑弥呼に相当するのが何と、迦具夜比売。『古事記』では、垂仁天皇の妃。大筒木垂根王の娘となっています。京田辺市に三山本と言う地があり、この辺りにカグヤ姫の住んだ屋敷があったそうです。迦具夜比売のカグとは火の神カグツチのカグと同じで製鉄との関連を指摘するむきもいます。

 さて、カグヤ姫の名付け親は、御室戸斎部秋田と言う人です。忌部の名が見えます。また、大筒木垂根王に比定される竹取の翁とは讃岐造麻呂と言います。

 讃岐、忌部、卑弥呼と来れば、大倭迹迹日百襲比賣命が想起されます。この姫の櫛箱に三輪の神がはいっていました。箸は竹製は金属製だったか不明。

 最初に紹介した書籍の中には、大倭迹迹日百襲比賣命は実在はしていないとし、迦具夜比売には不思議な伝承がつきまとっており、それが平安時代に「竹取物語」として結実したようです。証明が難しいお話です。

[10452] 凡牟都和希  神奈備 2010/10/17(Sun) 16:07 [Reply]
 鎌倉末期に成立したとされる『釈日本紀』に引用されている『上宮太子御記』に、継体天皇の系図が説明されています。『上宮記』の仮名遣いは 推古朝の文章に似ているとのことで7世紀には出来ていたようです。

 「一に云う。 凡牟都和希王(ほむつわけのおおきみ)俣那加都比古(くいまたなかつひこ)が女子(むすめ)、名は弟比彌麻和加(おとひめまわか)を娶りて生める兒は若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)云々。」とあります。

 皇統を継ぐためには皇族の血を受けていることが必要だったとしての継体天皇側の説明だったのでしょう。しかし凡牟都和希王は垂仁天皇の皇子と『記紀』には出てきます。凡牟都和希王のN代目の子孫か垂仁天皇の(N+1)代目の子孫か、どちらが貴種か、どっこいどっこいです。普通なら天皇の子孫を名乗るのではないでしょうか。(N+1)が問題なら途中の一人ぐらい(例えば大郎子など)パスすればいいと思います。

 この凡牟都和希王には始祖王の雰囲気が漂っています。

 燃えさかる稲城の中で生まれた。稲魂に祝福された皇子。
 火の中で生まれた。火遠理命(山幸彦)と同じ。
 30才まで物を言わなかった。素盞嗚尊や阿斯受岐高彦根命と同じく、忌み籠もっていた。
 出雲へ行き、帰って来た。甦りを果たした。
 出雲大神の参拝後、大御食を行った。新嘗祭であり、王者の扱い。

 継体天皇の就任は6世紀初頭、この頃には凡牟都和希王は大王であったと伝わっていたのです。

[10451] Re[10450][10449][10448][10446][10444][10443][10441][10440][10439]: 伊予之二名洲  琉球松 2010/10/14(Thu) 21:54 [Reply]
 神奈備さん、すみません。また一人で盛り上がってしまいました。

 以降、『青草掲示板』に戻りますね。

[10450] Re[10449][10448][10446][10444][10443][10441][10440][10439]: 伊予之二名洲  琉球松 2010/10/14(Thu) 12:38 [Reply]
 高知平野はクロス地域ですから「突線鉦式銅鐸」も出ますが、これらの関係性は一応の傾向として見ていいと思います。

 銅鐸は破壊され、最終的には "太陽信仰"側に吸収されたはずですし、鏡や釧などに再生されたんじゃないでしょうか。現役?の銅製祭具類はほとんど九州的ですね。

 「二名洲」との表現は、四国島の新旧の勢力が並立していた時代を言っているような気がします。

[10449] Re[10448][10446][10444][10443][10441][10440][10439]: 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/14(Thu) 09:02 [Reply]
 僅かな出土品からそこまで読みとるのは鋭すぎるのかも。

> そう考えると、その後の四国島は、最終期の九州勢力(広形銅矛)と、最終期の突線鉦式銅鐸勢力との思想戦の最後の最前線と考えられますが、どうでしょうか。

 突線鉦式銅鐸は高知に出ています。
http://homepage1.nifty.com/moritaya/syutudo6.html

 銅鐸は地上から消えていきますが、それ以外の武器形の祭祀具は結構残っているようです。これらは同列に扱えるものなのでしょうか。

[10448] Re[10446][10444][10443][10441][10440][10439]: 伊予之二名洲  琉球松 2010/10/13(Wed) 16:55 [Reply]
 古代の国名と、現在の県域が完璧に重なるとは思えないですが、谷川健一さんは『青銅の神の足跡』で、四国四万十川が一つの境界と見ていますね。

 それと、北部九州の銅剣と出雲の初期銅鐸は、早くに連合を完成させているようですから、その最大の功労者は「大国主命」とされているのでしょう。
 その九州勢力が中国地方&瀬戸内海を東進していた証拠が、愛媛&香川の銅剣出土状況なのではないでしょうか。

 そう考えると、その後の四国島は、最終期の九州勢力(広形銅矛)と、最終期の突線鉦式銅鐸勢力との思想戦の最後の最前線と考えられますが、どうでしょうか。

[10447] Re[10445]: 伊賀と伊勢の神社  神奈備 2010/10/12(Tue) 20:25 [Reply]
とみたさん、まさに「青銅の神の足跡」の旅ですね。

> 南宮て何か。

 諏訪大社は諏訪南宮大明神と言われたことがあったそうです。建御名方命すなわち南方刀美命の「南方」ではないかと思っています。阿波に式内社の多祁御奈刀弥神社[たけみなとみ]が鎮座しており、諏訪大社の元社として奈良時代に信濃に勧請されていったとの社伝があるようですが、この神社、肝心の「南方」が中途半端で、どうなんだろうと思っています。


> イムベとイナベ。違うのでしょうか。

員辨郡に猪名部神社[ヰナヘ]が鎮座、伊勢忌部氏は[イムベ]の祖神を祀る多度大社は鎮座、WI とI との差は当時は違うものとの認識があったのではないでしょうか。


> 紀伊に井辺という地名がある。これは忌部か?

 井辺の地名はいつ頃からつけられた地名か不明ですが、『和歌山県の地名』(平凡社)では、古代の忌部郷のこととあります。甲乙の区分がなくなった時期なのでしょう。


> 宇治土公

 『謎の猿田彦』と言う本に、ご本人が登場、紹介に祭神の末裔とありました。

[10446] Re[10444][10443][10441][10440][10439]: 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/12(Tue) 20:24 [Reply]

> ◎日の出の方角に位置する地域(香川・徳島)は銅鐸が多い。

 やはり畿内に近い地域とも言えますね。

> ◎日の入りの方角に位置する地域(愛媛・高知)は銅矛が多い。

 九州の影響をより受けているということ。

 地理的な状況と言えるのではないでしょうか。

[10445] 伊賀と伊勢の神社  とみた 2010/10/12(Tue) 09:59 [Reply]
伊賀と伊勢と美濃の古墳と神社と歴史博物館を巡りました。地図がすっかり頭に入りました。

美濃は垂井の南宮大社はフイゴ祭りで有名。大垣赤坂の金生山の赤鉄鉱を伊吹颪の風を利用して鍛冶をしたのか。

伊賀の伊賀上野の隣の佐那具にある敢国神社は南宮大社の金山彦神を勧請。

南宮て何か。

大社では、美濃の国府の南にあるから南宮という説明。南宮とは、道教の仙人の住む仙宮、長命の宮という説もあります。南は甦りの方位とするのが道教。

諏訪にも南宮社がある。

伊勢の佐奈にある佐奈(那)神社は伊勢船木氏の本拠らしい。
手力雄命を祀っている。手力雄神社は美濃の各務原でも神社があるし、信州の戸隠の九頭竜社の影響があるとか。

桑名の多度神社は鉄を加工する天目一箇神を祀っている(一目連神社)。天彦津彦と子供の天目一箇命。
これは伊勢忌部氏とされる。西方にい員部神社があるこれはイナベであろう。

イナベは猪名部と同じ名です。これは渡来の造船とか寺社建築の木材加工(木工)民。

イムベとイナベ。違うのでしょうか。

伊勢の朝日川と員弁川の流れる近くにある大鐘町の太神社を見に行った。式内社であるのに

ひっそりして神職も居ない。一説では太氏一族の伊勢船木氏の神社とされている。

鐘は銅鐸か。その跡は見つけられなかった。

紀伊に井辺という地名がある。これは忌部か?相撲の埴輪が出ている。

志摩磯部の伊雑宮には太一を付けた扇が田植祭で立てられる。これは道教と関係があるのか。

猿田彦を祀る神社が伊勢には多い。鈴鹿の椿大神社は山本宮司、伊勢神宮内宮近くの猿田彦神社が宇治土公とどちらが本物か。

松阪の大阿阪や小阿阪には阿射加神社があり猿田彦を祀っている。
磯部氏が絡んでいそうです。磯部氏なら度会氏に繋がる。そして天日鷲命や天村雲に関連がありそう。

いろいろと伊賀伊勢を巡りながら考えました

[10444] Re[10443][10441][10440][10439]: 伊予之二名洲  佐々木 2010/10/11(Mon) 22:23 [Reply]
県    徳島   香川   愛媛   高知
国魂  大宜都比賣 飯依比古  愛比賣  建依別
銅鐸   50    20     1   10

>県    徳島   香川   愛媛   高知
 国魂  大宜都比賣 飯依比古  愛比賣  建依別
 銅鐸   50    20     1   10
 銅戈    0     0     0    5
 銅矛    0     8    20   51
 銅剣    7    52    43   10
◎日の出の方角に位置する地域(香川・徳島)は銅鐸が多い。
◎日の入りの方角に位置する地域(愛媛・高知)は銅矛が多い。
※矛を治める?
◎航行路だったと推定される地域(香川・愛媛)は銅剣が多い。
※銅剣は通行手形? という解釈は成り立つのか?

[10443] Re[10441][10440][10439]: 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/11(Mon) 18:46 [Reply]
県    徳島   香川   愛媛   高知
国魂  大宜都比賣 飯依比古  愛比賣  建依別
銅鐸   50    20     1   10
銅戈    0     0     0    5
銅矛    0     8    20   51
銅剣    7    52    43   10
http://kamnavi.jp/log/ugasikoku.htm

 銅矛では高知と愛媛、銅剣では香川と愛媛、銅鐸では徳島と香川と高知の組み合わせです。綺麗に二つのグループに分けるのは無理があるのかも。
 国魂神の名前の建依別は高知が異質で、九州の熊曽国の建日別に似ています。海からの影響もあったのでしょう。

[10442] Re[10441][10440][10439]: 伊予之二名洲  琉球松 2010/10/11(Mon) 15:20 [Reply]
 「ナ」は、琉球圏では地域など一定のエリヤを表しますけど、関係あるでしょうかね?
 「嘉手納(カデナ)・秋名(アキナ)・知名(チナ)・須久名(スクナ)・面縄(オモナハ)」。。。

[10441] Re[10440][10439]: 伊予之二名洲  琉球松 2010/10/11(Mon) 11:15 [Reply]
 「(愛媛&高知)+(徳島&香川)」ということであれば、九州の「広形銅矛」と近畿以東の「突線鉦式銅鐸」の出土分布と重なりますね(高知平野はクロス地域)。

 九州は、すでに銅矛で団結?していて、四国には最終段階の銅鐸圏が残っていた。。。っていうのはどうでしょう。

 そうすると、女(九州)の側からのアプローチは、最初は失敗したのかも?

[10440] Re[10439]: 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/10(Sun) 21:21 [Reply]
> 「(愛媛&香川)+(徳島&高知)」との解釈が、やはり妥当かも?

 古事記の順で言えばこの順序になりますが、地理的な条件で言いますと、阿波と土佐の間は高い山々が並び、交流が少なかったのでしょうが、伊予の南部と土佐の西部とは古代から陸地での交流があります。また阿波と讃岐とは平地でもまた低山の阿讃山脈を越えての交流がありました。讃岐男に阿波女、と言う言葉もあり、阿波・讃岐と伊予・土佐の組み合わせの洲だったのかも。


> とすると、同じく4国で構成されている九州は、二名ではないということですから、とっくに団結?している地域とも考えられるでしょうか。

 男女の組み合わせではありませんので、面白みがないので素っ気ないのでしょうか。

 奈良の二名は「にみょう」と訓するようです。近鉄富雄駅の北側です。愛媛県の二名と同じく命名の由来はわかりませんでした。

[10439] Re[10438][10437][10436][10435][10434]: 伊予之二名洲  琉球松 2010/10/10(Sun) 08:35 [Reply]
 そうすると「二名」は、合併とか、2大勢力による連合って感じですかね。それを証明する方言が残っているとありがたいんですけどね。
 「(愛媛&香川)+(徳島&高知)」との解釈が、やはり妥当かも?
 
 とすると、同じく4国で構成されている九州は、二名ではないということですから、とっくに団結?している地域とも考えられるでしょうか。

 それから、サルタヒコとアメノウズメの件は、迷惑になりそうですから引っ込めます。

[10438] Re[10437][10436][10435][10434]: 伊予之二名洲  佐々木 2010/10/09(Sat) 22:23 [Reply]
> ネーミングに困って(?)伊予の二名洲から、頂いたのかも。
 愛媛と香川県境に愛媛県宇摩郡二名村大字余木というのがありました。
 大字の「余木(明治22年以前成立地名)」とは伊予と讃岐の境界だから予岐から余木になったとか。二名村は明治22年の成立でした。
 少し阿波古事記の伊予の原点を見たような感じです。
 奈良市二名も少し気になりますが。

[10437] Re[10436][10435][10434]: 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/09(Sat) 15:37 [Reply]
佐々木さんの博識には脱帽です。

1889年(明治22年) 12月15日 - 町村制実施で
中野中━━━━┓
波岡 ━━━━┫
田川 ━━━━┫
金銅 ━━━━┫
土居垣内━━━╋━━━二名村 になる。
古藤田 ━━━┫                 
大内 ━━━━┫                 
兼近 ━━━━┫                 
三間中間━━━┫                 
黒川 ━━━━┫                 
音地 ━━━━┛                 

メーミングに困って(?)伊予の二名洲から、頂いたのかも。


[10436] Re[10435][10434]: 伊予之二名洲  佐々木 2010/10/09(Sat) 13:45 [Reply]
>本居宣長翁は「二名」を「二つ並ぶ」(二名とは二人のこと?)と女神と男神の二つのカップルの島と理解されているようです。
少し失礼します。
 二名・・・宇和島あたりで思い当たる旧村名でした。現在宇和島市三間町中野中にJRの二名駅(元中野駅)がありました。
 うはのみなと・・・は、琉球神歌にもありましたね。宇和島にはなんかあるのか?
 但し二間が二名となった説がある?のですが。

[10435] Re[10434]: 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/09(Sat) 10:03 [Reply]
> あるいは、四国(サルタヒコ)と九州(アメノウズメ)の結婚?も挿入されているのではと思いますがどうでしょうか。

 四国、九州がそれらの神々に対応していることは知りませんでした。どのようなことでしょうか。

 『古事記』や『旧事本紀』には、四国と九州のそれぞれの国魂の名まで記述しています。よく似たタイプの島だとの認識はあったようですね。


> しかし、四国には2つの名があるとするのは、どういう事なんでしょうか? 岩波文庫版『日本書紀』には「2組の男女の並んでいる国」とあるんですけどね。。。

 本居宣長翁は「二名」を「二つ並ぶ」(二名とは二人のこと?)と女神と男神の二つのカップルの島と理解されているようです。

 アイヌ語でわかりにくい言葉を解明されている大三元さんのHPに以下のことが載っています。
http://www.dai3gen.net/oki-no-3go.htm

 この二つはアプローチが違うのでしょうが、結論は同じようになっています。

[10434] Re[10433][10432][10429][10428][10427][10425][10424][10422]: 伊予之二名洲  琉球松 2010/10/08(Fri) 19:53 [Reply]
 「大倭豊秋津島」は、8番目だと考えますね。神武勢力による8回裏2アウトあたりでしょうか(笑)。

 最初にできた「淡路」が「アハ・アワ・ヲフ・ヲラ・オホ」などの海人地名でとすれば、生成された多くの島々と瀬戸内海の重要性を語っているように見えます。
 あるいは、四国(サルタヒコ)と九州(アメノウズメ)の結婚?も挿入されているのではと思いますがどうでしょうか。

 しかし、四国には2つの名があるとするのは、どういう事なんでしょうか? 岩波文庫版『日本書紀』には「2組の男女の並んでいる国」とあるんですけどね。。。

[10433] Re[10432][10429][10428][10427][10425][10424][10422]: 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/07(Thu) 20:43 [Reply]
> 「大倭豊秋津島」の扱いの違いは重大ですね。生成順位が2番と8番では、もうほとんど敵対関係ですかね?

日本書紀の伝承は各氏族や神社に伝わっていたものを羅列したように見えます。それに対して古事記はそれらをうまく纏めたように見えますし、また四国や九州の国魂の神の名を挙げているところなど、もっと地方的というのか、日本書紀にはない情報源をもっているようです。先代旧事本紀にも国魂神名がありますので、物部の伝承だったのかも。

大倭豊秋津島の誕生を最後に置いてあるのは、それ個々の国生み以外を総ざらえして全部だ!と言っているように見えます。

http://kamnavi.jp/log/awakuniumi.jpg

[10432] Re[10429][10428][10427][10425][10424][10422]: 伊予之二名洲  琉球松 2010/10/07(Thu) 13:53 [Reply]
 "億岐洲と佐度洲を双子としている" のは『日本書紀』の場合ですが、『古事記』にはそいう記載はなく「隠岐の三つ子島」「双子島(長崎県男女群島)」とあります。

 どちらが正しいかを問うのは、あまり意味がないのかもしれませんが、「大倭豊秋津島」の扱いの違いは重大ですね。生成順位が2番と8番では、もうほとんど敵対関係ですかね?

[10431]  日本語のよあけ      生田淳一郎 2010/10/07(Thu) 13:35 [Reply]
神奈備ドン あり難とネ〜
日本語のよあけは近い。かんそうのほうは、青草に。

[10430] 歴史迷宮解  神奈備 2010/10/07(Thu) 09:22 [Reply]
 言語学者の松本克己さんの「歴史迷宮解」その3(最終)が9月30日の毎日新聞にのりましたので写真掲示板にアップしました。

[10429] Re[10428][10427][10425][10424][10422]: 伊予之二名洲  琉球松 2010/10/04(Mon) 20:36 [Reply]
 神名備さん、どうもです。

 "億岐洲と佐度洲を双子としている" のを承知の上でしたが、やはり無理があるようですね。
 ただ、まだ捨ててしまう必要も今のところないかもしれませんよ? 東シナ海にポツンと連なる「男女群島」も "双子" かもしれません。

 琉球の範囲。。。これは厄介です。琉球列島中の「奄美諸島・大東諸島・尖閣列島・トカラ列島以北の島々」を除く範囲でしょうか。
 しかし、1609年以前となると、奄美諸島とトカラ列島の一部が含まれますし、中国からすると台湾もその範疇に入るかもしれません。
 また、文化的には奄美大島から与那国島ということになるのでしょうから、現在の"琉球"は、沖縄県と鹿児島県によって分断されていると見る事もできます。

 ちなみに、中華民国(台湾)は、「琉球は日本に占領されたままになっている」との建前をもっていますね。

[10428] Re[10427][10425][10424][10422]: 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/04(Mon) 19:52 [Reply]
> 忽那(骨奈)七島の東の「備後の大島」

屋代島、因島や倉橋島なんかも大きい島ですね。


>  それと「隠岐」なんですけど、この隠岐諸島は "双子(島前&島後)" と見ることもできるでしょうか?あるいはさらに島前を2つに分け、全体として "三つ子" と解釈可能かもしれません。

 BC600〜1000年の頃は今よりも暖かい時代だそうです。
http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf116-6/p836-850.pdf
隠岐も現在と同じように4つの島となっていたと思われます。寒くなって来ると島がつながって数が減ったのかも知れません。現に海中からも遺跡が発見されているようです。

>  また、佐渡市役所あたりの島のクビレを境に、2地域として "双子" に見立てているかも。。。シマはかならずしも「島」とはかぎらないですよね。

 佐度島を単独で双子とした表現は紀には見あたりません。紀は「雙生億岐洲與佐度洲」と表現していますので、億岐洲と佐度洲を双子としているのであって、佐渡之二子洲とはなっていません。

琉球とはどの範囲なんでしょうか。

[10427] Re[10425][10424][10422]: 伊予之二名洲  佐々木 2010/10/03(Sun) 13:50 [Reply]
> 国生みで 越洲の次に 大洲 というのがあります。
> http://kamnavi.jp/log/awakouen.htm
> 広島の 大島 と 言われていますが、どうでしょうか。
 周防の大島ですね。
 児島に最後に海水が浸入して備讃瀬戸がつながるので、忽那(骨奈)七島の東の「備後の大島」と仮定すると、とりあえず合うのかもしれません。

[10426] Re[10425][10424][10422]: 伊予之二名洲〜地名の拡大  琉球松 2010/10/03(Sun) 13:11 [Reply]
 島名としての「伊予洲(四国島)」は、もともとは愛媛県あたりの一地方名が拡大したものではないでしょうか。

 同様に、筑紫(九州島)の発祥は「筑紫国(博多平野?)」で、大日本豊秋津洲(本州島)のそれは「安芸(広島平野など)」。。。なんて考えますがどうでしょうかね。
 琉球圏の神歌に出る「スクシダマ(筑紫玉=曲玉など)」は、博多湾一帯が発祥だと言われていますし、「秋津(トンボ)」は稲作に適した地域が発祥でないと、理解しずらくなります。

 そうだとすると、「伊予之二名洲」は、四国圏内の二地域とも考えられますね。例えば四国山地を境に、愛媛&香川&瀬戸内海の島々と、太平洋側(高知&徳島)。

 これも例えですけど、例えば「沖縄」。。。これは本土の皆さんは沖縄県全域とお考えでしょうけども、沖縄県内では沖縄島一島、あるいはせいぜい沖縄諸島の範囲であって、奄美はもちろん、宮古八重山さえ含みませんね。
 さらに、「オキナワ」なる地名は、沖縄島内のさらに那覇の一字名だったとの説もあります。「ヤマト・ニッポン」もたぶん、一地域が国名にまで拡大したものでしょうしね。

 それと「隠岐」なんですけど、この隠岐諸島は "双子(島前&島後)" と見ることもできるでしょうか?あるいはさらに島前を2つに分け、全体として "三つ子" と解釈可能かもしれません。
 また、佐渡市役所あたりの島のクビレを境に、2地域として "双子" に見立てているかも。。。シマはかならずしも「島」とはかぎらないですよね。

[10425] Re[10424][10422]: 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/03(Sun) 11:23 [Reply]
> さて、四国のことを伊予之二名洲
> 私は、勝手に忽那七島の由利島のことと思っていました。由利島は弥生時代の遺物があって、地形的には大小二つの島が砂州でつながっているので。

国生みで 越洲の次に 大洲 というのがあります。
http://kamnavi.jp/log/awakouen.htm
広島の 大島 と 言われていますが、どうでしょうか。
越洲を北陸と見ますと、東海や信州などとも考えられます。

[10424] Re[10422]: 伊予之二名洲  佐々木 2010/10/03(Sun) 00:24 [Reply]
神奈備さま
> さて、四国のことを伊予之二名洲
私は、勝手に忽那七島の由利島のことと思っていました。由利島は弥生時代の遺物があって、地形的には大小二つの島が砂州でつながっているので。

[10423] Re[10422]: 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/02(Sat) 17:13 [Reply]
伊洲予洲之二名洲なら、与や及がなくとも 伊洲と予洲の二個と読めるかも。

[10422] 伊予之二名洲  神奈備 2010/10/02(Sat) 10:37 [Reply]
億岐の洲と佐度の洲は双子として国生みされた。と日本書記にあります。
漢文では 雙生億岐洲與佐度洲 とあります。
與は与で及などと同じで、AND の意味があります。

さて、四国のことを伊予之二名洲としていおり、伊與予之二名島洲でははありません。それでも、伊予之二名洲を伊と予と二つの名を持つ洲と解読できるのでしょうか。

[10421] 豊中歴史同好会  神奈備 2010/10/01(Fri) 13:54 [Reply]
2010 10 2
大阪大谷大学教授 犬木 努
考古学からみた3−5世紀の南九州
第1土曜日
市教育センター
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/


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