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[11626]阿迦留比売は騎馬民族のお姫様 神奈備 投稿日:2013年12月27日(金)17時40分
大三元さんの掲示板に同じ内容を投稿しました。議論は大三元さんちで。
http://www.dai3gen.net/wforum_reki/wforum.cgi

『騎馬民族がもたらした日本の言葉』東巖夫 と言う本を見ています。

 騎馬文化の国々の言葉である古代のチュルク語は現代のウイグル語に多くの要素を残しているそうです。現代ウイグル語を代表として分析しています。語順は、ウイグル語、モンゴル語、ツングース語(満州語)は、日本語と同じだそうです。

あかるい の日本語の意味。
空間の明るさ。
光を発するもの。
心情的なもの。表情など。
社会的正義感。
真実 善 倫理的・道義的概念。
教養 知識の豊富さ。
証拠およびそれに基づく証明など。

aqar チュルク語の意味  aq + ar  語根+接尾詞
白く見える。
白髪になる。
白くなる。
雪でおおわれる。
青ざめる。
明るくなる。色が鮮やかになる。夜があけてくる。
暗闇で光をはなつ。灯がともっている。
光をはなつ。きらめく。
清潔になる。
うまくやる。順調にやる。

まとめますと、「光り輝く」と言う現象だけではなく、
1.博識・聡明。
2.無実。
3.清浄・無垢・白色。
などの抽象的観念が共通のようです。
およそ無関係に発達した言葉だったとは言えないようです。



[11624]Re: 弥生時代の探求 かたばみ 投稿日:2013年12月25日(水)10時55分
とみたさんへのお返事です。

>知識を丹念に積み上げる努力が正攻法だとして急がば回れで行きます

どこかの土器で年代確定できる「なにか」が発見されるといいですね。
火山活動による降灰を含む粘土による土器、ここになにかないかなあと思っています。
年代が確定できれば、従来の説ががらがらと崩れること少なからずと思っています。

私の場合は素人の趣味でしかないですから、勝手気まま(^^;
事実の積み重ねとは別に、可能性の積み重ねによる手段を考えています。
それぞれは不確実ではあっても、多数が集まれば可能性の高い部分がより濃くなる。
フィルムにぼんやりした影がみえる、そういうフィルムを多数重ねれば確率の高い実体部分が濃く見えてくるであろう、です。
確率論的な手段で「色眼鏡のない方程式化」ができるだろうと思っていますが、あいにく数学は苦手。
遊ぶだけにとどまっています。


一種のシミュレーションで歴史の流れを仮定する(しがって人類史の段階からのスタートになります)。
その仮定にそぐわない「確実なもの」が登場すれば仮定を修正する(例えば考古学的出土物)。
そのフィードバックを繰り返すことで「仮定」の確率が高まってゆくと考えています。
仮定に一致しない「不確実なもの」(例えば伝承)は不確実のままでおいておく、場合によっては後世での変形あるいは創作と見なして「不確実なもの」の方を修正する。

歴史は河のごとくでときに集まりときに分流もするけれど、大きな質量を持った流れであって急角度で曲がったりはしない。
ボーリングのボールがどこにゆくかは、経験豊富なら投げた瞬間におおよそ予測がつく(未来が見えるといってもいいです)。

あらゆる生命は食糧を求めて行動する。基本的には保守的、前年と同じを求める。
仮定のベースになるのが食糧問題。
その状況を支配するのが気候、ダイレクトにそれを示すのが植物の花粉による植生変化、重視しています。
ま、時代が下れば人智によって食糧をリカバーできるようになるし、伴って人の思惑が前面にもでてくるのでやっかいですけれど。


失礼して、持論の歴史観から、庄内式土器とはなにかを「予測」してみます。
最初に発見されたのが大阪府豊中市で庄内式の呼称の由来。
ポイントは土器編年と実年代ですが、今のところAD200頃、が一般なのでそうであろうとしておきます。
±50年の誤差があっても持論的には包含できます。

庄内式土器は弥生末期に出雲文化圏で作られ始めた土器である。
いたってあっさりと(^^; 物証などはありません(^^; 様々な流れをみればそうならざるを得ない、なのです。
どの地域で最初に作られたかは今のところなんともいいがたいけれど、これは各種土器の編年の積み重ねでわかると思います。
近畿から出土したから「後の大和王朝」の系列であると決めつけてはならない(色眼鏡の一種)。

派生的推測。
開化崇神が近畿出雲を制圧したとき、土器制作者に新たな形式の土器を作らせる余裕はないでしょう。
崇神朝では地元の出雲文化圏の土器制作者が作っていた土器をそのまま使用した。
崇神朝では九州への物資輸送にも使う、九州からも出土する理由。
(出雲時代に東北などに運ばれている可能性もある、これは出土地の分布を精査の必要あり)

埴輪を野見宿禰(出雲系譜、土師)が考案したという記紀の記述とリンクしてゆくところでもあります。
記紀の記述なくばこの予測は生じないかもしれません、記紀を無視してはならないということです。
さーて、この予測は当たるかなあ(^^;




[11623]クナトの大神 神奈備 投稿日:2013年12月20日(金)21時45分
丹波の出雲大神宮の広瀬宮司が丹後の籠神社の海部宮司をに話した中に、「出雲大神宮の中央の空座には、クナトの大神が鎮座していたに違いない。」とあったそうです。

http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/tango.htm HP 方位線と歴史 出雲神族・海部氏と丹後によります。

 また、最近、ある方が出雲大神宮で確認された所、「どうして知っているのですか。」と逆に質問されたようです。

 さて、クナトの大神は、出雲の大国主の後裔の富氏に伝わる伝承では、北からやってきて。眷属は信濃
などに行き、大神は出雲に落ち着いたとあったように記憶しています。(吉田大洋著『謎の出雲帝国』から)

 興味深いお話です。



[11622]弥生時代の高地性集落の謎 とみた 投稿日:2013年12月17日(火)21時43分
弥生時代の中期から後期ー終末期まで丹念に国内各地の土器や磨製石剣や鋳造鉄器や青銅器を追うことにしています。埼玉大の中村大介先生と広島大の野島永先生が作成された論考を特に注目しています。

弥生時代の前期末ー中期初頭に福岡県小郡に遼東から燕国の戦国鋳造鉄の完形が入り、周辺40km圏内で分割された後、再利用のために西部瀬戸内地域など東方に流出する。
青銅製武器も韓半島南部から北部九州の諸岡や小郡に入り北部九州の市おそらくは北部九州の内陸部を結節点とし、分割された破片素材(リサイクル、スクラップを含む)とし響灘沿岸部の物流基地を介して、日本海と瀬戸内に分かれ、瀬戸内や近畿地方中部に流出したと想定される。
実際、山城(山背)の交通の要地(巨椋池周辺部)の市田斉当坊(中期後葉)などでは周辺の市場を介在して仕入れた磨製石剣や鉄剣を分割した小形剣を素材として使用し玉などを作っている。


凹線紋土器が、瀬戸内海(本拠は中部瀬戸内)弥生中期後半から伊予、山陰、丹後、北陸に移動し挙句に韓半島南部の勒島にも現れます。広域的な動きがある。

中期後半は前漢武帝が楽浪郡に植民する時代、紀元前一世紀以降です。北九州の奴国もスタートします。
この頃、手工業生産体制が見直され首長層が遠隔間交流を始めます。
中期後半から後期初頭にかけて環濠集落が衰え、高地性集落が各地にできてきます。
中期後葉頃までに漸く石材やその製品類(玉も含む)、金属資源・製品類が市を介在して関東地方までに及ぶ。神奈川県丹沢の砂田台の環濠遺跡(中期後葉)には、磨製石器類や砥石や板状鉄斧が出る。

製品の素材や製品が市を通して取引が活発化した。これが画期となり中期後葉の倭国社会が従来の基礎集団(家族墓的属性を持つ造墓集団単位)相互の血縁的経済的依存関係から脱して、市場を通した経済活動が活発化してきた。

芦屋市の高名な森岡秀人先生の高地性集落の話で、弥生時代中期末から後期初頭にかけて第一期の高地性集落が広がるとされ防御だけでなく交易との観点に触れられている。

出雲の青銅器(銅鐸・銅矛・銅剣)祭祀は、中期末に終焉します。丹後では弥生中期末にいち早く鉄加工技術が導入され水晶製玉類、ガラス製玉類など交換財を生産し先進している。

第二期の高地性集落は弥生時代後半つまり2世紀半ば以降の倭国大乱との関わり合いに注目されます。新潟大の甘粕建先生の本を見ると、
北陸系(加賀)の土器が能登半島以東の越後、特に信濃川沿いや能登半島に多いのは何故であろうか。北陸勢力は出雲と連携していたとされるのは、北陸系土器と出雲の四隅突出墳が北陸地方に見られるからです。越は丹後と結び、出雲は加賀、越前と結ぶ。

京都府埋蔵文化センターの高野陽子先生によれば、後期後半、丹後と越は土器でも親縁関係が見られるそうです。山陰東部から北陸に祭式土器が向かっています。
東出雲は隣の丹後とは緊張関係が見られる。丹後が栄え赤坂今井の土器が広がりますので勢力が伸長したので警戒したのしょう。」ところが終末期の庄内式土器時代になると丹後勢力は衰えます。

後期後半の倭国大乱は森岡秀人先生によれば日本海勢力(出雲など)VS 大和ー吉備連合が対決し、大乱の結果、瀬戸内勢力が日本海勢力に交替することになる。吉備(特に備前)ーヤマトの安全ルートとして瀬戸内北路が固定化する。それ以前の播磨で漢鏡5期(内向花文鏡、方格規矩鏡)が偏重しており北部九州の完鏡が瀬戸内北岸に流入していたことが認められている。これは何を意味するのか。
愛知埋蔵文化センターの赤塚次郎先生は、2世紀半ばに、東海地方は弥生時代を形成ていた基本構造が一変すると指摘されている、まさに後期後半時代に相当する。
申すまでもなく・・・三国志魏書東夷伝倭人条には、国々市有り。有無を交易し大倭をしてこれを監せしむ。纏向は昔は大市と呼ばれた。


[11621]弥生時代の探求 とみた 投稿日:2013年12月17日(火)17時34分
掲示板の更新板を見失っていまして,神奈備さん、かたばみさん、言蛇さんから寒冷化の時期についての回答を頂いていたことを今日知りました。失礼しました。

弥生時代の寒冷期はやはり、250年頃以降から寒冷化が進んでいたようですね。その前は寒冷化への移行期と考えてよさそうです。
宮城谷昌光さんが書かれている三国志は多分、資治通鑑から引用されているようですが、曹丕

が揚州へ向かう225年の記事には広陵郡の江水(揚子江)では水路に氷が張り始め船が江水に入れなかった。
倭国王が107年に後漢の安帝に朝貢しますが、この頃イナゴが6年続けて大発生しています。これと天候異変は関与していないか気になります。

かたばみさんは土器では実年はわからないとされています。確かに相対年しか掴めないようですが私は基本的には一番確かだと考えて、知識を丹念に積み上げる努力が正攻法だとして急がば回れで行きます。

各地の土器編年を比較対照すればかなりいい線で迫れると考えます。土器は苦手で難しいのですが、これが一番有効でしょう。

北陸の土器など法仏式、月影式、白江式など面白そうです。
一番気になるのは、凹線紋土器が、瀬戸内海(本拠は伊予か吉備か??)弥生中期後半から伊予、山陰、丹後、北陸に移動し挙句に館半島南部の勒島にも現れます。

中期後半は前漢武帝が楽浪郡に植民する時代以降です。北九州の奴国もスタートします。
この頃、手工業生産体制が見直され首長層が遠隔間交流を始めます。
中期後半から後期初頭にかけて高地性集落が各地にできてきます。

鉄に詳しい広大の野島永教授は、中期後葉に血縁集団相互の経済活動より、市場を通じて交易が盛んになると考察されています。





[11620]Re:[11619] [11615]Re: [11603]Re: 纏向出現フォーラム かたばみ 投稿日:2013年12月16日(月)19時24分
言蛇さん、神奈備さん、私、さてだれが年長なんだか?


気候変動は食糧生産の不安定となってダイレクトに混乱をまねきますね。
いつもと同じというのがたいていは無難なところ。

長期的変動では氷河期と間氷河期、現在は2万年ほど前に氷河期が終わって温暖な間氷河期。
周期的に繰り返されるその理由は各論あって不明、いつまた氷河期になるのかも不明。
太陽との関連が重要要素であり、地球と太陽の巨大なシーソーバランスで気候の変動が生じると思っています。

場合によっては短期的に数百年程度での変化で生じるのがいわゆる異常気象。
BC2000あたりでの世界的異常気象が、ナイル、メソポタミア、インダスなどの衰退(世代交代)、良渚など長江文明の崩壊などを引き起こしたと考えています。
ノアの箱船もこの頃の記憶でしょう、ただし地域によって乾燥、冷涼湿潤、など状況が異なっている。
縄文では総じて冷涼、特に中部縄文ではカタストロフィーになったと思われます。

これらの小変動がどこかの火山活動によるかどうかは情報不足でなんともいえず。
火山活動の噴出物の拡散による寒冷化は、ある地域では異常気象として影響を与えるにしてもせいぜい数年程度と思ってます。
巨大爆発が地球と太陽のシーソーバランスを若干ゆすってもすぐに元に戻るわけです。

日本は火山国、100年単位でどこかで大きいのがボカンとやってる。
鹿児島の姶良カルデラの大爆発、新しくはBC10000頃。これらの噴出物は地質年代特定の重要資料。
薩摩半島から50kmほど南の鬼界カルデラの大爆発がBC4300頃。
日本人形成に大きく関与すると思われる時代で、九州方面の旧石器や南方系縄文が全滅したと思います。
しかしそれ以外の地域では大きな変化があったようにはみえず温暖化が続く。

AD100あたりからAD500あたりまでの弥生後期からの寒冷化、日本では持論での九州倭国の崩壊を生じた。
中国では後漢の滅亡から三国時代の混乱、五胡十六国の混乱時代。
半島でも高句麗、百済、新羅の抗争時代で飢饉もあった。
これも数百年ですが、この頃にどこかで火山の大爆発という情報はないですね。

1707年の富士山の噴火、これは南海地震が引き金だろうなあ。
1783年浅間山の噴火では降灰によって利根川水系に大きな被害がでて、徳川幕府の経済破綻もあってついに復興ができなかった。
天明の飢饉は富士山噴火の80年も後であり、東北では浅間山の噴火より10年ほど前から農耕不振が始まっているようです。
ましかし、浅間山の噴火が関東での天明の飢饉を増長したのは間違いないでしょう。


>稲作・米食への転換が引き金になっていると考えているのですが

水稲は弥生の目安になっていますが、畑作を含めた農耕技術の発達と温暖期の気候が西日本での急激な人口増加をうながしたと考えています。
弥生の水稲は小河川で緩勾配を使う灌漑、水稲のできる地域は限られています。
日本で食糧を稲でまかなえたのはごく一部だと思います。
一般では粟、ヒエ、麦、蕎麦、陸稲など畑作の雑穀がメインで、その栽培痕跡はまず残らず注目もされていないのだと考えています。
飢饉は寒冷化や日照不足などによるあらゆる穀物の収量低下によるものだと思います。

このあたりおいしい米ばかりを作り、輸入に依存する現代日本への警告でもありますね。
冷涼、日照量低下でも収量の落ちない稲の開発と種籾の確保、救荒作物を作れる農地の確保、長期展望が必要と思います。

余談
弥生〜古墳時代、漁労を行う地域、例えば日本海沿岸では穀物依存地域より食糧事情は安定で、「地力」を蓄えることができた。
タイやヒラメやズワイガニをむしゃむしゃやって元気はつらつ、応神大王や継体大王など日本海系の大王を生み出す要因になった。
余談おわり(^^;

飛鳥奈良時代でも一般庶民の食糧は畑作による雑穀がメインだと思います。
水稲は特権階級の穀物、あるいは神様へのお供えのシンボルですね。
新嘗祭では水稲が象徴されるけど、そうなるのはいつごろからか。
大気都比賣命(豊宇気比賣神)も穀物の神であって稲の神じゃない。
記紀編纂の平安初期でも同様だった、伊勢に外宮があるのもそれらが重要であったことを示す。

余談
伊勢神宮の遷宮の源は焼畑と畑作にあると考えています。10年20年交代で山林を焼いて畑作を行う。
遷宮の意味するところは交互に土地を休ませることにあり・・

次の農耕改革は鎌倉時代、人糞の肥料への利用だと考えています。
いわゆる「野壺」が登場(使用前処理必須)、これは世界に誇る農耕活用だと思っています(ヨーロッパでは宗教上の理由もあって捨てるのみ)。
人口が再び急増する時代となって農耕具が不足し、平安時代に衰退していた砂鉄製鉄(タタラ)と鍛治が民間ベースで復活する。

この時代でも一般人が米を食べるのはせいぜいが雑穀入りのかゆ程度だったのではないでしょうか。
大豆も一般化して味噌に豆腐に畑の各種野菜たっぷりのけんちん汁がこのころ登場かなあ(^^;




[11619]Re: [11615]Re: [11603]Re: 纏向出現フォーラム 言蛇 投稿日:2013年12月14日(土)14時27分
「すめろきの 神の宮人 ところづら
  いやとこしくに 我れかへり見む(万葉集1133)」

かたばみさんへのお返事です。
理利整然とした投稿いつもありがとうございます、神奈備さまは全然ほめてくれませんが実際はたいしたものです。

>人口が過密となった北九州では寒冷化の影響甚大で飢饉も多発、九州倭国(ヤマタイコクを含む)の崩壊につながった。
>(出雲文化圏の銅鐸の大型化も寒冷化に比例する)
>九州倭国の崩壊にさいして近畿出雲を制圧した開化崇神の「近畿新倭国」が救援物資を運んだことによる。
>九州以東の人口密度は低く、食糧事情は北九州よりはましだったということです。

飢饉の発生ですがこれはやはり稲作・米食への転換が引き金になっていると考えているのですが、
かたばみさんはどうお考えでしょう?麦・粟・そばは寒さには強く寒冷化ていどでは不作につながりません。
作物が不作になるのは日照時間の減少のほうが影響が大きく、この時期の火山活動が活発で火山灰による日照時間の低下が飢饉につながっている可能性が高いですね。
江戸時代の東北飢饉は浅間山の噴火が犯人といわれていますが、倭国の乱の火山噴火はどこかはまだ不定です。

写真は松本電鉄の渕東なぎささんと松本の林檎サン富士です、今日も元気に働いているよ。
軍艦にされなくてよかったけど・・・この娘さん、口は笑っていても眼が笑っていないんだよなー(汗
どうしてだろう???


[11618]Re: [11615]Re: [11603]Re: 纏向出現フォーラム かたばみ 投稿日:2013年12月 3日(火)20時57分
神奈備さんへのお返事です。

>庄内式が始まったのが、150−200年 終了が250年。

土器編年は重要ですが相対的表現であって、実年代とするには学者によって解釈がいろいろで、100年の誤差もありえます。
総じて近畿系の先生は近畿土器編年を九州土器編年に対して古くにみる傾向あり(^^;
以下におおよそ妥当な見解

http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html

庄内式土器、古墳時代開始の時代の近畿土器であるのは間違いないにしても、箸墓の築造年代すら確定できない状況であって実年代は推論の域をでていません。
私の年代観の流れからは、開化(持論225-248)末期から崇神(持論248-273)初期での登場だろうと推論。
布留式土器は芋づる式に(相対的に)その次の垂仁(273-311)〜景行(311-333)頃の土器となります。

庄内式をAD150まで遡るのはさすがに無理だと思います(一般的にはAD200が上限)。
ヤマタイコク論争の渦中にある土器でもあり、ヤマタイコク近畿論では遡るほど都合が良くなります。
土器焼成の正確な絶対年を知る手段の登場を期待するところです。

持論
庄内式が九州から出土するようになるのはなぜか。
人口が過密となった北九州では寒冷化の影響甚大で飢饉も多発、九州倭国(ヤマタイコクを含む)の崩壊につながった。
(出雲文化圏の銅鐸の大型化も寒冷化に比例する)
九州倭国の崩壊にさいして近畿出雲を制圧した開化崇神の「近畿新倭国」が救援物資を運んだことによる。
九州以東の人口密度は低く、食糧事情は北九州よりはましだったということです。


参考図は土器編年とその実年代の例ですが、この実年代が不安定。
安井喜憲氏などの気候変動データと重ねています。だいぶ古くなりましたが気候変動では修正はありません。

橋口達也氏の「甕棺と弥生時代年代論」「弥生時代の戦い」、ここでの甕棺編年の実年代把握、重視しています。
(橋口氏は九州出自らしいけど(^^; )
北九州では対外関係などから実年代への置き換えの精度は高いと考えています。




[11615]Re: [11603]Re: 纏向出現フォーラム 神奈備投稿日:2013年12月 1日(日)21時23分
かたばみさんへのお返事です。

> とみたさんへのお返事です。
> 後漢の崩壊、神武朝(〜懿徳)の崩壊、ヤマタイコク(九州説であります)の崩壊、など争乱の原因の多くが食糧事情によると考えています。
>
> 百済本紀ではAD108、247、331に飢饉の記事があります。
> 新羅本紀では、AD98、145、193。
> 193では飢饉で倭人の避難民到来とありますが、この倭人が半島南部であるか九州であるかはなんともいえず。

日本では土器が変わっているようです。
庄内式が始まったのが、150−200年 終了が250年。実際は100年くらいでないと短すぎますね。
布留式は250年からだそうです。

土器の様式に政治体制がどう関わったのか、権力の中心地の移動でもあったのか、よくわからないところです。
おっしゃるように食料生産の環境が大きく変わったことが、生活を変えていることは違いないように思います。



Re: [11603]Re: 纏向出現フォーラム かたばみ 投稿日:2013年12月 1日(日)20時33分
とみたさんへのお返事です。

>150年が寒冷化のお始まりとする記述は、何を根拠に書かれましたのでしょう。

寒冷化の始まり(異常気象の始まり)はもうすこし早いとみておりますが、データとしては気候と文明の盛衰/安田喜憲/朝倉書店 あたりではいかがでしょう。
花粉分析によりますが(ここでは畿内でのデータだけ)、気候変動が局所的ということはないと思います。
後漢の崩壊、神武朝(〜懿徳)の崩壊、ヤマタイコク(九州説であります)の崩壊、など争乱の原因の多くが食糧事情によると考えています。

百済本紀ではAD108、247、331に飢饉の記事があります。
新羅本紀では、AD98、145、193。
193では飢饉で倭人の避難民到来とありますが、この倭人が半島南部であるか九州であるかはなんともいえず。




Re: 纏向出現フォーラム 言蛇 投稿日:2013年12月 1日(日)12時23分
とみたさんへのお返事です、どうもご無沙汰しています。
副案がないと検証不足と突き帰されるので一石。

>  丹後−丹波ー山城−ヤマトの道は、弥生時代終末ー古墳時代移行期の謎を秘めているような気がしております。
> この説の難点はどこに有りましょうか。5万戸もある投馬国は日本海沿岸に存在しましょうか。
> 吉備を投馬国と見る説もありますし、神奈備さんをはじめ皆様はどうお考えでしょううか。

日本海論ですと「不弥国から南へ水行20日」という方位が問題になりますね。九州阿蘇の廻りは放牧に適していますが、
日本海側で馬の放牧に適しているのは適しているのはどこか・・・旧国名だと日本海側には但馬という国があります。
袴狭遺跡群の木製品には多くの船団が描かれた木棺が出土していて人口の多さと海運の活発を物語っていますね。

投馬国という名前、スサノオがアマテラスの屋敷に投げ入れた馬になにか関係あるのか???

「ことしげき 里に住まずは 今朝鳴きし
   雁に副ひて 往かましものを(万葉集1515・但馬皇女)」




[11611]Re: [11605]Re: [11603]Re: 纏向出現フォーラム 神奈備 投稿日:2013年11月26日(火)16時00分
> とみたさんへのお返事です。
>
150年〜250年 寒冷説 その2

 『日本の古代2 列島の地域文化』中央公論社 p124

 徳山大学教授山本武夫氏『気候の語る日本の歴史』から、『三国史記』の冷涼指数と「洪水数」「大雪数」の企比較 と言う表が載っています。

期間      冷涼指数
1〜100年  0.41
51〜150年 0.35
101〜200 0.56
150〜250 0.50
201〜300 0.30

これによると、101〜250年の間を冷涼な期間と見ています。150年を冷涼の始まりの時期とはしていませんが・・・。


[11610]江ノ島の弁財天坐像 琉球松 投稿日:2013年11月18日(月)11時17分
江ノ島の弁財天坐像も、そもそも全裸らしいですよ。

 たぶん「ホト」を露出することに意味があると思いますが、一応 "問題" になりそうなので服を着せたりするのでしょう。
 この辺は、大和岩雄さんの著書に詳しいので一読をお勧めします。
『天照大神と前方後円墳の謎/大和岩雄 (ロッコウブックス) 1983 』に、江ノ島の弁財天のことが出ています。
 「遊女」に関する著者の集大成としては『遊女と天皇/大和岩雄(白水社)1993 』がお勧めです。
 沖縄的には、その「ホト」は冬至の日の出方向に咲いていればなお縁起がいいって感じです


[11608]Re: [11603]Re: 纏向出現フォーラム 神奈備 投稿日:2013年11月15日(金)13時35分
とみたさんへのお返事です。

> 神奈備さんへのお返事です。

> 気候変動は重要な視点です。
> 150年が寒冷化の始まりとする記述は、何を根拠に書かれましたのでしょう。引用文献を教えてくださいませんか。

 今どの文献から採録したのか思い出せませんが、これを見て書いたのではありませんが、下記のHPにもそのような事がでています。


人口のピークと天候不順、倭国大乱
http://www18.ocn.ne.jp/~to-pa/Kodi/kodi5310.htm


Re: [11603]Re: 纏向出現フォーラム とみた 投稿日:2013年11月15日(金)13時00分
神奈備さんへのお返事です。

> とみたさんへのお返事です。
>
>  日本海側が昔の表日本だったのですから、投馬国は出雲あたりが相応しいように思います。5万戸は3−5−7の数列から出てきた数字だと思いますので、気にしなくてもいいと思っています。

ありがとうございました。出雲から水行10日で敦賀へ、そこから陸行1ヶ月でヤマトですか。
敦賀の北陸とヤマトを結ぶ道に、長浜の高月に前方後方墳で大きな小松古墳があります。埋葬された首長は北陸と大和を仲介(交易?)していたとされています。

http://www.kamnavi.jp/log/ugakibi.htm

このHPに150−250年小氷期の記事があります。
246年に寒冷化が始まったことは古気象学阪口教授が花粉分析で証明されていますし、中国三国志で当時、寒冷であったことは記述されています。
新羅本紀に、193年倭人が大飢饉となり避難民到来の記事があります。
記紀によれば崇神時代は大飢饉でありました。中国の後漢霊帝時代は黄巾の乱が発生しました。

気候変動は重要な視点です。
150年が寒冷化の始まりとする記述は、何を根拠に書かれましたのでしょう。引用文献を教えてくださいませんか。



溝咋とみた 投稿ふたかみ邪馬台国シンポジューム6号に大阪府文化財の山田隆一さんと、徳島県教委の菅原康夫さんの論考が出ていました。

大阪府の淀川の北畔にある茨木と高槻のことが気になりました。
いずれも三島郡です。溝咋は茨木の安威川のところ、お馴染みの三島溝咋の娘、五十鈴たたら姫は神武天皇の嫁さん。近くの茨木川には銅鐸など青銅器工房の東奈良遺跡がある。
東奈良は弥生時代中期後半に溝咋は古墳時代初頭に巨大化するらしい。
いずれも阿波の土器が入っている。
阿波の水銀朱が茨木に持ち込まれお礼にここで作られた銅鐸が阿波に入っている。三島は稲が入ったところ。日:2013年11月15日(金)12時55分



[11603]Re: 纏向出現フォーラム 神奈備 投稿日:2013年11月14日(木)19時29分
とみたさんへのお返事です。

 日本海側が昔の表日本だったのですから、投馬国は出雲あたりが相応しいように思います。5万戸は3−5−7の数列から出てきた数字だと思いますので、気にしなくてもいいと思っています。

 大阪府立弥生文化博物館で「吉備と耶馬台国」と言う展示会が行われています。その展示物の中で纏向遺跡から出土した日本各地の土器が並べられていました。圧巻でした。耶馬台(ヤマト)は大和であり、耶馬台国の位置論争は終わっているのでしょう。

 大三元さんが、卑弥呼の発音はヒミヲもしくはヒミホではないかとの問題提起に触れられて、ミホは美穂須須見命の美穂とされています。実に興味深いことです。「呼」をコと発音するのは、平安時代以降でしょう。とりあえず、「ヒミヲ」を定着させたいものです。


http://www.kamnavi.jp/log/ugakibi.htm


[11602](無題) たぬき 投稿日:2013年11月13日(水)21時51分
アラハバキ大神。変身なさって瀬織津媛大神。 実態を隠ぺいするのと仏教隆盛により弁財天、弁才天、弁天様に変化。この仕掛人は役行者神変大菩薩様であるとも。
水辺の畔や傍らに良く坐すのが、不動明王。大日大聖不動明王とも称えられます。
不動明王は蔵王権現と共々、修験道の主たる尊格に位置つけられています。(御同体では?)
他方、瀬織津媛大神は又、天照皇大神荒魂でもあり、伊勢内宮の荒祭宮の祭神と御同体。(西宮廣田神社。)元来、甲山を神奈備とする神様。
甲山に神呪寺を開基しようとした際に、激しく祟り阻害した荒ぶる神様が出現。名を問えばソラン荒神と宣う。この神を観音像に鎮め祀ったのが、甲山の鷲林寺。
後にこのソラン荒神様を遷し祀ったのが、宝塚の清荒神。と言われます。
これらからは、
廣田神社/伊勢内宮等の天照皇大神荒魂=瀬織津媛大神。=弁財天。=甲山の鷲林寺ソラン荒神=(日本霊験第一)清三宝大荒神王。=大日大聖不動明王(大日如来(天照皇大神)の荒魂)。=『アラハバキ大神』=出雲大神荒魂。大己貴命/久留御霊神(クルマ神)
金剛蔵王権現は役行者の一族、出雲神族/葛城高尾張の最高神(三面〜三神)を変化させたと考えるのが、順当なところかと。




[11601]・・・そういえば「天美許曾神社」の近くに「出雲大神宮」がありそこの「久多美大神」が祀られていました 匿名 投稿日:2013年11月13日(水)21時31分
たぬきさんへのお返事です。

> アラハバキ大神。変身なさって瀬織津媛大神。
>  実態を隠ぺいするのと仏教隆盛により弁財天、弁才天、弁天様に変化。この仕掛人は役行者神変大菩薩様であるとも。
> 水辺の畔や傍らに良く坐すのが、不動明王。大日大聖不動明王とも称えられます。
> 不動明王は蔵王権現と共々、修験道の主たる尊格に位置つけられています。(御同体では?)
> 他方、瀬織津媛大神は又、天照皇大神荒魂でもあり、伊勢内宮の荒祭宮の祭神と御同体。(西宮廣田神社。)元来、甲山を神奈備とする神様。
> 甲山に神呪寺を開基しようとした際に、激しく祟り阻害した荒ぶる神様が出現。名を問えばソラン荒神と宣う。この神を観音像に鎮め祀ったのが、甲山の鷲林寺。
> 後にこのソラン荒神様を遷し祀ったのが、宝塚の清荒神。と言われます。
> これらからは、
> 廣田神社/伊勢内宮等の天照皇大神荒魂=瀬織津媛大神。=弁財天。=甲山の鷲林寺ソラン荒神=(日本霊験第一)清三宝大荒神王。=大日大聖不動明王(大日如来(天照皇大神)の荒魂)。=『アラハバキ大神』=出雲大神荒魂。大己貴命/久留御霊神(クルマ神)
> 金剛蔵王権現は役行者の一族、出雲神族/葛城高尾張の最高神(三面〜三神)を変化させたと考えるのが、順当なところかと。
>
レス頂き感謝いたします。
ひとつ思い当たる節がありまして、それは許曾神社のすぐ近くに「久多美大神」を主祭神とする「出雲大神宮」がありまして出雲神族が天美地区にも進出していたような痕跡があるようなのですが・・・。




[11600]出雲大神荒魂。天照皇大神荒魂。瀬織津媛大神。弁財天。 たぬき 投稿日:2013年11月13日(水)20時59分
アラハバキ大神。変身なさって瀬織津媛大神。
実態を隠ぺいするのと仏教隆盛により弁財天、弁才天、弁天様に変化。この仕掛人は役行者神変大菩薩様であるとも。
水辺の畔や傍らに良く坐すのが、不動明王。大日大聖不動明王とも称えられます。
不動明王は蔵王権現と共々、修験道の主たる尊格に位置つけられています。(御同体では?)
他方、瀬織津媛大神は又、天照皇大神荒魂でもあり、伊勢内宮の荒祭宮の祭神と御同体。(西宮廣田神社。)元来、甲山を神奈備とする神様。
甲山に神呪寺を開基しようとした際に、激しく祟り阻害した荒ぶる神様が出現。名を問えばソラン荒神と宣う。この神を観音像に鎮め祀ったのが、甲山の鷲林寺。
後にこのソラン荒神様を遷し祀ったのが、宝塚の清荒神。と言われます。
これらからは、
廣田神社/伊勢内宮等の天照皇大神荒魂=瀬織津媛大神。=弁財天。=甲山の鷲林寺ソラン荒神=(日本霊験第一)清三宝大荒神王。=大日大聖不動明王(大日如来(天照皇大神)の荒魂)。=『アラハバキ大神』=出雲大神荒魂。大己貴命/久留御霊神(クルマ神)
金剛蔵王権現は役行者の一族、出雲神族/葛城高尾張の最高神(三面〜三神)を変化させたと考えるのが、順当なところかと。




[11599]訂正と蛇足 匿名 投稿日:2013年11月13日(水)20時16分
先ほどの内容で誤字があったので訂正いたします。
「河内大塚山古墳」の「辰巳(南東」ですがこれは正しくは「磯歯津道」と「難波大道」(難波宮と南北に結ぶ官道)を対象とした考察です。

それとこれは勝手ながらの考えなのですが縄文時代から河内鋳物師にいたるまで「勾玉」や「武器」「鉄器」にいたるまで「アラハバキ神」は「土」「火」「水」「風(気)」その一つを欠かしてもなしえられないために必要に応じて祀る必要があった神として重んじられたのではないでしょうか。「金剛蔵王権現」は明治の神仏分離令以前に「ヤマト朝廷」の目を欺く必要があったために考えられた尊格だったのではないでしょうか。


[11598]松原市とアラハバキ 匿名 投稿日:2013年11月13日(水)19時46分
「丹後の海部」とかけて「アラハバキ」とときます。
そのこころは・・・

先日、松原市内で毎年正月の二週間に渡って「開運松原六社めぐり」の下調べもかねて「我堂八幡神社「屯倉神社」「天美許曾神社」「布忍神社」「柴垣神社」「阿保神社」などに巡礼してきました。これがきっかけで松原市内の古代史にのめりこんでしまいました。

松原市内といえば惜しくも「というか微妙でもあったのですが」世界遺産暫定リストからはずされた日本国内で「五」番目に大きいと思われる「河内大塚山古墳」が掲げられます。
昔、柴垣神社に移されるまではここに天満宮がありまた実際に人が住んでいたようです。
またこの古墳には聞くところによると「牛蒡石」なる、なにやら「アラハバキ」か「牛神」を連想させるような怪石があるそうで地元では不思議な民話がいくつかかたられているそうです。

またこの古墳の埋葬者は今も特定されておらず「安閑天皇の墓」とも「雄略天皇の墓」ともまた「阿保親王の墓」ともいわれていますが断定には至っていません。
またこの古墳が「五」世紀頃の造営というのも妙にひっかかる節があります。

そこで松原市内のもともとの「産土神」はとなたかと調べてみると「一津屋古墳」に「厳島神社」がありそこに「弁財天(イチキ島姫命)」がまつられておりまた市内各所で弁才天神社がおおくまた「龍神」などを祀る神社も多いと「河内松原の神々」では紹介されています。

ここでおもいだしてほしいのが「安閑天皇」という人物です。この天皇の御魂を祭る堺市美原区内の「広国神社」には明治の神仏分離令以前には「金剛蔵王権現」さまが祀られており河内鋳物師が深く信仰していたといいます。また安間天皇自身も「金剛蔵王権現の化身」と崇められていたそうです(ついでにその金剛蔵王権現さまは慶派一派による見事な仏像で青の彩色が残っており「大井地区」の民間で大切に保存されているらしいのです)。

さて、実は「松原の民話」においては先述の「牛蒡石」の下からは「金銀財宝」が眠っているらしいとの伝承もありますがこれは河内鋳物師が採掘していた金剛山系から取れた「丹比の土」ではなかろうかと思われるのです。「アラハバキ神」もしくは「金剛蔵王権現」がまつられているところには必ず現れる伝承はなしです。

これは牽強付会もはなはだしいのですがもしも「阿保親王」が「海部氏」の末裔だったと仮定したら・・・、「阿保」は発音しだいでは「穴穂」とも発音でき聖徳太子の母君でもある丹後の間人地方に住んでいたという「穴穂部間人皇后」や住吉大社の祭祀家で海部氏とのつながりをもっていた「津守氏」とも繋がっていたのではないかと考えてみたのですがここでは仮定と受け止めてください。

もうひとつ奇妙なのはなぜに「河内大塚山古墳」が意図的なのか、百舌鳥と古市の中間(しかも今現在も松原市と羽曳野市の市境を分断する形で・・・)にいちしているのか、よく調べてみるとこの古墳が大津道(竹之内街道)と「磯歯津道」(住吉大社から飛鳥への参詣道と思われる古代道)の「辰巳(つまり南東)」の位置にあるのも奇妙なこととはおもわれませんでしょうか。

また「弁財天」は「アラハバキ神」が姿を変えた神でありまた「厳島神社」そのものの「彌山山頂」には「イワクラ」があり「大元尊神」として「国常立神」が祭られていてアラハバキ神とも習合されていたとも聞きます。

さらに布忍神社近くの「大林寺」にはかつて「布忍寺(布忍神社の神宮寺)」にあった「十一面観音」さまが今も現存しており水神とアラハバキ神との接点をもっているのではないかともかんがえられるのではないでしょうか(北海道の江刺町の「小山権現」が「金剛蔵王権現さま」で近くには「十一面観音」さまを祭る観音寺院があり東北各地方のアラハバキ神社では時として「安閑天皇」を合祀しているそうですが・・・)。


[11597]纏向出現フォーラム とみた 投稿日:2013年11月13日(水)17時35分
11月4日、纏向出現東京フォーラムに参加しました。お馴染みのメンバーが壇上で発表され最後はパネル・ディスカションがありました。橿原考古学研究所を定年で辞められ、桜井市のプロモーターをされているお馴染みの寺沢薫さんと、桜井市教委の考古学者橋本輝彦さん九州説は福岡県小郡の考古学者片岡宏二さん、吉野ヶ里に詳しい七田忠昭さん、それと考古学に造詣の深い俳優の苅谷俊介さんでした。
片岡宏二さんの邪馬台国論争の新視点の本はすでに読んでいたので特に目新しい説はなかったけれど、不弥国と投馬国をどう見るかはやはりいつも気になります。最近出された”出雲と大和”(岩波新書)村井康彦さんと東海大の北条芳隆さんの説では、いずれも投馬国は日本海に見ておられる。

村井さんは久美浜説です。丹後の海辺です。
私は数年前、丹後の郷土史家にお会いしたとき、籠神社のある宮津の海部は元来久美浜が本拠と言われました。王莽の新の時代の貨幣、貨泉も出ている。

北条さんも日本海説です。北条さんは山城地域の京都府芝ヶ原12
号墳に注目されています。
前方後方墳ですが、庄内式3様式の倭鏡(四獣形鏡)と銅釧(傘貝の貝輪の模倣品)に関心を持たれています。
この地は、丹波からの道が予想されます。木津川、桂川、宇治川が合流する巨椋池の近くの城陽市です。
丹波から桂川に沿って陸行すれば城陽に着き、さらに木津川沿いに東南行すればヤマトに出られます。
或いは由良川ー加古川のルートからも城陽に通ずるかもしれません。

巨椋池あたりは古代道の交差地点です。

先月奈良への旅の帰りに長岡京、向日町に寄りました。そこは淀川を挟んで八幡市がありました。

ここは城陽とつながる地でして、平城京から発する山陽道、山陰道が交差しています。
向日町は桂川の流れる地です。ここにも箸墓の1/3の規模の元稲荷古墳=前方後方墳があり、オオヤマトの古墳と同じ墳丘のつくり方とされます。前方後円墳の五塚原古墳は、箸墓の1/3の規模で、前方部から埋葬施設・円丘に向かうスロープが発見されました。
いずれも弥生時代終末ー古墳時代移行期ー古墳時代初期の古墳です。

丹後−丹波ー山城−ヤマトの道は、弥生時代終末ー古墳時代移行期の謎を秘めているような気がしております。

この説の難点はどこに有りましょうか。5万戸もある投馬国は日本海沿岸に存在しましょうか。
吉備を投馬国と見る説もありますし、神奈備さんをはじめ皆様はどうお考えでしょううか。


[11596]斎宮の密通 神奈備 投稿日:2013年11月 9日(土)17時26分
 斎宮とは天皇の皇女で伊勢の大神に仕える独身の巫女。
 歴史的には、天武の皇女の大伯皇女に始まり、後醍醐天皇の皇女の祥子内親王で終わる。
 任命されると、宮中から山の入り口の野へ赴き、三年間の謹慎生活を送る。


斎宮の密通


『日本書紀』略天皇三年
 阿閇臣國見が、栲幡皇女と湯人である廬城部連武彦を讒言し、「武彦は皇女を妊娠させました。」と言った。武彦の父はこの流言を聞き、禍が我が身に及ぶことを警戒し、武彦を誘い出して殺した。
 天皇は使者を遣わして、皇女を調べた。皇女は、「私は知りません。」と答えた。皇女は神鏡を持ち出し、五十鈴川のほとりに来て、鏡を埋めてから首をくくって死んだ。
 皇女の腹には石が入っていた。


『日本書紀』欽明天皇二年
 磐隈皇女(夢皇女とも言う)初め伊勢大神に仕えた。後に茨城皇子に犯されたので解任された。


『日本書紀』敏達天皇七年
 菟道皇女は伊勢祠に仕えたが、池邊皇子に奸されたことが明らかになったので解任された。


『伊勢物語』(六十九段 狩の使)在原業平は平城天皇の孫。9世紀の貴族。
 伊勢の国に狩りの使いに行った業平は斎宮と夢のような逢瀬の一夜を過ごす。
 母から遠縁の人だから、「常の使よりはよくお世話をするように」と言われた斎宮は、その通りにこの使に尽くす。すると二日目の晩、男が「どうしても逢おう。」と言ってきた。人目があるので、女は応じるわけにはゆかない。ところが、真夜中になって、女が部屋の前に立っているではないか。男は嬉しくなって、「わが寝るところに率て入りて。」と時を過ごした。女は帰っていった。翌朝女からまた後朝の文が届く。そこには「君や来し我は行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てかさめてか。」と書かれていた。それに対して男は「夢うつつとは今宵定めよ。」と返事してもう一度逢おうとするが、結局その機会もないまま次ぎの尾張の国に旅立たねばならなかった。


花山天皇 寛和二年(986)伊勢齋王済子、野宮において滝口武士平致光と密通の由、風聞あり。


鎌倉時代 通海の『太神宮参詣記』夜な夜な参宮の寝床にクチナワの鱗が落ちていたとの話を聞いた。
 この頃までは アマテラスは雷神にして蛇体とのイメージが流布していたのだろう。斎宮が女ならば、訪れる神は男神である、との幻想を持つ。斎宮は男神を待つ。


性神紀行は神奈備絵馬殿にいくつか掲載していきます
http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs/

[11595]Re: [11594] Re: [11593]Re: 裸の巫女 琉球松 投稿日:2013年11月 9日(土)12時32分
神奈備さんへ

 う〜ん、ちょっと深読みし過ぎだったでしょうかね。
 しかし「やりおったな。」って、男としては十分に理解できます(笑)。

 ところで『古事記』には「咲」の字が使われていますが、「木花咲耶姫」と合わせて考えると、神々が心を開く。。。なんてどうでしょう?


[11594]Re: [11593]Re: 裸の巫 神奈備 投稿日:2013年11月 9日(土)09時02分
琉球松さんへのお返事です。

 アメノウズメのほと出しは、古事記で一箇所、日本書紀で一箇所あります。
 古事記は天岩戸の前での踊りのシーンで、ここは皆さんが笑い転げるためにやっているようです。天照大神が出てきて頂くことは、太陽の光で炭酸同化作用を促進し、結果として豊作祈願となるのでしょうが、そこまで考えてホト出しの意義を思わなくとも、祭りの場に神に降臨して頂くためとしていいのでしょう。

 日本書紀では猿田彦の本音を知るための糸口のようなものでしょう。魔除けに近いのでしょう。

 釆女は地方の巫女がやっているようです。巫女は神と交わりますので、犯してでも交われば、神のおこぼれが頂けるということで、虎視眈々とねらっていたのかも。”乱”というほど大げさなものではなかったのでは。雄略十三年に歯田根命がやっていますが、馬八匹と太刀八本を差し出して償えるものだったようです。
 雄略天皇にしてみたら、「やりおったな。」という程度の話だったのでは。



[11593]Re: 裸の巫女 琉球松 投稿日:2013年11月 8日(金)15時00分
 神奈備さん、やはりアメノウズメに行き着きそうですね。

 しかし、疑問が一つ。。。
 沖縄島の一部には「ワライキヨ(笑い神=巻貝の開口部?)」と呼ばれる神が海から上陸するんですが、この神は世を再生平和にし、豊作と安定をもたらします。
 つまり「わらい」は、いわゆる「笑い」だけの意味ではないわけで、アメノウズメのホト丸だしで神々が鼻の下を長くして笑い転げる。。。みたいな解釈は短絡的ではないかなと考えるわけです。

 琉球圏的には、女性のホトは再生と鬼退治(鬼さえも善に転換させる)の聖なる部位ですし、アマテラスを岩戸から呼び戻し再生を助ける最終手段と解釈できますね。
 この采女を犯すということは "乱" を招きかねない天津罰なのでしょう?

 それと、八幡古俵神社の神功皇后と裸の豊玉比売なんですけど、豊玉比売の乳房の発達具合からすると、この場合の彼女は13歳でしょうかね


[11592]裸の巫女 神奈備 投稿日:2013年11月 8日(金)14時10分
「神社伝承」和歌山県日高郡川辺町江川 丹生神社の笑い祭
 この奇祭は和佐地区に古くより伝わる祭事であり、県指定無形民俗文化財を受けている。
 神々は10月に出雲に行くが、ここの水の女神は昼寝で遅れてしまったので、あわてて腰裳一枚で走ろうとしたが、神木にひっかけてはずしてしまった。それを氏子達が声を揃えて笑い騒いだ。それで女神は恥ずかしがって、一年の豊富な水を約束した。

 これは豊作儀礼であり、昔の巫女達の裸祭りが変形したものとされている。


『古事記』天照大神を天石戸からお出まし頂くの段

 天宇受売命(アメノウズメノミコト)、天の香山の天の日影(ヒカゲ)を手次(タスキ)にかけて、天の真拆(マサキ)を鬘(カヅラ)として、天の香山の小竹葉(ササバ)を手草(タグサ)に結(ユ)ひて、天の石屋戸にうけ伏せ、蹈(フ)みとどろこし神懸(カムガカ)りして、胸乳(ムナチ)をかき出で、裳緒(モヒモ)をほとにおし垂れき。

 これは、神降ろしの神事であり、氏子達が笑い騒いでいる場所を神は好まれる。


『日本書紀』(雄略天皇九年)
 凡河内直香賜と采女を遣わして胸方神を祀らされた。香賜は神域に行って、今にも神事を行おうとする時に、采女を犯した。
 采女とは、神および現神(天皇)に仕える巫女で、貢いだ国々の至上神に仕える最高の巫女である。

 香賜と采女とは長い旅をしてきて、何故、祭りの寸前に采女を犯したのだろうか。慎みの期間は香賜をして禁欲を強いて来た。これが、裸の采女を見て、頭に血が上ったのだろう。おそらく、祭りの後なら、殺されることはなかったのだろう。

 釆女との姦通で殺された例はこれだけが『日本書紀』の記事である。


『日本書紀』(雄略天皇十三年)
 木工の猪名部眞根は石を台にして、斧で木を削っていた。終日誤ることはなかった。天皇は「いつも誤ることはないのか?」と問われた。眞根は、「決して誤ることはありません。」と答えた。そこで天皇は采女をフンドシ姿にして、相撲をとらせた。眞根はそれを見ながら削ったが、斧を石に当ててしまった。


『日本書紀』(仲哀天皇九年)
 皇后は自ら神主となり、武内宿禰に命じて琴をひかせ、中臣烏賊津使主を審神者(さにわ)とした。
 『住吉大社神代記』皇后と住吉大神との間に密事があった。俗に言う「夫婦之密事」である。

 御子神を儲けた女性は、神母(或は人母、聖母とも云う)と称して特に崇敬を受け、往々神として祭られた。九州には聖母神社が10社以上鎮座している。祭神は神功皇后。また、高知には神母神社が30社以上鎮座している。中でも、長岡郡長岡村大字陣山小字神母の神母神社では、今でも性神(セックス・ゴッド)として知られている。なお、神母は「いげ」と読まれる場合が多い。隣の阿波では大宜津比賣神であるが、大宜は伊気と変わったのではなかろうか。


『日本書紀』(舒明天皇八年) 釆女 釆女を奸せる者を悉く糾弾し罪に処す。




[11531]裸の女神 神奈備 投稿日:2013年11月 7日(木)19時43分
『丹後国風土記』(逸文) 奈具の社
 比治山の真奈井に天女が降りてきて水浴びをしていた。老夫婦が一人の衣装を取った。天女は天に帰れず、一緒に住むことになった。この天女は豊宇賀能売命である。

『近江国風土記』(逸文) 天の八女が白鳥となって降りてきて、水浴をしていた。伊香刀美は一人の天女の羽衣を取った。帰れずに夫婦となった。後に見つけて天に帰った。子ども達は伊香連の祖となった。

『駿河国風土記』(逸文) 三保の松原の伝承。

 各地にこのような天女伝説が残っている。天女即ち女神の降臨のシーンと言える。姿は裸である。




[11530]裸への羞恥心 神奈備 投稿日:2013年11月 6日(水)19時19分
裸への羞恥心は記紀万葉が書かれた時代ー奈良時代前後ーはあったようだ。しかし江戸時代の終わり、各地に外国人がやって来て驚いたことの一つに、日本人は裸への羞恥心を持っていないということだった。混浴は当たり前、風呂あがりには、そのままの姿で家まで歩いていく。だれもなんとも思わなかったと言う。極端な話だが、京から大坂へ裸のまま歩いた武士がいたという。奈良時代から江戸時代までの間に、世の中が千々に乱れた戦国時代などがあり、羞恥心が失われたのではあるまいか。
江戸時代の湯屋


[11588]中山太郎 『日本巫女史』から 神奈備 投稿日:2013年10月27日(日)20時33分
 壱岐の「ヤボサ」については、さきに複藤守一氏が「考古学雑誌」に写真を入れて記載されたことがあるので私は後藤氏から写真の種板の恵与を受くるにともに「ヤボサ」の墓地であること−−しかも原始的の風葬らしい痕跡のあることまで承っていたことがある。しかして更に近刊の「対馬島誌」を見ると、矢房、山房、氏神山房、天台矢房、やふさ神などの神名が、狭隘な同地としては驚くほど多数に載せてある。また「日向国史跡報告」によると、同国に産母神社をヤブサと訓ませたものが見えている。さらにこのことを琉球出身の伊波普猷氏に話したところ、琉球には「薮佐」と書いた地名があると教えてくれた。
 私ははなはだ早速であるが、これらの神名や地名を手掛かりとして、この「ヤボサ」信仰は、古く壱岐・対馬・日向・琉球へかけて一帯に行われたもので、しかもその信仰の対象は墓地であって、すなわち祖先の霊魂を身に憑けるということが信仰の起原であろうと考えてみた。しかしてその霊魂を身に憑けるとは、後世の巫女が好んで墓地の土で呪術の源泉としての人形を造ることの先駆をなしているのでは無かろうかと想像してみた。巫女の持てる人形の造り方や、それの材料や、この種の人形が如何なる呪力を有していたかについては、後章に詳述する機会があるので、ここには余り深く言うことを避けるとするが、とにかくに墓地の土−−殊に祖先を埋めた土には、祖先の霊魂の宿っているものと信じて(後世になると支那の巫蠱の思想や呪術の影響を受けているが)それを所持し、憑き神として呪術はこれが教え示すものと考えていたのではあるまいか。「神武紀」に椎根津彦と弟猾(折口氏の高示によると弟猾は女性だとある)の二人が、天香山の土を取って天ノ平歪を造りて戦勝を祈ったのも(この呪術については第四章第四節に述べる)、香山は古く墓地であったので、殊にこの山の土が択ばれたのではなかろうか。産土の語原については昔から異説があるも、民間語原説
ではあるが『産れた里の社の土』という説も、決して軽視する事は出来ぬのである。こんな事を種々と想い合せると、古代の巫女の憑き神は、祖先の霊魂であって、しかもその霊魂は祖先を埋めた墳墓の土で象徴されていたように考えるのである。

画像です。壱岐の矢房です。墓です。

[11585]Re: 出雲の人脈 かたばみ 投稿日:2013年10月16日(水)23時42分
書紀は素盞鳴尊の娘の須勢理姫への入り婿の大己貴命(原型は大穴牟遅神)を以て国譲りの人物とした。
大国主命の国譲りを七世代も前の大己貴命へ移動したわけです。
少彦名命の協力でこれからの国作りを考えている人物が国譲りするか?
古事記サイドはおおあわて(^^; なんだなんだどーしよう。

しつこいけど・・
古事記「大国主命」のお話としての「兎と鰐」では大穴牟遅神と書いてある。
八十神との争いは先住者との紛争。大己貴命は海人、どこかに海人が上陸しての伝承がベースでしょう、
須勢理姫と出会って結婚するとき素盞鳴は婿殿をいろいろと試す。親父としてありえる話。
このとき突然に(大穴牟遅)は我は葦原色許男なりと名乗ってるけど・・古事記さんも困ったもんです(^^;

で、婿入りOKとなったときに素盞鳴は大穴牟遅に大国主命ないし宇都志国玉の神となれ、といった。
はああ?? (^^;
大国主を出雲族長の総合尊称と解することもできるとは思いますけど。

古事記の天若日子のお話・・これは単純です。
最初の部分の「大国主の神の女の下照姫」とあるのを「大穴牟遅(大己貴)の神の女の下照姫」とするだけでよい。
素盞鳴〜天之忍穂耳渡来の間、40年ほどでのお話であって無理がない。

古事記の国譲りでは大国主の神のみ。ぶれはなく内容も天照大神の命で武御雷男の神が登場するだけ。
書紀の国譲りとは違って経津主命は登場せず単純。
書紀の神々の指示によるという内容を追加して書いているだけとみます。

古事記伊弉諾尊の神々の生成の話ではまずは「自然神」が生まれている。森、山、海、土、火、水・・
ここに武御雷男の神または武布都神または豊布都神という祖先神っぽい神が登場する。
天照大神や素盞鳴尊の誕生より先に、です(^^; 書紀の創作追加を古事記が受けたものとみています。

経津主命は矢作連の祖(その名からは物部系譜か)。
武甕槌命は系図綱要/太田亮によれば川原氏の祖とされる。
自然神を祖先とする氏族はないはずで、後世にその神を祖先とみなしたのでしょう。

古事記の系譜でゆけば大国主と神武の年代差は祖父と孫程度。
神武は神話世界じゃない、この時代に高皇産霊尊や天照大神が登場して武甕槌命や経津主命が降臨する。
書紀はいろいろを神格化して神代にセットしたけれど、無理がある。
古事記も習合させるのに大変だったでしょうけど、読む方もたいへん(^^;


経津主命、フツ・ヌシと分解しておきます(フ・ツまでゆけるかもしれないけど)。
フツのヌシです。フルも類似かもしれない(降フルかな)。
布都あるいは経津フツをフツリと斬る音だとか剣をフツと振り下ろすだとかがあるけど・・馬鹿馬鹿しい200% (^^;

古事記での布都神を経津主命とみるなら、古事記では武甕槌命と経津主命は同一神となります。
建と富、武力と豊穣の相反する名を冠するのはなぜか。

フツあるいはフとは「神の意志」のこと、と考えています(巫は漢音でブ、呉音でム)。
布都神とは神の意志を伝える者、巫者、祭祀者、託宣を行う者、その神格化。
事代主命も巫者、雄略紀の葛城一言主も同じくでしょう。
名前読みで経をフないしフルと読むのがあるけどどこからきてるのかな? 経過とか通過するの表意文字。

剣は、戦えという神の意志を表す託宣であって神の意志のひとつにすぎない。
だから豊布都神もある、こちらは農耕祭祀での託宣の場合でしょう。

書紀は巫者(祭祀者)を神格化して迦具土命から生まれたとして経津主命を追加した。
書紀は戦えという神の意志を伝える部分だけを取り出して武神化し、やはり迦具土命から生まれたとして武甕槌命を追加した。
古事記の建御雷男神は書紀に準じて追加されたもので、祭祀者を意味する布都神が原型であろうと考えています。
(出雲国造神賀詞に布都怒志命が登場します)

祭祀者の託宣、戦いはやめよがあり、大国主は諸般の状況を判断してそれに従った。事代主も従った。
建御名方は反発して従わず、逆らった罪で諏訪に追放。後の村オサの全国集会にも出席を禁じられた。
実際の国譲りは現実的なものであり神様などとは無関係。
書紀はそれを神々の意志によって天孫が受け継いだとして、いろいろを付け加えて神話化しているわけです。
ロマンはなくなりますけど。


香取神宮縁起(経津主命)は神武天皇18年とありますが、年代的には正しい(^^;
香取神宮の源流は豊城入彦命か鐸石別命に随伴した祭祀者が祭祀を行ったことにあると考えています。
農耕などを含めた総合祭祀であって、武はその一部にすぎない。
碓氷峠の東にある咲前神社の建御名方命と経津主命が戦った縁起は、実際には建御名方命(+千鹿頭)の子孫と豊城入彦命あたりが戦ったことにあって、後に置き換えられたものとみることができるでしょう。

常陸国風土記の板来に崇神時代に建借間命がやってきたとあり、那賀の国造の祖、詳細が書かれて武人です。
古事記の手研耳暗殺での神八井耳命の子孫の一人に常道の仲の国の造が書かれています。
建借間命は神八井耳命の子孫とみてよいでしょう。ただしこちらは武人としての子孫。
鹿島神宮(武甕槌命)の源流はこれであろうとみています。
(あいにく香取神宮は下総側で常陸国風土記には書かれていない)

鹿島神宮(香島)と香取神宮の源流には神八井耳命の子孫の手による祭祀という共通項がありそうです。
(下総の戦国大名千葉氏は多臣族の分派の説があるようです)
このあたりには書紀編纂時代での中臣さんの影響がちらほら・・(^^;

天武持統の頃に蝦夷との抗争で強力な武神が必要になっていたのだと考えています。
では、書紀編纂以前に武神は存在しなかったのか。
出雲文化圏では瑯邪八主の兵主(蚩尤)でしょう(開化崇神以降では穏健な出雲系の神に置換される)。
天孫系譜では手力雄命だと考えています。
こちらはもっと強そうな神様に・・そこで雷鳴鳴り響く武力専門の武甕槌命が登場。

平成祭りデータCD/神社庁によれば手力雄命(天之手力雄命)を祀る社は全国に多数分布しますが、分布に特徴があります。
東北では秋田に多くこれは大彦命と関係あるか。
長野にも多い、豊城入彦命に関係あるか。
東京湯島の湯島神社(湯島天神)は雄略が手力雄命を祀ったことを縁起としています。

おしまい。




[11534]『出雲と大和』読了  PONTA 投稿日:2013年10月15日(火)19時38分
惣社に大国主命が祀られている理由は、「惣社に大国主神(大己貴神)を祭ったのは、大国主神を国土開発や治国の理想とした国司たちであったと考える。受領として任地へ下向する際、自身が抱くその信仰をもちこんだのである。むろん当初は、一国内の神々に加えての「併祀」であり、「相殿」に祭られたものであろうが、いつしか大国主神が主祭神とされるに至ったのである。」だそうです。そりゃそうだ。国司以外に考えられない。

一宮に大国主命が祀られている理由は書いてありませんでしたが、読んでみると、国造から国司への交代は、「国譲り」であるので、大国主命の心境とシンクロしちゃって祀ったのかなと。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11533]Re: 出雲の人脈  かたばみ 投稿日:2013年10月14日(月)15時10分
スサノオは渡来時に10才あたりとみるなら天之忍穂耳渡来時で50才、天孫降臨で60才あたりか。
スサノオの渡来の目的は箕子朝鮮再興の力を得るためと考えています。
そこに思わぬ邪魔がはいって、激戦のさなかに伽耶へ引退した。
記紀はこれを素盞鳴尊の追放として書いたわけです。

魏志韓伝に箕子朝鮮からの脱出者が韓を名乗るとありますが、まだ国は作っていないとみえます。
スサノオの後裔は伽耶を建国した。スサノオは場所は違うけれど一応の目的は達成した。
参考図1 箕子朝鮮(後に衛氏朝鮮)を除き、半島での最初の国家が伽耶だと思います。

そして呉楚七国の乱からの脱出者のひとりが新羅(辰韓)の祖の赫居世(即位BC57)の祖として「降臨」する(秦の末裔とみる)。
このあたりは日本での出雲と天孫の登場とほとんど同じ。
また、伽耶と出雲、新羅(辰韓)と天孫は同じグループであり、友好関係にある。

曾尸茂梨も当初の伽耶のどこかにあったと推定。
ちなみに牛頭山の呼称は山の形からでどこにでもあります。伽耶では伽耶国立公園のどれかの山でしょう。

伽耶で鉄鉱石が産出したかどうかわかりませんが、少なくとも北朝鮮では鉄鉱石が採れます。
北朝鮮は箕子朝鮮の地域でもあり、これが紀元前後とみえる伽耶の鉄生産につながっていると考えています(馬山の城山貝塚)。
製鉄技術の情報は中国からだろうなあ。始皇帝系譜のだれかが運んだとみるところ。
(新羅や百済の鉄生産はAD300頃ではるかに遅い)
後に伽耶からの製鉄情報が出雲の鉄鉱石の国内探査を行わせ、釜石の餅鉄発見につながっていると考えています。
(褐鉄鉱や砂鉄製鉄の技術はまだない、鋼の武器輸入も早くても後漢時代、神武時代か)

情報が乏しい。韓国も日本の大和王朝への偏りと同じく新羅に偏る意識だからだと邪推(^^;

蘇民将来伝承が日本に広く存在しますが、源流は伽耶でのスサノオの行動にあると考えています。
飛鳥奈良時代以降の半島渡来人が日本で広めたものでしょう。
参考図2 東京千住の素盞雄神社の天王祭では蘇民将来の子孫なりという旗を立てています。
御輿の担ぎ棒が2本だけでうんと長く、左右に激しくゆすりながら担ぐことで有名です。
参考図3 同様の女御輿。氷川神社系の女体社≒夫婦神の流れが重なっているか。


素盞鳴尊系譜(出雲神族)と天之忍穂耳系譜(+アマテラス)の壮絶な戦いが100年以上にわたった。
それが先の弥生北九州の戦死者、国譲りどころじゃない。
出雲神族に興味深い名の人物が三人います。
深淵之水夜禮花の妃の天之都度閇泥、天之の尊称がある。
淤美豆奴の妃の布帝耳、耳の名がある。
そしてその子の天之冬衣。

激しい戦いの中、なんとか和平を求めるための政略結婚がおこなわれていた。
淤美豆奴に天孫系譜の血が混じり、天之冬衣に至って族長が天之を冠した。
この流れが大国主での国譲りと神武の和睦につながっていると考えています。


書紀は大国主と神武の国譲りを美化し、天孫降臨時代(BC150頃)の事象へ繰り上げて神話化した。
天孫降臨時の出雲側の族長を大己貴命としてこれを国譲りの該当者とした。
そして、これ以降に出雲は存在せず、支配者は天孫のみであるとした。
書紀は出雲系譜を書いていない。
ただし書紀一書に大己貴命の子として事代主命が書かれる。神武の妃の媛踏鞴五十鈴媛とのつなぎをとるためでしょう。
ましかし、古事記がはっきり大国主までの系譜を書いてるからなあ。これをつぶさないと世代がめちゃめちゃになってしまう(^^;

古事記は書紀の設定に準じて書き換えられたが、素盞鳴尊以降の系譜は残した。
世代数との矛盾を回避するために「別名」なる手段を使った、回避にはなってないけど(^^;

出雲国風土記は書紀に準じて改変されたもので信頼度は低い(各地の出雲関連事象を転載追加している)。
編纂完了が他に比して20年も遅い、書き換えに時間を要したためと推定。
豊後国、肥前国風土記も同様に編纂完了が20年遅い。内容も書紀に準じているだけ。
(原本のありようにも疑惑があるようで、このあたりは「風土記/岩波書店」の校注によります)
ただし大穴持神と明記される事象については山陰に残る伝承に基づくと考えています。
(常陸国風土記は出雲とは直結しないために書き換えはなく信頼度は高いとみています)


大国主に至る系譜の途中に淤美豆奴の兄弟として赤衾伊努意保須美比古佐倭気が書かれます。
やたら長い名前ですが赤衾・伊努・意保須美・比古・佐・倭気と分解するかな。
赤い着物・稲・イホスミ・彦・サ・別。

イホスミが本体でその他は修飾。サは早乙女とか早苗のサと同じで、めでるとかほめるの意。
別ワケは分家の意、サ・ワケですばらしき分家、と解しておきます。
これらの修飾には書紀風味を感じます、後にまで有名でなんらかの記録が残っていたのではなかろうか。
(鳥鳴海神の系譜の神名にも書紀風味を感じる)


この時点では本家は淤美豆奴系譜ですが、イホスミの系譜が瀬戸内を東進して奈良に入り、後に出雲の最大版図を作るに至ったと考えています。それがサ・ワケの意です。
その系譜は残らなかった、北九州から離れたために記録がなかったのでしょう。
その最後が大物主命で、途中で部分的に残った伝承が八千矛神や葦原志許乎だと考えています(大国主の別名にされる)。


大阪湾の北部にも戦死者があります。
大阪の山賀遺跡(BC100頃とされる)、大阪の雁屋遺跡(BC50頃とされる、以下同じ)、大阪の勝部遺跡(2体)、兵庫の玉津田中遺跡。
これは先着していた初期開拓者と東進するイホスミ系譜の抗争によるとみています。

なお、本家の淤美豆奴も北九州でなんらかの業績を残した人物と考えています。
それが出雲国風土記の最初に国引き神話の八束水臣津野として記載される理由でしょう。
ま、国引き神話の源は北九州のどこかの事象を出雲国風土記に転載したものと思いますけれど。

この頃の北九州はなにかと大忙し、出雲系譜が島根に関与する必然性はない。
ただし味耜高彦根の後裔は別です。
海運者であるなら島根半島の日御碕神社や美保神社付近の港を利用するはずで、そこにその伝承が残る可能性があります。


大国主命は奈良盆地開拓成功などの状況を知っているがゆえに北九州を神武に譲った。
だが、後にこれが致命的となります。
神武朝とは良好な関係で問題なかったが、孝の字朝となって北九州〜伽耶の交易ルートを失うことになった。
鉄の入手も困難を極めるようになります。
神武朝以降での対外交易は大己貴時代の鬱陵島から高句麗ルートしかなくなってしまった。

釜石の餅鉄は農耕具用であって武器に使う鋼鉄の生産はまだできない。
荒神山遺跡の大量の青銅剣(薄手の造りとみえる)は弥生末期でも鉄剣がなかったことの証と思います。


さて、国譲りのときに武甕槌命と経津主命が登場します。
これについて若干を後ほど。




[11532]Re: 出雲の人脈 琉球松 投稿日:2013年10月12日(土)10時42分
かたばみさんへ

 『古事記』に記されている「大国主命」とは、北部九州の女王国連合側がつけた名ではないでしょうか?
 いわゆる「国譲り」が、邪馬台国による出雲(クナ国の一つ)との連合工作だとすれば、その穏健派?のリーダーを讃える必要があるわけですから、縁結びの神としての最大級の尊敬を表現していると解釈できますし、勝っただの負けただのの関係とは思えない。

 そう仮定すると、「大己貴命・大穴持命・大汝命・国作之大神・国堅大神」などは、「少彦名命」の協力のもとに栄えた弥生時代黎明期の名残りではないかと思うんですよ。「少彦名命」はほとんど誰も知らないほどに古い神ですね。
 しかし、稲作など農耕の発展に伴う水争い土地争いなどの "乱" で、「葦原醜男神」のような "醜い社会" に陥っていった時代の名も登場したのかも。。。「少彦名命」は常世国に帰ってしまいます。
 さらに、三輪山の「大物主」や「伊和大神」は、女王国連合体の崩壊(ホトを突かれての死)。。。つまりは男性主導の社会の復活を試みた、出雲強硬派?の復興のような意味合いがあるのかもしれません?

 まあ大雑把ですが、出雲神の名は「小銅鐸(平和)→ 大銅鐸(乱)/ 貝輪(沖縄=豊玉姫&玉依姫)〜銅鏡(神武+アマテラス)/ 円筒埴輪(イリ王朝)」の歴史とも重なる4つの時代の移り変わりを解くヒントになり得ると考えますね。


[11531]出雲の人脈  かたばみ 投稿日:2013年10月11日(金)19時59分
素盞鳴尊〜大国主命、天之忍穂耳尊〜神武。
古事記と書紀の描く出雲の人脈を歴史として考えてみます。

参考図1 出雲神族系譜をビジュアル化した図です。
ただし、スサノオは箕子朝鮮崩壊時に渡来した人物、天之忍穂耳は呉楚七国の乱から脱出してきた人物、という前提がまずあります。
その前提での古事記と書紀が行った改ざんを考慮しての系譜です。

書紀の国譲りでは各一書が共通して大己貴命。
古事記では相手は大国主命ですが別名がいろいろ登場。
上紀では出雲建国ではオオナムジであり、国譲りではオオクニヌシ。内容はやたら詳しい(^^;
ここもオオクニヌシの別名とするものが多数登場。
先代舊事本紀は書紀の記述に準じているが、大己貴命を櫛稲田姫の子とし、八島士奴美や大国主命の別名としています。

さーてどう考えますかなあ(^^;
素盞鳴尊以降の系譜を明確に書く古事記を信ずるなら、少彦名命との国造は大己貴命(あるいはオオナムジ)であって大国主命ではない。
国譲りからみるなら大国主命が張本人であり、大己貴命は書紀がそう書いているだけ。
(書紀に大己貴命と須勢理姫の子が事代主命なんて記述があるけど、神武の妃の媛踏鞴五十鈴媛につなぐためでしょう)

古事記は国譲りが大国主命であると認識している。
しかし、書紀が国譲りを天孫降臨時代としたために、古事記はそれと矛盾しないように大国主命に多数の別名があるとして相違を回避した。
同時に国譲り以降では出雲の存在はないとする書紀に準じて、大国主命以降に登場する出雲の人物もみな大国主命の別名とした。
古事記では異なる人物の事象がみな大国主命であるかのごとくになってしまうわけです。

上紀も先代舊事本紀も記紀の影響下で自前の情報を加えて編纂されたと考えています。
編纂者が記紀をどのように解釈して編纂したか、それによって内容の配置や構成が違ってくるでしょう。

すべての書に共通するのは少彦名命の出雲の国造への協力です。
これから「拡大しようとする国」の運営をいっしょにやった事象と思います。
これは国譲りする時代の人物の行動ではない、すなわち出雲建国時代であり、素盞鳴尊の直後の事象と考えるのが妥当と思います。

書紀のいう大己貴命が国譲り、は嘘。
国譲りは大国主命であり、書紀はこの事象を大己貴命時代に繰り上げて書いている。
書紀の編纂目的、すなわち天孫降臨以降に出雲は存在しない、天孫は唯一の支配者である、によるもの。
その他の書はこれに準じて矛盾の解決のために大国主命に多数の別名があるごとくとした。
別名に惑わされてはならない・・(^^;


では、書紀がすべての一書で共通としている大己貴命とは何者か。
大己貴命の名は書紀が創作したものと思います。
だが原型がある、大穴持神がそれだと考えています。

出雲国風土記の信頼性は低いとみていますが(^^; 大穴持神と神名が明記される事象については事実がベースになっていると考えています。
畑作の民族/白石昭臣/雄山閣に山陰の農耕などの風習や伝承がいろいろ書かれています。
出雲と石見の堺に佐比売山があり、後に三瓶山に改称されています。
穀物の佐比売伝承など貴重な情報が少なからず記録されていて、三瓶山は霊場のごとくです。
(あいにくこの本は現在入手不能みたい)

魏志韓伝高句麗に「その国の東にあって大穴、名を隧穴という。10月に国中がこの神を迎える」。
高句麗の東、鬱陵島があり大穴が観光名所になっています。おそらくはここでしょう。
しかし、このような小さな島に神とみなせる文化が生まれることは考えられない。

しかし、記紀とつき合わせると見えてくる・・大穴持神、大穴牟遅神、大己貴命。
参考図2 この神が海人であるなら宗像、鬱陵島、山陰沿岸はよい拠点になる。
その海人が東シナ海から中国の最新文化も運んでいたなら・・神様扱いになって不思議はない。
日本でも。
大己貴命と大穴牟遅神と大穴持神は同じ海人系グループ。活動地は九州北岸から山陰の沿岸域でしょう。


スサノオは船が得意とはいえず、須勢理姫の婿養子に優れた文化を持つ海人が入ってくれればおおいに助かる。
それが大己貴命、宗像三女神の多紀理毘賣を妃にするのは必然のなりゆきです(須勢理姫は嫉妬するでありましょう(^^; )。
生まれるのが味耜高彦根命と下照比賣。当然ながら時代の100年以上異なる大国主命の子ではない。
おそらくは味耜高彦根命の子孫は海運に従事であろうと思います。
ここまではBC190〜BC150での事象といったところです。

スサノオ渡来から40年、呉楚七国の乱から天之忍穂耳が渡来する。
天之稚彦はその偵察隊かなあ、下照比賣を妻とする。大己貴命の孫かもしれない。
天之稚彦死して容姿がそっくりという味耜高彦根命が登場。
天之稚彦命が東シナ海域の住人であり、大己貴命も同様なら容姿が似ていることもあるでしょう。


参考図3 弥生の北九州の戦死者の出土数をイメージ化した分布図です。
国立歴史民族博物館の1996の展示会資料によります。一番小さいどくろが1体、一番大きいのがおおよそ10体以上。
この資料では黒どくろをBC300〜BC100頃、赤どくろをBC100頃、白どくろをBCゼロ頃としていますが±50年の誤差は優にあると思います。

甕棺に残る骨だけ、残らない戦死者は10倍どころではないでしょう。負傷者はさらにその10倍かな。
ある集団が10%の戦死者をだしたらその集団は労働力を失って崩壊する。
なぜそのような激しい戦いが広範囲に生じたのか。

王の意識を持つ者が命令する戦いだったから。スサノオ系譜と天之忍穂耳系譜の戦闘。
広域を支配する故に集落の崩壊などは気にしない戦いです。

最初の抗争はスサノオとアマテラス。
ここでいうアマテラスとは縄文に海神族(長江三苗)の最新文化と遠賀川系の農耕文化が加わった人々、最初の稲作の人々。
神話でいう素盞鳴尊と天照大神の葛藤がそれを示す。

軍事力を持たないアマテラスは圧倒されて阿蘇山中の天の岩戸へ隠れた。
そこへやってきたのが天之忍穂耳、アマテラスを支援してスサノオ勢力との激戦となる。BC150以降。
で、天鈿女命や手力雄命がアマテラスを助け出した。

長くなりました、いったん段落。






[11520] Re: お久しぶりです!  神奈備 投稿日:2013年10月11日(金)13時55分
PONTAさんへのお返事です。

> 最近は金欠で、まともな活動は出来ていません。
> 伊勢神宮の式年遷宮へも交通費が無くて行けなくて・・・20年後か・・・
>
 20年を平然と待てる、若さ、ですね。東京オリンピックすらどうかいな・・・

さて、一宮ですが、玄松子さんのサイト

http://www.genbu.net/engi/1miya.htm

一宮は、恐らく 平安初期にその実が備わり、同中期から鎌倉初期までに逐次整った制と 考えられる。それは朝廷または国司が特に指定したというものではなく、 諸国において由緒の深い神社、または信仰の篤い神社が勢力を有するに 至って、おのずから神社の階級的序列が生じ、その首位にあるものが一 宮とせられ、そのことが公認せられるに至ったもののようである。
引用終わり。

上記のサイトの神社を見ていきますと、大国主神が一宮の祭神となっているのは珍しいケースのようですね。
おっしゃるように、その地方を開拓した神が国魂神として祭られる場合、まとめて大国主としてしまう場合があっても不思議ではないと思います。大和朝廷云々と言うのは、いかがでしょうか。祭祀の場合、影響力があったのかもしれませんが・・・。




[11519]お久しぶりです!  PONTA 投稿日:2013年10月10日(木)21時48分
最近は金欠で、まともな活動は出来ていません。
伊勢神宮の式年遷宮へも交通費が無くて行けなくて・・・20年後か・・・

今は学校帰りに図書館で本を読む毎日です。
今日は出雲神についてちょと考えてみました。
アドバイスいただければ幸いです。

http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-379.html

[11518]Re: [11514]Re: ツツについて  神奈備 投稿日:2013年10月 8日(火)15時10分
くずさんへのお返事です。

> で青臭く色々書きましたがツツコワケ アジスキが繋がる可能性はあると見ます。

 そういう感じがしてきますね。

 宇陀や葛城を散策していますと、古代を身近に感じます。特に、鴨一族が居たであろう、風の森から高鴨神社、葛城御歳神社、鴨都波神社、一言主神社などの一帯は、特にその想いが強く感じます。

 天稚彦は高天原からのお遣いですから、米の神と言えるかも知れません。そうしますと、米の収穫が天稚彦の死で現されることになります。
 米の収穫が終われば、北から鴨が渡って来ます。鴨は麦作の守り神とされたのでしょう。
 迦毛の大御神である阿遅須伎高日子根命が登場します。

 炭化麦は縄文後期(福岡県四箇遺跡)、弥生前期(横浜市)から出土しています。

 おっしゃるように、迦毛の大御神の時代があり、次ぎに米の時代(天照大御神)が来たのかもしれません。



[11517]Re: [11513]Re: ツツについて  かたばみ 投稿日:2013年10月 8日(火)11時06分
神奈備さんへのお返事です。

> 航海では、船出、途中、着港の三つの難関があるとされています。これが、底、中、上となったと言うのはいかがでしょうか。

いろいろな三つがありそうですが、それが神様になりえるかどうか、ですね。
例えば船霊様が三人というのはまずないと思います。一つの航海全体を守る神様。
オリオンの場合は三つ星がワンセットの神様であって、それをビジュアルに上中下と称するのはなりゆきとして自然と思います。
大阪から西へ沈むオリオンだと三つ星は水平近くになりますね。

書紀神産みの一書の8では、粟門と速吸名門で禊ぎをしようとしたが潮が速くて橘の小門で禊ぎしたとある。
粟門は鳴門海峡、速吸名門は豊予海峡かな。一書の7では橘の小門は筑紫の日向とある。
ここで生まれるのは、磐土命、次に底土命、次に赤土命。上中下とは違う。

土の種類をいってるとみえ農耕関連の神様じゃないかな。
農耕発祥の地でのこととみるなら橘の小門は遠賀川の河口付近を示すか。
赤土は具体的、西日本全般に存在する「赤黄色土」の土層じゃないか。農耕に適した土のようです。

書紀は綿津見の神(海域)、筒の神(オリオンの三つ星)、土の神(土質)、三種をまとめて書いているとみえます。
古事記は底筒男で書紀と同じ筒の文字を使ってる、これは書紀からの追加転記だろうと思ってます。
古来からの三神伝承は綿津見の神(阿曇氏の神)だけで、これに住吉三神と農耕の三神が書紀編纂時代に加わったのではなかろうか。




[11516]Re: [11513]Re: ツツについて  琉球松 投稿日:2013年10月 7日(月)09時32分
神奈備さんへ

 " 航海では、船出、途中、着港の三つの難関・・・これが、底、中、上 "
 これはちょっとワクワク感あります。

 奈良盆地を南北に走る3本の古道(底ツ道・中ツ道・表ツ道)は、それぞれ西側、中央、東側となっていますから、オリオン座の3星の並びと関連づける考え方は正解かも? 古代倭人にとっての「日の縦し」は上下ではなく東西線ですしね。

 日本列島や朝鮮半島の古墳の「太陽の船」を見るまでもなく、太陽は東の海から鳥に先導された船に乗ってやって来るとの観念は、島で育った者にとっては実感に近いものがあります。
 また、エジプトの太陽神(たぶん女性)を描いた壁画の一部には、この女性の性器(東の海底?)から太陽と星が生まれ、口(西の海底?)に回帰するようで、そこでも船が走っていますね。幾多の難所を乗り越えて進むのでしょう。


[11514]Re: ツツについて  くず 投稿日:2013年10月 3日(木)23時32分
>神奈備さん、かたばみさんへのお返事です。
>
>  ツツは星というのは、賛成です。

同意します。
御伽草子、天稚彦をオリオン座とする説
http://www.astronomy2009.jp/ja/project/essay/DSP02.pdf
中世にそのような見方があった。

また天稚彦と阿遅鋤高日子根神がそっくりだったということで、本来同一の神であったとする説。
倭国はいくつものクニの集合体で、もとは同じ神がクニごとに変わっていた可能性。

阿遅鋤の鋤は唐鋤星オリオンの鋤に思っています。
鴨の王、大御神の称号はアマテラスの太陽神格の前にあった機織姫と対になるもので、
最古の歌謡『夷振』にそれが歌われる。


七夕祭が行われる夜明けの晩、深夜を過ぎ夜明け前にはオリオン座が昇ってくる。
亀がオリオンで機を織る鶴は白鳥座。
西に沈む織姫星の後ろ正面にオリオン座
国を統べる最高神アマテラス=織姫に対する倭国時代の真の大神・・・・なのかも

オリオンと対になるおうし座、
ヒアデス星団のV字を鴨(雁)の飛行編隊にみたてたカリマタという呼び名があります。
鴨の王の所以かと

で青臭く色々書きましたがツツコワケ アジスキが繋がる可能性はあると見ます。




[11513]Re: ツツについて  神奈備 投稿日:2013年10月 2日(水)16時13分
かたばみさんへのお返事です。

> さて、この構図からは底とは日本海、中とは瀬戸内、表とは太平洋を示すという可能性が見えます。

航海では、船出、途中、着港の三つの難関があるとされています。これが、底、中、上となったと言うのはいかがでしょうか。

> 参考図1 対等となる住吉三神とはすなわちビジュアルなオリオンの三つ星。
> 秋分の夕方に真東に沈む。住吉三神はオリオンの三つ星であり、海域を示す阿曇氏の三神とは異なるものと考えています。

 ツツは星というのは、賛成です。
 オリオン座の三ツ星は昇ってくる時は、たてに三つ並んでいます。沈んで行くときは横に並んでいます。
 おしめしの画像は昇る時のイメージだと思います。



[11521]ツツについて  かたばみ 投稿日:2013年 9月28日(土)13時03分
ちょい前置き
底筒男命、中筒男命、表筒男命は書紀と古事記が同じ表記で、住吉三神。
これら三神と並んで底津少童命(古事記では底津綿津見神)、中津少童命(中津綿津見神)、表津少童命(表津綿津見神)が生まれる。
こちらは阿曇氏が祀るとする(古事記)。

さて、この構図からは底とは日本海、中とは瀬戸内、表とは太平洋を示すという可能性が見えます。
(底から書かれる理由)
対応する住吉三神、表記が古事記も書紀も同じで「筒」を用いている。
底を水底、表を水面と書いているが、中では中としか書いてない。

これに突っ込みを入れますと(^^; 海運にとって海底は座礁に関連して重要、海表は波であって重要。
しかし、中は・・意味を持たない、だから中としか書けない。
意味を持たないものが神になるか? ふたつの阿曇と住吉の複合が行われているからだ、と考えています。

すなわち、阿曇三神は日本海、瀬戸内、太平洋の場合で対等。
住吉三神を祀る人々にも三神は対等だったが、水底だとか水面というのは記紀の創作。
書紀編纂時に住吉の海運が重要だったから記紀はふたつを合成したのだ・・

参考図1 対等となる住吉三神とはすなわちビジュアルなオリオンの三つ星。
秋分の夕方に真東に沈む。住吉三神はオリオンの三つ星であり、海域を示す阿曇氏の三神とは異なるものと考えています。
書紀と古事記で共通項の「筒」ツツとは星を示す・・言語抜きでの解釈でございます(^^;


古事記では漢字が表音文字で使われるが、書紀では漢字が表意文字としても使われていると考えています。
ツツとはなにか・・
万葉0161、星離り行き月を離れて、では仮名読みをホシとしているが、ツツと読んではまずいのか?
万葉0196、夕星之、では仮名読みをユフツツとしているが、ユウホシと読んではまずいのか?
万葉3656、比故保思、ではヒコホシと読んでいる、これはホシとしか読めない。

星の文字を使う場合と使わない場合がある、仮名読みの解釈は解釈であって絶対ではない。
星、ホシの登場はいつどこで?

ツツとは星の意を持つ・・ウエツフミ登場。

http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/
ここの第1綴の第4章神生みに、なになにツツの神と申す、が多数登場します。
(解読文が読みやすいけど田中氏の解釈による文字に置き換えらている)
ウエツフミは物部系譜に伝わる伝承の断片を鎌倉譜代に編纂したものと考えています(物部系譜はまず海運ありきとみています)。
仮にこれを創作(偽書)としてもその当時になんらかの神々にツツを用いる用法があったことは間違いない。


ツツを蛇とみることができるか。
注連縄、蛇がからみあう姿と考えています。鏡餅は(蛇の)卵を重ねた形象。
蛇信仰、縄文由来と思います。そして縄文と出雲文化圏は結合している。
参考図2 出雲大社の蛇(蛇/吉野裕子/法政大学出版局からの盗用で失礼(^^; 書紀体系には登場しない。
茨城〜東北のツツコ、明らかに蛇とその卵の形象でしょう。

では、蛇と星がつながるか・・うーん(^^;
蛇の目って暗闇で光るのかな。
蛇/吉野裕子にも書かれてるけど、雄略が蛇の眼光にたじろぐ話があるけど夜じゃないでしょう。
いまのところわかりません。


ツツコワケ、本来はツツのコであり、蛇とみなした藁の容器に餅(卵)をいれる、注連縄と鏡餅のドッキングです。
これが総称としてツツコに変化していった。その容器に納豆を入れることにもなった。小さな卵をむしゃむしゃ(^^;
容器としての筒、蛇としてのツツ、土ツチとも混ぜ合わせればいろいろな変化にもなりそう。
ツツコを引っ張り合う祭もあるようで、ツツコを縁起物とか神様(の象徴)とみなしているのでしょう。

ツツ・コと分解するのは源流としては正しいかもしれないが、ツツコワケではツツコという藁の容器の意であって分解してはうまくない。
星の子供なんて解釈は無理筋でしょう。
細かく分解するほど、無関係の言葉でも一致しやすくなる、言語を扱う場合の落とし穴がここにあると考えています。





[11520]Re: [11517]Re: [11514]Re: [11511]Re: [11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後  かたばみ 投稿日:2013年 9月28日(土)11時55分
神奈備さんへのお返事です。

いつの話かがまずありますが八幡はよくわからない社。全国に広まるのは武士の登場によるものと思います。
波の音であれば1キロほど離れれば聞こえなくなると思うけど、それ以上に離れたかったのかな。


>第六天魔王などを祀っていたのを、明治維新で神世六代目の神に祭神名を変えたのかもしれません。

第六天魔王は仏教界のもの、神社として祀ることはありえない。織田信長は知らないけど(^^;
参考図1 面足尊を祀る社の分布です。全国的に分布しています。

書紀が「統一王朝のために創出した神々の体系」には書かれていない「その地の古い地主神」を祀っていた社がその原型と考えています。
書紀の書く伊弉諾伊弉冉尊(第七天神)より古いの意で第六天神の面足尊に置き換えられた。
伊弉諾伊弉冉尊を祀る社の場合も同じでやはり古い地主神を第七天神に置き換えて祀ったものと考えています。
(少なくとも第七天神までは地域的具体性がない)

各地の第七天神や第六天神を祀る社の本来の神は同じとはいえない、ということでもあります。
各地で祀られていた神が、書紀体系中に登場するその他の神に置き換えられること、無数にあったと思います。
(近津社の味耜高彦根命も同様と思う)

明治維新の平田篤胤は伊弉諾伊弉冉尊より古い神を祀ることはありえないとしてますが、書紀の体系の神々しか考えていないからだと考えています。
八百万の神々では統一王朝の運営にやっかい、これが書紀編纂の主要目的でもあると考えています。


秀吉に滅ぼされた北条氏家臣の武士が江戸初期に幕府認可の開墾者として関東平野に少なからず入植しています。
関東に第六天神社が多数あるのはその開墾にともなう新しい村社で祀られたことによる。
これが改変される可能性も明治維新のみであったために、そのまま残る社が多数あるのだと考えています。
江戸幕府の起点が先に書いた榊神社付近でもあり、関東の日本武尊痕跡と重なればなおさらでしょう。
参考図2 赤が新編武蔵風土記稿に記載の第六天神社が存在した豊島郡の村。






[11519]都都古和気  琉球松 投稿日:2013年 9月26日(木)09時13分
かたばみさんへ

 「都都古和気」の件ですが、中国の文献『山海経』に「它無它」というがありますね。
 これは、意味的には「つつがなきや」だそうで、上古「它」は「蛇」の原字だそうです。
 中国語の「它」は「タ」で、「ツツ・ツツガ」とは読まないのでしょうけど、ちょっとカスルのかなあと思いました。。。大三元さんの "星説" には及びませんが、一考にあたいするでしょうか。

 「都都古和気」の素性を概観すると、本来的には出雲系の蛇神(銅鐸?)との解釈はどうでしょう?

 蛇足ですが(笑)、酒好きだとされる奇蛇「ツチノコ」も響きとして繋がると面白いなあなんて。。。


[11518]Re: [11514]Re: [11511]Re: [11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後期  かたばみ 投稿日:2013年 9月24日(火)19時59分
都都古和氣その他追補です。

「都都古和気」とはなにか、ツツ・コ・ワケとみるかツツコ・ワケとみるか、これだけでも違ってくるでしょう。
垂仁の子の鐸石別命系譜の和気氏族であれば、日本武尊に先行して東北に足跡を残す可能性がある。
問題はツツコ、ですね。
秋田に藁筒ツツコあるいはツチコ納豆がある、藁で作った筒にいれた納豆。
福島にわら細工の容器としてツツコがあり、正月の飾り物として使われるようです。

http://yamaki-dairakuyamaki.at.webry.info/201112/article_2.html
あいにく民俗学的にいつごろからそれがあるかは不明なれど、このあたりインターネットの威力(^^)

後の有力氏族が関与しているなら後に格の高い社にもなると思います。
ただし味耜高彦根命は理解不能。
単純に記紀が創出する出雲系譜の人物を祀っただけで、そもそもがたいした意味は持たないと考えます。
出雲系譜の建御名方命の流れが東北に存在した痕跡を示すもの、とは思うけど。

古き星ツツの和気氏族、なんて解釈は・・興味本位だけあるいはある結論にもってゆきたい場合。
年代、地域、文化、それぞれ異なる流れの中から都合のよい部分だけを拾い出してつぎはぎしてもだれも見向きもしないと思います。


言語は文化と血脈の中間にあるものと考えています。
A地域特有の物がB地域に運ばれたとき、B地域でその物をどう呼称するか。
A地域での呼称が使われるでしょう。なんらかの理由で変化しない限りはほぼそのままで。
はるか後にその呼称がB地域に残っていても、それをもってB地域がA地域の言語圏だったとはいえない。
単語の輸入にすぎないわけで、このあたりをどう分析解釈するか。

大勢の縄文地域に優れた農耕技術をもつ少数の人々がやってくる。
その技術を意味する単語は地元にはない、縄文世界でそのまま使われるでしょう。
では、農耕技術をもつ人々の日常会話はどうなるか。
農耕技術以外のものは縄文地域から受け取るほかはなく、縄文の言葉を使わねば生きてゆけない。

縄文との婚姻も生じるでしょう、数世代後には母方の言語を使っているか父方の言語を使っているか。
原則として農耕技術関連の言葉以外は多数の側の文化の言語に傾いてゆくと思います。なんらかの強制がないかぎりは。
言語学がこのあたりの分析をどうやっているのかは知りませんが、それぞれの歴史の流れを知らねば分析できないと思っています。
で、言葉の分解方法とか音韻変化法則などがいまいち理解できず、ちょっとまてのままになっています(^^;


島根のズーズー弁、東北のズーズー弁、なんらかの関係があるのか。
当初は島根=出雲のイメージを持っていたので、単純に出雲と東北の交流をもって類似が生じたと考えていました。
しかし、島根には大国主命の隠居とその杵築大社以外にはいわゆる出雲は存在しない(天穂日、出雲臣を除く)。
ある年代における北九州と東北を結ぶ海運拠点となっているのみ。
そういう歴史背景があったとして類似性が生じ得るか、分布域などもっと調べてみないとわからないと今は思っています。




[11517]Re: [11514]Re: [11511]Re: [11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後期  神奈備 投稿日:2013年 9月24日(火)14時07分
かたばみさんへのお返事です。

 和歌山県日高郡印南町山口に鎮座している八幡神社にも、「波の音をあまり好まず幾星霜過ぎて名田村野島、名田村上野の梅田、なおも波の音が耳障りなので名田町楠井、印南町津井、浜、地方を通り印南地方山口の境に御鎮座されたが波の音が耳ざわりと一夜をあかし、今宵の月を眺めて御歌ひなれしもの。
「男山、男山、男山、栄える三代は久方野、久方野、月は雲らじ秋は最中ならん、いつか候、いつか候、いつも面影影見れば、影見れば三五や中の月は今宵なるらん」その後現在の印南町山口の御山へ勧請されたと伝える。

 海岸沿いからどんどん東へ海から遠ざかっています。これは八幡の神ですから、すなおに、鎮座縁起と見ていいと思います。

 和歌山の有田郡千田に式内社の須佐神社が鎮座、ここの由緒に、「当初社殿は海に面しており、往来の船が恭順の意を示さない場合に、転覆させたりする事が多かったので、社殿を南向きに変えた所、船は無事に航行できる様になった。」と言うお話があります。これは騒がしいと言うよりは、一種の海賊的な徴税行為をできなくさせたような話かなと思っています。

> これも書紀が書く面足尊と惶根尊を日本武尊が祀ったとは考えられないです。

 第六天魔王などを祀っていたのを、明治維新で神世六代目の神に祭神名を変えたのかもしれません。第六天の鎮座は駿河以北に限られているようです。




[11516]Re: [11514]Re: [11511]Re: [11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後期  茨の紀氏 投稿日:2013年 9月23日(月)10時43分
かたばみさんへのお返事です。

さーて・・アラハバキは(^^;

 参考になれば、幸いです>

ヘブライ語で神を示すエロアーハー (Eloah, ?????) も同 語源と考えられる。エロヒム(?????)はアラハヤム(アラー)とも読める。また、ヘブライ語 ではエジプトの太陽神のことをアラー(??)と表記する。http://www.islamreligion.com/jp/articles/195/
指針,手引き

人生の指針、道を照らす灯り ...しかしながら、アッラーのしもべはこれらの責任や崇拝行為を異なった方法で理解してい ます。
http://fgulen.com/jp/his-works-jp/know-the-mind/28306-%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%80%E3%80%81%E3%82%A6%E3%83%96%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A4%E3%80%81%E3%82%A6%E3%83%96%E3%83%80%EF%BC%88%E5%B4%87%E6%8B%9D%E3%80%81%E3%81%97%E3%82%82%E3%81%B9%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%81%E6%B7%B1%E3%81%84%E4%BF%A1%E4%BB%B0%EF%BC%89.html
イバーダ(崇拝)は日常の生活の中でアッラーの命令に従い、アッラーのしもべであるための義務を果たすことを意味
指針
アラー鉄?
磁鉱鉄 in English - Japanese-English Dictionary - Glosbe
また 近江 は 、 「 アラ 」 は 鉄 の 古語 で あ る と い う こと と 、 山砂鉄 に よ る 製鉄 や 、 その 他 の 鉱物 採取 を 実態 と し て い た 修験 道 は アラ ハバ キ 信仰 を 取り入れ 、 「 ハバキ 」 は 山伏 が 神聖 視 する 「 脛巾 」 に 通 じ 、 アラ ハバ キ は やがて 「 お ...
http://glosbe.com/ja/en/%E7%A3%81%E9%89%B1%E9%89%84

Re: 家形石棺 
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs





[11515]Re: [11514]Re: [11511]Re: [11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後期  かたばみ 投稿日:2013年 9月22日(日)11時37分
神奈備さんへのお返事です。

>> 伊豆の木宮神社には追跡を逃れるためと思われる縁起があります。
>  これは興味深い。内容を少し教えて下さい。

ずいぶん前ですが、神主さんが「看板に書いてある縁起」とは違う話をしてくださった。
「海岸に着いた神が、波の音の聞こえぬ場所に我を祀れといった」です。
これだけですが、なぜだろうと思って今でも覚えています。
で、今はそうだったのか、と思っています。

失礼、木宮と書いてしまったか。来宮、神様がやってきた宮、こちらが正式名称。
来宮神社は海岸ではなく小さな山の裏側にある。
すなわち逃避行・・

神奈川県海老名市にも纒向古墳群と同年代を含む秋葉山古墳群があります(周辺から小銅鐸出土)。
http://kofun.info/kofun/216
出雲要人を追跡する開化崇神時代のだれかがここにも拠点を作っていたのだ・・
年代は千葉の神門古墳群より早くてもおかしくない。
時代劇ならぬTV古代劇が作れそう(^^;

五十猛命の縁起談はクスの巨木と記紀での五十猛命の植樹説話が混じって登場したものと思っています、木の宮ですね。
沼津側は狩野川で山奥から巨木を運んで船の建造や修理の場所になっていたと考えられます(小銅鐸出土)。
熱海側には大きな川はないので、こちらは船乗りが温泉につかって休憩する場所(^^;
材木、木の国、紀の国、五十猛命、共通項の話が生じるのではないでしょうか。

書紀応神紀の伊豆国に枯野という船を造らせたとある(古事記では仁徳になってる)。
仁徳はいざしらず応神が伊豆に関与したとは考えにくいですが、伊豆の山中から沼津に流れる狩野川と枯野はイコールでしょう。
記紀の枯野は伊豆の材木が混じりってできたお話。
修善寺の南、狩野川中流域に軽野神社がありますが、事代主命を祀るのが興味深い。


>都都古和氣神は承和八年(八四一)從五位下とあり

味耜高彦根命がここに関与するのはさすがにおかしい、日本武尊が記紀の書く人物を祀ることもありえない。
書紀が作り出した神々の新しい体系、味耜高彦根命が大国主命の子のごとくとなってしまう。
それが広まって以降にだれかがその影響下で日本武尊を重ねた(新しい)社とみます。
近津社で味耜高彦根命を祀る場合があるのは、さらにその影響下での変化だといえそうです。
(近津社は原則として出雲系譜とされる神に置き換わりやすいはず)
さーて・・アラハバキは(^^;

関東や東北は西日本に比して平安時代に至るまで大和朝廷の意図の混入が少ない地域と思います。
ゆえに、古きものが新しきものに組み込まれてゆく様子がみえる気がします。

東京蔵前に榊神社があります。日本武尊が面足尊と惶根尊を祀ったとするのが縁起。
これも書紀が書く面足尊と惶根尊を日本武尊が祀ったとは考えられないです。
あいまいになった古い神を記紀に登場する古い神(伊弉諾尊伊弉冉尊より古い神)として書いたものと思います。

その近所の鳥越神社は日本武尊を祀ります。こちらは日本武尊が利根川や隅田川を渡って拠点をおいた場所と思います。
なんらかの日本武尊痕跡が残っていたのでしょう、事実が元になっていると思います。


余談
伊豆半島の西側の沼津と東側の熱海は関東方面への海路の拠点。
もっと南の沿岸にも拠点はあったはずですが、社として残るのは下田の伊古奈比当ス神社だけかなあ。
遺跡としては下田に夷子島遺跡、石廊崎との中間付近に盤遺跡、どちらも海運用遺跡とされます。

参考図は伊豆半島南端の石廊崎沖から見た伊豆七島、ここにも海運用とされる祭祀跡があります。
かがり火をたいて、こっちへくると海の藻屑になるぞ、の灯台があったと考えています。




[11514]Re: [11511]Re: [11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後期  神奈備 投稿日:2013年 9月20日(金)16時29分
> 伊豆の木宮神社には追跡を逃れるためと思われる縁起があります。

 これは興味深い。内容を少し教えて下さい。

 千鹿頭神社や近津神社は延喜式や三代実録などに名前の出てこない神社です。国家が祀る神ではないとの判断でしょう。ミシャグチの神なども同様なのでしょう。淫祠邪教とまではいいませんが・・・。

 所が、都都古和氣神は承和八年(八四一)從五位下とあり、延喜式神名帳にも出ています。近津神社とは質の違う神社だったと思います


[11513]Re: [11511]Re: [11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後期  かたばみ 投稿日:2013年 9月20日(金)00時36
近津神社分布図に持論を加えて書き直しました。

長野では千鹿頭ですが、その他では「ちかと」あるいは「ちかた」と読める社を記載。
そう読めるが無関係の社が混じるかもしれません(^^;
平成祭りデータ/神社本庁とうぶすな研究室さんの情報を使っています。
これに書紀記述などでの推論を加えたものです。

注目のいくつかの古墳を加えています。最注目は千葉県東京湾岸の神門古墳群です。
ホタテ貝型、奈良纒向古墳群と同年代とみられ、すなわち崇神朝(248-273)初期の古墳。
だれがここへ来たのか。
書紀記述なら崇神の子の豊城入彦となりますが、開化225-248が奈良を制圧すると同時に出雲追跡部隊がやってきている可能性もあります。
伊豆の木宮神社には追跡を逃れるためと思われる縁起があります。

猪苗代湖の東西に古墳時代初期の古墳がある。おそらくは景行311-333時代でしょう、日本武尊系譜か。
関東平野北辺、碓氷峠手前の古墳群は毛野氏族の祖とされる豊城入彦系譜でしょう。
咲前神社の建御名方命と経津主命の戦闘由緒は、弥生中期での建御名方命+千鹿頭神の子孫の関東平野南下と複合されての伝承と推測。

仁科濫觴記にある崇神の末子の仁品王子到来は、豊城入彦命が諏訪を制圧して、直後あるいは同伴した崇神系譜のだれかのことと推定できます。
碓氷峠関東側の近津社のいくつかに豊城入彦命を祭る社があります。
近辺の古墳もAD300近くまで遡るようです。
前方後方墳が多い、方形周溝墓とか四隅突出墓といった四角形墳墓の流れをもつ文化圏との複合型なのでしょう。

これらの地域でも古墳築造の目的は公共事業がまずありきと考えます。
すなわち、各地を支配した崇神〜景行系譜の人物(+地元系譜)が同じ考え方で築造した。
猪苗代湖の東西に前方後方型と前方後円型があるのが面白い。
会津若松の盆地、農地開墾にぴたりの土地と見えます。

天竜川や富士川経由で東海からの軍事的進出はないとみておきます。
こちらは交易路にはなっても大勢の兵を動かすには不適なルートと考えます、ゲリラ戦で対抗可能(^^;


崇神〜景行311-333以降での大和朝廷系譜の到来は一時途絶える。
応神と仁徳の内戦時代となって関東支配には手が及ばなくなった。
再び関東へ進出してくるのは雄略456-489。
で、その後の関東への進出は再び途絶える。筑紫の磐井王と越の男大迹王の内戦。
さて次の進出はいつになるかなあ。高句麗や百済の滅亡あたりまで下るのではなかろうか。


ちかつ、ちかと(こちらが千鹿頭からで原型かもしれない)はほぼ同義とみています。
東京隅田川沿岸の今戸という地名、江戸初期では今津でした。
すなわち(小さな)港であったものが発達して町になったとき、戸に変化した。

だが、茨城から福島にかけての近津は内陸。利根川系や鬼怒川系の津とみるのはちと苦しい。
今のところは平安以降に鹿島の港の近くの社の意で文字が置き換わり、それが周囲へ運ばれてのものだろうと考えています。

福島県では味耜高彦根命を祭神とする社が少なからずあります。
持論では味耜高彦根は天孫降臨時代(BC150頃)の人物であり、直接この地域に関与することはありえない。
これも味耜高彦根を奉斎するだれかが平安以降(書紀編纂以降)にこの地にきて近辺の古社でそれを祭神とするようになって広まったと推定。
経津主命や大己貴命、猿田彦命を祀る社も少なくないですが、こちらは正体不明となった祭神をやはり書紀編纂以降での(著名な)古い神を祭神として変化したものとみておきます。




[11512]Re: [11511]Re: [11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後期  かたばみ 投稿日:2013年 9月16日(月)22時34分
横から失礼します。

諏訪では洩矢神(ミシャグチ神? 赤蛇の論あり)と建御名方命に注目しています。
縄文最盛期での山岳縄文のメイン地域、人口密度は国内で頭抜け一番ともされる。。
しかし縄文末期の寒冷化で山岳縄文は破滅し、その住人は関東平野や東海地方に散っていったと考えています。
そのルートは弥生でも残るはず。

以下、記紀の記述などに持論の年代観を重ねますと・・
大国主命の国譲り(持論AD30頃)に逆らった建御名方命が諏訪に流されて、そこから出ることを禁じられる。
建御名方命は糸魚川方面からの到来と思います、安曇氏(海運とみる)の祖先も随伴。周防→諏訪、安曇はそのまま。
諏訪先住の縄文系(洩矢神)と建御名方命の後裔が混じり合う(諏訪大社の祭祀の二重構造)。

弥生後期の寒冷化(AD100以降)では諏訪の生活環境が厳しくなって、関東平野や東海地方へ移住がはじまったと考えています。
碓氷峠から関東平野、伊那谷から天竜川〜尾張、釜無川〜富士川で相模。

碓氷峠の東の安中市に咲前神社があり、建御名方命と経津主命が戦ったという伝承が残ります。
その南の富岡市に貫前神社があり経津主命を祀ります。その東南には弥生の高地性集落が2ヶ所ある。
庚申山尾根遺跡と中高瀬観音山遺跡、物見櫓と考えられる柱跡、弥生末期に消える。
ここで諏訪から碓氷峠を越えてきた勢力と関東平野側の勢力との抗争があったのか・・

寒冷化による諏訪からの進出(脱出)との抗争なら弥生後期以降であり、遺跡とおおよそは合致だが・・
では、その頃の関東平野側の勢力とはなにか・・縄文系譜の子孫しか考えられないけれど、抗争になるか??
高地性集落は「西日本で戦闘中の近畿出雲」からの指令で作られた。
だが実際には天孫勢力がここにやって来ることはなかった、と考えています。

仁科濫觴記に崇神の末子の仁品王子という人物が登場します。
仁品王子の名は記紀にはみあたりませんが、崇神の子の豊城入彦命が関東にやってきている(毛野氏族の祖)。
これには武人が随伴するはずで(物部氏系譜とみる)、拠点は海運に便利な鹿島でしょう(鹿島神宮の原型)。

建御名方命と経津主命の戦闘伝承は、崇神朝登場直後(AD250頃)に到来した新支配者との葛藤が混入したものだろうと考えています。
(経津主命は出雲国造神賀詞の内容などから本来は出雲文化圏の人物と推定できますが、書紀はこれを(天孫側に)取り込んでいる)


さて、諏訪から関東平野には近津神社が少なからず存在します。
原型は「千鹿頭」だったと推定、洩矢神の子孫にその名があり狩猟を思わせる。
佐久市の近津神社では白い大蛇が池から現れたという伝承があり、旧名は千鹿頭神社だったそうです。
(観光課に問い合わせただけですけど(^^; )

縄文系と建御名方命系が混じった勢力が関東平野へ進出した。
この事象の後の形が、関東に多数ある氷川神社だと考えています、祀るのは建御名方命を追放した大国主命ではなく素盞鳴尊である理由です。

参考図は関東周辺の近津神社の分布図です。
近津神社についてはこちらに詳細論があります(うぶすな研究室、神奈備掲示板に書かれていたことがあります)。
http://nire.main.jp/rouman/ubu/tikata.htm

関東の茨城〜東北に多数ある近津は、日本武尊による出雲系譜と蝦夷の制圧に伴って神社化していった社とみています。
平安初期にこの方向(蝦夷)をみて北向きの鹿島神宮(武甕槌命)が創建される。その西には南向きの香取神宮(経津主命)。
この両者の本来の関係がうかがえると思っています。
(氷川神社と異なるのは狩猟系が濃い、すなわち縄文系譜に濃いこと、と考えています)

すなわち弥生後期〜古墳時代に関東平野北辺の山沿いに諏訪から東北にいたる、出雲系譜と東北縄文(後に蝦夷)の交流路があった。
その交流路の発端は弥生中期か、釜石の餅鉄だと推定(螺旋を作ること容易な品質の鉄である可能性大)。
これらは日本海沿岸側での農耕の北上≒秋田側からの蝦夷の誕生とは別経路だが兄弟。

古いですが持論の餅鉄と蝦夷をどうぞ(^^;
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/kf10.html
ここで書く鉄斧出土の菅生遺跡周辺からは小銅鐸も登場\(^^)/
すなわち近畿出雲系譜の関東渡来は東京湾の千葉側であり、AD30頃か、水稲の登場。
こちらは大国主命(農耕系)を祭祀するが、建御名方命の子孫とも連携をとっていた・・

関東の氷川神社はその中間にある微妙な社ということになります。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~map/g_map/080316.html
この特異な分布と濃密さの理由、私的には解決(^^;




[11511]Re: [11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後期  くず 投稿日:2013年 9月16日(月)22時17分
とみたさんへのお返事です。

返信ありがとうございます^^
>弥生時代の交易という視点

北信濃の弥生中期と後期で交易(流通)における最大の変化は、
中期後半(栗林期)まで畿内中枢との主要な流通路であった日本海路が、
後期(箱清水期)にはいると機能しなくなってしまう点です。

とみたさんの言われますように蛤刃式磨製石斧は弥生中期の善光寺平からの主要な輸出品で、
おおよそ半径100km圏に運ばれていると言われます。
善光寺平の南に位置する榎田遺跡で採取、加工されたものをが松原遺跡で仕上げられており、
分業体制が確立していたようです。
が、松原・榎田遺跡は中期後半が最大で後期前半には衰えます。

> 中野ガマン淵には地元の土器と北陸系土器と東海式土器が併存している事実を甘粕先生は北陸勢力と東海勢力の侵入と解されていますが、本当でしょうか。激しい動きは弥生中期と後期の間で全国的に生じます。
> 赤塚次郎先生は2世紀に注目され2世紀前半と後半では社会大変動があったとされています。

中野には東海系土器と北陸系土器が在地土器を上回って出土するケースがあります。
弥生後期後半から古墳時代初頭です。ガマン淵遺跡は後期後半の環濠を持った高地性集落と言われます。
日本海側に高地性集落が広がった時期に対応するもので、信州まで南下した北陸の人々(月影式土器圏)
が築いたか、もたらされた情報から地元の人々と共同で築いたものと考えます。
つまり緊張関係にあったのは東海系の人々よりも日本海側にあった勢力で、それに対する備えと見ています。

東海系が入ってきたのは別の理由で、軽量化された畿内庄内甕が西の北九州まで広がったように、
最軽量と言われる東海のs字甕が北と東に広がりを見せる、
赤塚さんの言われるS字甕の第1次拡散期西暦200年前後に付随するものと見ています。
http://ukigami.com/esuji/bunpu.html

庄内甕とS字甕に共通するのはその薄さゆえの軽量にあると考えますが、
遠くまで運ばれるのに軽量甕は優位な事で間違いないけれど、
煮炊き用の甕を極限まで薄く作る事の最大の利点は少量の薪で調理が出来る点にあったと考えます。
人口増加、集落の大型化、開墾、鍛冶の普及などで燃料となる周辺の雑木林は苅られて枯渇状態にあったと予想しています。
もし弥生後期において寒冷化が深刻であったば、燃料の枯渇はそれこそ死活問題であったはずで、
その中で開発された軽量甕が各地で受け入れられる要因であって、もたらされた先での構図は対立状況というより支援というのが近いのではないかと考えています。



[11510]Re: [11508]Re: [11505]日本と中国を結ぶもの  琉球松 投稿日:2013年 9月16日(月)09時38分
茨の紀氏さん、掲示板をお持ちじゃないですか!

 興味がまったくないわけではないので、そちらへ書き込みをするかもしれませんので、よろしくお願いします。

 さて、くどいようですが「敦煌」と「仁徳天皇」の関係なんですよ。
 「オホサザキ」の諡号を持つ仁徳には「〜ワケ」がつかないのですが、これが敦煌と関係するでしょうか?
 彼の母の名「仲津姫命」には「ナカ(繋ぎ?)」が入っていますから、血統の断絶があった可能性もあります。
 まあ、百舌鳥古墳群や古市古墳群が水の豊かな地域なのに対し、中国内部の敦煌は乾燥地帯で、とても水田稲作が営める所ではありませんね。
 百済や伽耶との関係性は追求できても、いろんな意味で敦煌は遠いと思いますよ。

 茨の紀氏さん、こちらの掲示板ではこれくらいにしましょう!?
 あとは『世界史掲示板(荊の紀氏)』を拝見させていただきますね。


[11509]Re: [11508]Re: [11505]日本と中国を結ぶもの  茨の紀氏 投稿日:2013年 9月16日(月)00時03分
琉球松さんへのお返事です。

> 茨の紀氏さん
>
>  もう一度、お聞きしたい。
>  中国の敦煌(莫高窟)と、大和の仁徳天皇陵がどう繋がるんでしょうか?
>  宗教上も、年代的にも、天文学的にも、たぶん民俗学的にも、どう考えてもラインで結べないのですが。。。
>
>  それと、『wikipedia』の文章などを並べても、今いちワクワク感がありません。


琉球松さん 世界史(古代史)を読みふけてますと、見えてくるのです。
ご説明するには、膨大な資料が必要かと思いますが ↓ ご覧ください。

ヤコブ かかと(画策)= 企図. ?http://8906.teacup.com/toraijin/bbs

ヤコブの直系 ダビデ、ソロモン、モーセ、イエス
伊能忠敬. は. 地図. の. 出版. を. 企図. していたのか
http://www.inopedia.jp/img/f_users/r_7882056img20100220161456.pdf#search='%E4%BC%81%E5%9B%B3+%E5%9C%B0%E5%9B%B3'

方後円墳の源流はスキタイ
古代チベットと敦煌−チベット史・敦煌史における古チベット語文書の利用−. 岩尾 一史. 755年に始まる安史の乱により、唐朝の中央アジア支配時代は終わった。 代わって彼の地に勢力を伸ばしたのが古代チベット帝国、吐蕃である。
http://ricas.ioc.u-tokyo.ac.jp/asj/html/040.html
古代チベット帝国、吐蕃・・・ヤコブの系?

アブラハムの息子エサウは、ヒッタイト人ベエリの娘エフディテと、ヘテ人エロンの娘バセテマを妻とし、ダビデはヒッタイト人ウリヤを妻に迎え、息子のソロモンはヒッタイト王の娘をめとった。

ヤコブ かかと(画策)= 企図. ?・・・世界地図   地理書



[11508]Re: [11505]日本と中国を結ぶもの  琉球松 投稿日:2013年 9月15日(日)21時32分
茨の紀氏さん

 もう一度、お聞きしたい。
 中国の敦煌(莫高窟)と、大和の仁徳天皇陵がどう繋がるんでしょうか?
 宗教上も、年代的にも、天文学的にも、たぶん民俗学的にも、どう考えてもラインで結べないのですが。。。

 それと、『wikipedia』の文章などを並べても、今いちワクワク感がありません。


[11507]Re: [11505]日本と中国を結ぶもの  茨の紀氏 投稿日:2013年 9月15日(日)15時26分
琉球松さんへのお返事です。

> 茨の紀氏さん
>
>  ん〜、なかなか難しいところです。
>  学生の頃には『ムー』に取り憑かれていて、読みふけって気がつくと朝になってたりしましたね(笑)。
>  翌日の学校では、インカ帝国やUFOの事とか黄河文明やら "前方後円墳はユダヤの鍵職人の墓だ!" とかで盛り上がったのを思い出します。
>
>  しかし、年を重ねてくると "不思議" だけでは感動しなくなるもので、「ロマン」の向こう側に興味を持つようになりますね。
>  今は中国の妖怪辞典?『山海経』や、四川省の三星堆遺跡から出土した奇妙な銅製品と「神樹」に取り憑かれているところです。
>
> 画像は、名護博教授による「中・琉・日三神話の相補・相似」概念図

空海と徐福
高野山を丹生津姫命から借用するとして手に入れ、真言密教の 中心地とする。 錬丹術の「丹」はまさに水銀のことで、徐福も良質な水銀産地を探し求め ていた。
http://www.ley-line.net/wakasa/wakasa04.html

縄文時代から丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘が行われていた。丹生鉱山に隣接する池ノ谷・新徒寺・天白遺跡からは、粉砕した辰砂を利用した縄文土器が発掘されており、辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られる石臼も発見されている。さらに、40か所以上に及ぶ採取坑跡が付近から発見されており、辰砂の色彩を利用した土器製造と辰砂の採掘・加工が行われていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E9%89%B1%E5%B1%B1
高野山麓には丹生都比売神社が存在し、ニウヅヒメが祭神となっている。

丹生氏は徐福の子孫かもしれないですね、この伝説は佐賀県だけでなく 和歌山にも多いみたいですよ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kourimiyu/48231801.html?s%3Dart_cmt%26pftarget1%3D%26target2%3D

直接レイラインとは関係のないところから縁が繋がったことに、ぼくは深い 因縁を感じた。そして、今度は、間違いなく ... そして、その中心である高野山を丹生津姫 命から借用するとして手に入れ、真言密教の中心地とする。
http://www.ley-line.net/wakasa/wakasa04.html
空海と徐福
その若狭と熊野がレイラインで結ばれることは先に紹介した。左の図は、前のページで示した東経135°46′40″ラインの詳細図だ。このライン上に近接する主要なポイントを眺めただけでも、ここに深い意味が隠されていることは
この東経135°46′40″ラインに、明日香から平安にかけての都や天皇陵が並ぶ意味が、はっきりと浮かび上がってくる。

チベットへ仏教が最初に伝来したのは、七世紀の中頃だといいます。その当時のチベット(中国側の史料でいう吐蕃)は、英主ソンツェン・ガムポ王のもとで、強大な国に成長し ていました。
http://www.mikkyo21f.gr.jp/world-objection/cat47/post-199.html
その当時、チベットが敦煌を領有していたため、禅を中心とする中国系の仏教も、次第にチベットへ広まってきました。
敦煌
なぜ北緯40°?
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1245
莫高窟(ばっこうくつ)
北緯40度02分14秒 東経94度48分15秒 / 北緯40.03722度 東経94.80417度 / 40.03722; 94.80417 ... 莫高窟(ばっこうくつ)は中華人民共和国 甘粛省敦煌市の近郊にある仏教遺跡。この中から出た敦煌文書でも有名である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%AB%E9%AB%98%E7%AA%9F
作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。
5世紀前半にここを支配した北涼の時代の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像があるが、両脚を交差させているのは中央アジアからの影響を示している。
弥勒菩薩
ここで、なぜキリストや弥勒菩薩とは関係のないと思われる秘密結社フリーメーソン について取り上げる必要があるのかと思われるかもしれません。
http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63419034.html
ゾロアスター教から分岐したマニ教とエジプトの秘儀とが結びついたことによって、道徳理念とその使命に貫かれたローゼンクロイツの神智学(人智学)だけではなく、人類を支配しようとする黒魔術的な勢力をも生じさせてきたことを知る必要があるのです。



[11506]Re: [11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後期  とみた 投稿日:2013年 9月15日(日)09時18分
くずさんへのお返事です。

雑用と猛暑で筆が進まず亀レスとなり失礼しました。

新潟や長野に詳しい甘粕健先生や石川日出志先生の書を読んでおりますのでクズさんと対話が成り立ちます。

弥生時代の交易という視点でお付き合いいただければ有難いです。北陸系の土器、法仏式土器や月影式土器をもっと調べる必要を感じています。高地性集落が日本海沿いに広がります。

関川流域の頚城平野では吹上⇒斐太⇒釜蓋⇒裏山。阿賀野川の新津は新しい津=港でしょう。そこは蒲原平野でで古津八幡山があります。

古津は古代の津=港の意ですから弥生後期ー古墳出現前夜の交易の拠点でしょう。北陸の土器が圧倒的に浸透し会津まで広がります。会津(相津)も川港ですね。阿賀野川とどの川が合流するのでしょう。鬼怒川でしょうか?。会津は会津大塚という有名な5世紀の前方後円墳がありますが4世紀にも古墳が出ていますね。

古事記に登場する四道将軍北陸の大彦命と東海の建沼河。新津の近くに弥彦神社があるのも何か曰くがありそうです。
千曲川は長野県で新潟県では信濃川に名を変えます。

中野が栗林土器の本拠ですね。一応3年前に中野と根塚を訪れました。高社山が聳えていました。周囲は農耕地ですね。

斐太のある妙高山も根塚から遠望できました。根塚は円形周溝墓、そこに渦巻き突起のある鉄剣が埋まっていて伽耶との交流が想定されていますね。

中野ガマン淵には地元の土器と北陸系土器と東海式土器が併存している事実を甘粕先生は北陸勢力と東海勢力の侵入と解されていますが、本当でしょうか。激しい動きは弥生中期と後期の間で全国的に生じます。

赤塚次郎先生は2世紀に注目され2世紀前半と後半では社会大変動があったとされています。銅鐸終焉とか集落解体などです。鉄の広域ネットワーク説と気候変動説があるようです。倭国争乱の時期と重なりましょうか。

> 弥生中期において長野北部の栗林土器圏が最大規模となるのがW期前半。
> この頃の分布域には特徴があり、善光寺平の千曲川流域は全域に分布を持ちますが、
> 同じ県内では東部の佐久平、中信の松本平と諏訪にそれぞれ飛び地の拠点的分布が認められています。
> この傾向は県外にも及んでおり、日本海では関川河口域の上越吹上遺跡、関東では利根川流域の埼玉北島遺跡に、スポットの栗林土器が集中して出土するいわば流通拠点があったようです。
> 北陸の小松式土器も似た分布で出土し栗林土器圏との深いつながりが伺えます。

熊谷の北島遺跡のことは知りませんでした。

歴博の馬場伸一郎先生は、弥生C期(弥生中期?)栗林土器の最盛時に越の高田平野から北関東に抜ける
主要ルートは[白根山ー吾妻川ルート]から[千曲川ー碓氷峠]へ転換するとされています。
中野は蛤刃式磨製石器の生産地のようで各地の土器が出るのは交易だと思うんですが如何でしょう。
吹上遺跡などは玉の生産もあります。

一つ注目すべき点は、太平洋岸の相模湾岸などでは、弥生時代後期後期後半までは中部高地の北信州からの川沿いルートが石器の主要流通ルートで、太平洋ルートは古墳出現期から始まることです。

現在の感覚で見ると見損ないます。
沼津の高尾山古墳や房総の高部古墳など弥生終末から古墳出現期前後の墳丘墓からは北陸系土器が出ることが納得できます。





[11505]日本と中国を結ぶもの  琉球松 投稿日:2013年 9月14日(土)18時46分
茨の紀氏さんへ

 ん〜、なかなか難しいところです。
 中学生の頃には『ムー』に取り憑かれていて、読みふけって気がつくと朝になってたりしましたね(笑)。
 翌日の学校では、インカ帝国やUFOの事とか "前方後円墳はユダヤ人の鍵職人の墓だ!" とかで盛り上がったのを思い出します。

 しかし、年を重ねてくると「不思議」とかには感動しなくなるもので、「ロマン」の向こう側に興味を持つようになりましたね。
 今は中国の妖怪辞典?『山海経』や、四川省の三星堆遺跡から出土した奇妙な銅製品と「神樹」に取り憑かれているところです。

画像は、名護博教授による「中・琉・日三神話の相補・相似」概念図




[11504]Re: [11496] 太陽の道  茨の紀氏 投稿日:2013年 9月13日(金)12時23分
琉球松さんへのお返事です。

「高野山」の緯度がどれもほぼ「北緯34度13分」になります
〜北緯34度13分〜その2
http://www.ku-kai.org/nazo03.html
「太陽の道」を調査すると、古墳時代初期に日本国内で活躍した測量集団「日置部(ひきべ)」が太陽の影を利用してかなり正確な緯度を測定して作ったものである可能性が高いことを、笠井さんは知りました。

日置部らの祖建岡君がその占いに合っ た。 ..... 所が『紀』ではまた生き返り、弓月の君を半島から大和へ導くべく派遣されてい ます。
http://kamnavi.jp/as/katuragi/kazuraki.htm

日本書紀によると 弓月君(融. 通王)が秦氏の祖 ... 弓月君が帰化した 372 年ごろ「弓月」という国が ステップシルクロー ...... 赤羽根(群馬、長野など全国各地)、日置(鹿児島)日興(ひおき )の転化.
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/9161/1/J08Otsuka.pdf#search='%E6%97%A5%E7%BD%AE%E9%83%A8++%E5%BC%93%E6%9C%88'
この論文は、古墳文化、飛鳥文化を築いた渡来人がイスラエル系であったことを詳述した後、なぜ突然彼らが大挙して極東の島国にやって来たのか?
なぜ4 世紀から5 世紀にかけて一見無意味な巨大古墳を現在の大阪の地に築いたのか?なぜ北九
なぜ北九州と畿内が秦氏の拠点なのか?なぜ全国各地に奇妙な三本鳥居の神社を建てたのか?という日本史の謎に対して大胆な一つの仮説を立てた。

ユダヤ人は、世界各地に散りながら建設した街や国をニュー・○○と名づけるのでこの説は説得力がある。
ユダヤ人は、行く先々で国家統一を行う。最終目標は世界全体をワン・ワールドにすることだからだ。

 現在より高いレベルの科学技術が太古の時代に存在したという仮説の支えとなる記述が聖書の中にある。それは、ヤコブの梯子、契約の箱、エゼキエルの幻視、ベツレヘムの星である。
ヤコブ
墓の上に柱を立てた。 ヤコブ  宗教遺物「戴冠石」発見  西53北30
ラケルの墓
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/22.html
1 そののち神はヤコブにこう言われた。「立ってベテルに上り,そこに住みなさい。そして,あなたの兄弟エサウから逃げて行くときあなたに現われた[まことの]神のため,そこに祭壇を造りなさい」。

帝国の緯度の決定); ヤコブ・スタッフ (ヤコブの 棒) (ヤコブ・スタッフと呼ばれるものには2種類、1つが天測用、カマルの改良版?
http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/navigation/navigation.htm
ヤコブ・スタッフ (ヤコブの棒) (ヤコブ・スタッフと呼ばれるものには2種類、1つが天測用、カマルの改良版? クロス・スタッフとも呼ぶ。 もう一つが測量器具を支える棒で、伊能忠敬の装置では「杖」と呼ばれる)

霊石 「神の家」
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾)・・・ 「私はこの 岩の上に私の教会を建てる」
神倉は神の坐します磐くらの意味で、霊石「ゴトビキ岩」を中心とした、熊野信仰(原始 信仰)の原点として弥生時代から篤い信仰を集めてきました。
http://www.matinaka.jp/kamikura/kamikurazinjya.html

ペトロのことを「ケファ」と呼んでいる。この名はイエスが「私はこの 岩の上に私の教会を建てる」と言ったことに由来している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD

イエスにより「ケファ」(アラム語で岩の断片、 石という意味)というあだ名で呼ばれるようになった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD

>  あと、できれば "高野山が日本の基準点" であるとの根拠を太陽の動きと絡めて説明していただくと、もっと面白いのですが。。。

「高野山」の緯度がどれもほぼ「北緯34度13分」になります
〜北緯34度13分〜その2
http://www.ku-kai.org/nazo03.html
「太陽の道」を調査すると、古墳時代初期に日本国内で活躍した測量集団「日置部(ひきべ)」が太陽の影を利用してかなり正確な緯度を測定して作ったものである可能性が高いことを、笠井さんは知りました。

日置部らの祖建岡君がその占いに合っ た。 ..... 所が『紀』ではまた生き返り、弓月の君を半島から大和へ導くべく派遣されてい ます。
http://kamnavi.jp/as/katuragi/kazuraki.htm

日本書紀によると 弓月君(融. 通王)が秦氏の祖 ... 弓月君が帰化した 372 年ごろ「弓月」という国が ステップシルクロー ...... 赤羽根(群馬、長野など全国各地)、日置(鹿児島)日興(ひおき )の転化.
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/9161/1/J08Otsuka.pdf#search='%E6%97%A5%E7%BD%AE%E9%83%A8++%E5%BC%93%E6%9C%88'
この論文は、古墳文化、飛鳥文化を築いた渡来人がイスラエル系であったことを詳述した後、なぜ突然彼らが大挙して極東の島国にやって来たのか?
なぜ4 世紀から5 世紀にかけて一見無意味な巨大古墳を現在の大阪の地に築いたのか?なぜ北九
なぜ北九州と畿内が秦氏の拠点なのか?なぜ全国各地に奇妙な三本鳥居の神社を建てたのか?という日本史の謎に対して大胆な一つの仮説を立てた。

ユダヤ人は、世界各地に散りながら建設した街や国をニュー・○○と名づけるのでこの説は説得力がある。
ユダヤ人は、行く先々で国家統一を行う。最終目標は世界全体をワン・ワールドにすることだからだ。

 現在より高いレベルの科学技術が太古の時代に存在したという仮説の支えとなる記述が聖書の中にある。それは、ヤコブの梯子、契約の箱、エゼキエルの幻視、ベツレヘムの星である。
ヤコブ
墓の上に柱を立てた。 ヤコブ  宗教遺物「戴冠石」発見  西53北30
ラケルの墓
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/22.html
1 そののち神はヤコブにこう言われた。「立ってベテルに上り,そこに住みなさい。そして,あなたの兄弟エサウから逃げて行くときあなたに現われた[まことの]神のため,そこに祭壇を造りなさい」。

帝国の緯度の決定); ヤコブ・スタッフ (ヤコブの 棒) (ヤコブ・スタッフと呼ばれるものには2種類、1つが天測用、カマルの改良版?
http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/navigation/navigation.htm
ヤコブ・スタッフ (ヤコブの棒) (ヤコブ・スタッフと呼ばれるものには2種類、1つが天測用、カマルの改良版? クロス・スタッフとも呼ぶ。 もう一つが測量器具を支える棒で、伊能忠敬の装置では「杖」と呼ばれる)

霊石 「神の家」
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾)・・・ 「私はこの 岩の上に私の教会を建てる」
神倉は神の坐します磐くらの意味で、霊石「ゴトビキ岩」を中心とした、熊野信仰(原始 信仰)の原点として弥生時代から篤い信仰を集めてきました。
http://www.matinaka.jp/kamikura/kamikurazinjya.html

ペトロのことを「ケファ」と呼んでいる。この名はイエスが「私はこの 岩の上に私の教会を建てる」と言ったことに由来している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD

イエスにより「ケファ」(アラム語で岩の断片、 石という意味)というあだ名で呼ばれるようになった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD



[11503]豊中歴史同好会 9月  神奈備 投稿日:2013年 9月12日(木)15時01分
琉球松さんはエライ。
youtubuを紹介をして、自分の言葉で語ろうとしない人にたいして、時間をかけてyoutubuをご覧になり、まじめなコメントをされる。頭が下がります。
コメントへの応答は言葉でお願いしたいものです。



豊中歴史同好会 9月
2013 9 14
元読売新聞編集委員 坪井 恒彦氏
テーマ 倭の五王陵と百舌鳥・古市古墳群
階公民館集会場
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2013.html


[11502][11496] 太陽の  琉球松 投稿日:2013年 9月12日(木)12時35分
荊の紀氏さんへ

 面白い動画の紹介、ありがとうございます。
 面白いのは面白いんですけど、やはり理解の範囲を超えています。

 これらのラインは、肉眼で確認でき、しかも実感のあるものなら偶然とは言えないですけどね。
 例えば、「畝傍山」から見える夏至の日の出は三輪山山頂付近で、その山頂の冬至の日の出は「鏡作神社」から目視でき、しかもこの2つの観測点を結ぶ直線のほぼ真ん中に「多神社」があります。
 この4ヶ所の位置関係は、夏至と冬至によるものですから、当然60°、30°の数値となり、90°も導けますね。

 しかし、中国の敦煌と仁徳天皇陵を線で結んでも、仏教繋がりとも思えないですし、太陽との関係もない。
 さらに、東南アジアなどの良地と結んだところで、関係性を語ってもらわないと "偶然" としか言いいようがないと考えるわけです。
 また、伊勢神宮などの参道の話も出ていますが、琉球文化圏の聖地に興味を持つ者からすると、その道は本来太陽を迎えるための道で、それは正確に真東である必要はなく、「アガリ(東)=夏至〜冬至の日の出の範囲」でありさえすればいいわけです。

 蛇足ですが。。。現在の南北線に沿う参道は後世のすり替えではないかと思いますがどうでしょうか?
 あと、できれば "高野山が日本の基準点" であるとの根拠を太陽の動きと絡めて説明していただくと、もっと面白いのですが。。。


[11501]Re: [11495]Re: [11490]Re: [11479]Re: 〔11478〕銅鐸について  荊の紀氏 投稿日:2013年 9月11日(水)13時19分
琉球松さんへのお返事です。

> 茨の紀氏さんへ
>
>  YouTubeの動画『344B+343卑弥呼のカレンダー』。。。拝見しました。
>  が、申し訳ないですが、ほぼ全面的に支持できないですね。
>
>  いわゆる "見る銅鐸" の時代に、正月がいつで「今日は何月何日」かという情報は不要と考えます。
>  夏至(東に向かい最も北側から上る太陽の位置)と冬至(最も南側〜)さえ確認できれば、東西線(春分&秋分)を割り出すのは簡単で、60°とか30°などの数値的知識も不要ですし、月齢もまた肉眼でほぼOKですから海の状態も把握できます。
>
>
継続は力・・・結果 ↓
78+46+44 Mystery of Japan高野山、出雲大社の謎by Hiroshi Hayashi
http://www.youtube.com/watch?v=_JfeFEqI2lI





[11500]古墳時代の農耕祭祀  かたばみ 投稿日:2013年 9月10日(火)11時28分
古墳時代の農耕祭祀具、灯台もと暗し。
どでかいのがありますね、前方後円墳そのもの。

前方後円墳は公共事業、が持論です。
古墳築造で食糧を配布し寒冷化で困窮する民を救済すると同時に、労働力を集約化し管理下に置いて田畑を開墾する。

大型古墳の築造開始が被葬者の生前か死後か、何年かかったのか気になっていました。
棺をどこかへ仮置きすることになるし、仲哀のごとく短期間の大王では築造の時間がないはずだし。
しかし、築造の主目的が公共事業であるならそれはたいした問題ではない。
できるときに築造すればよい、自分の墓であろうと先代の墓であろうと。
仁徳は生前に自分用のを築造したのでしょう。

銅鐸のごとく呪術だけではなく、実効力のある政策に農耕祭祀を加えた。
考え出したのは卑弥呼周辺の知恵者か・・
この頃の魏では均田制や屯田制など農政が進化しており、この情報によって倭国でも農政改革が行われたと考えられます。

祖先祭祀と権威の象徴を兼ねるとしても、そこで大規模な農耕祭祀を行った。
取り仕切るのはその地の首長や支配者。
そして前方部(祭壇)が後円部をしのぐような巨大な施設に変化した。

雨乞いなど独立した小規模祭祀は別途です(蛇行剣≒龍神などが使われたかもしれない)。
AD500以降では温暖化に転じて大規模な農耕祭祀の必要は消えてゆき、古墳築造の目的も変化して大型古墳は消えてゆく。


従来の年輪年代法は再考が必要ですね。最新の測定法に期待しています。

http://mainichi.jp/select/news/20130603k0000e040107000c.html

木材のセルロースに含まれる酸素同位体と降水量の関連から年代を決定できるそうです。




[11499][11495]Re: [11490]Re: [11479]Re: 〔11478〕銅鐸について  琉球松 投稿日:2013年 9月 8日(日)22時11分
茨の紀氏さんへ

 YouTubeの動画『344B+343卑弥呼のカレンダー』。。。拝見しました。
 が、申し訳ないですが、ほぼ全面的に支持できないですね。

 いわゆる "見る銅鐸" の時代に、正月がいつで「今日は何月何日」かという情報は不要と考えます。
 夏至(東に向かい最も北側から上る太陽の位置)と冬至(最も南側〜)さえ確認できれば、東西線(春分&秋分)を割り出すのは簡単で、60°とか30°などの数値的知識も不要ですし、月齢もまた肉眼でほぼOKですから海の状態も把握できます。

 仮に詳細なカレンダーが必要であれば、動画で説明されている洛陽を中心とする魏、あるいは呉から借用すれば済むことですが、卑弥呼登場以前に倭人が洛陽を訪れたとは文献にないようですし、中国から銅鐸はまだ出土しませんね。
 そもそも、銅鐸のギザギザ(鮫の歯?)は数や並びに統一性がなく、とても天文学的装置としての役に立つとは思えません。

 それと、銅鐸はなぜ地中に「ヒレ」を上下にして、しかも等高線にそって丁寧に埋められているんでしょうか。
 高度なカレンダー機能を持っているとすれば、動画での説明そのままに立てて、しかもガチガチに固定して使用すればいいのではないかと考えるわけです。
 また、銅鐸は稲作など農耕民のモノでしょうから、移動を前提としているとも思えないんですよ。


[11498]Re: [11490]Re: [11479]Re: 〔11478〕銅鐸について  茨の紀氏 投稿日:2013年 9月 8日(日)16時21分
琉球松さんへのお返事です。

銅鐸が古代カレンダーとのことです.
344B+343卑弥呼のカレンダーHimiko's Calendar銅鐸の謎と答by

http://www.youtube.com/watch?v=s2Nn80Wd1y4





[11497] [11494]Re: 日下の語源は石渡信一郎に聞け  くず 投稿日:2013年 9月 7日(土)23時53分
むらかみからむさんへのお返事です。

> 昆支は日十大王(隅田八幡鏡)でもあります。誉田山古墳に眠っています。。

前にも紹介させてもらいましたが、韓国(当時百済)の夢村土城3号貯蔵穴出土の須恵器杯身がTK23型式併行とする研究があります。 木下亘氏 橿原考古学研究所

TK23形式の下限は百済の漢城が高句麗によって陥落する475以前と考えられます。
一方誉田御廟山古墳出土の須恵器はTK73型式〜TK216型式(白石太一郎氏)
陶邑須恵器編年では TG232(最初期)→TK73→TK216→TK208→TK23→TK47→MT15
昆支は前記した百済漢城陥落から倭に逃れた人物で、その人物の墓となるとTK47〜MT15が妥当でしょう。

それより2〜3世代古い須恵器併行の誉田御廟山古墳の墓主とは考えられません。

それはそれとして、古墳前期の善光寺平は深く百済と関わっていたと考えます。
そもそも善光寺の善光は開祖の本田善光とされていますが百済王善光のそれと考えます。
周辺の積石塚も百済と関係するものと考えますし、6世紀始めの百済倭人高官、斯那奴(しなの)阿比多は
文字通り、信濃と関連する人物と見れますし、同じく百済の斯那奴次酒も同族でしょう。
百済の肖古王から七支刀を受け取った千熊長彦も千曲川水系から北武蔵に勢力を持っていた集団の出と考えます。

善光寺開祖、本田善光の本田と誉田の符合を面白くは思いますけれど^^


[11496]Re: [11491]Re: [11490]Re: [11479]Re: 〔11478〕銅鐸について  茨の紀氏 投稿日:2013年 9月 7日(土)12時35分
琉球松さんへのお返事です。

> 茨の紀氏さんへ
>
>  継続は力。。。まさにそのとおり!
>  僕は沖縄島で産まれ育ちましたので、ついつい琉球文化圏の目で古代を見てしまいます。
>  まあ、それでイイんじゃないかと開き直って書き込んでいるところです。
>  茨の紀氏さんも、自らのテリトリーから発想する事をお勧めしますね。
>  あとは、神奈備さん達が何とかしてくれるでしょう。

>琉球文化圏の目で古代  の 参考に なれば 幸いです。

【本】「おきなわルーツ紀行」を読んだ感想
http://www.098u.com/2010/12/35212
アミシャブ
2010年12月17日 at 9:54 AM
今年の9月にアミシャブと言うユダヤ教のラビ(先生)が沖縄に来ていました。その目的はイスラエル10支族の末裔の行方の調査です。沖縄への来沖は確か3回目になるかと思います。詳しい内容を書かれた記事がありました。
「アミシャブの人たちが来日し、現在約10日間に亘る日本全国講演を行っている。アミシャブ(AMISHAV)とは、1975年、世界中に離散したイスラエルの10部族の行方を調査するために設立されたイスラエルの特務機関のことである。(シャーベイ・イスラエル/Shavei Israelとは別の組織)
 1994年、彼らはミャンマーとインドにまたがるマニプル州とミゾラム州に居住している少数民族の歴史、言語、風俗、習慣、性格等に至る厳密な調査を実施した結果、その中のメナシュ(シルシン)族が、マナセ族の末裔であることを突き止め、約800人のメナシュ族をイスラエルに帰還させている。
 アミシャブの最高責任者、ラビ・エリエフ・アビハイル氏の著書『失われたイスラエル10支族』が日本語で出版され、2006年12月に放映された『みのもんたの日本ミステリー』という番組との相乗効果もあり、日ユ同祖論は、日本のキリスト教界以上に、一般社会の間で大きな話題となった。
 2007年2月、アミシャブは日本に対する本格的な調査を開始。それから3年後、彼らの今までの調査結果が、今回の全国講演旅行において、当地日本で公表されることになる。」
そのラビの通訳の方のブログがありまして彼らとの印象を記しています

http://solomon.blog2.fc2.com/blog-entry-290.html#comment157


1とくめい
2010年12月17日 at 9:00 PM
この問題について、いろいろな意見を読ませていただいていてもどうしても不安が払拭できなくなったのでやはり書かせてください

私は内地人ですが、同じ日本の沖縄のため、沖縄を今の現状で親ユダヤ化するのは賛成できないのです
単なる日ユ文化交流であっても沖縄は今のところユダヤの動きを慎重に受けたほうがいいです
世界情勢においては、中東地域からもしアメリカへの直接攻撃の変わりに標的となれば一番先に爆撃されるのが太平洋の西の砦で米軍基地のある沖縄です
先の米のイラク攻撃は沖縄から米軍の戦機が飛んで中東諸国と米+イスラエルの紛争に巻き込まれる可能性がありました
実際イラクで米軍の爆撃のあった地域出身の青年が沖縄の米軍基地に来て心痛をおぼえる言葉を発していました
それに加えて沖縄でユダヤ文化が広まっていくことでアラブ諸国と必要のない緊張をつくっていきます

この上に書いたことは今まで誰かが報道等で言っていたことがあるわけではなく、私の持論ですし、単なる親ユダヤ文化の人達には何の悪い意図もなく文化交流を愛する人達が絶対多数と思いますが、平和ボケ日本人から、行く末にどんな結果が待っているか政治的洞察に変えて一度考えてみて良いテーマと思っています
加えてウィキリークスで発表された米軍秘密文書に散見された米軍のイラクでの非人道的行為が暴露されてアメリカと世界の情勢はますます不安定です

前に書きましたように現在わたしは海外生活でユダヤ系女性と同居中なこともあり、ユダヤ文化にとても個人的好感を持っています
でも日ユの関係が学術的研究で確立した結果なら真実として受け入れるべき歴史と思いますが、単なる日ユ同祖論の盛上がりは危険視していますし、日本と沖縄のことを考えて厳しく考索していきたいです

新しいスレを立てればいいものを、邪魔と思われる方に大変申し訳なかったのですが、ここはちょうど沖縄とユダヤ文化に興味のある方々が見られると思い、この場を借りました事、深くお礼申し上げます



[11495]Re: [11490]Re: [11479]Re: 〔11478〕銅鐸について  琉球松 投稿日:2013年 9月 6日(金)16時36分
茨の紀氏さんへ

 継続は力。。。まさにそのとおり!
 僕は沖縄島で産まれ育ちましたので、ついつい琉球文化圏の目で古代を見てしまいます。
 まあ、それでイイんじゃないかと開き直って書き込んでいるところです。
 茨の紀氏さんも、自らのテリトリーから発想する事をお勧めしますね。
 あとは、神奈備さん達が何とかしてくれるでしょう。


[11494]Re: [11490]Re: [11479]Re: 〔11478〕銅鐸について  茨の紀氏 投稿日:2013年 9月 6日(金)12時25分
琉球松さんへのお返事です。

> 茨の紀氏さんへ
>
>  だいたい理解できますが、「日下」と「草香」の語源が同じだとすれば、原義は「カサカ(日坂)」ではないかと推測しますね。
>  と言うのも、沖縄方言の「サカ」は下り坂を意味するわけで(上り坂はヒラ)、生駒山脈から太陽が下って来るとの表現なのでしょう。
>  行ったことがないので、この辺りの空気感はわからないのですが、太陽は淡路島や四国島の向こう側に入るんでしょうか?
>
>  それと、"奄美沖縄の巻貝(太陽の母体)の思想" は単純で、巻貝の割れ目から太陽は生まれて来るってことですね。キリストもお釈迦様もマホメットも中国皇帝も、所詮は子宮から出てきた者にすぎないわけで、「ホド穴」と通称される溶鉱炉の口もまた、金属製品を出産する穴なのでしょう。
>  これはたぶん、イザナギが「1500の産屋を建てよう!」との宣言にも影響しているのではないかと。。。
>
> 写真は、茨の紀氏さんの推論を強化すると思われる 吉村貞司氏の著書『日本古代歴の証明/1981 』と『原初の太陽神と固有歴/1984 』・ロッコウブックス
>
>

 琉球松さん 有難うございます。
継続は力? 長年 書き込みを続けますと 古代史が真実に近づき 仲間ご増え 新情報が大変 参考になります。

伯家神道が予言する 2012年 天皇家の終焉http://nueq.exblog.jp/17523594/

 縄文時代の 「 太陽の道 」 夏至線・冬至線・春分秋分線 (2012/01/03) の記事画像 http://nueq.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=17523594&i=201201/03/43/b0221143_2225983.jpg
      この交点に巨石群・ストーンサークル・ピラミッド・古い神社等が配置されている
                    基準点は三輪山の張り出し台地
                       ( 制作:渡辺豊和氏 )
聖徳太子もフリーメイソン
  投稿者:棘の紀氏  投稿日:2012年 2月 2日(木)02時37分11秒 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3139

古代日本のフリーメーソン: 全国に張り巡らされた日本ピラミッド ...
万葉集にもうたわれた飛鳥の大和三山。それらの頂点を直線で結ぶと、きれいな二等辺 三角形が浮かび上がる。しかも、その垂直二等分線は三輪山を通り、整数比の ピタゴラスの三角形を形成するという。大陽信仰のネットワークと夢通信を手がかりに、 日本 ...http://books.google.co.jp/books/about/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3.html?id=8y3XbwAACAAJ&redir_esc=y
日本ピラミッドや巨石遺構を設計した縄文フリーメーソンの正体に迫る。



[11493]Re: 日下の語源は石渡信一郎に聞け  琉球松 投稿日:2013年 9月 5日(木)22時14分
むらかみからむさんへ

 日下も飛鳥も(大きな東の加羅)で、語尾のラの欠如したとの推測は面白いですね。
 しかし、文献にはそれらしき証拠が見出せないですから、断言ができない。

 「ラ」は、日本本土方言の「あちラ/こちラ」、琉球方言の「上ラ/下ラ」のように、方向を表す語として今日でも健在なのでしょう。地名の「加羅」も、任那&新羅に股がる地域のようで、百済の中心から見るとおおむね冬至の日の出方向でしょうか?
 石渡信一郎氏と林順治氏の説には共感できない部分(箸墓は崇神の墓など)が多いのですが、日下と飛鳥について、もう少し説明があれば助かります。
 うがった見方をすると、「カスガ(春日)」も同系の地名かも?


[11492]日下の語源は石渡信一郎に聞  むらかみからむ 投稿日:2013年 9月 5日(木)01時05分
日下(くさか)の語源は クスカラ(大きな東の加羅)です。語尾のラの欠如。
飛鳥(あすか)の語源の カスカラ(大きな東の加羅)と 同じ旧百済語です。
で、大きな東の加羅とは 昆支(=倭王武=書紀では応神)の故郷の百済のことです。
昆支は日十大王(隅田八幡鏡)でもあります。誉田山古墳に眠っています。。
とにかく、日下の語源について知りたければ 石渡信一郎教授 か 林順治先生の本を 読まれるといいと思います。



[11491]流通面から見る長野(中央高地)の弥生後期  くず 投稿日:2013年 9月 4日(水)12時56分
とみたさんへのお返事です。

お久しぶりです^^あいかわらずの長野を視点とした偏り情報で面目ないですが長野(北部)の場合、

中期において畿内中枢と日本海方面に確立されていた流通路が、
弥生後期に入ると断絶される点に着目しています。
(断絶…はちと語弊があるのかもしれませんが少なくとも中期の様相とは大きく異なります。)

弥生中期において長野北部の栗林土器圏が最大規模となるのがW期前半。
この頃の分布域には特徴があり、善光寺平の千曲川流域は全域に分布を持ちますが、
同じ県内では東部の佐久平、中信の松本平と諏訪にそれぞれ飛び地の拠点的分布が認められています。
この傾向は県外にも及んでおり、日本海では関川河口域の上越吹上遺跡、関東では利根川流域の埼玉北島遺跡に、スポットの栗林土器が集中して出土するいわば流通拠点があったようです。
北陸の小松式土器も似た分布で出土し栗林土器圏との深いつながりが伺えます。
http://www.rekihaku.ac.jp/publication/ronbun/pdf/145004.pdf

中期終末期(W期後半)から後期初頭に柳沢遺跡で銅鐸、銅戈の集中埋納がありました。
また中期後半には石鏃が大量に出土する言わば緊張状態の遺跡が見られるよになります。

後期初頭に日本海方面を経由した中央との断絶…と書きましたが、上越の吹上遺跡で長野方面の土器が出なくなる(遺跡自体は継続)
後期には瀬戸内に見られるような高地性集落が北陸に広がりを見せる。
これは山陰の四隅突出型墳丘墓が北陸方面へ広がりを見せた事に対応したものではないかと考えられます。

この四隅突出型墳丘墓圏と丹後・但馬地域は近接しながらも墓制を異にする地域としてしられますが、
能登以東で高地性集落を形成した人々、長野盆地の人々は丹後との繋がりを持っていたように思われます。
丹後と伽耶の繋がりは残された地名や遺物から良く指摘される所ですが、箱清水期の根塚遺跡(長野県北部)
で伽耶の鉄剣が発掘されています。
また弥生後期の長野盆地に特徴的な螺旋形鉄釧も丹後と繋がりを持つ遺物のようです。
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/74006416/BA57042037_88_93_nojima.pdf

上記の第7図を見ても明らかに思いますが、長野盆地勢力は弥生後期には日本海側水運を捨て、利根川水系から東京湾に流通上の活路を持っていた。
後期後半には東海との繋がりも強まり、三遠式銅鐸が中信で出土している。
長野(中野)盆地でも終末期(濃尾平野編年廻間U式前半期)を境に東海系土器が多く出土します。
東海地域特色の前方後方周溝墓、前方後方墳の分布が見られます。






[11490]Re: [11479]Re: 〔11478〕銅鐸について  琉球松 投稿日:2013年 9月 2日(月)20時45分
茨の紀氏さんへ

 だいたい理解できますが、「日下」と「草香」の語源が同じだとすれば、原義は「カサカ(日坂)」ではないかと推測しますね。
 と言うのも、沖縄方言の「サカ」は下り坂を意味するわけで(上り坂はヒラ)、生駒山脈から太陽が下って来るとの表現なのでしょう。
 行ったことがないので、この辺りの空気感はわからないのですが、太陽は淡路島や四国島の向こう側に入るんでしょうか?

 それと、"奄美沖縄の巻貝(太陽の母体)の思想" は単純で、巻貝の割れ目から太陽は生まれて来るってことですね。キリストもお釈迦様もマホメットも中国皇帝も、所詮は子宮から出てきた者にすぎないわけで、「ホド穴」と通称される溶鉱炉の口もまた、金属製品を出産する穴なのでしょう。
 これはたぶん、イザナギが「1500の産屋を建てよう!」との宣言にも影響しているのではないかと。。。

(写真は、)茨の紀氏さんの推論を強化すると思われる 吉村貞司氏の著書『日本古代歴の証明/1981 』と『原初の太陽神と固有歴/1984 』・ロッコウブックス



[11489] 銅鐸 論議について  神奈備 投稿日:2013年 9月 2日(月)14時33分
;">> 猿丸伝説と銅鉱山の関係

 これは興味深い指摘ですね。

 >和珥氏と銅鐸の関わり

 和珥氏と銅や鉄との関わりについては、谷川健一氏(冥福をお祈りいたします。)の『青銅の神の足跡』にも触れていますが、銅鐸にまで時代を遡らさせられるかどうか、判断ができないところだと思います。


> 弥生後期は紀元後0年ー50年が妥当だと思われます。

 0年あたりは丁度銅鐸の空白時代というか、「聞く」から「見る」への銅鐸の切り替わる時期にあたります。
 銅鐸の切り替わりは信仰上にも大きい出来事でしょうが、社会に一体何が起こったのでしょうか。鉄の利用が進み、権力構造に変化が生じた結果なのでしょうか。
 集落で言えば、環濠集落の消滅と高地性集落の発生時期にもあたるようです。

 時代は緊張の方向に動いているように感じます。卑弥呼の共立あたりまでが、一つの時代だった。


> 水銀朱の産地も議論が不十分だと思っております。

 徳島の若杉山が辰沙の産地でしたが、弥生後期には枯渇、産地は大和の宇陀へ移ったと思っています。大和が権力の中心になって行った理由の一つだと思います。

> 東京湾沿岸で8つ出ていると言われました。どんたくさんの資料ではどうなっていますか。

 まさに千葉県から8箇所見つかっているようです。
http://homepage1.nifty.com/moritaya/syoudoutaku.html



[11488]Re: [11479]Re: 〔11478〕銅鐸について  茨の紀氏 投稿日:2013年 9月 2日(月)13時05分
琉球松さんへのお返事です。


> 問題は、日本列島における太陽信仰が政治的レベルにまで押し上げられた時代は何時かということなんですが、やはり奄美沖縄の巻貝(太陽の母体)の思想?を取り入れた北部九州での女王国連合確立の頃(弥生時代中期)ではないかと推測するわけです。

太陽の母体)の思想?

久部良割(クブラバリ)
http://homepage1.nifty.com/takeishi/okinawa/yaeyama/yonaguni/newpage4004.html

クベラ
インドにおける名前はクベラ
http://www.kitombo.com/mikami/0611.html
鞍馬天狗や魔王尊とも呼ばれる毘沙門天はインドに おいてはクベラ、ミトラ呼ばれ、一方でマイトレーヤ=弥勒菩薩、引いてはイエス・キリ ストにまでつながる仏、もしくは神なのである。
バリー
ヒンドゥー教(バリーヒンドゥー)

クベラ神 ヒンズー教のクべラ神です。「富の神」とのことです。 日本の渡って12神将の「クビラ大将」となったものと思われます。
http://yessatoh.web.fc2.com/Mathura.htm

十二支「亥」はクビラ大将。
http://homepage2.nifty.com/axk/azumakyou/a-traver/kouya0/yakusi12.html
光明普照:自信から発する光明で全世界を普く照らす。

東方に薬師如来、西方に阿弥陀如来、北方に釈迦如来、 南方に弥勒如来の四仏である。塔の四面に安置されたり堂の四方の壁に描かれる。
http://www.geocities.jp/mitaka_makita/kaisetu/nyorai.html
薬師如来は、月光菩薩と日光菩薩を脇侍とする。



[11487]Re: [11479]Re: 〔11478〕銅鐸について  茨の紀氏 投稿日:2013年 9月 2日(月)12時29分
琉球松さんへのお返事です。


>  問題は、日本列島における太陽信仰が政治的レベルにまで押し上げられた時代は何時かということなんですが、やはり奄美沖縄の巻貝(太陽の母体)の思想?を取り入れた北部九州での女王国連合確立の頃(弥生時代中期)ではないかと推測するわけです。
>  この時代以降、銅鐸の祭祀が急速に衰えていく(出雲の国譲りなど)ことは考古学上でも明らかだと思うんですよ。

ニギハヤヒが建てて消えた銅鐸文化の国、すなわち物部氏の「日本(ひのもと)」に他 ならない。
http://koujiyama.at.webry.info/200908/article_225.html
神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒに使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(クサカムラ・大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。

「日下」「ヒノシタ」と書いてなぜ「クサカ」と読むのでしょう?
草香(クサカ)の枕詞は日下(ヒノモト)であり、元々「ヒノモト ノ クサカ」と呼んでいたものが、日下だけでクサカと呼ぶようになったということです。日下部(クサカベ)氏もそうです。
 しだいに日下が日本(ひのもと)という字が当てられ、倭(ヤマト)国から日本という国名に変わったというのです。

 丹後の国の風土記に曰はく、與謝の郡、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫、日下部首等が先祖の名を筒川の嶼子と云ひき。爲人、姿容秀美しく、風流なること類なかりき。斯は謂はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。…
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/hioki.html
B日置は「ヘキ」と読むのが正しく、もともと戸置の字を当てるべきで、これは租税を徴集するために戸数を調べ置く意味だという説。江戸時代の国学者、伴信友や太田亮によって代表される。

「土」は朝鮮語で「ヒキ」日置
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1861
弥勒尊が不思議な小童子の姿で出現し花郎の徒の歌楽に応じて奇瑞を現し啓示を示すという神話を持っており、組織には忠君愛国的な精神を持つ武士道のような性格があった。この弥勒のイデアが新羅のみならず百済の弥勒信仰者とも向応して、新羅の三韓統一の原動力になっていったのである。
弥勒尊
北尾根に弥勒堂(みろくどう)、中尾根に塔と小金堂(しょうこんどう)、南尾根に金堂と講堂(こうどう)が配置されていることが明らかとなった。
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1861
崇福寺
銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の 天智天皇7年、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古
「大辞泉」によると崇福寺は、「大津宮遷都の翌年、天智7年(668)勅願によって創建。たびたびの火災で衰微、寛喜2年(1230)園城寺(三井寺)に付属し、以後廃絶。」とのこと。
昭和3年及び13年に発掘調査が実施され、北尾根に弥勒堂(みろくどう)、中尾根に塔と小金堂(しょうこんどう)、南尾根に金堂と講堂(こうどう)が配置されていることが明らかとなった。

、崇福寺と天智天皇陵とを結ぶ直線を引いて、そこに何かないか調べてみたい ところだが、それには問題がある。 ... マイマップ(桓武天皇陵レイライン) 地図を拡大し て、じっくりと見ればわかると思うが、三井寺・天智天皇陵・淳和天皇御 ...
http://blog.goo.ne.jp/tonmana-angler
これらを総合すると、桓武天皇が天智天皇追慕のため建立した寺は、当初「四天王寺」と称され、後に梵釈寺と呼ばれるようになった、その寺があったと推測されている場所は、大阪の「四天王寺」と天智天皇陵を結んだ直線の先にあるということになる。



[11485]銅鐸論議  とみた 投稿日:2013年 9月 2日(月)08時40分
九月に入っても暑いですね。お久しぶりに投稿させていただきます。古代史をマジで勉強を始めて10年になります。このコーナーの有力メンバーが会話されていて懐かしく思います。私は考古学的な真当な論文をたくさん読んできました。

専門家の意見でも大いに異なるので、みなさんの意見と摺り合わせるためにお知恵をお借りしますのでよろしくお願いします。
一年前は弥生時代前期末ー中期初頭をターゲットに調べました。
朝鮮半島から無文土器(粘土帯土器)文化を持った人が北九州に渡来し、青銅器と鋳造鉄器を持ち込んっだことは紛れのない事実です。

弥生中期は紀元前200年前後、中期後半は紀元前1世紀でしょう。
弥生後期は紀元後0年ー50年が妥当だと思われます。
終末期は紀元後200年から250年ぐらいまで古墳時代は250年から
これが大体の年代観でしょうか。学者によっては多少のズレはあります。

只今は弥生時代の後期と終末期をターゲットに調べ始めました。
有効な情報を教えてください。

銅鐸論議と高地性集落論議がやはり不確かです。
青銅器に使う銅と錫と鉛。銅は自然銅なのか、輸入品でしょうか。それさえ議論が不十分です。水銀朱の産地も議論が不十分だと思っております。何かヒントがありましたら教えてください。
銅鐸は小銅鐸が始まりでしょうが、先日明治大の大塚初重先生は全国で46出ていて東京湾沿岸で8つ出ていると言われました。どんたくさんの資料ではどうなっていますか。


[11484]銅鐸について  くず 投稿日:2013年 9月 1日(日)17時55分
皆さんへ
銅鐸についての個人的な考えですが、まず外せないところとして、
今まで銅鐸は墳墓からの出土がない。
この事はこの祭器が個人ではなく共同体にのみ帰属するもので、
銅鏡や銅剣とは一線を画するものと考えて良いだろうという事。

環濠集落を形成して水耕稲作を行い鳥や鹿を神聖視する、弥生中期的共同社会を象徴する祭器。
王が登場し身分の差が顕著になる弥生後期的社会(北九州では中期後半)への流れの中で、
共同体社会の解体とともにその役割が失われたものと、大きくは解釈しています。

次ここ数回書かせて頂いた要点ですが、
弥生中期からの銅鐸祭祀圏を広い意味での旧イズモと考る前提。
水耕稲作の新技術伝達。年1の中央参集。銅鐸(青銅器)生産供給。水運利用の広域交易。

この祭祀圏での大画期が出土分布を大きく変える突線紐式の1式と2式の間にある事に注目、
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html#dotaku08
製造形式は継承されつつ分布域を変えるのは製造技術集団の移動があったからではなかろうか?
生産中枢を離れざるを得なかった理由として記紀に言われる神武帝の大和入りと姫蹈鞴五十鈴姫との婚姻がその理由に相当するのではという考え。
それが畿内第WとX様式の端境、最初の全域規模の大量埋納にあたるのではないか。

その後弥生終末期の大量埋納で弥生的共同社会は終焉し銅鐸祭祀も失われる。
とはいえ完全に社会から消失したわけではなく諏訪に伝わるサナギ鈴など、今にも伝わるものと思います。

二荒山頂出土の鉄鐸と諏訪の鉄鐸には、日光の小野猿丸伝説、諏訪近隣で鉄鐸を伝える小野神社と、小野氏=和珥氏との関連が伺えます。
以前調べたものに猿丸伝説と銅鉱山の関係がありますので参考までに。
●日光の蛇神をを助けた小野猿丸伝説。日光市には足尾銅山。
●新潟県郡鹿瀬町実川に猿丸太夫伝説、実川の鉱山は銅鉱を産出。
●岐阜県高山市荘川町に猿丸地籍、荘川鉱山は金、銀、銅を産出。
●石見銀山の近く島根県美郷町に猿丸地籍、美郷町竹の銅ヶ丸鉱山からは銅が産出。
●銅が奈良の大仏にも使われたという福岡県香春町彩銅所近く、猿丸太夫の墓。
 鉄鐸を伝える長野小野神社は弥彦神社と背中合わせに建ちますが、新潟弥彦にも銅山。
 越後弥彦大宮司家の高橋祝氏も和珥氏か?

諏訪からは蛇行剣が出土。
播磨國風土記‐讃容郡に丸部(ワニベ)具が"申屈して蛇の如し"とする剣の保持を伝える記事。

和珥氏と銅鐸の関わりについて皆様のご見聞、ご意見を伺いたいところです。




[11483]Re: 〔11478〕銅鐸について  琉球松 投稿日:2013年 9月 1日(日)13時23分
茨の紀氏さんへ

 僕は、銅鐸で夏至&冬至を観測するのは困難だと思います。
 また、太陽信仰の祭器とする説にも賛同できずにいますね。

 銅鐸の一部には、その4つの穴を×点に結び、それぞれ2ヶ所が約60°を示すものもありますが、いくら大型化したとはいえ、ちょっと押せばズレてしまいますから、むしろ不便だと思うんですよ。
 それよりも、一つのポイントを決め印象的な山頂や聖木などを2点で結び、日の出と合致させるとか、ストーンヘンジなどのような微動だにしない設備でなければ太陽観測所としての使用はできないでしょう。

 ご指摘のとおり、稲作などの農耕にもカレンダーは必要ですが、縄文時代でさえも、上記のような方法や影の移動を見ることで簡単に夏至&冬至や東西線を知ることが出来たと考えますね。

 問題は、日本列島における太陽信仰が政治的レベルにまで押し上げられた時代は何時かということなんですが、やはり奄美沖縄の巻貝(太陽の母体)を取り入れた北部九州での連合確立の頃(弥生時代中期)ではないかと推測しますね。


[11482]Re: 〔11478〕銅鐸について  茨の紀氏 投稿日:2013年 8月31日(土)23時13分
miraiさんへのお返事です。

> 銅鐸の大小については判りませんが、銅鐸・銅鏡はその時代の、とある軍事集団の使用道具であったろうと想像しています。銅鐸はそれで今まで聴いたことのない異様な音をきかせることで敵を威嚇して恐れさせる物であり、銅鏡は太陽の光を反射させて、その反射光をぎらぎらひかる大きな怪物の目であるかのように見せて敵を威嚇して恐れさせる物であったと見ています。ヤマタのオロチの目は、銅鏡の反射光と同じく、酸漿の色のように輝くことが神話には記されています。

 参考になれば幸いです。
太陽崇拝族と銅鐸で知る冬至祭祀
この世界には昔も今も太陽を崇拝する民族が各地に存在し、日本でもかって太陽崇拝を行っていた痕跡がさまざまな形で残っています。
弥生時代に入っての稲の栽培では夏至が重要な農業暦の一日となり、古代のシャーマン(巫術師)たちは、この日を人々に告げ、田植えの督促をした。また、冬至の日は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し、復活すると考えられていました。そこで、これを人間の生命のよみがえりに重ね合せて、生命の復活を願う祭を行ったといわれています。
この夏至や冬至の太陽の日の出線を示す有名な史跡にイギリスのソールズベリにあるストーンヘンジがあります。紀元前1900年頃に形成されたとされるこのストーン・サークルの北東方向には夏至の太陽の日の出線方位が開き太陽観測の要石があり太陽祭祀が行われたのではと推測されています。
南米のインカ文明でも、夏至に太陽神をあがめる大祝典があり、貴族や高官がその首都クスコに集まりました。
日本各地の2至2分(夏至・冬至・春分・秋分)の日の出入り方位を国立天文台編の「理科年表」で見ると下表となり、緯度が高くなるにつれて南北への方位角が大きくなることがわかります。
5.風葬と青銅器(2)
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/index98-4.html


[11481]〔11478〕銅鐸について  mirai 投稿日:2013年 8月31日(土)01時02分
銅鐸の大小については判りませんが、銅鐸・銅鏡はその時代の、とある軍事集団の使用道具であったろうと想像しています。銅鐸はそれで今まで聴いたことのない異様な音をきかせることで敵を威嚇して恐れさせる物であり、銅鏡は太陽の光を反射させて、その反射光をぎらぎらひかる大きな怪物の目であるかのように見せて敵を威嚇して恐れさせる物であったと見ています。ヤマタのオロチの目は、銅鏡の反射光と同じく、酸漿の色のように輝くことが神話には記されています。


[11480][11477]小銅鐸の分布  琉球松 投稿日:2013年 8月28日(水)23時13分
かたばみさんへ

 「小銅鐸」に限って言えば、この "音を出すための道具" は、福島県あたりまで分布していると推測しますね。
 つまりは、弥生時代初期の稲作の分布と重なるのではないかと。。。

 何故、音が必要なのかはいろいろと推測できますが、単純に獣や鳥、害虫から稲を守ることが原初的な使い方で、その後に宗教的政治的レベルにまで高められたのではないでしょうか。
 小銅鐸出現以前の出雲地方からは「土笛」と呼ばれる楽器?が出土していますから、朝鮮半島由来の銅製品は、より効果的な音だと判断され導入されたと思います。

 沖縄で生まれ育った者の感覚からすると、音は風を呼び雲を発生させ、雨をもたらすものだと観念できます。
 雨が降らなければ水争い、収穫が減れば土地争い。。。倭国の乱は稲作の定着ですでに始まったと考えたいわけです。

 さらに付け加えると、肥大化し「ヒレ」が追加されたいわゆる "見る銅鐸" も目的は見るためではなく、相変わらず音を鳴らす祭具だと思いますね。胴体に残された4つの穴は、風の作用でピューピューと "泣く" はずで、髭が伸びるまで泣いてばかりいる神々や、中国で言う「鮫ザメと泣く」龍によって雨を期待したんじゃないでしょうか?
 しかし、その努力の介もなく「倭国大乱」は解消せず、北部九州から東方へ拡大していった「女王連合」の太陽信仰に参加していったのでしょう。土地や水などと違い太陽は誰も所有できませんからね。


[11479]Re: [11474]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  かたばみ 投稿日:2013年 8月28日(水)12時03分
神奈備さんとくずさんと琉球松さんへのコメント兼用にて。

もともと銅鐸は音を出すための道具、源流は小銅鐸でしょう。
小銅鐸は弥生中期から古墳時代初期まで各地から出土。
小銅鐸の出土分布図です。しばらく前には小銅鐸は九州、でしたがそうではないことがはっきりした。



どんたくさんの小銅鐸出土地名表データを使っています。
http://homepage1.nifty.com/moritaya/syoudoutaku.html

九州の小銅鐸廃絶時期が弥生中期〜後期であるのに対して、関東では古墳時代初期まで残ります。
近畿あたりでは弥生末期で一般銅鐸消滅に一致かな。
吉備にはない、発見されていないだけか。
小銅鐸を関東にまで運んだのは、初期の出雲文化圏の人々でしょう。朝日遺跡の出雲あたり、BCゼロあたりか。

近畿あたりではいわゆる大型銅鐸と共存する期間があるようにみえる。
しかし関東では大型銅鐸はでていない。
関東にまで大型銅鐸が運ばれる前に近畿の出雲が占領されたために、小銅鐸だけが古墳時代まで残ったと考えています。
九州では弥生中期頃に出雲勢力が消えて小銅鐸も消えた、大型銅鐸はむろんでない。
持論では神武朝が終わるAD100以降の消滅であろうとなります。

小銅鐸の当初の用途は船の信号用ではないかと考えています(半島では馬鐸があるけど日本では馬はまだ使われていない)。
夜あるいは霧の深いとき、船の存在を知らせるためです。
山間部出土の小銅鐸も河川の近辺です。
船の信号用小銅鐸ならどこでも必要な道具だったでしょう。

一般銅鐸もまずは音ありきだと思う。
祈る者がいることを神々に知らせる。神社の鈴をジャランジャランの原型かな(正式名称知らない)。
特定の相手ではなく自然界全体へ、ならば遠くまで隅々まで聞こえる音がよい、小銅鐸をそのまま使えばよい。
野原の真ん中でカーン、でよい。その後に祈念を唱える。
神様を呼びおろすなんて失礼なことはしません(^^; 祈る者がそこにいることを知ってもらうための道具、熊よけの鈴みたいに(^^;

では音のでない銅鐸に変化したのはなぜか。
まずは寒冷化による祭祀具の大型化だと思います、人に目立つように。だが音は低音になり響かなくなる。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/DM_CD/DM_CONT/DOTAKU/HOME.HTM
そして人に見せる目的へ大きく傾いていった。
立派な大きな銅鐸で祭祀を行う、それを民に見せて安堵させる。その目的が大きくなったのではないか。
祭祀の実用的な目的のひとつとして「人の精神的な安定を図る」はいつの時代でも常にあると思います。


唐古・鍵遺跡から禹餘粮(鳴石容器)が発見されています。
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/03_sightseeing/town_cultural_asset/hisui.html
ここの、ヒスイ勾玉を納めた褐鉄鉱、参照
中国思想の影響でしょうけど勾玉をいれるなんてのは縄文由来とみえる。
勾玉をなんとみるか。


では、天孫の祭祀は・・よくわからん(^^;
蛇行剣? 古墳時代で祭祀具っぽくて出土は全国規模。南九州発の論もある。
鉄剣だから錆びて残りにくいはず。出土数よりはるかにたくさんあったのではないかな。
古墳時代にしては伝承が残らないのが不思議。
いまのところ最古は北九州市の南方浦山古墳で4世紀とされる。小さな円墳のようです。
勾玉(縄文時代)、鏡(弥生時代)、蛇行剣(古墳時代)、かあ。

古墳時代の鉄鐸について/愛知県埋蔵文化財センター(出土分布図などアドレスではうまく表示されないので検索してください)。
これも祭祀具だと思う、文様はなく形も単純ですが鉄器で加工が難しいからでしょう。
その分布図では九州発のようにみえ、蛇行剣と鉄鐸はペアか??
蛇行剣より新しいようだけれど関連が深いのではないかと思っています。
どちらもなにゆえに南九州からでるのか??


>香川県の「森広遺跡」から銅鐸片が出土していますが、参考になるでしょうか。

香川と土佐には黒曜石を運ぶ南北縦断ルートが縄文からあったようです。
土佐の田村遺跡から近畿型銅鐸がでていますが、おそらくは香川からこのルートだと思います。
田村遺跡の変化の様子からこちらの年代はAD150〜200頃とみています。




[11478]Re: 森広遺跡
琉球松 投稿日:2013年 8月26日(月)14時54分
神奈備さんへ

 「辰砂」は比較的毒性が弱いようですから、銅鐸などの研磨剤としても使用されたでしょうか?
 銅製品は放置すると青っぽくなりますから、祭器としての霊力?が弱まるのかもしれませんね。
 そう考えると "阿波の若杉山の辰沙が底をつき、大和宇陀の鉱山に活路を求めた" との解釈は妥当かもしれません。
 また、森広遺跡群の一部からは「巴型銅器(原型はスイジ貝?)」が最も多く出土していますから、辰砂は重要な鉱物だったでしょうし、赤色塗料としても使用されていたはずですから、"箸墓の棺は真っ赤かも" との推測は支持したいところです。

 倭迹迹日百襲姫は、大内町の「水主神社」の伝では「孝霊天皇の娘で、奈良県田原本町黒田を追放された」となってますね。母は淡路島の出身ですから、讃岐&阿波あたりが前方後円墳の起源ではとする説にも説得力があると思います。


[11477]Re: 森広遺跡  神奈備 投稿日:2013年 8月25日(日)12時29分
琉球松さんへのお返事です。

>  "和の思想" とはそういうものではないかとも考えますし、香川県は「ヤマトトトヒモモソ姫」とも縁のある土地側で、同遺跡近くの津田川下流の「岩崎山四号墳」からは、ほぼ同時代の奄美沖縄産貝釧がザクザク出てきます。

琉球松さんの観点は独自のものがあり、興味深いです。

 倭迹迹日百襲姫は讃岐・阿波では水に関係する神社の女神です。丹生都比売神は水銀の女神から水神へ変化したとされています。同じように倭迹迹日百襲姫神は水神から水銀の神に変化したのかも。発掘すれば箸墓の棺は真っ赤かもしれません。
  神社と古墳から言えることは吉備・讃岐・阿波等の国々の連合が畿内に移動して大和に王権を確立したようにみえます。古墳の様式などは阿波・讃岐から、埴輪は吉備から、重要な祭祀様式は忌部氏が四国からと思います。
 王権が大和に移動した目的の一つは阿波の若杉山の辰沙が底をつき、大和宇陀の鉱山に活路を求めたと。

http://kamnavi.jp/log/ugasikoku.htm


[11476]森広遺跡  琉球松 投稿日:2013年 8月24日(土)13時37分
 香川県の「森広遺跡」から銅鐸片が出土していますが、参考になるでしょうか。

以下は『日本の古代遺跡8香川/濱瀬常雄(保育社)1983 』より抜粋
*** 建物群に近接して銅鐸の破片七点が出土している。破片は最大のものでも五センチ大、最小のものは一センチぐらいである。一部に打撃によってひずんだとおもわれる痕跡があり、そのことから銅鐸は破壊されたと考えられる。扁平鉦式銅鐸であり、袈裟襷文をほどこしていたとおもわれる。(略)
 香川県ではこの時期の土器編年がすすんでおらず、いまだ不明確な状態であるが、いずれにしても森広銅鐸は弥生時代後期末から古墳時代初め以降には破壊され放棄されたと考えるべきである。きわめて貴重な祭器であった銅鐸を放棄するような、文化的、政治的な変革がこの時期におこったのだろうか。***

 弥生時代後期末から古墳時代初めと言えば、文献に出る邪馬台国の時代でしょうし、銅鏡の生産が開始される頃でしょうから、銅鐸や銅剣などが銅鏡の原料となったと考えていいと思いますね。
 同時に、銅鐸は忘れさられたのではなく、その「出雲信仰」を明確な目的も持って「太陽信仰」に取り入れたのではないでしょうか?
 "和の思想" とはそういうものではないかとも考えますし、香川県は「ヤマトトトヒモモソ姫」とも縁のある土地側で、同遺跡近くの津田川下流の「岩崎山四号墳」からは、ほぼ同時代の奄美沖縄産貝釧がザクザク出てきます。


[11475]Re: [11465]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』水かけ論  神奈備 投稿日:2013年 8月23日(金)11時26分
かたばみさんへのお返事です。

>> 大和からの銅鐸の出土が多くないのは、比較的まじめに鏡に鋳直した?
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html
> これだけたくさん出ていますから「出土が多くない」は無理でしょう。分布状況はどうみても畿内が中枢。

 「出土していない」を根拠に物を言うことは、いつ何時掘り出されるかも知れないので、こわいことですが、大和の銅鐸出土数19は、近辺の摂津34,河内18、近江36,紀伊38に比べても、決して多くはありません。
 さらに、畿内の政治の中心地であったかとからも、本来は数倍は出て欲しいように感じていますので、鋳直された可能性が高いと考えています。

http://homepage1.nifty.com/moritaya/sinsyutudoti.html


[11474]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  くず 投稿日:2013年 8月22日(木)00時05分
かたばみさんへのお返事です。

> >地方の首長兼祭祀長は、年に一度の中央出向が決められていて、それが神無月神話に繋がっている。
>
> これが、出雲文化圏の基本行事だと思っています。
> ただし、集まった場所は現在の出雲大社ではなく、奈良の唐古・鍵遺跡付近だと考えています。

東の辺境、長野からみましてもそのように考えます。
銅鐸、銅戈発見の柳沢遺跡の時代(長野栗林期=弥生中期後半でおそらく畿内第V様式から第W様式に併行)
長野盆地は著しい水耕稲作の発展があり、流通面でも日本海へ注ぐ関川河口近くに位置する、
上越の吹上遺跡では長野の栗林式土器が大量に出る。
http://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/life/35328_43475_misc.pdf
ここでの翡翠加工品が、中枢であったであろう唐古・鍵に持ち込まれていたのかも^^
また唐古・鍵に際立って特徴的な弥生線刻画(鹿)の土器も柳沢遺跡で見つかっています。

水耕稲作の技術伝播が核ではあって、威信財としての青銅器製造と配布。それを用いての司祭者派遣。
それから川、海、湖沼を使った流通(水運力)により旧イズモ圏は結ばれていたと思います。

> 書紀も九州らしき場所(日向、ヒムカ)から神武を出発させています(なぜ日向なのか)。
> AD57、最初のマイルストーン。

神武=AD57年は非常に面白いと思います。
江戸時代に串間の「王之山」から出たとさせる玉壁の継承一族と隼人族との同盟勢力を考えます。
「奴国」は辺境(境界)の国という意味で用いられたものと思っています。
福岡、鹿児島、長野あたりも奴国だったかも^^

> 神武の年代は実際にはいつごろとみることができるか。
> 大国主は神武と同世代、大国主の国譲りは天孫降臨時代ではなく、神武時代の事象。
> 神武の妃の媛踏鞴五十鈴媛、事実と見なせる。

摂津の銅鐸姫との婚姻が最も効果的であったと思われるのは聞く銅鐸から見る銅鐸への転換期に思います。
中期の末。畿内第W様式期と第X様式期の境界あたり。摂津での銅鐸出土の一時的な空白期にあたる。

第X様式初頭の土器と一緒に出る中国新時代の「貨泉」から推測するとAD50年に前後する時期が畿内第X様式の始まり。
池上曽根遺跡の年輪年代測定法では第W様式のおわり頃がBC50年。
この100年のズレは年輪年代測定の誤りという説
http://homepage3.nifty.com/washizaki/present1108.pdf

第W様式の特徴は瀬戸内で使われていた凹線文の全国的な普及を画期としての区切りですが、
瀬戸内情勢の混乱期(高地性集落)により、安住地を求めて各地に逃れた人々によるものと想像します

安芸、吉備と行宮したとされる神武により、この画期は収束したのでは。

媛踏鞴五十鈴媛との婚姻と第1期銅鐸大量埋納を考えますと、神武勢力の大和貫入はありだったのではと
思います。
神武、奴国王金印受領説で言えば、
金印は奴国王としての受領であって大和に勢力拡大してからのものではないでしょうから、
大和貫入があったとすればAD60〜70年頃か。。



[11473]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  かたばみ 投稿日: 2013年 8月19日(月)12時57分
くずさんへのお返事です。

>地方の首長兼祭祀長は、年に一度の中央出向が決められていて、それが神無月神話に繋がっている。

これが、出雲文化圏の基本行事だと思っています。
支配ではなく農耕技術による部族統合、アメリカインディアンの部族長会議と同じ。
報告と情報交換ですね。
ただし、集まった場所は現在の出雲大社ではなく、奈良の唐古・鍵遺跡付近だと考えています。
縁結びの相談もここでやった。

書紀はこれらを神代において消し去った。神武が日本の始祖であり、それ以降ではその他の勢力の存在はないものとするために。
ために、すべての「具体的出雲伝承」が現在の出雲大社(信仰の中枢)に集中されて現在の状況にいたる、というわけです。


最新文化の流入は常に北九州です。したがっていつの時代でも北九州から離れた勢力は遅れをとる(交通の進歩がない限りは)。
なんらかの勢力が登場するならまずは北九州。出雲文化圏も同様。
書紀も九州らしき場所(日向、ヒムカ)から神武を出発させています(なぜ日向なのか)。

「倭国」が歴史に明示されるのが後漢書にいう「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、人使自稱大夫、倭国之極南界也・・」
AD57、最初のマイルストーン。
ここでは倭になっていますが当時では倭の文字はなく「委」であったとみています。稲や雑穀など穂になる穀物の意。
朝貢後にその人々を意味する文字として「倭」を作った。ゆえに金印ではまだ委です、授与する公式印に省略文字が使われるはずはない。
これ以降の各種写本などでは委を倭に書き換えて写す場合も生じる、倭国ではない地域も倭とされてしまうことも生じるわけです。
隋書はその点で正確、相手が一般に知られていた倭国(九州)ではない倭国であるので倭に類似の文字を作って用いた。

注目は「倭国之極南界也」です。使者は倭奴国を倭国の最南端にある、といっている。一般的に日本の最南端は鹿児島でよいでしょう。
記紀とリンクできる可能性はあるか。リンクできそうなら年代も確定できる。
書紀に倭奴国らしきは登場しないけれど、あーでもない、こーでもない・・(^^;
魏志倭人伝に奴国がふたつ登場する記述がある、後漢時代の奴国も鹿児島あたりと福岡あたりの2ヶ所にあったとみるならば・・

若き日の神武は鹿児島にあって福岡へ北上して倭国を建国した・・
鹿児島の神武伝承、宮崎の彦穂々出見伝承、天孫降臨伝承、などなど説明がつく。

書紀での神武の敵は賊と称する民と饒速日の家来の長髄彦しか書いていない。すでに消去済みの出雲が登場したらおかしいから当然でしょう。
なのに、突然に事代主命の娘をめとる。大国主の孫。
消えた神代の人物がなんで突然に神武の妃になるんじゃい。
編纂上の凡ミス? にしてはだれにでもわかることをなぜ書いたか。

広大な出雲文化圏が存在していた。
書紀編纂者はその一部といえど神武が「継承」≒「国譲り」された「好ましい事実」を捨てたくない意識があったからだと考えています。
編纂者の良心かもしれない、危険を承知で「事実」を書いた。
神武の年代をBC660らしきに設定しているから神代と同居させてもよかろう・・が、堤防もネズミの穴から崩壊する(^^;


神武の年代は実際にはいつごろとみることができるか。
系譜に登場する人物の世代数から相対的に考える他はないでしょう。伝承のあいまいさは別にして世代数をごまかしていない限りは。
天孫降臨に遡ることになります。
ここから4世代後が神武。まず神武は隼人族とみえる妃をめとっている、すなわち若き神武はやはり南九州にいる。

後漢書の「倭国之極南界也」、倭人伝のふたつの奴国・・・一気にジグソーパズルがはまり始めました。
天孫降臨は次元の異なる高度文化の来訪でしょう、呉楚七国の乱で世代数もほぼ一致。
遡ってスサノオは箕子朝鮮崩壊、どちらも年代を確定できて、その渡来者とみればこちらも世代的に不自然はない。

天孫降臨時代は国譲りどころか激戦時代、BC100前後の北九州からでる多数の戦死者の骨がそれを示しています。
記紀の天照大神の源流もここにあり。海洋系の最新文化を取り込んでいる縄文の人々(持論ではアマテラスとしています)。
まずはスサノオ勢力がアマテラス勢力を攻撃、記紀にいう天照大神と素盞鳴尊の葛藤ですね。
ここにやってきたのが天之忍穂耳、アマテラス勢力を支援してスサノオ勢力を排除した(記紀にいう素盞鳴尊の追放)。
うんぬんかんぬん・・

基本線が確定したらあとはどーってことないです(^^;
記紀に書かれることをどう判断するかだけ。いつどこでだれが、にだけ注意をはらってなにがあったかを検証する。

大国主は神武と同世代、大国主の国譲りは天孫降臨時代ではなく、神武時代の事象。
神武の妃の媛踏鞴五十鈴媛、事実と見なせる。
隼人文化圏から離れて出雲文化圏と接するようになったことを示す。
神武が倭国を建国して金印をもらった・・だれもが密かに期待しているところではないでしょうか、それが期待通りとなる(^^;
倭国争乱、孝昭〜開化の空白期間と常識外れの長寿命・・芋づる式で解決。

出雲文化圏ののありようは記紀から抹殺され、信仰として島根に集約されてしまっています。
考古学的出土物で推測するしかありませんが、ここにはウエツフミが参考になる。
神社伝承なども含んで各種資料は全否定でもなく全肯定でもなく、「いつ、だれが、どこで、なにがあったか」に分解して考えています。




[11472]Re: (無題)  くず 投稿日:2013年 8月18日(日)10時32分
むらかみからむさんへのお返事です。

はじめまして。
須恵器による編年について個人的なマイルストーンですが、

・韓国(当時百済)の夢村土城3号貯蔵穴出土の須恵器杯身がTK23型式併行とする研究があります。
 木下亘氏(2007年)
・夢村土城は百済の首都漢城の中心で、ここの貯蔵穴に上記の須恵器が入る可能性は高句麗に攻められて漢城が陥落するAD475年以前と考えられる。
・日本各地でもTK23形式併行期に百済土器共伴の一画期がある。(首都陥落による百済から大量移民の裏付け)
 福岡県・西森田遺跡3号溝、佐賀県・野田遺跡他

以上からTK23形式を5世紀後半とする事においては整合するものと考えます。


稲荷山古墳の出土物は陶邑TK23〜TK47古段階と、MT15〜TK10型式の2時期に分かれると認識しており、
鉄剣が古い方に属するか、新しい方に属するかで、471年か531年かという見方が生まれるものと思います。

しかし銀象嵌銘鉄刀の出土した熊本県・江田船山古墳がTK23〜TK47型式古段階とされているので、
稲荷山鉄剣も古い時代に属する遺物と考え、稲荷山鉄剣の辛亥年は471年。
獲加多支鹵大王は5世紀後半(主に陶邑TK23形式期)の人物でよいものと考えます。



[11471](無題)  むらかみからむ 投稿日:2013年 8月17日(土)22時11分
【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 @実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 A貴重な金石文を正確に読みましょう。
 B地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記@ABを 徹底的に、探究しました。
@古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
A七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
B地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)

今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年〜340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
@草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
A発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
B稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
C少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳−−−−−−年代−−−−被葬者
@箸墓−−−−−385年頃−倭王旨(七支刀)
A渋谷向山古墳−410年頃
B行燈山古墳−−430年頃−倭王讃(宋書)
C五社神古墳−−440年頃−倭国王珍(宋書)
D中ツ山古墳−−450年頃−倭国王済(宋書)
E石津山古墳−−475年頃−倭国王興(宋書)
F誉田山古墳−−510年頃−倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
G大仙古墳−−−520年頃−男弟王(隅田鏡)
H見瀬丸山古墳−570年頃−獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
I太子西山古墳−585年頃
J石舞台古墳−−620年頃−阿毎多利思比孤(隋書)
K天武陵(旧)−645年頃−ワカミタフリ(隋書)
L持統陵(旧)−645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳−−−被葬年−本名−書紀の中の名前【家系図】
@箸墓−−−393−旨−ミマキイリヒコ【初代】
A渋谷向山−409−?−イクメイリヒコ【@の子】
B行燈山−−438−讃−イニシキイリイコ【Aの子】
C五社神−−442−珍−ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【Bの弟】
D中ツ山−−462−済−ホムタノマワカ&尾張連草香【Bの孫】
E石津山−−477−興−カワマタナカツヒコ&凡連【Dの子】
F誉田山−−507−武・日十・余昆−昆支&ホムタワケ【Dの子の婿】
G大仙−−−531−男弟−ヲホト&オホサザキ【Dの子の婿。Fの弟】
H見瀬丸山−571−ワカタケル−アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【Fの子】
I太子西山−585−?−ヌナクラノフトタマシキ【Hの子】
J石舞台−−622−アメノタリシホコ−タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【Hの子】
K旧天武陵−645−ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【Jの子】
L旧持統陵−645−?−蘇我入鹿【Kの子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。



[11470]Re: [11468]Re: [11467]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  神奈備 投稿日:2013年 8月17日(土)09時59分
> 北九州を発って瀬戸内を東に進む神武は、安芸国埃宮、続いて吉備国高島宮を経由しますが、

 安芸の前に周防などに上陸したとの伝承があるんですね。

 安芸への上陸が本土で始めてなので、秋津洲なんて名前が付いたのかと想像していました。

 所謂”聞く銅鐸”は西暦0年頃に終焉を迎えています。”見る銅鐸”への祭祀の移行がなされています。大型化と言うことでしょう。銅鐸祭祀にさらに深く入って行ったと云えるのでしょうが、戦争での合図と言う使い方はしないとの合意ができたのかも。
 おっしゃる通り、神武軍の大和侵入がその契機になったのかもしれませんね。

 次の銅鐸”見る銅鐸”が終焉するのは、古墳時代の到来と合わさっているように感じます。古墳の前方部と銅鐸の形、良く似ています。

銅鐸の役割を整理してみます。
 春 水田を見守る。辟邪。
 秋 稲穂の魂が逃げないように、保倉に異稲と共に置く。

荒神谷遺跡の銅鐸 出雲東部、瀬戸内への呪禁でいいのでしょう。

加茂岩倉遺跡 北部九州への呪禁。
 『出雲国風土記』大原郡 神原の郷 古老の言い伝えるところでは、天の下をお造りなされた大神の神御財を積んで置き給うた場所である。だから神財(かむたから)の郷というべきだが、今の人はただ誤って神原の郷といっているだけである。(天平五年 733)
 700年の時を隔てて記述された大国主の国譲りの一場面が記載されているとすれば、凄いこと。

古墳時代の到来 卑弥呼の霊や他の首長霊を祭るようになり、銅鐸は不要となり、鏡が重宝されて、共に古墳に埋められるようになる。

> 青草ですが、自分は少彦名命が銅鐸の神格化ではなかろうかと考えます。
小名彦→サナ彦

 座布団一枚と言いたい所です。スクナヒコのスクナとは宿禰の意味ではと思っています。



[11469]Re: [11465]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  かたばみ 投稿日:2013年 8月16日(金)23時13分
神奈備さんへのお返事です。

お暑うございます。

森浩一氏は、神武東征説話の一部を引用して大阪湾から河内潟にかけての土地の古代の地形に即して語られている事が不思議である、と書かれています。
不思議ということは神武東征説話を「お話」であるとみなしているからでしょう。
森浩一氏の古代史おさらい帳の後書きに、読者の中に自論なるものをお持ちの場合も一度それを横に置いて淡々とおさらいをしてほしい、とあります。

いつ、どこで、だれが、なにがあったか。
記紀において「なにがあったか」については表現が変わる程度で、まるっきり偽である可能性は低いと考えています。
ただの小説になってしまうからです、編纂者もそこまではやっていないと考えています。
しかし、「いつ、どこで、だれが」については書紀編纂の目的であろう万世一系を主張し出雲の存在を消すため、から信用度ががっくり落ちる。
そういう扱いが私の記紀への基本姿勢です。

神武東征説話も「なにがあったか」の事象については事実に基づいている。
が、これが落とし穴ともなります。
部分的あるいは断片的には正しいようにみえる場合があるからです。先の森浩一氏の「不思議である」もそれでしょう。

倭人伝はマイルストーンですが、卑弥呼の時代(AD200前後)を記紀のどの大王の時代とみるのか。
とにもかくにも連続した年代考察がまず必要。

古事記では崇神没年が戊寅で・・BC58、AD18,78、138、198、258、318、378・・のどれかとなります。
書紀では没年を辛卯(あるいは1年ずれて壬辰)で、BC29、AD31、91、151、211,271、331、391・・
紀元は神武即位の辛酉をBC660として明治6年に制定されて、ほとんどの神社がこれに即して縁起や由緒を語っていますね。
BC660とするのは明治初期の学者の那珂通世の説に基づいて、源は古代中国の辛酉革命思想。

古事記と書紀の没年が一致するのは允恭没年の書紀の癸巳453と古事記の申午454。それ以降もほぼ一致なので允恭以降は信用して良かろう・・
で、なんだかんだやってみると、允恭没年から神武即位BC660に遡る範囲の連続的な年代補正の方法が浮かんできた。
ははーん、書紀編纂者も「辛酉革命思想」に乗せようとして神武年代を設定したな・・
再び
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/g01.files/06/fukugen.pdf

統一された年代観を構成し、記紀の記述と考古学や中国文献とをリンクさせてみる。
その年代観でさまざまな事象を「連続的に説明」できるかどうか、部分だけじゃだめです。
文献解釈、記紀解釈側からそれが克服されていないから、考古学では飛鳥奈良以降でしか記紀内容とリンクできない。
ある時代以前はタブー視せざるを得ない。
津田左右吉の影響が大きいのかもしれない、信仰に抵触するのでやりにくいのかもしれない。

考古学でタブー視されていても近畿中心の歴史観だと神武東征のイメージがひょいひょいと顔を出す、無意識のうちに。
森浩一氏の「自論なるものをお持ちの場合も一度それを横に置いて」、このことと理解しています。
神武を畿内においてしまうと不自然なことだらけになってしまうので、私は神武東征説話を早々に捨てました。
個人的には地元になんらかの中枢の痕跡があったらやっぱり喜びますけど(^^; 弥生時代の全国規模の出雲文化圏の中枢だったらなおさらです。


>大和からの銅鐸の出土が多くないのは、比較的まじめに鏡に鋳直した?
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html

これだけたくさん出ていますから「出土が多くない」は無理でしょう。分布状況はどうみても畿内が中枢。
前後関係の流れの説明も必要です。例えば銅鐸祭祀はいつどこで始まったのか、そしてなぜ終わったのか。
銅鐸も鏡も削って金属分析するわけにはゆかない、非破壊検査の進歩を期待するところ。

1986、87年に長江洞庭湖の北の荊門市チンメンで楚の鬼神信仰を詳細に記した簡帛(木簡や竹簡)が発見され、「日中文化研究10/勉誠社」にその内容が書かれています(古本で入手可能)。
鏡に鬼を映し出してこれを防ぐ、などなど。
http://www.shutudo.org/int/research1
研究機関もできているようですが専門的にすぎていまのところパス。

後漢鏡など一般的な鏡は弥生初期の北九州をはじめとして普遍的に出土、貴重品だと思います。
卑弥呼が魏からもらったという鏡も貴重品だと思います。それと判断できるものはないけれど。
古墳に副葬される鏡でもそういう貴重品は土坑内部に副葬(朱を散布する部分)、三角縁神獣鏡は土坑外部に副葬(例外あるかもしれない)。
鏡に対する扱いが違う。すなわち三角縁神獣鏡は安物(^^; 卑弥呼の鬼道を源流とするお守りとみています。


年代が確定できると、事実は小説より奇なり、がたくさん出てくると思っています。
例えば物証というわけじゃないけど、そうなりえる数字があります。
三角縁神獣鏡の景初三年の文言です。存在しない景初四年も含みます。

森浩一氏は、ラーメンどんぶりの底に乾隆年製などと書くのと同類だろうとされています。ラーメンどんぶりは冷や汗ですけどその程度の扱いということ。
形式、そういう慣習によるものでいつ作られたかとは無関係ということで、賛同。
ならば、景初三年が使われる理由はなにか、森浩一氏はこれには触れていません。

が、持論の年代補正にあてはめると・・景初三年AD239前後で大きなイベントがある。
開化225-248が出雲を制圧した年、その記念の年号が魏の景初三年。
参考図1は大王系譜の開化部分です。

ついでに
古事記の崇神没年258は誤差が大きい。古事記が正しいなら崇神はこのとき死去していたのではないか、の疑念が生じる。
実はタケハニヤスヒコによる暗殺は成功していた・・倭迹々日百襲姫が垂仁が成人して即位するまで15年ほど大王代行をやっていたのだ・・
書紀ではなにかあると女性を登場させてごまかす癖があるし。

さらについでに・・
古事記の雄略没年と書紀の没年も10年ほど食い違っています。
その10年の間に書紀では清寧と顕宗という怪しげな大王が書かれている。
仁賢の即位と古事記の雄略没年は一致する。
さーてどう考えるか。
参考図2





[11468][11468]Re: [11467]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  くず投稿日:2013年 8月16日(金)09時32分
神奈備さんへのお返事です。

神奈備さん、久しぶりにおじゃましてます^^

>  神武達は這々の体で大和にたどりついたのですが、天下統一どころか、大和の一角を占めた豪族になったに過ぎませんでした。当時の天下は、大国主に象徴される、>広い意味での旧"イズモ"<勢力が牛耳っていたのだと思います。彼らが銅鐸を活用していたのでしょう。

小さなクニの集合体が当時の姿とはいえ銅鐸信仰圏の規模から言えば、武力支配出来たとしても一部地域に限られたであろうと自分も思います。
地方では実効支配にはいかないまでも、威信財としての青銅器供給が地方のクニとの重要な繋がりであったと思いますので、そこを押えられた事によるイズモ圏の動揺は大きかったと想像できます。

銅鐸大量埋納は弥生終末期と、紀元前後の大きく2回と考えていますが、
初期大量埋納に関するものはこの神武勢力の脅威に対して行われたとみます。

北九州を発って瀬戸内を東に進む神武は、安芸国埃宮、続いて吉備国高島宮を経由しますが、
埃宮から出雲(山陰)の事代主と交渉を行った伝承が残り、そのさい敗れた事代主は比婆山に宝剣を埋めたという伝承も伝わるようです。

http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-1tousen5.html

交渉に使われたルートは、「埃宮より本村に出で本村川を遡りて帝釈を通り戸宇、八幡の地を経て出雲」に入ったとあり、このルートから北の出雲に進むと加茂岩倉、荒神谷方面に出た可能性が考えられます。

加茂岩倉、荒神谷、桜ヶ丘などの銅鐸大量埋納は、瀬戸内を東進しようとする神武勢力に対して辟邪の意味合いをもつのではないでしょうか。

>  『古事記』に、大年神の神裔として、羽山戸神、大気都比売神(オホゲツヒメノカミ)を娶(メト)して生みし子は、若山咋神(ワカヤマクヒノカミ)、次に若年神(ワカトシノカミ)、次に妹(イモ)若沙那売神(ワカサナメノカミ)とあり、この若沙那売神が銅鐸の女神かと思われます。

青草ですが、自分は少彦名命が銅鐸の神格化ではなかろうかと考えます。
小名彦→サナ彦


[11467]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  神奈備 投稿日:2013年 8月14日(水)13時28分
くずさんへのお返事です。

ずさん、ご無沙汰です。

> 自分は神武とされた人物の畿内入りはあったのではないか。と考えています。

 同感です。九州では、倭国王帥升等の勢力が大きくなり、神武達は新天地を求めて旅立ったのでは。

 神武達は這々の体で大和にたどりついたのですが、天下統一どころか、大和の一角を占めた豪族になったに過ぎませんでした。当時の天下は、大国主に象徴される、>広い意味での旧"イズモ"<勢力が牛耳っていたのだと思います。彼らが銅鐸を活用していたのでしょう。

 神武さんや多氏の系統が銅鐸祭祀に関与していたなら、『古事記』や『日本書紀』に、いかにも銅鐸を高天原の神のように、天津佐那伎神といったような神々が国土開拓や戦いの神として」大活躍をする物語ができていたのではないでしょうか。

 『古事記』に、大年神の神裔として、羽山戸神、大気都比売神(オホゲツヒメノカミ)を娶(メト)して生みし子は、若山咋神(ワカヤマクヒノカミ)、次に若年神(ワカトシノカミ)、次に妹(イモ)若沙那売神(ワカサナメノカミ)とあり、この若沙那売神が銅鐸の女神かと思われます。

 また、縄文の流れを持つイメージの手力男神(タヂカラヲノカミ)の鎮座地として佐那那県(サナナガタ)が出てきます。天津神の世界ではなさそうです。



[11466]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  くず 投稿日:2013年 8月13日(火)12時09分
ご無沙汰しております。
自分は神武とされた人物の畿内入りはあったのではないか。と考えています。

銅鐸祭祀圏が広い意味での旧"イズモ"であり、中枢畿内には同意。
中央から地方へ威信財としての銅鐸の供給があった。

地方の首長兼祭祀長は、年に一度の中央出向が決められていて、
それが神無月神話に繋がっている。想像ですが^^;
毎年供給では生産が追いつかないので、首長交代の際にピカピカの銅鐸が送られたとか。

その上で記紀に書かれる、大和入りした神武が、摂津の姫、銅鐸生産をも思わせる名の、
"ホトタタライスズヒメ"との婚姻。
威信財の生産、供給を押さえ、支配後の信仰統制をする意味で非常に合理的ではなかろうかと。

もちろん、弥生末期ではなく、中期末(紀元前後)

これを堺に銅鐸の出土領域が変わる。大和、出雲などから消え、畿内周辺域に拡散。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html#dotaku08
おおっぴらにカンカン鳴らせなくなって、隠れて見る祭祀に移行。

タギシミミの暗殺で直系の支配体制は終了、直系を倒した英雄でありながら政敵の血も引く多氏の系統が
大和を治めるも、地方は分裂して弥生末期の争乱期へ。

といった流れを考えてます。ご意見を伺えればありがたいです。




[11465]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  神奈備 投稿日:2013年 8月11日(日)16時31分
> 弥生末期に祭祀のありようとしてなにかが起きたのは間違いない。なにが起きたのか。
> 考古学的に銅鐸の消滅は弥生末期、AD250頃。

 やはり卑弥呼に関わるのではないでしょうか。魏の国の干渉があって、狗奴国との和解がなりたって、銅鐸が用済みになったとか。

 銅鐸は豊饒祈願と言う重要な祭祀の道具であり、また戦場での合図の道具でもあったと思います。武器だったので、和平が成り立った際、魏の国から今後は使用禁止にし、鏡に鋳直すようにでも干渉されたので、未練があった連中は銅鐸を埋めて逃れたのではと思っています。

 大和からの銅鐸の出土が多くないのは、比較的まじめに鏡に鋳直した?


[11464]Re: [11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  かたばみ 投稿日:2013年 8月10日(土)19時03分
神奈備さんへのお返事です。

大型銅鐸は祭祀具、そこにイワクラが登場してもおかしくないと思います。
どのような祭祀であったかはおいて、それが弥生末期に突然に消えた。
なぜ消えたのか、これをどう説明するか・・

弥生末期に祭祀のありようとしてなにかが起きたのは間違いない。なにが起きたのか。
考古学だけでは説明できない。そこで歴史としての記紀が登場する。
ただし、その内容が正しいかどうか・・

記紀の内容から銅鐸消滅につながりそうな話は神武東征説話か国譲り神話。
考古学的に銅鐸の消滅は弥生末期、AD250頃。
さすがに国譲り神話をAD250頃に設定するのは無理、そこで神武東征説話をAD250頃に置く論も登場する。
しかし天皇の在位期間が10年平均となるからなんて無理を要する。
結局は記紀の根幹になる説話ではあっても、考古学では神武東征説話をタブー視するしかなくなってしまうわけです。
(ならば部分だけを記紀とジョイントすることも避けるべき)

記紀の神武東征説話を偽とする、その歴史観で事象を自然に説明できるならば・・
持論のスタートはここにあります。
そこで注目するのが「孝の字朝」と開化の空白、なにも書かれていないことも情報というわけです。
年代マーカーは古事記の崇神没年258(書紀ではBC28)。

卑弥呼が死去して男王が立ったが乱れたので壹與が立った、については気にしていません。
短期間だけ男王がはさまる断片情報だけで、全体の流れには影響力を持たないからです。
記紀からも卑弥呼も壹與も「孝の字朝」と開化の空白に吸収されてしまうし。

ただし、梁書と北史では「臺」與ですが魏志倭人伝は邪馬「壹」国と同様に「壹」與です。これはちと気になる。
トヨでもタイヨでもなくイヨであって、壹與の出自は伊予・・
持論のヤマタイコク日向宮崎の向こう岸、争乱から離れた場所だからこその登場、やはり珍彦グループ・・可能性少なからず。


銅鐸祭祀は豊穣祈願だと思います。銅鐸文化圏でも寒冷化に伴って農耕不振となり銅鐸も大型化していった。
しかし、銅鐸祭祀は呪術であって心理効果のみ。

崇神は出雲祭祀を取り込んで民心の動揺を抑えた、しかし反乱の象徴になりえる銅鐸は破棄させた。
そして民衆救済に実効性のある公共事業を行った・・古墳築造。
対価として食糧を配布し労働力の集約化、同時に田畑の開墾を行う。
奈良湖の干拓で奈良盆地の農地はまだ拡大できる、名案だと思うです。
珍彦グループ(後に葛城氏)がもたらした後漢からの知識がベースにあるとみるところです。

仁徳紀に生前に築造を開始したとあります、その理由に興味大です。公共事業ならそれが自然です。
景行311-333時代頃には奈良盆地の開拓はほぼ終わった。
古市古墳群は開拓の拠点が生駒葛城山地の西、河内方面に移ったことを示す。
狭山池の築造など崇神時代にすでに河内方面の開拓も始まっているわけで、ここに新たな勢力が登場したわけじゃない。
(イリとワケ、畿内に入った新しい氏族、それがイリ(入城)であり、そこから拡大していったことをワケ(分家)が示す)

百舌鳥古墳群は仁徳系と思いますが、この時代では軍事目的も重視されたと考えています(持論、応神との内戦)。
これ以降では温暖化が始まるので公共事業の意味は薄れて巨大古墳は消えてゆく。
その時その時での最適な場所に拠点が作られた。

後の雄略の斯鬼宮(九州、孝の字朝での磯城でしょう、稲荷山鉄剣銘文)から泊瀬朝倉宮(桜井市、書紀)へのお引っ越しも同じく。
さすがに九州から関東の支配は困難、477頃に九州と半島は倭王武にまかせて譲位したとみています。


最新情報
8月9日の読売朝刊に、銅剣の鋳型中国風、という記事がでてます。
琵琶湖の西岸の滋賀上御殿遺跡から中国北方系銅剣の鋳型が出土した。
国内産のようで銅鐸と同じ鋸歯文がある。

こんなものが出るとは驚きだ、とありますが、持論からは当然あってしかるべきもの。
出雲グループの導入していた剣のひとつ(類似に遼寧式銅剣、吉野ヶ里など北九州に少なからず、スサノオ系の剣とみてます)。
デザインは中古だと思うけど(^^; 高句麗から島根経由でしょう。
出土位置からは天穂日系譜が使った剣、年代はAD50〜100あたりか。
これも出雲の概念ぬきでは説明できない出土品と思います。
北九州を神武に譲ったために出雲の対外交易路はこれしかなくなり、出雲は広大な版図を持ちながら文化でも武器でも遅れをとっての敗戦といってもいいでしょう。

森浩一氏が亡くなられた。近畿にとらわれない柔軟な論考で私の歴史観に影響大でした。
著書多数、どれもお勧めです(最近読んだのは古代史おさらい帖)。




[11463]Re: [11460]『私の日本古代史』  神奈備 投稿日:2013年 8月 8日(木)09時46分
かたばみさんへのお返事です。

> 神奈備さんへのお返事です。
>
> 情報源や別解釈をを明示して論ずるのは大切ですね。
> 銅鐸についての論がないのが残念。
>
> 書紀年代の解釈、神武東征説話の亡霊(^^; 、銅鐸文化圏の解釈、今後の鍵だと考えています。
>

 銅鐸のことにいささか触れた後、埋められた地名に”神”、”イワクラ”がついていることの例示をされています。

 それに続いて、『梁書』・『北史』が、台与の後には男王が続いたと述べています。ネットで調べて見ますと、下記のようです。

『梁書』倭国伝
正始中(240−249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。
『北史』
正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相 誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命

倭国の統治 男王(数十年)ー卑弥呼ー台与ー男王・・・・
ということ。欠史八代ー百襲姫ー豊鋤入姫ー男王・・・なんて想像します。

 所で、面白いと思っていた、前田晴人さん『古代女王制と天皇の起源』の説は成り立たなくなります。この本の中で、『梁書』・『北史』に述べられていることが間違いだとの指摘はなかったように記憶しています。
 それででしょうか、前田さんの説がもっと取り上げられてもいいと思っていましたが、そうでないことが納得できそうです。



[11462] Re: [11460]『私の日本古代史』  かたばみ 投稿日:2013年 8月 8日(木)00時31分
神奈備さんへのお返事です。

情報源や別解釈をを明示して論ずるのは大切ですね。
銅鐸についての論がないのが残念。

書紀年代の解釈、神武東征説話の亡霊(^^; 、銅鐸文化圏の解釈、今後の鍵だと考えています。




[11460]古墳時代の生活 かたばみ 投稿日:2013年 8月 6日(火)00時15分
古墳時代の生活はどんなものだったのか。
食については
http://www3.ocn.ne.jp/~eiyou-km/newpage148.htm
こんな推定もなされていますが一般では雑穀の煮炊きに野菜と魚、うなぎや鹿やイノシシはたまのごちそうか。
物々交換、租税も物で納める。
瀬戸内の魚はそれこそ毎日のように奈良に運ばれたかもしれない(貴族用です)。
古墳時代の大和川や奈良湖の水は汚れて飲めなかったかもしれない、でも川魚はたくさん捕れたはず。

調味料は縄文時代から塩、これに発酵が加われば塩麹(^^; 縄文からあったと思います。
いろんなものを塩と併せて発酵させてヒシオから醤油や味噌へ。

納豆、長江系渡来文化はねばねばもっちりが好物で縄文文化一般。ただし黄河系や出雲系文化圏ではねばねばは嫌いで食べない。
甘味は蜂蜜がごくたまに、甘い果物があれば(^^) 甘い柑橘を知ったらすぐに大人気になるでしょう。

酒は太古から、米の酒は庶民はめったに飲めない。
普通の水以外に飲むものがあったかどうか、食事の時は煮炊きの汁、魚の骨や青菜のスープ。それ以外では水か白湯か。
白湯に塩昆布や香草などを入れることはありそう。

風呂は・・貴族なら沐浴場を持てたかもしれないけど真冬に沐浴は・・壺でお湯を沸かして風呂桶?でじゃぶじゃぶ?
貴族でも総じて汚かったと推定(^^;
温泉は万葉では大伴家持の湯河原と山部赤人の道後温泉。
火山の近くではいたるところにあるはずで、うかつな地域の貴族より温泉地域の庶民の方がずっと清潔だったに違いなし。
(奈良に地上にわき出す温泉はないですよね)

トイレは・・媛踏鞴五十鈴媛の母の勢夜陀多良比売と丹塗りの矢、川があれば張り出しを作った(川家、厠の語源と思います)。
弥生からあった、川のないところでは穴を掘って板を渡す(アイヌ文化に遺構あり)、だと思います。
いっぱいになったら埋める、やはり汚かった。
人口密集の平安の都ではたいへんなことになる、高下駄はいて鼻をつまんでしゃがむ。

仁徳にカマドの煙とありますが、仁徳時代にいわゆるカマドがあったかどうかは疑問。
炉の改良型はあったかもしれないけれど、カマドが一般化するのはもっと後でしょう。

埼玉県宮東遺跡にカマド付きの竪穴住居跡があります。
5世紀前半とされますが朝鮮半島南部形式の土器と共に出土。
関東のカマドの持ち主は半島南部からの移住者である可能性あり。
雄略456-479(489)の関係者が運んだものと思います。


大王系譜を改訂しました。
スサノオ渡来に遡って拡張しているのでやたら長尺です。


グラフィカルにながめるとそれぞれの時代の長さが実感できます。ついでがありましたらどうぞ。
継体以降については考え中。

古事記の雄略没年は489、おそらく正しい。
埼玉の稲荷山鉄剣の「辛亥の年」を471として、「在斯鬼宮時」は獲加多支鹵大王がシキの宮に在るとき。
斯鬼とは幸の字朝で登場する北九州の磯城だと思います(くりかえしますが現在の奈良の磯城郡は明治になっての地名)。

477に王名不明で宋に朝貢。478に倭王武が宋に朝貢しています。
478が倭王武の即位報告とみています。
宋書には王名のない朝貢がいくつかありますが、新しい王を宋がまだ認可していない状況だからだと考えています。

すなわち雄略(倭王興)は477頃に九州大王を倭王武に譲位し、477より少し前に東国支配に力をそそぐために畿内に拠点を移した。
それが書記にいう泊瀬朝倉宮ということです。
http://www.47news.jp/CN/201209/CN2012092401001811.html
伊賀越えで津から船で東国へでやすい位置とみえます。




[11459]Re: (無題)  神奈備 投稿日:2013年 7月30日(火)09時37分
たぬきさんへのお返事です。

> 全国的にも上下の賀茂社が社地を別々に並立しているのは稀な筈です。

 そうですね。京都を別にすれば、愛知県宝飯郡音羽町の上賀茂神社と下賀茂神社くらいしか出てきませんね。
 本来の本家の奈良葛城地方には、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社とする呼び方があります。

 神武さんの通過した道筋として、淡路の佐野から泉州の佐野へ渡って、熊野古道沿いの道を、紀州に行き、紀州で紀ノ川を上ると、かつらぎ町に佐野があります。(佐野廃寺)。また南紀の上陸地にも狭野があります。狭野の命として名をはせていたのでしょうか、各地の地名に残っています。

 なお、緑泥片岩は阿波の吉野川でも取れますので、阿波か紀伊かの判断は難しいところがあります。


[11458]Re: (無題)  かたばみ 投稿日:2013年 7月29日(月)20時24分
たぬきさんへのお返事です。

>日毎に樽廻船で朝廷にピストン輸送していたと伝わります

これがいつのことかわかりませんが、ゆとりのある時代のことだろうと思います。

仁徳には民のカマドの煙が立ちのぼって喜ぶとか租税取り立てを中断したといった事象が書かれます。
財政破綻していたわけで、そうなる理由があるはずですが・・

参考図1 大和川付け替え工事の図の合成でごちゃごちゃしてます。
仁徳の宮殿は難波とされますが、上町台地のどこか。住吉大社あたりじゃないかなあ。
上町台地にはよい水があったようです。
http://ja3bcy.web.fc2.com/hike/61-sinai.html
水のない場所に拠点は作らないし、仁徳に名水を遠方から運んで使うゆとりはなく、上町台地周辺の治水だけで手一杯だったと思います。
(生前に古墳築造を始めたらしき記述、興味深い)

古事記の名水を運ぶ話は飛鳥奈良〜平安あたりでのゆとりの時代になってからの付会とみています。
では仁徳の財政がなぜ困窮していたのか・・以下持論にて。


参考図、応神386-402、仁徳402-434時代は寒冷化ピークからようやく温暖化に転ずる時代。
農耕不振もあるでしょうけれど、仁徳と応神は内戦モードだった。

七支刀銘文の倭王旨(九州)に仲哀が暗殺され、倭王旨の子の応神(九州)が即位(神功皇后の事象は倭王旨の事象からのコピー)。
好太王碑には404に平壌南方に倭兵が侵攻してきたとあります。この倭兵とは応神386-402となります。
(402は仁徳即位年で応神没年ではありません)
応神没年は倭王讃の朝貢(宋書421)の少し前でしょう。仁徳と応神は重なり合ってるわけです。
(倭王五代が書紀の書く大王系譜では説明がつかないところでもあります)

応神は半島出兵で近畿の掌握に手が回らなくなった、その機をとらえて仲哀ないし日本武尊の縁者の仁徳が立った。
という筋書きが持論です。
「書紀編纂者」にとって仁徳は近畿大王の復活であり美化したくなる大王、というわけです。





[11457](無題)  たぬき 投稿日:2013年 7月29日(月)11時05分
昔から和歌山と淡路島南部は南海道に属して結び付きが強い地域。
淡路島に架橋に伴い旅客、フェリー等の船便が途絶するまでは以外と往来が頻繁に有りました。(親戚がいたり、、)
又、洲本市の下加茂地区の加茂神社(下加茂神社)の後背の丘一帯は下加茂丘古墳群と呼ばれ、弥生式住居跡や古墳群の中からは三角縁神獣鏡が出土。又、最大の古墳の石室には〜は和歌山産の緑色片岩が使われて居ました(大王、領主クラス)
因みに、下加茂と加茂神社(下加茂神社。加茂御祖神社+八幡宮が並立)が有れば当然上加茂地区が有って、上加茂神社(賀茂神社(式内社)、賀茂別雷大神)が鎮座。
この賀茂神社(上加茂。式内社)の由緒は欽明天皇の御代に旱魃で疲弊甚だしく御神意を伺ったところ全国 六十余州ににあまねく賀茂別雷大神を分祀すべし云々。そうしたところやがて慈雨を得て民心は治まった云々。。
全国的にも上下の賀茂社が社地を別々に並立しているのは稀な筈です。


[11456]Re: (無題)  神奈備 投稿日:2013年 7月27日(土)08時36分
たぬきさんへのお返事です。

 たぬきさん、投稿ありがとうございます。
 五十猛命の妹神は大屋姫命と抓津姫命とされています。この内、大屋姫命は五十猛命の別名(『先代旧事本紀巻四地神本紀』五十猛握神亦名大屋彦神)の大屋彦命の相方と見ることができます。

> 抓津姫命とは、実際にはどなたに比定されるのでしょうか?

 この姫こそ、五十猛命の本来のパートナーだと思います。宇佐八幡の祭祀氏族であった辛島氏系図に以下のようにあります。上が先祖。右は神奈備が想定した地域。
素盞嗚尊
五十猛命
豊都彦トヨツ   豊の国
豊津彦トヨツ   豊の国
都万津彦ツマツ  宮崎県児湯郡妻町
曽於津彦ソオツ  鹿児島県国分市
身於津彦ミオツ  日向市美々津町  神武天皇船出の伝説
照彦テル
志津喜彦シツキ  鹿児島県曽於郡志布志町
児湯彦コユ    宮崎県児湯郡
諸豆彦モロツ   宮崎県諸県郡
宇豆彦ウヅ    大分県北海部郡佐賀関町
 宇豆彦は紀氏の祖に出てくる名前です。それはともかく、この系図には都万津彦がでてきますが、この神のパートナーが抓津姫命と云えそうです。

 五十猛命を神武さんのモデルと見ても、該当しそうな名前は『記・紀』にはなさそうです。



[11455] (無題) たぬき 投稿日:2013年 7月26日(金)12時24分
淡路島の清水を汲む。云々。に対応した場所が今尚現存し、その伝承が有ります
淡路市佐野(神武天皇の御名?)地区の北のはずれ、国道28号沿いにある小井地区(旧東浦町と旧津名町の境。土産物屋が目印)には
古来、『小井の清水』(霊泉)が湧き出でて、日毎に樽廻船で朝廷にピストン輸送していたと伝わります。
ところで、五十猛命はイタケ命。、、天火明命の孫、天村雲命(富氏の口伝やら系譜の后のお名前やらその他〜どうやら神武天皇のモデルの様に思えてなりません)。
その妹神(妹には嫁やらの意味も)の、抓津姫命とは、実際にはどなたに比定されるのでしょうか?


[11454]鯨の夫婦  神奈備 投稿日:2013年 7月22日(月)19時52分
万葉集 巻十八 3852
 鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ねこそ海は潮干(ひ)て山は枯れすれ
 訳 鯨魚をとる海は死にますか、山は死にますか、死ぬからこそ海は潮が引くことがあり、山は枯れるのだ。
 よくわからない生と死に関する歌のようですが、「鯨魚取り」は枕詞で、海・浜・灘などを導いています。鯨を捕ることが日常的に行われていたのでしょう。

 縄文時代中期〜後期の石川県の真脇遺跡からクヂラの椎骨を製造台にた「鯨底土器」が多く発見され、また長崎県壱岐の原の辻遺跡から出土した弥生時代中期後半の甕棺に捕鯨図画描かれています。実になじみの深いものだったのでしょう。

 古代の人々が巨大なクヂラを見ていますと、国生み・島生みをおこなったのは、クヂラだろうとのの発想持ったのではないでしょうか。

 すなわち、イサナギ・イサナミとは、鯨の夫婦のことだろうと思います。



[11454]Re: [11452] 古墳の築造順位と前方部  かたばみ 投稿日:2013年 7月19日(金)10時00分
神奈備さんへのお返事です。

参考図1、奈良湖の北辺部です。
地形図が詳細になって大古墳ならその形状まで見えるようになった(^^)
佐紀古墳群は彦坐王系譜と日葉酢姫の関連であろうと思っています。
古墳の向きがそろっていることも北の若狭方面を見る意識を思わせます。

古墳に副葬される三角縁神獣鏡は、殺した出雲兵の怨霊を防ぐため、が持論(後漢鏡などは別です、こちらは貴重品の副葬)。
したがって彦坐王系譜の古墳から三角縁神獣鏡がでることはない、となります。
天穂日の子孫、出雲グループだった彦坐王系譜が出雲兵を殺すわけがない(^^;

ここに景行が含まれるかどうかは微妙なところ。
景行が三角縁神獣鏡を配布するなら景行朝と縁続きですよの意味だと思います。婚姻融和策の一環ですね。

豊前(福岡県京都郡苅田町)の海岸近くに石塚山古墳があります。
北九州で最大の初期型古墳(畿内型)で三角縁神獣鏡が7枚出土しています。なぜここに初期型の前方後円墳があるのか。
九州倭国東征終了後に故郷へ帰還した有力武将の墓だと考えています(甲冑の断片が出土)。
纒向古墳群の考え方をまねて築造した。
大分県宇佐市の東にも同様の赤塚古墳があります、やはり三角縁神獣鏡出土。
後に景行が九州巡幸のとき上陸した地点はこの近くでしょう、安全な地域だったのだと思います。

佐紀古墳群からだいぶ離れていますが宝来山古墳(垂仁陵比定)の内容はまったく不明。
垂仁が纒向古墳群から分離される理由がみえない、政略結婚より崇神の子である、が優先だと思います。
で、景行陵(渋谷向山古墳)が纒向にある理由もみえない。
纒向にある景行陵比定と垂仁陵比定は入れ替えておくのがいいんじゃないかなあ。

古墳の大小は記紀が書くところの著名度と比例するとは限らないと思います。また、書かれざる有力者も少なからずだろうと思っています。
ヒシアゲ古墳、磐之媛陵比定・・なんの脈絡もなく時代も? 下記の馬見古墳群か百舌鳥古墳群ならわかるけど。
五社神古墳、神功皇后陵比定・・書紀がそう書いてるだけ(^^; 神功は仲哀の妃のひとりに過ぎないが持論。大古墳に埋葬されることはない。
ま、書紀の記述をうのみにできないのは毎度共通項です。
ただし、五社神古墳には埴輪が存在したようですね。この古墳は自然丘を切り欠いて作っているようにみえる。

吉備型祭祀土器は垂仁〜景行時代に象形埴輪に変化していった(北九州では石人石馬に変化、雄略あたりか)。
すなわち象形埴輪は彦坐王関連の古墳、すなわち佐紀古墳群から始まる。
それが天穂日の子孫とされる野見宿禰の進言で始まるという書紀の埴輪の話の所以となるわけです。
書紀は彦坐王が天穂日の子孫だんて書けない、土師の祖先とする人物なら落とし場所にぴったしです。


参考図2は馬見古墳群のチェック中の図です。墓サイズはおおよそ実寸で背景は奈良湖推定図最新版。
(シリーズ遺跡を学ぶ26/大和葛城の大古墳群/新泉社の図版を参照)
地形のみの背景に重ねることでビジュアル的に見えてくるものがあると考えています。
数字は現在の標高、水色〜青の色違いの標高差は1m。
標高は現在地形によるので当時と同じとはいえないですけれど、大差はないでしょう。

葛城古墳群では前方部(祭壇とみる)が小さいホタテ貝型が古墳時代後期でもあります。
祭祀によって権威を示す目的がない場合だと考えています。
それぞれの年代は明確ではありませんが、奈良湖を避けて築造されているとみえます。
(新しい年代測定法が登場、木材に含まれる酸素同位体の比率を使うそうで、樹種による差がないそうです)

おいしそうなところにカビがはえたみたいですが、開拓コロニーがそこにあったからだと考えています。
大きい古墳はむろん財力のある人物の築造でしょう。
新山古墳では西晋とみられる帯飾りが出土しています(兵庫県の行者塚古墳からも断片が出土、日本での出土はこの二件のみ)。
被葬者が取り寄せたとは限りませんが、そのグループが輸入した物でしょう。

すなわちこの古墳群は持論での珍彦グループの海外交易に関連し、それを継承する氏族の古墳。
葛城氏系譜のものであるとして間違いないと思います。
南が初期のコロニーで奈良湖の縮小にあわせて北に移動したのではないか。
初期には南に吉野川を下って瀬戸内を見ていた。

後には西へ大和川を経て和泉から瀬戸内を見た、その経路に古市古墳群と百舌鳥古墳群があります。
景行と日葉酢姫を以てまずは第2世代の佐紀古墳群が登場。
次いで「景行の子の系譜」の古市古墳群、次いでその縁者の百舌鳥古墳群が登場という流れです。
やはり基本線は開拓に伴う古墳群、奈良湖の干拓が進んで開拓が西へ進んでいったのだと考えています。

安康と雄略によって允恭と葛城氏は滅ぼされる。
少なくともそれ以前までは奈良湖が青の濃い位置まで存在していた証拠とも考えています。
図の左側、大和川の流出部分は豪雨か地震による大規模な山体崩壊によって閉塞された部分だと考えています。
すなわち奈良湖は巨大な堰止め湖であって、縄文末期(BC1500頃)の異常気象時代にできたのではないか。
(満水状態は千年に満たない)

このわずかな距離の閉塞部を1m掘り下げれば奈良湖の水位が1m下がって使える土地が一気に増えます。
出雲朝でもこの部分の開削はやっていたと思う。唐古・鍵遺跡は標高45m付近、ここまでの干拓が終わっていた。
大和川流出部を8mほど開削していた、ということになります。
もし私が大王だったら・・やっぱりすぐに始める治水工事になるです(^^;

で、古墳築造はこれによる農地拡大に連動した公共事業、とみるわけです(寒冷化からの救済事業でもある)。
大阪狭山市の狭山池、書紀に崇神垂仁時代に築造とある、むろん公共事業。
さすがにここにお墓は作らないだろうな、お参りするのが大変(^^;


仁徳は日本武尊の縁者であって応神の子ではない、近畿の仁徳と九州の応神は内戦モード、が持論。
古市古墳群の誉田山は応神にあらず(応神系譜の墓があるなら北九州、前方後円墳とは限らず)。
仁徳は瀬戸内へすぐに出動できる位置に拠点を作った、それが百舌鳥古墳群。
かっての九州倭国の東征と防衛する出雲の拠点、その裏返しです。
上町台地や大阪湾の治水も仁徳の事跡とみて間違いない。
この時代では軍事目的の意味合いが強くなってると思いますけど。

古事記の仁徳の船、巨木をもって枯野(語源はカヌーとみる)を造る、朝夕に淡道島(淡路島でしょう)の清水を汲む。警戒偵察行動でありましょう(^^;
書紀の応神の船も枯野。こちらは仁徳を応神の子としたための同様の事象の錯綜だと思います。


参考図2の右端は纒向の初期の大型古墳、箸墓(伝倭迹々日百襲姫)、伝崇神陵、伝景行陵。加えて西殿塚と中山大塚。
開化の墓は弥生の墳墓を継承して畿内にはない可能性もある。
開化の場合は倭人伝に記される殉死を伴う可能性もありますが、殉死が確認された墓はいまのところ存在せず。
殉死は卑弥呼あたりが最後じゃないか、すなわち九州のみ。土に埋められたらなにも残らないと思うし。
崇神の出雲祭祀取り込みによって九州倭国の巫女型祭祀が終焉を向かえたとき、すなわち纒向古墳群では殉死はすでになかったと推定。

西殿塚と中山大塚古墳から吉備型祭祀土器が出土しています(特殊器台、埴輪の原型)。
箸墓からも吉備型祭祀土器の破片が発見されていた。
2012年になって宮内庁が公表、不十分なデータなので混乱を避けて公表しなかった・・とのこと(^^;
http://www.asahi.com/culture/update/0909/OSK201209080179.html
「吉備方面からの祭祀」が畿内に運ばれたこと、九州倭国の東征、さらに確実と思います。交流なんて苦しい表現もあるけど(^^;




[11452] 古墳の築造順位と前方部幅  神奈備 投稿日:2013年 7月14日(日)15時53分
 7月13日の豊中歴史同好会は北九州の宇野愼敏先生の「4・5世紀の沖の島とヤマト政権」と言う演題でした。
 佐紀古墳群の築造順位について、面白い話がありました。白石太一郎氏の古墳の順位は以下の通り。
五社神
宝来山
佐紀陵山
石塚山
市庭
ヒシアゲ
コナベ
ウワナベ

所が、前方部幅/墳丘長を計算してみると、
古墳     墳丘長m  前方部幅   幅/長
佐紀陵山   207      87      0.42
宝来山    227     118     0.52
五社神    275      155      0.56
石塚山    218      111      0.51
コナベ    204      129      0.63
市庭     250      160      0.64
ウワナベ   270      140      0.52
ヒシアゲ   219      145     0.66

 基本的には、前方部幅/墳丘長 が徐々に大きくなっているのと年代を合わせて考えると言う方法を披露されました。
 これについての白石氏の反論は承知していませんが、面白い考え方だと思います。

 この考え方で、岸本直文さんの、古墳の2系列を調べてみますと、以下のようになります。

神聖王系列 執行王系列
割合
箸墓古墳       0.47               割合
西殿塚古墳      0.50     桜井茶臼山      0.29
行燈山古墳      0.41     メスリ山古墳     0.36
宝来山       0.49      渋谷向山       0.53
                 佐紀陵山       0.42
五社神       0.43     佐紀石塚山      0.56
                 津堂城山      0.56
仲ツ山古墳      0.66     ミサンザイ      0.66
大仙陵古墳     0.63      誉田御廟山      0.78
土師ニサンザイ    0.78     市野山       0.70
前ノ山       0.83     岡ミサンザイ     0.75

共に、前方部幅の割合が大きくなりつつありますが、同じ時代の場合、神聖王が幅の割合が大きいと云えます。



[11449]Re: 九州倭国の東征と崩壊  かたばみ投稿日:2013年 7月10日(水)23時22分
神奈備さんへのお返事です。

いつ、どこで、だれが、なにがあったか。
まずは年代、これの統一がないと場所の異なるどこでだれが、に関連づけた考察ができなくなりますね。
なにがあったか、についてはその伝承がまるっきりの創作でないかぎり、事実を基にしている可能性が高いと考えています。

書紀は万世一系に反する事象については徹底的に削除か書き換えを行った。
神武以降での出雲文化圏の存在についても同じくの処理を加えた。
書紀内容(系譜含む)を考えるときの基本になっています。

以前ご紹介した長野県の郷土資料の仁科濫觴記に崇神の子の仁品王(仁品親王)がやってきてその地を治めたとあります。
崇神朝成立で出雲文化圏の信濃に天孫氏族がやってきたことを示す資料。
書紀系譜にそれらしき人物はありませんが、開化、崇神、垂仁、景行では大王自身だけでなく家臣も含めれば無数の政略結婚が行われたと思います。
政略結婚では女性が主役になりますが、生まれた子がいかなる状況に置かれるか、ですね。
(倭迹々日百襲姫と大物主との政略結婚もありえる、子は無理でしょうけど)


>反逆者として描かれている狹穗彦に子孫が残っていたと言う記事です

戦争原因のひとつは宗教あるいは民族問題、これがからむと殺すことが目的となって相互に恨みの連鎖と増幅になる。
九州倭国の東征は食糧問題であって宗教や民族意識からじゃない。
恨みの連鎖を防ぐこと、垂仁朝の基本線だと考えています。垂仁の呼称の所以。
崇神は自らの祭祀を捨てて出雲祭祀を取り込んで融和を計った、崇神の呼称の所以。
崇神、垂仁はお気に入りの大王であります(^^;

景行311-333には少なくとも60人を越える子がいる、記録に残らぬ子を含めれば何人になるのか。
お好きだったのかもしれないけど(^^; 血縁関係を作る、婚姻融和策ですね。
新羅本紀312に倭国が王子の花嫁を求めこれに応ずとあります。景行のだれかだと思う。

344にも 倭国が花嫁を求めたがこれは拒否する、345に倭王が国書を送り国交を断絶したとあります。
成務333-356時代のこととなります。
百済の接近と七支刀(369)の倭王旨(書紀での神功皇后時代)以降の新羅攻撃への序曲でしょう。


書紀のインチキはまずは出雲のありようと神武東征。
崇神248-273〜仲哀356-360、大王系譜の基本線はまずOK、だが出雲系譜を消去するための改ざんは少なからず含む。
仲哀〜応神、神功皇后説話は100%ねつ造(^^;
倭王旨の事跡を流用して仲哀の妃の事跡とした。仲哀はむろん暗殺で倭王旨の謀反(ゆえに武内宿禰は仲哀の二人の王子の死を確認せねばならない)。
倭王旨の子の応神(九州系譜)に対抗して「日本武尊の縁戚であろう仁徳」(近畿系譜)が立つ。

応神、仁徳〜允恭は内戦モード、政略結婚の固まり。書紀系譜をうのみにすると危ない。
仁徳は応神の子ではないが持論。
応神の娘の矢田皇女が仁徳の妃になっていますが兄姉婚はさすがに無理、必然性もない。
応神系譜と仁徳系譜の政略結婚であり、仁徳を応神の子としたために近親婚になってしまっただけ。

倭王五代は応神の子の倭王讃(菟道稚郎子)、倭王珍(若野毛二派皇子、菟道稚郎子の弟、後の継体の祖)、倭王済(その一部が安康)、倭王興(ほぼ雄略)、倭王武(その一部が武烈)。
允恭は九州の倭王済(安康)に滅ぼされて九州の倭王五代が近畿を支配した。
書紀の書く安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈の系譜は九州倭王支配下の王をまぜこぜにしたもの。
雄略は倭王五代の中心人物、朝鮮半島から関東にまで支配が及ぶ最強の大王とみています。
しかし古事記の雄略はいたってあっさり書かれるのみ、即位年代にずれもあり興味深いところ。

書紀は武烈を徹底的に悪く書いてますが、「万世一系のひとり」をそこまで書くのはいささか奇妙。
倭王済以降ずっと支配されていた状況がとりあえず開放されて、ついついざまーみろの意識がでてしまったのかも(^^;
むろん天武持統の立場からのざまーみろですけど。

倭王武(武烈)にて倭王五代は途絶えるがおそらくは遠戚の筑紫磐井が継承、それを若狭あるいは北陸系の継体が奪取。
これは継体の謀反、ましかし記録としては勝者の言い分が通る。
筑紫磐井が継体に対して「同じ釜の飯を食った仲なのに」といっているのは同じ日本海系譜だから。

書紀はこれらを必死で万世一系となるように改ざんに次ぐ改ざん。
そして天智と天武、壬申の乱、これもいろいろありそうで楽しめそう(^^;
書紀のなにをどこまで信じるか、部分だとみえなくても大きな流れを見渡すといろいろが少なからずみえてくると考えています。


橘について補足です。
倭人伝に薑ショウガ、橘、椒、ミョウガが書かれてiいるので「倭国」に「倭人伝にいう橘」があったのは間違いない。
滋味であるのを知らない、というのは「倭人伝でいう橘」を除いてでしょう。
目立つ実をだれも食べてみなかったなんてありえない。すっぱくても滋味だったと思います。

その食用の柑橘類は珍彦グループが後漢から運んだとみます。食用だからこそ食べられない橘よりはるかに早い年代に。
植えたのは九州、愛媛、土佐?、紀州、持論の珍彦グループの活動場所に重なる地域です。
環境が適合した場所で自然に増えていった。

最古であるなら照葉樹林文化を運んだであろう長江の海洋系三苗による伝播の可能性があります。BC2000〜BC1500頃。
これも食用となる品種のはず。
南西諸島経由、沖縄にはいろいろな柑橘類があります。ただしこちらは琉球と中国貿易での伝播と混血である可能性あり。

書紀がいう橘は観賞用の食べられない橘、宮廷の庭園用で園芸というゆとりができてからのことだと思います。
万葉に橘は少なからず登場するけれど食用の話はない。平安初期の奈良京都には食用の柑橘類が存在しなかったからでしょう。
(畿内に「倭人伝のいう橘」はなかった)
観賞用橘の奈良への登場は早くて雄略456-479あたり、遅ければ飛鳥奈良時代か。

食用として柑橘類が記録に登場するのは延喜式(905頃)。
献上菓子として柑子コウジ(遠江、駿河、相模、因幡)、花橘(河内、摂津)が書かれる。
柑子は現在の山陰でも栽培されるので、こちらは東海ともども産地直送(陸運)でしょう。

花橘がいかなる品種かわかりませんが(類聚名義抄では夏蜜柑、橙ダイダイも同族)。河内や摂津を柑橘類の産地とするのは無理。
紀州南岸などから河内(現在の住吉大社付近)へ、九州などから摂津(元住吉)へ、船で運ばれてここからの献上ということだと思います。
(後に温州蜜柑など中国の蜜柑と結合してより甘いミカンへ変化してゆく)



[11448]Re: 加古郡4郷   神奈備 投稿日:2013年 7月 9日(火)21時39分
韓国と音楽を愛する男さんへのお返事です。

> 「住吉神社」であれば、東加古川に2箇所(別府・山之上)、明石・魚住に1箇所ですが、住吉大社神代記とあははの里との関連性は僕でもわかりません。

 ご紹介のサイトを吟味して考えたのですが、答えをお持ちではなかったのですね。それでサイトを紹介することは私ならしませんか・・・・・

多分 神代記の
一。賀胡郡阿閇津濱一處
 四至 東限餘郷  南限海樟及際 西限大湖尻。北限大路。

 この辺りを参考にしたのでしょう。



[11447]Re: 加古郡4郷  韓国と音楽を愛する男投稿日:2013年 7月 9日(火)17時43分
神奈備さんへのお返事です。

> 韓国と音楽を愛する男さんへのお返事です。
>
> http://www.hyogo-c.ed.jp/~inamino-sn/column/burari/burari35.pdf
> あははの里」はどのあたりを指すかというと、住吉神社の分布と『住吉大社神代記』の記述を参考にして、東は明石市二見町、西は加古川市野口町、北は加古川市平岡町土山から稲美町六分一あたりではなかろうかと、稲美町在住の田井恭一氏は結論づけられています。
>
> あははの里の解読に『住吉大社神代記』のどこが利用されたのでしょうか。
>

「あははの里」自体、平安時代の「和名抄」にはありませんし、現行地名にも残っていません。
「住吉神社」であれば、東加古川に2箇所(別府・山之上)、明石・魚住に1箇所ですが、住吉大社神代記とあははの里との関連性は僕でもわかりません。
だいたい、播磨風土記のみの地名で、平安時代や現行地名に現れない「あははの里」は、謎に満ちていますね。
「アハ」地名であれば、加古川町粟津がありますが、「あははの里」が東加古川だったとすれば、関連性には疑問符が付きますね。

平安時代には「住吉」・「余部」郷が加古郡にありましたが、住吉郷が東加古川一帯だとすれば、余部郷の現在地は不明です。


[11446]Re: 加古郡4郷   神奈備 投稿日:2013年 7月 8日(月)15時59分
韓国と音楽を愛する男さんへのお返事です。

http://www.hyogo-c.ed.jp/~inamino-sn/column/burari/burari35.pdf
あははの里」はどのあたりを指すかというと、住吉神社の分布と『住吉大社神代記』の記述を参考にして、東は明石市二見町、西は加古川市野口町、北は加古川市平岡町土山から稲美町六分一あたりではなかろうかと、稲美町在住の田井恭一氏は結論づけられています。

あははの里の解読に『住吉大社神代記』のどこが利用されたのでしょうか。



[11445]加古郡4郷  韓国と音楽を愛する男投稿日:2013年 7月 7日(日)17時27分
播磨風土記において、4つの里がありますが、その4つの里の比定地は次の通りです。
長田=現在の尾上町長田。
駅家=加古駅(加古川駅ではない)で、野口町。
望理里=稲美町母里
鴨波里=東加古川?
母里はその字面から、母の日になると郵便局の消印が人気になりますが、風土記の地名にルーツがあるのですね。
望理の古形は「まがり」であり、「まうり」から「もうり」となって、「母里」の字があてられたという説が有力です。
http://www.hyogo-c.ed.jp/~inamino-sn/column/burari/burari2.pdf
鴨波里の古い形は「あはは」で、今は「あわわ」と読みますが、平安時代には消えていたらしいです。
http://www.hyogo-c.ed.jp/~inamino-sn/column/burari/burari35.pdf
加古駅は加古川と東加古川の中間にあり、日本最大の駅でした。
今、日本最大の駅は東京駅・新宿駅ですが、古代の「日本最大の駅」は加古川にあったのですね。
古代の加古川が、いかに文人に愛され、朝廷から重要視され、文化が発達し、これが今日まで残っていることは、わが加古川市民の宝ですね。
ぜひともヤマトタケルの大河ドラマを加古川でやるべきです。


[11444]Re: 九州倭国の東征と崩壊   神奈備 投稿日:2013年 7月 3日(水)19時23分
かたばみさんへのお返事です。

ありがとうございました。

> 沙本毘古王は彦坐王グループのタカ派でしょう、反乱というより徹底抗戦の行動だと思います(大昔の建御名方と同じ)。

 最近読んだ本に『卑弥呼と古代天皇』で、卑弥呼ー台与 以降も女王制が続いたのではないかとの仮説をたてて論証を行っています。そうして最後の女王として、沙本比売をあげています。最後のと言う意味は、今までの女王は独身であり、子どもを生まず、従って世襲制ではなかったとし、沙本比売はイクメさんとの間にホムツワケをもうけ、また兄の沙本毘古王は葛城の磐之比売を娶ったとしています。何故、女王制をやめて男王に切り替えたのか、これは百済との軍事同盟が成立し、強力な政権が求められている情勢になってきたと言うこととしています。

 面白いのはその女王候補には崇神〜仲哀の間の皇后や妃をあげており、百襲姫ははいっていません。しかし、女王達の古墳としては、箸墓、西殿塚、行燈山、渋谷向山とされており、沙本比売は五社神としています。

 さて、岸本直文さんの『史跡で読む日本の歴史2 古墳の時代』では、上記の女王制ではありませんが、大王の系列として、神聖王と執行王をあげており、神聖王の系列が、卑弥呼(箸墓)ー台与(西殿塚)ー行燈山(崇神)−宝来山(垂仁)−神功皇后(五社神)と、上記の女王制と似たお話ですが、古墳の分析では岸本さんに一日の長がありそうで、渋谷向山の前方部が開きのない柄鏡形で、メスリ山のタイプのようです。

 細部のことはともかく、関西在住の一風変わっているのでしょう、前田さん、岸本さんの説を吟味して統合していきたいなどと思っています。

 以下の記事があります。
『日本書紀』巻十四雄略天皇十三年(己酉四六九五)三月◆十三年春三月。狹穗彦玄孫齒田根命竊奸采女山邊小嶋子。天皇聞以齒田根命。收於物部目大連而使責讓。齒田根命以馬八匹。大刀八口。秡除罪過。
 反逆者として描かれている狹穗彦に子孫が残っていたと言う記事です。筑紫の磐井の息子も殺されていなかったようですから、親が反乱を起こしても子孫は残されたのか、実は反乱ではなかったのか、これも面白いことです。



[11443]Re: 神崎と神前   福島雅彦 投稿日:2013年 7月 1日(月)22時11分
韓国と音楽を愛する男さんへのお返事です。

> 播磨風土記を見ても、徐福と播磨国との関連性はありませんが、アーバンネットワークでは、きのくに線・新宮駅の所在地の行政区が徐福になっています。
> 新宮市の観光名所に徐福公園がありますが、これは新宮市に不老不死の霊薬があり、大陸文化を広めた伝説によるものです。
> 肥前国には神崎郡のほかに養父郡もありましたが、兵庫県養父郡(養父市)との関連性は不明です。

早速、ご解答下さり多謝 謝々!
不老不死の霊薬を求めて徐福は来倭していますので、何かありそうですね。
情報を賜り有難う御座いました。


[11442]Re: 神崎と神前  韓国と音楽を愛する男投稿日:2013年 7月 1日(月)17時56分
福島雅彦さんへのお返事です。

> 韓国と音楽を愛する男さん
> ※横レス、失礼します。
> 私は、古代史文献派で、所謂「邪馬臺國」問題を解明しました。
> *「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖ン(の)國」=漢の前の秦人の徐福が興した国。
> *前(さき)=祖。
> *漢前郡⇒神崎郡(吉野ヶ里の地)=好字二字令。
> 播磨にも「神崎」が在りましたか。徐福の痕跡は在りませんでしょうか。

播磨風土記を見ても、徐福と播磨国との関連性はありませんが、アーバンネットワークでは、きのくに線・新宮駅の所在地の行政区が徐福になっています。
新宮市の観光名所に徐福公園がありますが、これは新宮市に不老不死の霊薬があり、大陸文化を広めた伝説によるものです。

肥前国には神崎郡のほかに養父郡もありましたが、兵庫県養父郡(養父市)との関連性は不明です。



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