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掲示板のログ(平成二十三年 四月〜六月 2011.4〜6)お名前の敬称は省略しています。

[10815] 浪花の神社史3.国譲り二番手の天若日子の物語り  神奈備 2011/07/01(Fri) 09:34 [Reply]
 高天原の神々は葦原中国を奪うべく、天若日子を遣わした。しかし大国主神の娘の下照比売を娶って自分が葦原中国の王たらんとした。お供に天探女がついて来ていた。高天原からの問いあわせの使者の鳴女を矢で射殺した。矢はつきぬけて高天原に届いた。若日子に邪心があるなら、この矢が当たるだろうと投げ降ろした。矢が胸にあたって死んだ。葬儀に下照比売の兄の阿遅鋤高日子根が来た。彼は天若日子と瓜二つだったので、死者と間違われ、遺族が抱きついた。怒った阿遅鋤高日子根は葬儀の小屋を切り伏せた。それは美濃に跳んでいった。

阿遅鋤高日子根神 放出 阿遲速雄神社 葛城 高鴨神社
下照比売 八尾 長柄神社跡 鶴橋 比賣許曾神社(祭神が阿加流比売から下照比売に変わった。)

神蹟 磐船旧蹟 味原に石船があり、往年、下照姫神または天探女降臨の跡と云う。

『万葉 0292』 久方の天(あま)の探女(さぐめ)が岩船の泊てし高津は浅(あ)せにけるかも

『摂津国風土記逸文』 難波の高津は、天稚彦が天くだった時、天稚彦について降った神、天探女が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津というのだ。


 なお、天若日子とは、天照大神の3男の天津彦根命のこととする見解があります。長男が地上の支配者として、まず次男の天穂日命をさしむけたが、これも大国主命についてしまって失敗、次ぎに誰を派遣しようかと相談して天若日子が登場したのですが、3男の天津彦根命や天照大神の生んだ男子よりも天若日子が優秀だとのことです。天壌無窮の家系のはずの天照大神家も出来の悪いのがいると言うことでしょうか。実際には出来の悪い天皇を多く排出している家系ですが、神話時代からとはこれ如何。
 で、実際に大国主命のもとに派遣されたのが3男の天津彦根命であったのでしょう。その天津彦根命が高天原を裏切ったと言うことになったので、これを隠すために天若日子をでっちあげて、かれの仕業にみせかけたというのが実相ではなかったのかと思います。

 傍証になるのでしょうか、近江の彦根に近くに、天若日子を祭る神社が5社もあります。
犬上郡豊郷町  天稚彦神社
彦根市三津町  勝鳥神社
愛知郡秦荘町  安孫子神社
 滋賀県以外では岐阜県6社、これは阿遅鋤高日子根は葬儀の小屋をとばした美濃国だからでしょう。大阪府には見あたりません。


[10814] Re[10813][10812]: 浪花の神社史2.蛭子誕生と葦舟で流すこと  神奈備 2011/06/30(Thu) 13:47 [Reply]
> そうでもなければ、天皇の即位に関わるほどの重要な地とは思えないですよね。

 縁MADOKAさんは、「茅渟の海は王権の海。」と託宣していました。国生みの海、八十島祭の海、遣唐使の母港、住吉大神が統べる海、むべなるかなです。

 難波津は、山代川(淀川)と大和川の水が通過する海です。伊賀から大和、山代、摂津、河内と畿内の殆どの水が流れる場所です。天満宮の場所は水を浄化する神の坐す場所だったのかも知れません。全ての穢れを飲み込む速佐須良比売が鎮座していたような。

 聖武天皇などは体調を崩すと難波津に来ています。体内の穢れを流す目的があったのでしょう。これが八十島祭のルーツだったように思います。もっとも鎌倉時代の後半には中止されています。天皇の即位に決定的にかかわるほどの祭事ではなかったのかも。

[10813] Re[10812]: 浪花の神社史2.蛭子誕生と葦舟で流すこと  琉球松 2011/06/29(Wed) 21:13 [Reply]
 "葦船に入れて" 流されたのは、淀川下流の沼地で葦群生地域に浮かぶ八十島でしょうか。

 水蛭子を役にたたない島とし、もう一人?のアハシマが「粟島・大島・青島・etc 」だとすれば、拠点とはなりにくい地崎の小島とは考えられないでしょうか。

 また、『国生み』の文面からは "小さい" とみられますから、粟島に弾かれて?常世国へ帰った「スクナヒコナ」の素性とも合いそうですよ。そうでもなければ、天皇の即位に関わるほどの重要な地とは思えないですよね。

 「みとのまぐはひ」も、淀川河口付近で複数の河川が合流するような印象を受けます。

[10812] 浪花の神社史2.蛭子誕生と葦舟で流すこと  神奈備 2011/06/29(Wed) 08:55 [Reply]
 伊邪那岐命と伊邪那美命は、「みとのまぐはひせむ」として、伊邪那美命、先に「あなにやし、えをとこを」と言ひ、後に伊邪那岐命、「あなにやし、えをとめを」と言ひき。それで生まれたのが、水蛭子。

 イメージとしては、骨のない子。この子は葦船に入れて流し去てき。

 国生みのトップで水蛭子が生まれています。それを人間か動物に解釈するのが通例ですが、実際には底なし沼のような島なのか場所なのか、であったのかも。
 とりあえず、神様であり、人間のようなものとして考えてみます。

http://kamiza.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-6596.html
 
 オノゴロ島からでしょうか、流された水蛭子が流れ着いたとの伝承を持つ神社があります。
 西宮 西宮戎神社 が 関西では有名ですが、堺市 石津太神社 にも伝承が残っています。

 蛭子はエビス神になりました。エビス神はなぜか商売繁昌の神になりました。
 漁民の奉じる神で大漁を祈った神です。神としては、鯨、イルカなど。また男の上向きの水死体、女の下向きの水死体をエビス神としたようです。海岸のエビス神の祠は水死体をまつったところが多いようです。

 漁民が漁に行く途中に水死体を発見した場合は、目印の旗などを立てておき、帰りに港に引っ張ってくると言いいます。

[10811] 住吉セミナー のお知らせ  神奈備 2011/06/28(Tue) 20:04 [Reply]
日時 平成23年 7月 4日(月) 午後2時〜4時
講演 伊耶那伎大神の禊祓と墨江の三前の大神
講師 國學院大學大学院客員教授 三橋健先生 
会場 住吉大社吉祥殿 聴講¥200円


(三橋健先生 神祇関係の大家です。)

[10810] Re[10809][10808][10806]: 浪花の神社史 1.国生み神話  琉球松 2011/06/28(Tue) 16:01 [Reply]
 "産道は難波堀江" 。。。これは難産だったでしょうね。帝王切開ですからね(笑)。

 そう言えば、この工事に河童が関わってますよ〜、あっ、いえいえそれはまたの機会に。。。

[10809] Re[10808][10806]: 浪花の神社史 1.国生み神話  神奈備 2011/06/28(Tue) 09:17 [Reply]
> 「淡路島と琵琶湖」もそうですが、「淡路島と大阪湾」の結婚も候補に入れていいんじゃないでしょうか。

 この視点は目から鱗。八十島祭は大阪湾と切り離せない祭り。

 淡路の海人が難波の宮廷に持ち込んだのが国生み神話と言われています。産道は難波堀江、国生みに淡路島は不可欠、また大阪湾も不可欠。いいですね。

[10808] Re[10806]: 浪花の神社史 1.国生み神話  琉球松 2011/06/27(Mon) 23:32 [Reply]
 "海に土砂が流れ込んで島々が形成されていくこと" 。。。これはナイスですね。地形としての視点。

 僕のイメージは、「別府湾など大分県のリヤス式海岸(イザナミのホト)・佐多半島など愛媛県のリヤス式海岸(イザナミの男根)」なんですけどどうでしょうか。すでに成立していた九州の女王勢力と、瀬戸内海の海人勢力の連合。
 船上からの地形感覚に歴史を入れ込むとする解釈はありえる事ですね。
 これは高天原にも関わるんでしょうけど、九州側からアプローチしたために、第1回目の協議は失敗?。。。

 「淡路島と琵琶湖」もそうですが、「淡路島と大阪湾」の結婚も候補に入れていいんじゃないでしょうか。

[10806] 浪花の神社史 1.国生み神話  神奈備 2011/06/27(Mon) 20:16 [Reply]
吾が身は成り成りて、成り合はざる処あり」と答へたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は成り成りて、成り余れる処あり。かれ、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合はざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。
 島々を生むのは、河内湖や大阪湾に島ができ、つながって国土を形成するイメージ。
淡路島に淡路伊佐奈伎神社。琵琶湖畔に多賀大社。

 淡路島と琵琶湖は点対照、そのポイントが吹田市山田付近。
伊射奈岐神社二座 吹田市山田、吹田市佐井寺

 国生み神話のイメージは、難波の海に土砂が流れ込んで島々が形成されていくこと。
『仁徳記』 おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島 淤能碁呂島(オノゴロシマ) 檳榔(アヂマサ)の 島も見ゆ さけつ島見ゆ《54》
http://www.google.co.jp/imgres?imgurl=http://lucky2zacky.img.jugem.jp/20080409_253634.jpg&imgrefurl=http://lucky2zacky.jugem.jp/%3Fcid%3D18&usg=__ZI7770GEfnDZoRqPzPOvuSOhKZo=&h=300&w=400&sz=87&hl=ja&start=24&zoom=1&tbnid=8AtNeVTRsrVaFM:&tbnh=115&tbnw=164&ei=TWQITrORM-PQmAW32OzEDQ&prev=/search%3Fq%3D%25E6%25B7%25A1%25E8%25B7%25AF%25E5%25B3%25B6%25E3%2580%2580%25E7%2590%25B5%25E7%2590%25B6%25E6%25B9%2596%25E3%2580%2580%25E5%259C%25B0%25E5%259B%25B3%26hl%3Dja%26inlang%3Dja%26sa%3DG%26biw%3D859%26bih%3D560%26oe%3DShift_JIS%26tbm%3Disch&itbs=1&iact=rc&dur=266&page=3&ndsp=13&ved=1t:429,r:7,s:24&tx=85&ty=74

http://kamnavi.jp/jm/kawatiko.jpg

[10806] 浪花の神社史 1.国生み神話  神奈備 2011/06/27(Mon) 20:16 [Reply]
吾が身は成り成りて、成り合はざる処あり」と答へたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は成り成りて、成り余れる処あり。かれ、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合はざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。
 島々を生むのは、河内湖や大阪湾に島ができ、つながって国土を形成するイメージ。
淡路島に淡路伊佐奈伎神社。琵琶湖畔に多賀大社。

 淡路島と琵琶湖は点対照、そのポイントが吹田市山田付近。
伊射奈岐神社二座 吹田市山田、吹田市佐井寺

 国生み神話のイメージは、難波の海に土砂が流れ込んで島々が形成されていくこと。
『仁徳記』 おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島 淤能碁呂島(オノゴロシマ) 檳榔(アヂマサ)の 島も見ゆ さけつ島見ゆ《54》
http://www.google.co.jp/imgres?imgurl=http://lucky2zacky.img.jugem.jp/20080409_253634.jpg&imgrefurl=http://lucky2zacky.jugem.jp/%3Fcid%3D18&usg=__ZI7770GEfnDZoRqPzPOvuSOhKZo=&h=300&w=400&sz=87&hl=ja&start=24&zoom=1&tbnid=8AtNeVTRsrVaFM:&tbnh=115&tbnw=164&ei=TWQITrORM-PQmAW32OzEDQ&prev=/search%3Fq%3D%25E6%25B7%25A1%25E8%25B7%25AF%25E5%25B3%25B6%25E3%2580%2580%25E7%2590%25B5%25E7%2590%25B6%25E6%25B9%2596%25E3%2580%2580%25E5%259C%25B0%25E5%259B%25B3%26hl%3Dja%26inlang%3Dja%26sa%3DG%26biw%3D859%26bih%3D560%26oe%3DShift_JIS%26tbm%3Disch&itbs=1&iact=rc&dur=266&page=3&ndsp=13&ved=1t:429,r:7,s:24&tx=85&ty=74

http://kamnavi.jp/jm/kawatiko.jpg

[10805] Re[10804]: 高天原は我上野にある  神奈備 2011/06/25(Sat) 09:05 [Reply]
>  高天原は我上野にある

 上野国は興味深い地域です。水銀朱で話題になっている大和磐余の桜井茶臼山古墳から卑弥呼が遣いをだした景初三年のつぎの景初四年(=正始元年)の銅鏡が出土しています。この年にはには魏国から遣いがやってきています。
 この三角縁神獣鏡と同范鏡が群馬県高崎市の蟹沢古墳から出ています。卑弥呼の時代の上野はこのような貴重な鏡を所有する力のある王がいたようです。

 纏向遺跡を邪馬台国と見なす説があり、有力な説だと思いますが、その纏向からは東海地方の土器が多く出土しています。纏向=邪馬台国の場合、狗奴国はどこになるのでしょうか。東海や関東では土器や鏡の説明がつかないように思います。

[10804] 高天原は我上野にある  多美 2011/06/24(Fri) 10:40 [Reply]
突然ではありますが、ローカル宣伝

 高天原は我上野にある

我毛野西南の角知々夫、科野の三國相集る所今三國山(1960)米といひ北麓に平坦方里の地があって遠い古へより高天原と稱した。尚其中の同地の民毎年大幣を立てた所を御幣平と云つてゐる。其附近に沼があつて長六十間、深五丈。今は水涸れて底に小竹が茂生してゐる。嘗て此所に於て獵夫が古碑を發見したといふが今に傳らないのは遺憾である。按ふに此高天原は所謂我神代の神集、神謀の行はれた所であらう。此高天原は今の我神流川、武州荒川、信州千曲川の三水源地で神代の古へ皇御神にまつろはぬ荒振神を伐りたるに其頭の落ちたる方を神流川、體の行きたる方を荒川、血の流れたる方を千曲川と稱したといふ。一面より見る時は上武信三國の會する所殊に二千米の高地に神代人種の住居せるを疑ふべきも我上州山中といひ、武州秩父といひ、信州佐久といひ何れも神代より開拓された證として多くの石器、神代土器其他の考證物を出してゐる。尚神流川に「神行」「神原」「神寄」等の地名があって何れも傳説を有してゐる。此高天原が土地の口碑には克く傳へてゐたが山間地の爲今まで世に普ねく知られなかったものである。
 依て茲に廣く紹介し判斷を乞ひ、尚研究の餘地を存するものであるが高天原は我上野にある。松田竅@   ※文中「神」は何れも「示・申」

大正十五年「上毛及上毛人第百五號」より

たまたま、白兎疱瘡神ルーツを調べているうち遭遇しました。
またこれに対する反論をありましたが、双方?と思いました。

佐久と神流川と秩父の源流で2000メートルというと、近くに三国峠と云う所がありますが、旧石器時代にはこの辺りを通るルートがあったようです。
黒曜石・稲作・古墳とそれぞれルートがあったようです。

[10803] Re[10802][10801][10800][10797][10796][10795][10794][10780]: 神武東征の道  とみた 2011/06/23(Thu) 13:39 [Reply]
佐々木さん お久しぶりです

>  産地のデータは未公表だと思います。今年度国立環境研究所の武内先生が公表されると思いますが。
> ほかに
>
>  http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf117-5/p948-952.pdf
読みました。なかなか面白い論文でした。

出雲の西谷三号墓(四隅突出墓)の朱は、中国山西省と思っていましたが、陝西省と書かれていました。訂正します。

山西省は同行山脈の西側、東側が山東省です。陝西省なら長安(現、西安)のある地方ですね。

丹後でも今井赤坂の朱と大風呂南の朱と違うと書かれていました。

大風呂南は中国陝西の朱で今井赤坂は伊勢の丹生の朱とのこと。

弥生時代のガラスの源流を連想します。

大風呂南のものは漢代のカリガラスで、今井赤坂は戦国時代の鉛バリュウムガラスです。

交易のネットワークが中国ー朝鮮ー倭国の間で多様であった証拠でしょう。

弥生中期後半(紀元前1世紀)には銅鐸の外縁丑式2式に使う銅も、それまでの朝鮮半島西部産出銅から中国黄河中流域の産出銅に替るそうです。

桜井茶臼山は水銀の重さ200kg、鏡81枚。椿井大塚山は水銀10kg、鏡36枚
古墳時代前期の初め(4世紀前半)になると大和宇陀の水銀を使うようです。

[10802] Re[10801][10800][10797][10796][10795][10794][10780]: 神武東征の道  佐々木 2011/06/22(Wed) 22:25 [Reply]
>  楯築墳丘墓の30kg、出雲の西谷三号墓で10kg、椿井大塚山で10kg、大和天神山で41kgと大量に副葬されている水銀朱は、墓主の支配下の鉱山から出たものと考えるのが素直なように思いますが、産地を調べたデータはあるのでしょうか。

 産地のデータは未公表だと思います。今年度国立環境研究所の武内先生が公表されると思いますが。
ほかに

 http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf117-5/p948-952.pdf

椿井以外のデータがあります。
 おそらく神奈備さんの指摘どおりだと思います。20を越えるもののみ異種(中国)
とすべきでしょう。
 おそらくホットスポットとの距離やその後の火山活動の有無で−から+に変化するだけのように思います。−から+と数値がばらついているのは中央構造線に近い産地という意味なのかも?

[10801] Re[10800][10797][10796][10795][10794][10780]: 神武東征の道  神奈備 2011/06/22(Wed) 09:37 [Reply]
 岡山県の楯築墳丘墓からは30kgを越す水銀朱が出土しています。よく精製されている朱のようです。
 これが中国辺りから持ち込まれたものとしますと、交換した物は何だったのでしょうか。
 この時代の墳丘墓としては最大の規模の墓で、倭国王の墓と見なしてもいいのでしょう。107年、倭国王帥升が生口160人を後漢安帝に献じていますが、これによって下賜されたものかも知れません。しかし墓に埋めてしまうものが160人に替えられるものでしょうか。後に貢ぐ生口の人数は僅かな数になっていますし。

 倭人伝の中には、「其山有丹」との文言があり、列島でも水銀朱が採取されていたことが標されています。

 水銀は神仙思想では、水銀朱を原材料として「神丹」、「金丹」、「大丹」などの飲み薬が造られ、勿論有毒ですが、服用されては王様が亡くなったりしていたようです。当時は水銀が毒であるとの認識はなく、不純物が混ざっているからと、列島の水銀朱が珍重されたと聞いたことがあります。今日でも、大陸からの旅行者は薬を買って帰るそうで、今も昔も変わりのない風景が見られるのでしょう。

 楯築墳丘墓の30kg、出雲の西谷三号墓で10kg、椿井大塚山で10kg、大和天神山で41kgと大量に副葬されている水銀朱は、墓主の支配下の鉱山から出たものと考えるのが素直なように思いますが、産地を調べたデータはあるのでしょうか。

 中央構造線は三重県から愛知県、長野県とつながっているようで、関東には届いていないようです。
http://kamnavi.jp/ny/nyuiti.htm

[10800] Re[10797][10796][10795][10794][10780]: 神武東征の道  佐々木 2011/06/20(Mon) 18:08 [Reply]
>  中央構造線は関東まででしょうか、そこから先は蝦夷の国です。蝦夷の国では取れなかったんでしょうか?なんか水銀対金という構図のようにも見えます。

辰砂鉱のイオウ同位体比の研究成果は以下のとおりです。
ダウンロードして頂いて、46pのtable.2から北海道は幌加内、明治鉱山、岐阜徳山鉱山が+7〜9を示していて興味深いです。大阪千早鉱山も+3も興味深いです。中国に似ている?
 ※蝦夷地、青森北海道でも辰砂鉱の実績があります。
http://kurepo.clib.kindai.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=AN10074306-20080229-0041   

[10799] Re[10796][10795][10794][10780]: 神武東征の道  佐々木 2011/06/19(Sun) 22:41 [Reply]
 とみたさん
 ごぶさたです。
 T先生はご退職され、間際にはいろいろと仰せでした。おそらく書籍等になるかと拝察。水銀は地質学的には四万十帯分布地域と美濃丹波帯分布地域で採掘できるようです。未測定の若狭丹後の同位体測定が待たれるところです。美濃丹波帯地域に属する若狭丹後はおそらく地質構造発達史から推定すると中国大陸に近い組成ではなかろうかと思います。
 なお水銀の同位体測定の研究は国立環境研究所の武内先生がなさっているようですが、若狭丹後をはかっておられればいいのですが。

[10798] Re[10797][10796][10795][10794][10780]: 神武東征の道  和歌山 2011/06/19(Sun) 21:33 [Reply]

大和朝廷は水銀の利権を握っていたというのなら、中央構造線の範囲がぞの勢力範囲ということでしょうか!

[10797] Re[10796][10795][10794][10780]: 神武東征の道  和歌山 2011/06/19(Sun) 21:24 [Reply]


> 奈良文研(不確か)の今津節生の辰砂鉱の分析があります。
中央構造線で鉱山、鉱物が関与していそうです。奈良の宇陀も水銀が取れましたね> 辰巳先生の話をもう少し詳細に
 今津氏は元橿原考古学研究所で今は九州国立博物館です。
 辰巳先生の話はこれだけです。記事は雑誌社が書いたようで辰巳先生はコメント程度です。
 中央構造線は関東まででしょうか、そこから先は蝦夷の国です。蝦夷の国では取れなかったんでしょうか?なんか水銀対金という構図のようにも見えます。
  

[10796] Re[10795][10794][10780]: 神武東征の道  とみた 2011/06/19(Sun) 15:33 [Reply]
和歌山さん 神奈備さん あの有名な同志社大教授の辰巳先生が
仰っているのですか。
> > 水銀朱の利権を握っていたのが大和朝廷だったのでは(辰巳和弘氏)、神武が熊野から宇陀を通って盆地に出るのは水銀が関係しているのではという内容です。
>
>
言われています。

>  この鉱山は3世紀末には涸渇します。その代替として宇陀の水銀鉱山がクローズアップされてきました。この鉱山を確保した者が富と権力を手に入れると言うのが神武東征の物語りだったのでしょう。
>
>  従って丹敷戸畔とは辰沙を司る女王と考えますと、神武が回った熊野とは紀ノ川上流のことだったと思います。古事記にコースがスムースなようです。
> http://kamnavi.jp/jm/kawatikii.htm

奈良文研(不確か)の今津節生の辰砂鉱の分析があります。
日本では古墳時代前は中国の朱を使い、以降は日本産出の朱を使っていたという分析です。
弥生時代の吉野ケ里、出雲は中国の朱です。
出雲の西谷3号墳は中国山西省の朱だと思われます。

銅鐸の朱は、中国産だったのでしょう。
西谷3号墳を境に古墳時代になると一斉に日本産の朱に代わりますね。
ただ、北九州伊都国の平原古墳では古墳時代になっても中国の朱を使っているそうです。纏向の都市に現れた勢力は古墳、鏡、朱を全国に波及させたのでしょう。

神武東征のとき紀伊の国造の祖の天道根命は日矛鏡を国懸神社の神体にしました。これと同じ鏡が穴師兵主神社にあるのは不思議ですね。

伊勢の櫛田川の多気にも穴師神社があるようです。ここも水銀が取れますね。
飯高は和邇系飯高氏の本拠で水銀で稼いだとされています。伊勢の佐那神社は日子坐王系(和邇氏との関係?)の曙立王と関係があります。

中央構造線で鉱山、鉱物が関与していそうです。奈良の宇陀も水銀が取れましたね。

辰巳先生の話をもう少し詳細に教えてくださいませんか。


[10795] Re[10794][10780]: 神武東征の道  神奈備 2011/06/18(Sat) 20:02 [Reply]
和歌山さん、面白い記事の紹介ありがとうございます。

> 水銀朱の利権を握っていたのが大和朝廷だったのでは(辰巳和弘氏)、神武が熊野から宇陀を通って盆地に出るのは水銀が関係しているのではという内容です。


 水銀朱は鉄などとの交換価値が高いと言うことがポイントだったと思います。弥生時代の阿波は若杉山鉱山があったので、資金が豊富、それなりの発展をしたようです。古墳の原形とも言える萩原2号墳(200年頃)、萩原1号墳(220〜230年頃)の積石木槨タイプの古墳が出来ており、これが大和のホケノ山古墳につながったと言われています。

 この鉱山は3世紀末には涸渇します。その代替として宇陀の水銀鉱山がクローズアップされてきました。この鉱山を確保した者が富と権力を手に入れると言うのが神武東征の物語りだったのでしょう。

 従って丹敷戸畔とは辰沙を司る女王と考えますと、神武が回った熊野とは紀ノ川上流のことだったと思います。古事記にコースがスムースなようです。
http://kamnavi.jp/jm/kawatikii.htm

order=1 width=100% cellpadding=5> [10794] Re[10780]: 神武東征の道  和歌山 2011/06/18(Sat) 16:38 [Reply] >  神武東征の道

『あかい奈良』という雑誌の最新号に、「神武東征物語と宇多と水銀」という記事が載っていました。宇多地方は水銀の産地で古墳時代の古墳に水銀朱が残っている古墳がたくさん発掘されており水銀朱の利権を握っていたのが大和朝廷だったのでは(辰巳和弘氏)、神武が熊野から宇陀を通って盆地に出るのは水銀が関係しているのではという内容です。
[10793] 古代を偲ぶ会  神奈備 2011/06/17(Fri) 13:38 [Reply]
2011 6 18 第3土曜 14時〜16時
NPO法人国際文化財研究センター 所長 藤田 憲司
三角縁神獣鏡はいつ作られ、副葬されたか
会場:エル大阪(大阪市中央区北浜東3−14 本館6F 大会議室

http://kamnavi.jp/link/sinobu11.htm

[10792] Re[10791][10789]: RE>遣唐使が硫黄を積んでいった記録はありません。  神奈備 2011/06/17(Fri) 13:37 [Reply]
>  金というのは考えられませんか?

 記紀が書かれた頃には、朝鮮半島が金銀が採れる場所と認識されていたのでしょう。日本についてはどうだったのでしょうか。

 『推古天皇紀』十三年には、高麗國大興王が日本國天皇が佛像を造ると聞いて、黄金三百兩を貢いでいるとの記事があります。
 仏像を造るのにも不自由していたのかも。

 大宝元年(七〇一)に陸奥で金の精錬をしたとか対馬から金が献上されています。それで大宝と改元したとあります。
 金が出るのは珍しいことだったようです。

> 大仏建立の時、タイミング良く金が発見された。

 大仏建立の決意をする時に、金が足りる足りないなどとは、天皇ですから考えなかったのでしょうね。ケセラセラでうまくいった。

[10791] Re[10789]: RE>遣唐使が硫黄を積んでいった記録はありません。  和歌山 2011/06/16(Thu) 21:19 [Reply]
 金というのは考えられませんか?以前話題になりましたが、大仏建立の時、タイミ
ング良く金が発見された。不足したのは輸出していたから?或いは不足していたよう見せ掛けていたのかも!
 

[10790] 朱砂と須佐  神奈備 2011/06/15(Wed) 15:06 [Reply]
 和歌山市の伊太祁曽神社境内の表土の水銀濃度は0.04%と『丹生の研究』(松田壽男著)に出ています。この濃度は宇陀の水銀鉱山の0.018%を越えており、氏のサンプル中ではトップクラスの数値です。しかし丹沙を採取出来たとか、鉱山があったと言う言い伝えは残っていません。縄文時代か弥生前期には掘り尽くされてしまったのかも。伊太祁曽神社の北側の平尾、塩谷、明王寺でも0.008%と高い濃度です。塩谷は入谷であり、丹生谷だったのかも知れません。また山東平野の東側には鶏冠山があります。

 さて、伊太祁曽神社は大宝二年(702)に、三神を分遷せよとの命令が出ており、この時、現在地の東500mの亥の森から現在地に遷っているようです。では、現在地には一体何があったのでしょうか。現在有田郡千田に鎮座の須佐神社が鎮座していたのだろうと思っています。
 その理由。
 1.朱砂と須佐は同じ発音です。
 2.『寛永記』和銅六年、五十猛命、大峰釈迦嶽から山東の地に降臨。
 3.須佐神社の『社家の傳』和銅六年、大和国芳野郡西川峯から遷って来た。
 4.http;//kamnavi.jp/itakiso/zokufudoki.htm
  の江戸時代の地図を見ると、 口須佐と奧須佐の間が伊太祈曽となっており、須佐であったことをうかがわせる。
 5.『和名抄』に、須佐神戸なる地名が名草郡にある。伊太、祁曽、神戸もある。
 6.小川琢治さん、「須佐神社はかっては名草に鎮座していた。」

[10789] RE>遣唐使が硫黄を積んでいった記録はありません。  忌人 2011/06/13(Mon) 12:54 [Reply]
水銀と硫黄の化合物である 硫化水銀は赤色(朱色)で、天然では辰砂(しんしゃ)といいます。 ...
http://www5.ocn.ne.jp/~iranka/azuma.html
丹生」地名と関係しよう。佐味氏の中の丹生氏はいわゆる工業民で初期の水銀鉱発掘と朱砂生成に関係する氏で、古墳での葬送儀礼の特殊な祭りに参加する人々ではないだろうか。朱色を扱った土師氏と部分的に重なりがあるように思う。佐味はサビでもあり、後に彼らは製鉄にも関係するようになった。彼らの毛野での根拠地の一つは古代地名「丹生田」金山神社のある新田郡新田ではないか新田には神祭りに携わる祝人(ほふり)郷がある。大和にも漢係渡来人である豪族佐味村主がいる。先に述べた毛野氏との関係はわからないが漢氏が百済系であるからやはり毛野氏と同系と考えたい。

縄文時代から丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘が行なわれていた。丹生鉱山に隣接する 池ノ谷・新徒寺・天白遺跡からは、粉砕 .... 伊勢産を含めた水銀や朱砂が交易品として 中国にも輸出されていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E9%89%B1%E5%B1%B1
中央構造線上に位置し、花崗岩質を母岩とする裂化充填鉱床である。主要鉱物は、辰砂、黒辰砂、自然水銀、鶏冠石、石黄、輝安鉱、白鉄鉱、方解石。水銀鉱床であるが、鶏冠石と石黄の産出が比較的多い。

[10788] 須佐之男命は鉄なのか硫黄なのか。  神奈備 2011/06/13(Mon) 09:45 [Reply]
『邪馬台国と「鉄の道」』小路田泰直著 から

 独特の邪馬台国論を展開されています。
 特に興味深い天は、鉄との交換物質として硫黄を取り上げている点です。

 大国主命と共に国作りを行った神として、祖神の須佐之男命と少彦名命がいて、「す」がつく神です。酢川温泉神社が鎮座しているように、温泉につきものの硫黄、「す」とは「硫黄」のことだったと推測しています。

 硫黄は火薬が発明される以前から火薬的に使われてきたそうです。『聖書』には、ヤハウェの神が空から降らせた硫黄によってソドムとゴモラと言う都市が焼き滅ぼされています。
 少彦名命は小さい体で大声を出す。須佐之男も酸砂之男であり、硫黄業者のボス。

 半島や大陸からは硫黄が出土しない。倭国のみが提供できる資源で、これと鉄とを交換していたと言うのが紹介した本の主張です。
 硫黄以外に考えられるものがあるのか? と言うのが小路田先生の問いかけです。

 たしかに硫黄は南九州と奥羽が主な産地です。九州に鉄が多く出土するのは硫黄が財貨なら考えやすいし、皇室の発祥が南九州だと言うのも、説明し易いようです。朝廷が熊襲と蝦夷を支配下に置きたいのが硫黄の産地だったとするのも考えやすいところです。

 しかし、遣唐使が硫黄を積んでいった記録はありません。中世になって輸出品に硫黄が出てくるのです。古代にそれほど珍重されたのでしょうか。水銀朱が少量でも大きい価値があったのではと考えています。

 空海が大量の仏典を持ち帰ることが出来た財貨は硫黄よりは水銀朱だったと思われます。

[10787] Re[10785][10783][10781]: 『週間新潮』の記事  福島雅彦 2011/06/11(Sat) 20:45 [Reply]

>  論文を進呈させて頂いた、平齋さん、喜んでいました。
> http://ikaino.com/
> http://d.hatena.ne.jp/heisai/
※喜んで頂けてなによりです。

>  記事では「景初四年」についても。新情報がありました。
>
>  唐代に編纂された『晋書』の巻12『天文志』に、「景初4年」と言う年号が出てくるそうです。『天文志』は、天体観測の記録など日時に関してはかなり正確を期しているはずです。
>  同じように、『凧文韻府』(「凧」にはにんべんがついています。)(はいぶにんぷ)に「景初4年」と言う年号が出てきます。

※昭和64年=平成元年、ですから景初4年=正始元年もありかも、ですね、

[10785] Re[10783][10781]: 『週間新潮』の記事  神奈備 2011/06/11(Sat) 11:21 [Reply]
 福島雅彦さん、こんにちは。
 論文を進呈させて頂いた、平齋さん、喜んでいました。
http://ikaino.com/
http://d.hatena.ne.jp/heisai/

 記事では「景初四年」についても。新情報がありました。

 唐代に編纂された『晋書』の巻12『天文志』に、「景初4年」と言う年号が出てくるそうです。『天文志』は、天体観測の記録など日時に関してはかなり正確を期しているはずです。
 同じように、『凧文韻府』(「凧」にはにんべんがついています。)(はいぶにんぷ)に「景初4年」と言う年号が出てきます。

[10784] Re[10782][10780]: 神武東征の道  和歌山 2011/06/10(Fri) 23:51 [Reply]
> 神武東征の道もやはりガンマ線の多い道、水があり、気分の良い道を選んだのでしょう。うまく行けば丹沙に出会うかも知れないしと考えて進んだのでしょう。

 古代の南海道も紀ノ川に沿っていますが、紀ノ川は断層の上を流れています。南海道は紀ノ川を見下ろす段丘に出来ています。神武軍が来る前から道がありその道を通過するということは、軍事上、道を押さえるということもあったんじゃないでしょうか。

[10783] Re[10781]: 『週間新潮』の記事  福島雅彦 2011/06/10(Fri) 22:37 [Reply]
※お久し振りです。何時も訪問させて頂いています。

>  この文で「鉗文を止め」の意味ですが、倭国にとって禍々しい模様や銘文を刻むのをやめて、彼らの好むような銅鏡を作ってあげたと読める。特注品ですので、大陸からは出土しないようです。
>
*「鉗文」の意味を『大漢語林』(大修館書店)で調べましたが、熟語での記載がありませんでした。
*「鉗」の一字でしたら、「くびかせ」「かなばさみ」「物をはさみとる金属製の道具」とあり、中国のネット字典検索では「やっとこ」「プライヤー」とありました。
*どなたか、意味をご存知でしたらご教示賜りたくお願いします。

[10782] Re[10780]: 神武東征の道  神奈備 2011/06/10(Fri) 19:26 [Reply]
 神武東征のコースの神社に熊野王子社を合祀した社が幾つかあることを前々回に書きましたが、それは殆どが泉州の断層に沿っているように思います。安倍晴明の誕生譚で知られる葛葉稲荷神社と聖神社、二つの神社の高低差は数拾メートルはあるでしょうが、その中間地点に篠田(信太)王子跡があります。聖神社から坂を下りきった熊野古道に沿っています。まさに断層の上です。

 上町断層帯と言うようです。ガンマ線量の多い筋であり、恐らくはもっと古い時代にはけもの道だったのでしょう。人が歩き、水が湧き、神社が出来る道筋なのです。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/katudansou/oosaka.htm

 神武東征の道もやはりガンマ線の多い道、水があり、気分の良い道を選んだのでしょう。うまく行けば丹沙に出会うかも知れないしと考えて進んだのでしょう。

[10781] 『週間新潮』の記事  神奈備 2011/06/09(Thu) 19:16 [Reply]
 邪馬台国論争の一つに三角縁神獣鏡が
 魏から貰った鏡なのか、国産の鏡なのか。大陸での出土ゼロ。列島で400枚も。景初四年の年号は国産を示しているのでは。
 などの疑問点がありました。これが魏から貰ったものなら、鏡を貰う国力があったと思われていたこと、また鏡の数からでもは、邪馬台国は大和を中心としたある程度まとまった国ではなかったかと言えるようです。

 聖徳大学の山口名誉教授(79)が発見した、『全唐文』約1000巻の中の第684巻の文章に、「昔、魏は倭国に酬(はなむけ)するに、銅鏡の鉗文を止め、漢は單于に遣(おく)るに犀毘綺袷(さいびきごう)を過ごさず 並びに一介の使、将に万里の恩とす」とあるようです。

 この文で「鉗文を止め」の意味ですが、倭国にとって禍々しい模様や銘文を刻むのをやめて、彼らの好むような銅鏡を作ってあげたと読める。特注品ですので、大陸からは出土しないようです。

[10780] 神武東征の道  神奈備 2011/06/05(Sun) 17:35 [Reply]
 神武東征の道を調べていると、大阪の幾つかの神社に伝承が残っているようです。
例えば、聖神社、東征の途中、先祖の瓊々杵尊を祀ったとのことです。
東征に関連する神社は、目的地を熊野としますと、後世の熊野古道沿いに進んだのではないかと思われます。
泉大津市の大津神社の摂社になっている広良神社には皇兄の五瀬命が祀られています。
由緒。
広良神社は、昔よりの若宮八幡神社の境内社である。神武天皇、皇兄五瀬命御東征の砌り日下において負傷され、ひとまず退却の己むなきに至り南下大阪湾より御乗船の際お手を洗われた。これよりこの海を血沼の海とよぶようになったが御乗船の地点が若宮八幡神社境内地付近の小津の泊りといわれており、ここに彦五瀬命をお祭り申し上げたといわれている。

 この辺りから乗船したのではなく、この辺りから陸行にしたのではと思っています。
聖神社、泉井上神社、男乃宇刀神社、日根神社と神武伝承が続きます。それぞれ、熊野王子社を合祀しています。日根王子、篠田王子、ひとつとばして、日根王子、そこから中山渓に向かっているようです。

 本題からはずれたのですが、八尾市の竹渕神社が鎮座、神武天皇が長髄彦との戦いで、この辺りの竹藪に入ったら、長髄彦の目には「ふかき淵の中へ入給ふ神変と」と見えたようで、恐れて引き返しています。鎮座地は恩智の西2km。
http://kamnavi.jp/en/kawati/takebuti.htm

 ここで思い出すのが、軍が難を逃れようとした大きい樹のことです。「母木」です。大きい樹と竹藪とは違うのですが、大三元さん「おものき考」を思い出しました。
http://www.dai3gen.net/omonoki.htm

 頼朝のように木の穴に隠れたのですが、神武軍は更に蜘蛛の糸で助かったのですが、竹藪が「ふかき渕」に見えたのも、伝承としては似ているように思います。

[10779] Re[10778][10775][10774][10772][10771]: やはりは秦氏か  神奈備 2011/06/03(Fri) 08:51 [Reply]
> 『疱瘡の神は住吉大明神を祭るべしといへり。住吉大明神は三韓降伏の神なり。痘は新羅の国より来れる病なれば、この神を祭りて、病魔の邪気に勝つべき事なり』
> 元禄時代の医家香月牛山「小児必用養育草」で記してある。

いろんな理由で神様になるものですね。
岩や石の依りつくと思われていたようですね。

[10778] Re[10775][10774][10772][10771]: やはりは秦氏か  多美 2011/06/01(Wed) 06:10 [Reply]
>  どうして住吉神社が祀られたのか不思議なことです。江戸時代に鎮座しているので、

『疱瘡の神は住吉大明神を祭るべしといへり。住吉大明神は三韓降伏の神なり。痘は新羅の国より来れる病なれば、この神を祭りて、病魔の邪気に勝つべき事なり』
元禄時代の医家香月牛山「小児必用養育草」で記してある。

近世 病草紙 江戸時代の病気と医療128Pより

[10777] Re[10773][10771]: やはりは秦氏か  多美 2011/06/01(Wed) 05:59 [Reply]

>  それとも「兵主」と云う文字を宛てた「和語」があったとすれば何だったのだろう。



穴師座兵主神社の上社の祭神も御食津神(穀神)である。この神は、大穴持命が祭っ

ていたイズモ勢力の護り神の熊野大神ではなかろうか?

そして、上古の社名は星神社、万葉仮名では保思神社であり、「ひょし」神社あるい

は「ぴょし」神社あるいは「ふぉし」神社と発音されていたのではないだろうか?そ

して、太一信仰を禁止する次の王朝(応神王朝)以降に替わった時、太一信仰は禁止

され、「星(保思)」に替わって音の良く似た「兵主(ひょうす)」の文字が当てら

れ、兵主神社に変わったのではないだろうか?


小生が神奈備サイトを知るきっかけになり、天津甕星(天香香背男)に興味をもち、神社訪問の動機となった本にありました。
著者は緻密理論的(過ぎる)であるようですが、この天津甕星の件になると、常軌を逸し(笑)たような記述に、何だろうと、興味をもちました。

[10776] Re[10775][10774][10772][10771]: やはりは秦氏か  和歌山 2011/05/31(Tue) 17:37 [Reply]
>  、多田は10mを越えているようで、どうして住吉神社が祀られたのか不思議なことです。

この付近は、入り江になってたかも知れません?近くには貝塚もありますし・・・知安原の人に聞きますと、土地は軟弱で家を建てるには不向きだということです、ですから昔から丘陵の先端近くに家が多いということです。

[10775] Re[10774][10772][10771]: やはりは秦氏か  神奈備 2011/05/31(Tue) 14:15 [Reply]
 かっての海南駅から北東を見ますと、美しい三角形の山が見えました。多田の国主神社の神奈備山かと思われます。この山の中腹に住吉神社が鎮座しています。名草山周辺の七原の標高は3〜4mに過ぎないのですが、多田は10mを越えているようで、どうして住吉神社が祀られたのか不思議なことです。江戸時代に鎮座しているので、明治の神社合祀の嵐に巻き込まれたのではなさそうです。祇園社は現地の人は疱瘡神と呼んでいるようです。

[10774] Re[10772][10771]: やはりは秦氏か  和歌山 2011/05/28(Sat) 21:09 [Reply]
> > 多田が太田ならこれも秦氏と関係がありそう。
>
和歌山県海南市に多田があります。この地に秦氏が住んでいました。中世まで確認できます。そしてこの周辺は日本霊異記に登場します。

[10773] Re[10771]: やはりは秦氏か  大三元 2011/05/28(Sat) 20:54 [Reply]
とみたさん
> 大三元さん 私は加齢の呆け予防で、いろいろ頭を巡らせています。
お互い様ですよ(^^)。

「兵主」を「ひょうず」(含む近似音)と読むとそれは漢語(中国語)であろう、しからば、この文字はなんという和語を表したものか。Wikipediaによると「中世には つわものぬし」と読む、とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E4%B8%BB%E5%A4%A7%E7%A4%BE
我々が(たぶん)関心持っている古代ではどうだったのだろうか、どうも解が見あたらない。
日本書紀などでは「兵」に「つはもの」という傍訓があるので時代別国語大辞典上代編にも採録されているが、それは平安時代に加えられた注釈的なフリガナであろう。また「つはもの」というフリガナは「兵」の他にも「鋒刃」「兵甲」「凶器」「元戎(おほつはもの)」「鋭(ときつはもの)」に振られている(神武紀からの例)。かなり自由な(任意な、恣意的な?)読みだ、と云いたくなる。
 「つはもの」という語が上代にあった、という積極的な証拠はなさそうだ(見つけていない)。
 「兵主」という文字を宛てたのはいつ頃なのだろう。だいぶ時代が下って漢語が沢山入ってきて(借用するようになって)、また、漢語の音習慣(拗音など)が和語に馴染んでから、ということだろうか。
 それとも「兵主」と云う文字を宛てた「和語」があったとすれば何だったのだろう。

こんなことを考えて頭の体操としております、ハイ。


[10772] Re[10771]: やはりは秦氏か  神奈備 2011/05/26(Thu) 08:33 [Reply]
> 多田が太田ならこれも秦氏と関係がありそう。

 太田と言えば、播磨風土記の、呉勝のお話があります。

[10771] やはりは秦氏か  とみた 2011/05/26(Thu) 04:35 [Reply]
大三元さん 私は加齢の呆け予防で、いろいろ頭を巡らせています。

考古学が中心ですが、伝承も横目に見ながらやっています。大三元さんは言葉にお詳しいので、よろしくお願いします。

兵主神社は但馬に多いのでしょう。蚩尤の神、これは戦いの神でもあります。兵の主。

天日矛(槍)は播磨から上陸して、但馬に向かうのか、近江を経由して若狭経由で但馬に向かうのか。

アカヒルメ、ツヌガアラシトいずれも新羅か意富(金官)伽耶。慶尚南道と慶尚北道。

射楯は伊太と音は同じということですね。
播磨一之宮の伊和(岩の意、谷川健一郎)神社でしたか。
天日矛と戦う。

平野邦夫先生は東播磨は東漢氏の新しい鍛冶で、西播磨は秦氏の古い鍛冶とさ
れています。
西播磨は、揖保川で秦氏の大避神社があります。

その上流の竜野辺りは秦氏と関係がありそう。

姫路の加古川とか市川から遡ると養父とか朝来で円山川から但馬の方に出る。

私の頭はおぼろげで正確には入っていない(間違っていたらごめんなさい)。

天日矛の進入ルートと思います。

金官伽耶は高句麗に攻められて衰えるのが5世紀初めですから、そのころに日本に逃げてきたのではないのでしょうか。

秦氏は鉄だけでなく銅も関係がありそうです。猪名川の東側(左岸)には能勢がありますね。行きあそこには秦下、秦上という地名がります。多田銅山があります。

多田が太田ならこれも秦氏と関係がありそう。秦氏の住む拠点集落には妙見信仰があるそうです。妙見は鉱山の神、新羅にも関係がありそうです。


正に、応神天皇時代です。秦氏は葛城に入ったのではないでしょうか。但馬と葛城の関係も面白そうです。

[10770] Re[10768]: やはり秦氏か  大三元 2011/05/25(Wed) 19:44 [Reply]
とみたさん、お久しぶりです。

兵主 と来ると 射楯兵主 が想起され
射楯 と来ると 伊太て(氏+アンダーライン)(韓国いたて神社)が想起され
矢楯比賣(大国主との間に事代主を生む)とは関係ないのか、と想起され
行矢射楯神社 なる名称も気になっています。


[10769] 三神分遷の意味   神奈備 2011/05/25(Wed) 14:45 [Reply]
三神分遷の意味  力を削ぐのか、優遇措置か。

 先日、勘太郎さんのお世話で和歌山市立博物館の寺西館長の「記紀神話と紀伊国」との講話を聞かせていただきました。ありがとうございました。

 神話の中に紀伊のことが出てくるのは、「大和王権が海外活動を行うには水量の豊かな紀ノ川を水運の道筋とし、その河口を拠点港として利用していたと言う地政上の理由がある。」とのことでした。


 質問を行いました。伊太祁曽三神を分遷する命令の理由は?

前提を述べます。『日本書記』から。
●巻一第八段一書第四 所以稱五十猛命爲有功之神。即紀伊國所坐大神是也。
 (築紫より始めて大八洲国を青山になした。)それゆえ、五十猛神を有功の神とす。紀伊国に坐す大神は是れです。

●巻一第八段一書第五 號曰五十猛命。妹大屋津姫命。次抓津姫命。凡此三神亦能分布木種。即奉渡於紀伊國也。
 よく木種を播いた。紀伊国に渡った。

●巻二大宝二年(七〇二)二月己未 分遷伊太祁曾。大屋都比賣。都麻都比賣三神社。
 伊太祁曾、大屋都比賣、都麻都比賣の三神を分離して祀るように命令が出た。

寺西先生。
 多くの方は分遷は力を削ぐためとの意見だが、私は優遇措置であると考える。
 律令(大宝律令か)での神祇制度では、朝廷からの奉幣などは主神に対して行われる。また一社一座は国家として管理しやすい形なので優遇されたようだ。
 したがって、伊太祁曽三神を分遷したことは、それぞれの神々に奉幣などがされるので、優遇措置と言える。 ・・・と言う見解でした。目から鱗でした。

帰路、勘太郎さんの車の中での雑談。
 分遷命令は文武天皇の御代に出されている。文武の后は藤原宮子で、彼女は紀州は日高で生まれたとの伝承があり、道成寺の建立もそれゆえのこととされる。紀州を愛した姫で、当時の紀州の神と言えば、伊太祁曽三神であり、その神々を優遇することを求めたのではとの意見を出しておきました。

帰宅後
 大宝律令は大宝元年(七〇一)八月に出されており、タイミングからもドンピシャリです。

 なお、律令を調べているのですが、まだ一社一座などが優遇されたような文言には行き当たっていません。

[10768] やはり秦氏か  とみた 2011/05/25(Wed) 09:12 [Reply]
>大和の東側の高原には多氏が居住しており、また秦氏もいたようです。桜井市大字北白木に鎮座するタカオカミ神社が鎮座しています。『大和の原像』(小川光三氏著)に、「上の郷には白木と云う大字があって
> 穴師は三輪山と竜門山の間にあり、神社で言えば、南に大神神社、北側に石上神宮と大和神社があり、その間に穴師兵主神社が割り込んだとも言える立地です。楔が打ち込まれたように見えます。

武光誠さんに拠れば、大和は元々、都祁氏がいて、そこに倭氏が入り、さらに三輪氏がやってくる。

都祁は大和高原近く、三輪と同じく蛇神。出雲も嘗ては竜蛇神。

大和神社は椎根津彦、渦彦。海の神。明石海峡や豊後水道を仕切っていたのでしょう。神武の東征で海路の道案内、これが倭氏で、倭の国造になる。

田原本、辺りは弥生時代は唐古鍵遺跡でその東に天理市海知がある、天理市の前栽・平等院あたりも稲作が早くもたらされたところ。竜蛇神は水田の神か。

 >大王の地位を簒奪した証が穴師兵主神社なのかも。
穴師は鉄絡みか。兵主神社は鉄や銅の神か。

秦氏のルーツは、韓国系慶尚北道の北部、海曲県とする人が多い。地名が波旦(ハタ)であるからです。

宝賀寿男さんや白川静先生は、秦氏のルーツは中国の江准や山東半島に求められている。山東の瑯邪は地元の兵主神社を封禅で祀る。これは蚩尤の神。鉄の神であろう。

山東半島から秦始皇帝が長城造営の労役を逃れて韓半島に逃れて、それが百済や伽耶の戦いの難民としてやってきた。

天日矛は但馬で物部の娘を娶って落ち着いた。



[10767] Re[10766][10765]: やはり秦氏か  神奈備 2011/05/24(Tue) 14:22 [Reply]
> > 垂仁天皇と田道間守との関係は何を意味するのでしょう。
>
 大和の東側の高原には多氏が居住しており、また秦氏もいたようです。桜井市大字北白木に鎮座するタカオカミ神社が鎮座しています。『大和の原像』(小川光三氏著)に、「上の郷には白木と云う大字があって、ここは新羅の王子天日矛が、ここに新羅城を築いたことによるという。」とあり、城跡が神社になったようです。

 穴師は三輪山と竜門山の間にあり、神社で言えば、南に大神神社、北側に石上神宮と大和神社があり、その間に穴師兵主神社が割り込んだとも言える立地です。楔が打ち込まれたように見えます。

 大王の地位を簒奪した証が穴師兵主神社なのかも。

  出雲の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡との真ん中に大黒山があり、その麓に兵主神社が鎮座、やはり銅鐸祭祀集団の聖地に天日槍集団の楔が打ち込まれているように見えます。

 さて、田道間守が垂仁天皇の命令で非時の香実を探しに行き、帰った時には既に垂仁天皇は亡くなっていて、そこで田道間守は泣き叫んで死んだのです。

 天皇と臣下、普通、天皇と臣下の場合、天皇の死で殉死でもさされるのなら、それが悲しくて泣き叫んで死ぬことがあるでしょうが、普通の場合、そのようなことでは死なないだろうと思います。

 親子関係、それも子が親より先に死ぬようなことがあれば、泣き叫んで死ぬようなことがありうるかも知れません。天日矛系の大王が登場したので、狭穂彦王のような従来系の王族の反乱が起こったのかも。

[10766] Re[10765]: やはり秦氏か  神奈備 2011/05/23(Mon) 14:32 [Reply]
> 垂仁天皇と田道間守との関係は何を意味するのでしょう。

[10764] の http://www.dai3gen.net/susanaki.htm に
> スサノヲの属性の一つに「啼き泣ち(なきいさち)」るというものがある。

垂仁天皇の名 活目入彦五十狭茅天皇 イクメ イリビコ イサチ
田島守 垂仁天皇の墓に向かって 「泣き悲歎きて・・」 「叫び哭きて」。

 共に、なきいさちる、属性を持っていそうですね。

[10765] やはり秦氏か  とみた 2011/05/23(Mon) 13:53 [Reply]
神奈備さん、大三元さんの天日矛のやり取りに、横から失礼します。

いくつかの記事を絡ませます。筑紫や豊前・豊後と周防あたりにわんさか4世紀末から5世紀にかけて韓半島から秦氏が入る。

筑紫の奇巫は姓氏禄の豊国奇巫。この民は和泉国大鳥郡に移り住む。石津川あたりか。新羅の弥勒信仰を持ち込んだか。それが秦氏系の辛島氏か。

陶邑の窯業の須恵器を齎した勢力でもあろう。

筑紫の伊都県主の祖、五十迹手も天日矛。風土記逸文に、伊都県主は新羅王子、天日矛の末裔とある。

三宅、三家氏は新撰性氏禄に拠れば天日矛の後裔。記紀に拠れば田道間(但馬)守の後。

景行記に拠れば、天皇が佐波(山口県防府)に留まって周防灘の対岸の豊前豊後ー国東半島の賊を偵察に多臣の祖、武諸木などを派遣。

筑紫の三家は三宅で多氏。

これは鉄族で銅の鉱山開発・鉄銅鍛冶業であろう。

豊前には宇佐の近くの香原岳の製銅所があり、周防には長登銅山があり、さらに猪名川能勢に銅山がある。

秦氏は、鉱山開発、宗教、窯業みんな関係があるのではなかろうか。
兵主神社の分布も関係する。

それでは、纏向の穴師兵主神社もその延長でしょうか??
垂仁天皇と田道間守との関係は何を意味するのでしょう。

[10764] Re[10762][10759][10758]: 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。e  大三元 2011/05/22(Sun) 08:32 [Reply]
>  紀氏としては祖神が素盞嗚尊−五十猛命のラインでいくのか、天日矛命でいくのか、路線の選択が迫られたのかもしれません。

スサノヲ− 五十猛(イソタケル(イタケ、イソタケ))の親子関係は:
天日矛 − 五十迹手 と等価のようにうかがえる。

・スサノヲも天日矛も新羅出自
・五十猛は「イサヲシ」とされ、五十迹手も「イソシ」と呼ばれる
・スサノヲの子孫に大国主。その異名の一つに「八千矛神」。
 スサノヲと天日矛を関連づけることに役立ちそうである。

http://www.dai3gen.net/susanaki.htm

[10763] Re[10760][10758]: 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。e  神奈備 2011/05/21(Sat) 19:43 [Reply]
> 春日の末社、紀伊神社は三神を祀っています。しかし、社殿に掛っている御簾は二枚です。社殿の形式から見ても三神を祀っているようには見えません。紀伊神社という名前からしても日前・国縣神を祀っていたのかも???

 紀伊神社の拝殿と思える建物がありますが、こちらは三殿の連結です。

 三神を祀ると言っても、五十猛命と相殿に大屋都比売、都麻都比売ですから、二殿風の建物でもいいんでしょう。
 伊太祁曽神社も三神を祀ると誤解している方が多いですが、五十猛命一柱で、本殿の両脇に大屋都比売、都麻都比売が置かれているのです。二柱の比売神の社殿は分類で言うと摂社です。

[10762] Re[10759][10758]: 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。e  神奈備 2011/05/21(Sat) 19:41 [Reply]
> 伊勢:天照大神
> 国懸:天日矛
> 大倭:大国魂
> 住吉:住吉大神 のように。

 そうですね。やはり国懸が気にかかります。

 秦氏と紀氏とは同族だろうとは思っていました。それは九州の宇佐八幡に関する辛嶋氏の系図からです。辛嶋氏は秦氏の一族とされています。
 辛嶋氏は素盞嗚尊−五十猛命−・・−宇豆彦とつながります。宇豆彦の妹が山下影媛で武内宿禰を生みます。

 秦氏は弓月君の末裔とされていますが、天日矛は秦氏集団の象徴ともされています。祖神と言えるでしょう。大和の弓月嶽は兵主神社の神体山でもあり、秦氏の幅の広さがうかがわれます。

 紀氏としては祖神が素盞嗚尊−五十猛命のラインでいくのか、天日矛命でいくのか、路線の選択が迫られたのかもしれません。

 国懸神と言うネーミングは先祖隠しの八方美人戦法となり、日前神を天皇と親戚筋であるとする天照大神としてしまったのかも知れません。

[10761] ごあいさつ  pn 菜畑 維  2011/05/21(Sat) 08:32 [Reply]
 後発ながら「神奈備」を利用させていただいています。まあなんとレベルの高い方ばかりでしょうか。私共の主たるエリアは石塔や石仏です。ただし、磐座とか神像に関わる範疇の遺跡もかなりあって、どうしても古代信仰の知識を得ようと思いますが、これがなかなか大変なことです。当方の場合、神仏に関わらず信仰のエリアの方からは知識を得るには敷居が高くて尻込みしてしまいます。その点、必要最小限の範囲で自分の想定と重ね合わせられるので誠に勝手が良いのです。
 今、追跡中の案件は30ほどを並行していますが、全国に至る幅では実現は半ばで止まります。何かとお世話になりますのでどうぞよろしく。
 石造物と並行して、「烽火線」というレイラインを40年近く調べてきました。信仰側からは無縁かと思いきや、淡路イザナギ神社では大石に「日本の中心地」としての位置が示されていてビックリ仰天。ただし、質問の攻めする気迫がなかったもので只々呆れて思いのみ深くして帰りました。「カムロギ・カムロミ」とした場合、現男女神の適合を見ますが、「イザナギ・イザナミ」に関しては、男女が入れ替わっていると判断された学者はおられないのでしょうか。尊名の「ギ・ミ」ではなく、海の「凪・波」であると考えておりまして、これを潮岬の太陽側外海と日没側内海として適合を考えています。神話の女始めは蛭子を産むと忌みしたのは、母系女族とは真逆が真実であって、土師氏を恥、忌部氏を四国へ流す裏話なのではないかと想像しています。そのうち、神奈備さんの内容を少しずつでも理解できるよう心がけますので、よろしくお導きください。以上。

[10760] Re[10758]: 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。e  和歌山 2011/05/20(Fri) 20:00 [Reply]

>  三社に分けられた三兄妹神を祀る神社

春日の末社、紀伊神社は三神を祀っています。しかし、社殿に掛っている御簾は二枚です。社殿の形式から見ても三神を祀っているようには見えません。紀伊神社という名前からしても日前・国縣神を祀っていたのかも???

[10759] Re[10758]: 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。e  大三元 2011/05/20(Fri) 18:12 [Reply]
神奈備さん、面白いですねぇ。

天武十五年(686) 四月二七日 多紀皇女等を伊勢神宮に遣わす。
天武十五年(686) 七月 五日 紀伊国国懸神、飛鳥四社、住吉大社に幣帛を奉る。
朱鳥元年(686) 十一月十六日 伊勢神祠の皇女大来が京に帰る。
持統六年(692)  三月 六日 持統、伊勢に行幸、同二十日帰京。
持統六年(692)  五月二六日 伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に藤原京造営の報告。

各社の「天照大神」を崇敬して、というよりは、各社それぞれ異なった神々を対象にしたまつりごとのように見えますが如何でしょう。典型的には:
伊勢:天照大神
国懸:天日矛
大倭:大国魂
住吉:住吉大神 のように。

[10758] 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。e  神奈備 2011/05/20(Fri) 09:48 [Reply]
 686年に紀伊国国懸神が皇室から奉幣を受けて以来、692年に藤原京造営報告に紀伊大神、同じく新羅からの調を紀伊社などに奉じています。流れから見ると国懸神のことと見ていいと思います。

 それから10年後、伊太祁曾、大屋都比賣、都麻都比賣の三神社を分遷させろとの命令が出ています。この神々は『日本書記』(神代紀)に、「五十猛命。妹大屋津姫命。次抓津姫命。この三神はよく木種を播き、紀伊国に渡った。」と出ています。

 三神がまとめて祀られているのを、三社に分けなさいとのことで、何故分けなければならなかったのでしょうか。

 紀伊国では国懸神が皇室の崇敬を受ける神でした。恐らくその当時、紀伊国の民は国懸神よりも伊太祁曽神社の三神への崇敬の心が篤く、国懸神は面子がたたなかったのかも。

 三社に分けられた三兄妹神を祀る神社は現存しており、日前国懸神宮から約5kmほど離れた円周上に鎮座しているとは前宮司故奧鈴雄翁の言葉でした。

 皇室と紀氏は国懸宮だけでは紀伊国の祭祀の主導権が握れないと考え、伊勢と同じく天照大神を日前宮として持ち込んだのかも知れません。

 何故、日前(ひのくま)の名となったのか、大三元さんの言われる鏡=前だったのかも知れません。

 また、紀伊国名草郡には久米氏が居住しており(雄略紀に紀岡前来目連の名が見える)、彼らが祀る神がヒノクマだったのかもと考えています。これは大和の久米氏の居住地(久米御県神社や久米寺がある)を流れる川を久米川と言っていたのが、ヒノクマ川と言う名に変わっていますが、久米とヒノクマとは同意だったのかも。

 806年、『新抄格勅符抄』には、封戸数があります。
 日前宮 五十六戸。国懸宮 六十戸。
 伊太祁曽神は五十四戸。都麻都比賣神 十三戸。大屋津比賣神 七戸。

 伊太祁曽神三神合計は七十四戸となり、国懸神を越します。

[10757] Re[10754][10751]: 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。2  神奈備 2011/05/19(Thu) 09:50 [Reply]
> 神社 シンボル 比定   原義
> 国懸  日矛  天日矛  国を輝かす
> 日前  鏡   前津耳  日鏡

http://www.dai3gen.net/kunikakasu.htm を参照して下さい。

 御神体の矛を天日矛と結びつけるチャンスがなかったのですが、これで展望が開けそうです。最澄が国懸神を名草溝口上神、日前神を下神と名づけているのも、先ず国懸神があり、後に日前神が追従して来た感じがよく出ています。

 日矛で思い起こすのは伊都国です。『筑前国風土記』(逸文)に、「怡土の県主らの祖五十跡手は奏上して、高麗の国の意呂耶麻に天から降ってきた日桙の末裔は私のこと」とあります。高麗は新羅の間違いとして、さらに五十跡手は伊太祁曽なり五十猛に似ているので、紀伊の祖神としての天日矛は考えられないことはありません。

 日前が、『古事記』での天日矛の但馬での妃となった前津見と意を通じるのは実に興味深いことです。

 天武天皇と天日矛の関係は、継体天皇が息長氏の血を受けていると言うことでいえば、祖神に当たるとは言えるようです。

 『日本書記』朱鳥元年(六八六)七月、奉幣於居紀伊國國懸神。飛鳥四社。住吉大神。

 天武天皇の病の回復を天日矛に祈るのであれば、出石神社のほうがストレートであり、正体不明気味の国懸神は何の謂われがあったのでしょうか。海人族の齋く神だったのでしょうか。

 飛鳥四社の祭神の中に高皇産霊神がいるようですから、こちらの祖神は入っています。

 住吉大神も応神天皇の親神かも知れないと言うことでは祖神と言えないことはありません。幼名は大海人皇子ですから、海人族の最高神としての住吉っさん。

[10756] 春日と榎本  和歌山 2011/05/18(Wed) 23:14 [Reply]
西を向いている(=海に向いている)ので挨拶のない船を壊すので、南向きにせよと元明天皇の厳命

春日大社も元は西向きだったという説もあります。前にも書きましたが南北軸の信仰と東西軸の信仰です。

春日の榎本神社の補足
榎本神社は南西の角(裏鬼門)に祀られています。安部山に鎮座したという事ですが、春日の背後にある三蓋山は、遣唐使が遥拝したという記録が見え、安部仲麻呂も、天の原ふりさけ見れば春日なる・・・と読んでいます。阿部氏が関係ありそうです。春日の神は藤原氏が勧請しましたが、鹿島神宮から鹿の背中に乗って三蓋山に降り立ったとあります。鹿島から奈良まで1年近くかかっていますので史実ではないでしょうか?鹿の足なら時間はかかりますし、藤原氏にとって権力を誇示するためのデモストレーションだったのかも知れません。権力を握った藤原氏が阿部氏を追いやった。そして懐柔したのかも?も少し詳しく、春日の神が1尺の土地を貸して欲しいと申し出た。榎本は広さ1尺四方だと思った。しかし、深さ1尺の意味だった。つまりだまし取られたと言う事。興味深いのは春日の土地は深さ1メートルのところで岩盤である。
やはり何かの史実を反映しているようです。

[10755] Re[10752]: 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。  神奈備 2011/05/18(Wed) 08:56 [Reply]
> 春日にも良く似た話があり、榎本神社は元は春日社の地に鎮座していたが、後から来た春日の神に土地を奪われた。榎本は安部山に移ったが参詣者少ないので元鎮座していた春日の土地の一角に祀られるようになった。

和歌山さん、貴重なサジェッション、ありがとうございます。

 出戻り遷座 大和

 春日大社 → 榎本神社(安部山) → 榎本神社(春日大社境内)

と言うことですね。

トコロテン遷座が以下の例
山城紀伊

 伏見稲荷大社 → 藤森神社 → 真幡寸神社(城南宮の境内に)


紀伊のトコロテン遷座

 日前国懸神宮 → 伊太祁曽神社 → 須佐神社(在田)

前半は伝承、須佐は推測。

推測の根拠は以下の通り。

千田の須佐神社は元々名草郡に鎮座していたのではと小川琢治さんが指摘をされています。
須佐神社『社家の傳』
713年 和銅六年十月 社記曰此神舊在大和國芳野郡西川峯後移于此始祠

伊太祁曽神社 『寛永記』
 713年(和銅六年:元明天皇)五十猛命、大峰釈迦嶽等から山東の地に降臨

 五十猛神が山東に遷座したのと同じ年に須佐神社が在田(千田)に遷座していること。

『和名抄』名草郡の地名に伊太、杵曽、須佐神戸などが見えます。恐らく伊太、杵曽は伊太杵曽だったのが写す途中で地名は二文字だからと思って分けたのでしょう。好字令は和銅六年(七一三)五月甲子に出されており、伊太祁曽神社の伊太祁曽への登場は好字令以降のことかも知れません。

なお、須佐神社の社伝に
向西海洋中往來之船不恭謹則飜覆破碎 元明天皇勅令南面今之社規是也
西を向いている(=海に向いている)ので挨拶のない船を壊すので、南向きにせよと元明天皇の厳命が出た。
とあります。

[10754] Re[10751]: 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。2  大三元 2011/05/17(Tue) 21:32 [Reply]
神奈備さん

リファ有り難うございます。

>  一体国懸神とはどのような神様なのでしょうか。クニカカス、クニを脅かす(志賀剛氏)、国を照す(大三元さん)。

ご存知でも御座いましょうがこんなことを考えています:
神社 シンボル 比定   原義
国懸  日矛  天日矛  国を輝かす
日前  鏡   前津耳  日鏡

 懸=かかす=輝かす
 鏡=前 (真経津鏡=まへつ鏡=前鏡)


[10753] 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。3  神奈備 2011/05/17(Tue) 19:06 [Reply]
巻二九朱鳥元年(六八六)七月癸卯 奉幣於居紀伊國國懸神。飛鳥四社。住吉大神。

巻三〇持統六年(六九二)五月庚寅 遣使者奉幣于四所伊勢。大倭。住吉。紀伊大神。

二つの記事の期間は6年間。今度は病気回復ではなく、藤原京建設を告げる奉幣。藤原京の東、北、西、南の方向に鎮座する大神が選ばれたとの見方があります。

伊勢が登場しています。滝原宮の天照大神と思われます。大倭は大和坐大國魂神社。

紀伊大神ですが、6年前には紀伊國國懸神でしたが、表現が変わっただけなのか、日前大神がいよいよ登場して来たのでしょうか。

巻三〇持統六年(六九二)十二月 遣大夫等奉新羅調於五社。伊勢。住吉。紀伊。大倭。菟名足。

四所奉幣の半年後に新羅からの調を奉っています。菟名足は宇奈太理坐高御魂神社であり、新羅と共通の祖神と思われる高御魂神が出ています。

朱鳥元年から持統六年の間に持統天皇が紀伊に行幸しています。行幸に備えて、紀氏が国懸神から皇室の祖神として天照大神を日前大神として祀ってゴマをすったのかも。

[10752] 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。  和歌山 2011/05/17(Tue) 14:04 [Reply]
春日にも良く似た話があり、榎本神社は元は春日社の地に鎮座していたが、後から来た春日の神に土地を奪われた。榎本は安部山に移ったが参詣者少ないので元鎮座していた春日の土地の一角に祀られるようになった。

とすれば日前・国縣の神は遠くから来たのか?渡来系の可能性大。春日は呼び戻したが日前・国縣は排除した。

[10751] 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。2  神奈備 2011/05/17(Tue) 09:11 [Reply]
 歴史に登場する紀伊の神

 記紀の神様の時代はともかく、歴史の時代に出てくるのは、

神功皇后が紀伊に来た際、夜の暗さになった。これは阿豆那比の罪と言い、二社の祝を一緒に葬ったからとの説明。小竹の祝と天野の祝の二人です。

小竹 和歌山県御坊市 小竹八幡神社  もしくは、紀の川市 志野神社
天野 丹生都比売神社

 次ぎに出てくる神社

 巻二九朱鳥元年(六八六)七月癸卯 奉幣於居紀伊國國懸神。飛鳥四社。住吉大神。
 天武天皇の15年、どうやら天皇の病気を治す祈願を行ったようです。

 突然の国懸神の登場です。日前国懸神宮の片方の神です。日前神ではないのが面白いところです。一緒に奉幣された飛鳥、住吉は特定の氏族の祖神ではなさそうで、国懸神も同じように特定の氏族−紀直など−の祖神ではなかったのでしょう。

 一体国懸神とはどのような神様なのでしょうか。クニカカス、クニを脅かす(志賀剛氏)、国を照す(大三元さん)。

 皇祖神になりかかった神様なのでしょうか。

[10750] 日前宮と伊太祁曽神社との関係など。  神奈備 2011/05/16(Mon) 15:12 [Reply]
 和歌山市立博物館の寺西館長さんのお話を聞かせて頂く機会がありますので、少し調べてみました。日前宮と伊太祁曽神社との関係など。

 国譲り伝承の真偽 伊太祁曽神が日前国懸神宮に社地を譲ったと言う話

『日前国懸神宮本紀大略』垂仁天皇一六年 日前国懸両大神留坐浜宮遷于同郡名草浜之萬代宮而鎮座也今宮地是也
 両神が浜の宮に居たのを名草浜の萬代宮に遷った。萬代宮は今の鎮座地。

『永享文書』日前国懸影向之刻去進彼千町於両宮御遷座山東
 両神が現れた時、伊太祁曽三神は山東に去った。(伊太祁曽三神 山東は現在の伊太祁曽神社鎮座地ではなく、旧社地とされる亥の森 これらは続風土記筆者の解釈)

 前宮司の奧鈴雄氏はこれを「紀伊の国譲り」との表現をされていた。
 また垂仁天皇一六年は、崇神天皇が豊鍬入姫に天照大神を託し、垂仁天皇二十五年、天照大神を豊鍬入姫から離して倭姫に託したと『日本書紀』になり、それが前提となっているのだろう。

 さて、天照大神が皇祖神として登場してくるのは、天武天皇以降のこととされています。崇神垂仁時には、皇祖神が認識されていたとすれば、高皇産靈神のはずであり、その頃の国譲りなどはなかったと言えるでしょう。

[10749] Re[10747][10746][10742]: 神武后  大三元 2011/05/11(Wed) 20:36 [Reply]
神奈備さん

>  蕃神である佛、これなんかも、ホトケとすれば「陰毛」となり、凄いネーミングです。

凄いですね。
念のため調べてみると物部守屋が熱病(ほとほり・け(気))を仏教の所為だとして仏を「ほとほりけ」と呼び、「ほとけ」と略称したのが始まり、という説がありました。お陰様で一つ雑学が増えました。

[10748] 豊中歴史同好会  神奈備 2011/05/11(Wed) 19:34 [Reply]
豊中歴史同好会
2011 5 14 土曜日
堺女子短期大学准教授 水谷千秋
歴史学から見た4・5世紀のヤマト政権と渡来人
5階公民館集会場

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[10747] Re[10746][10742]: 神武后  神奈備 2011/05/11(Wed) 19:33 [Reply]
然れども更に大后(オホキサキ)とせむ美人(ヲトメ)を求(マ)ぎたまひし時、大久米命(オホクメノミコト)白(マヲ)さく、「ここに媛女(ヲトメ)あり。こを神の御子と謂(イ)ふ。その神の御子と謂ふ所以(ユヱ)は、三島湟咋(ミシマノミゾクヒ)の女(ムスメ)、名は勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)、その容姿(カタチ)麗美(ウルハ)しかりき。故(カレ)、美和(ミワ)の大物主紳(オホモノヌシノカミ)、見(ミ)感(メ)でて、その美人(ヲトメ)の大便(クソ)まる時、丹塗矢(ニヌリヤ)に化(ナ)りて、その大便(クソ)まる溝(ミゾ)より流れ下りて、その美人(ヲトメ)のほとを突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。
すなはちその矢を将(モ)ち来て、床の辺(ヘ)に置けば、忽(タチマ)ちに麗(ウ
ルハ)しき壮夫(ヲトコ)に成りぬ。すなはちその美人を娶(メト)して生みし子、
名は富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメノミコト)と謂(イ)ひ、
亦の名は比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と謂ふ。こはその
ほとといふ事を悪(ニク)みて、後(ノチ)に名を改めつるぞ。故(カレ)、ここを
以(モ)ちて神の御子と謂(イ)ふなり」とまをしき。


> 古代のおおらかさに心地良く浸ってみるのも一興かと思います。

 おっしゃる通りです。その心、忘れないようにしたいものです。
「こはそのほとといふ事を悪(ニク)みて」とあり、おおらかさを越えてしまっていそうです。

 蕃神である佛、これなんかも、ホトケとすれば「陰毛」となり、凄いネーミングです。

[10746] Re[10742]: 神武后  大三元 2011/05/11(Wed) 16:10 [Reply]
神奈備さん

拙著のリファ有り難うございます。鵜鵜葺不合尊と綏靖天皇に見られる共通点は注目されます。

さて「ほと」ですが、それほどタブー視なさることもないのではないかと思います。このタブー視はたぶん最近(ここ数百年?)のことではないでしょうか。古代のおおらかさに心地良く浸ってみるのも一興かと思います。

ことばの上からは「ほと」と「ほそ」(へそ、臍)が同源のように思えます。そうしますと、ほとたたら比賣 と へそ(閉蘇紡麻)で三輪神の正体を見破った活玉依比賣 の比較が意味のあるものになってきます。(同源の説話が複数の伝承ルートでそれぞれ変改してきたもの、という捉え方)

更にはイザナミがカグツチを生むとき「ほと」を焼かれて、亡くなる説話からは「ほと」が「火処」であったこと(またはそう理解されていたこと)が想像されます。(火焔土器を見ると ほと の具現化かなと思います。)


> 『古事記』では大久米命が神の御子を紹介しています。美和の大物主神が三島溝咋の娘を見そめて、富登多多良伊須須伎比売命が生まれることになっています。「富登」と言うを忌みて名を改め比売多多良伊須気余理比売と言うとあります。しかし大久米命との歌のやりとりなど、牧歌的雰囲気があります。
>
>  さて、栄光なる初代天皇の后が、「ホト」から始まる名前とはどういうことでしょうか。普通ならカットしてもいい伝承と思います。
>
>  神武天皇の死後、手研耳命の后になりますが、元々、始めから手研耳命の后だったのではないでしょうか。手研耳命は、『紀』では、長く朝政の経験があったとしており、さらに心ばえが仁義に背いていたとされています。手研耳の后なら「ホト」でもいいのと思います。
>
>  ここにもう一つ、奈留多姫命と言う神武天皇の姉がいたのです。
> 筑前国怡土郡(福岡県糸島市前原町)産宮神社 御祭神 奈留多姫命 姫は神渟名川耳命(第二代綏靖天皇)を安産されました。
> http://blog.goo.ne.jp/noyamany/e/8b3bb4a4d3191e9406d41b8a496e20f7
>
>  奈留多姫命は二代目の綏靖天皇の生みの親となっていまう。手研耳と皇位継承争いが起こって当然。
>
>  そうしますと、神武天皇は皇祖とは言えません。
>  神武と奈留多姫命の親である鵜鵜葺不合尊もしくは綏靖天皇が皇祖となります。
>
>  尚、綏靖を神武の子としますと、鵜鵜葺不合尊と綏靖天皇は共に親は彦火火出見尊、叔母を娶るという共通点は『初期天皇后妃の謎』で大三元さんが指摘されています。
>

[10745] Re[10744][10743][10735][10733]: 葦嶽山  琉球松 2011/05/11(Wed) 10:58 [Reply]
 粟島って、香川県の島でしょうか?

 だとすると、讃岐に祀られる「大倭迹迹日百襲比賣命」との関係はどうでしょう。この辺りは瀬戸内海海人の根拠地の一つで、おおむね沖縄諸島産ゴホウラ製貝輪の東限にあたりますね。
 彼ら(後の倭国造?)が奈良盆地へ移動し「鍬型石」の製作に関与した可能性はあると思います。

 「ヲハ(粟・淡・大・青・安房・阿波 )」などの地崎の島は、神々(太陽?)の経由地ですね。

[10744] Re[10743][10735][10733]: 葦嶽山  神奈備 2011/05/09(Mon) 08:36 [Reply]
チェリーさん

ありがとうございます。

伊勢湾の神島から西に線をひいて粟島での太陽のラインを書物にした方がおられました。
そうだとしますと、現実には具体的な測定をどのように行ったのか、これが疑問でした。
途中に山などの障害物があり、大変な仕事だったのでしょう。

現在はPC上で確認ができますので、古代の人々が残していった信号を読みとってあげたいものですね。


[10743] Re[10735][10733]: 葦嶽山  チェリー 2011/05/08(Sun) 03:35 [Reply]
 神奈備さん
 御返事をいただき、ありがとうございました。
 カシミールをもってみえたのですね。葦嶽山は北緯34°50′48″東経133°07′40″(WGS 84)にある815mのピークです。私は、地図をめいっぱい拡大して、地点を右クリックして「新規作成」から「ウエイポイント」を作成しています。(ふたつの「穴門山神社」も、「弥高山」もウエイポイントに落とすと、この先便利ですよ。)今度は地図を縮小して右クリックして、「見通し」を選んでラインを引くと直線が保持できます。
 たまには気分転換でこういった不思議な話もよいかもしれませんね。
 田原神社(34°50′48″・132°58′43″)からカシバードの500mm望遠で葦嶽山を撮影すると、とても幻想的ですよ。お勧めです。
 

[10742] 神武后  神奈備 2011/05/07(Sat) 19:14 [Reply]
『古事記』では大久米命が神の御子を紹介しています。美和の大物主神が三島溝咋の娘を見そめて、富登多多良伊須須伎比売命が生まれることになっています。「富登」と言うを忌みて名を改め比売多多良伊須気余理比売と言うとあります。しかし大久米命との歌のやりとりなど、牧歌的雰囲気があります。

 さて、栄光なる初代天皇の后が、「ホト」から始まる名前とはどういうことでしょうか。普通ならカットしてもいい伝承と思います。

 神武天皇の死後、手研耳命の后になりますが、元々、始めから手研耳命の后だったのではないでしょうか。手研耳命は、『紀』では、長く朝政の経験があったとしており、さらに心ばえが仁義に背いていたとされています。手研耳の后なら「ホト」でもいいのと思います。

 ここにもう一つ、奈留多姫命と言う神武天皇の姉がいたのです。
筑前国怡土郡(福岡県糸島市前原町)産宮神社 御祭神 奈留多姫命 姫は神渟名川耳命(第二代綏靖天皇)を安産されました。
http://blog.goo.ne.jp/noyamany/e/8b3bb4a4d3191e9406d41b8a496e20f7

 奈留多姫命は二代目の綏靖天皇の生みの親となっています。手研耳と皇位継承争いが起こって当然。

 そうしますと、神武天皇は皇祖とは言えません。
 神武と奈留多姫命の親である鵜鵜葺不合尊もしくは綏靖天皇が皇祖となります。

 尚、綏靖を神武の子としますと、鵜鵜葺不合尊と綏靖天皇は共に親は彦火火出見尊、叔母を娶るという共通点は『初期天皇后妃の謎』で大三元さんが指摘されています。

[10741] Re[10738]: あわ  神奈備 2011/05/07(Sat) 09:23 [Reply]
> 和歌山市にも粟(あわ)栗栖(くるす)という地名があります。

 粟地名は全国区。

 栗栖も各地にあります。
 姓氏録から
 和泉諸蕃  栗栖直 阿智王之後
 右京諸蕃上 栗栖首 王仁之後
 河内神別  栗栖連 于摩志摩治命之後

 名草郡の場合には、紀氏栗栖神社が丹生神社に合祀されていますが、祭神に宇摩志摩治命の名が見えています。物部系なのでしょう。

 小豆島と言う地名もあります。

 井辺は元は忌部で、検地の際に井辺と字を変えているようです。「忌」の意味が変わって来たからでしょう。紀伊忌部の祖は彦狭知命。鳴神社や小倉神社が関連の神社のようです。


> 紀淡海峡から阿波忌部氏がわたってきたんでしょうか?

 恐らくそうなんでしょうが、阿波忌部は大和から阿波へとの古典もあるようです。

[10740] Re[10739]: 奈良の写真  とみた 2011/05/07(Sat) 08:17 [Reply]
素人さん お久しぶりです。

鉄の実験考古学ですね。
確かに拘ると面白いです。
私も目の黒いうちにいろいろ拘って調べています。日野原重明さんは99歳、白寿でまだお元気ですから、私も綾かってやっています。古代史探求はボケ予防には最適かと思いながらです。

> 趣味の鉄に関連しまして、鉄いじりに没頭しておりました。松炭やナラ炭などを用いて鉄材を酸化加熱したりしておりました。>  古事記の国譲りの地と思われます三輪山周辺へ行った時の古い写真のアルバムが有りましたので、ご紹介します。
> 写真の後に、私は濡れませんでしたが豪雨と共に三輪山山頂に激しい落雷が続きました。白い大鷺が黒雲中から現れて二上山の方に飛び去ったのもこの時です。

私も奈良には毎年行っています。奈良県なら何処でも地図が頭に描けます。
中央構造線は鉄や水銀や銅など鉱物資源が豊富です。

三重県なら松阪の南の櫛田川流域に、西に進むと奈良県の宇陀へそして吉野川ー和歌山県紀ノ川へ。紀淡海峡で阿波へ渡ると阿波と讃岐の阿讃山脈と吉野川のあたりに中央構造線が東西軸に走っています。

素人さんは三輪山。巻向山あたりも鉄の宝庫とお考えでしょうか。
確かに、巻向あたりに兵主神社があり穴師で鉄穴とみれば鉄ですね。

天日矛など伽耶や新羅の勢力が鉄を求めて瀬戸内海や日本海から近江を経て三輪にやってきた臭いもありますね。


[10739] 奈良の写真  素人 2011/05/07(Sat) 01:46 [Reply]
皆様、長らくご無沙汰しておりました。
趣味の鉄に関連しまして、鉄いじりに没頭しておりました。松炭やナラ炭などを用いて鉄材を酸化加熱したりしておりました。炭によって比重が大きく違い炎の特性が大きく異なります。吹管での鋳鉄の脱炭素が、意外と簡単ではないかと実験しております。古代中国から鋳造後に幾分脱炭素した再生し辛い純度の低い鉄材・廃鉄材が日本に入っていたと考えておりこれら鋳鉄の脱炭素から鉄材を得ていたのではと考えています。吹管での水分を含んだ息が脱炭素に有効と考えられます。
 古事記の国譲りの地と思われます三輪山周辺へ行った時の古い写真のアルバムが有りましたので、ご紹介します。
奈良の写真
http://sinjituhasukunaika.cocolog-nifty.com/photos/sakurai/img_0004b.html
写真の後に、私は濡れませんでしたが豪雨と共に三輪山山頂に激しい落雷が続きました。白い大鷺が黒雲中から現れて二上山の方に飛び去ったのもこの時です。
時々書き込みさせていただきますので、よろしくお願いいたします。

[10738] あわ  和歌山 2011/05/05(Thu) 20:30 [Reply]
和歌山市にも粟(あわ)栗栖(くるす)という地名があります。紀ノ川の下流日前宮の北です。阿波国から紀淡海峡を挟んで東です。周辺には貴志もあり陰陽道と関係があるともいわれています。和歌山市東部には井辺(いんべ)もありますし紀淡海峡から阿波忌部氏がわたってきたんでしょうか?

[10737] 林博章さんから  神奈備 2011/05/05(Thu) 18:37 [Reply]
このたび、下記の要項で、歴史上はじめて神山町でオオゲツヒメフォーラムを開催する運びとなりました。この歴史的なイベントにぜひ、ご参加くださいませ。

詳細な内容と写真等は、下記の阿波歴史民族研究会のホームページとリンクしている4月30日付のブログをみてください。


(開催趣旨)

★私たちが住む愛すべき徳島県は、神代の昔より豊かな食材の宝庫として、大宜都比賣の鎮まる豊饒の大地・粟国(阿波国)と呼ばれ、近畿の台所として山・川・海・平野部の多種多様な食材を提供してきました。そのオオゲツヒメは、稲・粟・麦・大豆・小豆の日本の五穀や養蚕の起源伝承をもつ大地母神として伝えられています。オオゲツヒメは、大粟姫、御食津神、伊勢神宮外宮に祀られる豊受大神との別名で呼ばれ、神代から現在に至る日本人の食と命を守ってきました。そのオオゲツヒメを祀るのが神山町であり、神山町の歴史・文化・信仰の中核に位置付けられています。そこでオオゲツヒメを神山町の産業教育文化振興の基盤に据え、神山町の活性化を促すために、オオゲツヒメフォーラムを開催します。

●期日・場所*5月21日(土)

10:00〜11:00フォーラムの成功祈願(神山町神領字西上角「上一宮大粟神社」)

13:00〜16:00オオゲツヒメフォーラム in 神山

              神山町農業環境改善センター(神山町神領字中津)

17:00〜オオゲツヒメ交流会 

●内容*オオゲツヒメフォーラム

      基調講演 阿波歴史民族研究会 林 博章(県立高校社会教諭)

              「オオゲツヒメを神山町から日本全国へ発信」

      オオゲツヒメシンポジウム(内容の予定)

        パネラー@上一宮大粟神社宮司 阿部千二「日本に伝えたいオオゲツヒメの心」

              A徳島県観光協会理事 永井英彰「観光立県にむけて発信するオオゲツヒメブランド」

              B農家レストラン幸福家 中谷秀久「神山町をオオゲツヒメの町に」

              C阿波歴史民族研究会 林 博章「オオゲツヒメを徳島県の顔に」(コーディネーター)

●主催 オオゲツヒメフォーラム実行委員会

●昼食・オオゲツヒメ弁当1.000円(要予約)/交流会費5.000円(要予約)/宿泊希望の方は申込ください。

●問合・申込(参加者は申込ください) 中谷090−5270−8277

http://www3.tcn.ne.jp/~aska/
ブログ:http://blogs.yahoo.co.jp/aska_hayashi/



[10736] Re[10734][10730][10729][10728]: 玖迩阿禮  神奈備 2011/05/05(Thu) 18:31 [Reply]
> 緑まどかさん
縁まどかさんです。

> 倭直は大和神社ですね。
大和 大和坐大國魂神社三座 が延喜式にあります。

同じく、
淡路 大和(大)國魂神社
阿波 倭大國玉神大國敷神社二座
これらも、倭直が祀った神社かもしれません。大和から遷座していったのか、大和に入って来たのでしょうか。


国内で積石墓の多い地域を調べたことがあります。
 長崎県対馬 山口県児島 愛媛県津島町高田 香川県石清尾山塊 徳島県吉野川流域 和歌山県 長野県 山梨県
 共通には、ツングース系の渡来人が多い地域のようです。


> 讃岐は大麻山の東麓に大麻神社があり、大麻山に野田院古墳があります。

弥生時代から古墳時代への移行の頃の以下の古墳は、立地、墳丘、列石、竪穴式石室、鏡の副葬、東西方向の長軸などの基本的要素が共通しています。これらの地域の王の連合を示しているようです。        
 岡山市総社市 宮山墳丘墓    徳島県鳴門市 萩原一号墳
 兵庫県揖保郡 養久山一号墳   奈良市桜井市 纏向石塚

[10735] Re[10733]: 葦嶽山  神奈備 2011/05/05(Thu) 18:31 [Reply]
チェリーさん、興味深いお話ありがとうございます。

カシミールで確認しようと思ったのですが、葦嶽山を見いだすことができませんでした。

土地勘のつく地域で、このような調査をして見ますと、お書きのような発見がなされるのでしょう。楽しみですね。

[10734] Re[10730][10729][10728]: 玖迩阿禮  とみた 2011/05/05(Thu) 11:22 [Reply]
神奈備さん 確かに忌部氏の探求も面白いですね
>  林博幸さんと言う徳島の高校の先生が阿波忌部氏の研究者として著名な方ですが、『日本の建国と阿波忌部』と言う本を出されています。この中で、「石野博信さんが、「ホケノ山古墳:の被葬者として、3世紀中葉の阿讃の海洋民だった。」と推定されていることを紹介しています。

林博章さんです。私も嘗てこのコーナーで緑まどかさんのご紹介で本を取り寄せまして読みました。その後は考古学的なアプローチで迫っています。
大麻山は阿波の鳴門市の板野町・板東町の北、阿讃山脈の南麓と讃岐の善通寺市の南にあります。

阿波は大麻山の麓に大麻ヒコ神社があり萩原一号墳も近いのでしょう。3世紀初めの古墳でしょうか。石囲い木槨で大和桜井市のホケノ山と同じです。楽浪郡で作られたと思われる画文帯鏡も同じものが埋葬されています。
讃岐は大麻山の東麓に大麻神社があり、大麻山に野田院古墳があります。
これは3世紀後半の積石塚です。

萩原一号も野田院も其の古墳の墳頂に積石方形壇がありホケノ山の墳頂にも積石方形壇があります。
忌部氏が絡んでいると面白いですね。これは少し
青草です。阿波と讃岐が吉備と同じく大和に影響を与えていそうです。
石野博信さんは、ホケノ山は阿讃出身者の墳墓と想定されています。

>  倭国造の祖となる珍彦の渦とは鳴門海峡の渦潮であり、この辺の海洋民のボスだったのではとされています。言うまでもなく、珍彦は椎根津彦であり、神知津彦と呼ばれます。 淡路の和知津美命の子が大倭玖迩阿禮比賣命=イザナミ命としますと

倭直は大和神社ですね。これは天理市柳本でしょうか。纏向の北で、唐古鍵遺跡の東です。近くに西殿塚古墳と東殿塚古墳があります。東殿塚の円筒埴輪には船の絵が描かれています。

海の民に関係がありそうです。
東殿塚の円筒埴輪が丸亀の快天山古墳に入り、逆に阿讃の壺形埴輪が大和に入っています。交流があった証拠でしょう。

[10733] 葦嶽山  チェリー 2011/05/05(Thu) 00:52 [Reply]
 皆さんのおっしゃっていることの十分の一も理解できていないので、迷ったのですが、初めて投稿いたします。
 とても変わった内容なので、何を馬鹿なことをと思われるかもしれませんが、いつの日か、どなたかの参考になることがあればと思います。
 山を基準としていろいろな場所を結ぶ直線を、趣味として調べています。元伊勢といわれる「穴門山神社」が二箇所ありました。岡山県倉敷市と高梁市です。この二つを結んでみたところ、その延長線上に「葦嶽山」があったのです。日本のピラミッドです。「カシミール3D」というソフトを利用しているのですが、全くずれていませんでした。直線上に「弥高山」という円錐形(お椀形?)の山が位置しますので、この直線は葦高山と弥高山を結んだ直線だと思います(お互いを直接見ることはできませんが)。
 抜きん出て高い山でもない葦嶽山がどうして選ばれたのかが不思議でした。日本のピラミッドの事はよくわかりませんでした。でも、葦嶽山が昔から崇められてきた事がいろいろなところに書いてありました。この山は西側から見るとよく見えるようで、地図上のどこかにその痕跡がないかと探したところ、広島県庄原市の神社が見つかりました。「田原神社」です。カシミール3Dで調べると、ここから葦嶽山は90.00°にあたります。つまり真東なのです(見えますとの判定がありました)。
 この田原神社を検索したところ、神奈備さんの「稚日女尊を祀る神社一覧」に辿り着いたわけです。
 私的に大変なことになってしまったというのが今の心情です。これ以上この事を探っていくのには知識が全く足りません。お礼の意味もあって、とりあえず事象だけでも投稿しようと思ったわけです。
 ほとんどの方はなんて馬鹿な事をと思われると思います。御容赦ください。
 
 

[10732] Re[10731]: 大麻綜杵命  大三元 2011/05/04(Wed) 21:37 [Reply]
神奈備さん

ここら辺(古代の四国)「も」面白いですね。
なにせ情報量が足りない;だから面白いのかも。
牽強付会説に気を付けながら勉強してみます。

[10731] 大麻綜杵命  神奈備 2011/05/03(Tue) 09:59 [Reply]
 話は変わりますが、徳島県吉野川市(旧麻植郡)鴨島町麻植塚字堂の本鎮座の五所神社の祭神は、普通物部の五世孫の欝色謎命と同世代の大麻綜杵命となっています。大麻綜杵命は全国でここ一社です。その妃が高屋阿波良姫で、生まれたのが伊香色謎命・伊香色雄命で、伊香色謎命は崇神天皇の生みの親となります。高屋阿波良姫は阿波の文字からして阿波忌部氏の娘さんと思われます。

 阿波国麻殖郡に式内社の伊加加志神社が鎮座、http://www.genbu.net/data/awa2/ikakasi_title.htm
 しています。

伊香色謎命に阿波忌部氏の血が半分、そうすると、崇神天皇の1/4は阿波忌部の血、半分は全天皇の血、残りの1/4は物部と言えそうです。


[10730] Re[10729][10728]: 玖迩阿禮  神奈備 2011/05/02(Mon) 09:37 [Reply]
 大三元さんのお目にとまりましたか、これからが楽しみですね。

 林博幸さんと言う徳島の高校の先生が阿波忌部氏の研究者として著名な方ですが、『日本の建国と阿波忌部』と言う本を出されています。この中で、「石野博信さんが、「ホケノ山古墳:の被葬者として、3世紀中葉の阿讃の海洋民だった。」と推定されていることを紹介しています。

 林博幸さんは、後に倭国造の祖となる珍彦の渦とは鳴門海峡の渦潮であり、この辺の海洋民のボスだったのではとされています。言うまでもなく、珍彦は椎根津彦であり、神知津彦と呼ばれます。大山元著『初期天皇后紀の謎』に指摘されている、淡路に住んでいた和知津美が思い起こせます。

 淡路の和知津美命の子が大倭玖迩阿禮比賣命=イザナミ命としますと、『神代紀一書第二』のイザナギの前の神が沫蕩尊(アワナギ)のアワも意味があったのかも知れません。

[10729] Re[10728]: 玖迩阿禮  大三元 2011/05/01(Sun) 11:22 [Reply]
神奈備さん、とても面白いご指摘で、こちらでも下記のような要素で頭の体操やってみます。

>  七代孝霊天皇の妃となった大倭玖迩阿禮比賣命は、三代安寧天皇の皇子の師木津日子命の子の和知津美命の娘です。和知津美命は淡道の御井宮に坐したと『古事記』にあります。おそらく旧三原郡の産宮神社付近なのでしょう。ここでは将来反正天皇が生まれます。三原郡には、式内社の大和大國魂神社が鎮座、大和は大倭と同意です。

●反正天皇の名が「みづはわけ」というのが強烈に光ってきます。

>  「玖迩阿禮」とは「国生れ」の意で、大和国を生んだ比売と言う名です。淡路ですから、イザナミ命を思わす名前です。イザナミ命を祀る式内社が阿波国美馬郡の伊射奈美神社です。美馬郡には式内社の倭大國玉神大國敷神社が鎮座、淡路と似ているようです。

●彌馬獲支を「みまわき(みまわち)」と考えて「美馬+和気」がイイガカリのネタになれそう。

>  大倭玖迩阿禮比賣命を祀る式内社が阿波国名方郡にあります。天佐自能和気神社です。イザナミと供に阿波に遷座しているようです。

●「佐自」(さし)は出雲系譜の「刺国大神→刺国若比賣」の「刺」で考えてみたりしています。

>  卑弥呼にも擬せられる大倭迹迹日百襲比賣命は大倭玖迩阿禮比賣命の子です。百襲姫は讃岐の式内社の水主神社、阿波の定水神社の祭神です。水神のようです。一方イザナミ命の子の水神が弥都波能賣神で、阿波に神名ずばりの式内社があります。比例している感じです。

●反正(みづはわけ)の兄が履中その名が「いざほわけ」、イザナミのイザにつながるようです。

[10728] 玖迩阿禮  神奈備 2011/04/29(Fri) 21:38 [Reply]
 七代孝霊天皇の妃となった大倭玖迩阿禮比賣命は、三代安寧天皇の皇子の師木津日子命の子の和知津美命の娘です。和知津美命は淡道の御井宮に坐したと『古事記』にあります。おそらく旧三原郡の産宮神社付近なのでしょう。ここでは将来反正天皇が生まれます。三原郡には、式内社の大和大國魂神社が鎮座、大和は大倭と同意です。

 「玖迩阿禮」とは「国生れ」の意で、大和国を生んだ比売と言う名です。淡路ですから、イザナミ命を思わす名前です。イザナミ命を祀る式内社が阿波国美馬郡の伊射奈美神社です。美馬郡には式内社の倭大國玉神大國敷神社が鎮座、淡路と似ているようです。

 大倭玖迩阿禮比賣命を祀る式内社が阿波国名方郡にあります。天佐自能和気神社です。イザナミと供に阿波に遷座しているようです。

 卑弥呼にも擬せられる大倭迹迹日百襲比賣命は大倭玖迩阿禮比賣命の子です。百襲姫は讃岐の式内社の水主神社、阿波の定水神社の祭神です。水神のようです。一方イザナミ命の子の水神が弥都波能賣神で、阿波に神名ずばりの式内社があります。比例している感じです。

 弥都波能賣神は大和では丹生神社の祭神に多く、水神・水銀の神とされており、同じく百襲姫も水銀の神と言えるでしょう。阿波には若杉山遺跡と言う弥生時代後期までの水銀鉱山がありました。ここが涸渇して来たので注目されたのが、大和国宇陀郡の水銀鉱山です。大和水銀鉱山で宇陀市菟田野区にありました。戦後閉山されたようです。神武天皇が大和へ入った最初の地が宇陀のようで、最重要ポイントだったのでしょう。

[10727] Re[10726][10725][10724]: 多藝志      生田淳一郎 2011/04/28(Thu) 15:18 [Reply]
> 角川新版古語辞典 当藝当藝斯玖 たぎたぎしく

● あり難うございました。

[10726] Re[10725][10724]: 多藝志      神奈備 2011/04/28(Thu) 14:11 [Reply]
> まいど〜
> > 『古語辞典』の当藝当藝斯玖
> ● とても進んだ辞書だとみました。出版社、辞書名を教えてください。
>   「当藝当藝」はひらがな、カタカナではどうルビがふってありましょうか。

角川新版古語辞典 当藝当藝斯玖 たぎたぎしく

[10725] Re[10724]: 多藝志      生田淳一郎 2011/04/28(Thu) 14:07 [Reply]
まいど〜
> 『古語辞典』の当藝当藝斯玖
● とても進んだ辞書だとみました。出版社、辞書名を教えてください。
  「当藝当藝」はひらがな、カタカナではどうルビがふってありましょうか。

名古屋に柘植さんがいたことを憶いだしました。侮蔑語ではないはずです。
「足に力がなくなること」は、和歌山さんがおっしゃった「よだきい(たいぎだ)」に通じましょう。
/ ネパール語 thakai(疲労、疲れ)。末尾の --ai は強調接尾辞なので、*thak が語幹。
多藝志の志は「…の、之」でしょう。

「多藝」には、神もありますし、まだまだ隠れている内意があるかと思います。

[10724] 多藝志  神奈備 2011/04/28(Thu) 10:15 [Reply]
 『古事記』の国譲り譚に、大国主神の要求は、天津神の御子と同じような宮殿を造る事を要求しました。出雲国の多藝志の小濱に天の御舎が出来ました。

 出雲国の多藝志の小濱とは多分、現在出雲大社が鎮座している場所なのでしょう。

 同じく『古事記』で、神武天皇の阿多の妃である阿比良比売が生んだ御子に多藝志美美命がいます。神武天皇の死後、當藝志美美命は大和で生まれた皇子達を殺そうと企てますが、逆襲されて殺されます。

 多藝志美美命の美美は「何らかの尊称」(『初期天皇后妃の謎』から引用)としますと、多藝志さんと言うことになります。

 『古語辞典』の当藝当藝斯玖は、でこぼこのあるさま、びっこをひくさま、足に力がなくなること(日本武尊の最後のシーン)とあります。

 多藝志とは、なんらかの「侮蔑感」を持った言葉なのでしょうかね。

[10723] Re[10720][10719]: 石切、枚岡、生駒山  和歌山 2011/04/24(Sun) 23:08 [Reply]

>  一般的に東西のラインは日神信仰を示すと言われますが、生駒山麓の大阪側の神社では恩地神社のように自然に西向きになるのもあるのかも。
>>  石切さんの東西軸は饒速日尊と言う日神を祀っている故なのか、山を背にしたいからか、どうなんでしょう。
>
 春日大社は本殿は南面しているが若宮は西面しています。古くは背後の御蓋山は西から遥拝していました。東大寺大仏殿は南面で二月堂は西面、二月堂の観音さんは大阪湾から出現した。猿沢池畔の采女神社は西面。
地理的或いは故事により色々理由はありますが南面思想が普及しているにもかかわらず西面するには理由ありそうです

[10723] Re[10722][10721]: 戯言     生田淳一郎 2011/04/23(Sat) 09:53 [Reply]
風と雷さま
どのような経緯で、ご先祖のお一人に焦点をお当てになられて、「これでいい」との確信に至られたのか、小生はそこに最大の関心があります。
ここの掲示板は、なんだか理詰め〜学問の領域ですので、できたら、ここの裏番組『青草談話室』で、み胸のうちをご開陳していただけませんか?
 
一人の人間が生まれるには、二人の両親が必要ですよね。二代前は 4人の先祖が必要。三代前は 8人。その前は 16人。
小生は数字オンチですが、友人が申しますには、 800年まえの先祖は 1億人を越えるそうです。
海の中には人は住んでいませんので、この日本列島には同じ遺伝因子が重層し、大略みんな同じ先祖を戴いているのではないでしょうか?

その名草姫様の前の先祖には、ぜんぜん配慮しなくってもいいような、そういった筆走り(勢い)も感じますが・・・・・。

[10722] Re[10721]: 戯言  神奈備 2011/04/23(Sat) 08:52 [Reply]
興味深いご投稿ありがとうございます。

> 五十猛大神様を崇め奉り大自然の神々様と交信し代々御役目をまっとうする役職の女性を「名草姫神様」とお呼びします。

それゆえ、名草姫神を中言神社にお祀りしている理由がよくわかりますね。

[10721] 戯言  風と雷 2011/04/22(Fri) 21:06 [Reply]
ただの戯言です。不愉快ならば 削除してください。

私は名草一族の生まれ変わりです。二度 生まれ変わっています。

名草姫神様は 御一人ではありませんでした。

五十猛大神様を崇め奉り大自然の神々様と交信し代々御役目をまっとうする役職の女性を「名草姫神様」とお呼びします。

「五十猛大神様」「丹生都姫大神様」と大いに関係があります。

自称「神武天皇様」の名をかたった賊によって討ち取れました。

本物の「神武天皇様」の場合。時間、年、環境共につじつまがあいません。

AD600年以後 藤原家と朝庭と仏教の利害関係の為に「古事記」「日本書紀」が誕生しました。真実と嘘が入り混じった本です。事実として世間では認められていますが「真実」ではありません。

もう一つ言えば、、、「天照大神様」は一神様ではありません。

男神様と女神様 二神あわさりて「天照大神様」と申します。

女神「天照大神様」は御存じ天皇家の氏神様であえられます。

男神は「ニギハヤヒ大神様」であられます。

これからも「五十猛大神様」を崇め奉り 名草一族の誇りを胸に刻み、生きて行きます。







[10720] Re[10719]: 石切、枚岡、生駒山  神奈備 2011/04/21(Thu) 15:52 [Reply]
> 石切神社も元は西面していたのではないかと思います。古代信仰の東西軸、南北軸です。

 石切神社の創建は「神武二年に東側の宮山に饒速日命と宇摩志摩治を祀った。」と社伝にあります。上の宮が宮山を背後に鎮座していますので、ここが創建の地だったのかも。

 一般的に東西のラインは日神信仰を示すと言われますが、生駒山麓の大阪側の神社では恩地神社のように自然に西向きになるのもあるのかも。

 住吉大社も東西軸を重視しています。船玉神社は神功皇后を祀る第四本宮の前に西向きに鎮座しており、第四本宮を通して御所御前の降臨する住吉三神を祀っていたとされています。皇后も日神であったといえるのでしょう。

 石切さんの東西軸は饒速日尊と言う日神を祀っている故なのか、山を背にしたいからか、どうなんでしょう。


[10719] 石切、枚岡、生駒山  和歌山 2011/04/21(Thu) 01:33 [Reply]
先日大阪の石切神社へ行ってきました。近鉄石切駅を降りると神社まで下りです。
途中鳥居をくぐりますが形式的には鳥居の下方に拝殿です。途中の門前町は下り坂
です。これは近鉄線が出来てからだと思いますが、昔は奈良方面から生駒山の聖天さんをお参りして石切さんに参ると当然下りになります。しかし鳥居は南方にあり神社も南面しています。地理的条件によるのでしょう!
なお枚岡神社も生駒山麓にりますが西面しています。背後にイワクラがあります。石切神社も元は西面していたのではないかと思います。古代信仰の東西軸、南北軸です。

[10718] Re[10710]: 藤原不比等と倭国王帥升等  mai nakahira [Url] 2011/04/20(Wed) 18:37 [Reply]
神奈備さま、みなさま

> 前月の「古代を偲ぶ会」で岡山大学の松本武彦先生の講演を拝聴しました。

なかひらです。ちょっとご無沙汰していました。
松木先生の講義、わたしも拝聴しました。
炭素年代測定の詰めの厳しさに驚きました。考古学異物という、物的証拠があっても年代が確定できるわけでないことを正直に明かしていて凄いと思いました。

東電にも見習ってほしいです。

『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』、おかげさまで大変好評です。古代史やスピ好きでまだご存じない方がいらっしゃいましたら、ぜひこちらのサイトに遊びにきてください。

http://studiomog.ne.jp/lineup/nagusa/

[10717] Re[10716]: 宝賀寿男 神武東征 から  琉球松 2011/04/18(Mon) 22:46 [Reply]
 長髄彦は、神武側に正当性があるのを承知で抵抗していますね。
 しかも本人?は殺されたことになっているわけですから、阿波に逃げたとするのはその残党でしょうか? 長髄彦の墓とされる地が徳島県にあると面白いんですけどね。

 それと、その多祁御奈刀弥神社は、和歌山県の竈山神社とは敵対関係とかって伝承はあるでしょうか。

[10716] 宝賀寿男 神武東征 から  神奈備 2011/04/13(Wed) 10:53 [Reply]
長髄彦が阿波に逃げたとの話があります。
その後裔が祖神の建御名方を祀ったのが、阿波の名方郡の式内社である多祁御奈刀弥神社。
刀弥は長髄彦の居住地の登美を現しています。

[10715] 題: 和歌山の古代(仮題)  神奈備 2011/04/11(Mon) 19:11 [Reply]
勘太郎さんから古代史講演会のお知らせがありましたので紹介します。

演者: 寺西貞弘(和歌山市立博物館館長)
演題: 和歌山の古代(仮題)
場所: 和歌山市立博物館
受講料: 無料(ただし、博物館の入館料が必要です/たぶん200円)
日時: 5月22日(日) 午後1時30分から約90分

和歌山市立博物館
http://www.wakayama-city-museum.jp/top.html
南海和歌山市駅下車、徒歩5分です

寺西貞弘先生は、著書「古代熊野の史的研究」を読んで知りました。
もう少し詳しく知りたくて森昌俊(歴史館いずみさの館長)さんに仲介を
お願いし快諾を頂きました。

お願いに行ったとき、伊太祁曽神社と日前宮の関係がいまいち分からない
ので勉強してみたいとのことでした。面白い話が聞けそうです。


[10714] Re[10713][10712][10711]: 豊中歴史同好会  とみた 2011/04/10(Sun) 11:55 [Reply]
> とみたさん。あまり参考にはならないお話でした。
>
>  荊木美行先生の「歴史学からみた四五世紀における政権交替」のさわり
>
>
>  いわいる倭の五王について南朝からの册封の差から見た倭王のスタンスについてのお話でした。

神奈備さん ありがとうございます。

倭の五王の話でしたか。

五王と仁徳―雄略との対応は以前からいろいろな解釈があります。

いずれにせよ5世紀の河内政権ですね。

私は4世紀の謎を追っていますので、やはり期待外れでした。

新しい方が考古学的にも追いかけて居られます。こちらに期待しましょう。

埴輪制作、石製模造品などで4世紀の謎解きが深められています。




[10713] Re[10712][10711]: 豊中歴史同好会  神奈備 2011/04/10(Sun) 10:03 [Reply]
とみたさん。あまり参考にはならないお話でした。

 荊木美行先生の「歴史学からみた四五世紀における政権交替」のさわり


 いわいる倭の五王について南朝からの册封の差から見た倭王のスタンスについてのお話でした。
 
 (1)称号は変化する
  (『宋書』の対倭関係記事)
  @讃死弟珍立、遣使貢献。自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。
   珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。(倭国伝)。
  A(元嘉十五年〔438〕四月)己巳、以倭国王珍為安東将軍。(文帝本紀、@の記事に一致) 
  B(元嘉)二十年(443)、倭国王済遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。(倭国伝)。
  C(元嘉)二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故。並除所上二十三人軍郡。(倭国伝)。
 ※「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東(大)将軍倭王なのか、「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東(大)将軍倭国王なのか。

  D(元嘉二十八(451)秋七月甲辰、安東将軍倭王倭済進号安東大将軍。(文帝本紀)
  E済死、世子興遣使貢献、世祖大明六年(462)、詔日、倭王世子興(中略)可安東将軍倭国王(倭国伝)。
  F(大明六年三月) 壬寅、以倭国王世子興為安東将軍。(孝武帝本紀)。

 (2)済関係の史料の解釈
  まず、元嘉二十八年に「安東将軍倭国王」済の遣使があって、済は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将倭王」とされた。(史料B→C)。そして、すでに「倭王」となっていた(倭)済に対して、おなじ年の秋七月にも将軍号の進号があって、(倭)済は「安東将軍」から「安東大将軍」へと進められた(史料C→D)。

  (3)讃の爵号はどう変わったか
  G倭国在高麗東南大海中、世修貢職。高祖永初二年(421)、詔曰、倭讃万里修貢、遠誠宜甄、可除授。太祖元嘉二年(425)、讃又遣司馬曹達奉表献方物。(倭国伝)。
  H(元嘉七年春正月)是月、倭国王遣使献方物。
 ※讃は、Gの永初二年(421)の遣使で「安東将軍倭国王」となった → 遣使をかさねるうちに、史料@のような珍の自称に近い爵号を得た → もし、そうだとしたら、讃も、最終的には、「倭国王」から「倭王」へとその称号が変化しなければならなかったはずで、わたくしは、おそらく、興をのぞく倭の四人の首長たちは、「安東将軍倭国王」→ 「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東(大)将軍倭王」というパターンで封冊・除正されてきた(「倭国王」から「倭王」への称号の変化は、「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事六国諸軍事」と連動しておこなわれたことがよくわかる。
  

 まとめ
 (1)興以外四王は「安東将軍倭国王」から「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東(大)将軍倭王」へと進められた。
 (2)その理由は、倭が中国の(潜在的)主権の一部を譲られるために「王国」国から「王」国へとその従属度がかわらなければならなっかという点にもとめられる。
  (3)しかし、倭は、こうした中国の処置を望まずも、むしろ、独立性の強い「倭国王」を自称した。このことは扶南と異なって、倭が強い自立性をもって外交をおこなったことを示すもので、それがひいては、南朝との国交断絶の原因にもなった。

 (注)
 中国の(潜在的)主権 新羅などの軍事支配の権利をさす。
 倭王興 在位期間が短期であった。
 要は、役に立たない称号を貰っても意味がないということ。


 なお、477年(昇明元)に倭国が使いを遣わしていますが、この時の倭王についての疑問がドンタクさんから提出されました。
 荊木先生は興とされたのですが、塚口義信先生は倭王武とされています。

[10712] Re[10711]: 豊中歴史同好会  とみた 2011/04/08(Fri) 09:43 [Reply]
> 2011 4 9(土)14時ー16時
> 皇學館大学教授 荊木美行
> 歴史学から見た4・5世紀における政権交代
> 5階公民館集会場
>
> http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

神奈備さん大変興味を持っております。

是非、講演の要旨を教えてください。

実は先週、私は東京新宿の会場で、4世紀の謎と題して100人の前で講演をしました。

伝承では神功皇后とヤマトタケルの時代です。

私は佐紀盾列古墳群と景行の渋谷向山古墳、崇神の行燈山古墳と大和川・石川合流点の玉手山古墳群の関連がすこし理解できました。

鰭付円筒埴輪と蓋形埴輪が佐紀盾列古墳群の勢力が各地の豪族と同盟するための配布財です。三韓征伐に豪族を巻き込んで新羅と高句麗と闘ったのでしょう。

倭は伽耶の鉄を求めて伽耶を応援した。百済と倭国の関係が未定です。
広開土王碑と七支刀に書かれた金石文しか材料はありません。
沖ノ島祭祀は4世紀後半にはじまり倭軍の朝鮮進出の航海安全と戦争勝利を祈るものです。
佐紀盾列や天理は和邇氏の本拠です。この勢力が絡んでいそうです。

以上の私の仮説を、皇学館大の先生の意見でどう修正すべきか参考にしたいのですが・・・

[10711] 豊中歴史同好会  神奈備 2011/04/08(Fri) 08:57 [Reply]
2011 4 9(土)14時ー16時
皇學館大学教授 荊木美行
歴史学から見た4・5世紀における政権交代
5階公民館集会場

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[10710] 藤原不比等と倭国王帥升等  神奈備 2011/04/05(Tue) 14:15 [Reply]
前月の「古代を偲ぶ会」で岡山大学の松本武彦先生の講演を拝聴しました。

2世紀初頭の最大の墳墓は倉敷の楯築墳丘墓のようです。倭国王の墓にふさわしいとのこと。丁度、『後漢書東夷伝』に、「107年に倭国王帥升等が生口160人を献ず。」と記されています。時代もピッタリで、楯築墳丘墓は倭国王帥升等の墓ではなかろうか。また、卑弥呼が国王に推戴されたのは、霊能の高さだけではなく、昔の倭国王帥升等の後裔にあたる姫だからとのサジェッションがありました。実に示唆に富むお話でした。

 吉備で思い起こすのは、吉備津彦です。この親は孝霊天皇です。孝霊天皇を祀る神社は、県別に見ますと鳥取10社、岡山9社、広島12社、高知11社と岡山を中心に分布しています。全国で50社。
 次の天皇で50社の神社を数える天皇は崇神天皇です。神武天皇は10倍ありますが、欠史八代中孝霊天皇の次に多いのは綏靖天皇の32社(熊本19社)です。

 孝霊天皇は卑弥呼に擬せられる倭迹迹日百襲姫命の父親でもあり、倭国王帥升等に比定できないことはなさそうです。
 107年に倭国王帥升等が倭国王であった。娘の卑弥呼は248年に死去。卑弥呼は90歳まで生きたとしますと、生まれたのは158年、倭国王帥升等、生口を献じてから51年目の卑弥呼誕生となり、ぎりぎり成り立ちます。

 孝霊天皇が吉備にいた倭国王帥升等とし、その墓を楯築墳丘墓としますと、当時の最大権力者として成り立ちます。このように考古遺跡によって欠史八代の存在が語られるようになれば面白いことになると思います。

[10709] Re[10708]: 疱瘡勧進  神奈備 2011/04/03(Sun) 15:07 [Reply]
> 貞観の疫病という記述を目にしますが、何の疫病かは、書かれていない、
> そうか、この疫病とは、当たり前過ぎて書く必要がなかったのか?
> 天然痘つまり疱瘡だった、のでしょうか。

 牛頭天王はあばた面で、まさに疱瘡の神様です。貞観十八年頃、祇園感神院に牛頭天王が勧請されたとの説もあるようです。

[10708] 疱瘡勧進  多美 2011/04/03(Sun) 11:25 [Reply]
南九州地方にホソカンジンという珍しい習俗があるらしいですが、
カンジンとは五木の子守唄にあるカンジンのことのようです。

貞観の疫病という記述を目にしますが、何の疫病かは、書かれていない、
そうか、この疫病とは、当たり前過ぎて書く必要がなかったのか?

天然痘つまり疱瘡だった、のでしょうか。



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