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掲示板のログ(平成二十三年 一月〜三月 2011.1〜3)お名前の敬称は省略しています。

[10707] Re[10706][10705][10704][10703][10701][10700][10699][10696][10695]: 三昧鳥居  琉球松 2011/03/30(Wed) 22:05 [Reply]
 神奈備さん、どうもです。
 地図や航空写真を見ていると、いろいろと想像ができます。ちょっとしたゲーム感覚ですけどね。

 ありがとうございます。

[10706] Re[10705][10704][10703][10701][10700][10699][10696][10695]: 三昧鳥居  神奈備 2011/03/30(Wed) 17:48 [Reply]
>  和歌浦天満宮の鳥居から拝む冬至の日の出は、名草山山頂じゃないかと推測しますがいかがでしょうか?

鳥居から名草山は東南東の方向です。冬至の日の出は名草山の南側になりそうです。

[10705] Re[10704][10703][10701][10700][10699][10696][10695]: 三昧鳥居  琉球松 2011/03/30(Wed) 11:53 [Reply]
 神名備さん、ついでなんですが。。。

 和歌浦天満宮の鳥居から拝む冬至の日の出は、名草山山頂じゃないかと推測しますがいかがでしょうか?

[10704] Re[10703][10701][10700][10699][10696][10695]: 三昧鳥居  琉球松 2011/03/30(Wed) 11:19 [Reply]
 島嶼圏のそれは、小島や岬でしょう。
 これらには神名が与えられている場合がありますし、航海の道しるべとして重要です。

 こちらではしかし、伊江島などのトンガリは別として、山との関係性は薄いですね。

[10703] Re[10701][10700][10699][10696][10695]: 三昧鳥居  神奈備 2011/03/29(Tue) 08:50 [Reply]
>  『魏志』の「倭人伝」がいう"倭人は暦を知らない"状態は奄美沖縄が保存していて、四方八方四隅を網羅する中国式カレンダーを鳥居が示唆しているとも思えますがどうでしょうか。

 山々と鳥居の組み合わせは季節を知る道具になりそうです。海上で特定の場所を示す方法にも遠くの山々を利用しますが、そのような知恵は結構持っていたのでしょう。

 朝鮮の武寧王の古墳は二つの神奈備山の山頂を結んだライン上にありました。

[10702] Re[10692]: 三昧鳥居  佐々木 2011/03/26(Sat) 11:18 [Reply]
少しぼけた質問かもしれませんが、「三昧鳥居」の用語が出ている文献などご教示願えれば。また三昧鳥居と空也聖人さんと何か関係があるのでしょうか。

[10701] Re[10700][10699][10696][10695]: 三昧鳥居  琉球松 2011/03/26(Sat) 07:25 [Reply]
 「平原遺跡」が、春分秋分の日の出方向を重視しているのは確実のようですね。

 しかし、この時期の太陽に何か聖なるものを感じるでしょうか。むしろ南北のラインをほぼ正確に認識するのに役立つカレンダーとして機能しているんじゃないでしょうかね。

 こう解釈してはどうでしょう?。。。夏至冬至をより重視するのが倭人のオリジナルであるのに対し、日本本土ではさらに発展させ、進化洗練されているのではと。。。
 『魏志』の「倭人伝」がいう"倭人は暦を知らない"状態は奄美沖縄が保存していて、四方八方四隅を網羅する中国式カレンダーを鳥居が示唆しているとも思えますがどうでしょうか。

[10700] Re[10699][10696][10695]: 三昧鳥居  和歌山 2011/03/24(Thu) 21:17 [Reply]
> 四天王寺の鳥居

 四天王寺の場合は共同墓地ではないのですが、三昧鳥居を論する時には時々出て来ます。江戸時代の大和国三昧明細帳には鳥木として出て来ます、おそらく木製の鳥居と考えられます。この資料によると20箇所近くあったことになります。

[10699] Re[10696][10695]: 三昧鳥居  神奈備 2011/03/24(Thu) 21:00 [Reply]
四天王寺の鳥居
 四天王寺西門に鳥居があります。西方浄土から俗界を経て聖域である四天王寺境内への結界を現すものとされています。
http://kamnavi.jp/mn/osaka/siteno2.jpg

平原弥生遺跡には女王を埋葬した弥生古墳があり、その方向は日向峠を向いています。その遺構にいかにも鳥居があったような二つの穴がありました。これは遙拝の方向を示すもので、くぐりぬけるものではなかったのかも。
http://kamnavi.jp/log/gesihira4.jpg

 上記の鳥居と日の出の関係は、
http://kamnavi.jp/log/gesihira1.jpg

[10698] Re[10697]: 三昧鳥居  琉球松 2011/03/24(Thu) 00:07 [Reply]
 鳥居をくぐることが許されたのは、夏至の日の出と冬至の日の入りの太陽だけだったのではないかと推測しています。

 また、仏教は飛鳥時代あたりの輸入思想でしょうし、神仏習合以前の古代人の心情に近ずく必要があるんでしょうね。
 靖国神社はともかく、点在する諸神社に対する日本本土の皆さんの直感が知りたいんですよ。こればかりは南島の者には手が届かないんです。

[10697] 三昧鳥居  和歌山 2011/03/23(Wed) 21:17 [Reply]
鳥居はくぐることに意味があるのではないかと思います。境界や結界であればくぐるような形式にしないと思いますし、仏教での葬式の時、竹で造った門を棺をくぐらせる風習が残っています。ですから鳥居は神道や神社だけのものではなかったという事ではないでしょうか?

[10696] Re[10695]: 三昧鳥居  琉球松 2011/03/23(Wed) 20:02 [Reply]
 吉野ヶ里遺跡の城柵は、夏至と冬至のライン対象に造られていますが、そのラインの90度延長線上に、神々や英雄?の墓が位置していますね。

 鳥居が弥生中期まで遡れるかはわかりませんが、その原型は太陽の動きに対応していたんじゃないでしょうか。後世、その原義が忘れられたために混乱しているのではないかと。。。
 このラインは、少なくとも奄美沖縄においては聖域内の需要ポイントと城門とを繋いでいますし、日本本土の神社における鳥居も夏至の日の出に向いていたのではと考えますがどうでしょうか。
 そうだとすると、社と鳥居の等高線上の位置関係はあまり意味がないのかもしれません?

[10695] 三昧鳥居  和歌山 2011/03/22(Tue) 18:59 [Reply]
皆さん有難うございます。
大和では共同墓地に鳥居があるところが多く昔はもっとあったようです。神葬祭墓
地ではなく地域の共同墓地です。墓地に鳥居がある例としては、高野山の大名、天
皇陵など個人墓地が知られています。民俗的な風習として個人墓地に竹を鳥居型に
組んで妙額門、等額門と書いた紙を張って墓前に供えるところがあるようです。大
和平野に多く京都、和歌山、滋賀の他埼玉など関東にもあるようです。三昧鳥居と
呼ぶ人もいます。古くは平安時代の公家の日記にも出て来ます。現在では鳥居は神
社というのが一般的ですが古くは違った可能性もあります。殆どが江戸時代から明治時代ですが室町時代のもあります。

[10694] Re[10693][10690][10689]: 浪江町  多美 2011/03/22(Tue) 18:38 [Reply]

> 墓地の入口の鳥居

神葬祭の墓地の鳥居なら、桐生式内社「賀茂神社」の手前にありました。白木の小さな鳥居でした。

[10693] Re[10690][10689]: 浪江町  神奈備 2011/03/22(Tue) 11:28 [Reply]
>  饒速日尊は、鳥居より高いところにいらっしゃっるからと解釈されているのでしょうか。

 意味が取りにくいのですが、秋田の唐松神社の場合、近くの山の山頂に鎮座していた神霊を神社にお迎えしたようです。山頂を遙拝しているのであれば、鳥居、参道、拝殿と下っていても問題がないのかも。

 高野山の近くの丹生都比売神社の場合、平地に境内があるのですが、高野山にお参りする丁石道に鳥居が並び、そこから大きく下って神社に詣でます。これも「下りの宮」と言えるのかも知れませんが、単なる地理上の処理のように思えます。



墓地の入口の鳥居
 見た記憶があり、写真も撮ったのですが、一体どこだったのか、古い写真を探して見ます。熊野古道沿いだったような・・・。


[10692] 三昧鳥居  和歌山 2011/03/21(Mon) 22:31 [Reply]
墓地に鳥居がある事例を調べています。奈良を中心に滋賀、京都、和歌山など十数か所確認していますが、ご存知の方ご教示下さい。鳥居は等学門、妙学門の額がかかっている例が多いです。日光では鳥居の代わりに橋に等額橋、妙額橋というのもあります。

[10691] Re[10689]: 浪江町  よかにせ [Url] 2011/03/20(Sun) 22:07 [Reply]
>  「日本三大下り宮」は、別段、祭神を祀りながら蔑むと言う雰囲気ではなさそうですね。立地上、そうなったのかも。

当地では150m程のシラス土壌(火山灰)の高台が多くあります。
大抵、神社は谷底に。。現在は、高台に住居が移っていますが
昔は、谷底で無いと水がありません。そのような立地から
谷底に麓集落が出来、そして氏神様が鎮座された。
そんなところでしょうか。
私も当初不思議に思いました。全く人家の無い所にポツンと。。
今ではその辺りは蛍のメッカが多いですよ。

桜島の東岸の福山町(黒酢で有名)には深井戸があります。有に200mはありますよ。
古人の労力には敬服します。
掘削方法は「上総堀り」だったのでしょうか。
それとも金山の縦穴の要領で掘ったのでしょうか。。


[10690] Re[10689]: 浪江町  佐々木 2011/03/20(Sun) 21:40 [Reply]
>「日本三大下り宮」
 饒速日尊は、鳥居より高いところにいらっしゃっるからと解釈されているのでしょうか。

[10689] 浪江町  神奈備 2011/03/19(Sat) 09:00 [Reply]
 「日本三大下り宮」は、別段、祭神を祀りながら蔑むと言う雰囲気ではなさそうですね。立地上、そうなったのかも。

 大和の広瀬大社は本来の祭神は饒速日もしくは長髄彦だったとされています。饒速日尊は宮司家に祀られています。
 書物の名前は忘れたのですが、大和の執行王の長髄彦を神聖王饒速日が裏切って殺したと『紀』に書かれており、饒速日は大和の民衆からは蔑まれていたからとありました。蔑んでも神は神として祀ると言うことがあったのでしょうか。

 秋田の唐松神社も参道は下がっています。物部氏に関連する神社ですから、饒速日を祭神としていたのかも知れません。



 震災・津波に放射能で名前の出る浪江町に行ったことがあります。式内小社の草野神社に五十猛三兄妹神が祀られています。海岸近くに鎮座していますので、残念ながら浪江町大字請戸は何も残っていないと言うことです。町民の皆様の安全を祈るのみです。

[10688] 地震  和歌山 2011/03/18(Fri) 21:12 [Reply]
東北地方の地震被害、お見舞い申し上げます。神社関係屋文化財の被害はどうなっているんでしょうか?
 今日献血に行ってきましたが血液は充分供給されているそうです。今回は神戸と違って津波による被害が多いためけがをした人が少ないということです。皆さんも献血に行く時は血液センター等にて確認してから行ってください。

[10687] Re[10686][10675]: 鳥居の下方に拝殿  多美 2011/03/18(Fri) 09:02 [Reply]
バムさん

>> その「谷川某」氏の見識が疑われますね。

”原像”と云うからには、それなりの根拠がないとまずですね。

某氏(谷川)は、
群馬(地方)の地名研究グループ(谷川某氏の下請け機関?)の情報を鵜呑みしているのではないでしょうか。
地方は某氏を広告塔として、共存関係?

[10686] Re[10675]: 鳥居の下方に拝殿  パム 2011/03/18(Fri) 01:35 [Reply]
> 鳥居の下方に拝殿がある神社が日本に三社ある。
>
> 熊本県阿蘇郡高森町草部 草部吉見神社。
> 宮崎県日南市大字宮浦 鵜戸神宮。
> 関東の一社。
> 日本に三社と言うのがどのような基準で探し出されたのかよくわかりません。

多美さんがおっしゃるように、関東の一社は群馬県の貴前神社だろうと思います。
ここは草部吉見、鵜戸とともに巷間「日本三大下り宮」と称される神社で、三大の名の如く、
草部吉見神社などは鳥居から200段くらいの石段を降りた先に拝殿がある構造になっている。
その「谷川某」氏の見識が疑われますね。

[10675] 鳥居の下方に拝殿  神奈備 2011/03/14(Mon) 11:28 [Reply]
谷川健一著「日本古代文化の原像」から。

鳥居の下方に拝殿がある神社が日本に三社ある。

熊本県阿蘇郡高森町草部 草部吉見神社。
宮崎県日南市大字宮浦 鵜戸神宮。
関東の一社。

関東の一社というのがわかりません。

なお、鳥居から拝殿に向かって佐賀っていると思われる神社として記憶をたどれば
奈良県北葛城郡河合町 廣瀬大社
秋田県仙北郡協和町 唐松神社
神奈川県川崎市麻生区細山 細山神明神社
などが思い起こされます。

日本に三社と言うのがどのような基準で探し出されたのかよくわかりません。

[10674] 地震・津波 お見舞い  神奈備 2011/03/11(Fri) 21:16 [Reply]
大阪でも震度3でしたが、被害はないようです。

関東、東北の方々、地震・津波 お見舞い申し上げます。

[10673] Re[10671][10669][10667]: 林神社  佐々木 2011/03/11(Fri) 21:15 [Reply]
> 上町台地が北側に落ち込んでおり、その北側の砂州と台地の間には水の流れがあったのでしょう。台地からそこへ流れ込む川もあり、また河内湖からの水も流れてきていたと思われます。その流れを拡大し、底を深くすることが難波堀江の工事だったと思われます

神奈備さん 
 本図の出典を確認してみました。大阪市文化財協会「大坂城下町跡2」2004年9月でしょうか。古代遺跡プロット(貴追記分?)が大変わかり易いです。
 道修町筋で銅銭も見つかっていたように思います。
 かつて古代学研究に掲載されていた日下雅義先生の難波津はまさに道修町筋の東のつきあたりでした。
 堀江の掘削は、古墳時代以降の海面低下(約1m程度)の影響で川底が浅くなったので、深く掘削したかもしれません。

[10672] 豊中歴史同好会 3月12日  神奈備 2011/03/11(Fri) 18:07 [Reply]
2010年の考古学界
芦屋市教育委員会
学芸員 森岡秀人
市教育センター 
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[10671] Re[10669][10667]: 林神社  神奈備 2011/03/10(Thu) 10:10 [Reply]
 大阪歴史博物館で入手した趙哲済氏古地図
http://kamnavi.jp/log/ugananiwadu.jpg

 道修町通は民間の船着き場だったのかも知れませんね。
上町台地が北側に落ち込んでおり、その北側の砂州と台地の間には水の流れがあったのでしょう。台地からそこへ流れ込む川もあり、また河内湖からの水も流れてきていたと思われます。その流れを拡大し、底を深くすることが難波堀江の工事だったと思われます。


[10670] Re[10668][10657]: 画文帯同向式神獣鏡  神奈備 2011/03/10(Thu) 10:09 [Reply]
> 氷上姉子神社は何と、宮司は久米家です。

 ヤマトタケルに従軍した武将に大伴武日連がいます。久米さんが大伴さんに従っていたのかも。恋人の宮簀姫を守るために尊が久米を残していったのかもしれません。

 尤も、大伴氏各地の軍事・治安の仕事にあたったので、久米氏も同様だったのでしょう。各地に散らばっていった氏族ですから、簡単には言えないでしょうね。愛知県の場合、常滑市に久米地名が残っています。

[10669] Re[10667]: 林神社  佐々木 2011/03/09(Wed) 20:46 [Reply]
>林
 林は好字二字令で「拝師または拝志」表記となったものもあるのでしょう。丹後国の拝師姫明神や拝師比古明神なども興味深いです。ちなみに速石、千林も気(木?)になります。

※最近大阪北浜の少彦名神社(じんのうさん)で、第13回道修町文化講演会の冊子を買いました。
 そこに大阪市文化財協会の趙さんの道修町あたりの講演会記録が出ています。とくにp35の古墳時代から古代の復元図3葉を見比べて驚きました。大川は当時から今の場所あたりを流れていたこと、「難波の堀江」という人工水路は、古代の復元図(第15図)から判断すると、現在の東横堀川の北側250m程度だけを掘削して、大川と道修町通りあたりの入り江(道修谷)を連絡した水路のように見えてきました。
 これは道修谷に難波津があったため、水を引き込んだのかも。

[10668] Re[10657]: 画文帯同向式神獣鏡  とみた 2011/03/09(Wed) 19:41 [Reply]
神奈備さん PONTAさん

> 『古代瀬戸内の地域社会 [古代史選書1] 』松原弘宣著
>
> この本にB類の画文帯同向式神獣鏡が二十一面出土していて、三重県、愛知県の伊勢湾沿岸に多いと樋口隆康さんが述べているそうです。
> ほかに静岡県掛川市、長野県飯田市などで出土しています。
> この分布は久米の分布と重なるそうです。
> 『神武は呉からやって来た。』竹田昌暉著
> 久米氏は東征に軍事氏族として従っていますので、この鏡が建国の謎を解く鍵になるのかも。

ヤマトタケルは、尾張の豪族。建稲種とその妹の宮ス姫 と関わりますね。
ヤマトタケルは、尾張水軍を率いる建稲種と一緒に焼津に向かいます。
建稲種は駿河湾で亡くなり、妃の玉依姫は実家の犬山の大県神社辺りに戻り父を助ける。建稲種は愛知県の愛智、現在の名古屋市緑区大高に住んでいて妹の宮ス姫もその邑に住んでいた。ヤマトタケルは、建稲種を訃報を吾妻からの帰りに国境の内々峠で知る。
ここは愛知県の春日井市で内々神社がある。
そして恋人の宮ス姫のところに戻り、草薙剣を置いて伊吹山に向かい毒にあたって死に伊勢の亀山の能褒野古墳の地で没する。
愛智は熱田の近くでここが氷上姉子神社で草薙剣はここに祀ったのでしょう。後代になって熱田神宮に遷された。

氷上姉子神社は何と、宮司は久米家です。氷上は元々は火上だそうです。
火の難にあったので氷上と名を変えた。近くに兜山古墳がありこれは海部族知多の巫女のものだそうです。

犬山の荒田を開拓したのが大県神社に祀られた大荒田命です。ここが尾張二の宮。
尾張一宮(真清田神社)と尾張三の宮(熱田神宮)と異なる勢力らしい。

犬山の大県神社の近くには4世紀後半の青塚古墳がある。
これは4世紀前半に遡る可能性があり、奈良の桜井茶臼山の祭祀に似ているとか、4世紀後半のは和邇氏の東大寺山古墳と同じような鰭付円筒埴輪を使っているようです。


[10667] 林神社  神奈備 2011/03/09(Wed) 17:54 [Reply]
先日明石の林神社に参詣しました。式内社です。

 延喜式に載っているハヤシ神社は6社あります。北から挙げます。
陸奥國牡鹿郡 拝幣志神社[ハヤシ]
越中國礪波郡 林神社[ハヤシ]
伊豆國賀茂郡 波夜志命神社[ハヤシノ・]
伊勢國多氣郡 林社[ハヤシ]
河内國志紀郡 伴林氏神社[トモハヤシノウチ]
播磨国明石郡 林神社[ハヤシ]

祭神は大伴氏の祖の道臣命や高皇産靈神が二社、少童海神、木俣神は一社。
ハヤシの名前のいわれは、「古代樹木の生い茂る場所で、大木を神木として神の天降ります神奈備とした所を意味する。」と河内の伴林氏神社。
播磨の場合には境内に松の木が多く、かっては海岸であったということから松林の中に少童海神を祀った故かもしれません。
普通神社の名前は神名+神社の構成が多いように思います。これから考えると、「林」と言う神が祀られていると考えられます。探して見ますと、林大神と言う神が、若狭国三方郡(福井県三方郡美浜町早瀬)の日吉神社に合祀されているのが見つかりました。余談ですが、地名の早瀬は林の訛かも。林大神と言う神はよくわかりません。
大伴氏の末裔に林宿禰がいます。林さんの祖先を祀ったのかも、

[10666] 軍隊出動の大義名分    生田淳一郎 2011/03/09(Wed) 11:00 [Reply]
一昨日はとんだ非常識をさらけ出してしまい、とみたさんには開いた口が塞がらない思いに駆りたててしまいました。
どうしてわたくしが斯かる非常識層を蓄積するに至ったかについて、胸に手をあてて考えてみました。
大きくは、わたくしが 20歳から 58歳ぐらいまで、学問全般に邪視眼をもっていたことがあります。次に検索しないままに思い込みだけでスジ掴みをするクセがあること。それと、高校での選択は、日本史ではなく世界史だったこと。

でもでも、倭国大ランのあと、各氏族間に「和を以て貴しとする」が定着したのは、西洋の三十年戦争終結とおなじ原理(とにかく、殺し合いはもうやめようや)がはたらいたと思えます。そういう移り変わりの中に橘、藤、源、平などの旗印だけが暴力を奮っても良いが定着し、皇室が暴力の発動を管理する体制が確立されたのだと思うのです。
司馬遼太郎さんは、さかんに「国のかたち」ということをいいましたが、このへんのメカを仕組んだ頭脳がいたとすれば、その頭脳はじつにタイしたもんです。

さいしょのうちは、ヤマトタケルでしょうか、この名が示すとおり、これは個人名ではなく「国軍」です。タケノウチも nouc(国)のタケ(武)です。ついでにいうと suku は 種族 〜族で、ne は指揮者。
このような形態から天皇直属の軍隊が消え、一旦緩急あったときは、連合を組んだ豪族の軍隊が派遣されるというタテマエが生じました。
モノノベは豪族だとのお教えですが、モノノベの語が示す内意は「皇室体制派の遊撃隊」です。

軍閥が暴力をバックに政治を牛耳るは、キチガイに刃物ざたです。
いまにして思えば、モリヤさんはそのような危険分子だとマークされたんだと、観察できます。

[10665] 神名帳  和歌山 2011/03/09(Wed) 08:39 [Reply]
延喜式神名帳に大明神や大菩薩と書いてあるはずがないでしょう?
また、不明の神社も数多くあるようです。

[10664] Re[10663][10647][10645]: お水取りと神名帳  和歌山 2011/03/09(Wed) 00:08 [Reply]
> 「〜大明神」ではないですよ。
 延喜式と同じであるかどうかというい意味は記載されている神社が一致するかどうかです。どうやら一致しないようです。中言や溝口などが出てきますから!

[10663] Re[10647][10645]: お水取りと神名帳  和歌山 2011/03/08(Tue) 23:58 [Reply]
「〜大明神」ではないですよ。

お水取りの神名帳は大明神です。正確に言うと蔵王権現大菩薩から始まり大菩薩が続き、次に大明神です。今日も聞きに行ってきましたが女優の星野知子さんに似た人がいました?大和の寺院で神明帳を読む寺院が幾つかあるのですがお水取りで中言が出て来ます。しかし他の寺院では中言は出てこないようです。

[10662] Re[10656][10654]: 駿河国益頭郡の式内社  生田淳一郎 2011/03/08(Tue) 10:43 [Reply]
とみたさん、いろいろ済みませんでした。
国会での質疑応答みたいになりましたね アハハ

くどすぎるかと思って、わしのパソコン事情をかいつまんで記述したので、へんなふうになりました。
儂はここ 20年、一級身体障害者です、ので習いに行けません。
夏でも火燵をいれて暮らしてま。
8年前、マッキントッシュ 20年選手が来てくれたのですが、火燵で血圧があがって、腰の骨を痛めて、それ以後は来てくれまへん。
中古パソコンを売っているソフマップ(店)に頼んでいたら、恰好の出ものがあったのですが、言うには「そちら(わが方)に卓越した技術者がついていない限り売るわけには行かない」とヘンなことをいうてきました。
数ヶ月すぎて、「どういうことだったのか」と電話したのですが、答は「マッキントッシュでの設定をやれる技術者がソフマップにはいないからだ」とのことでした。マッキントッシュはそれくらいに少数派なんでふぅ。

Pomta さんもいろいろと、あり難うございます。
物部の語源は「桃生(ものう)」を読み解かねばホンモノとはいえないのではないかと思っています。それ、読み解いたつもりです。くわしくは、掲示板『ことばが拓く超古代』に。
今、書き込みしている Pomta 様には、 pomta なる称号を捧げているのですが、お気づきだったでしょうか。
ASAMI……希望の神と解したいところです。

> 若い方はこんをつめて投稿されて、爆発してしまうことがありますので、長続きしますようにやりましょう
● おいぼれもヨロシクゥ

[10661] Re[10660][10657]: 画文帯同向式神獣鏡  神奈備 2011/03/08(Tue) 09:35 [Reply]
> 久米のものはB類ですね。どこが違うのでしょうか教えてください。

鉛の同位体の差だそうですがよくわかっていません。
樋口隆康氏は『三角縁神獣鏡と邪馬台国』に出ているそうで、目下入手手配中です。

[10660] Re[10657]: 画文帯同向式神獣鏡  とみた 2011/03/08(Tue) 07:44 [Reply]
> 『古代瀬戸内の地域社会 [古代史選書1] 』松原弘宣著
>
> この本にB類の画文帯同向式神獣鏡が二十一面出土していて、三重県、愛知県の伊勢湾沿岸に多いと樋口隆康さんが述べているそうです。
> ほかに静岡県掛川市、長野県飯田市などで出土しています。
> この分布は久米の分布と重なるそうです。
私も松原さんのこの本は読んでいます。

伊勢の櫛田川の飯野郡とか飯高郡に久米の本拠があった。
櫛田川流域を5世紀に開墾したのが久米氏だとか。この鏡は亀山市井田川茶臼山古墳にも出土しているとか。
画文帯同行式神獣鏡は朝鮮の楽浪郡と阿波の萩原古墳と奈良のホケノ山古墳に副葬されていますね。
弥生終末期のものでしょうから、三角縁神獣鏡の前のものかと思いますが。
久米のものはB類ですね。どこが違うのでしょうか教えてください。

神戸女子大の寺沢知子さんは、和邇氏は鰭付円筒埴輪を威信財として配る。

大伴氏は、横矧板鋲留短甲がシンボルとか。これは大伽耶の高霊等に出ています。

いずれも5世紀に関係があるような気がします。



>
> 『神武は呉からやって来た。』竹田昌暉著
> 久米氏は東征に軍事氏族として従っていますので、この鏡が建国の謎を解く鍵になるのかも。
>

[10659] Re[10657]: 画文帯同向式神獣鏡  PONTA [Url] 2011/03/08(Tue) 02:06 [Reply]
> 画文帯同向式神獣鏡。
> ほかに静岡県掛川市で出土しています。

去年の今頃、ヤマハの横の茶畑(奥ノ原古墳)から出ましたね。
古墳が茶畑になってるって静岡らしい。

最近、戦国時代の城巡りをしています。
某城も茶畑になっていますが、掘り起こしたいです!
武田氏に攻められた時に、城主が財宝をばら撒いて、武田軍が拾っているうちに逃げたそうで、まだ、落ちてるようです。金塊を拾った人は、売ったお金を使って選挙に出て当選したとか。

[10658] Re[10656][10654]: 駿河国益頭郡の式内社  PONTA [Url] 2011/03/08(Tue) 01:54 [Reply]
>そうですか。今のPONTAさんは2009年12月頃に当掲示板に投稿されていたPONTAさんとは違う方かな。

はい違います。私はASAMIです。
任期は3年で、3/31に2人退会、4/1に2人入会ってシステムです。

[10657] 画文帯同向式神獣鏡  神奈備 2011/03/07(Mon) 21:10 [Reply]
『古代瀬戸内の地域社会 [古代史選書1] 』松原弘宣著

この本にB類の画文帯同向式神獣鏡が二十一面出土していて、三重県、愛知県の伊勢湾沿岸に多いと樋口隆康さんが述べているそうです。
ほかに静岡県掛川市、長野県飯田市などで出土しています。
この分布は久米の分布と重なるそうです。


『神武は呉からやって来た。』竹田昌暉著

こちらには、上記の鏡は宮崎二面、熊本・広島・岡山・兵庫・奈良・大阪各一面、三重六面と十四面は神武東征のルートに符合していると指摘しています。

久米氏は東征に軍事氏族として従っていますので、この鏡が建国の謎を解く鍵になるのかも。

[10656] Re[10654]: 駿河国益頭郡の式内社  神奈備 2011/03/07(Mon) 21:07 [Reply]
> ただ、PONTAは6人いますし

 そうですか。今のPONTAさんは2009年12月頃に当掲示板に投稿されていたPONTAさんとは違う方かな。
 若い方はこんをつめて投稿されて、爆発してしまうことがありますので、長続きしますようにやりましょう。

[10655] Re[10650][10649][10648][10644][10643][10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  PONTA [Url] 2011/03/07(Mon) 17:43 [Reply]
>基本は 「神社 = 物部、 お寺 = 曽我」の図式でいいのですか?

物部氏は、兵器の製造・管理担当ですよ。武士のことを「もののふ」(物部)っていうじゃないですか。だいたい、「神社」は崇神天皇御世に日本最古の神社である大神神社が建てられるまでは存在しなかったわけで、大神神社建設以前にも物部氏は存在しています。おっしゃりたいのが「神社」ではなく、「神(vs 仏)」だとすると神事・祭祀担当は中臣氏と忌部氏です。
だいたい、物部氏の居住跡から氏寺(渋川廃寺)の遺構が発見されているわけで、「神道(神社)=物部氏、仏教(寺院)=蘇我氏」であれば、物部氏がお寺を建てた理由を説明できません。また、物部氏と蘇我氏は出雲出身の同属とする説もあります。(そうだとすると「物部・蘇我の戦い」ではなく、「物部・蘇我の乱」ですね。)

[10654] Re[10651][10650][10649][10648][10644][10643][10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  PONTA [Url] 2011/03/07(Mon) 16:53 [Reply]
> セコハンのパソコンはお安いですよ。

ですよね〜。
ノートパソコンだと、普通で10万、高性能だと20万円しますが、その20万円が中古店では3万ですからね。ただ、PONTAは6人いますし、フィールドワークの交通費で常に金欠。(いつも6人で活動(交通費が1人で行く時の6倍)ってわけでもないですが。)資金援助も誰もしてくれなくて、交通費はもちろん、資料の購入費もなくて、親からお小遣いをもらえるまでは図書館通いです。図書館のいいところは、郷土資料コーナーがあること。ですから自分の郷土のことは調べられますが、他地域はネットが頼りです。

フィールドワークで欲しいと思うのはi Padです。(今度2が出ますね。5万円くらい? 出れば、今の型が中古市場に出て、安く手に入る?)「神社名鑑」を電子化してi Padに入れて持っていけば、由緒書のない神社でも、その場で由緒を調べられます。あと、撮った写真を転送して、その場で大きな画面で見られます。カメラの小さな画面では手ぶれしていないように見えても、家に帰ってPCで見ると・・・すぐに撮り直せる近所の平野部の神社ならいいのですが・・・山頂の磐座へは、行くのだけでも大変です。(そういう場所に限って暗くてぶれてる。)

あと、デジカメもGPS機能付がいいですね。地図に載っていない神社でも、GPSデータがあれば、携帯電話に表示させて、迷うことなく行けます。

自分たちでお金を出し合って買うのではなく、持ってる人と一緒に行けばいいって話ですけどね(笑)。

[10653] Re[10649][10648][10644][10643][10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  PONTA [Url] 2011/03/07(Mon) 16:34 [Reply]
> 皆さんそれぞれのアプローチ方法がありましょう。
> 私は古墳の探求が第一義です。
> 文献や伝承は二義で、神社はその補強程度に考えるのが私の流儀です。

PONTAは「生きた古墳」と呼ばれる神社の由緒を第一義とする「神社考古学」からのアプローチです。あとは、それが正しいかどうか、考古学の研究成果(出土品)と照らし合わせて修正しています。由緒は吉田家、史書(記紀)は大和政権によって書き換えられていますから。

> 言語で謎を解かれる人も居られます。いろいろな言語説がありますが、私は理解不能です。
> 古代史探求をコトバと発音一本槍でするのは限界があると私は思っております。

以前、「『万葉集』は朝鮮の文学である」と主張して、朝鮮語で翻訳された方がおられました。先輩曰く「何語でも翻訳できるんじゃないの? たとえば、英語で「神」は「can meet」の訛りで「(祈れば)誰でも会える存在」の意、「参道」は「sun road」の訛りで、「太陽への道」の意」とのこと。

[10652] Re[10643][10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  PONTA [Url] 2011/03/07(Mon) 16:20 [Reply]
・・・
> 津毛利神社[ツモリ]=津毛利神(詳細不明。住吉三神とされる)
・・・
> とまぁ、62社のうちの最初の17社あげましたが、三輪神の2社と三宅神の1社以外の14社は土地神かと。

津毛利神社は津守神社か。とすると、
津毛利神社[ツモリ]=津守氏の氏社で住吉三神を祀る。
ですね。

[10651] Re[10650][10649][10648][10644][10643][10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  とみた 2011/03/07(Mon) 14:37 [Reply]
> すると、非物部神社とは、やっぱ、お寺さん混じりという霞があるので、見えにくくなっている神社がたくさんある……という認識でいいでしょうか?
> で、基本は 「神社 = 物部、 お寺 = 曽我」の図式でいいのですか?
> くどいようですが、この質問には「底意」があるのです。これでいいかどうか、できたら、もういちど。


生田さんの設問自体が理解できません。
古代豪族研究は文献学者がかなり挑戦されておられます。加藤健吉さん、大和岩雄さん、水谷千秋さんなどは読んでおります。

生田さんは現場主義で巷間の話が得意なのかと推量しております。
ロケットを上げるには推力のスピードと方向が大切です。私は研究当初は何でも食いつきましたが怪しげな説は避け真面な先生の説を尊重するように変えました。物部氏蘇我氏、葛城氏、秦氏、漢氏 、和邇氏など古代豪族はいろいろいます。

> Pomta さん、とみたさんには最低レベルの質問をしたかと思います。ご迷惑をおかけしたようで。。
> 小生が使用してきたパソコンは、医療関係に勤めている愚息が相続する関係で、マッキントッシュです。
> しかも 8年前から出力が低いiBook 。ほかの機種が高い性能になるうちに、フリーズばぁするようになって検索をするクセも抜け落ちてしまいました。
> でも、インタネット検索を十分に記憶してしまった頭脳でないと、ここみたいな掲示板で発言できないとなったら、こりゃ文明の危機ですよね。

セコハンのパソコンはお安いですよ。

> とみたさんはサカ語の追求は続けていらっしゃるとばかり思っていました。
> 言語は世界に 6300種あって、一つの言語は多くの動植物名を持っています。このことが「ことばでは、何とでも言える」という不信感をかもしています。

サカ人とかスキタイ人も追った時代があります。
今は稲の起源と伝播、古代の鉄あたりの研究を始めています。神功皇后の4世紀の謎も追っています。

余命幾ばくぞ。明日の命もわかりませんね。

あの世では古代人が待ってくれているはずです。

生田さんには失礼かと思いますが。発散より収斂した話が欲しいですね。

たとえば、アイヌ語とか方言研究とか、大阪人は済州島の人と言葉が似ているなど絞り込んだ真面なコトバ研究をしてほしい。

これからは一々応答をしないことも多かろうと思います。

悪意はありませんので、ご容赦ください。

[10650] Re[10649][10648][10644][10643][10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  生田淳一郎 2011/03/07(Mon) 13:29 [Reply]
とみたさん、早速のご応答あり難うございます。
すると、非物部神社とは、やっぱ、お寺さん混じりという霞があるので、見えにくくなっている神社がたくさんある……という認識でいいでしょうか?
で、基本は 「神社 = 物部、 お寺 = 曽我」の図式でいいのですか?
くどいようですが、この質問には「底意」があるのです。これでいいかどうか、できたら、もういちど。


Pomta さん、とみたさんには最低レベルの質問をしたかと思います。ご迷惑をおかけしたようで。。
小生が使用してきたパソコンは、医療関係に勤めている愚息が相続する関係で、マッキントッシュです。
しかも 8年前から出力が低いiBook 。ほかの機種が高い性能になるうちに、フリーズばぁするようになって検索をするクセも抜け落ちてしまいました。
でも、インタネット検索を十分に記憶してしまった頭脳でないと、ここみたいな掲示板で発言できないとなったら、こりゃ文明の危機ですよね。

とみたさんはサカ語の追求は続けていらっしゃるとばかり思っていました。
言語は世界に 6300種あって、一つの言語は多くの動植物名を持っています。このことが「ことばでは、何とでも言える」という不信感をかもしています。

[10649] Re[10648][10644][10643][10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  とみた 2011/03/07(Mon) 10:54 [Reply]
> Pomta さんばかりじゃ気の毒ですので、こんどは とみたさん、教えてくださいませんか。
古代史探求は難しいし、解明できないのでロマンが膨らみます。
皆さんそれぞれのアプローチ方法がありましょう。

私は古墳の探求が第一義です。
文献や伝承は二義で、神社はその補強程度に考えるのが私の流儀です。

言語で謎を解かれる人も居られます。いろいろな言語説がありますが、私は理解不能です。
 
> ● ここんと出た語彙だけでも、式社内、論者、摂社、神名帳、修二会、明神、座、総社、国内、社格、無格社、アラハバキ、など解説していただければ有り難し。

パソコンでインターネット接続し、GOOGLEの検索欄に調べたい言葉を入れればたくさん回答が出ます。

お互い古稀を過ぎて大分年月を重ねていますが、インターネットは重宝です。是非ご活用をお勧めします。


> 発音さえ判ってしまえば、あとは淳ちゃんに任せてくたシャイ! 但し、ワカランものはワカラン。

古代史探求をコトバと発音一本槍でするのは限界があると私は思っております。

生田さんのオリジナルなアプローチは貴重ですが、多角的な考察の一助として
活用で来るのではと思います。

[10648] Re[10644][10643][10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  生田淳一郎 2011/03/07(Mon) 09:27 [Reply]
Pomta さんばかりじゃ気の毒ですので、こんどは とみたさん、教えてくださいませんか。

[ 10637 ] に下のように
> 豊橋に砥鹿神社がありますね。静岡市清水にもあるのですか。物部系ですか??
とありますが、物部系ではない神社とはどういう意味でしょうか。

これまでの小生の狭い認識では、曽我 / 物部 戦争の後は、神社 = 物部、仏閣(お寺)= 曽我系 の二つに別れていた……と思ってきました。神仏混交でわからなくなったという神社仏閣も相当数あるのでしょうか?


小生如きが異分子となり果て、いまごろ質問をすのは、神奈備ドンにとっても、得難い現象を呈していませんか。「神奈備にようこそ」の一部に、神社用語の群を置いて解説してくれれば、一般のひとも入り易くなると思うのですが、どうでしょう。 
● ここんと出た語彙だけでも、式社内、論者、摂社、神名帳、修二会、明神、座、総社、国内、社格、無格社、アラハバキ、など解説していただければ有り難し。
● こんかい、Pomtaさんの説明に接しましたが、発音が分っている神名、神社名がけっこう多いんですね。
  かなり判っている発音、まったくワカラヌ発音などを峻別する作業も貴重な手がかりになります。

発音さえ判ってしまえば、あとは淳ちゃんに任せてくたシャイ! 但し、ワカランものはワカラン。

[10647] Re[10645]: お水取りと神名帳  PONTA [Url] 2011/03/07(Mon) 05:11 [Reply]
> 「ひょっとこ」も火を噴きますが清廉と関係があるんでしょうか?

「ひょっとこ」の語源には何説かありますが、有名なのは、語源は「竈の火を竹筒で吹く「火男」がなまった」という説ですね。東北地方では火の神様として扱われています。
「出雲安来節」の「ドジョウ掬い踊り」は、砂鉄採取の所作であり、金属精錬神(金山神とか)への奉納踊りだったようです。
片目がつぶれているのは、鉄の色で温度を観察していたためとか。


> 昨晩お水取りの六時の行を聴聞させていただきましたが、この行のなかで神々の名を読み上げる神名帳がありましたが、延喜式のそれと同じかどうかわかりませんでした。独特の節回しで・・・のだいみょーうーじんと読みます。熊野のだいーみょーうじん、にちぜんこくげんのだいーみょーうじん。

「六時(日中、日没、初夜、半日、後夜、晨朝)の行法」の「初夜」の後の「神名帳」ですね。全国の神様を二月堂に呼ぶ(修二会に勧請する)作法ですが、仏教行事に神様を招待するとは、神仏分離がされていませんね。神名帳では、日本全国500以上の神々を9段に分け、緩急に富んだ独特の節回しで30分弱で読みあげるそうです。
延喜式神名帳(2861社3132座)は「〜神社」です。「〜大明神」ではないですよ。

[10646] 訂正  和歌山 2011/03/06(Sun) 10:47 [Reply]
失礼清廉は精錬です。昨晩行が終わったのが夜中の3時でしたので頭が・・・

[10645] お水取りと神名帳  和歌山 2011/03/06(Sun) 10:46 [Reply]
「ひょっとこ」も火を噴きますが清廉と関係があるんでしょうか?
昨晩お水取りの六時の行を聴聞させていただきましたが、この行のなかで神々の名を読み上げる神名帳がありましたが、延喜式のそれと同じかどうかわかりませんでした。独特の節回しで・・・のだいみょーうーじんと読みます。熊野のだいーみょーうじん、にちぜんこくげんのだいーみょーうじん。

[10644] Re[10643][10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  生田淳一郎 2011/03/06(Sun) 10:32 [Reply]
Ponta さん、希有のご高説、お導き、あり難うございました! 
基礎ができてないので ハッと思いあたることも少ないのですが、質問してよかったと思っています。
● 新潟方面の神社・・・、かなり目が覚めました。越後にあった土地神を抑えたってわけでしょうか。
● ですが、出雲の本拠地が、宍道湖方面ではなかった……みたいな視野には、まだボケーっとしています。
● 小生の、当分間の課題としては、17社で十分です。あり難うございました。

★ イフキそのものが金属精練士を謂っているようですが……。phuk は「口で吹く」なんですけど。
★ 猪鼻・・・、この地名は全国にあって、永年の課題でしたが、お陰さまで、私案としては、解けました。

こんなのは、お役に立ちませんか。
小生のこだわりは、地名、人名、神名に含まれている内意を知りたいところから、出発しました。

[10643] Re[10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  PONTA [Url] 2011/03/06(Sun) 05:45 [Reply]
> 上に掲出した「20柱でいいので……」は、急ぎませんので、是非お教えください。

「土地神」というのは、その土地の神様のことです。
たとえば、飽波神社の飽波神は、駿河国益頭郡飽波郷の神様です。
で、飽波神はどなたかというと、「水神です」「じゃあ瀬織津姫命ですね」となるわけですが、飽波神は飽波神。
早い話が、八幡とか稲荷とか神明とかではなく、地名がついていれば土地神かと。

遠江国の式内社でいうと、
●遠江國62座:大2小60
○濱名郡[ハマナ]:5座大1小4
弥和山神社[ミワヤマ]=三輪神
英多神社[エタ]=英多神(英多郷の神)
猪鼻湖神社[ヰノハナコ]=猪鼻湖神(猪鼻湖の神)
大神々社[オホムワ]=三輪神
角避比古神社[ツノサクヒコ]=角避比古神(詳細不明。スサノオとされる)
○敷智郡[フチ]:6座並小
岐佐神社[キザ]=岐佐神(象島(きさじま)郷の神)
許部神社[コベ]=許部神(蛭田郷許部里の神)
津毛利神社[ツモリ]=津毛利神(詳細不明。住吉三神とされる)
息神社[ヤス]=息神(詳細不明。論社の息神社[おき]は志那都比古神、志那都比賣神を祀る。)
曾許乃御立神社[ソコノミタチ]=曾許乃御立神(詳細不明。武甕槌命とされる。)
賀久留神社[かくる]=賀久留神(詳細不明。論社の賀久留神社は闇御津羽神、闇淤加美神を祀る。)
○引佐郡[イナサ]:6座並小
渭伊神社[ヰイ]=渭伊神(渭伊郷の神)
乎豆神社[ヲツ]=乎豆神(詳細不明)
三宅神社[ミヤケ]=三宅神(屯倉の神)
蜂前神社[ハチサキ]=蜂前神(八ヶ前の神)
須倍神社[スヘ]=須倍神(須倍氏の氏神)
大□神社[オホセチ]=大□神(詳細不明)*□は変換されない字

とまぁ、62社のうちの最初の17社あげましたが、三輪神の2社と三宅神の1社以外の14社は土地神かと。
このように、人に頼らなくても、簡単に見つかります。

[10642] Re[10640][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  PONTA [Url] 2011/03/05(Sat) 19:05 [Reply]
> [ 10636 ] の冒頭に出ている「延喜式の掲載社(式内社)と国内神名帳の一覧表」ということですが、尾張国・三河国・遠江国・駿河国に出ている神名をズラリと列挙し、そこから「官が認めている神社の神名」を差し引くと「官が認めるに至らなかった土地神の名」が出てくるという仕組みになっている・・・・・という意味合いでしょうか?

国内神名帳は国司の覚書です。
国司が参拝する神社(実際には総社に集められているので、総社を参拝するだけ)の一覧ですから、国司=官は認めているでしょう。
式内社=官が認めている全国レベルの神社
国内神名帳掲載社=式内社+官が認めている国内レベルの神社
ようするに、社格の差でしょう。
社格のない無格社や、社格が低い国司が参拝しない神社はもっともっとたくさんあるかと。

> ● 砥鹿はトロクというのでしょうか? トロクは福岡県の、昔日のセンズ村にもあります。
「とが」です。式内「登勒(とろく)」神社は遠江国にあります。

> ● 大懸の懸はカカスと読んでもいいのでしょうか?
分かりません。

> ● 大荒田のアラには「焼く、燃やす」の意味があるかと思います(例 ; アラッキ・・・焼酎)。
大荒田=大新田で、広大な新田開発を行った人かと。

> このごろ地震があって有名になった柏崎市は桑名藩だった……でしたか、の、飛び地だそうで、この辺の経緯をご存知でしたらお教えください。
徳川幕府は、上杉謙信を生んだ越後を恐れ、11の藩に分け、最大15万石におさえました。さらに天領(監視場所?)を6カ所に設定し、飛び地にして他藩に経営させました。柏崎市は伊勢国の桑名藩の飛び地にしました。

> 上に掲出した「20柱でいいので……」は、急ぎませんので、是非お教えください。
ちょっと調べれば分かるかと。

> あ、> 出雲といっても3ヶ所あります  も、ぜひぜひ。
出雲は元は奈良(桜井市)にあって、京都(亀岡市)に移動し、最終的に島根に行ったわけです。ですから、イザナミの墓が熊野にあったりします。

[10641] Re[10639][10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  PONTA [Url] 2011/03/05(Sat) 18:41 [Reply]
> 渥美半島は安曇でしょうか。麻績王が流された地でもありますね。
・「渥美」は「安曇」ってことですね。「飽海」(元・豊橋市)も「飽海河」(元・豊川)も。
・麻績王が流された地=「万葉集」ではね。

> 尾張に二族ありとか、物部にも内と外つまり譜代と外様があるとか、いろいろ説がありますが・・・
・内物部=大和政権の仲間になった大和の物部氏。外物部=東に逃げた反大和政権派。

> 火明命は海部です。丹後の籠神社海部直の系図賀ありますが真偽は不確か。
・火明命は海部です。=尾張氏の系図でもそうです。最初から途中まで両者は同じ。
・真偽は不確か。=国宝ですけどね。

> 火明命は伊福部の祭神です。
> 伊吹山です。ここでヤマトタケルは伊吹山のイノシシに襲われ怪我をして伊賀伊勢の亀山で死にます。

伊吹とは息吹であり、息吹氏の比喩です。息吹氏とは伊福氏であり、尾張氏と同族の五百木氏のことだそうです。ヤマトタケルは息吹氏に倒された。

> 磯部は伊勢から伊勢湾の東海道ルートで三河や遠江や駿河に上がるでしょう。
前にも書きましたが「東海道」という言葉は誤解されますので、使わないほうがよろしいかと。

> 伊勢津彦は出雲系ですから砥鹿神社が出雲系だとすると面白いですね。
今は出雲系です。本来はアラハバキ?

>伊勢津彦は信濃に追われる。これはどの河川でしょうか。
矢作川です。

> > 尾張物部の武器・農器具を納めたお倉が現在の高牟神社ですね。
> 場所は何処でしょうか
愛知県名古屋市千種区今池1-4-18

[10640] Re[10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  生田淳一郎 2011/03/05(Sat) 10:01 [Reply]
Pontaさん、とみたさん、できることなら、このおいぼれにも愉しみを分ち与えてくださいませんか。
小生は神奈備周辺をうろうろすること、通算 10余年になりますが、まず、漢字のヨミが判らず、なかなかに入って行けずに、いまだにドシロートの域をうろうろしています。
しかし、こんかい、新潟方面の神社を当たってみたところ、八幡や十二社、諏訪、熊野などの「中央での標準語としての神社」ばかりがズラリ並んでいる事実を知るに至りました。

憶いだすのは 5〜6年前、「東海には優に 200柱ぐらいの “ 土地神 ” 名が採れる」と云った人物がいたことです。そのとき、更に教えてもらおうと「20柱でいいので、教えてほしい」と申し出ましたが、ウヤムヤになってしまいました。

小生には、まず基礎的なことが解っていません。
[ 10636 ] の冒頭に出ている「延喜式の掲載社(式内社)と国内神名帳の一覧表」ということですが、尾張国・三河国・遠江国・駿河国に出ている神名をズラリと列挙し、そこから「官が認めている神社の神名」を差し引くと「官が認めるに至らなかった土地神の名」が出てくるという仕組みになっている・・・・・という意味合いでしょうか?

自慢するようですが、小生はこれまで、 13 〜 14柱の神名を我流ながら読み解いたつもりです。
● アクナミの nami は◯◯氏族と解したほうがいいような気がしています。アクには「弓矢を放つ」もありえましょう。
● 砥鹿はトロクというのでしょうか? トロクは福岡県の、昔日のセンズ村にもあります。
● 大懸の懸はカカスと読んでもいいのでしょうか? であれば、これはシロカキの「耕す → 開拓」では?
● 大荒田のアラには「焼く、燃やす」の意味があるかと思います(例 ; アラッキ・・・焼酎)。

としよりの愉しみとは、こんなもんですが、お力添えたまわれば有り難し。
このごろ地震があって有名になった柏崎市は桑名藩だった……でしたか、の、飛び地だそうで、この辺の経緯をご存知でしたらお教えください。
上に掲出した「20柱でいいので……」は、急ぎませんので、是非お教えください。

あ、> 出雲といっても3ヶ所あります  も、ぜひぜひ。

[10639] Re[10638][10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  とみた 2011/03/05(Sat) 09:34 [Reply]
PONTAさん ありがとうございます。私は考古学中心ですが、神社も少し追っかけております。昨年は伊賀伊勢、尾張三河、美濃を訪れました。駿河がまだ未踏破です。

> PONTAって愛知・静岡のローカルサイトなので、こういう全国版の掲示板には向かないかな。
>
> >大荒田命って荒地を開拓した神ですかね。鉄にが関係がありませんか。
> 尾張国にいたのは、海人族(安曇氏、尾張氏)、丹羽氏、物部氏。
> 尾張国一宮の真清田神社の御祭神は尾張開拓の祖にして尾張氏の祖の天火明命

渥美半島は安曇でしょうか。麻績王が流された地でもありますね。
尾張に二族ありとか、物部にも内と外つまり譜代と外様があるとか、いろいろ説がありますが・・・
火明命は海部です。丹後の籠神社海部直の系図賀ありますが真偽は不確か。
火明命は伊福部の祭神です。
伊吹山です。ここでヤマトタケルは伊吹山のイノシシに襲われ怪我をして伊賀伊勢の亀山で死にます。能褒野古墳です。これは4世紀末です。
伊吹山の西麓は坂田郡で息長氏の本拠です。

息長川が流れています。
こちらは金山彦命ですね。伊福も息長も鉄族です。

この両方は敵味方どちらでしょうかね。
伊勢土着の伊勢津彦は神武軍が伊賀伊勢に入ってきて度会氏に追われますね。
度会氏は磯部氏だと考えています。

磯部は伊勢から伊勢湾の東海道ルートで三河や遠江や駿河に上がるでしょう。
伊勢津彦は出雲系ですから砥鹿神社が出雲系だとすると面白いですね。伊勢津彦は信濃に追われる。これはどの河川でしょうか。

天竜川で北上して伊那の飯田―諏訪へ進むのでしょうか。諏訪は建南方で越の沼河姫と出雲の大国主の間の子供となっていますが、伊勢の伊勢津彦の可能性もありますね。出雲族は日本全国に広がっていたんでしょうね。

> 尾張物部の武器・農器具を納めたお倉が現在の高牟神社ですね。

場所は何処でしょうか
> >静岡市清水にもあるのですか。物部系ですか??
> あります。
> 砥鹿神社ですから、出雲系ですね。
> 物部氏は出雲国出身という説もありますが。
> 出雲といっても3ヶ所ありますけどね。
> PONTAの仮説は、大和国平群郡飽波郷の「飽波」ですが。
> ご祭神も本来は瀬織津姫命ですから、河神、滝神、水神ですね。
織物ですか、伊勢にもあるような気がしますが。応神か雄略の時に呉の織女が大和か伊勢に来たのでしょうか
> 「東海道」というのは、江戸時代に整備された道を指し、桑名←→宮の「七里の渡し」だけです。古代の伊勢湾の海上ルートはいくつかあります。

持統天皇の三河行幸ルート往路と復路では違いましたか
> >熱田神宮で伯母さんから草薙の剣をもらってね。
> 前、NHKの生番組で同じ事を言った人がいて、アナウンサーや出演者が「知らなかった。よくご存知ですね」とほめていましたが、「熱田神宮」ではなく「伊勢神宮」です。生番組は怖いです。あれを見て、熱田神宮だと記憶した人が少なからずいたはず。

そうでしたね。うろ覚えの見本です。草薙剣は伊勢神宮にいる叔母からもらいました。熱田の宮ズ姫に預けて伊吹山に登ったのですね。宮津姫は尾張族でしょうか。

親分は断夫山古墳の主としたら6世紀でしょう。
> >ヤマトタケルが景行の息子だとすると、4世紀半ばでしょうか。
> 息子ではないでしょうね。

[10638] Re[10637][10636]: 駿河国益頭郡の式内社  PONTA [Url] 2011/03/05(Sat) 00:41 [Reply]
PONTAって愛知・静岡のローカルサイトなので、こういう全国版の掲示板には向かないかな。

>大荒田命って荒地を開拓した神ですかね。鉄にが関係がありませんか。
尾張国にいたのは、海人族(安曇氏、尾張氏)、丹羽氏、物部氏。
尾張国一宮の真清田神社の御祭神は尾張開拓の祖にして尾張氏の祖の天火明命。
尾張国二宮の大懸神社の御祭神の大荒田命は、丹羽氏の祖ですね。尾張の開拓神の1人です。
尾張国三宮の熱田神宮の御祭神の熱田大神は、草薙剣です。その正体は、PONTAでは、天之尾羽張神で、ここから「尾張」という名が生まれたと考えていますが、神宮号獲得のため、天照大神ということになっています。
尾張物部の武器・農器具を納めたお倉が現在の高牟神社ですね。

>静岡市清水にもあるのですか。物部系ですか??
あります。
砥鹿神社ですから、出雲系ですね。
物部氏は出雲国出身という説もありますが。
出雲といっても3ヶ所ありますけどね。

>飽波神社は秋葉神社ですか。火に関係がありますか?
「飽波(あくなみ)」と「秋葉(あきは)」は違います。
「飽波」は神社の由緒書だと「沸波(わくなみ)」で泉(飽波井)のことです。
PONTAの仮説は、大和国平群郡飽波郷の「飽波」ですが。
ご祭神も本来は瀬織津姫命ですから、河神、滝神、水神ですね。

>東海道は伊勢から、三河や遠江や駿河に伊勢湾を海上ルートで来る道と、桑名から熱田(宮)へ船で向い陸上を通るルートがあるのでしょう。
「東海道」というのは、江戸時代に整備された道を指し、桑名←→宮の「七里の渡し」だけです。古代の伊勢湾の海上ルートはいくつかあります。

>熱田神宮で伯母さんから草薙の剣をもらってね。
前、NHKの生番組で同じ事を言った人がいて、アナウンサーや出演者が「知らなかった。よくご存知ですね」とほめていましたが、「熱田神宮」ではなく「伊勢神宮」です。生番組は怖いです。あれを見て、熱田神宮だと記憶した人が少なからずいたはず。

>ヤマトタケルが景行の息子だとすると、4世紀半ばでしょうか。
息子ではないでしょうね。

[10637] Re[10636]: 駿河国益頭郡の式内社  とみた 2011/03/04(Fri) 20:39 [Reply]
PONTAさん ご存知なら教えてください

> 尾張国・三河国・遠江国・駿河国の延喜式の掲載社(式内社)と国内神名帳の一覧表を制作しました。
尾張は一之宮は尾張一宮市の尾張族本宮の真清宮、三の宮は尾張族の熱田神宮。
尾張二の宮は大懸神社で大荒田命で丹羽臣で神八井耳系のオオシですね。これって荒地を開拓した神ですかね。開拓には鉄鍬を使うので鉄にが関係がありませんか。

> ・庵原郡「豊益神社」は静岡市清水区「砥鹿神社」かな?
豊橋に砥鹿神社がありますね。静岡市清水にもあるのですか。物部系ですか??> ・> (2)飽波神社:現在の飽波神社がある場所が駿河国益頭郡飽波郷で、

飽波神社は秋葉神社ですか。火に関係がありますか?>

(4)燒津神社:日本武尊は、尾張から尾張水軍の船に乗って焼津市に来たそうで、海岸の岩(「神岩」と呼ばれています)

東海道は伊勢から、三河や遠江や駿河に伊勢湾を海上ルートで来る道と、桑名から熱田(宮)へ船で向い陸上を通るルートがあるのでしょう。

後のルートはいつ始まったかもわかりませんが。尾張から尾張水軍が船に乗って焼津へ行く訳ですね。熱田神宮で伯母さんから草薙の剣をもらってね。意味深です。
ヤマトタケルが景行の息子だとすると、4世紀半ばでしょうか。

[10636] 駿河国益頭郡の式内社  PONTA [Url] 2011/03/04(Fri) 03:34 [Reply]
尾張国・三河国・遠江国・駿河国の延喜式の掲載社(式内社)と国内神名帳の一覧表を制作しました。
尾張国は、式内社が多く、国内神名帳の掲載社も式内社でほぼ埋まります。
三河国と遠江国の式内社の数は、郷数よりちょっと少ないくらいで、三河の場合、式内社だけでは神名帳がほとんど埋まりません。ただ、神名帳の神社名と現在の神社名が似ているので、8割は確認できます。遠江国は神名帳が発見されていませんが、三河国の場合、神名帳に掲載されている神社の数と、三河総社に祀られている神社の数が同じなので、遠江総社へ行って、祀ってある神社の名前を聞けば、神名帳が制作出来そうです。
駿河国の式内社は少なく、車なら1日で回れるかも? 「駿河国内神階帳」の掲載社数は多く、40%は天神で、60%が地祇です。式内社の数社は埋まりますが、他は聞いたことない社名ばかりです。
・庵原郡「豊益神社」は静岡市清水区「砥鹿神社」かな?
・浅間第1〜18御子明神は、1,2,3,7,8,18しか分からない。

それはそうと、先日、駿河国益頭郡の式内4社のフィールドワークへ行ってきました。(「写真神奈備別荘」参照)
(1)神神社:三輪鳥居に感動! でも白木ではなく、原木の方が古く見えるからいいな。
(2)飽波神社:現在の飽波神社がある場所が駿河国益頭郡飽波郷で、高草山が駿河国益頭郡物部郷というのが定説ですが、逆でしょうね。飽波神社は高草山にあって、戦国時代に焼けて、現座地に遷座したのでしょう。以前は川関大明神といっていたそうですが、川関神社という神社が別にあります。伝承では、飽波神社の場所に田中城が建てられたそうです。楠の巨木があって枯死したので、その形見として社名を大楠神社と変え、さらに大井神社と変えたそうです。Getした大きな縄張り図を見ると、平島木戸のところにあります。現在は住宅地です。飽波神社は平島の藤井神社に合祀されたのかも?
(3)那閇神社:「那閇(なへ)」は「波辺(なみへ)」の転とされていますが、違いますね。今は山麓にありますが、以前は山の上にあったそうです。(岩の上にあったのは神仏習合時代の観音像。早い話が「観音岩」)「鍋(なべ)」の転というか、「那閇(なべ)」でしょうね。山麓の海岸は鍋の弦(取っ手)に形が似ている(現在は似ていない)ことから「鍋崎」と呼ばれ、実際、那閇神社は、鍋神社とか鍋崎大明神と呼ばれていたようです。
(4)燒津神社:日本武尊は、尾張から尾張水軍の船に乗って焼津市に来たそうで、海岸の岩(「神岩」と呼ばれています)に降りたそうですが、現在、その岩は、海岸から2km沖にあり、干潮の時に上の一部が出るそうです。日本武尊は、持っていた水石・火石を市杵島姫命の依り代として祀ったのが燒津神社(入江大明神)で、現在は海底です。今の燒津神社は日本武尊をご祭神とする別の神社ですね。(草薙剣をミヤヅ姫のもとに置いていくから伊吹山の荒ぶる神に負けたし、水石・火石=航海の神・市杵島姫命を置いていくから走水で弟橘姫を失った。)
浜松市の伝承では、富士山で国造に火で襲われた後、水石・火石をミヤヅ姫のもとに置いておこうと尾張の方へ投げたら、水石は届いたけど、火石は失速して浜松市に落ちたそうです。襲われたのが駿河国の中心(当時は沼津市)で、荒ぶる神がいたのが芦ノ湖だとすると、駿河国の話とも相模国の話ともいえそうです。芦ノ湖の湖畔の箱根神社の住所は、現在は神奈川県(相模国)ですが、「駿河国内神階帳」の「大筥根地祇」が箱根神社だとすると、駿河国であった時期もあるのでは?

[10635] 原(ハル)  和歌山 2011/03/03(Thu) 22:55 [Reply]
九州では原をハラとは言わずにハルと言いますね!朝鮮半島の影響でしょうか?

[10634]  生田淳一郎 2011/03/03(Thu) 17:03 [Reply]
朝鮮人という言いかたは、このごろでは、ちょっとまずいのかナ? でも、言語学では朝鮮語、シナ語と言います。


朝鮮人は「ソ」という音が ことのほか好きなんじゃないでしょうか。
小生がミシンのセールスをしていたとき、山口県の宇部市出身の人だと記憶していますが、われわれ筑豊の飯塚・山田市・嘉穂郡が「ト」というのを、ことごとく「ソ」に置き換えてしゃべるオバンセールス・ウーマンがいました。
「そう言うのよ」などは、われわれは「そう言うトたい」ですが、このオバンは「そう言うソよ」と言っていました。


そういえば、この「ソ」は「ソ(牛)シ(の)モリ」のソですね。
i --so には「牛をする」みたいな内意が込められていなかったでしょうか。
込められていたとすと、いよいよモウモウ(猛々)しくなります。 / 木曽義仲の倶利伽羅峠の戦い


四歳上の先輩に、その父君が福岡県伊田市で質屋を営んでいた糸さんがいました。
古代を匂わせる顔や風貌をしていましたが、去年亡くなりました。
伊田も匂いますが、近くには糸田郡もあります。
it には “ 頂 ” にみるように「のぼり詰めた、究極の」の意味もあります。→ いとどし
it-o とは「最高の男」……すなわち「王」とも解釈できそうです。


福岡県には「イタ」がつく地名も目につきます。it が開音された語形でしょうが、小生はこれは、「鉄の板」ではないかと思っています。のべ板です。金でいえば「むく」です。椋本さんもいます。


[10633] Re[10632][10630][10627][10626]: 社(ソ)  神奈備 2011/03/01(Tue) 13:26 [Reply]
>  「ト」と「ソ」は、ほとんど同音でしょうし

 和歌山でも、「ぞ」を「ど」と発音します。本名「善蔵」さんが名乗ると「でんどう」となります。


> そうすると「五十猛」は、伊都国の猛々しい者かも?

 伊都国では『神功紀』に伊都国の県主の五十迹手が登場します。五十猛に近い名です。五十迹手を誉めて「伊蘇志」と言われたとあります。ここでは「と」が「そ」に変わっています。

 筑前国怡土郡や志摩郡には五十猛神を祀る白木神社などが多く鎮座しています。

『播磨国風土記』飾磨郡因達の里の条に、神功皇后の渡韓の際、御船前の伊太テの神がこの所においでになるので、神の名を里の名としたとあります。

[10632] Re[10630][10627][10626]: 社(ソ)  琉球松 2011/02/28(Mon) 10:38 [Reply]
 「五十猛」の「十」は、「ト(杜)」とも読めますね。

 「ト」と「ソ」は、ほとんど同音でしょうし、簡単に脱落しそうですが、「シャ(社)」は「サ・ソ」でもかまわないでしょうか。

 そうすると「五十猛」は、伊都国の猛々しい者かも?

[10631] Re[10630][10627][10626]: 社(ソ)    生田淳一郎 2011/02/28(Mon) 09:31 [Reply]
> >「社」は「そ」、「そう」と読めそうです。

Ponta さんもあり難うございます。

● 神社の “社” はシナの社禝(自分らの土地 と 産物が基本概念か)の社を「やしろ」と読んだのが起源かと……。
  朝鮮語の so は、このシャの朝鮮語読みかもしれませんね。
  小生は「園(その)」がついた名前の人に初めて会ったとき、「あんた、鹿児島県の人ですか?」と訊くことにしています。すると、だいたい当たっています。

● 生苧は何と発音するのでしょう。小生はけたたましい漢字オンチなんです。
  藤堂明保著『漢和大辞典』と相談してみましたところ、どうも「キジョ、キヂョ」らしい。
  「生(キ)」は灘のキ一本といったときには「酒」なんですけど……。あ、キ娘のキですね。
  すると、このキは、いちおうシナ語と関連をもたねばならないことになってくるかと思いますが。
  和歌山もつくば山々麓も「キのくに」でした。「ki(大地)」はバビロニア方面が中心だったでしたか。
  木曽は第三の「ki のくに」であってもおかしくはないようです。また、 ki , gi には “神” もあります。
  火事とケンカは江戸の花。大量の木材を供給したのは木曽でした。この時代に「木曽」よばわりが生じたか。

[10630] Re[10627][10626]: 社(ソ)  PONTA [Url] 2011/02/28(Mon) 02:31 [Reply]
>「社」は「そ」、「そう」と読めそうです。

「社」って「荘」や「壮」に似てますね。
字義が似てるからかな?

[10629]  和歌山 2011/02/27(Sun) 19:33 [Reply]
そは熊襲、蝦夷とも通じるようですが、信州の木曽は麻の生苧が語源だという説があります。そ、杜いずれにしても樹木と関係がありそうですね!山の民でしょうか?

[10628] Re[10627][10626]: 社(ソ)    生田淳一郎 2011/02/27(Sun) 11:32 [Reply]
和歌山さん、貴重な情報をあり難うございます。

小生はここ 20年間、ネパール語を見つめています。まだヒンズ−語は見ていませんが、安本美典著『日本語の誕生』巻末基礎 200語対比一覧表によれば、ネパール語とヒンズー語は同一だと思うに至っています。
そのネパール語は対日本語で 1300ペアの、対アイヌ語で 500ペアの類似語彙を見せているのです(大野晋教授が摘出された類似語彙は日本語とのあいだで 350ペアしかありませんでした)。

BC 1500年期に地球規模で猛烈な寒波が襲ってきました。
2万年前、めっぽう温かい犬の毛皮を着て、トナカイやマンモスなどを追って北方に入ったコーカソイド白人は、死ぬ思いをしてヒンズークシ( クシは “殺す” という意味)やカイバル峠を越えて南下しました。

秦始皇帝の兵馬俑を造るとき働いたと見込める労働者の中には、どうみても白人としか思えない遺体があったり、山東半島つけねから白人の骨が出土したりしています。小生はこれらは国を失った白人だと思っています。

そのネパール語に所有を表わす助詞に ka 、ko (……の)があります。日本語のミコト、ミカドのように ka のほうが丁寧な言い方です。
このデン(これもネパール語)で考えれば、村杜耕平さんの杜(こそ)は「……の、ソ」に還元できるかと思います。

熊襲は「クマル神(少年神)を信奉する人びとの so(蝟集する国)」かと……。
> 二文字も消費して「い」・・・・・  などは裏番組の『青草掲示板』で

[10627] Re[10626]: 社(ソ)  神奈備 2011/02/26(Sat) 20:47 [Reply]
> マラソン選手で村杜耕平さんを思出だしました。読みはムラコソコウヘイさんです。

> 『牛の来た道』の著者は、初期の新潟県では「十二社(読みはジュウニシャとも、ジュウニソウとも)」がずら〜っと並び、

 平成祭CDによりますと、静岡県牧之原市大沢の十二社神社が「じゅうにそうじんじゃ」とのルビがあります。
 他の「じゅうにそうじんじゃ」は神奈川県鎌倉市十二所(ジュウニソ)の十二所神社、岐阜県海津郡南濃町の十二相神社があります。

 これから見ますと、「社」は「そ」、「そう」と読めそうです。ほかに「こそ」が有名です。

 伊太祁曽の名前の要素に祭神の五十猛があるのだろうと思います。
 出雲では、五十猛はイソタケと読まれていたようで、磯竹と言う地名に五十猛神社が出来たりしています。「五十」を「い」とするか「いそ」とするか、二文字も消費して「い」だけでは効率が悪い、「いそ」とやはり二文字で読むほうが自然ですが、これにも地域差があり、五十猛も「いたけ」、「いたける」、「いそたけ」と読まれていたようです。
 伊太祁曽も「いたけそ」が本来かも。それが「いたこそ」となれば、「社」に通じます。

 「伊達」「射楯」で表示される場合もあり、「いだて」も候補に入って来るようです。
 「曽」については熊襲の「そ」も同じように解読できたらと思っています。


[10626] 社(ソ)  和歌山 2011/02/26(Sat) 19:13 [Reply]
マラソン選手で村杜耕平さんを思出だしました。読みはムラコソコウヘイさんです。

[10625] イタキソ様    生田淳一郎 2011/02/26(Sat) 11:17 [Reply]
神奈備ドン、
裏番組で、十二社がジュウニシャともジュウニソウとも読むことに注ぎ目してくれたやろか。
「社」を「ソ」と読ませてた事例を発見したことがあったが、あれは、もう 4年ぐらい前のことになったか。
もちろんイタキソ様の語源掘りだしにかかわる。
社は、呉音は「ジャ」漢音は「シャ」。

so は朝鮮語では「人や物が集まっているところ」という意味がある。この限りではアイヌ語の so(床)とつながる。

今の段階で イタキソ様を分析すると tak(神)に √ i がかかって、itak は「神ごとする」。これに is(神)がつき、末尾にふたたび --o(神)がついたということになる。

[10624] Re[10622]: 風神=天神  琉球松 2011/02/25(Fri) 15:48 [Reply]
 凡夫さん、参考までに。。。

 沖縄島中南部方言で「風」は「カジェ」に近く、「鍛冶」は「カヂ」で、「火事」は「クァヂ」に近いですね。これらは明確に区別されています。

[10623] Re[10621][10620][10619]: 象鼻山  生田淳一郎 2011/02/25(Fri) 10:44 [Reply]
ネパールという発音によく似た「ネワール」という一族がいます。彼らはネパールの主都カトマンズの先住民族です。
「ぞう(象)」という語の輸入先はわかりませんが、このネワール族がメス像だったかを「キサ」と言っていることを、もう十年ぐらい前になるのかナァ、ここで桜左近氏が紹介しています。
秋田県象潟のキサでしょう。
出羽三山周辺にはいろんな山伏〜行者がいたらしい。
鍛冶屋のカジというのもネワール族がしゃべってることも、桜左近氏が報告しています。

[10622] 風神=天神  凡夫 [Url] 2011/02/24(Thu) 08:52 [Reply]
拙ホームページ 古代之風 http://kaze.world.coocan.jp
ご笑覧下されば幸甚に存じます

お門違いの投稿であれば削除をお願いいたします

[10621] Re[10620][10619]: 象鼻山  琉球松 2011/02/23(Wed) 11:44 [Reply]
 「象」の形とされるのは、けっこう後じゃないでしょうか。熊野権現にすれは「金毘羅・琴平」でしょうから「鰐(鮫)」だと思いますね。

 その語源が鮫神でいいとすれば、海の神とされているのも納得がいきます。ただサンスクリット語の「クンピーラ」は淡水のガンジス川の神ですから、和歌山県の紀の川などに鮫が上る話にも繋がりそうですよ。銅鐸の水の神の部分?

 これらの山は、後世にはいろいろな名称が与えられているようですけど、「神奈備」が最も古いように思えますがどうでしょうか。これは円錐形など立体的である必要はなく、山頂付近の形は、ありし日の銅鐸を伝えてはいないでしょうか。穏やかな時代の銅鐸神?

[10620] Re[10619]: 象鼻山  とみた 2011/02/23(Wed) 08:18 [Reply]
>  岐阜県の養老の象鼻山に古墳群があります。2世紀から5世紀にかけて約70基の古墳があり、新しい古墳は古い古墳を壊さずに造営されているそうです。聖地との見方があるようです。
南宮山の140mぐらいのところに前方後方墳としてありますね。3世紀末のものでしょうか。墳形及び埋葬方法が東海様式を採用。埋葬物は畿内様式です。琴柱形石製品が入っています。近くの東近江の雪野山古墳も琴柱形石製品が入っています。

>  所功先生で、「たかじんのそこまで言って委員会」と言う番組などで天皇論などをやる時にこられる謹厳実直な印象の方です。その先生の講演

京都産業大の先生ですね。

ノーベル物理学賞の益川さんもここの先生。


[10619] 象鼻山  神奈備 2011/02/21(Mon) 16:38 [Reply]
 岐阜県の養老の象鼻山に古墳群があります。2世紀から5世紀にかけて約70基の古墳があり、新しい古墳は古い古墳を壊さずに造営されているそうです。聖地との見方があるようです。讃岐の象頭山と云い、象鼻山の名前は一体いつ頃の命名なのでしょうか。江戸時代には実物がやって来ているのでしょうが、もっと昔は象と云う動物をどう想像していたのでしょうか。中国将棋に象棋があり、その箱にでもお鼻の長い絵が描かれていたのかも。

 象鼻山の古墳群の話をされたのは、所功先生で、「たかじんのそこまで言って委員会」と言う番組などで天皇論などをやる時にこられる謹厳実直な印象の方です。その先生の講演が昨日の日曜日にあり、「大和朝廷の発展過程 ー王宮、后妃、御陵の謎解きー」とのタイトルでした。

 后妃についてのレジメ
 后・・口(祭器)で祈る人の意。cf君・・尹(神杖)で祈る聖職者
 「后は継体の君・・号を発するものは君后なり」(『説文』)、もとは母后をいう。(白川静)
 妃・・巳(祀)を掌る女の意→「天子の妃を后をいふ」(『礼記』)。姫・・http://kamnavi.jp/log/030069.gif(乳房)の成女
* キサキ・・「君幸」(きみさき)(『和訓栞』)、「御妻(みめ)」(貴婦たち)と別格の正室=大后

 よくわかりませんが、以下面白いことを二つ。

 神武建国を否定する根拠はない。
 考古学は『古事記』『日本書記』を裏切らない。

[10618] Re[10611][10610][10608]: 神奈備山  琉球松 2011/02/17(Thu) 22:02 [Reply]
 "円錐形に見えるところに住む"。。。これはナイスじゃないでしょうか。

 この形に見える人々にとっては「神奈備山」でしょうが、そう見えない人にとってはただの山かもしれませんよ。
 「像頭山・金比羅山」もその親戚でしょうけど、このトンガリは銅鐸の頭?を連想できないでしょうか?

 禁足地にしても、足下に何かが居るみたいな。。。石上神宮のそれは勾玉のようですが。

[10617] 神奈備と周辺の山  和歌山 2011/02/17(Thu) 21:24 [Reply]
春日奥山原始林は平安時代に狩猟・伐採が禁止され今日にいたっています。当時環境や自然保護といった考えは無かったと思いますから、山や樹木には神がいるという考えがあったから禁止になったんではないでしょうか?今でも樹木が大量に枯れだすと神が天に帰る前兆だといわれています。そして神仏習合思想の中から地下には地獄があると信じられ、庶民の遺体の遺棄場があったとも言われています。北側の若草山山頂には4世紀末の前方後円墳もあります。神だけでなく仏や死後の世界まであったようです。
 

[10616] Re[10615]: 神奈備と周辺の山  神奈備 2011/02/17(Thu) 11:33 [Reply]
 三輪山の背後に標高が100m高い巻向山があります。足の弱い人は車で巻向山に登り、そこから尾根伝いに三輪山に行ったそうです。その方にとって巻向山は方便だったのかも知れません。

 また巻向山にはダンノダイラと云う出雲族の居住地と云われた場所があり、三輪山の神とのゆかりを感じます。一方、巻向山を弓月岳とし、大兵主神を祀っていたともされています。

 それぞれの山にはそれぞれの神が宿っていると思われていたのでしょう。

 また話は違いますが、天香山のように複数の神々が鎮座する端山もあります。特に畝尾坐健土安神社など畝傍を冠にした式内社が麓に鎮座しており、往古は畝傍山と呼ばれていたと思わせます。

[10615] 神奈備と周辺の山  和歌山 2011/02/16(Wed) 18:37 [Reply]
平野の中にポツンと神奈備山があるのではなく、三輪山や御蓋山のように背後の山並みがある場合は全体が神が宿ると考えたのでしょうか?

[10614] Re[10613]: 神奈備山・川  神奈備 2011/02/16(Wed) 11:39 [Reply]
> そして原始林各地に春日大社の末社が点在しています。原始信仰の名残でしょうか?

 山中の水源地に高山(こうせん)神社が鎮座しており、ここでは水が湧いているそうです。泉を禁足地にするために神域としたとよくいわれますが、雷や水源を祭ることは原始信仰と言えるのでしょう。鳴神神社も鎮座していますね。

 春日大社の摂社に水谷神社、上水谷神社があります。これらは伊勢の赤桶の水屋神社と深い由縁があるようです。やはり水神が水谷川からこれらの摂社を休場として登頂していった名残かも知れません。

[10613] 神奈備山・川  和歌山 2011/02/15(Tue) 21:22 [Reply]
春日奥山原始林から流れる川は平城京の水源となっていました。そこに御蓋山があります。そして原始林各地に春日大社の末社が点在しています。原始信仰の名残でしょうか?

[10612] Re[10611]: 神奈備山  神奈備 2011/02/15(Tue) 15:33 [Reply]
 吉野では山頂から下を流れている川(の神)を祈るようなことはあったそうです。

 神は川からやって来て山にとどまるといわれます。旧住所で三重県上野市下郡に鎮座する猪田神社には木津川から神霊がやって来た足跡が残っています。山から川を見るのは、神の故郷を見ることになるのでしょう。原始に帰り、再現するのが神道の祭りですから、山から川を祈ることは自然なことだったのでしょう。

 また、吉野の山の中には頂上から三輪山や金剛・葛城山がよく見える場所があり、祈りを捧げることもあったのかも知れません。そういう意味では神奈備山崇拝は平地とは限らないのかも知れません。

[10611] Re[10610][10608]: 神奈備山  和歌山 2011/02/14(Mon) 20:53 [Reply]
> これは平野部に住んでる人の発想かな?
> 山に住んでいる人も神奈備山をあがめてますよ。
> 「神奈備山と平野はセット」ではなく、「神と人がセット」なんですよ。

確かに平野に住んでいる人の発想ですね。私は山に住んだことが無いもので!富士山なんかは平野・山問わず見えますね!ただ神奈備でも見る方向により円錐形に見えたり見えなかったりするんじゃないでしょうか?そうすると円錐形に見えるところに住むのか、礼拝する時に移動するのでしょうか?

[10610] Re[10608]: 神奈備山  PONTA [Url] 2011/02/14(Mon) 05:58 [Reply]
>山がよく見えるということは麓は平野が多いと思います。平野であれば人々が生活できますから神奈備山と平野はセットと考えたほうが自然だと思います。

これは平野部に住んでる人の発想かな?
山に住んでいる人も神奈備山をあがめてますよ。
「神奈備山と平野はセット」ではなく、「神と人がセット」なんですよ。

[10609] Re[10608]: 神奈備山  PONTA [Url] 2011/02/14(Mon) 05:13 [Reply]
>神奈備山と平野はセットと考えたほうが自然だと思います。
というか、神は人が存在するから存在するのであって、
「神奈備山と平野はセット」というより、「神と人はセット」なんですよ。

[10608] 神奈備山  和歌山 2011/02/13(Sun) 13:22 [Reply]
禁足地とはいえ山であれば誰も登りたいと思うでしょう。三輪山でも原則登拝できますし、御蓋山も年数回一般の人でも神事として登拝できます。
 神奈備はそこに神が降り立つと考えれば岩でなくても樹木でも神が憑依するものがあればよいのでしょう!山がよく見えるということは麓は平野が多いと思います。平野であれば人々が生活できますから神奈備山と平野はセットと考えたほうが自然だと思います。

[10607] Re[10606]: 御蓋山  PONTA [Url] 2011/02/12(Sat) 23:50 [Reply]
愛知県と静岡県の県境にあるのが湖西連峰で、山々のあちこちに巨石がごろごろ。
でも、古代から信仰されてきた霊山である霊屋之峰の山頂には、なぜか巨石がないとか。
御蓋山にしても、岩が無くても神奈備山にはなれるみたいですね。

>禁足地といいながら登山道からつながる道があります
神神社の岩境も、年に3回、ご神職が祭礼を行いますので、禁足地ではありますが、道はあります。

[10606] 御蓋山  和歌山 2011/02/12(Sat) 22:20 [Reply]
奈良市の御蓋山も禁足地ですが何時からかは、神職さんからは聞いた事がありません、樹木伐採禁止は何時からかは分かっているんですが!禁足地といいながら登山道からつながる道がありますし、頂上からは経塚が見つかっています。神事で上りましたが磐座等は見あたりませんでした。この山は春日神が降り立つ前から遣唐使が遥拝していましたし、飛火野からは祭祀遺跡も見つかっています、麓の春日大社境内には磐座がたくさんありあす。

[10605] 信仰の変化  PONTA [Url] 2011/02/12(Sat) 03:01 [Reply]
>三輪山の信仰は、蛇神なのか、山中の磐座なのか、山そのものなのか、実際の所は渾然としているようです。

時代によって、人の入れ替えによって、信仰の対象は変わるのでしょうね。縄文時代の信仰の対象は蛇(蝮)なのに、古墳時代には鳥に変わったようですし。

「日本にピラミッドがあった」という青草があって、ピラミッドと認定する条件の1つに山頂の巨石があるのですが、山頂に巨石があったから神奈備山にされたのか、山容がとぐろを巻いた蛇のように美しいから山頂に巨石を運んで神奈備山にしたのか?

[10604] 神神社  PONTA [Url] 2011/02/12(Sat) 02:53 [Reply]
静岡県藤枝市に式内・神神社があります。
拝殿の裏に三輪鳥居があり、その奥(丘)は禁則地なのでどうなっているのか分かりませんが、案内板には「岩境」があるとのことです。
神体山は焼津アルプス最高峰の高草山だそうです。
2/8に農の事始行事「山宮祭り」が開かれました。山の中腹にある磐座(神神社の社地だそうです)から里に向けてご神職が弓を射ました。その弓矢によって、山の神が里に下りて田の神になるそうです。田んぼの横の桜にでも宿るのでしょうね。

[10603] 三輪山の神  神奈備 2011/02/11(Fri) 17:52 [Reply]
 神体山信仰で有名な山が三輪山ですが、三輪山を神体山としてのは、寛文六年(1666)の寺社奉行裁定書だそうです。(五来重著『石の宗教』)

 むくろが谷と呼ばれる葬地が三輪山にあるので禁足地になったのであって、神体山だから禁足地になったのではないとのこと。

 三輪山の信仰は、蛇神なのか、山中の磐座なのか、山そのものなのか、実際の所は渾然としているようです。近くから眺めたら綺麗な形に見えますが、吉野の金峯山・銀峯山は相当遠くからですと山容は見えるのですが、三輪山のように近くから親しみを以て秀麗な姿を眺めるという山ではなさそうです。

 神体山信仰でなくとも、往古は山頂で神を祭ったのではないでしょうか。それが里宮に勧請され、更に田に勧請されてきたといわれます。古い形を残したままの神社だと云うことでしょう。山頂に祖神が降臨するということが、山頂で神を祀ったのでしょう。

[10602] Re[10601][10600][10599]: 天津羽羽命と吉野国栖  加賀 [Url] 2011/02/10(Thu) 01:12 [Reply]
神奈備様、回答ありがとうございます。

波宝神社も波比売神社も現在は丹生氏の一族が神主をしておられますが、
丹生氏が来る前までは、吉野川の南岸は大伴氏が支配していたという
丹生総神主家の伝承があります。

大伴氏の祖である天押日命の親神に系図には、以下のような箇所があり、
天雷命─天石門別安国玉主命─天押日命─天押人命

大伴氏という観点から行くと、天石門別安国玉主神の子天津羽羽命という繋がり
が文献から見えてきます。

丹生総神主家と大伴氏は血縁関係を結び、良好な関係にあったそうですが、
時代と共に大伴氏側の伝承が薄れていったのかもしれません。

山頂にある神社は御神体山信仰があった名残だと考えております。御神体山の神様は蛇であることが多いです。丹生氏の側からではなく、大伴氏よりに考えると興味深い
と思います。

天石門別安国玉主命は注目すべき名前だと思います。安国とは大和の国のことですね。
中臣祓訓解や大和葛城宝山記などに記載があります。
安国玉主=大和国魂 と連想出来ます。

吉野から葛城にかけて、天安川(安国の川)神社が数カ所あり、
祭神は、天尾羽張命です。読みはあめのおはばりのみことで、ここにも
「はは」が出てきます。





[10602] Re[10601][10600][10599]: 天津羽羽命と吉野国栖  加賀 [Url] 2011/02/10(Thu) 01:12 [Reply]
神奈備様、回答ありがとうございます。

波宝神社も波比売神社も現在は丹生氏の一族が神主をしておられますが、
丹生氏が来る前までは、吉野川の南岸は大伴氏が支配していたという
丹生総神主家の伝承があります。

大伴氏の祖である天押日命の親神に系図には、以下のような箇所があり、
天雷命─天石門別安国玉主命─天押日命─天押人命

大伴氏という観点から行くと、天石門別安国玉主神の子天津羽羽命という繋がり
が文献から見えてきます。

丹生総神主家と大伴氏は血縁関係を結び、良好な関係にあったそうですが、
時代と共に大伴氏側の伝承が薄れていったのかもしれません。

山頂にある神社は御神体山信仰があった名残だと考えております。御神体山の神様は蛇であることが多いです。丹生氏の側からではなく、大伴氏よりに考えると興味深い
と思います。

天石門別安国玉主命は注目すべき名前だと思います。安国とは大和の国のことですね。
中臣祓訓解や大和葛城宝山記などに記載があります。
安国玉主=大和国魂 と連想出来ます。

吉野から葛城にかけて、天安川(安国の川)神社が数カ所あり、
祭神は、天尾羽張命です。読みはあめのおはばりのみことで、ここにも
「はは」が出てきます。





[10601] Re[10600][10599]: 天津羽羽命と吉野国栖  神奈備 2011/02/09(Wed) 20:39 [Reply]
 天津羽羽命と「アサクラ」地名とはつながりがありそうですね。

> 奈良県五條市西吉野町の波宝神社の「波宝」の音に通じ、波宝神社は吉野国栖の祖神を祀るといわれ、これは天津羽羽命であろうと記述があります。


 波宝神社の鎮座する山は銀峯山と呼ばれています。よく似た名前の波比売神社の鎮座山は金峯山です。これらはペアの神社だと思っていました。

 波宝神社の鎮座地が「夜中」ということで、口碑によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、この山に休んでいると、白昼がにわかに暗闇になったので、ここの神に祈ったところ、再び日が照り、明るくなった。 地名の「夜中」はこの口碑に由来するといいます。

 波宝神社を論ずるには波比売神社と一緒に考える必要があると思っています。また両神社とも山の頂上に祭られてから遷座もしているようではなく、天津羽羽命から思われる「蛇」に関係しない明るさを感じています。

[10600] Re[10599]: 天津羽羽命と吉野国栖  神奈備 2011/02/06(Sun) 08:13 [Reply]
> はじめまして神奈備様
> よく利用させて頂いておりまして、感謝致しております。

加賀さん。興味深い投稿ありがとうございます。
これから留守をしますので、2〜3日応答できませんのでご容赦ください。


[10599] 天津羽羽命と吉野国栖  加賀 [Url] 2011/02/06(Sun) 03:54 [Reply]
はじめまして神奈備様
よく利用させて頂いておりまして、感謝致しております。

気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社について、以前記事がありましたので、
関連する情報かと考えまして、投稿させて頂きます。

土佐国式社考の朝倉神社の項に興味深い記載があります。

(釋日本紀 卷第十四)
土左の國の風土記に曰はく、土左の郡。朝倉の郷あり。郷の中に社あり。~のみ名は
天津羽羽(あまつはは)の~なり。天石帆別(あまのいはほわけ)の~、天石門別(あま
のいはとわけ)の~のみ子なり。これは、土佐の天石門別安國玉主天神の子であるとしています。

度会氏の伝によると朝倉神社の祭神である天津羽羽の「はは」は奈良県五條市西吉野町の波宝神社の「波宝」の音に通じ、波宝神社は吉野国栖の祖神を祀るといわれ、これは天津羽羽命であろうと記述があります。

(姓氏録大和神別に、吉野国栖の祖神とは、神武天皇の東征途上,菟田(うだ)(奈良県宇陀(うだ)郡)から吉野へすすんだとき,岩をおしわけてでてきた神で、尾があったといい、石穂押別之子とあります。)

(宝の音については・・・
 乗鞍岳には、異名があり「愛寶山」と言います。読みは「あはさん」といい、
三代実録・貞観十五年(873年)の記載に、
二十八日癸亥飛騨の国司言大野郡愛寶山貞観十三年十一月十八日、十四年十一月
十二日、今月十五日三度紫雲見

とあり、これは乗鞍岳こと愛寶山で紫雲を見たと記載しています。
和名抄によると、飛騨国大野郡阿排(あは)郷の愛寶(あは)山ということになります。)

また、安房忌部氏の系図によると、天石門別神を天手力男命のことだとしています。
すなわち、吉野国栖の祖神とは天手力男命の子、天津羽羽命であり波宝神社の祭神ではないかと言えます。

奈良県高市郡には天津石門別神社と気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社があり、

土佐と同じく親子を祀っているとしています。

和州五郡神社神名帳大略注解によると、気吹雷響雷吉野大国栖御魂神とは
気吹戸主あるいは磐穂押別神之子でもあるとしていますが、元々気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社には
2座神様が鎮座している筈で、この2神が天津羽羽命ともう一柱どの神様なのか調査をしております。
天手力男命でしょうか・・

奈良県高市郡には、天津羽羽命の夫神である事代主尊が祀られている神社が多く、
天津羽羽命が祀られていることは、違和感がありません。

この神様を祀った神社に、和歌山県和歌山市鷺の森明神丁22の朝椋神社があります。(この祭神は紀伊続風土記附録による記載です。)

さらに静岡県掛川市初馬にある阿波波神社、神津島の阿波命神社、静岡県沼津市長浜神社などがあり、
神津島の言い伝えでは、天津羽羽命は三島大神(事代主命)の本后とそています。
天津羽羽命と事代主命は阿波と出雲の結びつきを表しているようで興味深いです。

[10598] Re[10597][10596][10595][10594]: 播磨国風土記  神奈備 2011/02/03(Thu) 20:54 [Reply]
> 宇佐国造家の伝承では、神功皇后は武内宿禰と関係しており、子の応神天皇の父は武内宿禰であるという、生々しい伝承が残っているそうです。もちろん実証はできませんが、物語として面白いです。

 『住吉大社神代記』には、「神功皇后と住吉大神との間に夫婦の密事があった。」と記載されています。

 住吉大神は塩筒老爺のこととの説もあります。また鵜茅不合尊ともされているようです。武内宿禰〜鵜茅不合尊まで応神天皇のパパの候補者が多いようです。

 所謂河内王朝(倭の五王が含まれる?)の始祖を誉津別命とする説もあり、応神天皇は本当に実在していたのか、神として記紀に持ち込まれたのか、これまた興味ある問題です。

[10597] Re[10596][10595][10594]: 播磨国風土記  なかひらまい [Url] 2011/02/03(Thu) 15:26 [Reply]

>  それにしても、宇佐八幡の祭祀氏族の辛嶋氏の祖神は五十猛神とされており、その神が日前宮の場所に祭られていたとされており、八幡神社を遠ざける理由はないのですが、大宝二年(702年)に五十猛三兄妹神が分遷さされており、八幡神社の創祀はそれ以降となるのかも知れません。

宇佐の辛島氏と五十猛神、紀氏、日前宮、神功皇后、武内宿禰などは渾然としていて難しいです。ナグサトベの話からテーマがずれていくので、触れませんでしたが、紀氏の活動圏がいかに広範囲に及んでいたかわかります。

宇佐国造家の伝承では、神功皇后は武内宿禰と関係しており、子の応神天皇の父は武内宿禰であるという、生々しい伝承が残っているそうです。もちろん実証はできませんが、物語として面白いです。

[10596] Re[10595][10594]: 播磨国風土記  神奈備 2011/02/03(Thu) 09:40 [Reply]
>  和歌山にも朝来という地名があり海南市にも且来(あっそ)があり神功皇后伝説が残ります。この付近には河川沿いに八幡神社が多いです。

 アッソ地名は、宮城(登米郡 朝来)、大分(西国東郡 朝来)、熊本(益城町 朝来山)、京都(舞鶴市 朝来中)、和歌山(日高郡 朝来、海南市 且来)とあるようです。

  和歌山県海南市且来には、八幡神社が鎮座、神功皇后に当地に永住されるように懇願し、皇后は感動し、「あ そう。」ではなく、「且(あ)す来よう。」と言われたとの地名説話が残っています。


 和歌山市海南市の多くの八幡神社は欽明朝の頃に創建されたとの伝承があるのですが、その頃には宇佐でも八幡神社が確立していないので、もっと後世の勧請のように思われます。

 和歌山市には日前国懸神宮が勢力を持っており、五十猛三兄妹神達も日前宮から約5kmほど離れた場所にしか鎮座していません。同じように八幡神社も日前宮から少し離れた場所に鎮座しているようです。

 それにしても、宇佐八幡の祭祀氏族の辛嶋氏の祖神は五十猛神とされており、その神が日前宮の場所に祭られていたとされており、八幡神社を遠ざける理由はないのですが、大宝二年(702年)に五十猛三兄妹神が分遷さされており、八幡神社の創祀はそれ以降となるのかも知れません。

 なお、不思議なことに日前宮は江戸時代には八幡造だったようです。元々母子信仰の神社で、八幡神社と近い内容だったのかも知れません。

[10595] Re[10594]: 播磨国風土記  和歌山 2011/02/02(Wed) 19:47 [Reply]
>  >
>  飾磨郡の安相の里(姫路市の西の土山・今宿付近)に、「品太天皇が但馬から巡っておいでになった。」とあります。安相はアサコと訓み、但馬の朝来からの移住者が住んだ地だそうです。

 和歌山にも朝来という地名があり海南市にも且来(あっそ)があり神功皇后伝説が残ります。この付近には河川沿いに八幡神社が多いです。

[10594] 播磨国風土記  神奈備 2011/02/02(Wed) 10:52 [Reply]
 『播磨国風土記』には、品太天皇が各地を巡幸している記事が多く出ています。地元の伊和大神よりも多く登場しているようです。

 飾磨郡の安相の里(姫路市の西の土山・今宿付近)に、「品太天皇が但馬から巡っておいでになった。」とあります。安相はアサコと訓み、但馬の朝来からの移住者が住んだ地だそうです。

 品太天皇が巡った地は、飾磨、揖保、神前、託賀、賀毛郡にあります。播磨の中央部に当たります。
 巡っている記事がない地は、賀古、印南、讃容、穴禾郡で、播磨の西側と東側です。

 但馬には葦原志挙乎命と争った天日槍命が但馬の伊都志(出石)に行きましたが、彼が品太天皇と形を変えて再登場というイメージでしょうか。

[10593] Re[10587][10586]: 名草戸畔本 電子書籍最新バージョン  なかひら まい [Url] 2011/01/29(Sat) 15:03 [Reply]
神奈備さま

素敵なメールをありがとうございます。
初詣に名草戸畔にまつわる神社を全部参拝されたとは、うらやましいです!
玉津島神社の丘(小山?)からは名草山を遙拝したことはあります。
たしかに、片男波からの方がいい感じかもしれません。
ぜひ観てみたいです。

> 従姉妹からのメール一部を紹介します。
>
> 初詣も いつもと違って 名草神社 内原神社 中言神社からはじまって 宇賀部神社 杉尾神社 千種神社とまわりました。
>
>
> 和歌浦の片男波近辺より名草山をながめ 一句
>
>       古代史にこころあそばせ初山河     のぶ子
>
> この本には 名草山の神奈備の姿が マリーナからがいいって書いてましたけど 私は対岸の 和歌浦 片男波ちかくからの名草山の姿が 特に早朝の日が昇るころ は一番だと思ってます。
>
> まい  さんにぜひ見ていただきたいくらい荘厳です。
>
>

[10592] Re[10591][10590]: お燈まつり  琉球松 2011/01/29(Sat) 10:12 [Reply]
 訂正

 "「花の窟屋」からも粉々の銅鐸が出土" 。。。これは誤りでした。
 "近くから出土"ということであれば、コトビキ岩の側をさすのでしょう。

 いつもご迷惑をかけます。しかし、花の窟からも銅鐸が出る可能性は大きいと考えます。出雲の比婆山も神奈備山と見なすことができそうですし、銅鐸とイザナミの関係は強いと思いますがどうでしょうか。

[10591] Re[10590]: お燈まつり  琉球松 2011/01/28(Fri) 22:50 [Reply]
 知人のダイバーによれば「多くの鮫は雌雄ペアで行動する」との事。
 高知県の雌雄の現役銅鐸と重ねて考えると、花窟神社と神倉神社の関係は面白そうです。

[10590] お燈まつり  神奈備 2011/01/28(Fri) 15:37 [Reply]
 銅鐸で頼りにしているサイト
http://homepage1.nifty.com/moritaya/syutudo2.html
によりますと、近くでは神倉神社のコトビキ岩の側から銅鐸の破片がでています。

花窟神社と神倉神社とは男女ペアの磐座と言えるようです。
余談ですが、2月6日の夜にお燈まつりが行われます。見学に行く予定です。

[10589] Re[10588][10585][10584][10583]: 八幡大菩薩  琉球松 2011/01/28(Fri) 14:49 [Reply]
"神は死なないからなのか?" 。。。

 イザナミというお方は亡くなることで神になられた。っていうのはどうでしょうか?
 記紀はそれぞれ「命・尊」と使い分けているのも気になりますよね。
「神は人なり」は別の意味かもしれませんが、神々の原型は尊い方々、あるいは尊いモノだったと考えていいと思います。

 有馬村の「花の窟屋」からも粉々の銅鐸が出土しています。ウジが集り朽ち果てたイザナミは土中に葬られた銅鐸と解釈することも可能ではないでしょうか。

[10588] Re[10585][10584][10583]: 八幡大菩薩  神奈備 2011/01/28(Fri) 09:44 [Reply]
> 神は死なないからなのか?

 『紀』には、「イザナミ尊はお亡くなりになった。」と書かれていますが、住む世界を黄泉の国に移ったという感じです。ただし、一書(第五)に、「紀伊国の熊野の有馬村に葬った。」とあり、いささかあいまいな所です。神社もあります。
 阿波国美馬郡の式内社
 伊射奈美神社

 イザナギ尊はあの世に赴こうとしておられた。そこで幽宮を淡路の知に造って、静かに永く隠れられた。大国主も同様で、これが神の基本スタンスなのでしょう。
 淡路国津名郡の式内大社
 淡路伊佐奈伎神社

 稚日女尊も死んでいます。
 摂津国八部郡の式内社
 生田神社 『神功紀』稚日女尊が教えていわれるのに、「自分は活田長峡国に居りたい。」と。

 天稚彦も矢が胸にあたって、たちどころに死んでいます。
 出雲国出雲郡の式内社
 阿須伎神社[あすき]同社天若日子神社

 神も「死ぬ 亡くなる」と表現されることがあるようですが、やはり古社に祀られているようです。

[10587] Re[10586]: 名草戸畔本 電子書籍最新バージョン  神奈備 2011/01/28(Fri) 08:38 [Reply]
従姉妹からのメール一部を紹介します。

初詣も いつもと違って 名草神社 内原神社 中言神社からはじまって 宇賀部神社 杉尾神社 千種神社とまわりました。


和歌浦の片男波近辺より名草山をながめ 一句

      古代史にこころあそばせ初山河     のぶ子

この本には 名草山の神奈備の姿が マリーナからがいいって書いてましたけど 私は対岸の 和歌浦 片男波ちかくからの名草山の姿が 特に早朝の日が昇るころ は一番だと思ってます。

まい  さんにぜひ見ていただきたいくらい荘厳です。


[10586] 名草戸畔本 電子書籍最新バージョン  なかひらまい [Url] 2011/01/27(Thu) 11:54 [Reply]
神奈備さん、みなさま、こんにちは。
『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』電子書籍の最新バージョン(1.1)が発売されました。

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新たに写真を8枚追加。目次のリンクが分かりやすくなりました。既にご購入の方は、自動的にアップデートされます。

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[10585] Re[10584][10583]: 八幡大菩薩  佐々木 2011/01/26(Wed) 21:00 [Reply]
 いつも新鮮な話題、楽しいです。
>応神陵をこのような形で記述しているから、崩御の際に陵の記述を省略したとは考えにくいと思っています。

 応神紀41年春2月15日から、崩御場所には2説あることが理解できます。当時から「なぞ」があったのでしょう。
 なお宇治谷氏の「日本書紀(上)」講談社学術文庫では譽田陵(応神天皇陵)としています。
※ここで素朴な疑問:どこで崩御されたか明確にわからない?のに、陵をつくる慣わしがあったのでしょうか。神は死なないからなのか?

[10584] Re[10583]: 八幡大菩薩  神奈備 2011/01/26(Wed) 09:42 [Reply]
 どんたくさん こんにちは。
>
> > 応神天皇の陵が記載がないのはどうしてでしょうか。
>
> 雄略紀9年7月条に“蓬[クサカンムリ/累]丘の譽田陵”とあるのが応神陵のことだろうと思われます。


『日本書紀』巻十四雄略天皇九年(乙巳四六五)七月壬辰朔◆秋七月壬辰朔。河内國言。飛鳥戸郡人田邊史伯孫女者。古市郡人書首加龍之妻也。伯孫聞女産兒。往賀聟家。而月夜還。於蓬蔂丘譽田陵下。

 この文のこと。

 「譽田陵」は、実際には「譽田天皇の陵」なのでしょうが、ここでは「譽田」と呼ばれる地域にある陵としての記載ではないでしょうか。

 応神陵をこのような形で記述しているから、崩御の際に陵の記述を省略したとは考えにくいと思っています。


[10583] Re: 八幡大菩薩  どんたく 2011/01/25(Tue) 23:44 [Reply]
神奈備さん、こんにちは。 どんたく です。

No.10582 by 神奈備さん:

> 応神天皇の陵が記載がないのはどうしてでしょうか。

雄略紀9年7月条に“蓬[クサカンムリ/累]丘の譽田陵”とあるのが応神陵のことだろうと思われます。


[10582] 八幡大菩薩  神奈備 2011/01/25(Tue) 15:49 [Reply]
 『日本書記』には天照大神、天忍穂耳尊に陵の記載がありません。神だから陵は記載されていないと思われます。
 御陵の記載は『日本書紀』巻二神代下第九段本文に、瓊々杵尊の筑紫日向可愛之山陵が最初です。
 次の彦火火出見尊は日向の高屋山上陵。不合尊は日向の吾平山上陵。ともに本文に記載があります。
 こうして順番に歴代の天皇の陵が紹介されてくるのですが、不思議なことに応神天皇の陵については記載が抜けています。

 なお、応神天皇については、『古事記』では、陵は川内の恵賀の裳伏の岡と書かれています。

 陵の記載のない皇孫は神ですから、延喜式内社にまつられています。神社の祭神を神社名として見てみますと、豊前の香春神社三座の一座、忍骨命神社に天忍穂耳尊、天照大神は神社名にはなっていませんが、伊勢の太神宮ということでしょう。

 応神天皇の陵が記載がないのはどうしてでしょうか。
 1.記載漏れ。
 2.実は仁徳天皇と同一人物だから。
 3.八幡大菩薩宇佐宮に神として祭られているから。
 4.その他。

 可能性としては八幡大菩薩のことと見なすのが常識的です。

 天平勝宝元年(749)、八幡大神が入京して大仏を拝みました。その際に八幡大神に一品、比売神に二品の神階が授与されました。一品二品は皇族に与えられるものですから、八幡の神々は皇族、皇祖とされていたのかも知れません。宇佐八幡と香春神社の関係から、天忍穂耳尊とされていたのかも知れません。

 所が天平勝宝七年(755)、八幡神は与えられていた封戸や位田を朝廷に返上しました。八幡神は四国宇和嶺へ配流と成るのです。皇祖神を配流するでしょうか。配流先は、伊予の国です。愛媛県八幡浜市または瀬戸町の三机の八幡神社と見なされています。9年後に宇佐へ復帰しています。
 
 配流されたということは、この頃は、八幡神は皇祖神とは見なされていなかったということでしょう。宇佐地方の神で、香春岳の銅を支配していたことから大仏造営に日本の神々の先頭にたった神という認識だったのでしょう。
 
9世紀初頭には八幡神を太上天皇御霊と見なされるようになっていたそうです。聖武天皇霊とされていたのでしょう。
 承和十一年(844)『承和縁起』には、「大御神者、是品太天皇御霊也。」と在ります。応神天皇と見なされていたことが明記されるのです。

 元慶三年(879)に出来たともいわれる『住吉大社神代記』には、「八幡(耶波多)御子と曰す。誉田天皇と号す。」とあります。

 八幡神を応神天皇霊とするのは9世紀以降の話です。『日本書紀』が出来た720年にはそのような段階にはなかったのです。
 
 『日本書記』に、応神天皇の御陵の記載がないのは、何故なのでしょうか? 書き写す際に、八幡大神の事だから、御陵の場所を書いてあるのはおかしいと思った誰かが、書き写さなかったのが、今日まで伝わっているというようなことなのでしょうか?

[10581] Re[10579][10578]: 兎を祭神とする神社  神奈備 2011/01/22(Sat) 17:53 [Reply]
> 担当宮司さんの話『もしかしたら、この地区に疱瘡が流行って、白兎が祀られたかも』

 稲葉の素兎の神話は大国主が素兎に治療法を教えたことが要点であり、これが白兎神社が疱瘡、麻疹、外傷に霊験があるとされてきたぉうです。
http://www.lifence-inc.co.jp/daikoku/sinwa1.html

 大阪の土佐堀2丁目には出雲の松江候の屋敷で疱瘡神として名高い笠稲荷と鷺大明神が祀られていた。
http://taisha.jp/index.php?ID=1463

 この鷺(さぎ)と、兎(うさぎ)とは一字違い、ともに疱瘡神であったようです。

 なお、種痘をつくるのに兎を利用することがあったようですが、多分疱瘡神とは関係ないのでしょう。

[10580] 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  和歌山 2011/01/21(Fri) 21:48 [Reply]
 八幡神が託宣してすぐ金が出てくるのは、おっしゃるように既に出ていて蓄えていたのかもしれませんね。
>
>  >  更に良弁さんも宇佐八幡の大神氏も修験者として交流があったのかもしれません。
>
 八幡神が託宣してすぐ金が出てくるのは、おっしゃるように既に出ていて蓄えていたのかもしれませんね。
>  更に良弁さんも宇佐八幡の大神氏も修験者として交流があったのかもしれません。
>  金の出土状況は刻々良弁僧主に知らされ、その情報が宇佐の大神氏に先に伝わったと見ていいのでしょう。
>
 聖武天皇も怪しいですよ。大仏建立の計画段階から金等が不足するというのは分かっているはず。自分の目的を達成するために仕組んだ可能性もあります。金が入手できたことにより大仏が完成し権力を誇示できたわけですし民衆に人気のあった行基も見方に引き寄せ鑑真を招聘しました。行基や良弁を通じて宇佐や東北と交渉賞したかも?

[10579] Re[10578]: 兎を祭神とする神社  多美 2011/01/21(Fri) 18:02 [Reply]
 
>  拝殿の形がよく似ているように感じました。

瓦屋根の棟の井桁が透けて見える作りになっているようです。

担当宮司さんの話『もしかしたら、この地区に疱瘡が流行って、白兎が祀られたかも』

残りの3社も、近く参詣してみます。

[10578] 兎を祭神とする神社  神奈備 2011/01/21(Fri) 08:39 [Reply]
 玄松子さんが兎を祭神とする神社をブログにリストアップしてくれています。

 群馬県高崎市に多く鎮座しています。

 写真掲示板でTAMIさんが参詣記録をアップしてくれています。ありがとうございます。
 
 拝殿の形がよく似ているように感じました。

[10577] Re[10575][10574][10572]: 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  佐々木 2011/01/19(Wed) 22:32 [Reply]
 貼り付け漏れに今頃気づきました。
 豪雪のためか、インターネット環境が断続的です。日下部氏痕跡と金冠出土古墳の相関を記述した研究がありました。小妻裕子氏「日下部吉士の研究」同志社国文学13号 http://jairo.nii.ac.jp/0027/00015934
 お騒がせ致しました。

[10576] Re[10575][10574][10572]: 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  神奈備 2011/01/19(Wed) 20:47 [Reply]
 和歌山さん、佐々木さん、おつきあいありがとうございます。

 八幡神が託宣してすぐ金が出てくるのは、おっしゃるように既に出ていて蓄えていたのかもしれませんね。

 その2年前に良弁さんが大和国吉野の金峯山の蔵王権現に金を与えるように依頼しましたが、近江国志賀郡の石山の地で祈れば得られるだろうと教えられました。
 良弁さんは近江の百済志の出身で、陸奥の百済王とはつながりがあったと見ていいのでしょう。
 更に良弁さんも宇佐八幡の大神氏も修験者として交流があったのかもしれません。

 大仏を造るのに銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンを必要としたそうですが、陸奥での最初の発見は12kgですから、雀の涙です。大半は輸入したのか、それとも以降も発見が相次いだのでしょう。
 それにしても、この僅かな金の一部を宇佐八幡に奉納しています。ここいらにヒト芝居があったように感じます。

 金の出土状況は刻々良弁僧主に知らされ、その情報が宇佐の大神氏に先に伝わったと見ていいのでしょう。

[10575] Re[10574][10572]: 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  佐々木 2011/01/19(Wed) 09:50 [Reply]
和歌山さん はじめまして
いつも巧妙なコメント、楽しませて頂いております。
>裏で繋がっていたんでしょうか?金が出たのではなく、金を蓄えていたのかも! タイミングよく金が大量に出るのも出来すぎ!
 当時は自然な河川が残存していて、砂状になった金鉱石が河原のある部分に比重分鉱して大量に濃集していたのでしょう。
 もしかすると百済王さんは単なるピエロで、実際は大神一派と昇叙度合が一番低い人物、日下部深淵、つまり日下部氏が関わっているのかもしれませんね。

[10574] Re[10572]: 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  和歌山 2011/01/18(Tue) 23:24 [Reply]
>  それはともかく何故大神杜女は金が出ると予言出来たのでしょうか。陸奥ではその前から若干の金が採れていました。だからと言って予言にまでつなげるのは危険です。実際は「金が出た」ことをあらかじめ知っていたからとしか言いようがありません。
>
>  大神氏と百済王、どのような繋がりがあったのでしょうかね。
>
 裏で繋がっていたんでしょうか?金が出たのではなく、金を蓄えていたのかも! タイミングよく金が大量に出るのも出来すぎ!
>

[10573] オオゲツヒメ  神奈備 2011/01/16(Sun) 14:34 [Reply]
 国生み神話で伊予の二名島のうち、粟国は大宜都比賣と謂うとあります。また、素盞嗚尊が高天原かを追われた後、食物を乞うた神が大気津比賣神です。鼻口また尻より食物を取りだして素盞嗚尊に供えたので、素尊は穢汚していると思い、比売を殺します。

 同じ様な話が『紀』では、保食神を月読神が殺したとして述べられています。身体の各所から穀物が生じます。それが身体の部分名と生じた物の名が韓国語で対応していることはよく知られた話です。
頭(ソシマラ、ソシマル、ソシマリ)から牛(ソ)・馬(マル)
額(チヤ)の上に粟(チヨ)
眉(マンヨル)の上に蚕(マンヨル)
眼(ヌン)の中に稗(ヌイ)
腹(ペ)の中に稲(ピヨ)
陰部(ボデ。コンパト)に麦(ボリ)・大豆(コン)・小豆(パト)
だそうです。
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/kokugo03.htm

 石見国(島根県西部)によく似た話が伝わっているようです。(谷川健一著『古代史ノート』から)

 ソシモリ(朝鮮)の国にオオゲツヒメという五穀の神がいた。ある日のこと、荒ぶる神がやってきた。オオゲツヒメは荒ぶる神をもてなすために、目や鼻や尻からさまざまな穀物を出した。が、荒ぶる神のために切り殺されてしまった。オオゲツヒメはかけつけた乙子(末の子)の狭姫を枕元に呼んで「おまえは私の形見の品を持って、遠い東のうつくしい国に逃げていき、安らかに暮らしてくれ」というと息絶えた。

 オオゲツヒメの頭からは馬、目からは蚕、鼻からは大豆、原からは稲、陰部からは麦、尻からは小豆が生まれていた。仲良しの赤雁がやってきたので、狭姫はそれらの形見を持って赤雁の背に乗り、東の国に向かった。そうして海原をわたって、石見の益田市の近くの丘に降りた。そこを天道山といい、赤雁の地名もそばに残っている。狭姫と赤雁はさらに奧のサヒメ山に行き、辛みの稲、麦、豆の種をまいた。そこに乙子と種の地名が今も残っているといわれている。

 赤雁 島根県益田市にこの地名があります。


 阿波の国魂神は朝鮮半島の神であったと言う伝承が石見に残っていたということです。阿波と言えば忌部氏が浮かびますが、石見と忌部との関連については承知していません。

[10572] 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  神奈備 2011/01/15(Sat) 20:37 [Reply]
 大仏を造る材料の銅は豊前の香春岳と長門国の長登銅山が供給元だったようです。香春の銅については宇佐神宮が支配をしていたようで、時の神主の大神氏が牛耳っていたようです。それ以外に中国の銅銭や銅製の仏像(例えば河内知識寺)などが溶かされました。

 所が大仏の表面の金メッキのための黄金が不足しており、唐の国から輸入しようと考えていたようです。まさに遣唐使が派遣されることになっていました。

 そこに天平二十年(748)四月、「黄金は国内から出る。」と宇佐八幡神(大神杜女ら)が託宣をしました。実際に翌年百済王敬福が陸奥で採取した黄金九百両(約12kg)を献上したのです。その量で間に合ったかどうかは定かではありませんが、この託宣は宇佐八幡の名声を大いにあげたのです。

4097 大伴家持 すめろきの御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山に金(くがね)花咲く

 金メッキは金を水銀に溶かしてアマルガムを造り、これを大仏の表面に塗ってから表面を温めて水銀を蒸発させるとメッキになるようです。おかげで水銀のガスを吸い込んだ作業員は中毒になり、たくさん亡くなったようです。

 それはともかく何故大神杜女は金が出ると予言出来たのでしょうか。陸奥ではその前から若干の金が採れていました。だからと言って予言にまでつなげるのは危険です。実際は「金が出た」ことをあらかじめ知っていたからとしか言いようがありません。

 大神氏と百済王、どのような繋がりがあったのでしょうかね。


[10571] Re[10570][10568][10567][10566]: 談山神社について  PONTA [Url] 2011/01/08(Sat) 21:15 [Reply]
>三重県四日市に穂積神社が鎮座、これも談合の宮と呼ばれていりようですね。
愛知県豊橋市談合町の談合神社は、河内国からやってきた人が建てた神社で、?(不明)→神明宮→談合宮→談合神社と社名が変わったようです。

[10570] Re[10568][10567][10566]: 談山神社について  神奈備 2011/01/08(Sat) 08:35 [Reply]
談合と言う言葉は現在では業者簡での悪巧みの相談のイメージですが、昔は相談のことだったようですね。
出雲に美談神社が鎮座、国譲りの談判を言ったのかも。
三重県四日市に穂積神社が鎮座、これも談合の宮と呼ばれていりようですね。

[10569] Re[10566]: 談山神社について  PONTA [Url] 2011/01/08(Sat) 07:29 [Reply]
> 多武峯縁起を調べています。
「多武峯縁起絵巻」は有名ですね。
特に蘇我入鹿暗殺の場面は、日本史の教科書とか資料集に載っています。
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y06/tounomine/

[10568] Re[10567][10566]: 談山神社について  PONTA [Url] 2011/01/08(Sat) 07:14 [Reply]
「談山」の名の由来は、公式サイトでは、通説通り「西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。」としていますね。山頂には「大化の改新の談合の碑」が建っています。
http://www.tanzan.or.jp/

愛知県豊橋市に「談合神社」があり、関係あるのかと思って調べてみたら、無関係でした。

[10567] Re[10566]: 談山神社について  神奈備 2011/01/07(Fri) 16:54 [Reply]
多武峰寺は御破裂梁南にあった寺で、明治維新後に談山神社になりました。

談山の名は鎌足神像を祀った惣社に談峰権現の賜号を受けたことに由来するのでしょう。
「談」は種々の色糸で組んだ紐のようなものを言うようで、大織冠のイメージなのかも。



[10566] 談山神社について  渡辺真 [Url] 2011/01/07(Fri) 11:56 [Reply]
多武峯縁起を調べています。
神名帳の何処に記載されているのでしょうか。目次を見ても分かりません。
ご教授下さい。

[10565] 豊中歴史同好会 1月8日  神奈備 2011/01/06(Thu) 17:21 [Reply]
テーマ 長屋王の変と光明皇后
講師 堺女子短期大学准教授 水谷千秋先生
場所 4Fルシオーレホール
14時ー16時
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[10564] サイの神  神奈備 2011/01/06(Thu) 09:35 [Reply]
 佐比の神の場合は佐比持神としますと、神武兄の稲飯命の名となってきて、刀剣や和邇魚とされます。

 所謂サイの神は賽神や歳神の字があてられ、道祖神のことをいうようです。村の入口に立てておいて、病魔などの侵入をくい止める役割があったようです。「遮る」神ということ。

 現代では検疫、交通信号、宮古島で見た交差点に建てられていた警察官の人形、などを思い浮かべます。

[10563] Re[10562][10561][10560]: 半分の人が死ぬ  琉球松 2011/01/05(Wed) 12:54 [Reply]
 神奈備さん、あいさつが遅れました。
 明けましておめでとうございます。今年もどうぞ色々ご教示下さい。

 「佐比」は「サイの神」でしょうか?「御蔭石」もそうでしょうけど、 石はようするに銅製品の鋳型になりうるわけですから金属と同等の意味があるんでしょうね。

 ところで、サイの神はこちらではピンとこないんですけど、どんな感じの神なんでしょうか。国境警備隊のようなものでしょうか?

[10562] Re[10561][10560]: 半分の人が死ぬ  神奈備 2011/01/05(Wed) 10:15 [Reply]
>  名護博教授は。。。"各地の風土記などに「十人来れば、五人は生かし、五人は殺す」と表現された「荒ぶる神」は、出雲大神「天津鰐の大神」また時には「目一つの鬼」などと呼ばれた" と書いています。


通行人を半分殺すアラブル神の記事が風土記などに取り上げられています。一般には通路の要所、険しい所、河川の横のようないかにも危なそうな所ですが、宇佐のように金属精錬の場所も半死半生の場所に選ばれています。
次の例はどうやら金属に関係する場所ではないかと思わせます。

播磨風土記揖保郡意此川条
播磨風土記揖保郡佐比岡条
上記には神尾山が共通でそこに出雲之大神・出雲御蔭大神の名が出てきます。御蔭大神は一般には天之御影命で近江の三上山の神で、製鉄・鍛冶の神とされています。


播磨國風土記神前郡生野条
古くからの鉱山として知られています。重金属を含む岩石があるようです。


筑後国基肄郡姫社郷条
姫社の神は天日矛の妻であった神です。まさに金属の神。


筑後風土記逸文
昔この堺の上に、麁猛神があった、往来の人は半数は助かり、半数は死んだ。その数は極めて多く、「人の命尽くしの神」といった。
場所としては現在の筑紫野市の築紫神社の辺りと思われます。築紫神社の祭神は五十猛命の可能性があり、辛嶋氏が祖神を宇佐まで持ち込んで、鍛冶の神として現れたとすれば、宇佐の件と同じとなります。

[10561] Re[10560]: 半分の人が死ぬ  琉球松 2011/01/04(Tue) 23:22 [Reply]
 名護博教授は。。。"各地の風土記などに「十人来れば、五人は生かし、五人は殺す」と表現された「荒ぶる神」は、出雲大神「天津鰐の大神」また時には「目一つの鬼」などと呼ばれた" と書いています。
 「目一つの鬼」は、鍛冶屋に対する恐怖の部分の表現でしょうから、金属製武器でしょうか。

 『宇佐託宣集』の "半分の人が死ぬ" 。。。敵とみなせば殺傷するが味方は大事にするって感じがするんですがどうでしょうか。敵味方いりみだれた時代の名残りじゃないでしょうかね。

 イザナミが「(砒素で?)千人を殺す」と言うと、イザナギはその半分を上乗せ?して「千五百の産屋を造る」と宣言しますね。かつての夫婦はもはや敵対関係。刀自に殺されないよう注意しなくては(笑)。

[10560] 半分の人が死ぬ  神奈備 2011/01/03(Mon) 16:51 [Reply]
宇佐八幡宮の託宣を纏めた『宇佐託宣集』は鎌倉後期に編集されたもので、重要な文献ですが、どこまで古代のことが正確に記録されているかどうか、疑問があります。

 その中に、八幡神の出現の話として鍛冶翁のことがあります。これによりますと、菱形池の付近に、八つの頭が一つの身体についている鍛冶の翁がいて、近づく者は半数ほど死んだとの話が載っています。

 大仏鋳造に力を貸した八幡神で、その銅は50km離れた香春岳から採取していたと考えられていますが、国東半島の根元の真玉銅山は15kmの距離で、硫砒銅鉱が産出した鉱山があったそうです。ここの鉱石を製錬しますと、そのピロセスで大量の砒素が排出されます。これらの作業で多くの人々が亡くなったことを、近づくと半分の人が死ぬと言われたのではと考えられます。
 頭が八つとは、炉が八つか、煙突が八本なのか、八咫大蛇を思わせる姿です。

[10559] 神鹿が・・・  奈良 2011/01/02(Sun) 18:50 [Reply]
 昨年、奈良春日大社で鹿を蹴っている人がいました。鹿は神の使い、神鹿として奈良では大事にされてきました。蹴った人は春日大社の社務所の職員通用口へ入って行きました。近くに居た人と共に愕然としました。鹿は餌を求めて寄っていったようです。まさか春日大社の関係者が・・・

[10558] Re[10557]: 神奈備さま、皆様  和歌山 2011/01/02(Sun) 15:29 [Reply]
みなさま。新年あけましておめでとうございます。初詣奈良公園付近は人で一杯です、

> 名草山周辺に銅鐸がないか、とのお話、
> 大変興味深いですね。
> 名草山の南側、亀ノ川下流は銅鐸はありませんが、銅鐸型土製品、鳥形木製品など
祭祀関係と見られるものが出土していますし、前方後円墳もありました。なぜ、銅鐸
が無く銅鐸型土製品が出土しているのか、また銅鐸型土製品と鳥型木製品は県下でも出土例は少なく、この地域の特殊性である。紀ノ川や有田川、日高川流域から銅鐸は出土しているのに亀ノ川だけ出土していない。

[10557] 神奈備さま、皆様  なかひら まい [Url] 2011/01/02(Sun) 14:24 [Reply]
明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願いします。

名草山周辺に銅鐸がないか、とのお話、
大変興味深いですね。

[10556] 旧年はお世話になりました。  神奈備 2011/01/02(Sun) 10:13 [Reply]
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

> それと、名草山が神奈備山であるとすれば、島根県荒神谷遺跡のように銅鐸の出土例はないでしょうか?「備」を「ヒ(樋)」と解釈し、筒状の銅鐸と関連ずける説もあります。

 仏経山頂上と荒神谷との距離は3km程度です。名草山と3km以内での出土例は、

和歌山市太田黒田50 外縁紐4区画袈裟襷文 30.9cm(29.9)
和歌山市有本地先紀ノ川河川敷 扁平鈕流水文 44.6cm
旧海草郡西山東村大字吉禮凪村 扁平鈕6区画袈裟襷文 59.7cm

が該当するようです。

 名草郡の式内社に静火神社が鎮座。名草平野に水をひくための「沈んだ樋」を神格化したものとの説があります。

 思いつきですが、徳島市の眉山も名草山と同じように古代は海の中だったようで、神奈備山だったのが、省略されて眉山になったのかも知れません。この山の周辺からも銅鐸が数個出ているようです。


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