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掲示板のログ(平成二十三年 七月〜 2011.7〜)お名前の敬称は省略しています。

[10915] Re[10914][10913][10912][10911][10910]: 手力男神と住吉神  郭公 2011/09/30(Fri) 20:05 [Reply]
 神奈備さんはもちろんのこと常連の皆さんはレベルが高くて、時々読ませてはいただいてますが、難しくてよくわからない。
 このたび、天手力雄が話題になっていましたので、常日頃思っていたことを書かせていただいた次第です。

>対馬の南辺に豆酸(ツツ、現在の厳原町)という古邑があることから、ツツノヲという神名は豆酸の男ではないかとされ、

 星説もありますよね。オリオン座も有力な一説だとは思いますが、シオツツノヲジ、シオツチノヲジ、イカヅチ、ツチノコのツツ(ツチ)ではないかと思ってみたりしております。

 シオツツ、シオツチからツツとツチは同意でせう。
 イカヅチ(雷)、ツチノコ(蛇)から、ツツ(ツチ)は、細く長いものではないか。
 シオツツ、シオツチは、海流、つまり海の道ではないか。
 そこから考えますと、ツツノヲのツツは、海蛇、あるいは龍蛇。住吉大社の鬼瓦みたいなのは龍になっていますので、龍ではないかと思ってみたりしております。

 豆酘にも雷神社があり、谷川健一はこれは蛇神だと言ってます(『古代海人の謎』)。 雷で蛇なんですから、龍蛇ではないかと。

[10914] Re[10913][10912][10911][10910]: 手力男神と住吉神  とみた [Url] 2011/09/30(Fri) 09:25 [Reply]
神奈備さん、郭公さんいずれも大変な研究家で敬意を以て論を見ております。船木氏との関わりが特に興味が持たれます。
住吉神社について、書かれたものを参照しながらです。
海路の守護神として現れます。
延喜神名式で名神大社とされた、住吉神社は全国で5社あった。それが摂津の墨江(大阪)、長門の豊浦(下関)、筑前の那珂(福岡)、壱岐の那珂(芦辺)、対馬の鶏知(ケチ)と連なるわけで、畿内と大陸(朝鮮)を結ぶ海路の要衝にある。
なお、住吉大社神代記に拠れば、紀伊と播磨にも住吉大神宮があり、さらに新羅国一処、大唐国一処とあることはこの神が大陸へと指向していたことを示す。

通説としては摂津を本拠とした津守氏が奉じた神とされるが、神話上の筒之男神はス少童神(ワタツミ)と共に筑紫で発現したことになっていて、海神(ワタツミ)の眷属神とみられる。これは海神を奉じた阿曇氏の本拠が筑紫であったことからして同じ筑紫の筒之男神が摂津の墨江に進出し住吉大神になったと考えられる。
これに対して田中卓氏は、筒之男という神は和多都美の神と共に対馬に発現したとする見解である。
対馬の南辺に豆酸(ツツ、現在の厳原町)という古邑があることから、ツツノヲという神名は豆酸の男ではないかとされ、神功皇后の新羅征伐を契機として畿内に進出したのであろう。
対馬の住吉神社が神功皇后の伝説を語り、宮司は嘗ては鶏知⇒慶知大掾と称した阿比留氏であった。・・・・

素人の私は、青草で、住吉大社が難波の海の守護神。新羅州の対岸に位置し、新羅寺という神宮寺と深いかかわりがあることで新羅系渡来人集落があったのではと考えていますが。
また俗に、播磨の加古川の東には住吉神社が多いのが気になっています。
武庫湾には猪名川が入りますが元々は稲の川であったのか。新羅の船大工の猪名部氏の関わりの名か、猪名川の東は秦上・下の郷があり秦氏の進出も気になります。

>『摂津国風土記逸文』またいう、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。

阪急宝塚線で売布という地名がある。
この辺りでしょうか稲倉山。これが丹後に追われたのは仲哀天皇の後か。応神が九州から凱旋して摂津に居た仲哀の子の忍熊王。香坂王と戦い負かす。
丹後の籠神社は郷土史家によれば元来は日本海の久美浜にあったのを宮津に移したのだそうです。籠神社は海部氏、火明命。火明か命はタカミムスビの娘のタカ幡チチ姫の長男。天照神社の元は対馬の天麻氐留(アマテル)神社がルーツか。
丹後一之宮の籠神社の奥宮は真名井神社で此処にも豊受が入っているし、創始は天火命の孫の天村雲命です。
丹後から伊勢に逸された豊受。伊勢の外宮は度会氏。これは磯部で、阿波忌部の天日鷲命を祀るとか。

これらが複雑に絡んでいつも混乱しています。

[10914] Re[10913][10912][10911][10910]: 手力男神と住吉神  とみた [Url] 2011/09/30(Fri) 09:25 [Reply]
神奈備さん、郭公さんいずれも大変な研究家で敬意を以て論を見ております。船木氏との関わりが特に興味が持たれます。
住吉神社について、書かれたものを参照しながらです。
海路の守護神として現れます。
延喜神名式で名神大社とされた、住吉神社は全国で5社あった。それが摂津の墨江(大阪)、長門の豊浦(下関)、筑前の那珂(福岡)、壱岐の那珂(芦辺)、対馬の鶏知(ケチ)と連なるわけで、畿内と大陸(朝鮮)を結ぶ海路の要衝にある。
なお、住吉大社神代記に拠れば、紀伊と播磨にも住吉大神宮があり、さらに新羅国一処、大唐国一処とあることはこの神が大陸へと指向していたことを示す。

通説としては摂津を本拠とした津守氏が奉じた神とされるが、神話上の筒之男神はス少童神(ワタツミ)と共に筑紫で発現したことになっていて、海神(ワタツミ)の眷属神とみられる。これは海神を奉じた阿曇氏の本拠が筑紫であったことからして同じ筑紫の筒之男神が摂津の墨江に進出し住吉大神になったと考えられる。
これに対して田中卓氏は、筒之男という神は和多都美の神と共に対馬に発現したとする見解である。
対馬の南辺に豆酸(ツツ、現在の厳原町)という古邑があることから、ツツノヲという神名は豆酸の男ではないかとされ、神功皇后の新羅征伐を契機として畿内に進出したのであろう。
対馬の住吉神社が神功皇后の伝説を語り、宮司は嘗ては鶏知⇒慶知大掾と称した阿比留氏であった。・・・・

素人の私は、青草で、住吉大社が難波の海の守護神。新羅州の対岸に位置し、新羅寺という神宮寺と深いかかわりがあることで新羅系渡来人集落があったのではと考えていますが。
また俗に、播磨の加古川の東には住吉神社が多いのが気になっています。
武庫湾には猪名川が入りますが元々は稲の川であったのか。新羅の船大工の猪名部氏の関わりの名か、猪名川の東は秦上・下の郷があり秦氏の進出も気になります。

>『摂津国風土記逸文』またいう、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。

阪急宝塚線で売布という地名がある。
この辺りでしょうか稲倉山。これが丹後に追われたのは仲哀天皇の後か。応神が九州から凱旋して摂津に居た仲哀の子の忍熊王。香坂王と戦い負かす。
丹後の籠神社は郷土史家によれば元来は日本海の久美浜にあったのを宮津に移したのだそうです。籠神社は海部氏、火明命。火明か命はタカミムスビの娘のタカ幡チチ姫の長男。天照神社の元は対馬の天麻氐留(アマテル)神社がルーツか。
丹後一之宮の籠神社の奥宮は真名井神社で此処にも豊受が入っているし、創始は天火命の孫の天村雲命です。
丹後から伊勢に逸された豊受。伊勢の外宮は度会氏。これは磯部で、阿波忌部の天日鷲命を祀るとか。

これらが複雑に絡んでいつも混乱しています。

[10913] Re[10912][10911][10910]: 手力男神と住吉神  神奈備 2011/09/29(Thu) 19:16 [Reply]
青草でやるほうがいいお話。 日神は御食都神と共に居たいのだ。

 阿加留比売は天之日矛の為に、「種々の珍(タメ)つ味(モノ)を設けて、常にその夫に食はししめき。」とあります。この女神は御食都神そのものです。

 さて、御食津神であった赤留比売は摂津に来ました。住吉大社第四宮は姫神宮と言いい、現在は神功皇后を祭神としますが、本来は摂津の女神の赤留比売神ではなかったかと考えています。

 これは新羅の客を迎える磯歯津路の途中で客にお酒をふるまい、倭国人となる儀式を行う場所が、かっては住吉大社の摂社であった赤留比賣神社(現在は杭全神社の摂社)であったこと、ゆえに、出発点であった住吉大社にも赤留比売神が祀られていても不自然ではありません。

 住吉大社の設立当初は津守氏と船木氏が祭祀を司っていましたが、いつの間にか船木氏の姿が消えています。また第四宮の祭神が神功皇后に置き換えられています。

 『摂津国風土記逸文』またいう、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。

 のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に還られた。

 これは、船木氏が赤留比売神を奉じて丹後に遷ったことをさしているのではないかと考えています。赤留比売神は豊宇可乃売神とも呼ばれていたのでしょう。(これ、全く根拠なし。)

 『丹後国風土記逸文』には、比治の里を追われた天女は竹野の郡舟木の里の奈具の村に至り、ここで「心が奈具志久(平和)になった。」と言われて、とどまりました。奈具の社においでになる豊宇賀能売命です。

 船木氏が来たので舟木の里と言い、船木氏も追われて来たので、ここで心が和んだのかも。

 後世、伊勢の地で、天照大神は御食神である豊受大神を丹後から迎えさせました。

[10912] Re[10911][10910]: 手力男神と住吉神  郭公 2011/09/29(Thu) 10:09 [Reply]
> このように祭りを見ますと、天照大神は媒介であって、何も天照大神ではなく、豊受大神でもいいのです。霊威の媒介さえ出来れば、豊受大神が新嘗祭には相応しいかも。

 豊受大神が度會・山田原に祀られる経緯についても調べてみましたが、いまいちまだ確信が持てないでおります。
 僕のHPにも書きましたが、三つのケースを考えてみました。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kokakuro/kodaishi/ise/ise3-1.htm

(1)
 丹波の豊宇賀能賣命を御饌都神として勧請した。
(2)
 近江の息長氏が関与して、坂田郡宇賀野に祀られた豊受比賣を勧請した。
(3)
 伊勢国多氣郡に祀られた豊宇賀能賣命を度會に勧請した。

 このいづれではないかと思っているのですが、まだ断定するまでには至っておりません。
 どれだと思いますか?
 あるいは、他にもあるかもしれませんが。

 (1)については、丹波(今の丹後ですね)だけではなく舞鶴、宮津にも豊宇賀能賣命を祀る神社がいくつかあります。神宮系史料では雄略期に丹波から勧請したことになっていますが、年代としてはそんなに古くないと思います。記紀成立直前くらいではないか。

 (2)と関わりますが、舞鶴には、息長氏と関係しそうな弥加宜神社がありますので、近江・坂田郡の豊受比賣も息長氏が勧請したものかとも思ってみたり。
 さらにその神を天武期の言ってみればNo.2の息長氏が関与してさらに伊勢へ勧請した。

 (3)については、明治の合祀政策で、今となっては、多氣郡のどの神社とも言いかねますが斎宮そばの竹神社が可能性がありそうにも思います。
 しばしば引かれる、『続日本紀』文武二年(698年)12月乙夘の、
・遷多氣大神宮于度會郡 (多気大神宮を度会郡に遷す)
 この記事は豊受大神のことではないかと思ってみたり。

[10911] Re[10910]: 手力男神と住吉神  神奈備 2011/09/28(Wed) 15:59 [Reply]
> 高皇産霊尊は書紀では天照大神と並ぶ皇祖神の一ですが、この祝詞ではなぜかone of them、諸神の中の一神のようにも見えます。
> なので、むしろ、伊勢の神宮が整備されて、天照大神を皇祖とする環境が整い、逆に高皇産霊尊の地位が下がってしまったようにも思われます。


 概ねそう言うことなのでしょう。
 ただ、神嘗祭とその後で行われる新嘗祭については、高皇産霊尊と天照大神との関係に不思議なものがあります。
 先ず、神嘗祭とは皇祖の天照大神が御親らと聞食されることであり、これは天照大神が高皇産霊神と入れ替わることによって、天照大神の神威を更新する祭りです。天照大神が高皇産霊尊の神威を身につけることになります。
 次ぎに行われる新嘗祭は天皇が新穀をまず天照大神にささげて感謝の奉告をした上で、これを神よりの賜りものとして食する儀式です。これによって、天皇の生命の甦りをはかります。天皇は天照大神からミタマの籠もった稲魂をいただくわけです。天皇が天照大神の霊威を頂き、天皇の資格を得るなり、自身の霊威を高める祭りと言えます。
 二つの祭を合わせれば、天皇が天照大神を通して高皇産霊尊の霊威を身につけたことになります。
 このように祭りを見ますと、天照大神は媒介であって、何も天照大神ではなく、豊受大神でもいいのです。霊威の媒介さえ出来れば、豊受大神が新嘗祭には相応しいかも。


[10910] Re[10908][10905][10904][10901]: 手力男神と住吉神  郭公 2011/09/25(Sun) 13:59 [Reply]
>「月次祭祝詞」 では、宮中八神への感謝があります。
> 神産日神、高御産日神、玉積日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神
> 確かにこの中には天照大神がなく、天皇家の古い伝承には天照大神はなかったのでしょう。

 祝詞のいくつかが延喜式にも収載されていますが(ネットでも読めます)、祈年祭・六月月次に、ご指摘の神々に祝詞を奉り、後段に、「辞別 伊勢尓坐天照太御神能太前尓白久。(以下略)」と、諸神と別けて祝詞を奉っています。

 宮中には、八咫鏡のレプリカ(あるいは伊勢とはまったく別種の鏡かもしれません)が安置され、皇位継承にかかわる三種の神器のひとつになりますが、延喜式成立(927)時にはまだ存在してなかったのか、安置されていたとしても、あくまでも神器であって、神そのものは伊勢に坐すということだったのかもしれませんね。


> そう言うことから考えますと、おっしゃるように、天武天皇は、本来の皇祖神である高皇産霊神につながっていなかったのかも知れません。


 高皇産霊尊は書紀では天照大神と並ぶ皇祖神の一ですが、この祝詞ではなぜかone of them、諸神の中の一神のようにも見えます。
 なので、むしろ、伊勢の神宮が整備されて、天照大神を皇祖とする環境が整い、逆に高皇産霊尊の地位が下がってしまったようにも思われます。


 高御魂は陶邑の陶荒田神社の主祭神。由緒書によると、もともと大田々禰古を祀る太田神社が起源のようにも読めますが、陶邑では伽耶系の須恵器がつくられた。

 対馬・豆酘の赤米は、高御魂神を祭るために献じられたもので、「香ばしか」という品種になるそうですが、洛東江流域では戦時中にも作られていたそうで、豆酘の赤米は、半島、ことに洛東江から渡ってきたもののようです。(城田吉六『赤米伝承』の一部を要約しました)

 材料としてはまだ不足かと思いますが、これらのことから、タカミムスヒは伽耶出自の神ではなかったか。

 で、この伽耶のタカミムスヒを祀る一派と八咫鏡を出自のエヴィデンスとして祀る北部九州の一派とが協調・離反を繰り返したのが四世紀後半以降の列島史の大王をめぐる争いの側面のひとつだったように思えます。
 天武はどちらかというと、八咫鏡の系譜だったということだろうと思います。

 伏見の羽束師坐高御産日神社。往古はこのあたりでも土器が作られていたそうです。須恵器か土師器かは聞きそびれてしまいましたが、由緒によると、雄略天皇21年丁己(ママ)(477年)の御鎮座だそうです。偶然かどうか、天照大神が伊勢へ遷られた年。

 おそらくですが、雄略は高皇産霊尊系だったのではないか。雄略期に大伴氏が活躍しますが、姓氏録によれば、大伴氏は高皇産霊尊を祖としていますので、雄略もひょっとすると高皇産霊尊系だったかもしれません。
 書紀では、高皇産霊尊が大物主に、
・「八十万神を領ゐて、永に皇孫の為に護り奉るべし」とのりたまひ、乃ち還り降らしめたまふ。
 この大物主が五世紀後半、陶邑の須恵器を祭祀土器を伴って、三輪山に祀られる。

[10909] Re[10908][10905][10904][10901]: 手力男神と住吉神  琉球松 2011/09/24(Sat) 14:04 [Reply]
 「天照」は、たんに美称辞とも考えられますよね? 沖縄で言えば「テルカハ・テルシノ」でしょうか。

 この神名が天武の時代に現れたとすれば、これは「ヒルメ」の格上げ?かもですよ。その後「天照大神」が一人歩きをしている感を持ちますね。

[10908] Re[10905][10904][10901]: 手力男神と住吉神  神奈備 2011/09/24(Sat) 12:56 [Reply]
> 端的に言えば、天武は皇祖神高皇産霊尊につながる系譜ではなく、皇祖神天照大神(八咫鏡)につながる系譜の人であったということではないかと思います。


「月次祭祝詞」 では、宮中八神への感謝があります。
 神産日神、高御産日神、玉積日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神
 確かにこの中には天照大神がなく、天皇家の古い伝承には天照大神はなかったのでしょう。

 桓武天皇の父親の光仁天皇は所謂天智系の天皇で、天武系から元に戻っています。
 そう言うことから考えますと、おっしゃるように、天武天皇は、本来の皇祖神である高皇産霊神につながっていなかったのかも知れません。

 そう言うことも含めて、新しい皇祖神として、天照高彌牟須比命、天照御魂神、阿麻氏留神、『万葉集167』の天照らす日女(ひるめ)の命(みこと) と言う日神達を全て含む天照大神を構想したのかも知れません。

 (注)天照御魂神については、ミタマではなく、ミムスヒと訓むべきとの提案が、溝口睦子『アマテラスの誕生』でなされています。

 余談ですが、アマテラスのモデルとなったかも知れない持統天皇について、その後裔が文武天皇−聖武天皇とつながります。光仁天皇の皇后であった井上皇后は聖武天皇の皇女でしたが、呪詛の疑いで、皇子もろとも獄死しました。井上の娘の酒人皇女は桓武天皇の妃になり、朝原皇女を生んだ。彼女は平城天皇の妃となりましたが、子宝の恵まれなかった。持統天皇の血は皇室には残らなかったのです。無窮ではなかったようです。

[10907] Re[10906][10902][10900][10896]: 八意思兼神  琉球松 2011/09/23(Fri) 12:48 [Reply]
 大三元さん、気にしないで下さい。

 しかし、なんか、ここ数日のこの掲示板は「手力男神・天照大神・オヲヒルメ・八咫鏡・思兼神」など、天岩戸シーンがチラつきますね?

[10906] Re[10902][10900][10896]: 八意思兼神  大三元 2011/09/23(Fri) 11:39 [Reply]
琉球松さん
>  一応、言語としての「思う」を出したつもりだったんですが、参考になりましたら幸いです。

そうでしたね、失礼しました。

[10905] Re[10904][10901]: 手力男神と住吉神  郭公 2011/09/22(Thu) 23:11 [Reply]
>神々が遷座できると言う考え方は一体いつ頃からなのでしょうか。

 少なくとも書紀成立時には、神は住処を求めて漂泊するものという観念があったんでしょうね。それが何ゆえであるかはよくわかりませんが、櫻井勝之進は、山城の賀茂別雷神社の建角身命、住吉大社も例に挙げて、神々にとっての国見ではなかったか、一定の地に鎮座するまでの巡視ではなかったかと書いています(『伊勢神宮の祖形と展開』)が、天照大神もまた、書紀、儀式帳、太神宮諸雑事記、倭姫命世記とスケールアップしながら、漂泊しています。
 
 けれどもじっさいは、漂泊せずに、大和から伊勢・度會へ遷座しています。
 申し上げたように、天照大神のご神体は八咫鏡ですから、鏡自体が動きますので遷座と申し上げてよいかと思います。
 垂仁紀一云に、
・丁巳年の冬十月の甲子を取りて、伊勢国の渡遇宮に遷しまつる。
 
 どこがよいか探しつつ漂泊したのではなく、渡遇宮に遷すことが先に決まっていて、次に日取りを決めた、ニュアンスとしてはそんな感じです。
 なぜ、漂泊しなければならなかったについてはよくわかりません。

 この「丁巳年冬十月甲子」についてですが、内田正男編著『日本書紀暦日原典』で調べてみると、
・657年 10月9日 斉明3年
・597年 10月21日 推古5年
・477年 10月14日 雄略21年
・417年 10月26日
・237年 10月1日
・177年 10月13日
・117年 10月24日

 鉄剣など考古資料で干支が使われ始めたのが雄略期くらいからでしょう。一方、三輪山から出土する祭祀土器(陶邑の須恵器)が五世紀後半といわれています。
 三輪山で大物主を祀ったことと、天照大神が伊勢へ遷されたこととは無縁ではなさそう。
 ということから考えても垂仁紀一云の記事の「丁巳年冬十月甲子」とは、477年10月14日のことと考えてよいと思います。

>金光明経が国家治世の道具として見いだされ、これによって天照大神が構想されたものと考えています。

 たしかに、神名としては古くはないと思います。
・廿六日辰時。於明朝(ママ)郡迹大川上而拝礼天照大神。(釈日本紀)

 壬申の乱に随伴した安斗智徳の日記も回想録と考えられていますので、天武が望拝したときその神名が使われていたかどうか。回想時の後付けの可能性も否定できないと思います。
 延暦23年(804)に成立したとされる皇太神宮儀式帳にも、天照大神について、「所謂天照意保比流賣尊(アマテラスオホヒルメノミコト)」と注がついていることから考えても、平安初期においてもまだポピュラーといいかねる神名だったように思われます。まだ、オホヒルメのほうが知られていたのでしょう。
 ただ、孝徳期にすでに神宮政策(神郡、大神宮司の設置など)が執られていたとも考えられますので、その頃に天照大神の神名もまた構想されていたかもしれません。
 このあたりはなんとも言えないところです。

 では、なぜ天武(大海人皇子)が伊勢のその神を拝んだのか?
 端的に言えば、天武は皇祖神高皇産霊尊につながる系譜ではなく、皇祖神天照大神(八咫鏡)につながる系譜の人であったということではないかと思います。

[10904] Re[10901]: 手力男神と住吉神  神奈備 2011/09/22(Thu) 19:03 [Reply]
> 天照大神のご神体は八咫鏡ですから、天照大神の遷座とは、八咫鏡の移動の意です。

 神々が遷座できると言う考え方は一体いつ頃からなのでしょうか。
 思いつくのは八幡神で、宇佐で点々と動いています。また天日槍や赤留比売も動いているようです。これらは渡来神です。蕃神とされた仏も動けます。

 仏教が導入された際、仏像と堂舎が古い神々(を尊ぶ豪族)に衝撃を与えたことでしょう。

 まず、仏像を移動させると、その先で拝むことができます。一方、磐座や神籬はおいそれとは移動できません。従って仏教に対抗しようとすれば、木の枝とか、幣帛のような神の依代や神像を造るにこしたことはありません。

 同時に、神像が登場すれば、安置する場所が要ります。洞窟でもいいのでしょうが、やはり人々の住んでいる近くにお堂を造るのが便利です。

 仏教が公式に伝来したのは欽明朝の頃で、定着したのが半世紀以上経過した頃、実際には天武天皇が出家したのは百年後、金光明経が国家治世の道具として見いだされ、これによって天照大神が構想されたものと考えています。

 
> 一方は大和へ入り、一方は紀伊半島を海沿いに伊勢へ向かったのではなかったか。

 日神とされた神功皇后のルートが反映しているのか、天武天皇の母親である斉明天皇が牟婁の湯を往復していたり、諡名に高天原を持つ持統天皇が大和から伊勢へ行ったりしていますが、そのようなことが日神の移動譚に影響を与えているのかも知れません。

[10903] 急がばまわれ よそ見の奨め  生田淳一郎 2011/09/22(Thu) 15:42 [Reply]
 まっつぁん、急がばまわれ。

 モヒではありませんが moЯ に源、源泉の意があ〜ます(出雲弁)。Я は末尾だけに使うキリル文字で、 i と同じです。
 ただし、タジク語ですのでいちど現地発音を聞いてみる必要がありましょうか。
 「淡路島のしみず(寒泉)を朝に夕に汲んで、天皇のオオミモイ(大御水)とした」そうです。

  ネパール語ですが……、音が「ギャン」と大幅に屈折したので日本語としては掴みにくいが、gyan(知識、知恵、良識)、gyani(賢人)はガナシを造った元ではないでせふか。「*gyan ・ gawr(熟考)」 → 考ゆる。

[10902] Re[10900][10896]: 八意思兼神  琉球松 2011/09/22(Thu) 10:03 [Reply]
大三元さん、どうもです。

 一応、言語としての「思う」を出したつもりだったんですが、参考になりましたら幸いです。

 ご指摘のとおり、琉球方言の「思・金」や「かなし」などは、現在は愛称辞や尊称で、これがまた古語の解明の障害になっています。
 昔人の観念に近ずくべく四苦八苦しているところです。
 
 "「モヒ」を「水」ととれば「モヒカネ」が「水・金(水銀?)」" との考え方は面白いです。金属は重要ですからね。
 ちなみに、沖縄島方言で「手助け」を古くから「手ガネ」と言ったりもしますよ。

[10901] Re[10895][10892][10891][10890][10887][10884][10874]: 手力男神と住吉神  郭公 2011/09/21(Wed) 23:18 [Reply]
>いつ頃出来た伝承なのかが問題です。

 たしかにそのとおりですが、ここは難しい問題ですので視点を変えてみましょう。

 天照大神のご神体は八咫鏡ですから、天照大神の遷座とは、八咫鏡の移動の意です。
 では、その八咫鏡とは何かについて申しますと、「伊勢二所皇御大神御鎮座伝記」に、
・一面者。八百万神等以石凝姥神奉宝鏡。是則崇伊勢太神宮也。
 これに割注がついていて、
・(一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。中臺圓形座也。圓外日天八座。)
 「咫」は、周代の小尺における長さの単位で、一咫は大尺で約八寸、今の約18cm。八咫は18cmの八倍で144cm。円周率の3.14で割ると直径は45.8cm。
1.花崎は、花咲でしょうか、花が咲いたような文様かと思われます。
2.八葉は、中国鏡に見られる鈕座の周りに普通は四葉がありますが、この鏡には八葉ある。
3.中臺は、鏡の外区(縁のほう)と内区(鈕の周り)の間のことかと思います。そこが円形になっている。
4.圓外は外区のことでしょう。そこに日天ですから、太陽を模した円形が八つある。

 こう書いてもいったいどんな鏡なのかイメージするのは難しいのですが、すでに存在する鏡で考えると、内行花文鏡がもっとも近い。
 けれども、中国鏡は四葉ですし、直径がそんなに大きい内行花文鏡もないのですが、唯一これに近い鏡が平原から出ていますよね。
 1は内行花文鏡の特徴の花文、2は八葉、3は九つの同心円、これらについては平原の超大型内行花文鏡と合致しますが、平原鏡に4はない。単に平縁です。

 なので、原田大六や、森浩一らが言うように、天照大神のご神体としての八咫鏡は平原鏡と同型ともいいきれませんが、平原鏡を知っている者によってリメイクされた鏡と考えられる。
 ということは、八咫鏡は、平原を核とした(それを知っている者ですから平原周辺か、もう少し範囲を広げて北部九州を想定してもいいと思いますが)地域の者と密接につながる鏡であったと言える。

 で、それが最終的には伊勢まで移動した。
 大和まで入るルートとして、
・神宮系史料としては唯一「倭姫命世記」に記された紀ノ川河口からやや南部にかけての地域から、
・紀ノ川を遡上して(ご指摘のように先後関係は不明としか言いようがありませんが、相賀大神社(天照大神)、相賀八幡神社(紀伊國伊都郡丹生川上天手力男意氣續々流住吉大神)を経て
・「太神宮諸雑事記」冒頭の、「天照坐皇太神、天降坐於大和國宇陀郡」とつながるのではないかと愚考しております。
=====

 なお、「神鳳抄」に、志摩國答志郡に、相可御厨、猿田御厨、慥柄(たしから)という地名が載っています。今でも慥柄浦(たしからうら)があり、この「たしから」が手力雄と関係しないかと思って昨年行ってきました。
 あいにく天手力雄を祀る神社はありませんでしたが、浦(小さな浦ですが)を見下ろすところに「あんどさん」と書かれた小さな祠がありました。「あんど」は安曇のことでしょう。大阪の安堂寺の安堂も安曇のことといわれています。

 さらに付会させていただきますが、「日本地理史料」に、
因幡国 八上郡 日理(曰理)
・神名式、八上郡和多理ノ神社、今在八束郡殿村、祀猿田彦神、伝言、景行帝ノ時、始祀筑前ノ大渡ノ島、至神功皇后、遷祀于此、地名因起、

 鳥取の和多理神社は猿田彦を祀っていて、はじめは筑前の大渡の島に祀っていたけれどもここに遷し祀ったことにちなんで「ワタリ」の地名がついた。大意このようなことでしょう。

『筑前國続風土記』
名籠屋崎
・鳥旗村の東北海際にあり。平地にして出崎なり。若松村の北にも出崎あり。小田崎と云。名籠屋崎と海をへだてゝ南北に相對せり。日本紀、仲哀天皇紀に、名籠屋大済を以て西門とすとあるは、則此処の事なり。此地に神社あり。猿田彦命と稱す。

 北九州の諸神社には、境内に石神として猿田彦神が祀られています。

 というようなわけで、猿田彦も、天手力雄もどうやら遠賀川河口付近に近接しています。
 おそらくその勢力が、八咫鏡を奉斎して(というより、出自のエヴィデンスとして)東へ進んだのではないかと。
 一方は大和へ入り、一方は紀伊半島を海沿いに伊勢へ向かったのではなかったか。

[10900] Re[10896]: 八意思兼神  大三元 2011/09/21(Wed) 20:08 [Reply]
琉球松さん

私が面白いと思うのは(民俗の方面ではなく)言語の方面からでして:
オモヒカネ が カミヒカネ(吉野、水光姫に関連する)を想起させるからです。
http://www.dai3gen.net/omohikane.htm
「日金」が含まれていると考えれば「日金析」とのつながりも課題となります。
「モヒ」を「水」ととれば「モヒカネ」が「水・金(水銀?)」とも分析できそう。

加えて琉球語では「思」も「金」もが尊称である、というのも興味津々。

[10899] Re[10898][10893]: 天野の盆地  大三元 2011/09/21(Wed) 20:00 [Reply]
神奈備さん、レスありがとうございます。

> アマミとシネリ(天野と小竹)は、凄い内容ですね。

ここからどう掘り下げて行けるのか、課題山積です。

>  今では、前者は全く忘れられて後者の転訛したアーマンチューだけが知られている。
> と出ています。

「あまみ&しねり」は二体(二柱)ではなく「あまみ」が実体で「しねり」には意味がない、というような説を読みますが、そんなモッタイナイ、、、という気がします。
「あまみ」は「天見」と理解することを通じて「そらみつ」につながり「そらみつ」は「天満」と表記できる;このあたりを攻めています。
 http://www.dai3gen.net//amami2.htm
「しねり」はアイヌ語の sinrit=根、祖先 を援用して「根の国」っぽいことを考えております。 http://www.dai3gen.net/nenokuni.htm

>  他に信濃、忍海、なんかどうなんでしょう。

「シナ・シノ=太陽」「おし(押、忍)=照る」であると考えてます。
布忍神社の名義考察から琉球語を参照して到達しました。
http://www.dai3gen.net/nunosi.htm

http://www.dai3gen.net/nunosi.htm

[10898] Re[10893]: 天野の盆地  神奈備 2011/09/21(Wed) 17:13 [Reply]
アマミとシネリ(天野と小竹)は、凄い内容ですね。


 伊波普猷著『をなり神の島』に、田植え歌のお話があります。

 しるみきよが始め
 あまみきよが宣(のら)て
 ・・・

 今では、前者は全く忘れられて後者の転訛したアーマンチューだけが知られている。
と出ています。

「しるみきよ」が忘れられていても、地名に残っているような気がしています。

 泉州には 信太。紀州には 小竹、志野。日の照こととの関係はよくわかりません。 
 他に信濃、忍海、なんかどうなんでしょう。

[10897] Re[10894][10887][10884][10874]: 手力男神と住吉神  くず 2011/09/21(Wed) 12:07 [Reply]
旧暦の7月7日を、現暦の8月初旬とみますと、
神事が行われる「夜明けの晩」深夜1時頃にはちょうど東の空からオリオン座が昇ってきます。
オリオン座は(見ようですが)男陰(小三つ星)を露出しているようにも…^^;。
これを"神との交わり"とみて、巫女(棚機津女)がそれを待つ、
古代における七夕神事の核心ではなかったかと考えます。
神功皇后と住吉神の交わりなども。。

下照姫が兄である味鋤高彦根神の正体をあかす歌謡で夷振りと言われるものがあります。
釈文:「天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 足玉はや み谷 二渡らす 阿冶志貴高日子根の 神そ」

は西の空で織姫星(ヴェガ琴座をなす星々)と東の空のオリオン座の対比スケールを歌ったものと見えます。

日本書紀でその歌に続く、
釈文:「天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵 片淵に網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵」

では天頂から離れて西に沈み行く織姫星を、(天の川の)川淵から網(やはり天の川の描写)を投げて引き寄せようとするオリオン座(彦星)を歌っているのではないでしょうか?

手弱女の一般名詞があるように、対比する手力男も元は一般名詞で、
引手力男の名などは、この網引きの姿から生まれたものかも。。と^^


[10896] 八意思兼神  琉球松 2011/09/21(Wed) 10:43 [Reply]
大三元さんへ

 お久しぶりです。大三元さんとやり取りできることは喜びです。

 とりあえず「思兼神」に関してですが。。。
 これは、折口信夫の『日本文学発生論』での考察と、それに対する外間守善先生の解説が参考になります。
 ちょっと長いですが、以下に引用。『中山世鑑』は首里王府編纂の琉球国最初の正史。

『沖縄学への道/外間守善(岩波書店)2002 』より
*** 折口信夫の日本文学発生論には、「思兼神」というあまり耳慣れぬ神が重要な働きをしていることがわかる。折口は、『古事記』の思兼ノ神の職能を検討して、「おもひかねによつて深く思はれて出来たのが、神の呪言の最初だとしたのであろう」という。(略)
 折口が沖縄でみたマユンガナシやニライの神は、『古事記』の中で影の薄かった常世の思兼神を、まれびとの原像として浮かびあがらせることになったわけである。(略)
 「思ふ」の語義について、折口は、『日本文学発啓蒙』や『万葉集講義』の中で、「おもふは唱へ事をする意味」「古くは口にかけて唱へる意義があった」と、呪言を唱えることが「思ふ」なのだと繰り返している。神言を発することが「思ふ」であるとすれば、「ヲモルハ宣託也」とある『中山世鑑』の記事とぴったり合うのである。(略)
 奄美にはオモリという呪言があるが、ウムルリ、ウムリュンという古語があり、この語がオモリの原型であることもわかった。奄美語のウムルリ、ウムリュンというのは、「言う」という語の尊敬語「おっしゃる」という意味だという。古くは「おっしゃる」主体は神であり、ウムルリされたことばが神語として定型化したのが奄美の呪言オモリだったわけである。ここでも、折口の「思ふは、ただ考へるといふのではなく、祝詞のようなものをば言ひ出す」のである、ということとみあうのである。***

[10895] Re[10892][10891][10890][10887][10884][10874]: 手力男神と住吉神  神奈備 2011/09/20(Tue) 09:05 [Reply]
> それをたどって、見に行ったのですが、天照大神を祀る神社は、和歌山の浜之宮神社(本居宣長も参拝したようで歌が残っています)、海南にもある。さらに南の有田川沿いにもある。

『倭姫命世記』には、「木乃国奈久佐浜宮に三年奉斎」の記事があります。また日前国懸神宮に伝わる伝承にもここに奉斎されたようにあったと思います。いつ頃出来た伝承なのかが問題です。

 日神を祀るのは、海人だけではなく、農耕従事者もそうだったのでしょう。日神が全て天照大神のはずがありません。神は土地に縛られています。土地土地に神が居るとおもいます。従って、日前国懸神宮に祀られていた日神も、名草の人々が祀った日神であったのを、王権が皇祖神の天照大神を掲げた段階で、各地の日神と天照大神とが習合したものと思われます。


[10894] Re[10887][10884][10874]: 手力男神と住吉神  くず 2011/09/20(Tue) 06:42 [Reply]
神奈備さん、ありがとうございます。
味鋤高彦根神と瓜二つであったという天若日子神は、『御伽草子』においては七夕伝説の主役で彦星の役割で語られます。
その物語はまさしく天若日子=オリオン座を表しているように読めました^^

[10893] Re[10889][10888][10885][10883][10882][10880][10867]: 天野の盆地  大三元 2011/09/20(Tue) 06:30 [Reply]
琉球松さん

>  竹のような勢いで、太陽も上がってほしいという事でしょうかね。

松さんの幾つかの書き込みに関連したことに私も興味を持っています。
自己宣伝になりますが宜しかったら下記サイトをどうぞ:
「ニホ(ニフ、丹生)」を考える
http://www.dai3gen.net/niho.htm

天野と小竹
http://www.dai3gen.net//amami5.htm

八島士奴美神 (しのみ、しの・目、太陽・目)
http://www.dai3gen.net//yashimajinumi.htm

あまみ、しねり関連
http://www.dai3gen.net//amami.htm
http://www.dai3gen.net//amami2.htm
http://www.dai3gen.net//amami3.htm
http://www.dai3gen.net//amami4.htm

思金 関連
http://www.dai3gen.net//omohikane.htm

[10892] Re[10891][10890][10887][10884][10874]: 手力男神と住吉神  郭公 2011/09/19(Mon) 18:55 [Reply]
 神奈備さんのサイトではずいぶん教えていただいています。
 それをたどって、見に行ったのですが、天照大神を祀る神社は、和歌山の浜之宮神社(本居宣長も参拝したようで歌が残っています)、海南にもある。さらに南の有田川沿いにもある。

 で、紀ノ川を遡上すると、先日お書きになっていた、天手力男意気続々流住吉大神を祀る相賀八幡神社の西に、橋本市の相賀大神社。ここの祭神が天照大神。
 いつだったかお参りしたときお聞きしたのですが、御祭神は変わってなくて、最初から天照大神をお祀りされているそうです。
 紀ノ川河口付近の数箇所に伝承があるので、滞留した時期があったのかもしれません。
 紀ノ川を遡上して、相賀大神社、それから宇陀へ入って阿紀神社、長谷の与喜天満宮というふうに線で繋げると、天照大神(オホヒルメ)=八咫鏡が大和へ入ったルートが見えてくるのではないかと思います。

 ちなみに、相賀はにごらずに「おうか」がもともとの呼び方だったと思います。
 新宮近辺にも尾鷲にも相賀神社はあり、「おうか」と読むようです。道路標識を見たかぎりの話ですが、尾鷲から紀伊長島にかけて「賀」のつく地名はいくつかありますが、にごらずに「か」と読ませています。
 この「おうか」は、遠賀川河口の「岡」(乎加)と通じるのではないか。橋を渡ると、若松半島。天手力雄を祀る戸明神社がある。

 志摩には海女さんが今もいてはります。たどれば済州島から北部九州、伊勢の志摩へと繋がる線もありそうです。

[10891] Re[10890][10887][10884][10874]: 手力男神と住吉神  神奈備 2011/09/19(Mon) 15:32 [Reply]
 郭公さん、こんにちは。

 天照大神の登場は壬申の乱の勃発時に、天武天皇が迹太川のほとりで天照大神を遙拝する所で登場したものと思われます。大和国宇陀郡は伊勢神領になっていますので、神社に天照大神を祀る機会が多かったのでしょう。おっしゃるように桜井は伊勢の神領になっていませんので、天照大神がはいっていないのかも知れません。

 長谷山口神社には、手力雄と豊受大明神の石灯籠が目立ちます。豊受大神はここから度會宮へ遷座したのかも知れませんね。
 
 伊勢神宮が設立されたので、地元の伊勢の神々 手力雄神や猿田彦神 が天照大神の周辺で活躍する神話が造られたのかもしれません。

[10890] Re[10887][10884][10874]: 手力男神と住吉神  郭公 2011/09/18(Sun) 20:37 [Reply]
 ご無沙汰しています。郭公です。

 天手力雄についてですが、北九州の若松半島に戸明神社があり、祭神は天手力雄。
 いまは半島のほぼ中央にありますが往古は海浜にあったそうです。海浜の遠見ヶ鼻には岩屋の地名も残っている。
 かつここには蜑住(あまずみ)の地名も残っていて、アマ(海女、海士)の集住する地域だったと考えてよいでしょう。
 ということは、天手力雄は海人によって祀られた神ではないかと思います。

 奈良・桜井市初瀬の長谷山口神社の祭神が天手力雄。
 長谷寺は天武によって創建されたといわれています。また、長谷山口神社からすこし奥に入った与喜天満宮に天照大神が祀られていた伝承もある。
 宇陀の又兵衛桜からほど近い、阿紀神社の祭神は天照大神です。
 なので、天照大神(八咫鏡)は、外山から桜井側へは入らなかったんじゃないか。
 いまの、長谷。与喜天満宮あたりで祀られていたのではなかったかと思えてならないのです。
 時期は神武か、誉田別かはともかくとして、雄略以前。
 で、(朝倉宮といわれている、長谷のすぐ西ですね)雄略は気に障ったのか、伊勢・度會へ遷した。いまの外宮(豊受大神宮)の前身としての度會宮へ。

[10889] Re[10888][10885][10883][10882][10880][10867]: 天野の盆地  琉球松 2011/09/18(Sun) 16:37 [Reply]
 神奈備さん、ありがとうございます。

 竹のような勢いで、太陽も上がってほしいという事でしょうかね。

[10888] Re[10885][10883][10882][10880][10867]: 天野の盆地  神奈備 2011/09/18(Sun) 15:48 [Reply]
> 「シノ・シヌ」は、日の出に関わる「東」じゃないでしょうか? 「シノノメ(東雲)」の当て字のそうでしょうけど、千葉県の地名「習志野」も、もともとは船橋市の中心あたりから東の方向との説もあります。

 和泉・葛城から見れば東にあたります。仁徳天皇などの河内王権の時代のネーミングでしたら、まさにそうでしょうね。

 篠、細く群れてはえる竹。小竹とも書きます。

[10887] Re[10884][10874]: 手力男神と住吉神  神奈備 2011/09/18(Sun) 11:06 [Reply]
 くずさん、こんにちは。

『河内高貴寺縁起』(鎌倉時代)に面白い話があります。この寺は平石にあり、岩船神社の神宮寺でした。「風聞には当所、底筒男命、『旧事本紀』に言う饒速日尊、自ら天降りて御座す。岩船明神是也。」とあります。

 このように住吉三神については、既知の神のこととする考え方があったようです。その中には日神を守る神、もしくは日神を船に乗せて畿内に出現させる神、になぞらえることは自然かもしれません。『住吉大社神代記』で言う日神を出す神、大田田命があります。従ってその祖の手力男神など有力といえるでしょう。

 また、星説の延長でオリオン座のカラスキ星(参星)説があります。カラスキとは韓鋤ですが、そうすると鴨の大神の味鋤高彦根神と何らかの関連があるのかも知れないと思っています。

[10886] Re[10883][10882][10880][10867]: 天野の盆地  神奈備 2011/09/18(Sun) 11:06 [Reply]
かまどさん

 伯太神社の境外摂社となっている式内社の丸笠神社があります。社伝によれば、「神功皇后が和泉の小竹宮の行宮に遷られた時、勅命を受けて国内平定につくした武将小竹祝丸、天野祝丸の墓二つを造ったので、境内は車塚となった。この地に御諸別神(和泉国皇大神)を祀った。」とあります。(式内社調査報告 巻5)
 

[10885] Re[10883][10882][10880][10867]: 天野の盆地  琉球松 2011/09/18(Sun) 09:37 [Reply]
 いちいち琉球方言を持ち出すのも恐縮なんですが。。。"シヌは吉野のシノ" って、これは興味ありますね。

 「シノ・シヌ」は、日の出に関わる「東」じゃないでしょうか? 「シノノメ(東雲)」の当て字のそうでしょうけど、千葉県の地名「習志野」も、もともとは船橋市の中心あたりから東の方向との説もあります。

 吉野が「よ/シノ」であるとすれば、「よ」は接頭美称辞ともいえそうですが、なぜ「小竹」が「シヌ」なんでしょうか。

[10884] Re[10874]: 手力男神と住吉神  くず 2011/09/18(Sun) 00:05 [Reply]
神奈備さん、皆さん、ごぶさたしております。
伊勢津彦、住吉神、手力男神について、もしすれば異名同神ではなかろうか?という
本来、青草がふさわしいお話ですが流れにも乗らせて頂いて^^;

まず住吉三神をオリオンの3つ星と考える説は、過去のここでの論議からもかなり信憑性の高いものと考えております。
そして、ギリシャ神話におけるオリオンは暁の女神エーオスと恋仲になります。
これは夏の夜明け前、太陽に先駆けてオリオン座が昇る事に由来する神話のようです。
この"太陽を引き出すという神格"は手力男神にも通じます。

もうひとつ、枕草子の一節に「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。」
とありますが、この2番目の"ひこぼし"をオリオンと見立てる説があります。
(詳しくはhttp://www005.upp.so-net.ne.jp/kenji99/b102/b102.htm
確かに全天の星々の2番目の位置にシリウス、ヴェガなどを差し置いて通常の彦星(アルタイル)はやはり見劣りし、昴の次にオリオンならばこれはしっくりくる話。。。
そして最初の話にも通じますが、旧暦七夕の頃の夜明け前、西に沈みゆく琴座のベガ(織姫星)、
そして東からは太陽に先駆けて昇ってくるオリオンが同じ空に同居します。
ここからもオリオン(おうし座を従える)=彦星=牽牛が成り立つのかも^^

内宮の相殿神に東=手力男神、西=萬幡豊秋津師比売命と並ぶのも、
神獣鏡の主要モチーフである、西=西王母(織姫星)、東=東王父(オリオン?)
中央天照大神(八咫鏡)の並びであればしっくりもくるのかと。。

彦神の繋がりで伊勢で海に沈んだ後、3つの魂となった猿田彦、風を起こし去った伊勢津彦ももしすれば・・・・と。
龍田大社の風神、級長津彦命、級長戸辺命の2柱にも、延喜式「龍田風神祭祝詞」を見ますと、それぞれ東王父、西王母の神格が重なるのではなかろうか。。と。
オリオンと恋仲となったエーオスも星々の母であると同時に風を生んだ母神でもありました。
と、もろもろで伊勢津彦、住吉神、手力男神、猿田彦、の異名同神という青草説でした。
ついでに亀に乗り竿を出すウズ彦、(オリオン座=亀座、竿=小三つ星)、ウズメと対か?
竜宮への途中でヒヤデス、プレアデスの星団とであう浦島太郎も。。

[10883] Re[10882][10880][10867]: 天野の盆地  かまど 2011/09/17(Sat) 22:08 [Reply]
神奈備様

> 舊府神社、小竹宮(大阪府和泉市信太)
> 『大阪府全志』には神功皇后縁の小竹宮跡とする。
>  舊府神社の近くに伯太神社が鎮座、伯太神社の祭神の中に小竹祝丸、天野祝丸の名が見えるのです。小竹祝、天野祝を祭神とした神社は伯太神社以外には見つかっていません。また泉井上神社に小竹神社と呼ばれる末社があるそうです。

候補地が3つあるのは知ってましたが、大阪にもあるのは知りませんでした!それも面白そうな内容ですね。

[10882] Re[10880][10867]: 天野の盆地  神奈備 2011/09/17(Sat) 16:28 [Reply]
 かまどさん ありがとうございます。

 私もおっしゃるように紀ノ川で結びついている粉河が自然だと感じますが、小竹宮については四箇所の候補地があるようです。

小竹八幡神社(和歌山県御坊市薗)

志野神社(和歌山県那賀郡粉河町北志野 )

波宝神社(奈良県吉野郡西吉野村夜中)
大山源吾著『天河への招待』には、「神功皇后は紀伊日高に上陸、紀和国境を越えて、吉野丹生の里、銀峯山小竹宮(シヌ)に入ったと、この地の伝承は伝える。」と記しています。シヌは吉野のシノとされています。

舊府神社、小竹宮(大阪府和泉市信太)
『大阪府全志』には神功皇后縁の小竹宮跡とする。

 舊府神社の近くに伯太神社が鎮座、伯太神社の祭神の中に小竹祝丸、天野祝丸の名が見えるのです。小竹祝、天野祝を祭神とした神社は伯太神社以外には見つかっていません。また泉井上神社に小竹神社と呼ばれる末社があるそうです。

[10881] Re[10879]: すいませんm(_ _)m  琉球松 2011/09/17(Sat) 09:05 [Reply]
 かまどさん、「丹」の件ありがとうございます。

 琉球方言で赤色は、たんに「アカ・アハ」とか言っていて「ニ」は伝わっていませんが、赤土にも適用できとすれば「埴」とも繋がるでしょうか。

 ところで奄美沖縄の神歌に見える「アカワン(赤椀)」は、弥生中期頃の北部九州製「須玖系土器」とされています。
 これがまた美しい赤土色なんですが、酸化鉄で色付されているとすれば面白いことになります。

[10880] Re[10867]: 天野の盆地  かまど 2011/09/17(Sat) 00:06 [Reply]
神奈備様

>  『神功紀』には、「小竹の祝」も登場します。「小竹の祝」が亡くなって友達であった「天野の祝」が悲しんで死にました。二人は合葬されたのです。それ故か、世の中は夜のような暗さになってしまいました。このような変事を「阿豆那比 アズナヒ」の罪というとあります。小竹はシノで、御坊市の小竹八幡神社が候補地ですが、那賀郡粉河に志野神社が鎮座、近くには丹生神社も鎮座しています。こちらの神社の方が交流があったとすれば自然です。

地元の郷土史家の方も同じような見方をされています。この当時は丹生氏は紀ノ川のほとりに住んでいるので、船で下ればすぐに粉河までいけることを考えれば、志野神社が自然とのことでした。
  
私見を加えれば。778年に粉河寺が大伴氏により建立されます。つまり、このあたりは大伴氏の勢力範囲だったと考えられます。大伴氏は粉河寺の鎮守に丹生都姫を現在の粉河産土神社に祀ります。また、今の丹生惣神主家は鎌倉時代大伴氏(どこの大伴氏かは不明ですが)から嫡男を迎えていることなどを考えれば、丹生氏と大伴氏は昔からそれなりの関係があった事が伺えますので、私も大伴氏とゆかりのある粉河の地域にある志野神社が自然かと思います。推測の範囲を越えませんが。
 
余談ですが、前述の書き方だと丹生氏は当時天野に住んでないのだから「天野の祝」は丹生氏ではないのではと思う方がおられるかも知れませんね。丹生氏は紀ノ川のほとりの里宮である丹生酒殿神社(丹生都姫を天野に遷す前の神社)で祭祀を行い山宮である丹生都姫神社を遥拝していましたが、延喜式では丹生都姫神社の名で出てきます。ですから丹生氏も天野では住んでいなかったが、天野にある丹生都姫神社の神主であると言う意味で、「天野の祝」と呼ばれたと言う解釈が可能になるかと思います。

[10879] すいませんm(_ _)m  かまど 2011/09/16(Fri) 23:31 [Reply]
すいません。[10878]のカキコは琉球松様へのお返事です。
 
神奈備様にはご無沙汰だったので、まずはご挨拶をと書いたは良かったのですが、琉球松様への返事であることを書こうと思いつつ書き忘れてしまいました。申し訳ございませんでした。(^^;)
 

[10878] Re[10853][10852][10851][10850][10849][10848][10847][10846][10845][10844]: 丹敷  かまど 2011/09/16(Fri) 23:26 [Reply]
神奈備様

ご無沙汰しております。

>  そもそも「丹」は水銀そのものなのか。。。

10数年前から文化財や考古学の関係では、「丹」は酸化鉄と言う見方が一般的なようです。文化財となる古い建物の赤は多くが酸化鉄で、特に日の当たる場所つまり人目につく場所は酸化鉄なのだそうです。そこから「青丹よし」の「丹」は酸化鉄の赤だったのだろうと言うことです。
 
確かに松田教授もいろいろな地の土を分析したけれど、ほとんどがそこで水銀が採れたと言う実証ができずじまいで終っているので、可能性は0%ではないものの、最近の科学的に裏づけされた結果から見るとちょっと厳しい状況かも知れません。
 
そう言う風に見ると、「丹」と言っても幅広く見る必要があるかも知れませんね。
 
それと、九州の古墳はベンガラが多く、辰砂が使われているところは、中国産のものもあるようです。ちなみに、近畿の古墳は国産の辰砂であるようで、いくつか分析した結果から違いが出てきているようです。
 
つまり、九州は国産より良質な中国産の辰砂を使っていたようです。実際どれだけの量が輸入されていたかは分かりませんが。ただ、中国との交易があったから九州はそうだったと簡単に解釈していいのか。そうではなく、九州は中国から良質で高価な辰砂を輸入できるだけの経済力のある、つまり力を持った国があったと解釈した方がいいのか。まあ、私にはけんとうもつきません。(笑)
 

[10877] Re[10875][10874]: 船木  神奈備 2011/09/14(Wed) 21:16 [Reply]
『播磨国風土記』揖保郡・林田の里・伊勢野
 山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命、伊勢都比売命である。

 伊勢津彦を祀る神社は播磨には見えませんが、信濃、伊勢には鎮座しているようです。
 面白いのは伊勢国度会郡(三重県伊勢市辻久留1-13-6)に鎮座する上社の摂社として櫛玉宮があり、伊勢津彦命・伊勢津姫命が祀られています。

 「櫛玉」が付いているのは饒速日命のこととは大和の広瀬大社の宮司さんのお話でしたが、『青銅の神の足跡』には、古典の引用として、伊勢津彦命とは火明命のこととされるとあります。

 朝日郎は雄略天皇の時代で、かつ物部目に退治されており、伊勢津彦とは違うのではないでしょうか。

 伊勢国朝明郡(三重県三重郡菰野町大字田光2063)に鎮座する多比鹿神社の摂社に八風神社が鎮座、伊勢津彦神が祀られています。引き起こした風にちなむ社名です。

[10876] Re[10875][10874]: 船木  琉球松 2011/09/14(Wed) 11:01 [Reply]
 場違いかもしれませんが。。。

 沖縄島北部に『船ウムイ』という神歌が伝承されています。何かの一助になれば幸いです。
 ここで言う「たま」は曲玉で、「やをとまい」は、大阪府の八尾か奈良田原本町のいずれかでしょう。

 きゅうのひやゆかるひどう(今日の日は良き日だ) きゅうのひはまさるひどう(今日の日は勝る日だ)
 かみがふねつぎうけて(神の船を接ぎ浮けて) しじがふねつぎうけて(霊の船を接ぎ浮けて)
 なんじゃばしらうしたてて(銀の柱を押し立てて) くがにばしらたてて(黄金の柱を立てて)
 みなわてなわやまのうどう(御縄手縄は麻の苧だよ)
 ふなこえらでのりおうさうれ(舟子を選んで乗り合わせなさい) やぢよこえらでのりおうさうれ(やぢよこを選んで乗り合わせなさい)
 ゆまにみちやるせとおをやこよ(夕間に見た「勢頭大屋子・船頭」よ) きもまちよくみにもちよれ(肝真強く実に持ちなさい)
 しおでにたちゆるせとおをやこよ(舳に立つ勢頭大屋子よ) きもまちよくみにまちよれ (肝真強く実に持ちなさい)
 やまみればあめがやーい(山を見ると雨かねえ) うみみればなみあらさ(海を見ると波荒い)
 しんきびしや?まとて(隠れ礁を用心して) しんきびしやうそれとて(暗礁を恐れながら)
 もたちいけば/はしらちいけば(耐えて行き/走らせて行くと)
 あがにらいうがまれんどう(我がニライが拝まれる) あがかないうがまれんどう(我がカナイが拝まれる)
 やをとまいうしちちやん(ヤヲ泊に押し着いた)
 やをの大主のろが(ヤヲの大主祝女が) うりてそうちぬぶてそうち(降りて参って/上って参って)
 ぬうのむらのいつこらが(どこの村の「いつこ・勇者」達か)
 いなぐしち?くる(女でもってこう遠くまで来る)
 またからんかいがくんなあ(真玉を買いに来るのか) すたまんかいがくんなあ(す玉を買いに来るのか)
 またまんこうていけよ(真玉も買って行けよ) すだまんこうていけよ(す玉も買って行けよ)
 あはなーいーぢむぢらーこーてい(赤縄を撚り糸を買っていけよ)

[10875] Re[10874]: 船木  とみた [Url] 2011/09/13(Tue) 21:36 [Reply]
> 『住吉大社神代記』に、船木のことがでてきます。
> 大田田命・神田田命の裔に伊瀬川比古命(いせつひこ)がおり、伊勢の船木に在す。

かねてから、伊勢津彦は伊勢船木氏と思っておりました。
こんな確かな記事があるのですね。ありがとうございました。
オオ氏系統にも伊勢船木氏が出ております。オオ氏は産鉄族と言われています。

伊勢津彦は出雲建子で出雲系です。
忌部氏に追われて諏訪の方に行ったことになっています。

伊勢湾の神島から上がった太陽が日置氏の住んでいる太郎生の上を通り三輪の山あたりを経由して堺の大鳥神社の上を通過して淡路の船木に沈みます。太陽の道です。

日置氏と太田氏が絡んでいます。船木は同族なんでしょうね。

倭直吾子籠という人物がいますね。淡路の海人とされています。

仁徳の時、遠江に派遣されて造船に従事しています。ところが仁徳の子供の跡目争いで住吉仲皇子側について履中には附きません。

伊勢津彦は雄略時代に反乱を起こした朝日郎の事とされます。
これが伊勢船木氏なんでしょうか。下諏訪の女将に訊ねたら、遠州の方に悪い神がいて鯉の眼が潰れるという伝承があるそうです。

[10874] 船木  神奈備 2011/09/13(Tue) 18:58 [Reply]
『住吉大社神代記』に、船木のことがでてきます。

大八嶋國の天の下に、日神を出し奉るは、船木の遠祖、大田田神なり。此の神の造作れる船二艘(一艘は木作。一艘は石作。)を以て、後代の験のために、膽駒山の長屋墓に石船を、白木坂の三枝墓の木船を納めおく。

船木等の本記
大田田命・神田田命、船三艘を造り、根元の木で造った船には皇后と大神臣八腹を乗せ、木の中程で造った船には、日御子達を乗せ、木の末(先の方)で造った船には、御子等と大田田命・神田田命を乗せて渡り征く。
大成功の後で、御船を武内宿禰に祀らせたとあります。志麻社・静火社、伊達社とこの三前の神です。
大田田命・神田田命の裔に伊瀬川比古命(いせつひこ)がおり、伊勢の船木に在す。

先の船は木と石の二艘のようですが、本記では木の根中末からの三艘です。よく似た伝承があったのでしょう。

住吉大神の子神に船玉神がいて、紀国の紀氏神、志麻社・静火社、伊達社の本社とあります。

 志麻社・静火社、伊達社は紀伊三所神と呼ばれています。それぞれは延喜式では大社になっています。祭神については諸説あるようですが、伊達神は五十猛命とされています。『播磨国風土記』には、神功皇后の船先を護ったのが御船前の伊太氏の神としの記載があります。

 実は江戸時代に紀の国魂神とされる伊太祁曽神社の祭神を手力男命とする話があったようです。前にも書きましたが、日を抱く神=伊太祁曽の連想だけではすまない何らかの下地があったのかもしれません。

 伊太祁曽神は浮宝(船)の神、木の神です。

[10873] 豊中歴史同好会  神奈備 2011/09/09(Fri) 17:52 [Reply]
2010 9 10 14時
大阪大学准教授 高橋照彦先生
考古学からみた4・5世紀のヤマト政権と攝津
5階公民館集会場

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[10872] Re[10871][10868][10866][10863] :丹敷  とみた [Url] 2011/09/08(Thu) 13:17 [Reply]
> > 手力男は鉄や木材と関係があるような気がします。
>  天手力男の名から船木氏がこの神を奉じていたのでしょう。
>  住吉大社の宮司である真弓常忠氏は『古代の鉄と神々』の中で「船木氏は丹生川上よりも砂鉄の豊富な播磨へ移動

船木氏は手力男神を祀り、船を作る工人。新羅系。
皇太神宮儀式帳に、猪名部氏と船木氏は、王権や大寺社に奉仕する木工集団とあります。寺や船を作るには木は勿論鉄の斧が必要です。鉄鍛冶もせざるを得ません。
こちらは倭鍛冶でしょうか。旧式の韓鍛冶でしょうか。
秦氏系ですね。同類の大、多氏系ですね。大と多は新羅系で秦と親しいというのが大和岩雄さんです。古事記を書いた大安麻呂は新羅の悪口を言わない。
伊賀の敢国神社のルーツが南宮山の祠でスクナ彦を秦氏が祭ることが気になります。
スクナ彦は大国主と一緒に日本の国土開発したことになっています。
出雲風土記には東出雲の飯石郷に出てきます。飯石は鉄を意味するそうです。出雲国造の祖は東出雲の岐比佐都美です。多分、新羅系だと思います。

飯石あたりから出雲街道が吉備を経て播磨に進んでいます。
西播磨の宍栗辺りは穴師の翳があります。秦氏でしょうか。

さらに東進すると。明石(赤石)の平野部は三木です。
三木は東播磨です。
平野邦雄さんに拠れば、西播磨は秦氏の鉄鍛冶・加工、東播磨は東漢氏の鉄精錬だそうです。

欽明天皇は百済の聖明王から仏教文化を受けました。552年(か538年)でしたか。聖明王はその翌々年には新羅の真興王との戦に敗死。その息子の恵皇子が明石海峡から上陸して三木市志染郷に逃げてきました。同伴した一族が韓鍛冶の進んだ技術を伝えたようです。それまでは旧式の倭鍛冶で天目一箇神の技術でした。

オケ・ヲケが隠れていたのも三木氏の縮見の鉄の屯倉です。忍海細目が大将でしょう。
忍海は葛城山の麓にいた鉄鍛冶集団です。百済の漢人です。それが東播磨に指導に出かけていたのでしょう。雄略の後の清寧天皇の時代です。欽明より数十年も前です。

>  播磨 爾保都比売命 → 紀伊国筒川の藤代の峯 → 筒:住吉? この地は丹生神社の密集地 → 船木氏が播磨へ移動 丹生都姫を奉じていたとすれば、丹生のFeedBack現象?
>

[10871] Re[10868][10866][10863] :丹敷  神奈備 2011/09/07(Wed) 10:57 [Reply]
> 手力男は鉄や木材と関係があるような気がします。

 江戸時代に伊太祁曽神社の神を手力男と見なしたことがありました。日を抱く神のゴロ合わせと思っていましたが、鉄や木材は、鉄の精錬の炭、漁船の材料、伊太祁曽神の特徴とかさなります。面白いことです。

 『住吉大社神代記』に、住吉大神の宮のある九箇処をあげています。その中に、紀伊国伊都郡 丹生川上の天手力男意気続々流住吉大神(にふかわかみのあめのたちからをおけつづくるすみよしのおおかみ)とあります。

 天手力男の名から船木氏がこの神を奉じていたのでしょう。
 
 住吉大社の宮司である真弓常忠氏は『古代の鉄と神々』の中で「船木氏は丹生川上よりも砂鉄の豊富な播磨へ移動」と推定されています。

 『播磨国風土記逸文』に、神功皇后が新羅征伐に赴く時、集まった神々の中に爾保都比売命がおり、自分を良く祀ってくれるならば赤土を与えようと言った。その赤土を船体などに塗って新羅を攻略した。帰還後、神功皇后は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉った。
とあります。

 播磨 爾保都比売命 → 紀伊国筒川の藤代の峯 → 筒:住吉? この地は丹生神社の密集地 → 船木氏が播磨へ移動 丹生都姫を奉じていたとすれば、丹生のFeedBack現象?

[10870] Re[10869]: 阿知使主  とみた [Url] 2011/09/05(Mon) 09:30 [Reply]
神名備さん返答ありがとうございます。
>  信州の阿智神社も『旧事本紀』には、八意思兼神児表春命は信州の阿智祝等の祖とあり、渡来人にゆかりの神社です。
>
> 阿智使主を祀る神社
> 信濃国伊那郡 安布知神社
>  先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃國に天降り、阿智祝部(あちのはふりべ=阿智の神事を司る神主)等の祖となったと記されている。

阿智祝は平安時代、天暦946年に奥信濃の戸隠(善光寺の北)に分霊したのが戸隠九頭竜権現です。くずさんが嘗て気になさっていた地です。この地は確かに奇妙な岩山がありますし、岩をぶん投げる伝承があります。私の現住の地に近い下総の流山という地名もこの岩山が流れてきたという伝承からついた名です。正に手力雄です。

私の推測です。東山道を開拓し始めたのはいつごろか。馬が伊那や毛野国に伝わったのは5世紀半ばです。
応神かその後の倭の五王時代でしょう。東漢氏の祖の阿智使主は明日香の檜隈です。代表が坂上氏です。蝦夷征伐の主です。
蝦夷征伐すなわち東国経営には道が不可欠。東山道を開発していったのでしょう、馬を使うことも条件です。荷馬が大切です。

東漢氏には七氏がいます。朱、高、段、多・・・です。

多氏は船木氏で産鉄族です。

中伊勢の猪名部が朝日川(上流が員弁川)の船木氏で延喜式式内社の大神社を営み、南伊勢の櫛田川流域の多気郡は佐那神社で神八井耳命でオオシを祀る。

南信州の伊那は猪名と同じイナです。伊勢津彦が関わりがあるようです。
伊勢津彦は出雲建子命。伊賀の佐那具も元は伊勢津彦の安志=穴師の社がありました。旧式の鉄や銅の鉱山開発者です。水銀も関わっていたのでしょうか。

猪名は川西市の猪名川に名があり、猪名部は新羅から渡来した船大工とされていますね。

雄略の時、朝日郎の反乱を鎮圧した功労で物部目は伊勢の猪名部部民を配下にします。
船木氏、猪名部、手力男等は鉄と木材と船が関係すると考えています。

猪名部氏が宣化天皇と深いつながりがあるそうですが・・・

[10869] 阿知使主  神奈備 2011/09/04(Sun) 13:50 [Reply]
> 阿智神社という延喜式内社があります。

 阿智神社と言う名の神社は岡山県倉敷市の駅の南側にも鎮座しています。現在の祭神は宗像三神となっています。八意思兼神も合祀されているようです。ここの社名は渡来人の阿知使主に関係があると由緒には記されています。

 奈良県の明日香村には於美阿志神社が鎮座、阿智使主神夫妻二柱を祭神としています。社名に「阿志」が残っていることからも、渡来人の阿智使主が祭神だったのでしょう。その末裔の東漢氏の氏寺である檜隈寺の跡地に鎮座しています。

 信州の阿智神社も『旧事本紀』には、八意思兼神児表春命は信州の阿智祝等の祖とあり、渡来人にゆかりの神社です。

阿智使主を祀る神社
信濃国伊那郡 安布知神社
 先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃國に天降り、阿智祝部(あちのはふりべ=阿智の神事を司る神主)等の祖となったと記されている。

近江国坂田郡 日撫神社
 新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直あり、共に後漢需帝四世の孫阿智使臣の族也と云へり、之によると、二氏の族、或は此處に居るもの其の祖先を祀れるか。

近江国高島郡 健速神社
天平宝字七年(763年)に同族であった大和守坂上忌寸がここに移り、遠祖阿智使主(後漢霊帝三世孫)の霊を祀るため、大寸神社を建立し、崇敬した。

日向国児湯郡 舞鶴神社
 合祀した神社の白山神社の祭神が、漢高祖、阿知使王、後漢霊帝。

[10868] Re[10866][10863] :丹敷  とみた [Url] 2011/09/01(Thu) 11:19 [Reply]
> とみたさん、投稿された方が訂正できない掲示板で心苦しく思っています。
確かに、投稿内容が投稿者自ら訂正できると有難いですね。他の掲示板では訂正可能です。

>  三輪山の周辺には鉄の精錬の残骸が出土しているようです。

>  また、上記書では、伊勢の穴師神社や穴師寺も丹生鉱山との関連があるようです。
昨年、伊勢伊賀美濃を巡りました。
伊賀の柘植の近くの佐那具の敢国神社は大彦命を祀っていますが、元々は秦氏の少名彦を祀る祠が山上にありそれを麓に移したようです。美濃不破の南宮神社の鉄神の金山姫を勧請しました。ここは穴志で、まさに穴師ですね。出雲建子、伊勢津彦ですね。
佐那具は鉄か銅に縁の地名。
伊勢の穴師神社は多気郡、飯高郡です。松坂市に流れ込む櫛田川流域でまさに中央構造線ぜす。水銀が取れるので有名な地です。鉄や銅も採れたのでしょうか。

穴師神社は、金剛座縁の神社が元の位置のようです。
金剛座は大和四座の猿楽の一つです。猿楽と言えば秦氏です。世阿弥は秦氏であることを公言しています。

秦氏の観阿弥の本拠は伊賀ですから、伊賀伊勢には秦氏の跡がありますね。
伊勢の穴師族は奈良の桜井市の穴師坐兵主神社の一族のようです。鉱山生業者説が有力です。穴師坐兵主神社は天日矛に関係しています。天日矛は新羅で秦氏と縁が深い。
播磨の穴師姫は伊和大神のプロポーズを拒否します。姫路の安富町の穴師姫神社が
鉄の産地、宍禾郡安師の里の条に穴師川と穴師姫が出てきます。

この辺りも西播磨ですから秦氏の色が濃いような気がします。
今年の夏には南信濃に出かけました。避暑と古代探訪と温泉めぐりです。

美濃不破から古代の東山道(現在の中山道と重なる)が山の間を縫って信濃に通じています。
木曽川沿いです。木曽川は岐阜市の近くに那加の近くを流れておりここには手力町に
手力雄神社があり古道もあったようです。東山道が恵那山の神坂峠を越えると伊那の阿智村です。阿智神社という延喜式内社があります。ここにも手力男と天表春神を祀っています。後者は土木建築の神です。手力男は鉄や木材と関係があるような気がします。

因みに、伊勢には員弁川・朝日川沿いの太神社の祭司は伊勢船木氏でした。
伊勢船木氏は多気の佐那神社に関与しています?。伊勢船木氏はオオシ(大、多、青)氏系です。

オオ氏は秦氏と仲間で新羅系だとされています。大和岩雄説です。
秦氏は土木だけでなく、鉱山開発にも関わり銅や鉄、水銀など得意分野でしょう。


[10867] 天野の盆地  神奈備 2011/09/01(Thu) 10:18 [Reply]
 高野山の麓の天野の盆地に丹生都姫神社が鎮座しています。『神功紀』に言う、「天野の祝」が居た神社でしょう。鎮座地は湿地帯(尾瀬ほどではない。)で、丹生都姫を辰砂の神とするよりは、豊穣の神に相応しいとも言われる由縁です。それでも神社周辺の土地は赤黒い色が時折見えます。血を流した土地で稲作を行うようにも見えます。

 『神功紀』には、「小竹の祝」も登場します。「小竹の祝」が亡くなって友達であった「天野の祝」が悲しんで死にました。二人は合葬されたのです。それ故か、世の中は夜のような暗さになってしまいました。このような変事を「阿豆那比 アズナヒ」の罪というとあります。小竹はシノで、御坊市の小竹八幡神社が候補地ですが、那賀郡粉河に志野神社が鎮座、近くには丹生神社も鎮座しています。こちらの神社の方が交流があったとすれば自然です。

[10866] Re[10863] :丹敷  神奈備 2011/08/30(Tue) 19:11 [Reply]
とみたさん、投稿された方が訂正できない掲示板で心苦しく思っています。
訂正後を投稿して頂いて、前の投稿を削除するように指図頂ければ行います。


> 穴師兵主なら鉄のようですが、纏向の巻向川=穴師川とか穴師山は天日矛に関係がありそうです。あの辺りは鉄の産地ではないでしょう。

 谷川健一著『青銅の神の足跡』によりますと、「大和の穴師に古代の金属精錬のあったことが推定される。」とあります。
 三輪山の周辺には鉄の精錬の残骸が出土しているようです。

 また、上記書では、伊勢の穴師神社や穴師寺も丹生鉱山との関連があるようです。


[10865] Re[10860] :丹敷  神奈備 2011/08/30(Tue) 19:10 [Reply]
佐々木さん、興味深い論文のご紹介ありがとうございます。

殺牛を渡来系の儀式としますと、石上神宮の北の布留川から牛の骨が出土しています。
この辺りにも居住した渡来人がいて、降雨を祈ったのでしょうね。

[10864] Re[10861][10859] :丹敷  大三元 2011/08/30(Tue) 14:09 [Reply]
神奈備さん まだ残暑お見舞いが有効な今日この頃・・・

>  賀毛郡雲潤里は近世までの「宇仁郷」の地のようです。
>  「丹」と「宇仁」、なんとなく収束しそうな気もしますね・・・。

岩波の「風土記」ではP346頭注にて:昔「雲彌(うみ)」と云ったのが今(風土記編纂時?)「雲潤(うるみ、うずみ、うずに)」なった、と理解していますね。

だとすると、そこ(うるみ、うずみ、うずに)から「宇仁(うに?)」になった(いわば戻った?)という案ですね。それもありかも。

「うみ」「うに」が同語(揺れの範囲)だとすると「三保、美保」なんかと「にほ」も気を付けておきたいと思います。

>  血と稲、豊穣の呪い? 製鉄民の稲作の意味なのでしょうか?

この疑問(質問)が出てくる理由(背景)がわかりません。

[10863] Re[10862][10861][10859] :丹敷  とみた [Url] 2011/08/30(Tue) 11:45 [Reply]
メールを出してから見直すとミスしていることに気が付きます。出す前に見直せばよいのにねえ。ご容赦のほどを
>全国に散在する地名「丹生」での朱採掘と水銀の精錬に関与します。
  朱砂採掘です
> 千種川の内陸でしょうか。千種川の加工は赤穂で塩です。秦氏は塩生産も関わります。

加工でなく河口です。
> 佐用姫は出雲の伊和神に背きます。

伊和大神は播磨一之宮の神。この神と出雲との関係は簡単には言えませんね。伊和は岩、磐で鉄鉱とは思っています

> 和気氏は秦氏が応援しています。薩摩に流されたとき宇佐の秦氏が援けました。
薩摩でなく大隅です。

ついでに、赤は朱の赤か鉄の赤かわかりませんね。
真弓常忠さんが、古代の鉄と神々の著作の中で、紀ノ川・吉野川の丹生を水銀でなく鉄とお考えのようです。

松田寿男さんは、もちろん水銀説です。

ところで、穴師ですが纏向が本家で、播磨にも穴師姫(穴師=志姫神社)がいますね。地元の女神と製鉄
神の習合と書かれていました。大和からの勧請なのでしょうか。

穴師兵主なら鉄のようですが、纏向の巻向川=穴師川とか穴師山は天日矛に関係がありそうです。あの辺りは鉄の産地ではないでしょう。垂仁、景行が絡んでいそうです。
系図に明るい室賀寿男さんによれば、応神は息長氏と言われています。


[10862] Re[10861][10859] :丹敷  とみた 2011/08/30(Tue) 10:15 [Reply]

> > 讃容郡:鹿の血に稲をまいたら一晩で苗になった。
> > 賀毛郡雲潤里:宍の血で田作りする。
> >        主人公が「丹津日子」と「丹」がつくのがイミシンか?
>
>  血と稲、豊穣の呪い? 製鉄民の稲作の意味なのでしょうか?

古代豪族に詳しい加藤謙吉さんの説では、秦氏は製塩、産銅
への関わり、全国に散在する地名「丹生」での朱採掘と水銀の精錬に関与します。

平野邦雄によれば、西播磨は秦氏の倭鍛冶、東播磨は東漢氏の韓鍛冶とされます。

秦氏は応神時代に新羅から来た勢力、東漢氏は雄略時代に百済から来た勢力。
因みに雄略の後の清寧時代に、東播磨に鉄の縮見屯倉に忍海漢人(細目)がいました。(オケヲケの逃避地)。

中国山地は鉄の産地です。延喜式にも備後。備中。美作国から鉄鍬を納めさせたとある。出雲街道がキーのようです。弥生時代から津山の沼遺跡に沼鉄鉱が出ているし、
孝謙天皇時代にも美作の英多で竪穴坑の話があります。
その東が佐用でしょう。

千種川の内陸でしょうか。千種川の加工は赤穂で塩です。秦氏は塩生産も関わります。
大避神社は秦氏でしょう。
佐用姫は出雲の伊和神に背きます。

西播磨と天日矛伝承と重なるようです。これも秦氏の繋がりでしょう。秦氏は新羅系。東漢氏は百済系でしょうか。

美作が備前から分割されます。和気氏が入ります。
吉備の国は吉備氏が納めていました。造山古墳のあるところは伽耶津です。伽耶の勢力が入り、吉備氏を支えていたのでしょう。
吉備の東北部である備前の北部を美作として分割し吉備氏から和気氏が奪ったのでしょう。

和気氏は秦氏が応援しています。薩摩に流されたとき宇佐の秦氏が援けました。

[10861] Re[10859] :丹敷  神奈備 2011/08/29(Mon) 11:04 [Reply]
大三元さん、こんにちは。

> 讃容郡:鹿の血に稲をまいたら一晩で苗になった。
> 賀毛郡雲潤里:宍の血で田作りする。
>        主人公が「丹津日子」と「丹」がつくのがイミシンか?

 血と稲、豊穣の呪い? 製鉄民の稲作の意味なのでしょうか?

 賀毛郡雲潤里は近世までの「宇仁郷」の地のようです。(『古代播磨の地名は語る』から)
なお、『和名抄』にはこの郷の名は記載されていません。

 「丹」と「宇仁」、なんとなく収束しそうな気もしますね・・・。

[10860] Re[10859][10857][10856][10854] :丹敷  佐々木 2011/08/29(Mon) 10:59 [Reply]
 最近雨乞い神事を勉強しておりまして、文献では有馬郡誌、伊丹市史第6巻の「高座岩の雨乞い」、これらの文献では白馬の血が紹介されていました。
 中国では『廣州記』「説○卷六十一」にも、「鬱林郡山東林有一池。池辺有一石牛。若旱百姓殺牛祈雨。以牛血和泥。塗石牛背。」
 http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/25-2/itoh.pdf
 血の色・・・赤、それを塗る・・・穢れていると思って、雨が降る??

[10859] Re[10857][10856][10854] :丹敷  大三元 2011/08/29(Mon) 08:41 [Reply]
>  牛の血を川に流して、川の神(=水の神)を怒らせて、やはり雨を降らすと言う呪い

この話は初めて伺いました、有り難うございます。
連想するのが播磨風土記の記事です。

讃容郡:鹿の血に稲をまいたら一晩で苗になった。
賀毛郡雲潤里:宍の血で田作りする。
       主人公が「丹津日子」と「丹」がつくのがイミシンか?

[10858] Re[10857] :丹敷  いこまかんなび 2011/08/28(Sun) 21:41 [Reply]
横からの割込みで失礼しました。
セミナーの案内までしていただき恐縮です。期待はずれの内容になること間違いなし。

[10857] Re[10856][10854] :丹敷  神奈備 2011/08/28(Sun) 09:06 [Reply]
 いこまかんなびさん、ご指摘ありがとうございます。2003年に参詣していました。

 祠を山上から転がして池に落とす、それで神様が怒って雨を降らす、見事な神様の利用方法だと思います。
 余談ですが、宝塚では、屠殺場からもらってきた牛の頭を川の中の石の上に置き、牛の血を川に流して、川の神(=水の神)を怒らせて、やはり雨を降らすと言う呪いが戦前まで残っていたそうです。

 ところで、11月14日の「住吉セミナー」で「生駒・葛城の嶺と住吉の世界」と言うテーマで講演をされるとのこと、楽しみにしています。

 「住吉セミナー」は、住吉大社の吉祥殿で行われ、14時30分〜16時の予定、資料代200円、予約不要です。
http://kamnavi.jp/link/sumisemina11.htm

[10856] Re[10854] :丹敷  いこまかんなび 2011/08/27(Sat) 21:43 [Reply]
神奈備さん、お久しぶりです。

>明日香村入谷字マンソ548 大仁保神社 仁徳天皇
>高取町丹生谷字大入     大仁保神社 罔象女神
>どちらの神社も参詣していないので、涼しくなったら行ってみたいものです。

先月、[奈良県高市郡]高取町丹生谷字大入の大仁保神社を探しに行きました。
すでに「丹生神社」として下記で紹介されている神社だと思います。
http://kamnavi.jp/ny/takatori.htm

社殿は、小尾根の突端の高圧鉄塔の横にあり、昨年の台風で崩れだして工事予定とのことで、神社への細い石段道を含め、すぐ横までブルーシートで覆われている状態です。
建物下に「大仁保神社」の小さな額が裏返しになっていたので間違いないと思います。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m/34.4249769444444_135.764393055556_9/

[10855] Re[10853]: 丹敷  神奈備 2011/08/27(Sat) 11:39 [Reply]
 人格神が登場した頃、全てを生み出す大地を母なる大地として、大地母神が誕生したのではないでしょうか。大地の穴の底に溜まっている水銀、穴から掘り出される赤みを帯びた辰砂、すべて大地の恵みと思われていたのだと思います。
 古い神は姫神と言われるのは、そういうことなのでしょう。

 丹はHgS(硫化水銀:辰砂)のことではないでしょうか。HgもHgSも無機ですから毒性が低いようです。有機水銀(メチル水銀など)が有毒なのです。
 また、大仏の金メッキの作業のように、呼吸器系に入る水銀も毒性が強くなるようです。

 丹塗矢は先に朱を塗ってあるものでしょうから、毒性は低いのではないでしょうか。

[10854] Re[10852]: 丹敷  神奈備 2011/08/26(Fri) 21:15 [Reply]
 タイシさん、ありがとうございます。

 大仁保神社は明日香村と高取町にそれぞれ鎮座しています。『奈良県史』神社編 から。

明日香村入谷字マンソ548 大仁保神社 仁徳天皇
高取町丹生谷字大入     大仁保神社 罔象女神

 後者は国史見在社で、『皇極天皇紀三年』「蘇我蝦夷丹穂山に桙削寺を作らしむ。」とあります。
 前者の祭神も「仁」の字に引っ張られたような気がします・・・。

どちらの神社も参詣していないので、涼しくなったら行ってみたいものです。

[10853] Re[10852][10851][10850][10849][10848][10847][10846][10845][10844]: 丹敷  琉球松 2011/08/26(Fri) 21:04 [Reply]
 全てではないにしても、何故に女神なんでしょうか。水銀を取り出す大釜?、あるいはその「ホド穴」を女体に見立てているんでしょうかね。

 そもそも「丹」は水銀そのものなのか。。。だとすると「丹塗り矢」の先は猛毒ということになります?

[10852] Re[10851][10850][10849][10848][10847][10846][10845][10844]: 丹敷  タイシ 2011/08/26(Fri) 17:37 [Reply]
>丹生と爾穂とは同意と考えられます。

> ニホについてのメモ

なるほど
明日香村の加夜奈留美命神社を少し登った入谷に大仁保神社が鎮座していました。

この神社は通称「お丹生さん」と呼ばれているそうですね。

[10851] Re[10850][10849][10848][10847][10846][10845][10844]: 丹敷  神奈備 2011/08/26(Fri) 15:29 [Reply]
> 九州に水銀が豊富だったとすると、わざわざ東征する必要もなくなりますが。。。

 大分市坂ノ市町で丹生を産することは有名で、それも邪馬台国の卑弥呼時代に採掘されていたと邦光史郎著『朱の伝説』p162では指摘しています。
 また、佐賀県の嬉野町にも丹生川があり、丹生神社も鎮座しています。
  
ニフ ニホ について

 丹生都比売と爾穂都比売

『播磨国風土記』(逸文)国を固められた大神の子爾穂都比売命が云々 (中略)その神を紀伊の筒川の藤代の峰にお鎮め申した。
 現在の、和歌山県伊都郡高野町上筒香と下筒香には丹生神社がそれぞれ鎮座しており、丹生と爾穂とは同意と考えられます。

ニホについてのメモ

『和名抄』近江国野洲郡 迩保郷 邇保郷 

 よく似た名の神社
広島市南区  爾保姫神社
広島市比婆郡 爾比都売神社
島根県大田市 迩幣姫神社

ニホ 地名
仁保 広島市 爾保姫神社が鎮座
爾保 近江国野洲郡
丹穂 
丹保 富山県西砺波郡福光町
仁尾 香川県三豊郡
荷尾 大分県大分郡

[10850] Re[10849][10848][10847][10846][10845][10844]: 丹敷  琉球松 2011/08/26(Fri) 00:58 [Reply]
 「ニフ・ニウ」地名はけっこうありますね。川に近いですから八岐大蛇の腹が赤いということでしょうか。

 中央構造線と水銀の関係は地質学的なものでしょうけども、紀ノ川下流から奈良盆地を目指す場合には夏至の日の出方向との観念でしょうか?春分or秋分の日の出方向でしょうか?
 
 余談ですけど。。。宮崎県一ツ瀬川沿いなど、九州各地の「新田原」は「丹生戸原」かもしれませんよ〜(笑)。九州に水銀が豊富だったとすると、わざわざ東征する必要もなくなりますが。。。

[10849] Re[10848][10847][10846][10845][10844]: 丹敷  神奈備 2011/08/24(Wed) 08:39 [Reply]
>  水銀の話題、もう少し聞かせてください。

とりあえず
丹生大師(神宮寺)をご覧下さい。

http://kamnavi.jp/ny/mietaisi.htm

[10848] Re[10847][10846][10845][10844]: 丹敷  琉球松 2011/08/23(Tue) 11:53 [Reply]
神奈備さん、ありがとうございます。

 竃山の墳墓が2世紀の建造だとすれば、神武東征もその頃で、神話の改ざんの証拠になりそうですが、ともかくも宮内庁には考古学的調査とその開示を期待したいですね。

 水銀の話題、もう少し聞かせてください。

[10847] Re[10846][10845][10844]: 丹敷  神奈備 2011/08/23(Tue) 09:24 [Reply]
 竃山の墳墓は吉備の楯築墳墓と同じように頂上に石を立てているようです。吉備は百襲姫にかかわる土地ですから、興味のあるお説ですが、楯築墳墓は2世紀の建造になるようで、(一説には倭国王帥升の墓)、竃山もよく似た時代のものと思われます。卑弥呼の死去は3世紀半ばで、年代としては差があるようです。

 水銀のままの採掘と言うのも初期にはあったのかも知れませんが、通常は辰砂を採掘します。辰砂から水銀を取り出すのは、一度蒸発をさせてその気体を冷やして水銀をとると言うプロセスを経ます。銅製品とは相当異なる技術でしょう。


[10846] Re[10845][10844]: 丹敷  琉球松 2011/08/23(Tue) 07:58 [Reply]
 竈山古墳説があるのかわかりませんが、一応可能性はあるとしていいと思います。

 ところで、水銀を採掘するためには高度な技術が必要ですから、すでに多くの技術者が存在したでしょうね。
 銅製品製造技術の応用もあるでしょうか。

[10845] Re[10844]: 丹敷  琉球松 2011/08/21(Sun) 12:48 [Reply]
 神奈備さんへ

 "紀ノ川をさかのぼるのが素直" 。。。まったく同感です!
 僕も "紀ノ川遡上説派" でして、そのほうが史実に近いと思いますね。
 また、神武東征の目的が水銀鉱山、あるいは鉄、銅鉱石の探索というより、その製造関連集団の取り込みを主眼としているようにみえます。

 で、またまたついでなんですが。。。
 神武3兄弟(4兄弟?)は『魏志』の倭人伝で言う卑弥呼(百襲姫?)の3つ?の側面を表現しているんじゃないかと想像しますがどうでしょうか。
 「稲」「常世国」、そして戦闘中に亡くなった長男は卑弥呼の死を連想させますね。ですから彼女の "とりあえずの円墳" は「竈山古墳」ではないかと??

[10844] 丹敷  神奈備 2011/08/20(Sat) 19:46 [Reply]
 鳥越憲三郎著『大いなる邪馬台国』で、神武天皇が大和に入る道筋を、紀ノ川を遡上したとしています。その中で、万葉仮名での「丹敷」は「ニフ」とよむべきと出てきています。

 ネットで見ますと 平仮名からの割合ですが
万葉仮名 に 尓 86% 丹  4%   の割合 残りはその他
 ふ 布 50%  敷 17%   の割合 残りはその他
となっています。丹敷を「ニフ」としても間違いはないようです。

 上垣外憲一著『古代日本謎の四世紀』では、神武東征の目的を水銀鉱山の探索に絞って論じておられます。そうなると、高野山の麓に丹生都比売神社が鎮座していることもあり、紀ノ川をさかのぼるのが素直なようです。

 ついでに我田引水のお話ですが、松田壽男著『丹生の研究』には、各地の丹生地名、丹生神社の鎮座地の水銀濃度が掲載されていますが、最高値は我が伊太祁曽神社の境内で、0.04%です。この濃度は水銀産地の宇陀の0.018%を凌駕しています。
 神武東征軍は伊太祈曽にやって来たと考えております。

 おひまな方は http://kamnavi.jp/jm/kawatikii.htm をご覧あれ。

[10843] Re[10842]: ヒメコソ神社とタケオシモコリ神  神奈備 2011/08/19(Fri) 09:52 [Reply]
 よく判りませんが、大神(緒方)一族の誰かが、姫島の砂鉄を求めて移住し、姫島を名のったということでしょか。砂鉄が無くなったか、経済性がなくなったので、農業に専念したと見えますが・・。

[10842] ヒメコソ神社とタケオシモコリ神  大分県 姫嶋暢彦 2011/08/17(Wed) 13:40 [Reply]
大分県祖母山付近にある「健(建)男霜凝神社」:タケオシモコリ社と大分県国東半島の姫島にある「比売呼曽(ヒメコソ)神社」との関連こじつけに苦慮しタケオシモコリは朝鮮語で蛇の尻尾(タケオ)と糸のわっか(シモコリ)という説であり、俗に言う大蛇伝説で平安末期の豪族である大神(緒方)維栄の始祖維基に因んだといわれる。キーワードは渡来人による大野川流域の鉱山発掘と義経を助けた臼杵・佐伯・姫島水軍。一方後者は渡来人による姫島の砂鉄収集と航海術。実は私の苗字姫嶋で家系図には大神維栄の子孫とある。その後軍事偏向?した大神直系袂を分かち冶金・土木技術を活かした農耕に専念すべく移転した。そのとき軍事系大神が見張りにつけた?差別されている同姓も近隣に移転(彼らだけが代々馬を飼っている)。彼らの墓地は別のところにあり蛇神と呼ばれている。大阪の姫嶋神社の家紋は三つ巴(逆さ?)であり、わが数代先祖の屋根付墓には朱の三つ巴が薄く残っている。蛇足であるが大分市の滝尾(タキオ)には横穴式住居遺跡があり、近辺には下郡(シモゴオリ)神社がありタケオシモコリの分社といわれている。どなたかストーリーをすっきりさせていただけないものでしょうか。

[10841] 持統天皇  神奈備 2011/08/17(Wed) 09:57 [Reply]
 持統天皇は火葬の際、大倭根子天之廣野日女尊と言う諡名を贈られています。

 子供の草壁皇子は早世して皇位につけず、孫の文武天皇が15歳になった時、皇位を譲っています。このことから、天照大神が子の天忍穂耳尊ではなく、孫の瓊々杵尊に地上の支配者に指名したことを会わせて考えて、天照大神のモデルが持統天皇との説もありました。
 天照大神は天壌無窮の神託として、皇位は、永遠に続き、極まりなく続く、と教えたことになっています。

 で、持統天皇の血脈を調べて診ました。

持統天皇−草壁皇子−孫

孫:氷高皇女(元正天皇)
孫:珂瑠皇子(文武天皇)
孫:吉備内親王(長屋王妃)

氷高皇女は子をもうけていません。
文武天皇は首皇子(聖武天皇)を生んでいます。
吉備内親王は4人の皇子を得ています。長屋王の変で長屋王・吉備内親王ともども皇子たちも自害しているようです。

子孫を残したのは文武天皇です。
首皇子(聖武天皇)ひとりです。

聖武天皇の御子達。
孝謙天皇 未婚。
基王   幼くして死亡。
安積親王 成人前に死亡。
井上内親王 光仁天皇の皇后となるも、皇子の他戸親王と共に獄死。
皇女の酒人内親王は桓武天皇の妃になり朝原内親王をもうけます。
朝原内親王は齋宮から平城天皇の妃になります。御子を残さずに39歳で逝去。

もうひとりの聖武天皇の娘である不破内親王は二人の皇子をもうけます。共に反乱を起こしたようです。
男子:氷上志計志麻呂 志計志麻呂は土佐国に配流され、その後の消息は不明。
男子:氷上川継 伊豆守となりますが、後の消息は不明です。
それ以外にも姉妹がいたとされますが、人数や名前は不明です。


 天照大神のモデルだっかかも知れない持統天皇の子孫は民草の中に埋もれてしまったのか、途絶えてしまったのか、それすら不明の天壌無窮の状態になりました。

[10840] お父さん犬  神奈備 2011/08/14(Sun) 19:54 [Reply]

 お父さん犬は白い犬です。スペアがいるそうです。「白い犬とワルツを」と言う劇がありますが、婚姻にからんだお話かと思います。日本の古代でも白い犬が婚姻に絡みます。

『播磨国風土記』景行天皇が印南の別嬢を娶ろうとします。儀礼として別嬢は島に逃げるのですが、別嬢の飼い犬が島に向かって吠えたので逃げた先が判り、別嬢と結ばれるのです。

『近江国風土記』(逸文)伊香刀美は天女の羽衣を白犬に盗ませて結婚します。

『雄略記』 志幾の大縣主から貰った白い犬を、婚姻相手の若日下部王を訪問し、白い犬を差し上げて「妻問いいの物」と言われたのです。


 このように「白い犬」は婚姻の印しのようなものです。

 そこで、空海を高野山に案内した狩場明神ですが、一説には黒い犬二匹を連れていたと言う伝承がありますが、また白い犬一匹、黒い犬一匹との話も残っているようです。
 高野山の土地を丹生都比売から頂くべく赴いたのですが、実は婿入りの形を取ったのかもしれないなと最近思っています。

[10839] Re[10838]: 『住吉大社神代記』 密事の記事。  琉球松 2011/08/12(Fri) 10:35 [Reply]
 竹と嶽はどこかで繋がっているでしょうか。「猛々しい」も竹の頼もしさを連想させますから「ツツ(膣?)」より男根との解釈に分がありそうです。
 また、「塩筒老翁」は考古学的には銅鐸や特殊器台など筒状の遺物も候補に入れていいと思います。「白髪」は出雲神の象徴でしょうか。

 ところでYさん語?「シマ」は、琉球文化圏でも相変わらずテリトリーを意味していてアイランドとは限らないですから、「豊アキツしま」は本州島ほど大きくはないかもしれませんね。

[10838] 『住吉大社神代記』 密事の記事。  神奈備 2011/08/09(Tue) 09:10 [Reply]
是夜天皇忽病發以崩〔之〕於是皇后與大神有密事俗曰夫婦之密事通。

仲哀天皇が死んだ後、皇后と住吉大神には密事(むつびごと)がある。俗に言う、夫婦之密事。

住吉三神に共通の名に筒男。筒とはその外見からは男根の意味かもしれません。
筒からは竹を連想し、竹は竹内宿禰につながります。応神の父親は竹内宿禰とは判りやすいお話。
筒の古い神である塩筒老翁のイメージと竹内宿禰とが、白髪、老翁、皇孫を助けると言う重なる雰囲気もあります。
神には後裔の氏族がある場合が多いのですが、住吉三神には後裔がいないのです。それで大王家が祀っているのか、大王家が後裔なので大王家が祀っているのか。

 なお、暴力団で言うツツは女性器のことで、ツツモタセ(美人局)などに使われています。縄張りを現す「シマ」も、やくざの言葉で、以外と古い言葉を使っているようです。

[10837] 出雲国造の神賀詞 どんたくさん  神奈備 2011/08/07(Sun) 08:51 [Reply]
どんたくさんの「出雲国造の神賀詞」についての記事紹介
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=6615595
どんたくさん
豊中歴史同好会では、毎月『つどい』という会報を発行しております。
この『つどい』の今月号(第282号)が今日(2011.7.9.)の例会で配布されました。
この中に、「出雲国造の神賀詞」と題して私が寄稿した文章があります。
その全文(と写真(ご本殿大屋根の葺替工事中))をここに披露させて戴きます。
この内容は、出雲大社に原稿を提出し、許可を得て、『つどい』に掲載したものです。
要旨
 その際に私は直接千家様に次のようなことをお尋ねしました。
「現在も出雲國造は代替わりに際して宮中に参内してご挨拶されると聞いておりますが、その際に『延喜式(えんぎしき)』にある出雲の國造(くにのみやつこ)の神賀詞(かむよごと)を奏上されるのでしょうか?」
 これに対して千家様は穏やかな口調で次のように答えられました。
 「神賀詞の奏上ということは今はいたしておりませんけど、延喜式にあるのと全く同じものを書いて、それを陛下に献上させて戴いております。」
とのことです。


以下は神奈備の追加
本屋で立ち読みの千家 尊統 (著) 『出雲大社』から。

 文献の記録では、霊亀二年(716年)2月に第23代国造出雲臣果安が奏上したとの記事(『続日本紀』)が初見であり、以後、天長10年(833年)4月の第33代国造出雲臣豊持による二度目の奏上(『続日本後紀』)まで15回の記録が見られるとのこと。
 
 以後、約千年間途絶えた。復活は明治二年、第79代千家尊澄の時に復活。
 第八十代の千家尊福が神賀詞の精神を汲んで、「年の始めの ためしとて おわりなき世の めでたさを♪」を作詞した。
 第83代千家尊祀の時、昭和二十三年に復活、宮中に参内し、神賀詞を奉上されたようです。

[10836] 竹島の古地図の  神奈備 2011/08/05(Fri) 22:24 [Reply]
滋賀県の有名な神社の方のメールから。

竹島の古地図の比較です。

http://www.youtube.com/watch?v=tV_DdH-xmVY

領土の奪回は軍事行動しかありません。いつチャンスが来るかですね。北方領土もしかり。


[10835] Re[10834][10833][10832]: 浪花の神社史 おしまい編  琉球松 2011/08/03(Wed) 21:22 [Reply]
 神奈備さん、どうもです。

 浪速は朝鮮半島との橋渡しの地なんですね。
 大山祇神もサルタヒコのような立場だったでしょうか、いっしょに祀られている事代主も出雲と神武勢力との橋渡し役?を勤めているわけで。。。
 それと「伊和」は鋳型でしょうかね。そうすると許乃波奈佐久夜比売命は完成した銅製品かもしれないですよ。

[10834] Re[10833][10832]: 浪花の神社史 おしまい編  神奈備 2011/08/03(Wed) 09:36 [Reply]
三島鴨神社がそれにあたるのでしょう。

 由緒
 社伝によれば仁徳天皇の時代に百済より大山祇神を迎えて摂津御島に淀川鎮守の社を造ったのを創祀としている。 これは『伊予国風土記逸文』に「乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済の国より渡り来まして、 津の国の御嶋に坐しき。御嶋と謂うは、津の国の御島の名なり。」とあることを根拠にしている。
とあります。
http://kamnavi.jp/en/settu/misimakamo.htm

 大山祇神はコノハナサクヤ姫の父神とされています。姫は大阪ではあまり祭られていません。大阪市鶴見緑地での花博では、大阪は「さくやこのはな館」と言う名前で出展していますが、これは百済経由で渡来して漢字を伝えたとされる王仁博士が仁徳帝即位を祝した歌、
 
 ナニワヅニ サクヤコノハナ フユゴモリ イマハハルベト ハクヤクノハナ

に因んだネーミングです。大阪市には埋め立て地で此花区もあります。

 話は『播磨国風土記』に移りますが、穴禾郡の雲箇(うるか)の里の項に、「伊和大神の抓の許乃波奈佐久夜比売命は、その容姿が美麗(うるは)しかったので、宇留加という。」とあります。

[10833] Re[10832]: 浪花の神社史 おしまい編  琉球松 2011/08/02(Tue) 21:38 [Reply]
 平将門の反乱の頃、瀬戸内海でも伊予水軍が活発ですが、大山祇神はもともと浪速に現れたとされています。
 諸説あるにしても、大阪湾は「浦島子」の伝説等、海人とワタツミの動きを知るには欠かせないわけですし、女神「コノハナサクヤ姫」との関係もありますね。

 大山祇神を祀る社は、現在の大阪府にもあるでしょうか? あるいは近年まであったとか。。。どうでしょうか。

[10832] 浪花の神社史 おしまい編  神奈備 2011/07/28(Thu) 11:54 [Reply]
●浪速三神明 三態の日神を祀る神社

 平将門の反乱(承平天慶の乱)で父平国香の子の平貞盛が東国へ平将門追討に出る際、戦勝を祈願して天照大神を奉斉した。これが朝日神明宮。中央区の南大江公園に鎮座していましたが、今は此花区春日出中に遷座。
 日中神明宮は江戸時代に京都から勧請されたようです。平野町に鎮座していましたが、今は大正区鶴町。

 上記二沙は埋め立て地で元々は海の中、市内から余っている(?)神社を土地神として遷座させたもの。

 夕日神明宮は義経の勧請とされます。西天満にありましたが、現在は露天神の内に末社として鎮座しています。露天神とはお初天神ともいい、当地で情死した遊女の名前に因みます。

● 熊野王子社 熊野古道は淀川を下り、ここから上陸し徒歩で出発しました。
 窪津王子→堀越神社 坂口王子→朝日神明宮 郡戸王子→(高津宮) 上野王子→上之宮神社→大江神社
 「→」印は合祀されたとの意味です。


●渡来人の巣窟 難波
百済  王仁博士 応神天皇十五年来邦 漢字を伝えたと伝わる。
 天王寺区 東高津宮摂社王仁神社 北区 浦江八坂神社摂社和迩神社 高石市 高石神社 『和泉名所図絵』には、高志の祖、王仁を祀ると記せり。
百済
枚方市 百済王神社 羽曳野市 飛鳥戸神社(昆伎王) 東成区 八王子神社(百済神社)久太郎町は百済町。

新羅 難波堀江の北側の北渡辺を新羅江と称した。氏神が白木神社。現在は浪速区。心斎橋は新羅橋。
漢 交野市 機物神社 長安の漢人が居住したと伝わる。

難波宮には半島から来る遣いがとどまる宿舎があり、百済館、新羅館、高句麗館と称した。
高句麗館の側の橋を高麗橋と言う。


●その他
神濃さん
歯痛 北区 歯神社  平野区 川辺八幡神社摂社歯神稲荷社
住吉区 保利神社摂社保住稲荷社(歯痛平癒の霊験社)
難波八坂神社 大獅子殿にビックリ。
在原業平 八尾市 玉祖神社 福屋の娘を見初め、通うが、ある日、窓から覗くと手掴みで飯をほおばっていたのを見てしまった。すっかり興ざめ。笛を置いて去った。娘は池に入って死んだ。
安倍晴明 阿倍野区 阿倍王子神社 和泉市 聖神社、葛葉稲荷神社
楠木正成 千早赤阪村 建水分神社摂社南木神社、千早神社
連歌 平野区 杭全神社
井原西鶴 松原市 柴籬神社
上田秋成 淀川区 香具波志神社
近松門左衛門の曾根崎心中 お初と徳兵衛 北区 露天神社(お初天神)
豊臣秀吉 中央区 豊國神社
豊臣秀頼 玉造稲荷神社摂社秀頼公胞衣塚大明神
淀君 鵲森宮摂社淀君社

 大阪は宗教都市と言われるように、古い神社や寺院が沢山あります。退屈しない町です。

[10831] Re[10830][10829][10828][10826]: 浪花の神社史 雄略天皇  神奈備 2011/07/27(Wed) 08:29 [Reply]
倭の五王の系譜と朝貢年

┏讃   421,425

┗珍   438


443,451
   ┏興 462
済━┫
   ┗武 478

 『日本書紀の真実』倉西裕子著から、日本書紀が示した各大王の年代
    大王     五王?            基準とした事件
    応神天皇 390 396 三年 百済国の阿花王即位 392年 三国史記 東国通鑑
仁徳天皇 397 427
履中天皇 讃 421 426
反正天皇 427 431
空位     432 432
允恭天皇 珍 済 433 454
安康天皇 454 456
雄略天皇 興 武 457 479 五年 百済国武寧王誕生 461年 武寧王墓誌

 珍と済との関係について『宋書』は何も語らない。
 一方、『紀』では、允恭即位について異論があるように記しています。大王家が親戚筋にでも遷ったのかも知れません。
 倭の五王と『紀』での在任期間とが合わないのは、『紀』に不正確な所が残っているからと思います。応神から雄略なで『紀』の在任期間を合計すれば、上記より120年も多いのです。

 允恭さんは葛城の玉田宿禰を滅ぼしています。仁徳と磐之媛との皇子でしたら、葛城の一部とはいえ、滅ぼしてしまうものでしょうか。住吉仲皇子と允恭は磐之媛の腹ではないのでは。

[10830] Re[10829][10828][10826]: 浪花の神社史 雄略天皇  とみた 2011/07/26(Tue) 12:05 [Reply]
倭の五王、讃、珍、済、興、武ですが、いろいろと対立がありますね。
履中、反正、允恭の間に住吉仲皇子がいます。これが履中を倒そうとします。
同志が、阿曇浜子と倭直と隼人と海民族です。
住吉ー安曇ライン。

履中の方は東漢氏と物部、平群が味方します。
允恭は済でしょうか。息子が興=安康と武=雄略です。

反正の後継の仁徳皇子で皇位継承の有資格者は、允恭と大日下王であった。允恭は履中反正の兄に愚か者と軽蔑されていた。履中反正は大日下王を応援した。履中反正 vs 安康雄略の対立が生じたのでしょう。安康は大日下部王を殺し雄略は大日下部王の妹の若日下部王を略奪結婚した。若日下部王は雄略の大后として日下の直越に住んでいた。

河内系の残存勢力でしょう。餌香は藤井寺とか柏原でしょう。大和川と石川の合流点。近くに河内国分がありますね。志紀神社は近くでしょうか。
狭穂彦も狭穂姫も歯田根命も日下部一族です。志紀県主も一族かもしれませんね。
まあ河内旧勢力で、雄略に追放された一族。

市辺押磐も雄略に殺され、その息子は丹波道で丹波に逃げ播磨の縮見屯倉で逃亡生活。これが見つけ出された顕宗、仁賢です。逃亡を助けたのも日下部連でした。

元を辿れば日向族ですね。
歯田根命の罪を探ったのは、軍事警察の物部目連です。
雄略は大伴室屋、物部目連と東漢氏を信頼していました。

伊勢の朝日郎を懲らしめたのも物部目連です。
倭の五王は系図が二つに分かれると言われます。允恭以下で分かれるのでしょうか。






[10829] Re[10828][10826]: 浪花の神社史 雄略天皇  神奈備 2011/07/24(Sun) 17:17 [Reply]
とみたさん こんにちは。

> 垂仁時代に狭穂彦と狭穂姫が反乱を起こします。日下部勢力ですね。

 サホは奈良市の佐保川の流域で、開化天皇の皇子の日子坐王と沙本之大闇見戸売の子に沙本毘古王、沙本毘売命がいます。

 狭穂彦の玄孫(孫の孫)歯田根命は処罰を受けてから、処罰をした物部目大連は天皇から餌香の長野邑を貰っており、ここが歯田根の所有だったのでしょう。


> 若日下部王は直越え(暗峠)ですから日下にいたのでしょう。これが雄略の大后、そこに通う雄略天皇。その近くに志幾の県主が鰹木の家を建てていたので、怒って燃やした。

 式内大社の志紀県主神社が藤井寺市(餌香の長野邑)に鎮座しています。生駒山日下越えの道からこの神社までの直線距離で10km、屋根の堅魚木が見えたということですが、予め報告を聞いていたのか、よっぽどの視力だったのでしょう。

 どの氏族が努めようが、志紀県主の勢力は大きかったと見えます。上記神社が今日まで残っています。

[10828] Re[10826]: 浪花の神社史 雄略天皇  とみた 2011/07/24(Sun) 10:19 [Reply]
> 雄略9年2月
>  凡河内直香賜と難波日鷹吉士の話
 凡河内直が祀っていた神社 神戸市灘区 河内国魂神社(五毛天神)
>  難波日鷹吉士縁の神社   吹田市   吉士部神社


> 雄略13年3月
>  狭穂彦の玄孫(孫の孫)歯田根命が、ひそかに釆女山辺小嶋子を犯しました。天皇はこれを責めました。歯田根命は馬八匹、太刀八本を以て、罪を償った。これを聞いた天皇は歯田根命の持っている宝物を、餌香(恵我)市の橘の木のもとにむき出しで置かした。

5世紀の河内湖の周辺の豪族の跋扈が面白そうです。垂仁時代に狭穂彦と狭穂姫が反乱を起こします。日下部勢力ですね。
日下は正に河内湖と生駒山の麓、渡来の馬飼が入植します。
餌香は大和川と石川の合流点一帯でしょうか。ワンサカ渡来民が入りますね。伽耶と百済の人達でしょう。

若日下部王は直越え(暗峠)ですから日下にいたのでしょう。これが雄略の大后、そこに通う雄略天皇。その近くに志幾の県主が鰹木の家を建てていたので、怒って燃やした。
5世紀末には志幾県主は没落する。代わって、西摂津の武庫(務古)湾で瀬戸内航路の要津を掌握していた凡河内=大河内氏が志幾地方にやってきて来る。

息長氏と応神勢力も中河内で結ばれ若野毛二股王勢力として活躍し、それが大河内氏と連携する。そして継体天皇へとバトンタッチされる。
西摂津の猪名川の猪名野には大河内氏の古墳群がある。摂津国河辺郡為奈(猪名)郷は新羅系の造船木工部民がいた。宣化天皇の後裔説がある。

継体と大河内との接点かもしれない。
宣化天皇は

[10827] 浪花の神社史 難波遷都  神奈備 2011/07/21(Thu) 14:57 [Reply]
 西暦645年の乙巳の変の後、孝徳天皇は難波に宮を遷しました。仏法を尊んで神々の祭りを軽んじた天皇と書かれています。その時は難波の宮の北側の大坂城に鎮座していた生国魂社の木を切ったことがこれに当たるということのようです。

 孝徳天皇は「まさに上古の聖王(仁徳天皇)の跡に従い、天下を治めよう。」とのことで、仁徳天皇の高津宮の跡地に宮を造ったとのことです。宮にはその四隅を守る神が置かれたはずです。

 北西 方位の神(大将軍神) 大阪天満宮の中の大将軍社がこれに当たるのでしょう。大坂天満宮の中には、星合池、七夕池、明星池また七夕神社(現在は豊国神社に遷座)などがありました。これは、水に写る星への信仰があるとされています。そう言う意味で、もうじき始まる天神祭は星愛七夕祭からスタートするのです。
 星は天に満る。 → 天満宮の名の発祥地  これが全国の天満宮の名前の発祥です。
 南東 東成区 八王子神社(百済神社)(高津宮の守護神と言う)

 北東、南西 の 方位の神様はよくわかりません。

 方位の神様として著名なのが、方違神社です。明治天皇が東京に行くに当たって堺市の方違神社の使者が来て、17日間も祈ったそうです。
 大阪に天皇の宮が造られたのは、河内王朝と呼ばれている応神天皇から始まる数代の天皇のうちの何代かです。それ以降では、日嗣の皇子がいなくなって、北陸から招いた継体天皇がなかなか大和に入れずに、先ず河内国交野郡葛葉の宮にとどまったのでした。

 葛葉の宮跡 枚方市楠葉丘 交野天神社摂社貴船神社

 孝徳天皇の後に壬申の乱などがあり、天武天皇は難波を副都心として難波宮を再建しましたが、燃えてしまいました。大仏建立の聖武天皇は各地を点々とした中に難波宮もありました。また、体調を崩した時には難波津にやって来ています。穢れを祓う為でしょう。パワーアップをしていくのです。後の八十島祭りの原形かも知れません。

 延暦七年(783)摂津職(官制知事)であった和気清麿は河内湖の水を大阪湾にショートカットしようとして四天王寺の南側を掘らせました。この辺りは岩盤が堅く失敗に終わりました。運河を掘ろうとしたの名残が神社名などに残っています。
天王寺区 堀越神社 天王寺区 河堀稲生神社  茶臼山古墳の河底池

[10826] 浪花の神社史 雄略天皇  神奈備 2011/07/17(Sun) 14:32 [Reply]
雄略9年2月
 凡河内直香賜と釆女を宗像の神を祭らせるために遣わしました。いよいよ神域に入って今にも行事を行おうとしている釆女を香賜は犯してしまったのです。 
 天皇は「神を祭る時は慎みがなくてはならない。」として、難波日鷹吉士を遣わして、香賜を殺すように命じました。

 余談ですが、采女を犯そうと思えば、難波から九州までの旅行中に多くのチャンスがあったことでしょう。それがこともあろうに何故神域で犯したのか、これが興味あるところです。神祭りの際の巫女はおそらく一糸まとわぬ姿であったのだろうと思われます。それは天宇豆女命だけではなかったのです。

 凡河内直が祀っていた神社 神戸市灘区 河内国魂神社(五毛天神)
 難波日鷹吉士縁の神社   吹田市   吉士部神社

雄略13年3月
 狭穂彦の玄孫(孫の孫)歯田根命が、ひそかに釆女山辺小嶋子を犯しました。天皇はこれを責めました。歯田根命は馬八匹、太刀八本を以て、罪を償った。これを聞いた天皇は歯田根命の持っている宝物を、餌香(恵我)市の橘の木のもとにむき出しで置かした。


 新羅が百済の城をとったり、高句麗が倭への貢ぎ物を運ぶのを邪魔したりするので、新羅を討とうとした。紀小弓宿禰などを大将として派遣した。紀小弓宿禰はめざましい活躍をしたが、病没した。天皇は紀小弓を称えて、淡輪邑に墓を造らせました。西小山陵古墳から半島系の冑が出ています。
 紀小弓宿禰   岬町淡輪 船守神社


 住吉大社からシハツミチ(長居公園通り)を東に行き、大和に入るコースがありました。渡来人は赤留比売神社で酒を接待されて、やっと仲間(日本人)になれると言う儀式がありました。爲呉客道通磯齒津路。名呉坂。途中に湯里。呉は喜連。
  酒を醸す 住吉区長居 神須牟地神社
  酒を醸す 東住吉区住道 中臣須牟地神社
  新羅美女の酌で 平野区 赤留比売神社

[10825] 浪花の神社史 仁徳天皇  神奈備 2011/07/13(Wed) 11:06 [Reply]
聖帝伝説 高き屋に のぼりて見れば 煙たつ 民のかまどは にぎはひにけり(新古707)
 上町台地の高台に建つ高津宮から国見をおこなった。河内湖の東の生駒山の麓の民家や、上町台地の南側につならる地域がみえたのでしょう。

高津宮の候補地 中央区 玉造稲荷神社(高津宮由来記があります。)
    中央区 孝徳天皇の難波宮の下に遺構があるだろうと推測されています。
    天王寺区 東高津宮
上町台地の尖端の溝を拡大して、難波堀江を掘削しました。
 宮の北を掘って河内湖の水を西の海にひいた。難波堀江と言い、今の大川の前身です。

茨田提の造営 山代川の水がその南側の低い土地に流れ込んでくるのを防ぐためと思われます。 
 茨田提を造ろうとしても、どうしても二箇所が壊れてしまう。天皇の夢に人柱を立てれば完成するとお告げがあったのです。一人は泣き泣き従ったが、もう一人はヒサゴを沈めることが出来たら本当の河神、できなかったら偽の神だから従わないと試した。ヒサゴは沈まなかったが堤防は完成しました。苦労した二箇所を断間という。
堤防が残る 門真市 堤根神社
断間を記念して 寝屋川市 太間天満宮

色を好む
 父の応神天皇が日向から髪長媛を求め、桑津邑に置いた。仁徳はこの姫とさっさと懇ろになった。
 磐之姫皇后が祭祀のために柏の葉をとりに潮岬まで行っている間、八田皇女を宮中に入れた。
磐之姫命 天王寺区 東高津宮
葦姫皇后    中央区  高津宮  東高津宮から勧請。葦姫は磐之姫命のことかも。 
髪長媛     住吉区  桑津天神社

巨木伝説
兎寸河の西に一本の高い樹木があった。その樹木に朝日があたれば影は淡路島におよび、夕日があたればその影は高安山を越えた。ある日、この樹木を伐って枯野と呼ばれる船を作り、朝な夕なに淡路島の清水を汲んで、その聖水を天皇に献上した。この船が壊れてから、その廃材を焼いて塩を作り、その時、燃えない材木があったので琴を作ったところ、素晴らしい音色を発し、遠くの村里にまで響きわたった。

 兎寸河の西   高石市 等乃伎神社

[10824] 浪花の神社史 河内に王朝  神奈備 2011/07/11(Mon) 19:39 [Reply]
 神功皇后が朝鮮遠征後、誉田別皇子を生み、皇子と共に九州から凱旋、カゴ坂王・忍熊王を排除しました。大和国の東の山々の麓の王権が滅ぼされて、あたらしい時代が到来したのでしょう。
 崇神王朝の最後の忍熊王を鎮魂するのが、宝塚の中山寺の奧院です。

 神功皇后のお話。

 皇后は務古水門に帰ってきて、天照大神の荒魂を広田神社、稚日女尊を生田神社に、事代主神を長田神社に祀りました。さらに表筒男、中筒男、底筒男の三神の和魂を大津の渟中倉に祀ったのです。
最初に住吉三神を祀ったとされるのは    大阪市中央区の坐磨神社 行宮に皇后の腰掛け石があります。
次ぎに住吉三神を祀ったのは        大阪市住吉区の住吉大社 後に神功皇后をも祀りました。
初代の誉田別尊(八幡大神)  羽曳野市 誉田八幡宮  豊前 宇佐八幡宮
神功皇后が行くと泉が湧きだした。  和泉市  泉井上神社
神功皇后の渡韓を助けたのが安曇氏で祖神が磯良神    茨木市 疣水磯良神社
神功皇后の帰還時、住吉の大神の御託宣によって此地において天神地祇を祭った。堺市 方違神社 明治天皇が東京へ行く際、遣いの者が17日祈ったとされています。

[10823] 浪花の神社史 物部  神奈備 2011/07/08(Fri) 09:37 [Reply]
浪花は物部氏の色濃い地域です。

 饒速日尊の降臨

 鳥越憲三郎氏によると、九州遠賀川流域にいた物部一族が東遷、堺の大浜に上陸、そこから河内湖周辺や大和に入った。盟主の饒速日尊は大和の梟師の長髄彦の妹を娶り、大和に君臨。八尾に来た物部グループは、先ず、食物の神を祭った。恩智神社です。
大御食津彦神 恩地神社
 また、上町台地に磐船神社を祭りました。後に、これを生駒山北部の饒速日山頂に遷した。奥宮と称した。
 交野の物部氏も私市に磐船神社を祀った。

 恩地神社の神輿が大祓の時、堺大浜に禊ぎを行きました。南海堺駅の西側。物部氏の上陸の地です。
その間、河内一宮とされる枚岡神社の神主が留守を守るために、恩地神社に赴きます。枚岡神社を祀っていた中臣氏は物部氏の子分だったのです。

 物部守屋と蘇我馬子との戦いで守屋が敗北、物部本流が滅び、饒速日山山頂の奧宮は下に降ろされた。

生駒山の饒速日山頂 → 石切神社奧宮 → 河内 石切劔箭神社
  奥宮 → 大和 長弓寺ない登弥神社(現伊弉諾神社)


 聖徳太子と物部守屋

 物部守屋と蘇我馬子との争いの際、聖徳太子は蘇我側につき、戦勝を四天王に祈った。後に、四天王寺を建立しました。
 崇峻天皇一年(588) 守屋が敗北、ここに、「乱が収まった後に、摂津国に四天王寺を作った。」と『日本書記』にあります。
 また、推古天皇一年(593)、「この年、はじめて四天王寺を難波に荒陵に造りはじめた。」とあります。
 最初に造ったのは難波の宮の南東すぐの玉造稲荷の地で、その後、それを壊して現在地に再建したとの説があります。また、守屋滅亡から50年後(638頃)に現在地に造営したとも言われています。
 四天王寺の中に、物部守屋の霊が祀られています。守屋の屋敷跡で、守屋の家人の半分を寺男として、四天王寺の建立が開始されました。守屋の霊に建設成功を祈願したので、成就宮と言われています。

 安産で有名な宝塚市中山寺の紫雲山中山寺の奥院は「守屋鎮魂」の祈願がなされています。興味深いのは神功皇后・応神天皇に滅ぼされた仲哀天皇と大中姫の間の皇子の忍熊王の鎮魂も行われています。

 守屋公については、八尾市に史跡?が残されています。

守屋首洗池碑  八尾市北木の本の樟本神社境内。
守屋公の墓   樟本神社の北300m

 守屋公は排仏、蘇我氏は崇仏とされていますが、京都の広隆寺とその鎮守である大酒神社は守屋公の建立との話も残っています。

 また、石の宝殿として有名な兵庫県高砂市の生石神社の御神体になっている石造物は守屋が造ったと、『播磨国風土記』に書かれています。

[10822] Re[10821][10819][10818][10817]: 浪花の神社史 神武  神奈備 2011/07/07(Thu) 10:28 [Reply]
> しかし、イリ王朝全体でみると、女性の発言力は低下し宗教的主導権も男性が持つようになったと判断できますから、現在の日本の「ハツクニシラス」は崇神天皇としていいと思いますがどうでしょうか。

 男性優位の社会になるには祭祀・呪術より武器・武力の組織的運用が出来るようになった時なのでしょう。記紀などを見ていますと、神功皇后が最後の呪術女王であり、応神天皇以降が武力男王のように感じます。

 崇神天皇は三輪山祭祀の王朝ですから、「クニ」の支配者、応神天皇以降はクニを越えた話題が多くなり、意識は「天」になっているのでしょう。神武天皇に与えられたと言う「始馭天下之天皇」は勿論後世のもの。

[10821] Re[10819][10818][10817]: 浪花の神社史 神武  琉球松 2011/07/06(Wed) 09:22 [Reply]
 大物主神をことさら悪役に仕立てる気はありませんが、神武(邪馬台国=倭国連合)に対するスタンスで言えば強硬派(阻止派?)と思うんですよ。
 
 事代主神と三穂津姫が出雲穏健派だったとすれば、大物主神にとっては政敵ではあるが祖先ということになりますから、打倒した連合女王政権側との妥協が必要だったとも推測できます。
 そういう意味では、大物主神は強硬な方ではないですね。女性の宗教権もまだ維持されてますしね。

 しかし、イリ王朝全体でみると、女性の発言力は低下し宗教的主導権も男性が持つようになったと判断できますから、現在の日本の「ハツクニシラス」は崇神天皇としていいと思いますがどうでしょうか。

[10820] 神を祈る  神奈備 2011/07/06(Wed) 08:58 [Reply]
 住吉大社で毎月行われる「住吉セミナー」で、國學院大学の三橋健先生が講演を為されました。イザナキ大神の禊祓(ミソギ)についてのことでした。
 講演後の雑談で、日本の神々について興味深いお話がありました。

 まず、神にたいしては、畏れ、畏まり、接するように心懸けること。
 神に祈るのではない。おねだりではない。
 ひたすら神を祈るのである。言葉は「はらえたまえ」だけでいい。畏み、曰うすのだ。

[10819] Re[10818][10817]: 浪花の神社史 神武  神奈備 2011/07/05(Tue) 17:29 [Reply]
『日本書紀』巻二神代下第九段一書第二
 歸順者仍加褒美。是時歸順之首渠者。大物主神及事代主神。乃合八十萬神於天高市。帥以昇天陳其誠款之至。

 帰順する者には褒美を与えた。この時に帰順した首長は大物主神と事代主神である。そこで八十万神を天高市に集めて、この神々を率いて天に上って、その誠の心を披瀝された。
 さらに、高皇産霊尊の娘の三穂津姫を娶っています。大物主神はどう見ても強硬派とは思えません。

 なお、この神話を応神政権の誕生譚と見る方がおられます。鴨の神である事代主神が服従しているからです。葛城ではこのことで鴨氏が力を失い、葛城氏が興隆してくるのです。

[10818] Re[10817]: 浪花の神社史 神武  琉球松 2011/07/05(Tue) 11:27 [Reply]
 大国主神の二人の息子(穏健派&強硬派)うち、後世に復活したのが大物主(強硬派)じゃないでしょうか。
 神武勢力(邪馬台国?)にとっての出雲穏健派は、どちらかと言うと英雄扱いなのに対し、強硬派はその系列の社からは除外さているでしょうかね。「ナガスネヒコ」や諏訪などに逃れた勢力も強硬派なのでしょう。

 そう仮定すると、大物主(崇神政権?)が祟ったと考えるのは、あながち間違いとも言えないと思います。
 開花(3〜4代の女王政権?)が打倒されたとの伝承が "百襲姫がホトを突いて死ぬ" とされる「三輪山伝説」とすることも可能でしょうか?

[10817] 浪花の神社史 神武  神奈備 2011/07/05(Tue) 09:01 [Reply]
5.神武東征
 この国を統治するには日向より大和が望ましいとのことで、東征を行った。難波に来たとき、まず今の大坂城に国土生成と繁栄の神を祭ったとされています。
生国魂、咲国魂 難波坐生國咲國魂神社を創建 後世に八十島祭が行われた。また、堺市にも生国神社がありました。開口神社の合祀されています。
神武軍の船が漂着 東大阪市 梶無神社
神武天皇が祖神を祭った 和泉市  聖神社
神武達が隠れた竹林 八尾市  竹淵神社


6.神武天皇の后伝説。
『日本書記』事代主神が三島溝咋耳命の娘の玉櫛媛と結婚し、媛踏鞴五十鈴媛命を生んだ。
『古事記』美和の大物主神、丹塗矢に化けて、三島溝咋の娘、勢夜陀多良比売、大便の時、流れ下り、陰を突きき。その矢を床辺に置けば、麗しい男になり、富登多多良伊須須岐比売が生まれた。

媛踏鞴五十鈴媛命、三島溝咋耳命 茨木市 溝咋神社
事代主神         大和 葛城 鴨都波八重事代主命神社、高市 高市御縣坐鴨事代主神社
大物主神     大和 磯城 大神神社(三輪明神)

 大物主と大国主を同じ神とする見方がありますが、大神神社では別の神と見なしています。
 さて、崇神天皇期に三輪の大物主が祟ります。それで大田田根子と言う大物主の子を連れてきて祭らせます。子孫が祭らないといけないようです。崇神天皇が神武天皇と媛踏鞴五十鈴媛命の子孫であることになっています。大物主の血をひいており、子孫に当たるわけですから、何も祟る必要はないのです。
 所が祟られたと言うことは、崇神は大物主の子孫ではないことがわかります。そうしますと、神武皇后は『日本書記』にあるように事代主の御子だったということになります。

[10816] 浪花の神社史4.天日槍と赤留比売  神奈備 2011/07/03(Sun) 09:32 [Reply]
 新羅の国王の子の天之日矛が農夫の持っていた赤玉を手に入れた。これを置いておくと美麗しき嬢子になった。それで嫡妻とした。その嬢子、常に種々の珍味を設けて夫に食はした。ある日、天之日矛、心奢りて妻を詈るに、その女人の言うことに、「凡そ吾は、汝の妻となるべき女ではない。吾が祖の国に行かむ」といい、ひそかに小船に乗りて逃遁げ度り来て、難波に留まった。こは難波の比売碁曽社に坐す阿加流比売といふ神なり。
 赤留比売を追ってきた天之日矛を遮った難波の渡しの神は阿遅速雄神。姪御を守った。この神は後世には草薙剣を盗んだ新羅僧をも遮っています。

 前回の天若日子=天津彦根命と下照比売とは8年間も夫婦でしたので、子供が産まれていても不思議ではありません。鈴木真年『百家系図』『諸系図』の御上祝の系図には、子供として天目一箇命と比売許曽命(赤留比売命)をあげています。下照比売と混同される赤留比売命は親子だったのです。 

関連する浪花の神社と(他地域の神社)


天日槍命   和泉 兵主神社 (但馬 出石神社 大和 穴師坐兵主神社)
赤留比売   鶴橋 比賣許曾神社 平野区 赤留比売命神社 西淀川 姫嶋神社
渡しの神   放出 阿遅速雄神社

[10815] 浪花の神社史3.国譲り二番手の天若日子の物語り  神奈備 2011/07/01(Fri) 09:34 [Reply]
 高天原の神々は葦原中国を奪うべく、天若日子を遣わした。しかし大国主神の娘の下照比売を娶って自分が葦原中国の王たらんとした。お供に天探女がついて来ていた。高天原からの問いあわせの使者の鳴女を矢で射殺した。矢はつきぬけて高天原に届いた。若日子に邪心があるなら、この矢が当たるだろうと投げ降ろした。矢が胸にあたって死んだ。葬儀に下照比売の兄の阿遅鋤高日子根が来た。彼は天若日子と瓜二つだったので、死者と間違われ、遺族が抱きついた。怒った阿遅鋤高日子根は葬儀の小屋を切り伏せた。それは美濃に跳んでいった。

阿遅鋤高日子根神 放出 阿遲速雄神社 葛城 高鴨神社
下照比売 八尾 長柄神社跡 鶴橋 比賣許曾神社(祭神が阿加流比売から下照比売に変わった。)

神蹟 磐船旧蹟 味原に石船があり、往年、下照姫神または天探女降臨の跡と云う。

『万葉 0292』 久方の天(あま)の探女(さぐめ)が岩船の泊てし高津は浅(あ)せにけるかも

『摂津国風土記逸文』 難波の高津は、天稚彦が天くだった時、天稚彦について降った神、天探女が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津というのだ。


 なお、天若日子とは、天照大神の3男の天津彦根命のこととする見解があります。長男が地上の支配者として、まず次男の天穂日命をさしむけたが、これも大国主命についてしまって失敗、次ぎに誰を派遣しようかと相談して天若日子が登場したのですが、3男の天津彦根命や天照大神の生んだ男子よりも天若日子が優秀だとのことです。天壌無窮の家系のはずの天照大神家も出来の悪いのがいると言うことでしょうか。実際には出来の悪い天皇を多く排出している家系ですが、神話時代からとはこれ如何。
 で、実際に大国主命のもとに派遣されたのが3男の天津彦根命であったのでしょう。その天津彦根命が高天原を裏切ったと言うことになったので、これを隠すために天若日子をでっちあげて、かれの仕業にみせかけたというのが実相ではなかったのかと思います。

 傍証になるのでしょうか、近江の彦根に近くに、天若日子を祭る神社が5社もあります。
犬上郡豊郷町  天稚彦神社
彦根市三津町  勝鳥神社
愛知郡秦荘町  安孫子神社
 滋賀県以外では岐阜県6社、これは阿遅鋤高日子根は葬儀の小屋をとばした美濃国だからでしょう。大阪府には見あたりません。



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