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掲示板のログ(平成二十三年 十月〜十二月 2011.10〜12)お名前の敬称は省略しています。

[10988] Re[10987][10986][10985]: 戸矢学著『ニギハヤヒ』から。ダイジェスト  琉球松 2011/12/25(Sun) 09:51 [Reply]
 五十猛は、直接『古事記』には登場しないようですけど、スサノヲの子とされる「多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐都比売命」の、少なくとも2柱「多紀理・多岐都」の「タキ=タケ」に比定するのはどうでしょうか。
 これは、男女逆転になってしまいますが、ありうるかもせれません?

 宗像三神は、朝鮮半島への航海の安全に関わる女神達ですし、高天原アマテラスの指示で活動する海神ですね。

[10987] Re[10986][10985]: 戸矢学著『ニギハヤヒ』から。ダイジェスト  神奈備 2011/12/23(Fri) 15:42 [Reply]
 戸矢学さんの本を紹介したのがきっかけですので、先ず彼の説を紹介します。

 ヤマトタケルは大和の皇子、出雲建は出雲の王、熊襲建はクマソの王、タケルとは武勇に優れた男子の意味のようです。そういう意味で五十猛は「イ」の国の王と言える。
 そうすると、伊国があったと言える。紀伊国には、紀氏と並ぶ伊氏がいたのだ。しかし伊氏は紀氏に国譲りして消滅。伊勢、伊賀などに派生姓として残った。伊太祁曽神社が現在日前国懸神宮が鎮座している場を譲ったとの伝承が国譲りがあったことを示している。【以上】

 実に面白い考察ですが、従えません。

> 「紀伊」の接尾につく「イ」はどう解釈したらいいんでしょうか?

 『古事記』712年と『日本書紀』720年の間に好字令が出ています。従って「木国」から「紀伊国」とこの8年間で漢字表記が変わっています。何故、キの後ろにイがついたのか、kiがkiiとなったにすぎないのでしょう。

> 強調辞とも考えられますね。

 イタケのイは伊国の伊などではなく、雄略天皇のワカタケルのワカと同様にタケル・タケを形容する言葉で、威とか偉に当たるのかなと考えています。


[10986] Re[10985]: 戸矢学著『ニギハヤヒ』から。ダイジェスト  琉球松 2011/12/23(Fri) 10:05 [Reply]
 神名備さんへ

 「五十猛」の「イト・イソ・イ・エ?」は接頭美称辞でしょうか。「イトおかし」などの例からすると、強調辞とも考えられますね。
 琉球方言の感嘆詞「イソ・イ!・エ!」と繋げると、この神はよほど猛々しく、あるいは最高峰の神の印象を持ちますが、「紀伊」の接尾につく「イ」はどう解釈したらいいんでしょうか?

[10985] 戸矢学著『ニギハヤヒ』から。ダイジェスト  神奈備 2011/12/22(Thu) 09:15 [Reply]
1 スサノヲの子・五十猛の正体

  五十猛命は、スサノヲの子である。通常「イソタケル」と訓まれるが、「イタケル」とも訓まれる。
 五十猛は『日本書紀』『先代旧事本紀』には登場するが、『古事記』には登場しない。
 
 五十猛が木の神である由来は『日本書紀』に詳しい。
 追放されたスサノヲは、その子、五十猛とともに新羅国の曽尸茂梨に天降ったが、スサノヲは、「吾は、この地に居ることを欲さず。」と言って埴土で作った舟に乗って東へ渡り、出雲国の簸川の上流にある鳥上之峯に降臨した。この地でスサノヲはヤマタノオロチを退治して、草薙剣を得る。
 ともに渡り来た五十猛は、多くの樹木の種子を持っていたが、韓地には植えずにすべてを持ち帰りて、筑紫から初めて大八洲国のほとんどに植えたので、青山なす国になった。つまり新羅には一時的に立ち寄ったのみで、しかもその地を嫌悪して去ったと記す。
 降臨神が新羅を嫌ったと言う事実のみがはっきりと記されている。日本神話の中でも他には見あたらない。
 そして五十猛は紀伊国に鎮座したと記されている。

2 五十猛は根源の神か

 五十猛は、この国に樹木の種子をもたらした。つまり日本の豊かな森林はこの神に由来するとされているわけで、これは格別の神格ということになる。

 「神様を数える単位は、「柱」ですね。日本では「柱」はもっぱら木でできていましたね。木と神様とは深い関係があります。仏になった人を埋める。その上に苗木を植える。これがオジイチャンの木だ、そう言う事もあったのかも知れません。魂魄のパクの木ですね。ここに天上のコン魂が降りてくる。魂魄が合わさって蘇りとなりますね。
 そう言う事もあって、神様が降臨するには、木をつたって降りてこられるとか、木に寄り付くとか言います。その木の種を播いた神様ですから、日本の神々の中でも、最も古い神と言えるのでしょう。」(「伊太祁曽神さんの風土記」神奈備)

 この指摘は日本文化の本質にかかわるものだ。ー神道の最も古い形は神籬(ひもろぎ)である。すなわち「特別な樹木」を神の依り代とする。その神籬をもたらした者こそは、五十猛である。
 ーー樹木の話があるーー詳細は略
 そういう意味では、五十猛こそは、日本の原風景をもたらした根源の神と言えるかもしれない。

以下3−10 略
3 五十猛を祀る神社
4 伊太祁曽神社の神紋「太」の意味
5 紀伊の「伊」の意味
6 五十猛の「五十」とは何か
7 イタケルの「イ」とは何か
8 「伊」の神
9 レイ・ライン=「太陽の道」は「伊タケルの道」
10 イタケルは海人族の王


11 物部の氏神、誕生す
 さて、本書では新たな解釈を重層的に提示している。それゆえに、常識や定説の基軸がゆらいでわかりにくい点もあるやもしれない。
 そこで、「神格の異同」について、本書の論点を時間軸によってここに総括しておこう。それぞれの土地で異名で祀られた経緯の概要と、”物部の氏神”が誕生するまでの流れを概観する。


 【紀伊名草】
 父王・スサノヲの命によりイタケル (五十猛=伊建) は海路アワヂを経てカワチに上陸し畿内全域を制圧した。
 イタケルは王となり、伊国を建国。伊国の王都は名草郡萬代官(現・和歌山市秋月) に設けた。現在、日前神宮・国懸神宮の鎮座する地である。
 伊国とは大和、三輪、熊野を含む紀伊半島全域に亘る国であった(イタケル神のみがひとり自然な信仰圏を保有するのに対して、イタケルの別名であるニギハヤヒは自然な信仰圏と無縁であることも、傍証の一つ)。
 
 しかしその後、筑紫から攻め上って来たイワレヒコ (神武天皇) 軍に敗北。
 伊国の王位(オオキミ位)を追われたイタケルは、伊の杜(伊太祁曽神社の旧社地)に幽閉。伊国は奪われ、伊氏を名乗る一族は歴史の表舞台から消え去った。
 新たな国名はイワレヒコによってヤマトとされるが、南西部は紀氏に与えられ「紀国」とされる。後に呼称に「伊」の名が加わる。


【大和三輪】
 イタケルは大和へ移され、そこで亡くなる。墓陵は石上・布留山。鎮魂の御名は布留御魂大神。時に大いに災厄があり、隕石の落下(降る神)による地震も起きた。一連の災厄はイタケルの祟りと恐れられた。
 ウマシマジは伯父・長髄彦を殺し、イワレヒコに帰順。長髄彦の墓陵は三輪山。鎮魂の御名は大物主神。オオモノヌシとは「モノノフの主」を意味するもので、モノノフとは武力に優れていた長髄彦の尊称である。後に「物部」の字が当てられる。時に大いに災厄があり、長髄彦の崇りと恐れられた。
 イタケルの崇り鎮めのために石上神宮が、長髄彦の崇り鎮めのために大神神社が建立される。国を奪われた王を慰霊するための祭祀呪術である。


【紀伊熊野】
 かつてイタケルの君臨した熊野は、地震による津波の被害を古来繰り返し受けている。
 そこで新たに海辺に新宮を創建し、地震・津波の神を祀る。それが崇り神となったイタケルである。隕石を表す神名「速玉」として祀る。
 熊野速玉社は、布留御魂大神の神威によって地震と津波を鎮めるために祀られた。
 神倉神社は、神武勝利の象徴である師霊剣の霊位である布都御魂大神の降臨地であって、新宮速玉社と直接の関係はない。


【大和矢田】
 名を失った一族は、通称の 「モノノフ (物部)」を名乗り、故地に氏祖イタケルを氏神として祀った。矢田坐久志玉比古神社である。氏神としての神名はニギハヤヒである。
 ニギハヤヒという名は、天変地異を引き起こす「隕石」から恐れを込めて名付けられた。「速日」とは隕石のこと。
 樹木や五穀の種子をもたらした ”恵みの神” であるにもかかわらず、最大の恐怖である地震・津波の原因となる隕石 ”速日”と名付けたのは、なにゆえか。それは「崇り神」となつたからである。
 「速日」とは「速い火の星」すなわち「隕石(彗星)」 のことであって、「速日」と 「速玉」は同じ意味の言葉である。「ニギ」は尊称。
 ここに、物部氏の氏神としてニギハヤヒ神が誕生した。しかしてその実体はイタケルである。
  そして石上神宮において、速日を布留として、速玉を布都として併せ祀ることによって、国家の祭祀王としての地位を不動のものとした。
 敗者・物部は、祖神を異名のニギハヤヒとして祀り、『先代旧事本紀 (旧事紀)』 を編纂することで生き残った。
 ニギハヤヒを祖神として誕生させた物部氏は、その系譜の正統性を主張するために 『先代旧事本紀』を編纂した。神武建国に先立つ ”先史建国”である。

 そして、イタケルの父・スサノヲは「原罪」を犯して追放されたと神話に記されるのだ。それが敗者の処遇である。「原罪」とは太陽信仰への反逆罪である。【以上】


感想
 スサノヲは諾冉の御子ですから天神ですが、高天原を追放された時点で、天神の資格を失ったようです。スサノヲが葦原中国に降臨して以降の子は国津神とされたようです。従って国津神の大祖先とされたのでしょう。
 所が五十猛命はスサノヲと一緒に高天原から降臨しています。高天原生まれの神です。天津神です。天五十猛神と呼んでもいいのでしょう。そういう意味では饒速日尊に比定してもあながちトンデモ説と決めつけるのもどうかと思います。共に神武以前に畿内で信仰されていた神々であったと言えるのかもしれません。
 
 しかし、五十猛と饒速日とを異名同神とするクリアーな根拠は示されていません。決めつけているだけのようです。

[10984] Re[10983][10980]: 「◆太陽復活祭と鎮魂祭(太陽信仰と太陽祭祀)」  神奈備 2011/12/20(Tue) 21:17 [Reply]
 詳しい事は承知していませんが、興福寺の僧侶が祭礼を取り仕切ったようで、これが一つのヒントかなと思っています。興福寺の山号は月輪山でしたが、祀る十二面観音と「月」は共に水を呼ぶとされています。水害が起きたようです。このため、興福寺は山号を取りやめ、額を南円堂の前の塚に埋めたと伝わっています。

 春日若宮は「蛇」の姿で降臨されたようで、これまた水神です。おりしも、平安末期、水害・飢饉が起こり、若宮を祀ってこの災害を止めようとしたようです。

> そして御蓋山つまり若宮様の社殿の方から月が現れました。
 これはまたとない景色でしょうね。良きものを見られました。

[10983] Re[10980]: 「◆太陽復活祭と鎮魂祭(太陽信仰と太陽祭祀)」  和歌山 2011/12/20(Tue) 17:54 [Reply]
 先日春日若宮おん祭りに行ってきました。昨年奈良に来てはじめておん祭りのことを知り今回で二回目です。深夜0時を回り若宮様が出御された時頭上にはオリオン座、そして御蓋山つまり若宮様の社殿の方から月が現れました。平安時代に始まったこの祭事は太陽と星を意識しているんでしょうか?
冬至ではありませんが12月17日ですし、若宮様の社殿は西を向いています。第3殿と4殿の間に蛇の姿で出現されたといいます。

[10982] スサノヲ・イタテ神  神奈備 2011/12/19(Mon) 17:08 [Reply]
宝賀寿男『神功皇后と天日矛の伝承』からのダイジェスト。

『日本書紀』に、素戔鳴尊が其子五十猛神を率いて新羅國の曾尸茂梨之處に天降り、そこで吾はこの地に居たくないと言い、埴土で舟を作り、東に渡たり、出雲國の簸川の上流の鳥上之峯に着いた。。

 次に、素戔鳴尊之子の五十猛命と妹の大屋津姫命、次の抓津姫命の三神はよく木種を捲いた。紀伊国に渡った。

 五十猛神を祀る神社は『延喜式神名帳』の内、出雲は最も多く6社、次が播磨、紀伊の2社。出雲では「韓国伊太氏神社」と「韓国」を冠している。大隅国の韓国宇豆峯神社も五十猛神を祀る。

 スサノヲ・イタテ神は、朝鮮関係の系図では意外なところに登場する。『朝鮮歴代系図』によると、両神とも天日矛の先祖とある。スサノヲはススヲ(須々雄)で、檀君王儉・桓因と同じであるとされる。「ススヲ」は韓語で、「神にして畏敬する人」を称するとあり、その子の桓雄が神乎多命・五十猛神であるとするが、その一方、桓雄の弟の子孫の忍骨や迎烏の後裔にも「五多弖」(イタテ)があげられる。この五多弖については、日本に来た天日矛(明彦)及び前津の先祖に位置するのではなかろうか。

 スサノヲとイタテの関係は複雑であるが、整理する。
1 共に朝鮮王家の大祖神。このスサノヲは大国主とは無関係。
2 イタテは実際に初めて日本に渡来してきた神で、樹種を植えたということなら1のスサノヲの後裔。
3 スサノヲが複数いて、この一族の代表をスサノヲの神名で呼ばれるなら、イタテ=イサノヲと考えられる。
4 両神とも、製鉄・鍛冶神・太陽神の性格から言って、天日矛の先祖あるいは同族と見られる。
5 イタテ神は太陽神祭祀を行うわが国天孫族の始祖であり、神武天皇に始まる皇統の大先である。イタテ神は、鍛冶神、鳥トーテム、太陽神信仰、天降り伝承、韓地からの渡来伝承などで、八幡神に通じる。

 五十猛神(スサノヲ神)は我が国天皇家を含む天孫族の大祖神(檀君に通じる)であり、、このことは早くに鈴木真年翁が示唆する。
 渡来時期は、西暦1世紀前半頃と見られる。


宝賀寿男『「神武東征」の原像』p318 天孫族の系譜(実系推定を含む)から。

○角凝魂命ーーーー伊佐布魂命ーーーーーー天底立命ーーーーーーーーーー天忍穂耳命ー
 又、素盞嗚尊  又、高皇産霊命    又、活国魂命、活玉命
   五十猛命    高魂命        生島足島神、生産霊神
   八幡大神    高木神        天津国玉神、天照玉命
 日本に渡来     皇親神漏岐神     天照御魂神、天照大神

 いかがでしょうか。檀君なり八幡に近いと言う感じは持っていましたが、具体的な人物とは考えていなかったので、このような考えにはビックリの所もあります。

[10981] 書き込みのログ  神奈備 2011/12/16(Fri) 08:52 [Reply]
掲示板荒らしがきていましたので、処置をおこないました。
10980より前の書き込みは
http://kamnavi.jp/keijiban3.htm
を参照下さい。

[10980] 「◆太陽復活祭と鎮魂祭(太陽信仰と太陽祭祀)」   [Url] 2011/12/14(Wed) 18:56 [Reply]
・・・と言うのが(http://www.susanowo.com/archives/889)で解説されています。
太陽信仰は穂積氏が祭祀したのが最初ともいわれていますがそれも含めて参考にしていただければと思い参考掲出させて頂きました。

私が最近になって「太陽祭祀」のテーマにこだわっているのかは複数の理由があります。

1つめに物部氏系の穂積氏による太陽祭祀に銅鐸が関わっていること。

2つめに先述の戎光祥出版から刊行された「古事記のコード」による太陽祭祀レイラインに関連

3つめに毎年12月22日の冬至に本来は星祭りを行うもので一度消えかけた太陽の力を取り戻す為に冬至の時期に星宿尊神の力をかりて太陽祭祀復活のパワーを蘇らせることが本義である事(先日、埼玉県秩父市・秩父神社の祭礼で日本三大曳祭りとして湯名な「秩父夜祭」などもこれに関連か?)。

などです・・・、これ以上はここではきりがありませんのでいずれ来年以降にでも新しいブログテーマとして拙ブログにて上稿するつもりです。

[10979] 三部作  神奈備 2011/12/14(Wed) 09:48 [Reply]
 天牛堺筋本町店でたまたま見つけた「木の国の媛」と言う ひかわ玲子 さんの小説を3冊手に入れました。「根の国の御子」、「大和の国の女王」の三部作合計300円でした。ハンサムな若者の名がイタケル、高天原の支配者は大国主、その子は須佐の王子、媛の名は ヨキナ。 他愛もない中身でしたが、登場人物だけで興味がもてました。

[10978] レイラインの通過地点は能勢ではなく甲山でしたか   [Url] 2011/12/13(Tue) 17:59 [Reply]
すみません、正確な測定ソフトを用いなかった関係で確かな論証が得られず申し訳ないと思っています。

しかしながら、兵庫県西宮市の甲山と言えば「日本三大如意輪」と称される「甲山大師」こと「神呪寺」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%91%AA%E5%AF%BA)(http://www.ne.jp/asahi/kabutoyama/kanno-ji/)
が知られているはずです。ここの如意輪観音さまは(http://www.nishi.or.jp/~kyodo/sitei/nyoirin.htm)でも解説されている通りその容姿・製法と言い卓越された仏師でなければここまでは官能的でなくその技術には目を見張らせるものがあり魅力的でもあります。

如意輪観音のご利益に妙見菩薩と同様の星宿尊神として「方除け」「破宿陽障」に霊験があるとされ(六道の内「天道」を主宰しているために)密教では「七星如意輪法」や「如意輪加星供」などが修験者や密教僧によって節分などの行事として修行される事でも知られています。同じ星と如意輪観音の霊場として大阪府河内長野市の勧心寺が有名なのはご存知の方も多いでしょう。

一説では如意輪観音と妙見菩薩は習合していると唱える密教僧もおられると聞いていますがそれも当然の流れと受け止める事もできるでしょうから太陽祭祀(夏至)のレイラインとしてはその条件は十分すぎるほど揃っているといえるでしょう。

[10977] Re[10975]: 能勢妙見山は「太陽のレイライン」の通過拠点の可能性?!  神奈備 2011/12/13(Tue) 09:58 [Reply]
> ・・・の「阿蘇-矢吹(伊吹山?)-諏訪大社-日光」に「能勢妙見山がレイラインの中に入らないか・・・」と、ふと気付いたのですが神奈備さま、この着眼点には以下がなものでしょうか。

二荒山神社ー諏訪大社ー南宮大社(伊吹ではないようです)−甲山ーと並んでいるようです。『朝日の直刺す国夕日の日照る国』池田潤著 から。

[10976] 「天台宗と日吉神社の謎」のリンクが参考になるかと思い・・・   [Url] 2011/12/12(Mon) 20:03 [Reply]
リンクをUPさせていただきます。
「富士山レイラインの研究」と併せて参考掲示となればと思います。
http://reyline.web.fc2.com/chihenji/hiyoshi.htm

[10975] 能勢妙見山は「太陽のレイライン」の通過拠点の可能性?!   [Url] 2011/12/12(Mon) 19:16 [Reply]
拙ブログで「(考察意見)多田(源)満仲公は実は「秦氏」?! 能勢妙見信仰の原点は「韓神」だった?!・・・の考察」と言う私的考察意見を投稿しているのですが(時々、新発見の度に修正を加えているので見ずらい欠点がありますがご容赦の程を・・・)ここに物部氏との接点がある事を発見し「※補足 能勢妙見山隕石落下説は虚構説?!・・・本当の裏に隠された真実とは」と言う題名で追記させていただきました。(http://31448354.at.webry.info/201110/article_3.html)

また物部氏といえば「イワクラ信仰」、イワクラ信仰といえば東大阪市日下の「石切信仰」、石切神社の祭祀者といえば「穂積氏(木積氏)」、穂積氏といえば大阪府茨木市にも「穂積町」と言う地名があったり「東奈良遺跡」から発掘された大量の銅鐸あり、「西福井(坐摩五神の福井(さくい)神か?)」などニギハヤヒ命の変名の神々を祀っている忍頂寺付近の「皇大神宮」など太陽祭祀の神社も多く「太田茶臼山古墳」も近いし物部氏との接点も多大・・・。

ところでこちらに「富士山レイラインの研究」(http://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol6/index.html)と言うブログ記事を発見したのですがその中の・・・(以下、引用)

「太陽と富士山

まず、一番分かりやすい(太古の人も分かるであろう)太陽の動きについて富士山とともに考察して見た。
太陽の動きとはズバリ、春分・秋分・夏至・冬至の日の太陽の出入りである。
富士山はその高さから遠くの地まで山頂が良く見える特徴がある。そのため富士山の山頂と聖地を重ね合わせる行為は想像しやすい。右図は富士山と諏訪大社のラインを中心に模した。

・春分秋分・日出日没
 白山-諏訪大社-鹿島神宮
 出雲大社-元伊勢-伊吹山-富士山-寒川神社

・夏至日出・冬至日没
 阿蘇-矢吹-諏訪大社-日光
 霧島-伊勢神宮-豊川神社-富士山-皇居

・夏至日没・冬至日出
 日光-鹿島神宮
 諏訪大社-寒川神社
 矢吹-豊川神社
 元伊勢-伊勢
 出雲大社-熊野」

・・・の「阿蘇-矢吹(伊吹山?)-諏訪大社-日光」に「能勢妙見山がレイラインの中に入らないか・・・」と、ふと気付いたのですが神奈備さま、この着眼点には以下がなものでしょうか。

[10974] 九十四露は「ことしろ」  神奈備 2011/12/12(Mon) 19:10 [Reply]
 ある方から次のようなメールを頂きました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 京都東山山中、霊鑑寺の奥に、九十四露神社という神社の跡を見つけました。すでに打ち捨てられて久しいようで、名前から事代主を祀っていたのだとおもうのですが、それ以上のことがわかりません。
 
ただ、近江神宮の方のお話によると、九星説を唱えた安井一陽という方がご奉仕なさっていた、とのことです。10年ほど前までは、九十四露方位暦というものが出されていたそうですが、携わっていた方がお亡くなりになり、そのまま立ち消えになっているとか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

九十四露は「ことしろ」と読むようです。何かご存じの方おられましたら、教えて下さい。

[10973] 豊中歴史同好会  神奈備 2011/12/10(Sat) 08:53 [Reply]
2011 12 10 1400-1600
堺女子短期大学名誉学長 塚口義信
神武天皇の橿原宮即位伝承と4世紀末の争乱
6階教育センター 市民講演会
中市立蛍池公民館集会室(阪急宝塚線蛍池駅すぐ西。ルシオーレビル6階

[10972] 戎光祥出版新刊「古事記のコード:太陽のラインと隠された古代地図」はお薦めです   [Url] 2011/12/09(Fri) 18:55 [Reply]
最近になって神道関連の研究史の権威とも言えるべき多くの論著を出版されている戎光祥出版社さんからまたしても「コロンブスの卵」というべき某建築事務所研究員が出版された論著が登場しました。

「古事記のコード:太陽のラインと隠された古代地図」
池田 潤/著 東京:戎光祥出版,2011.12

茨城県日立市から四国の2つの岬を経て宮崎県日向市までを「太陽のレイライン」で結び天孫降臨説や古事記の内容をレイラインと言う観点から謎解き解明をした古代史ファン待望の大書、ここに完成!。

私がジュンク堂書店でこの1冊を手にした瞬間に衝撃が走りました。
皆さんに是非ともお薦めしたい一冊です。

[10971] 継体御陵  神奈備 2011/12/06(Tue) 17:14 [Reply]
 多賀大社は元々杉坂山頂に鎮座していたそうです。「大社」は明治以降の格付けである官幣大社だったので大社、延喜式では小社に位置づけられていました。

 一方、淡路島に鎮座の伊弉諾神宮は延喜式では淡路伊佐奈伎神社と言い名神大社に列せられていました。

 淡路島と琵琶湖とは点対照だと思っていましたが、ざっくりとしたお話です。

 杉坂山頂と伊弉諾神宮との中間点の緯度経度を計算しますと、高槻市の今城塚古墳の場所になります。継体天皇の御陵とされています。

 さて、これが偶然なのか、意図した立地なのか、偶然なら話は終わり。

 意図したとしたら、何を言いたかったのでしょうか。

 淡路は、いわゆる河内王朝に深く関わる島です。応神さんは狩を楽しみ、仁徳さんは訪問し、歌に歌い、枯野舟で水を運び、反正天皇はそこで誕生しました。

 継体王朝の前の王朝の象徴が淡路島、一方、新王朝の継体朝は近江以東以北の勢力の奉じた政権、このことを杉坂山のお多賀さんに象徴させたのものと思われます。

 今城塚古墳は二つの勢力の妥協のシンボルとなっています。

[10970] 神の御陵  神奈備 2011/12/04(Sun) 14:35 [Reply]
 天孫系の神と人は瓊々杵尊からが人、その前の忍穂耳尊以前は神です。しかし瓊々杵尊から不合尊を神代三代と言う呼び方がありますが、彼らには御陵があり、彼らを祭神とする式内社はなさそうです。古代には人間を神として祭る習慣がなかったのでしょう。三代の御陵は以下の通り。

 瓊々杵尊   可愛山陵
 彦穂穂手見命(山幸彦) 高屋山上陵
 彦波限建鵜葺草葺不合命 吾平山上陵

 霧島神宮の祭神に瓊々杵尊があるようですが、後付と見ておきます。

 忍穂耳尊を祭る式内社は香春神社の第二座は忍骨命で忍穂耳尊のことだと思います。また鹿児島神宮の祭神は忍穂耳尊となっており、少なくともどちらかが当たっているのでしょう。御陵とされるものは公式にはないようです。
 
 さて、大国主命は天照大神もしくは忍穂耳尊と同時代の神です。箸墓はともかく御陵はないと言うのが通説ですし、お祭りしている式内社は出雲大社、大神神社、伊和神社、御所市と吉野の大穴持神社などを数えることができます。

[10969] 日本の官僚  神奈備 2011/12/01(Thu) 14:44 [Reply]
鎌足は百済から来た豊璋ではなかろうか。

『日本書記』
皇極元年(642)百済太子豊璋が質として倭(日本)に来ている。

皇極三年(644)中臣鎌足を神祇伯に任じたが辞退し、病と称して摂津三島に住んだ。
 ○何故、辞退したかについては諸説があるが、親から受け継いだ官職を断ることには疑問があり、もし断ったことが事実ならば、鎌足は中臣氏の血が流れていなかったと思われる。

孝徳元年(645)大化の改新(乙巳の変)中大兄皇子・中臣鎌足ら蘇我入鹿・蝦夷の蘇我本家を討滅する。
 ○皇位が蘇我氏に脅かされるとの認識があったとの説明であるが、蘇我氏は稲目の頃から、倭が百済を支援することには慎重なスタンスであった。豊璋としては蘇我氏は邪魔な存在であった。

 この年の末、宮を難波に移す。

白雉元年(650)孝徳天皇が白雉について豊璋に尋ねると、「後漢の明帝の永平十一年に、あちこちにあらわれたと申します。」と答えた。
 ○豊璋は知識が豊富なようだ。鎌足も秀才だったと言う。

 白雉を園に放ち、儀式が行われた。左右大臣、百官及び百濟君豐璋、その弟の塞城と忠勝などが中庭に進んだ。
 ●鎌足には兄弟はいなかったようだが、豊璋には兄弟がいたようだ。

白雉四年(653)中大兄皇子は皇極上皇・孝徳天皇の皇后である間人皇后らを連れて飛鳥に帰った。

白雉五年(654)紫冠を中臣鎌足に授けた。
 ○中大兄皇子と鎌足は同志的な関係のはず、共に飛鳥に帰るのが普通だが、翌年、紫冠を鎌足がもらったと言うことは、難波にとどまったことを示しているようです。豊璋であれば、人質ゆえに行動の自由がなかったのか、天皇の下にとどまったのかもしれない。

斉明六年(660)百済滅亡

斉明七年(661)百済の遺民のリーダー鬼室福信、豊璋の帰還を乞う上表文を呈する。斉明死去。中大兄皇子(天智天皇)、豊璋に織冠を授ける。五千余の兵をつけ豊璋を百済に衛送。

天智二年(663)倭の水軍、白村江で大敗。 豊璋、いずこかに姿を消す。百済王族貴族、倭への亡命を決定。

天智三年(664)中臣内臣(鎌足)、沙門智祥を遣わして新羅使の郭務そうに品物を贈った。
 ○再び、鎌足が『日本書記』に登場。

天智八年(669)中臣鎌足に大織冠・大臣位・藤原姓を授ける。鎌足死去。鎌足「生きては軍国のためにお役に立てず。」と。
 ○天皇から「冠」を授けられたのは、鎌足は紫冠・大織冠、豊璋は織冠、偶然にこの二人だけだろうか。
 ○軍国とは何だろうか。百済再興の軍事行動と考えるのが自然か。『藤氏家伝』(760年、恵美押勝編)には、「(148)大錦冠に拝して内臣を授け、二千戸を封す。軍国の機。」とある。軍事にかかわる業務の一端を担ったとの認識があったようだ。

 ○豊璋が現れてから中臣鎌足が現れ、『日本書記』によれば、同年に二人が現れることはない。白村江の前後は豊璋のみが登場、鎌足は654年織冠から664年天智三年の前まで全く名前が出てこない。


 同一人物としての傍証が ○ 、具合が悪いのが ● 、警察・検察ではないので、具合の悪い資料もだしていますが、何となく同一と見えてきます。
 近江朝では百済から来た者を多く登用し、彼らが倭国の官僚群の基礎となったのです。そこに藤原氏が百済王家の出となれば、支配者の多くは百済人なのです。外国人が支配階級を占めたことで、過酷な税の取り立てなど、民から搾り取る政策が続いてきました。戦後まで爵位を以て支配階級を形成して来たのです。

 日本の官僚は、自らは豊かに楽に、民からは搾り取る、百済人から受け継いだ気風なのかも。

[10968] 倭国と百済  神奈備 2011/11/29(Tue) 19:15 [Reply]
倭国と百済との関連を見ておりますと、次のように感じます。

 倭国は力持ちですが幼い心の兄貴、百済は狡賢い弟、と言う感じ。

 これは、現在の韓国と日本の関係も似ているような気がします。なぜならば日本領である竹島を韓国は不法占拠しており、日本はボンヤリとそれを見ているだけ。
 
 さらに韓国は船着き場の拡大を目指していると報道されています。一方、韓国は日本の技術と資本のおかげで近代化をしてきており、今後もそうでしょう。だが、いまや通貨のウオン安など国家の危機を迎えているようです。そこに最貧の北朝鮮がひっつくとなれば、いずれ嫌でも日本が丸抱えをしてやらねばならなくなるでしょう。
 
 日本としてはやりたくないことこの上ないのですが、第二次の韓国併合もありうるでしょう。となれば、竹島どころの話ではなくなるし、ソウルも釜山も平壌も言うに及ばず、竹島にこしらえた港湾等は自動的に日本のものになります。韓国のやりかたを長い目で見ておきましょう。

[10967] 拙ブログに「<住吉大社ミステリー>幻の「住吉神宮寺・新羅寺」の謎を巡って・・・」の記事をアップしました。  八筒光(やづつみつる) [Url] 2011/11/26(Sat) 20:33 [Reply]
宣伝するつもりではありませんが上記タイトルの考察意見を上稿しました。
http://31448354.at.webry.info/201111/article_5.html
もしさしつかえなければ皆様方からのご批判を頂戴したく存じます。

[10966] Re[10965][10962]: 傘縫神社    生田淳一郎 2011/11/24(Thu) 17:08 [Reply]
  H.N でしたか。失礼しました。
 いえね、小生はこのところ「八溝」にハマっていて、新潟の弥彦とか名古屋の YA に神があるのでは? と、無いあたまをしぼっているんです。
 浜松の三ツ矢さんを憶いだして、ついつい……でした。

[10965] Re[10962]: 傘縫神社    八筒光(やづつみつる) [Url] 2011/11/23(Wed) 18:27 [Reply]
蛇即ですが私自身は星宿尊神、特に太上神仙鎮宅霊府神と妙見菩薩などを特に信仰しており北斗七星・北極星・福禄寿星(南極星)・九執・十二宮・二十八宿・当年星・元辰星を通じて信仰しています。

私の祖先は「桓武平氏貞盛流」で平氏も妙見菩薩を信仰していますがその祖先・平清盛が弁財天を信仰し私と同様の不遇をかこったところを救われた霊験から私自身も弁財天も併せて信仰しています。
しかし特に私の崇拝している神仏をえり好みしているわけではありません、私自身は未年・羊月生まれで念持仏が「大日如来」さまの関係で密教の哲理ですべては大日如来さまが姿を変えて出現されている教義から分け隔てての信仰はしておりません。

修験道の教えに「諸法神事 妙行徳菩提」と言う言葉がございます(奈良・吉野・金峯山寺の奥の院「龍王院」で教えられた教義です)、意味は「神事も仏事も共に敬い・かしこみ・畏れ・奉ることによって菩提心を諭す事が出来る」修験道が「神仏習合」を謳っているところから日頃、私が信心している点で気をつけていることです。

「八筒光」の八は北斗八星で「光」は「日・月・星」の三光をも意味しています。
私のオリジナルブログで掲示させていただいています「鎮宅霊府神」の紋のいみでこれは日本国の「八島」と朝鮮半島「三韓」の和合をも意味しています。

今は対立しているところもありますがこのご時世に鑑みて互いが「八紘一宇」の如く
手を取りあい敬神和合の心を持って互いが家族のように支えあって平等に生きていく精神を私のハンドルネームの込めた意味として受け止めていただければ幸いです。

[10964] Re[10962]: 傘縫神社    八筒光(やづつみつる) [Url] 2011/11/23(Wed) 18:06 [Reply]
>  矢筒様 はじめまして
>  傘縫神社ははじめから知りませんでしたが、「光輝に満ちた人」という意味が採れます。
>
>  ひとの名前を詮索して申し訳ありませんが、この矢筒をどう解釈なさっていらっしゃいましょうか。
>

この件に対しての回答になるかは自信がもてませんが私のこのハンドルネームは私自身は日頃、信仰している住吉大社の「筒之男三神」の「筒」が古語で「星」を意味するところからきており「光」の字は「三光」を一字に短縮して一文字で表している所に意味があります。

私は深江稲荷神社さまにはまだ一度で本殿しか詣でていませんし笠縫神社にたいしてはインターネット上での情報「神奈備」さまの情報で一度知っただけです。
ですから「光輝に満ちた人」と言う意味は今回初めて知りましたし意識もしていませんでした。もし差し支えるようでしたら私のハンドルネームを変更させていただきますがそれでかまわないでしょうか。

神奈備さま、根拠のないコメントを投稿して申し訳ありません。
私もついでしゃばりすぎました、調子に乗りすぎた面を反省しこの件に関しての私見は私のブログ上で更新させていただきますのでご容赦のほどをお願いいたします。

[10963] Re[10961]: さきほど「秀吉や秀頼が寄付したりした物部系神社としては近江の勝部神社がありますが、大坂ではなさそうですね。」とおっしゃられましたが・・・  神奈備 2011/11/23(Wed) 13:19 [Reply]
> 皆様、大阪市東成区深江南3(地下鉄千日前線新深江駅下車徒歩10分)の「深江稲荷神社」の「摂社 笠縫社」の存在をお忘れではありませんでしょうか。

笠縫社はいつ頃稲荷社に合祀されたのかが良くわかりません。

[10962] 傘縫神社    生田淳一郎 2011/11/23(Wed) 11:35 [Reply]
 矢筒様 はじめまして
 傘縫神社ははじめから知りませんでしたが、「光輝に満ちた人」という意味が採れます。

 ひとの名前を詮索して申し訳ありませんが、この矢筒をどう解釈なさっていらっしゃいましょうか。

[10961] さきほど「秀吉や秀頼が寄付したりした物部系神社としては近江の勝部神社がありますが、大坂ではなさそうですね。」とおっしゃられましたが・・・  八筒光(やづつみつる) [Url] 2011/11/22(Tue) 19:53 [Reply]
皆様、大阪市東成区深江南3(地下鉄千日前線新深江駅下車徒歩10分)の「深江稲荷神社」の「摂社 笠縫社」の存在をお忘れではありませんでしょうか。
http://kamnavi.jp/inari/fukaeinari.html

[10960] Re[10959][10958][10957]: 本当は「天光」のニ柱とは「饒速日命」と「宇摩志麻遅命」のニ柱では・・・  神奈備 2011/11/22(Tue) 17:28 [Reply]
> ご無沙汰しております。いつも拝見しております。
>
チョロさん ありがとうございます。和泉で秀頼が寄進した神社のいくつかを例示しておきます。

日根神社  渡来系氏族の祖神
樫井川流域を開発した日根造は、新羅からの渡米人の子孫で「神祇志料」にはこの日根造が日根神社の主神として先祖の億斯富使主を祭ったとされています。
一六〇〇年(慶長五年)豊臣秀頼は吉田半左衛門を奉行として社殿を再興します。これが現在の本殿です。

波太神社  鳥取氏の祖神
波太神社は鳥取氏の祖角凝命を主神として相殿に応神天皇を祀り、延喜式内の旧社。
慶長年間豊臣秀頼片桐且元を奉行として営繕せしめたるは現在の社殿なり。

積川神社
当神社は第十代祟神天皇の御代にこの地に創立され、地名は前に牛滝川、後に深山川と高低相会する地に位するので積川の称があります。
慶長七年、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として大修理を加えられ現在にその様式を伝える桃山建築の優雅広大なこと、特に高欄の彫物の色彩の鮮かなことは美の極地とされて、建築の大家をうならせています。

聖神社  渡来系氏族の祖神
当社の創建は白鳳三年秋八月十五日で、永く国家鎮護の神として、信太首が斎き祀ったものであり、信太聖神、又は信太明神とも云う。
慶長九年右大臣豊臣秀頼公が、片桐旦元を普請奉行として、本殿を造営され、壮大な権現造りで、構造精徴を極めた。


[10959] Re[10958][10957]: 本当は「天光」のニ柱とは「饒速日命」と「宇摩志麻遅命」のニ柱では・・・  チョロ 2011/11/22(Tue) 09:43 [Reply]
ご無沙汰しております。いつも拝見しております。

はっきりと物部系といえるかどうかわかりませんが、
泉佐野市の「日根神社」は秀頼が修復していたと思うのですが。

[10958] Re[10957]: 本当は「天光」のニ柱とは「饒速日命」と「宇摩志麻遅命」のニ柱では・・・  神奈備 2011/11/21(Mon) 19:35 [Reply]
 豊臣家は日吉大社を崇拝したのであれば良く判ります。関白の位についた豊臣氏が物部の神を崇敬していたのは、面白いお話ですが、秀吉や秀頼が寄付したりした物部系神社としては近江の勝部神社がありますが、大坂ではなさそうですね。

[10957] 本当は「天光」のニ柱とは「饒速日命」と「宇摩志麻遅命」のニ柱では・・・  八筒光(やづつみつる) [Url] 2011/11/21(Mon) 04:11 [Reply]
すみません 私はひょっとしたらとんでもない勘違いをしているのかもしれません・・・。

原点に立ち返って考えてみると先述の谷川健一氏著の「古代学への招待」(日経ビジネス文庫)の第一章から考えて饒速日命の東征伝説と東大阪市日下の東西軸から考えて「天光熊丸大神」とは(http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/36094621.html)からも含めて「饒速日命」でその息子とされる神が「天光熊蔵大神」にあたる「宇摩志麻遅命」に当たるものではないかと推察も成立するのではないかと考えた次第です。

根拠はその東方が「日のもとの「日下」、生駒山脈の西方でそこからいずる旭日はまさに「饒速日命」の坐す(おわす)聖地へむけての「遥拝所」だった事と「速日」が鍛冶神と関わりがあり豊臣卿にとっては武勇の神としても信仰されていたのでは、とも伺えます。そうすれば秀頼公は「宇摩志麻遅命」を信仰し頭脳明晰の神様としての側面もあり、ここに淀君のお方が弁財天・市杵島姫命の「白龍大神」と「星・月・日」の「三光尊」が豊臣三卿にとって守護神となって「天光熊丸大神・天光熊蔵大神・白龍大神」となったとも考えられるのではなかろうかと思います。

実は「饒速日命」と妙見信仰とは伝承譚から接点が多すぎるのです。
事実、この奉徳碑でもその向かいの東大阪市日下に「仏道妙見開運教会大阪府東大阪市日下町7−6−46」(http://www.ensenji.or.jp/img/pdf/05.pdf)があり大阪府能勢町野間神社の祭神の饒速日命・野間姫とあって勾玉(布留之御魂?)が奉納されてそれが隕石降臨説(http://www.hontakiji.com/enkaku.html)の原点とも繋がるし元々、「フルノ」という地名は「布留野」だったのではないかとも考えられます。(野間姓を語る妙見宗管長とその子孫の事も接点があるように思われます)

また野間神社は九州・鹿児島にも(http://blogs.yahoo.co.jp/itigonnusi/57782711.html)のブログ記事にもあるように接点があるし九州は天孫降臨説とも繋がって見えてくるし饒速日命の伝承ともなれば奈良県天理市の「石上神宮」とも繋がって見えてくるしこれらは「饒速日命」東征伝承とも横の繋がりが見えてきてひょっとしたらこれは何かあるのかもしれないと思った次第です。

[10956] この石碑に関する調査結果は私のブログにて近日中に報告させていただきます  八筒光(やづつみつる) [Url] 2011/11/18(Fri) 20:31 [Reply]
これ以上、本件に関する投稿は正直、長帳場となる可能性もありますので本件に関する投稿はこれをもっておひらきにさせて頂きます。
皆様方にはまだまだお伝えしなければならないこともありますので
上記URLにて近日中に記事投稿いたします。
それでは一旦
失礼いたします。

[10955] もしや「白龍」神と「妙見」神とは女神・男神の違いなのでは・・・  八筒光(やづつみつる) [Url] 2011/11/18(Fri) 19:44 [Reply]
本件とは関係ないのですが、最近になってよく気に掛かるのですがひょっとして「白龍大神」と「妙見尊」とは一対になっている神々の対比なのでは、とよくよく思います。

と言いますのも妙見尊を祀る神社・寺院には能勢妙見山なり星田妙見宮なり必ず「白蛇弁財天」とか「白龍大神」と題した社が必ず目に留まるのです。

妙な事はこれだけではありません、実はそれぞれの真言に「そ」と言う梵字の種子がはいるのです。
弁財天の真言は「オン ソラソバテイエイ ソワカ」で妙見尊も「オン ソチリシュタ ソワカ」です。
また「童子」形の妙見菩薩につきものは「亀」と「蛇」です、これは男女それぞれをあらわすともいわれているようですが弁財天はそもそも白蛇の神格化です。

また「白龍」は読み方を変えれば「白辰」で新羅神をほうふつとさせます。
翁神ではありませんが白龍神も「叔母」神と捕らえれば同様の見方もできまいかと私は思っております、いわゆる宿神(星宿神)です。

また「八臂弁財天」は「蔵の鍵」「矢」「剣」「宝珠」とまるで稲荷神や一部の鎮宅霊府神(大阪市中央区谷町9丁目の高津宮南向かいの真言宗醍醐派寺院・報恩院など)と同様の持ち物も共通しています。

これらの共通点から朝鮮半島では弁財天と妙見尊神は一対の崇拝対象として信仰されていたのではないかと私は思ったのですが神奈備さま、いかがでしょうか。

[10954] Re[10953]: もしやこの三神は豊臣御三方が信仰されていた神々では・・・  神奈備 2011/11/16(Wed) 15:21 [Reply]
> 「天光熊丸大神」とは「スサノオ命」と、「天光熊蔵大神」は「クマソ」・・・つまり「イソタケル」とも呼ばれる「五十猛命」・・・つまり妙見菩薩(天之御中主神)、で白龍大神と併せて「日・月・星」の三光尊が出揃う事になります。


 面白い着想です。妙見さんと五十猛さんとは何かつながっているような気がしています。途中のキイワードに「白木」を入れますと見えてくるようです。

 福岡市西区金武の五十猛神社は妙見神社でもあります。

 妙見信仰は北斗七星を祀る信仰で仏教と結び妙見菩薩として祀られたが、これは新羅系渡来人がその信仰を持ち込んだとされる。そう言う意味では素盞嗚尊・五十猛尊も新羅に縁の深い神である。福岡市西区大字西浦妙見の白木神社はやはり五十猛尊を祭神としている。新羅神社が白木神社となったのだろう。熊本県八代市妙見町の八代神社(妙見宮)は白木山に鎮座している。

 素盞嗚尊や五十猛命を鍛冶神とする見方があります。妙見菩薩も金属との関わりが深く、結びつきやすい関係にあるのでしょう。

[10953] もしやこの三神は豊臣御三方が信仰されていた神々では・・・  八筒光(やづつみつる) [Url] 2011/11/13(Sun) 21:27 [Reply]
実は偶然なのか、私は今日、某市中央図書館から借りた新書に谷川健一氏著の「古代学への招待」(日経ビジネス文庫)が手元にありその第一章「邪馬台国と物部王国」というのがあるのですがここでは饒速日命降臨伝承地としての「ウマシマヂ命」と東大阪市日下と物部氏と吼(いかるが)岳が草加山で「饒速日山」と称していた事に触れP40に・・・

「饒速日命の速日は志田純一氏が指摘するように雷神に付せられる名でもある
鍛冶氏族は雷神を奉斎する。鍛冶場の轟音と閃光は、雷鳴と稲妻に比喩される。物部氏は雷神の饒速日命を奉斎する鍛冶氏族である。饒速日命が降臨するとき天磐石に同乗した供奉者に物部造等の祖の天津麻良の名が見える。「古事記」上巻の天岩戸の段に鍛人天津麻羅の名が記されている。このようにして饒速日命は太陽神であると共に雷神(鍛冶神)としての性格も見えている。では太陽神と雷神(鍛冶神)とはどのようにして結びつくか。それは「天之日矛」を想定すればよい。銅剣や銅矛などはその作りたてのときには、金色まばゆい燦然とした光を放つ。それは太陽の輝きを想起させずにはすまない。」

・・・とあります。まずこれらを踏まえて考えてみると実は秀吉公は三面大黒天
を念持仏とした事によって富を得たことは周知の通りです。しかしただ大金持ちになったと言うだけでは単なる「宝の持ち腐れ」(失礼な言い方でもしわけありません)・・・。なんとかこの富を衆生の民たちに還元できないか・・・との思惑もあったのではないかとお見受けします。そこで豊臣方は天神地祇、つまり八百万の神々から妙見尊神と関連性のある「三光尊(日・月・星など天王寺区玉造の三光神社などがそれです)」を崇め奉りまた鍛冶神との関連もある事から武運長久も含め池田市の久安寺などゆかりの社寺(四天王寺の「三面大黒天堂」にも太上大帝風の妙見菩薩が祀られています)にこれらの神々を併せ奉ったのではないかと私は考えた次第です。
また「天光」は「三光」にも比例できるのではなかろうかともおもうのです。

しかれば秀吉公は「天光熊丸大神」を、秀頼公は「天光熊蔵大神」を、淀君は弁財天の垂迹である「白龍大神」をそれぞれ信仰していたのではないでしょうか。

そうなれば「天光熊丸大神」とは「スサノオ命」と、「天光熊蔵大神」は「クマソ」・・・つまり「イソタケル」とも呼ばれる「五十猛命」・・・つまり妙見菩薩(天之御中主神)、で白龍大神と併せて「日・月・星」の三光尊が出揃う事になります。

また実を言うとこれらの石碑は「西向き」でした拝者は東へ向けて拝む、東は物事の始まりを司りまた太陽の出ずる「日下」の方角で当時、天守閣で朝方に御三方は生駒山脈の眺められる所にこの祠を建立し朝焼けと同時に一日の「日天子大事」を修していたのではないかとも推察されます。

勝手な憶測かもしれませんがご参考になれば幸いです。

[10952] Re[10951]: そうですか神社ではなかったですか・・・  神奈備 2011/11/13(Sun) 13:23 [Reply]
> 天光熊丸大神、白龍大神、天光熊蔵大神

 神社本庁が平成7年に発行した『平成祭りデータCD』によりますと、天光・・と言う祭神は見あたりませんが、白龍大神は本社境内社含めて日本全国で195社でてきます。

 近鉄石切駅から生駒山のくさか園地に登る道筋に白竜大神を祭る場所があります。雰囲気の良い所です。
http://kamnavi.jp/mn/osaka/nigiyama.htm

上記CDで大阪府では、
綱敷天神社 摂社 白龍社猿田彦大神「白竜大神」大阪府大阪市北区神山町9-11,摂津国 西成郡
八坂神社 摂社 北向社「配祀 白竜大神」大阪府大阪市福島区海老江6-4-2,摂津国 西成郡
桜宮 摂社 産土八幡神社「合祀 楠竜王大神」大阪府大阪市都島区中野町1-12-32,摂津国 東成郡
生根神社 摂社 大楠社「配祀 大楠竜王」大阪府大阪市西成区玉出西2-1-10,摂津国 西成郡
津守神社 摂社 白龍社「白竜大神」大阪府大阪市西成区津守3-4-1,摂津国 西成郡
住吉神社 摂社 住吉龍神社「豐玉竜神」大阪府豊中市服部南町2-3-31,摂津国 豊島郡
龍王神社「主神 竜王大神」大阪府箕面市如意谷4-2-22,摂津国 豊島郡
国中神社 摂社 三神社,菅原社,雨宮社「合祀 大竜王」大阪府四条畷市清滝中町4-48,河内国 讃良郡
住吉神社 摂社 龍王神社「主神 竜王大神」大阪府交野市寺1201番地,河内国 交野郡
渋川神社 摂社 龍王社「主神 竜王大神」大阪府八尾市植松町3-3-6,河内国 渋川郡
徳庵神社 摂社 徳庵龍神社「主神 徳庵竜神」大阪府東大阪市橋本64-1,河内国 若江郡
 が出てきます。

[10951] そうですか神社ではなかったですか・・・  八筒光(やづつみつる) [Url] 2011/11/12(Sat) 20:55 [Reply]
神奈備さま、いろいろ調べていただいてありがとうございます。
私の方で[Yahoo BLOG]にて興味深い一文をみつけましたので引用させていただきます。
http://blogs.yahoo.co.jp/donjp01/15487870.html
どうやら大林組が天守閣の無事完成を祝して建てられた碑だったようでそれと同時に周辺の無縁仏も併せてたて祀ったようですね。
ところで実際に日本国中の神社で「天光熊丸大神、白龍大神、天光熊蔵大神」の内、一柱でもお祀りされている神社があれば是非とも教えていただきとう存じます。

[10950] Re[10949][10948]: 大阪城天守閣北東隅に謎の神祠を発見  神奈備 2011/11/12(Sat) 17:18 [Reply]
> 猪飼野の郷土史家・古書店主、かれなら調べ上げるかも。

彼から
今度ついでがあれば見てきます。

 大阪春秋の索引などから判断しますと、どうやらこれは神社や祠ではなく、「奉徳碑」というものらしく思われます。
同誌 第98号の89〜93頁、「大阪城内の奇怪な石仏・石碑群」
          高島伸(雪鴻史談会主宰)

の中に、その記述があります。
その号は所蔵していないので、すぐに読めないのが残念ですが、いづれ近い内に読んでみます。

とのことです。

[10949] Re[10948]: 大阪城天守閣北東隅に謎の神祠を発見  神奈備 2011/11/12(Sat) 11:32 [Reply]
> みなさま初めまして、八筒光です。

こんにちは。面白いものを発見されましたね。

http://d.hatena.ne.jp/heisai/
猪飼野の郷土史家・古書店主、かれなら調べ上げるかも。

[10948] 大阪城天守閣北東隅に謎の神祠を発見  八筒光(やづつみつる) [Url] 2011/11/12(Sat) 10:51 [Reply]
みなさま初めまして、八筒光です。
この度、[Twitter]に加入し神奈備さまからフォロワーとして承認されましたので
当サイトの利用者の皆様方いご挨拶致したいと思います。
よろしくお願いいたします。

先日のNHK大河ドラマ「江」の関連で大阪城天守閣付近の周りを一周、山里郭北側の北東付近になにやら妙な神社(か祠)を発見。「石山」との文字から恐らくは当時の石山本願寺の壇信徒が私財で建立された鎮守さまではないかと私見しだいですが・・・。
http://netlog.jpn.org/r271-635/2010/08/11.html

P.S 久しぶりに森之宮駅から南西に10分ほど歩いた上町台地の丘の上に鎮座する玉造稲荷神社に参詣し最近になって造立された「秀頼公」の銅像にただただびっくり、「江」で演じられたあの方にお顔がそっくりでそのディテールに唖然・・・。
http://blogs.yahoo.co.jp/engunyama/26600322.html

[10947] Re[10945]: 水銀と塩と馬  神奈備 2011/11/11(Fri) 09:36 [Reply]
> 和邇氏とか秦氏とかは要するに、4世紀から5世紀の渡来人のルーツの話ですね。

 『姓氏録』によりますと、
和邇部は天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也。とあります。第五代孝安天皇の三世孫の彦国葺の子孫と言うことです。皇別氏族に分類されます。

 一方、秦氏は秦始皇帝の三世孫から出ているとする諸蕃に分類される氏族です。

 渡来して来た氏族としますと、何故片や皇別、片や諸蕃、と分類されたのでしょうか。特に和邇氏からは開化天皇妃の姥津媛や、雄略・仁賢・継体天皇の妃を出しています。

  和邇氏は例えば馬韓とか百済からの渡来系で皇室と同じようなルーツを持った氏族だったので皇別となったのか、皇室と同じように渡来系氏族ではなかったのか、でしょう。

 また、秦氏は辰韓や新羅からの渡来人であって、百済からではないことが諸蕃に位置づけられた理由なのでしょうか。

[10946] 講座  神奈備 2011/11/10(Thu) 15:28 [Reply]
豊中歴史同好会
2011 11 12 14時〜16時
京都府立大学名誉教授 坂元義種
『古事記と日本書記』
豊中市立蛍池公民館集会室6階教育センター
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/


住吉大社セミナー 
2011 11 14(月)14時30分〜16時
いこまかんなびの会 原田 修 http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan/
生駒・葛城の嶺と住吉の世界
住吉大社吉祥殿
http://kamnavi.jp/link/sumisemina11.htm

[10945] 水銀と塩と馬  とみた [Url] 2011/11/09(Wed) 11:13 [Reply]
和邇氏とか秦氏とかは要するに、4世紀から5世紀の渡来人のルーツの話ですね。

生駒山と木津川と大和川と淀川と琵琶湖と大阪湾の周辺はどうなっていたか。摂河泉領域です。

秦氏は塩や鉱山開発(銅・水銀)に関係する応神以降つまり4世紀末以降の技術集団ですが、4世紀の古墳時代前期の前の弥生時代中期末以降には別の技術集団がいた。

徳島埋蔵文化センターの菅原康夫氏に拠れば、阿波の徳島県南部の那賀川流域には阿波の水銀鉱床があり、徳島県北部の鮎喰川流域には集落があり、いずれも水銀
に関係がありそこに摂津や大阪湾岸でつくられた銅鐸があるそうで、その見返りに阿波の土器で摂津の茨木あたりに朱を運んだと考えて居られます。

大阪府教委の山田隆一氏は、製塩土器の技術が阿波讃岐から大阪湾に伝わりやがて若狭にも行っているようです。大和川や茨木(安威川溝クイや東奈良遺跡)等の讃岐や阿波の土器が入っているそうです。

水銀や塩の交易は弥生時代中期にすでにあったのでしょう。
4世紀末以降に秦氏という新式の技術を持った朱や銅の開発や鉄鍛冶の技術集団が日本に渡ってきた。

豊前などから和泉の石津川あたりに来たのでしょうか。
伽耶や新羅から来たのでしょうか。或いは中国の秦から来たのでしょうか。

古代中国に明るい学者の原宗子氏は、秦氏は中国甘粛省天水付近が秦族の故地とする馬牧畜民とされています。ここは正にシルクロードの要衝。長安から河西回廊の蘭州に向かう途中の地です。馬は日本へは5世紀初めに入るようです。五胡16国時代、4世紀の秦族は前秦や西秦として活躍しました。前秦は遊牧民の氐族で長安。西秦は遊牧民鮮卑族で蘭州の西の金城を都とします。始皇帝の秦族の天水近くとは近く同じく遊牧民ではありますが果たして同族でしょうか?

秦氏キルギス族説も面白いですね。

キルギス人は元々はバイカル湖の西のエニセイ川の上流域にいました。トルコ系の遊牧民です。今は南下して中央アジアに移り住んでいます。

少し話は逸れますが、伊勢船木氏や都祁氏は多氏系で産鉄族と言われます。多氏と秦氏も近いのでしょう。いずれも鉱物関係にも関与しています。

昨年、尾張の大県神社へ寄りましたが、ここは丹羽氏。多氏系です。宮司さんがふと漏らしました。朝鮮から来た先進水銀技術者という説もありますよ。

それを東山道で遡り恵那山を越えると飯田の阿智神社。

阿智使主。




[10944] Re[10932][10931][10930][10928]: 和爾坐赤坂比古神社  神奈備 2011/11/08(Tue) 13:51 [Reply]
山尾幸久 『古代王権の現像』から
 ヤマト政権の場合、文字資料のかすかな痕跡をたどれば、丹後から若さ、近江の湖西、山背の南部から奈良盆地、こういう交通路が復元される。そして、このルートにもっとも本質的な関係を持っていたのが、のちに和爾一族なのである。引用以上。

 さて、「文字資料のかすかな痕跡」とは、何のことしょうか。

 一つは、国宝にもなっている系図。
 海部氏の系図によりますと、丹波国造の第十七代の名前が難波根子建振熊であり、彼は和珥の祖とされています。仁徳期に飛騨の両面宿禰を退治した武将とされています。これから見ますと和珥氏は海部氏の分岐氏族のようにも見えます。


 東大寺山古墳出土太刀の銘文の年号は「中平」と読まれ、西暦184〜9年頃とされています。卑弥呼を共立した頃の太刀です。大和での和珥氏の本拠地の古墳ですから、太刀が海部氏経由で伝わってきたのでしょう。


 後は記紀などでしょう。和珥氏にからむ神社としましては。

尾張国春日井郡 朝宮神社「阿太賀田須命、建手和爾命、菊理姫命」式内社。
大和国添上郡  和爾下神社
大和国添上郡  和爾坐赤阪比古神社
讃岐国三木郡  和爾賀波神社

 などがあるようです。讃岐は論社がありますが、豊玉姫を祭神としているようです。やはり海人族に関係しているようです。

[10943] Re[10938][10935]: 吾田片隅命   2011/11/05(Sat) 13:09 [Reply]
> 神奈備さん

>  豊玉姫が不合尊を生む際に、ワニの姿に戻ったと言うお話があります。

王仁(ワニ)  「鰐」を「和邇」
東(倭)漢氏(やまとのあやうじ)の祖・阿知使(あちのおみ)主や西 文氏(かわちのふみうじ)の祖・王仁(ワニ)、秦氏(はたうじ)の祖・弓月(ゆづき)君が いる。
http://koujiyama2.at.webry.info/201005/article_71.html
渡来および帰化系氏族のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化したという記録があるが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。
また一説には五胡十六国時代に前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある(弥生時代の到来)。

和邇氏は春日氏、小野氏、 柿本氏などの十六氏族 を輩出したとされる。
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/13-9wanisi.htm

和珥氏と天津彦根系は「類族」である 前回では、和珥系と天津彦根系をまとめて「東国 の開拓者」として扱いました。 ... 百済から来た王仁(和邇吉師)の子孫。 ... 次に山城国 は、平安京遷都より以前には、鴨氏・秦氏・狛氏らの開拓地でした。 ...
http://yumiki.cocolog-nifty.com/chrono/2011/05/post-39a4.html

野氏と秦氏の共存関係
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/tokusyuhatashi.html

鰐・・・鰐」を「和邇」と訓じ
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
投稿日:2011年11月 5日(土)13時00分36秒

[10942] Re[10938][10935]: 吾田片隅命  神奈備 2011/11/04(Fri) 15:12 [Reply]
> シャチに関する伝承はアムール・サハリン地域からさらにオホーツク海北方の沿岸地域、そして、アメリカ北西岸のインディアンにまで広く分布している。」(萩原真子)
> http://www.dai3gen.net/shachi.htm

 アメリカまでもシャチの伝承がとどいているというのは、一万年の旅路と言う縄文時代からの人の流れに付随していったものかも。北方の人々。

 一方、豊玉姫と不合尊の伝承は、水辺に産小屋を建ててのお産のお話です。南方の海人系の習俗とされています。

 シャチのワニ 和珥氏、事代主 南方のワニ いろいろあるものですね。

[10941] Re[10940][10939][10938][10935]: 吾田片隅命  郭公 2011/11/04(Fri) 01:41 [Reply]
>揚子江アリゲータにまつわる伝承はどんなものがありましょうか。

 君島久子の報告(『日本民間伝承の源流』)に、洞庭湖のほとりに伝承している説話があります。

 冒頭部分を引用すると、
・ある漁夫が、あらしの洞庭湖で、水に落ちた一人の乙女を助ける。その乙女は、実は龍女、つまり乙姫が姿を変えていたものだったので、お礼に「分水珠」つまり水を分ける珠をわたし、漁夫に籠宮にきてくれるように頼む。
 後日かれは龍女との約束を守り、分水珠を持って水を分けて湖底の龍宮城へゆき、龍女と結婚をして、楽しく暮らす。
 (以下略しますが、いわゆる浦島説話と同様のストーリーです)

 この龍女説話龍神説話の伝承する地域は、
・洞庭湖(湖南・湖北)を中心に東は江西・浙江、南は福建・広東方面に、西は雲南省の[さんずい+耳]海(アルハイ)地方まで、広く華中・華南全域に広がりを見せている。

 ここでは人に化身した龍。
 豊玉姫は人に化身したワニ、あるいは龍。「匍匐ひ委蛇ひき」、「方に産まむとし、竜に化為りぬ」

 龍には雷光のイメージもありますが、図示的にはワニ+ヘビのようでもあります。 

[10940] Re[10939][10938][10935]: 吾田片隅命  大三元 [Url] 2011/11/03(Thu) 17:31 [Reply]
郭公さん、ども。
興味深いポイントは:
 日本神話に出てくるワニの伝承・属性と
 北方神話のシャチの伝承・属性に幾つか類似点がある、
ということです。

日本神話のワニが分類学上の何に相当するのかはユックリと考えて行きたいと思います。ワニとは○○である、と先に置いてしまうと私だったら視野狭窄になりそうです。

揚子江アリゲータにまつわる伝承はどんなものがありましょうか。

[10939] Re[10938][10935]: 吾田片隅命  郭公 2011/11/03(Thu) 07:49 [Reply]
 大三元さん、しばらくです。

>ワニ(多分シャチのこと)

 揚子江アリゲーターのことだと思いますよ

http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/animal-chinese-alligator_large.html

[10938] Re[10935]: 吾田片隅命  大三元 2011/11/02(Wed) 15:13 [Reply]
神奈備さん

>  豊玉姫が不合尊を生む際に、ワニの姿に戻ったと言うお話があります。江南系のように見えます。

ワニ(多分シャチのこと)に関する伝承は(江南方面を否定するつもりはありませんが)北方へも視野を広げておくのが良いように思えます。「シャチに関する伝承はアムール・サハリン地域からさらにオホーツク海北方の沿岸地域、そして、アメリカ北西岸のインディアンにまで広く分布している。」(萩原真子)としており、私もそれらの伝承と記紀の記事内容との類似に興味を持っています。
http://www.dai3gen.net/shachi.htm

[10937] 鎌足 鎌子 豊璋  神奈備 2011/11/02(Wed) 10:46 [Reply]
かまたり かまこ の発音に似た朝鮮語で王族・貴族などを示すことばがあれば、教えて下さい。

[
[10936] Re[10935]: 吾田片隅命  とみた [Url] 2011/10/31(Mon) 13:03 [Reply]
> > 和爾坐赤坂比古神社の祭神も、伝承ですが、東大寺山古墳の被葬者も海人です。
神武東征軍は日向から出発して河内湖から入って日下でナガスネヒコに敗れ、紀伊か熊野かを経て再度、大和盆地に入り富雄川でナガスネヒコに勝利します。
弥生時代の遺跡がありますね。
生駒の西では日下は鬼虎川遺跡、跡部は久宝寺遺跡に近い。物部の本拠でしょう。
生駒の東では、矢田丘陵に近い六条山遺跡(奈良市)と富雄川に近い田中垣遺跡があります。
多分稲作に関係があるかと思います。その延長上で和邇と森本遺跡(天理市)にムラができる。
>  北九州は海人の拠点です。安曇、住吉、宗像、物部の各海人達です。
>  安曇は履中前期で住吉中津皇子の叛乱に荷担

仁徳の息子たちの勢力争いか。
履中VS住吉仲皇子。
履中側は阿智使主と平群と物部。なんとなく伽耶からやってきた勢力に見えます。
住吉仲皇子側は、阿曇連(筑紫)、倭直吾子籠(淡路島)隼人刺領布)と海人達。
倭直吾子籠は仁徳62年遠江に派遣された造船技術者。

隼人の寝返りで履中側が勝利、倭直も履中側に。
日向隼人と仁徳との出会い。大隅隼人は日向の諸県君牛諸井であろうか。その娘の髪長ヒメを仁徳に差出し生まれた子が幡ヒ皇女。允恭以降に倭の五王が分裂。
雄略は日向の勢力の若日下部を滅ぼしヒメを奪った。
日向の日下部は正に生駒の餌香=藤井寺に志紀県主として勢力を張っていたのを雄略
は滅ぼす。大和川の支流の石川の奥地の長野邑を没収。

この辺りに咸古神社がある。富田林です。紺口神社で、紺口県主、志紀県主を祀り、神八井耳命、つまり多氏、小子部と同族であろう。
オオ氏は、佐賀県は肥前武雄に近い杵島山の麓に縁があり、武内宿禰のお父さんがいた。母は紀国の山下影姫。

富田林には、武内宿禰系の蘇我氏、石川氏が入植している。渡来民支族も多い。水路を拓く職能集団が高度の技術を持って入って来たのでしょう。私は5世紀かと思っています。

> 『肥前国風土記』(値嘉の郷) 値嘉島に阿曇連百足を見にやらせると土蜘蛛が住んでいた。また白水郎たちの容貌は隼人に似て、その言語は世人と違っていた。
>  と言う記事がでています。隼人の言葉を阿曇連百足が理解できたと言えますし、派遣されると言うことは同族だとの認識があったのでしょう。安曇は隼人とは同じ血が流れているのでしょう。
>
>  宗像については、『姓氏録』に、「大国主命の六世孫、吾田片隅命の後」に宗形朝臣、宗形君がいるとの記載があります。吾田片隅命の「吾田」は隼人の「阿陀」と見ることができそうです。やはり隼人の後裔としますと、安曇とは同族と見ていいのでしょう。南方の海人の神は女神です。安曇の神も豊玉姫に代表される女神なのかもしれません。
>
>  『姓氏録』「大国主命の六世孫、阿太賀田須命の後」に和仁古。
>  豊玉姫が不合尊を生む際に、ワニの姿に戻ったと言うお話があります。江南系のように見えます。
>
>  物部氏の船長に跡部、舵取りに阿刀、これも吾田に近い。また宗像神をまつったのが物部阿遅古連公で、深いつながりがあるようです。
>

[10935] 吾田片隅命  神奈備 2011/10/30(Sun) 10:46 [Reply]
> 和爾坐赤坂比古神社の祭神も、伝承ですが、東大寺山古墳の被葬者も海人です。

 北九州は海人の拠点です。安曇、住吉、宗像、物部の各海人達です。

 彼らは拠点の場所が違いますが、ルーツは同じと見ていいのでしょうか、それとも片や半島から、片や南方からとルーツを異にしているのでしょうか。

 まず住吉ですが、記紀によりますと綿積の神(安曇)と同時に誕生していますので、安曇と同族で王権に気に入られたグループと見ていいのでしょう。
 安曇は履中前期で住吉中津皇子の叛乱に荷担、また白村江での大敗北で壊滅的打撃を被ったと言う運の悪さがあるようです。
 さらに、『万葉集』3860-3869 神亀の年中(724〜)、宗像の津麿が安曇の荒雄に対馬行きの船頭を交代してつとめたが、暴風で荒雄は死んでしまったと言う物語と歌十首の記載があります。やはり運が悪い。
 宗像と安曇の仲が良いということは言えますが、これだけで同族と決めつけるのはどうかいなとは思います。

『肥前国風土記』(値嘉の郷) 値嘉島に阿曇連百足を見にやらせると土蜘蛛が住んでいた。また白水郎たちの容貌は隼人に似て、その言語は世人と違っていた。
 と言う記事がでています。隼人の言葉を阿曇連百足が理解できたと言えますし、派遣されると言うことは同族だとの認識があったのでしょう。安曇は隼人とは同じ血が流れているのでしょう。

 宗像については、『姓氏録』に、「大国主命の六世孫、吾田片隅命の後」に宗形朝臣、宗形君がいるとの記載があります。吾田片隅命の「吾田」は隼人の「阿陀」と見ることができそうです。やはり隼人の後裔としますと、安曇とは同族と見ていいのでしょう。南方の海人の神は女神です。安曇の神も豊玉姫に代表される女神なのかもしれません。

 『姓氏録』「大国主命の六世孫、阿太賀田須命の後」に和仁古。
 豊玉姫が不合尊を生む際に、ワニの姿に戻ったと言うお話があります。江南系のように見えます。

 物部氏の船長に跡部、舵取りに阿刀、これも吾田に近い。また宗像神をまつったのが物部阿遅古連公で、深いつながりがあるようです。

[10934] 林ノ腰古墳  神奈備 2011/10/26(Wed) 11:32 [Reply]
 10月22日に豊歴で近江の古墳と神社をいくつかまわりました。そのなかから。

 野洲市小篠原に、林ノ腰古墳の敷地が公園として残っています。5世紀末から6世紀初めの築造のようです。

 一方、三上神社に銅鏡が伝わっています。出土地は不明ですが、「伝三上山下古墳出土銅鏡」として、『野洲町民1993』に紹介されています。興味深いのは、百済の武寧王の墓から出土したものと同型で、何故近江にこの銅鏡があるのかが疑問だったようです。

 継体天皇の時代に朝鮮半島に渡って外交活動を行った人に、近江毛野と言う人がいます。おそらく継体天皇の盟友だったのでしょうが、外交官としては無能のようでした。当時の百済の王は武寧王の子の聖明王です。外交面ではさんざん失敗したあげく、百済につけ込まれる不始末で、それもあってか、一時は帰国命令にも従わなかったようです。帰国途上に対馬で病死しています。

 百済から近江毛野に対して銅鏡が与えられたのかもしれません。それが林ノ腰古墳から出土したと考えますと、ドンピシャリとはまる話になります。

林ノ腰古墳 http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2065/index.html

写真は 写真掲示板で

[10933] Re[10932][10931][10930][10928]: 和爾坐赤坂比古神社  とみた [Url] 2011/10/25(Tue) 08:54 [Reply]
郭公さん
考察に刺激を受けています。
私も、弥生時代をもっと調べるべきで、且つ、北九州や瀬戸内や日本海(山陰・北陸)東海近江との関連を掘り下げたいと思っています。なかなか捗りません。亀の歩みです。
>  弥生後期後半から末にかけて、平等坊・岩室、和爾・森本などの集落遺跡で、東海系土器、北近畿系土器が出土。
乙木・佐保庄遺跡(古墳時代初頭の流路)では、列島西半の広汎な地域に由来する土器が数多く出土。

>  弥生後期後半には瀬戸内由来の土器が見られなくなる一方、近江系土器が顕著に搬入されるけれども、弥生終末から古墳時代前期になると、ことにオオヤマト古墳北部では、列島西半の広汎な地域に由来する土器が多数出土する。
>  東大寺山古墳は、年代的には四世紀半ばから後半になりますので、さらにやや下ることになるでしょう。

天理市の歴史風景、坂靖さんの奈良盆地の拠点集落の論考、和邇遺跡の発掘者の青柳泰介さんのワニ地域考、鈴木裕明さんの古墳時代木製威儀具の総合的研究を眺めています。

弥生時代は柳本の海知と天理の西側の平等院岩室遺跡あたりは稲作が入ったところのようです。

標高が低いのでしょう。

その北の佐保川に菩提仙川が流れ込む美濃荘、登志院あたりも農業ラインであったようです。ワニ氏は木材以外に農業生産も関わったとしています。

私が気にしているのは佐保庄・乙木です。ここは近江系・東海系土器と山陰系土器の出土が多いところです。

木製威儀具である団扇型(翳形)木製品、玉杖形木製品が出ていて、桜井茶臼山の玉杖のルーツとされています。

琴柱形石製品とか蓋形埴輪にも形が似ています。蓋形は高貴な人に差し掛ける日傘と見立てられていますので、いずれも威儀具でしょう。それは琵琶湖の守山地区に出ています。下長・下ノ郷・下マガリ遺跡とか伊勢遺跡など近江の湖南です。

石川県八日市地方遺跡、畝田遺跡、鳥取県青谷上寺地遺跡にも出ています。面白いことに韓国の慶尚南道、茶戸里遺跡、全羅南道の新昌洞遺跡にもあります。

石川県の遺跡は木製品で有名です。すべてに共通するのは弥生時代
の稲作地です。因みに4世紀の蓋形埴輪は佐紀盾列王権時代のシンボルです。

弥生時代も中期や後期を前半、中半、後半、終末と精密に見る必要もありそうです。

古墳時代も早期、前期、中期、後期と見なければなりません。

難しいですね。


[10932] Re[10931][10930][10928]: 和爾坐赤坂比古神社  郭公 2011/10/24(Mon) 17:12 [Reply]
報告書『東大寺山古墳の研究』に、奈良盆地における外来土器の変遷についても若干ながら記述がありましたので以下まとめて紹介しておきます。

・弥生時代中期後半から後期初頭
 唐古・鍵遺跡を中心に、吉備・瀬戸内系土器が一定量搬入される。
 紀伊・摂津・播磨・近江・伊勢湾地域に由来する土器も入る。

・弥生後期後半
 「畿内」土器が一体化することもあり、外来土器が目立たなくなり、その中で近江系土器が特異な動きを見せる。
 和爾・森本遺跡では、弥生後期から古墳時代初頭の土器のうち、25.8%が近江系土器。
 弥生後期後半から末にかけて、平等坊・岩室、和爾・森本などの集落遺跡で、東海系土器、北近畿系土器が出土。
 弥生後期は、多数の近江系土器が確認される一方、吉備系土器などの瀬戸内地域に由来する土器が見られなくなる。

・弥生終末から古墳時代前期
 纏向では、東海・関東、瀬戸内・四国・九州、山陰・北陸と広範な地域から流入。
 オオヤマト古墳群北部の佐保庄遺跡(ノムギ古墳周濠)、乙木・佐保庄遺跡(古墳時代初頭の流路)では、列島西半の広汎な地域に由来する土器が数多く出土。
=====

 弥生後期後半には瀬戸内由来の土器が見られなくなる一方、近江系土器が顕著に搬入されるけれども、弥生終末から古墳時代前期になると、ことにオオヤマト古墳北部では、列島西半の広汎な地域に由来する土器が多数出土する。
 東大寺山古墳は、年代的には四世紀半ばから後半になりますので、さらにやや下ることになるでしょう。

[10931] Re[10930][10928]: 和爾坐赤坂比古神社  とみた [Url] 2011/10/23(Sun) 09:19 [Reply]
>  このことの意味は、東大寺山古墳を嚆矢として和爾・櫟本エリアに古墳を築造した集団は、弥生中期からあった集落を形成した一族ではなく、東大寺山古墳からさほど遡らない時期に和爾・櫟本エリアに進出したことを示している。
>  つまり、東大寺山に副葬された中平刀もまた、和爾の地で伝世したものではなく、和爾に進出した一族によって伝世されたものと言うことができます。
>
>  『よみがえるヤマトの王墓』(天理大学附属天理参考館 2010)に、
> ・東大寺山古墳に関しては、幕末頃には「珍彦命」または「椎根津彦命」の墓という伝承があったという。
>
>  和爾坐赤坂比古神社の祭神も、伝承ですが、東大寺山古墳の被葬者も海人です。
>  東大寺山古墳が4世紀半ばから後半くらいとされていますので、それよりやや遡った頃、北部九州の海人族の東進があったということになるのではないでしょうか。

和邇族については、岸俊男先生は近江から天理の方に入ったとされ加藤謙吉先生は天理の方から近江に出て行ったとされていますが。いずれも天理の北部、東大寺山と和邇丘陵に本拠を持つことでは一致しています。木津川―巨椋池ー宇治川ー琵琶湖あたりが活躍舞台か。
性格的には木材の運搬に関与しているように思われます。神功に味方する振熊王は水手(水運・水軍)で和邇一族でしょう。

天理の南部の長柄には有名な大和神社があり、ウズヒコ(椎根津彦)の海道者が祭られ、大和地方を開拓した倭直の先祖となっています。

神社の東に西殿塚と東殿塚があります。東殿塚の古墳は4世紀前半のもので、鰭付円筒埴輪、副葬しそれに船の線刻があるのも興味深い。
海の民、海道者を髣髴させます。四国は今治・相の谷一号墳、丸亀・快天山の埴輪は
東殿塚の埴輪を祖形としていることに海の民の関係性も残しているように思われます。伊予、讃岐、阿波の海の民が関係していそうです。

弥生時代から古墳時代に移る3世紀半ばには大阪湾から大和に入る中継地の中河内や柏原には阿波系の土器が多かったとされています。吉備甕も入ってきます。

[10930] Re[10928]: 和爾坐赤坂比古神社  郭公 2011/10/19(Wed) 09:52 [Reply]
 報告書『東大寺山古墳の研究』から引きます。
・注意されるのは、主要な古墳である東大寺山古墳、赤土山古墳が、オオヤマト古墳群や杣之内古墳群が集落に近接あるいは連なるように立地するのとは異なって、同時期の集落とは明確に異なった立地を示していることである。この古墳群において最初に築造された東大寺山古墳は、春日断層崖から西に小高く張り出した丘陵の頂部に位置し、標高は約130m、平地との比高約70mと、周囲から隔絶した立地になっている。また、その後に続く赤土山古墳もやはり見晴らしの良い丘陵の南斜面に築造されているのである。加えて注意されるのは、この地域においては、弥生時代中期から古墳時代にかけて、場所を移動しながらも継続的な集落展開が認められる一方で、前期古墳の出発は、古墳時代前期後半(3期)の東大寺山古墳を待たなければならず、オオヤマト古墳群(1期)、杣之内古墳群(2期)に比べると、時期的な遅れが認められる事実である。

・集落展開の検討からは、磯城・山辺エリア、布留川流域エリアでは、低地部に立地する弥生中期の拠点集落が弥生後期にも規模を保ったまま継続し、坂が指摘するように、古墳時代前期まで一定の拠点性を保持していることが認められる。ただし、和爾・櫟本エリアでは、弥生中期の拠点的な集落遺跡の様相が必ずしも明確ではない。

・和爾・櫟本エリアでは、古墳時代の中核的な集落は丘陵麓の扇状地上に立地するが、前期古墳は比高差の大きな見晴らしの良い丘陵上に位置していて、隔絶した立地となっている。このように集落の立地と前期古墳の立地が異なるのは、奈良盆地以外の前期古墳で見られる状況と類似している。

・和爾・櫟本エリアでは、弥生時代中期から古墳時代への集落展開が認められるにも関わらず、前期後半(3期)の東大寺山古墳までは明確な首長墳が認められない。
=====

 和爾・櫟本エリアでは、東大寺山古墳までは明確な首長墳が見当たらず、しかも東大寺山古墳、赤土山古墳はオオマヤト古墳群、杣之内古墳群が集落に近接して古墳を築造するのとは異なり、むしろ奈良盆地以外に見られる前期古墳の立地のありように類似している。

 このことの意味は、東大寺山古墳を嚆矢として和爾・櫟本エリアに古墳を築造した集団は、弥生中期からあった集落を形成した一族ではなく、東大寺山古墳からさほど遡らない時期に和爾・櫟本エリアに進出したことを示している。
 つまり、東大寺山に副葬された中平刀もまた、和爾の地で伝世したものではなく、和爾に進出した一族によって伝世されたものと言うことができます。

 『よみがえるヤマトの王墓』(天理大学附属天理参考館 2010)に、
・東大寺山古墳に関しては、幕末頃には「珍彦命」または「椎根津彦命」の墓という伝承があったという。

 和爾坐赤坂比古神社の祭神も、伝承ですが、東大寺山古墳の被葬者も海人です。
 東大寺山古墳が4世紀半ばから後半くらいとされていますので、それよりやや遡った頃、北部九州の海人族の東進があったということになるのではないでしょうか。

[10929] 古墳系列  神奈備 2011/10/14(Fri) 17:23 [Reply]
> 佐紀盾列古墳と馬見古墳を見る

 馬見古墳に大王の古墳が二基なければならないので、探し回っているが一基しか見つからない。見つかったのは武烈天皇のもののようだ。
 と言うお話が、10月8日の講演の中で塚口先生からでていました。


> 岸本さんの考察が入る。

 古墳系列と神聖王・執行王の系列の件については、古墳の形状、飾り物、副葬品などについて疎いものですから良くわからない所があります。

 まず、応神天皇が登場する執行王の系列を示します。
        執政王と系列古墳
桜井茶臼山古墳
メスリ山古墳
大帯日子忍代別命(景行天皇)渋谷向山古墳
佐紀陵山古墳
佐紀石塚山古墳 出土埴輪から見ると城山古墳と近似した時期
誉田別命(応神天皇) 津堂城山古墳 佐紀王暮の後続型式
 佐紀王権に属していた誉田別命が権力を奪う。
去来穂別命(履中天皇) 上石津ミサンザイ古墳 *1 執行>>神聖
瑞歯別命(反正天皇) 誉田御廟山古墳 執行>>神聖
市辺押羽皇子 市野山古墳
大泊瀬幼武命(雄略天皇) 岡ミサンザイ古墳


 神聖王とされる系列古墳は以下の通り。
卑弥呼 箸墓古墳
台与 西殿塚古墳
御間城入彦五十瓊殖(崇神天皇)行燈山古墳
活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)宝来山古墳
五社神古墳
大鷦鷯命(仁徳天皇) 仲津山古墳 *1並立。
雄朝津間稚子宿禰(允恭天皇)大仙古墳 執行<<神聖 逆転する
木梨軽皇子 土師ニサンザイ古墳
木梨軽皇子は雄略に殺された。
継体天皇 今城塚古墳
神聖王執政王の系列は継体王の時代に一本化

 南宋に朝貢した倭の五王の内、珍−反正、済−允恭の間につながりがないのは、執行から神聖に系列が変わることで理解しやすいのですが、倭国を代表する大王は神聖王の系列で一貫しておくのが本来と思いますので、果たしてこのような二系列が存在したのかどうか、課題は多そうだとおもいます。

[10928] 和爾坐赤坂比古神社  郭公 2011/10/13(Thu) 19:03 [Reply]
>武内宿禰や葛城は肥前の武雄から進入とお考えですか。

 そうですね。背振山地の南側がルーツではないかと。徐福の末裔かも。

 そのほかには、北部九州出自といえば、思いつくところで申しますと、以下のごとく。あくまでも今のところの見通しです。
・安曇氏(遡れば長江流域の海人か)
・住吉三神(安曇氏と同族だけれど、半島南部を経由して南下したか)
・宗像氏(阿多隼人の後裔か。遡れば東南アジアの海人か)+和爾氏もまた同祖。
・誉田別(伊都国出自)
・物部(剣からの連想では、いわゆる越人か。壱岐を経由して遠賀川流域のように思える)

 これらについては、当然のことですが、ひとつずつ検証しなければなりません。それは今後の私自身の課題です。
 ここでは、和爾氏について考えてみます。

 奈良県天理市、東大寺山古墳の北の小高い丘陵地が和邇町でそこに和邇坐赤坂比古神社があります。延喜式にも収載されていて、主祭神は「阿田賀田須命」。市杵島姫も併祀されています。

 「阿田賀田須命」といえば、『新撰姓氏録』に、
・宗形朝臣
  大神朝臣同祖。吾田片隅命之後也。
・宗形君
  大国主命六世孫吾田片隅命之後也。
 とあるように、北部九州の海人宗像氏の祖です。
 それがなぜ、和邇に祀られているのかよくわからなかった。
 同じく姓氏録に、
・和仁古
  大国主六世孫阿太賀田須命之後也。
 とあり、大和国神別の中に書かれているから、和仁古は大和の氏かと思われるがまだ納得しかねていたところ、『先代旧事本紀』に、素盞鳥尊と天照大神との誓約によって生まれる神の系譜、その八世孫に、
・八世孫阿田賀田須命、和邇君等祖。
 と書かれています。
 つまり、和邇氏とは北部九州の海人、宗像氏と同族なのです。

http://kamnavi.jp/as/yamanobe/waniaka.htm
 以前、検索すると神奈備さんのページ↑がヒットし、それをたよりに阿田賀田須命を祀る神社をいくつか(下記の●)見てきました。

●福岡県宗像町玄海町 宗像大社摂社津加計志(つかけし)神社「阿田賀田須命」
氏八幡神社摂社「吾田片隅命」
福岡県宗像郡津屋崎町 大都加神社「阿太賀田須命」
奈良県大和郡山市 賣太神社摂社八柱神社「赤坂比古命」
愛知県春日井市 
●両社宮神社「阿田賀田須命」
●朝宮神社「阿太賀田須命」
天神社「吾田片隅命」
●和爾良神社「阿太賀田須命」 二社ありました。
新潟県西蒲原吉田町 赤坂諏訪神社「和爾坐赤坂比古命」
群馬県安中市 榛名神社「赤坂彦神」


 宗像で祀られていて、愛知にも和爾良神社に阿太賀田須命。
 このことからも、宗像と和爾氏、和爾氏と阿田賀田須は緊密な関係にあったことが窺われ、和爾氏もまた北部九州に出自をもつ海人であったと考えてよいでしょう。

 では、奈良県天理市へはどのルートで入ってきたか?
 若狭に、若狭彦神社(彦火火出見尊)、若狭姫神社(豊玉姫命)、琵琶湖周辺に、安曇、志賀、和爾というように北部九州の海人を想起させる神社、地名があることから日本海ルートを南下したケースも考えられるかもしれませんが、私は瀬戸内海ルートではなかったかと考えています。
 「日本地理志料」 讃岐国 三野郡に、諸資料から
三野郡人「丸部」ノ臣豊牀
三野郡ノ人「丸部」ノ臣明麻臣
「丸部」ノ泰家
三野ノ郡「丸部」氏
 の例を挙げて、
・「丸」呉音和牟、姓氏録作和爾部、盖著姓也。 
 とあるように、讃岐にもワニベがいた。
 また、
・観音寺市市民の氏神となっている琴弾八幡神社は岩清水八幡ではなく宇佐系八幡であり、三豊郡だけで宗像大神が十二座勧請されていることと併せて考えるなら、当地への西方勢力の進入は容易に推察でき(以下略)」(『日本の神々2:山陽 四国』)
 とあります。
 これらのことから、上述のように、瀬戸内海ルートではなかったかと考へてをります。

 もっとも、社名としての赤坂比古については、神奈備さんもお書きのように、
・備前国赤坂郡に「石上布都之魂神社」
 この赤坂とする説もありかと思います。
 天理の和爾坐赤坂比古神社と石上神宮はハイキングでも行ける距離。
 
 この石上布都魂神社からは少し離れていますが、吉備SAの北側に宗形神社があり、小さな祠でしたが裏に古墳があります。
 宗像と物部もまた近そうです。

[10927] Re[10925][10924][10923][10922][10921][10920]: 塚口義信先生  とみた [Url] 2011/10/11(Tue) 21:33 [Reply]
再三再四のミステーク本当に相済みません

> 確か、佐紀盾列古墳とと馬見古墳を見る鍵は石製品(琴柱型、貝輪など)と塚口さんは仰っておられた。河内王権の古市、百舌鳥古墳時代は武具(甲冑)と仰っていた。

書棚の本を見直したところ塚口さんでなく田中晋作さんの筒型銅と政権交替の本でした。

どうも最近は呆けて記憶違いが増えています。申しわけありません。今後気をつけます。

[10926] Re[10925][10924][10923][10922][10921][10920]: 塚口義信先生  とみた [Url] 2011/10/11(Tue) 07:56 [Reply]
いつも出してからミスに気が付きまして失礼しています。訂正補筆してお詫びします。
> 佐紀盾列の古墳群の特徴は方形壇、蓋形埴輪だそうです。
> 垂仁の妃の日葉酢姫の墓とされる佐紀陵山古墳が画期なのでしょう。昼飯大塚、石山宝塚はこの流儀だそうです。
> 五胡16国時代に入り、高句麗は前燕と百済と戦い、百済は伽耶と倭王権との連携に入る(尚古王ではなく肖古王です、七支刀を倭に差し出した)
>
> 370年代は東晋が百済や伽耶と関係を結ぶ。
> 391年倭(神功皇后?)は朝鮮に出兵する(広開土王碑文)。高句麗に攻められる伽耶を援けて鉄を確保するためです(広瀬さん、塚口さんとも同じ考え)

> 確か、佐紀盾列古墳とと馬見古墳を見る鍵は石製品(琴柱型、貝輪など)と塚口さんは仰っておられた。標識に鰭附(楕円)系円筒埴輪もありますね。

桜井茶臼山やメスリ山も方形壇ですが、ホケノ山も積石方形壇があるようです(関川尚功さんの指摘)それと佐紀盾はもっと高く盛り上げています。
桜井茶臼山段階では壺を置き、メスリ山段階では円筒埴輪を置く。佐紀盾段階では器財埴輪の蓋形埴輪を置いています。

同盟を結ぶ勢力で東山道では石山、昼飯大塚・・・・・毛野国の浅間山古墳の豪族も加えています。それだけ朝鮮出兵には経済的・人的支援を必要とした。も一つ大切なのは佐紀盾列の勢力は大和川の玉手山古墳勢力と、淀川の紫金山古墳勢力を味方に加えています。交通の要衝を仕切る豪族の協力を求めた。佐紀盾は平城ですから大和川と木津川ー淀川の両方の水運を大切にした。

近江と和邇氏と水軍との関係が潜んでいると考えます。
琴柱形石製品は玉杖の部品です。これは頭が二股になり蓋形とも共通の形です。どうもこれは近江か北陸に祖形があるようです。


[10925] Re[10924][10923][10922][10921][10920]: 塚口義信先生  とみた [Url] 2011/10/11(Tue) 07:22 [Reply]
>  ひとくちにヤマト王権と言っても、
> ・箸墓までの初期纏向古墳群
>  その後の、
> ・行燈山(伝崇神)、渋谷向山(伝景行)と、
> ・桜井茶臼山、メスリ山
>  この3グループのつながりがよくわからないのです。

郭公さんは結局このテーマに謎を見て居られるのですね。
私も福永伸哉さん、広瀬和雄さん、塚口義信さん、などの先生方の本を読み興味を持っています。

大和王権と河内王権との関係その間の佐紀盾列の勢力と馬見古墳群の勢力との関係ですね。
それに玉手山古墳が絡んでいる。岸本さんの考察が入る。私は伊賀の石山古墳と美濃の昼飯大塚古墳、伊勢の宝塚古墳も興味を持っています。大垣市(西濃)の中井正幸さんの著作に目を開かせていただきました。

佐紀盾列の古墳群の特徴は方形壇、蓋形埴輪だそうです。
垂仁の妃の日葉酢姫の墓とされる佐紀陵山古墳が画期なのでしょう。昼飯大塚、石山宝塚はこの流儀だそうです。
4世紀後半、つまり古墳時代前期後半の墓です。
3世紀は大和王権は魏晋の中国政権と密着していたのが313年楽浪郡と帯方郡が高句麗に滅ぼされ、晋王朝も316年に滅びます。倭王権は伽耶との交流に走ったのだと思います。
五胡16国時代に入り、高句麗は前燕と百済と戦い、百済は伽耶と倭王権との連携に入る(尚古王)。

370年代は東晋が百済や伽耶と関係を結ぶ。
391年神功皇后は朝鮮に出兵する。伽耶を援けて鉄を確保するためです(広開土王碑文)。
神功は朝鮮出兵で日本海岸の水手(海人)の応援を得る。
鉄は息長氏です。系図に明るい室賀寿男さんは応神は息長氏と見做しています。
確か、佐紀盾列古墳とと馬見古墳を見る鍵は石製品(琴柱型、貝輪など)と塚口さんは仰っておられた。河内王権の古市、百舌鳥古墳時代は武具(甲冑)と仰っていた。

> > 押熊王は仲哀天皇の正統な世継ぎであり、反乱を起こしたのは応神天皇サイド。これは、香坂王・押熊王の系譜が後世に改変されているのであろうが、それでも皇位継承者としては、応神より上位になっていることがある。正統との強い伝承があったのだろう。

日本へ凱旋した子供の応神が武内宿禰と振熊王と和邇氏の応援で、仲哀の嫡男の忍熊王・香坂王を破る。これが河内政権なんでしょうか。仲哀は朝鮮出兵に見向きもせず九州の地で没しています。
武内宿禰や葛城は肥前の武雄から進入とお考えですか。
武雄は有明海から入るルートと末羅(松浦)から陸地を松浦川沿いに南下するルートの両方があります。
弥生時代は
>  行燈山は、佐紀の五社神古墳(伝神功陵)と築造企画としてはよく似ていると思います。 だから、纏向後、佐紀へ行ったグループがあったんだろうと思います。
>  忍熊王はおそらくその系譜ということになるのでしょう。その意味では、たしかに旧来の流れの中にあっては正統と言えると思います。

[10924] Re[10923][10922][10921][10920]: 塚口義信先生  郭公 2011/10/10(Mon) 23:26 [Reply]
>無駄に出費させたのでしたら、ご免なさい。

 いえいえ、そんなことないですよ。けっこう面白く読ませていただいてます。
 いろいろと示唆に富んでいます。

 ひとくちにヤマト王権と言っても、
・箸墓までの初期纏向古墳群
 その後の、
・行燈山(伝崇神)、渋谷向山(伝景行)と、
・桜井茶臼山、メスリ山
 この3グループのつながりがよくわからないのです。

> 押熊王は仲哀天皇の正統な世継ぎであり、反乱を起こしたのは応神天皇サイド。これは、香坂王・押熊王の系譜が後世に改変されているのであろうが、それでも皇位継承者としては、応神より上位になっていることがある。正統との強い伝承があったのだろう。

 以下、青草ですが。

 行燈山は、佐紀の五社神古墳(伝神功陵)と築造企画としてはよく似ていると思います。 だから、纏向後、佐紀へ行ったグループがあったんだろうと思います。
 忍熊王はおそらくその系譜ということになるのでしょう。その意味では、たしかに旧来の流れの中にあっては正統と言えると思います。
 それと戦ったのが応神サイドなのですから、反乱なのか外部から侵入して戦ったのか、のいずれかでしょうが、僕は後者だと思っていて、ついでに申せば、この応神につながるのが、継体であり、天武であったということではなかったかと。
 言ってみれば、継体も天武もアマテラス派の、ニューディールであり、クーデターですよね。

 話を戻しますと、桜井茶臼山・メスリ山はその後、馬見へ行ったんじゃないか。
 で、馬見の巣山古墳と、河内の津堂城山はよく似ていますが、一方で、津堂城山には佐紀の要素もあるのだそうです。
 塚口氏が面白い表現をされていますが、暴力団の内部抗争にヒントを得て、佐紀集団にも同じことがあり、一方が河内王権とくっついたんだと。

 三輪山に須恵器を伴って大物主が祀られるのは五世紀後半ですが、そのころ纏向には巨大古墳は作られない。いったい誰が祀ったんだろうと考えると、先日書きましたように、朝倉に宮を置いた(脇本遺跡と考えられています)、雄略くらいしか思い当たらないのです。

 それ以前については、狭井神社から北へ谷を挟んだ尾根に弥生期の祭祀遺跡があり、古くから三輪山そのものは祀られていたと考えられていますが、その三輪山信仰と雄略期の大物主との関係がいまひとつよくわからないのです。

[10923] Re[10922][10921][10920]: 塚口義信先生  神奈備 2011/10/10(Mon) 17:51 [Reply]
訂正します。

[10922]
 福井県丹生郡越前町織田金栄山に鎮座する「剱神社」の伝承には、押熊王は当地で薨去され、里民らはこの神社に押熊王をあわせて祀ったとあります。一種の英雄と見なされていたのかも。
↑上記の文は神奈備の挿入で、塚口先生ではありません。


郭公さん
 [10918]
 塚口義信『ヤマト王権の謎をとく』、『紀』の神代下に出てくる、大物主神と事代主神を帰順させるシーン(天高市に八十万神を集めて天にあがる)について、神功皇后の勢力が大和を征服したことの神話的表現と見なしています。まさに、葛城地方の鴨の勢力が葛城氏にとって替わられるイメージが出ています。
↑上記の文は記載の著作物にお中には書かれていないようです。先生の講演の中で聞いたものと混乱していたようです。無駄に出費させたのでしたら、ご免なさい。

[10922] Re[10921][10920]: 塚口義信先生  神奈備 2011/10/09(Sun) 21:21 [Reply]
 昨日8日の塚口先生の話の中で、

 押熊王は仲哀天皇の正統な世継ぎであり、反乱を起こしたのは応神天皇サイド。これは、香坂王・押熊王の系譜が後世に改変されているのであろうが、それでも皇位継承者としては、応神より上位になっていることがある。正統との強い伝承があったのだろう。

 押熊王の根拠地は近江であった。成務天皇が志賀高穴穂宮に宮を持ち、父も特段に宮をもうけたとはかかれていないので、そのまま近江にあったと見ていい。従って、最後には近江に逃げていったと語られているのは頷けるとのこと。

 福井県丹生郡越前町織田金栄山に鎮座する「剱神社」の伝承には、押熊王は当地で薨去され、里民らはこの神社に押熊王をあわせて祀ったとあります。一種の英雄と見なされていたのかも。

 押熊王側の軍事将軍に犬上君の祖倉見別の名が『紀』に記載されています。この真偽を確認するには文献にがこれ以上の情報がないとのことで、考古学の助けを得ようと近江国犬上郡の古墳を調査されたようです。荒神山古墳(124m)が400年以前の古墳で地域最大の古墳で、犬上氏の古墳と見ていいようです。ところがそれに続く古墳が見あたらないことを確認したとのこと。荒神山の麓に稲村神社があり、その近くに「伝塚村古墳」があり、調査したところ、周辺からは何も出土しない、何にもない所で、ただ形が何となく前方後円墳に似た地形だとわかったそうです。これで、犬上氏はその頃に勢力を弱めた事がわかる、『紀』の記述が確認できるとのお話でした。

 時間を超過しての大熱弁でした。

 ひとつひとつの事を確認しながら、着実に進めていく手堅さを感じました。

> 宇佐八幡の勧請ならさほど古くはないと思いますが、この中臣、誉田の地名の由来はどうなんだろう。河内、摂津から揖保へなのか、その逆なのか。

 『播磨国風土記』に、「太田」地名が、紀伊名草から摂津経由で播磨に伝わったとの伝承が記載されています。もちろん人の移動を伴っていたのでしょう。


 押熊王にゆかりの神社が奈良市押熊町の八幡神社で、香坂王子・忍熊王子の墓と称するものがあります。

 また、岡山県和気郡和気町の由加神社に忍熊王命碑がおかれています。
 宝塚市の中山寺は安産で有名ですが、奥院には忍熊王と母の大中姫を祀る場所があります。


[10921] Re[10920]: 塚口義信先生  郭公 2011/10/08(Sat) 19:53 [Reply]
 土曜日はあいにくほとんど仕事ですわ。
 もっともいまのところですけど。あとはどうなることやら。(^o^)

 
 さて、『ヤマト王権の謎をとく』、さっそく読み始めたところです。いろいろとお聞きしたいこともありそうです。機会があればぜひ講演会など参加したいですね。

 本文とは直接関係しないかもしれませんが、いくつか。

1.葛城氏・葦田宿禰系の飯豊皇女について。
 若狭の西、舞鶴の東となりの高浜町。
 延喜式、若狭国大飯郡 青海神社。
 祭神は、椎根津彦。
 境内の由緒に、「飯豊青皇女(青海皇女)が御祭神を慕われお祀りになられたと伝えている。御本殿後方の窪地は飯豊青皇女の禊池と伝えている」

 海人と葛城氏の近さがここにも表われているように思います。

2.忍熊王について。
 越前町織田・剱神社。
 祭神は、素盞嗚大神、気比大神、忍熊王。
 織田信長のご先祖様発祥の地とされていますが、由緒書に、
・上古より座ヶ岳の峰に祀られていた素盞嗚大神の御神霊を、第14代仲哀天皇第二皇子忍熊王が現在の地に奉斎されたと伝えます。
 神功皇后摂政の頃、忍熊王が賊徒討伐の時、素盞嗚大神の神助を得て討ち平らげ、王は神恩報謝のため、織田の地に社を営み、剱大明神と仰ぎ奉りました。

 1,2ともに、記紀では窺えない伝承が残っていて、ちょっとびっくりしました。
 むしろ、この伝承は史実の一端を伝えているように思います。

3.誉田について。
 播州龍野。(揖保郡)
 野見宿禰のお墓、粒坐天照神社がありますが、
 中臣の地名(倭名抄にも収載)がある。中臣印達神社。祭神 五十猛神。

 誉田の地名もある。(太子町からも近かった)
 たしかその地に、阿宗神社。祭神は、神功皇后、応神天皇、玉依姫命。元宮御祭神 阿蘇親王。
 縁起に、「欽明天皇の御代に当国司大伴狭手彦勅を奉じ筑紫国宇佐八幡宮を岡ノ峯(現立岡山)に勧請す 後、文治五年内山城主塩津新左衛門尉義経、広山村に遷す

 宇佐八幡の勧請ならさほど古くはないと思いますが、この中臣、誉田の地名の由来はどうなんだろう。河内、摂津から揖保へなのか、その逆なのか。
 
4.神別葛城氏について。
 塚口氏ご指摘のように、新撰姓氏録をみると葛城氏は神別、皇別の二系統があり、神別葛城氏は、
・葛木忌寸 
  高御魂命五世孫剱根命之後也
・葛木直
  高御魂五世孫剱根命之後也

 これは、陶邑の陶荒田神社とまったく同じ。
 皇別になると、武内宿禰、葛城襲津彦之後也ということになりますけど。

[10920] 塚口義信先生  神奈備 2011/10/06(Thu) 08:49 [Reply]
塚口義信先生は、豊中歴史同好会の顧問的存在でもあり、講演や史跡案内も多く行って頂いています。

今月は、8日(土)にはまさに講演があります。

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2011.html

2010 10 8 14時から

堺女子短期大学名誉学長 塚口義信

歴史学からみた4・5世紀のヤマト政権と近江

5階公民館会集会場

また、10月22日には、近江歴史ツアーがあります。
引率は 塚口先生他
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/gentikengaku.html

[10919] Re[10918][10917]: 手力男神と住吉神  郭公 2011/10/05(Wed) 22:46 [Reply]
> 塚口義信『ヤマト王権の謎をとく』、『紀』の神代下に出てくる、大物主神と事代主神を帰順させるシーン(天高市に八十万神を集めて天にあがる)について、神功皇后の勢力が大和を征服したことの神話的表現と見なしています。まさに、葛城地方の鴨の勢力が葛城氏にとって替わられるイメージが出ています。

 神奈備さん、ありがとうございます。その本、早速注文しました。
 塚口氏の論考は二、三(釈日本紀に引かれた上宮記の、いわゆる継体、応神五世孫説と、神功皇后について)読んだだけですので、楽しみです。
 たしか昨年でしたか、近つ飛鳥で継体の特別展をやりましたが、そのとき講演をお聞きしました。
 
 
>やはり武内宿禰と住吉大神、つながっていそうです。

 長門一宮の住吉神社。僕が行ったときは改装中でしたが、五座祀られていて、真ん中が武内宿禰。
 「えっ? 武内宿禰が主祭神なんですか?」
 向かって左が第一殿で、日本海側(豊浦側)になるそうで、それが住吉大神。
 指向と申しますか、由縁と申しますか、宮司さんはそちら側とつながっているからと言うようなことをおっしゃっていましたが、ひょっとすると、イコールかもしれませんね。

 島根にも武内神社、鳥取には武内宿禰終焉の地の伝承がある宇倍神社。というふうに、日本海側にも足跡があります。

[10918] Re[10917]: 手力男神と住吉神  神奈備 2011/10/04(Tue) 10:02 [Reply]
> 今年の初詣は、武内宿禰を祀る武雄神社および、おっかさんの影媛を祀る黒尾大明神でしたが、大和へ入ったのは先住の鴨氏の後に住吉大神たちと同時期の可能性は充分にあると思います。

 温泉と神社、いいお正月ですね。影媛と黒尾、重要なキイワードが並びました。

 影媛を祀る神社は九州に鎮座しています。
福岡県小郡市力武  竃門神社
福岡県宗像郡玄海町 葛原神社
佐賀県武雄市朝日町 黒尾神社

 武内宿禰の誕生の地といえば、紀伊となっていますが、母親神は九州のみにまつられています。これから見ますと、武内宿禰の誕生地は九州なのでしょう。
 傍証としては、彼の活躍が『記紀』に登場するのは、神功皇后の時で、場所は九州です。
 また、『肥前国風土記』(藤津郡)に、九州にいた景行天皇が土蜘蛛を誅滅させようと、紀直らの祖の穉日子を派遣するお話が出ていますが、『日本書記』に出てくる、武雄心命を遣わした紀伊とは、九州の紀伊だったのでしょう。

 宇佐神宮の門神と場所に黒男神社が鎮座、祭神は武内宿禰。ほかには、

福岡県糟屋郡久山町 黒男神社
福岡県大野城市 黒男神社
大分県日田市 玉垂神社<通称>黒男社
これらの黒男神社の祭神は武内宿禰です。

鹿児島県鹿児島郡三島村 黒尾神社
ここでは住吉大神。

八幡古表神社で相撲を取る人形で一番強いのが、色が黒い住吉大神です。

やはり武内宿禰と住吉大神、つながっていそうです。


> 大和へ入ったのは先住の鴨氏の後に住吉大神たちと同時期の可能性は充分にあると思います。


 塚口義信『ヤマト王権の謎をとく』、『紀』の神代下に出てくる、大物主神と事代主神を帰順させるシーン(天高市に八十万神を集めて天にあがる)について、神功皇后の勢力が大和を征服したことの神話的表現と見なしています。まさに、葛城地方の鴨の勢力が葛城氏にとって替わられるイメージが出ています。


> 武雄から東の佐賀市に巨勢町があり、さらに東へ走ると一言主を祀る葛城神社があります。葛城氏はこの肥前だったように思えます。

 武内宿禰から出たとされる氏族の名を持つ地域が北九州に分布しているとの指摘が野
野正男さんの著述にあったような気がします。

 『邪馬台国の東遷』(奥野正男著)を引用します。北九州の地図のつもりです。

  博多湾     /
   −−−−−−/
        曾我
    平群    羽田
 背振山地
=======  I
       ==I基肄
武雄  巨勢   I葛木
    −−−−−+−−−筑後川  

 ここに武内宿禰を祖先とする氏族の名前が揃っています。神功・応神の勢力は彼らの応援を受けて畿内に攻め込んだのでしょう。

 

[10917] Re[10916][10915][10914][10913][10912][10911][10910]: 手力男神と住吉神  郭公 2011/10/03(Mon) 22:00 [Reply]
>筒とはリンガの意味かも。

 これはありかも。
 直感的に、穴門直践立を思い出しました。穴の入り口で立ってらっしゃる。
 とすると、筒は細く長いぢやなくて、太く長いの意か。

> 延喜二十一年の筥崎神託 「誉田別命 其故者香椎宮波我母堂。住吉宮波我親父也。

 天文元年(1532)の『塵添[土蓋]嚢鈔』に、応神天皇は海神の子孫だから竜尾があり、あるとき天皇が出御するとき、内侍が早まって障子を閉め、天皇の尻尾を障子の間に挟んでしまったのだそうです。(『日本の古代8 海人の伝統』)
 
>筒は竹。竹内宿禰に通じるのか。彼は誉田別名の父親としてのの行動をとっているように見えます。抱いて瀬戸内を航行し、また気比まで同行します。
 
 たとえば、畝火山口神社にも、武内宿禰が赤ん坊の応神を抱いて座り、横に神功皇后が立っている絵が奉納されたりしていますよね。
 前原の長野宇美八幡(往古、蚊田の地名があったといわれています)、宮司さんと思われる境内のおうちの表札は武内でした。もっとも血筋の信憑性まではわかりませんけど。

> また、塩筒老翁のイメージと竹内宿禰とが重ねる雰囲気もありそうです。 
 
 ここはなんとも難しいところですが、いずれにしても、海人と葛城氏とはかなり近い関係にあったと言えるでしょう。
 今年の初詣は、武内宿禰を祀る武雄神社および、おっかさんの影媛を祀る黒尾大明神でしたが、大和へ入ったのは先住の鴨氏の後に住吉大神たちと同時期の可能性は充分にあると思います。
 武雄から東の佐賀市に巨勢町があり、さらに東へ走ると一言主を祀る葛城神社があります。葛城氏はこの肥前だったように思えます。


> なお、暴力団で言うツツは女性器のことで、ツツモタセ(美人局)などに使われています。しかし、この時代には男性を指したのではないでしょうか。ツチノコのイメージ。

 私はてっきり小袖というか筒袖というか、その袖を引っ張るくらいのところで怖いお兄さんが出てきはるものと思っていました。
 つまり、男女どちらかの筒までに到る前に。(^o^) 

[10916] Re[10915][10914][10913][10912][10911][10910]: 手力男神と住吉神  神奈備 2011/10/02(Sun) 09:26 [Reply]
>  シオツツ、シオツチからツツとツチは同意でせう。
>  イカヅチ(雷)、ツチノコ(蛇)から、ツツ(ツチ)は、細く長いものではないか。

『住吉大社神代記』に、不思議な記事があります。密事の記事。 むつびごと。

 仲哀天皇が死んだ後、「皇后と住吉大神には密事がある。俗に言う、夫婦之密事。」

 住吉三神に共通の名に筒男。筒とはリンガの意味かも。筒は竹。竹内宿禰に通じるのか。彼は誉田別名の父親としてのの行動をとっているように見えます。抱いて瀬戸内を航行し、また気比まで同行します。
 また、塩筒老翁のイメージと竹内宿禰とが重ねる雰囲気もありそうです。

 普通、神には後裔の氏族がある場合が多いのですが、住吉三神には後裔がいません。大王家が祀っている神です。

 なお、暴力団で言うツツは女性器のことで、ツツモタセ(美人局)などに使われています。しかし、この時代には男性を指したのではないでしょうか。ツチノコのイメージ。

 延喜二十一年の筥崎神託 「誉田別命 其故者香椎宮波我母堂。住吉宮波我親父也。


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