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Re: Re: 「日香天之天之(やかましあめの」 クラリン 投稿日:2021年 9月23日(木)
">Indukmuさんへのお返事です。


> day なのでしょうか、 sun なのでしょうか、それとも両方なのでしょうか。



英語語源辞典によれば、dayは「熱」が語源のようです.日本語の「や」「ひ」に

つきましては、日本語内部でのみの淵源捜索は無理ではないかと考えています.




Re: Re: 「日香天之天之(やかましあめの」 Indukmu 投稿日: 2021年 9月22日(水
;">Indukmuさんへのお返事です。

> 凄く興味深いです!!
>
> 歩行「=かち」と関連づけることも可能ですね。
>
>
> それにしてもクラリンさん、すごいですね… 本気で感嘆しております。


――

冷静に考えたら、副詞「やがて」と副詞「かつ」との関係性が想起されてくるのでした。

古語では共に、コアイメージに《近接》があるのです。

現代語とは違いまして……


――



※day と sun とを共に 日 で表記するのは中国特有のものだと私は思っています。

クラリンさんの【ヤ】は、ヤマトコトバとして、意味のコアイメージは、
day なのでしょうか、 sun なのでしょうか、それとも両方なのでしょうか。

わからなくなってきました。




Re: Re: 「日香天之天之(やかましあめの」 投稿日:2021年 9月22日(
">クラリンさんへのお返事です。
> Indukmuさんへのお返事です。
>
> 「やがて春が来る」の「やがて」は、「や・がて」と形態素分析ができます.
>
> 「や」は「日」、「かて」は「進む」といった意味辺りでしょうか.

凄く興味深いです!!

歩行「=かち」と関連づけることも可能ですね。


それにしてもクラリンさん、すごいですね… 本気で感嘆しております>



Re: Re: 「日香天之天之(やかましあめの」 クラリン 投稿日::2021年 9月22日
">Indukmuさんへのお返事です。

「やがて春が来る」の「やがて」は、「や・がて」と形態素分析ができます.

「や」は「日」、「かて」は「進む」といった意味辺りでしょうか.


日が進み春が来るというわけです.

石川県鳳至郡方言に「やがて行かんしのー(早く行きなさいよ)」(日本方言大辞典)が

あります.これは「日が進むから早く行きなさいよ」ということになります.


方言にはまた、「いつか。今に。将来」という意味があるとのこと.

「やがて来るだろう」は「日が進む(のちの)いつか」です.


沖縄県首里 「やがてぃしぬたん(もう少しで死ぬところだった)」は転義でありましょう.

以上から、「弥・がて」も考えましたがこれは上例に当てはまりませんので、「日・がて」で

ありましょう.


なお「夜前」という言葉があります.

これは「前日の夜」(『時代別国語大辞典室町時代編5』)という意味とされますが、

であれば「前夜」ではないのか、訝しい解釈です.

すなわち、「夜前」は当て字であって、実際は「日前」ではなかったか・・・.

「やがて」とは逆の意味で、「今日という日の前」であろうかと思います.


日本国語大辞典には「漢語の「昨夜(宵・晩・夕・暮)」の意味を表わす和製漢語」と

あります.





Re: Re: 「日香天之天之(やかましあめの」 Indukmu 投稿日2021年 9月21日:
;">クラリンさんへのお返事です。


お返事が遅れましたことをお詫び申し上げます。

>
> 和語私臆鈔に「八代」を「陽代の義」と解く説があります(日本国語大辞典).
>
> これは誤説でしょうが、「や」を「陽」にあてています.
>


凄い例を見いだしたのですね。御努力に頭が下がります。

ただ、陽と書いてヤと読ませることは、上代では普通にあったことと思います。

それとは別に、現代でも、陽と書いてヤと読ませることは[名乗り]にはあるようです。大辞林だったかにでているはずです。話を元に戻します。

上代で陽の字をヤと訓むことは、所謂、【略音仮名】といわれる用字の一例となりましょう。

日本書紀で、地名カミツヤメに「上陽■」と字をあてています。(■は、口へんに羊のつくり)

後の時代に、例の好字令が出まして、上八妻と書くようになりましたが…

驚いたことに現代でも地元に参りますと「上陽■」表記がありますが、恐らくこれは日本書紀に倣って復活させた用字なのでしょう。

当方、勉強不足ですし当てにはならないことを申すかもしれませんけれども、
和語私臆鈔に「八代」とあるのがヤシロと訓むものであるならば、日本書紀の「陽■」に倣っての発想にて、これを「陽代」と考えたくなった気持ちもわからなくはないです。

しかしながら「陽代」の陽の字は、音仮名ですので、ここから日・太陽まで概念を引くのは和語私臆鈔のやり過ぎではないかと思います。

※ヤシロ地名は大概【社】が起源ですし、ヤツシロ地名は、ヤツ(谷地・湿地)+シロ等々などが起源ともされている、そうした事情もありまして、陽から日に発想を飛躍させることには一抹の不安もございます。

以上となります。




Re: 「日香天之天之(やかましあめの クラリン 投稿日:2021年 9月13日
>Indukmuさんへのお返事です。

ともあれ、日外で「あぐい」と訓むことに着目しました.

和語私臆鈔に「八代」を「陽代の義」と解く説があります(日本国語大辞典).

これは誤説でしょうが、「や」を「陽」にあてています.

「陽」は「日」の意味ですから、これも「や」を「陽」と言っていたことを窺わせます.


「や」は口蓋化で「あ」となりえます.淡路島に残る名ということで、

何らか「流された」貴人のように思われます.

この「や」は一種のダイグロシアであったのかとも思わせるところがあります.




また、「利囂(とかま)」がどのような意味であれ、やかましく鳴きわたると解されても、

文法上のクレームがなかったことが注目されます.




Re: 「日香天之天之(やかましあめの」 Indukmu 投稿日:2021年 9月12
>その後も
「日外親王」の「日外」は、何故この字が選ばれたのかについて時々考えておりました。
あえてナイーブではありますが「日外親王」は本当に親王であったと仮定して考えています。

畿内中央の資料には「日外親王」の記述が見えないことの理由として最も考え易いものとしては、《「日外」は諱ではない》というものがあります。
すなわち避諱、実名敬避俗が働いていたと考えられます。

堯院法親王の堯院は天台宗において与えられた法諱であり、法親王という貴人ゆえに、やはり実名敬避俗の対象たりえると判断しました。

さて平安時代以降に貴人は目下の者からどのように呼称されていたかについてですが、その貴人が居住する邸宅の名、邸宅の所在地の名や官職の名が多用されるようになりました。
さて、室町時代、清涼殿母屋の南五間を日御座・昼御座(ルビ:ひのおまし)といったりしています。
天皇に準じる貴人が昼間いる部屋、または邸宅のことを日殿・昼殿(ルビ:ひのとの)と言ったようです。
淡路島に一時的に住まわれた親王(または法親王)の実名や諱を忌避する実名敬避俗が淡路島の人々に働いたとするならば、その親王がお住まいになられている建物の名で親王を呼ぶことも十分にありえることと思われます。

以上を踏まえて、あらためて「日外」について考えますと、「外」の字の訓に【との】という珍しいものもあることに行き当たります。すなわち、「日外」は「ひのとの」と読まれていた、「日殿」が本来の用字ではあったものの、「日外」でもって実名敬避俗を実現していた、このようにも考えてみたくなります。

淡路島の地元の郷土資料にある、日外親王が住まわれた土地の地名は、《御所山》なのですが、この地名は現在でも残っています。
《御所》は、室町時代には、だんだんと天皇のお住まいだけを指すのではなく、貴人の住まいを表すようにもなっていきましたし、【大御所】なぞという実名敬避俗の例も江戸時代には発生していたもののようで、親王が住んでいた場所を御所の山と言ったとしても不自然ではありません。一方においては、この御所を、当時の人々が【日殿:ひのとの:日外と書かれた】と呼んでいたこともあり得ます。

実名敬避の結果として「日外(ひのとの)」が生まれた、このように考えてみたいのです。

なお、先日も書きましたが、この時代には既に「日外」という和製漢語に「いつぞやの」あるいは「過日」といった意味があったわけで、「日殿」を書くために「日外」と書くのは変なのですが……

殿村という名字もあれば外村という名字もある、そうした当て字は昔から当たり前にあったと考えてみたいのです。

――

日外を「あぐゐ」と訓むのは熟字訓である、こうした可能性が少しばかり増えてきた気がいたします。




[12061 Indukmu 投稿日: 2021年 9月 5
>クラリンさんへのお返事です。


> 例えばに古事記・歌謡にある「比佐迦多能(ひさかたのノ) 天(あめ)の香具山
> 利鎌(とかま)に さ渡る鵠(くび)の」の「とかま」については古来より
>
> 「鋭利な鎌」と解釈されて,「利鎌(よく切れる鎌)のような(月の)光の形容」と
>
> されています.ですがこれは考え過ぎでありましょう.
>
> これを「利囂(とかま)」と解して,「鋭くやかましく鳴きわたる(鳥)」という解釈も
>
> あります.この説ですと「かまし」ではなく「かま」を容認しています.
>
> ただ、空高く渡っている鵠が五月蝿く聞こえるものかどうか,疑問があります.
>
>
> とはいえ、「かま」の存在を許容しているところは注目されます.
>
>
>

これは興味が引かれます。初めて知りました。ご教示を有り難うございます。
日本国語大辞典の項目「利鎌」にも以下のようにありました。

《[補注]「古事記伝‐二八」以来、挙例の「古事記」の「とかま」も「利鎌」と解されてきたが、「と」は「とし」(鋭・利・敏)の語幹として、「かま」は「かまし」「かまびすし」の語幹で、鋭くやかましく鳴きわたるものと見る説がある。これによれば、「古事記」の「とかま」は他の「利鎌」とは別語とすべきことになる。》

――

トカマの刃の冴えざえとした光を、月の光に喩える……?

三日月の形と鎌の形との同型性に着目されることも多いものとも思われます。

ただ、この歌謡では トカマ は トカマニ として現れていること、この助詞 ニ に注目すべきと存じます。

トカマに さ渡る鵠の

トカマのように 空を渡る白鳥の

と助詞 ニ の語義を限定します。

ここで、白鳥は一羽ではなく群れをなしていることとして思い描きたいと考えます。

さわたる白鳥をはじめ、渡り鳥の多くは、編隊飛行をします。 その姿は、逆Vの字型、ないしは、への字型とも言われていて、長距離飛行を省エネで行うための自然の智恵とされています。

このV字編隊を、 利鎌の形のようだとヤマトタケルは捉えた、そのように受け止めたいところではあります。

もしかしたら白鳥の色の白も、イメージ喚起される歌ではないかとも思います。

というのは、ミヤヅヒメの 細い腕 への修飾と見たいからです。

ヒメの白く細い腕が、ひじのところで角度をなしている(口元に手をもっていっているのか、胸に手を当てているのか) …

その腕の形と色とを、白鳥たちが空を渡るイメージと重ねたと、そのように感じます。

ぎゃあぎゃあ鳴きながら飛ぶ鳥たちと、ヒメのたわやかな腕とは、どうにもつながりません。


――

有坂法則についてのご教示を有り難うございます。
当方の勉強不足でした。

――

随分と脱線してしまいました。

個人的にはこういうのが大好きです。

―――

焼鎌神社 敏鎌神社まであれこれ読みまくりました。こういうのも楽しみです。

――

古墳時代には、鎌が使われはじめたようです。

―――

長々とすみませんでした。



Re: アラハバキについて 羽村の縄文人 投稿日2021年 9月 5日
">羽村の縄文人です。

美保神社の「となえごと」について調べてみました。美保神社の氏子組織は、客人対応の組織のように見えます。秘伝の「となえごと」は神職さえ知らない門外不出の言葉だそうですが、もしかして、客人を迎える「外国語」なのかなと、勝手に想像しています。
諸手船神事の直前、「客人社」で神事を行い、諸手船神事を行うことを報告し、神事を行うことを知らせる「とーめー」という掛け声が湾内に響くそうです。
この「とーめー」をアイヌ語で見てみると、「とーマゥ」を「海の風」というと書いてあります(地名アイヌ語小辞典P130)。これを解釈すると、船出に適した風が出てきたことを客人に告げ、客人がいとまを告げて、船出するという事象を行事化したように思えます。

蛇足ですが、「アイヌ地名散歩」の中で大友幸男氏は魏志倭人伝の中の投馬国は出雲だろうと言っています。美保神社の近くの松江をアイヌ語に(強引に)当てはめると、マ・たンネ が近く、「入江が長くある」という意味で、中海・宍道湖の大きな潟胡に当てはまります。


羽村の縄文人さんへのお返事です。

> パスカルさんへのお返事です。
>
> パスカルさん、いろいろ考察、参考になります。
>
> アラハバキの神事というか、昔のアラハバキ(来訪者、交易者)を迎えた様子が神事に昇華したのが、出雲の神迎え神事ではないかと想像しています。昨年はコロナで参列できませんでしたが、この10年くらい、毎年神迎え神事に参列しています。
>
> この神事は、
> @ 稲佐の浜で旧暦10月10日の夜、焚火を燃やし、出雲国造が神様を迎える
> A 神様を客殿(神楽殿)に案内し(エスコートする)、その後宿舎(十九社)にお連れする(かなり速足なので、真っ暗な中、外来者はついていくのに一苦労ですが)
> B 会議室(上社)で、縁結びが行われる
> C 来訪者は、一週間後、近隣の佐太神社に移動する。佐太神社でも同様の神事が行われる。
> D 佐太神社の後、来訪者は万九千神社に移動する。
> E 万九千神社では「なおらえ」(宴会)が行われ、その後、出立(神去出)となる
>
> この一連の神事を見ますと、
> ・来訪者を、その地の長老が、海に目印(焚火)を置いて迎える。(稲佐の浜の稲佐は、アイヌ語の「イナウサン」からきていると思われます)
> ・来訪者は、縁結びのはかりごと、つまり物々交換のマッチングをする
> ・来訪者は、近隣を回る(実は、神在祭は朝日神社から始まります)
> ・来訪者を歓迎して、宴会が催される
> ・現地ではこれを「お忌み様」と呼び、期間中は音を出さないように静かにしている→これは、来訪者に娘などが見つかって差し出されないようにしたのでは?(これはヤマタノオロチと櫛稲田姫の関係)
> ・来訪者は近隣を回り、交易をする
>
> アラハバキと土偶の関係、アラハバキの神様としての性質に関してですが、縄文時代はアイヌと同じで、神様(精霊)があちこちに宿るという考え方で、特に人格化や偶像化はなかったのではと考えています。これは、現代にも伝わる磐座や、滝がご神体という考え方と同じではないかと思っています。
> この神が「子孫繁栄」につながったという考え方は、昔の地方では、来訪者に娘を差し出し、外部からの血を入れて、近親婚を防いだということがあったと聞いたことがあります。これに近いのかなと思います。
>
> 恵比寿に関して、恵比寿様の総本山、美保神社も出雲にあります。恵比寿は蝦夷(えみし)の転訛という方もいて、来訪者という位置づけなのかなとも考えられますね。美保神社には「となえごと」の秘儀も伝わっており、このあたりも研究すると面白いかもしれませんね。
>
>
> > 羽村の縄文人さんへのお返事です。
> >
> > いろいろと勉強になります。
> > ありがとうございます。
> > アラハバキが縄文=アイヌ語由来であること、縄文が漁労民であること等、私も共感できることです。
> >
> > 私が抱いている最大の疑問は「アラハバキとは一体どのような神であるのか」ということです。
> >
> > @アラハバキの名称がアイヌ語由来であるとするなら、今のアイヌの習俗の中にアラハバキに該当する神(神事)の痕跡を見出すことはできないでしょうか?
> > ただアイヌの神は大半が男性とされているそうなのですが(日本民俗宗教辞典)、土偶の性質から考えて、女性神が多いと思われる縄文の神々とは、やや趣が異なるように感じるのですが。
> >
> > Aこのサイトでも紹介されていますが、谷川健一さんが言うようにアラハバキとは「サエの神」であるということに落ち着くのではないかと私には思えます。
> > サエの神は異界との境にあって、外部からの侵入を防ぐ守護神であったと考えると、海辺に何らかの標(しるべ)が立てられていたことは想像できます。
> > また、文化人類学でいうところの「贈与・交換」は、結果としてそれが「交易」になったとしても、あくまでも神の監視の下で行う儀礼的行為(神事)であったと考えます。
> > あるいは、縄文人が海の民であり、アラハバキが海からの収穫を祀る神であったと考えても、矛盾は起こりません。
> > なぜなら、サエの神はのちに道祖神に変化していくように、子孫繁栄や豊穣を願う神でもあったからです。
> >
> > Bこれはあくまでも“思い付き”でしかないのですが。
> > 海の神で思い出すのが、異境異端の神であるエビス神です。
> > 記紀に登場せず、神無月の集まりにも呼ばれず、一説によると不具の子ヒルコに同定されたりもします。
> > このような異質さを考えると、もしかするとアラハバキはエビス神に変化変形していったような気もするのです。
> > もちろんこれを証明(あるいはある程度の説明)するのは難しいのですが。
> >
> > 以上、あくまでも一笑に付すような私見にすぎませんが、何らかのヒントになれば幸いです。
> >
> >
> >
> >
> > > 大三元さんへのお返事です。
> > >
> > > 大三元様、わざわざのお返事ありがとうございます。また、例文を挙げてのご指摘、ありがとうございます。これから少しずつ、アイヌ語を勉強してみようかと思っております。
> > > 私も「客人」という解釈に賛成です。舟で(おそらく何艘かの船団で)交易で回っていて、アラハバキの目印で上陸、現地の人々と交流・交易がおこなわれたと想像すると、舟で訪問してきた人たちは見方を変えれば「客人」といえます。長野正孝氏の「古代史の謎は海路で解ける」を読みますと、長野氏がご自身の船乗りとしての経験から古代の航海を想像されていますが、そんな状況が想起されます(古墳が宴会場だったというのには賛同できないのですが)。アラハバキ神に航海の無事を祈り、客人社に饗応のお礼をするようなこともあったのではないかと、勝手に空想しております。長野氏の言われる「神社は交易の場だった」という考えには賛成しております。網野善彦氏も、中世においても神社が地域へ経済的役割を果たしていたと述べられています。
> > >
> > > 長々とお邪魔いたしました。
> > >
> > >
> > >
> > >
> > >
> > >
> > > > 羽村の縄文人さんへのお返事です。
> > > > 神奈備さん、リファありがとうございます。
> > > >
> > > > 「大山氏はこれを「かしら=首領」と解釈したようですが」:
> > > > 私の解釈ではありませんで、萱野茂さんの辞書(p371)に出ています。
> > > >
> > > > pake 首領,頭./コタン オッタ(オロ タ) ウタラパケ シコロ ア・イェ クル インネ コロカ タプイキクル ア・イェ ヒ ウタラパケ ネ ワ=村には仲間の首領と言われる人大勢いるが,今来て行った人,あの人のことを言うのが村の首領だよ.
> > > >
> > > > 例文を見るとこの文脈では「首領」(村長、集落の長)あたりに理解して好いようですね。
> > > >



Re: アラハバキについて 羽村の縄文人 投稿日: 2021年 9月 5日
">パスカルさんへのお返事です。

パスカルさん、いろいろ考察、参考になります。

アラハバキの神事というか、昔のアラハバキ(来訪者、交易者)を迎えた様子が神事に昇華したのが、出雲の神迎え神事ではないかと想像しています。昨年はコロナで参列できませんでしたが、この10年くらい、毎年神迎え神事に参列しています。

この神事は、
@ 稲佐の浜で旧暦10月10日の夜、焚火を燃やし、出雲国造が神様を迎える
A 神様を客殿(神楽殿)に案内し(エスコートする)、その後宿舎(十九社)にお連れする(かなり速足なので、真っ暗な中、外来者はついていくのに一苦労ですが)
B 会議室(上社)で、縁結びが行われる
C 来訪者は、一週間後、近隣の佐太神社に移動する。佐太神社でも同様の神事が行われる。
D 佐太神社の後、来訪者は万九千神社に移動する。
E 万九千神社では「なおらえ」(宴会)が行われ、その後、出立(神去出)となる

この一連の神事を見ますと、
・来訪者を、その地の長老が、海に目印(焚火)を置いて迎える。(稲佐の浜の稲佐は、アイヌ語の「イナウサン」からきていると思われます)
・来訪者は、縁結びのはかりごと、つまり物々交換のマッチングをする
・来訪者は、近隣を回る(実は、神在祭は朝日神社から始まります)
・来訪者を歓迎して、宴会が催される
・現地ではこれを「お忌み様」と呼び、期間中は音を出さないように静かにしている→これは、来訪者に娘などが見つかって差し出されないようにしたのでは?(これはヤマタノオロチと櫛稲田姫の関係)
・来訪者は近隣を回り、交易をする

アラハバキと土偶の関係、アラハバキの神様としての性質に関してですが、縄文時代はアイヌと同じで、神様(精霊)があちこちに宿るという考え方で、特に人格化や偶像化はなかったのではと考えています。これは、現代にも伝わる磐座や、滝がご神体という考え方と同じではないかと思っています。
この神が「子孫繁栄」につながったという考え方は、昔の地方では、来訪者に娘を差し出し、外部からの血を入れて、近親婚を防いだということがあったと聞いたことがあります。これに近いのかなと思います。

恵比寿に関して、恵比寿様の総本山、美保神社も出雲にあります。恵比寿は蝦夷(えみし)の転訛という方もいて、来訪者という位置づけなのかなとも考えられますね。美保神社には「となえごと」の秘儀も伝わっており、このあたりも研究すると面白いかもしれませんね。


> 羽村の縄文人さんへのお返事です。
>
> いろいろと勉強になります。
> ありがとうございます。
> アラハバキが縄文=アイヌ語由来であること、縄文が漁労民であること等、私も共感できることです。
>
> 私が抱いている最大の疑問は「アラハバキとは一体どのような神であるのか」ということです。
>
> @アラハバキの名称がアイヌ語由来であるとするなら、今のアイヌの習俗の中にアラハバキに該当する神(神事)の痕跡を見出すことはできないでしょうか?
> ただアイヌの神は大半が男性とされているそうなのですが(日本民俗宗教辞典)、土偶の性質から考えて、女性神が多いと思われる縄文の神々とは、やや趣が異なるように感じるのですが。
>
> Aこのサイトでも紹介されていますが、谷川健一さんが言うようにアラハバキとは「サエの神」であるということに落ち着くのではないかと私には思えます。
> サエの神は異界との境にあって、外部からの侵入を防ぐ守護神であったと考えると、海辺に何らかの標(しるべ)が立てられていたことは想像できます。
> また、文化人類学でいうところの「贈与・交換」は、結果としてそれが「交易」になったとしても、あくまでも神の監視の下で行う儀礼的行為(神事)であったと考えます。
> あるいは、縄文人が海の民であり、アラハバキが海からの収穫を祀る神であったと考えても、矛盾は起こりません。
> なぜなら、サエの神はのちに道祖神に変化していくように、子孫繁栄や豊穣を願う神でもあったからです。
>
> Bこれはあくまでも“思い付き”でしかないのですが。
> 海の神で思い出すのが、異境異端の神であるエビス神です。
> 記紀に登場せず、神無月の集まりにも呼ばれず、一説によると不具の子ヒルコに同定されたりもします。
> このような異質さを考えると、もしかするとアラハバキはエビス神に変化変形していったような気もするのです。
> もちろんこれを証明(あるいはある程度の説明)するのは難しいのですが。
>
> 以上、あくまでも一笑に付すような私見にすぎませんが、何らかのヒントになれば幸いです。
>
>
>
>
> > 大三元さんへのお返事です。
> >
> > 大三元様、わざわざのお返事ありがとうございます。また、例文を挙げてのご指摘、ありがとうございます。これから少しずつ、アイヌ語を勉強してみようかと思っております。
> > 私も「客人」という解釈に賛成です。舟で(おそらく何艘かの船団で)交易で回っていて、アラハバキの目印で上陸、現地の人々と交流・交易がおこなわれたと想像すると、舟で訪問してきた人たちは見方を変えれば「客人」といえます。長野正孝氏の「古代史の謎は海路で解ける」を読みますと、長野氏がご自身の船乗りとしての経験から古代の航海を想像されていますが、そんな状況が想起されます(古墳が宴会場だったというのには賛同できないのですが)。アラハバキ神に航海の無事を祈り、客人社に饗応のお礼をするようなこともあったのではないかと、勝手に空想しております。長野氏の言われる「神社は交易の場だった」という考えには賛成しております。網野善彦氏も、中世においても神社が地域へ経済的役割を果たしていたと述べられています。
> >
> > 長々とお邪魔いたしました。
> >
> >
> >
> >
> >
> >
> > > 羽村の縄文人さんへのお返事です。
> > > 神奈備さん、リファありがとうございます。
> > >
> > > 「大山氏はこれを「かしら=首領」と解釈したようですが」:
> > > 私の解釈ではありませんで、萱野茂さんの辞書(p371)に出ています。
> > >
> > > pake 首領,頭./コタン オッタ(オロ タ) ウタラパケ シコロ ア・イェ クル インネ コロカ タプイキクル ア・イェ ヒ ウタラパケ ネ ワ=村には仲間の首領と言われる人大勢いるが,今来て行った人,あの人のことを言うのが村の首領だよ.
> > >
> > > 例文を見るとこの文脈では「首領」(村長、集落の長)あたりに理解して好いようですね。
> > >



[12061Re: 「日香天之天之(やかましあめの」 クラリン 投稿日: 2021年 9月 5日
">Indukmuさんへのお返事です。


> ●その2
>  上代から平安時代にかけての資料上では、形容詞「喧し(かまし)」の存在の、具体的な確
> 例は存在せず、「あなかま」他から、【このような形容詞があったものと推定される】存在な> のでした。
>

具体的な例は「日香天之」として存在します・・・とはいえ、これでは循環論法となってしまいます

が、このような推定を必要とする語彙は上代文献には豊富に存在します.もし、これら推定形が

ずべて排除されたとすると、極言すれば万葉学などは成立しなくなると言えるかも知れません.

例えばに古事記・歌謡にある「比佐迦多能(ひさかたのノ) 天(あめ)の香具山

利鎌(とかま)に さ渡る鵠(くび)の」の「とかま」については古来より

「鋭利な鎌」と解釈されて,「利鎌(よく切れる鎌)のような(月の)光の形容」と

されています.ですがこれは考え過ぎでありましょう.

これを「利囂(とかま)」と解して,「鋭くやかましく鳴きわたる(鳥)」という解釈も

あります.この説ですと「かまし」ではなく「かま」を容認しています.

ただ、空高く渡っている鵠が五月蝿く聞こえるものかどうか,疑問があります.


とはいえ、「かま」の存在を許容しているところは注目されます.





Re: 「日香天之天之(やかましあめの」 クラリン 投稿日:2021年 9月 5日
>Indukmuさんへのお返事です。

> ●その4
> クラリンさんが有坂法則について言及なさっておいででしたけれども、《〜アマよりも〜アメのほうがよい》理由とは無関係のように思います。以下に有坂法則をあげておきます。
> 第一則:甲類のオ列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することがない
> 第二則:ウ列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することが少ない
> 第三則:ア列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することが少ない


その4でご指摘の有坂法則はご存じの「有坂・池上法則」,即ち母音調和

という法則です.

私の申しましたのは、sak・e=ya→sak・a=yaという合成語の変音現象の方

です.もっとも、有坂「上代音韻論」(三省堂.s30)では露出形・被覆形の

名を与えておりますが、これも音韻法則の範疇ですので有坂法則と書

きました.わかりにくい記述で申し訳ありません.





[12061Re: 「日香天之天之(やかましあめの」 Indukmu 投稿日: 2021年 9月 4日
>クラリンさんへのお返事です。
>
> 以上は後述の参考文献1を学んだところによります。

失礼いたしました、書きおとしました。


●形容詞「かしかまし」小考|森脇茂秀

h□□p://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/kg04506.pdf?file_id=3861





Re:「日香天之天之(やかましあめの」 Indukmu 投稿日: 2021年 9月 4
">クラリンさんへのお返事です。

今回は以下、見落としていたことがらの落穂拾いになります。

●その1
私は、手元にある(高校のときに買い求めた)学習用の古語辞典を参照して、次のような理解をしていました。

形容詞「喧し(かまし)」は、シク活用である。

しかしながら、例の「あなかま」の在り方が、所謂、形容詞の語幹用法であることが間違いないこと、そして語幹用法でのク活用とシク活用との文法的な差異を鑑みますと、
形容詞「喧し(かまし)」は、ク活用である、
との理解にいたりました。

ここに御詫び方々訂正させていただきます。

以上は後述の参考文献1を学んだところによります。
※ク活用ならば「あなかま」、シク活用ならば「あなかまし」となるからです。


●その2
上代から平安時代にかけての資料上では、形容詞「喧し(かまし)」の存在の、具体的な確例は存在せず、「あなかま」他から、【このような形容詞があったものと推定される】存在なのでした。

単独での使用例がないことから、形容詞「喧し(かまし)」の活用がク活用であるかシク活用であるのかについて、誰もしかと確認できていないのです。
単独ではなく複合的な語彙になると、シク活用も登場しています。
「みみかまし」「かしかまし」はシク活用です。また、江戸時代に確例のある「やかまし」もシク活用です。

※万葉集に「あられ降り」が地名「鹿島(かしま)」の枕詞として用いられているのですが、これは「かまし」の例ではありません。「かしまし」に近いのですが、仮に「かしまし」であったとしても、ク活用なのかシク活用なのかが確認できません。

●その3
「やかまし」の「や」の語義はなんだったのだろうかとあらためて不思議に思い始めました。
この「や」は語幹用法での「あな」とは違う種類のもののはずです。もしも同じ種類のものならば、「あなかま」同様に、「やかま」で止めることになるからです。

以前、「いや+かまし」の形を検討していましたが、「いやかま」と止めることになってしまうと思われるので、間違いでした。

――

●その4
クラリンさんが有坂法則について言及なさっておいででしたけれども、《〜アマよりも〜アメのほうがよい》理由とは無関係のように思います。以下に有坂法則をあげておきます。
第一則:甲類のオ列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することがない
第二則:ウ列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することが少ない
第三則:ア列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することが少ない




Re: (無題) クラリン 投稿日: 2021年 9月 4日(
>Indukmuさんへのお返事です。

> 『翰苑』にあるフレーズを、ふと思い出しました。
>
> 憑山負海鎮馬臺以建都

周知のごとく、翰苑を論拠にするのはいささか蛮勇が必要です.

おそらく「や」を脱落させたものと考えた方が安全だと思います.

もっとも、私が邪馬臺国の地と比定する福岡・甘木朝倉に

平塚川添遺跡があります.その近くに馬田という地名があります.

その周辺一帯が太刀洗ですが、これは私見では橘(たちばな)が口蓋化した

ものと思われます.タチバナは永遠・永久という意味ですので、

古代人がその地にかくあれかしと名付けたものだと想像します.

甘木には小石原川が流れますが、この古名は夜須川です.

八丈島方言で天の川を「天のやすごわ」と謂いますが、その「やす」です.

つまり、邪馬臺国の空には神話風景として天の川が流れているという

設定だと思われます.






Re: 邪馬臺の語義 Indukmu 投稿日:2021年 9月 4
">クラリンさんへのお返事の続きです。

ここで、
日外(あぐい)さんの由来と分布 - 日本姓氏語源辞典( h□□ps://name-power.net/fn/%E6%97%A5%E5%A4%96.html )
を見てみます。

《大阪府、兵庫県淡路市。個人名。兵庫県淡路市では室町時代の天皇だった後花園天皇の子である日外親王の後裔が室町時代に「安居院」、「日外」と称したと伝える。日外は休日を「日の外」と表現した語。》

で、上の「安居院」ですが、恐らくは応仁の乱で消失したものでしょう。

《京都府京都市上京区の上立売通と大宮通の交点の北に平安時代に創建したと伝える天台宗の里坊の安居院》とあります。

注目して頂きたいのは、【天台宗】だという点です。【天台宗】座主ともなった堯胤法親王との繋がりが予想されます。

淡路島での、堯胤法親王の子孫・係累が安居院氏を名乗ったとすると動機がいくつか考えられます。

・消失した安居院にちなんで。(妄想に過ぎませんが若き堯胤法親王が天台宗の里坊の安居院となんらかの関わりがあったのかもしれません。)

・安居院を仮名書きすると、【あん・ごゐん】となります。
安居院氏の嫡流が天正年間に滅んだのちに、氏族のうちで生き残った者たちが
【吾等(あら)は堯院(げうゐん)】
という意味をこめて、
《安居院(あんごゐん)》
と名乗り始めたとするならば、大層面白いことです。

強引ですし、妄想に近いのですが…ある程度の筋書きが浮かんでは来ます。

――

なお、日外を あぐゐ と読むことの謎がまだ残ります。

堯院が出家する前の名のかとも思いましたが、皇室の中でも比較的に血が濃い人の名に「日外」という名をつけるとは思えません。

堯院の時代から遡ること1世紀、そして江戸時代まで、「日外」は、次のような意味で使われていました。すなわち。
・過去ではあるが具体的に日を特定する必要を感じない、そのような日について述べる。

江戸時代以後では、日外に《いつぞやは》など読むことが定着したようです。

平安時代では、おそらく、日外を《じつぐわい》但し《わ》は小さい《わ》……です。漢語扱いですね。

このような日外を皇室の有力者に名付けるとはとても思えません。

なお、さきほども引用した姓氏語源事典に、
《日外は休日を「日の外」と表現した語。》とありました。

いくら調べてもその根拠が出てきません。

ただ、
安居には、仏教での教えによる本来の意味の他に、(安穏、のんびりすごす)といった意味が派生していたようですから、この意味で休日とひっかけて
【日外】の熟字訓は《あんご:安居》
と主張するむきでもあるのかもしれません。
(「ゐん」はどこへいった?)

いったんなかじめです。



Re: 邪馬臺の語義 Indukmu 投稿日: 2021年 9月 4日(
>クラリンさんへのお返事です。

引き続き、日外親王について私の思うところを申し上げます。

親王宣下を受けた方々の一覧をまとめて下さっているページがあります。

■親王宣下一覧<花筐館>
h□□p://www.hanagatamikan.com/hollyhock/royal/shin-no.html

「日外親王は後花園天皇の御子」という伝承があるようですので、
上記一覧データから〈後花園天皇の子〉を、データを補いながら抜き出します。

1:成仁親王(=後土御門天皇)
後花園天皇の皇子(ただ一人の男子実子)

2:貞常親王 、
伏見宮貞成親王王子、後花園天皇猶子(猶子:かたちの上で親子の縁組み)、親王宣下、文安2(1445)年

3:堯胤親王、
伏見宮貞常親王王子、後花園天皇猶子 親王宣下、文明3(1471)年。

――
貞常親王およびに、その王子である堯胤親王が共に、後花園天皇の猶子となることについての異常な感じは、現代人の感覚なのでしょうかね。
――

日外親王は、上のお三方のうち誰なのか……

まず、成仁親王は不可です。京の都を離れて淡路島に避難している形跡はありません。
仮にそうなら、日外氏は後土御門天皇の子孫を名乗りそうなものです。

次に、貞常親王ですが、こちらも政争の台風の目にはなっているものの、洛内で権力を保持し続けました。戦前の旧宮家である伏見宮の血脈の祖でもあります。

日外親王となりえるのは、堯胤親王だけとなります。
堯胤親王は、実は堯胤法親王です。政争の表舞台から身を引くていで、いったん出家した後に、親王宣下を受けています。
堯胤は、出家後の法名でして、出家前の名については今回はいくら調べてもわかりませんでした。
堯胤は、後に天台宗の座主になっています。天台宗の代々の座主の名には「堯」が含まれる場合がしばしばあります。さしずめ「胤」は皇統の一員であることを意味していたのでしょう。

堯胤法親王が、日外親王の有力候補ですが…辻褄があうのでしょうか。

・「文明元年(1469)日外親王は、京から淡路島の志筑に渡られ、中田の里に入られました。」と口碑にありました。一方、

・親王宣下、文明3(1471)年。
でした。


すなわち、名前不明の伏見宮貞常親王の王子が、
応仁2年(1468年)京都三千院で出家し、
文明元年(1469)に淡路島に渡り、
そこで子をなし(=内蔵助)

まもなく都に帰り、
文明3年(1471)に親王宣下を受けたことになります。

ちょっとおかしいのが、出家時に10才であったことから、淡路島にわたったのが11才であることです。
ことによると親王宣下のちにも淡路島と京とを往来し、子をなしたのかもしれません。
※伏見宮の男子は必ず親王となる、そのようなルールがあるとも聞いたことがあります。ならば、
伏見宮の堯胤法親王の子は親王になりえるので、それなりの名乗りがあっても良さそうですが…内蔵助という名になっているのは解せません。

――

ここまで、かなり強引に見えますでしょう?

この話はまだ続きます。
[12061Re: 邪馬臺の語義 Indukmu 投稿日: 2021年 9月 3
">クラリンさんへのお返事です。

引き続き、日外親王について私の思うところを申し上げます。

親王宣下を受けた方々の一覧をまとめて下さっているページがあります。

■親王宣下一覧<花筐館>
h□□p://www.hanagatamikan.com/hollyhock/royal/shin-no.html

「日外親王は後花園天皇の御子」という伝承があるようですので、
上記一覧データから〈後花園天皇の子〉を、データを補いながら抜き出します。

1:成仁親王(=後土御門天皇)
後花園天皇の皇子(ただ一人の男子実子)

2:貞常親王 、
伏見宮貞成親王王子、後花園天皇猶子(猶子:かたちの上で親子の縁組み)、親王宣下、文安2(1445)年

3:堯胤親王、
伏見宮貞常親王王子、後花園天皇猶子 親王宣下、文明3(1471)年。

――
貞常親王およびに、その王子である堯胤親王が共に、後花園天皇の猶子となることについての異常な感じは、現代人の感覚なのでしょうかね。
――

日外親王は、上のお三方のうち誰なのか……

まず、成仁親王は不可です。京の都を離れて淡路島に避難している形跡はありません。
仮にそうなら、日外氏は後土御門天皇の子孫を名乗りそうなものです。

次に、貞常親王ですが、こちらも政争の台風の目にはなっているものの、洛内で権力を保持し続けました。戦前の旧宮家である伏見宮の血脈の祖でもあります。

日外親王となりえるのは、堯胤親王だけとなります。
堯胤親王は、実は堯胤法親王です。政争の表舞台から身を引くていで、いったん出家した後に、親王宣下を受けています。
堯胤は、出家後の法名でして、出家前の名については今回はいくら調べてもわかりませんでした。
堯胤は、後に天台宗の座主になっています。天台宗の代々の座主の名には「堯」が含まれる場合がしばしばあります。さしずめ「胤」は皇統の一員であることを意味していたのでしょう。

堯胤法親王が、日外親王の有力候補ですが…辻褄があうのでしょうか。

・「文明元年(1469)日外親王は、京から淡路島の志筑に渡られ、中田の里に入られました。」と口碑にありました。一方、

・親王宣下、文明3(1471)年。
でした。


すなわち、名前不明の伏見宮貞常親王の王子が、
応仁2年(1468年)京都三千院で出家し、
文明元年(1469)に淡路島に渡り、
そこで子をなし(=内蔵助)

まもなく都に帰り、
文明3年(1471)に親王宣下を受けたことになります。

ちょっとおかしいのが、出家時に10才であったことから、淡路島にわたったのが11才であることです。
ことによると親王宣下のちにも淡路島と京とを往来し、子をなしたのかもしれません。
※伏見宮の男子は必ず親王となる、そのようなルールがあるとも聞いたことがあります。ならば、
伏見宮の堯胤法親王の子は親王になりえるので、それなりの名乗りがあっても良さそうですが…内蔵助という名になっているのは解せません。

――

ここまで、かなり強引に見えますでしょう?

この話はまだ続きます



(無題) Indukmu 投稿日2021年 9月 2
>『翰苑』にあるフレーズを、ふと思い出しました。

憑山負海鎮馬臺以建都

「山に憑り海を負ふて
馬臺に鎮し以て都を建つ」

「やまによりうみをおふて馬臺に鎮しもってみやこをたつ」

――

邪馬臺の語義を考える材料として『翰苑』は無視できそうにないかもしれません。

邪馬臺を「邪+馬臺」と分解してみせているのですから…「邪馬+臺」ではなく。

クラリンさんによる 日本⇔日+本⇔日(ヤ)+本(マト)仮説と、平仄が合っているような???


日外親王について心がざわめきまして、今日は一日中あれこれ調べたり考えたりしていました。

いったん落ち着いてから投稿いたします。

日外親王の正体はたぶんこの人です。




Re: 邪馬臺の語義 クラリン 投稿日2021年 8月31:
>Indukmuさんへのお返事です。


ご返信ありがとうございます.

かねてより、日を「や」と読むことにつき、調べてきましたが、

あまり説得力のある証拠は見つけ出せていません.

たとえば、日外親王という言う場合、これは「あぐい」と読みます.

日外姓の方は今日でもいますが、この場合、「日」を「あ」と言います.

これが飛鳥型と異なるのは、「外」を「ぐい」と読んでいることで、

これは「がい」の訛りで、日外は湯桶読みだと思います.

してみると、「日」を「あ」と訓むのも訛りで、本来は「や」では

なかったか、即ち、日外は本来「やがい」と読むべきものであったかと

想像しています.


大和が熟字訓であることは御説の通りですが、大和は、

ご承知のごとく夜摩苔とも書かれます.即ち大和=夜摩

苔であり、時代別国語大辞典上代編の「や」行に日本と

あるのも、これは表示上の選択の問題であり、熟字訓の問題ではないのではないか、と
思量する次第です.



「ひのもとやまと」とから始まる万葉歌がありますが、

「ひのもと」は「やまと」に掛かる枕詞だとしますと、

枕詞はそれが掛かる語の属性、あるいは意味の言い換えだという立場に立ちますと、

「ひのもと」は「や」に掛かるであろうという推測がなりたちます.

即ち、「日本」は「やまと」を中国向けに翻訳したものである、と.

通常、「やまと」の形態素は「やま・と」と解されていますが、

実際は「や・まと」だと私は思います.これを古代近畿大和政権は、「日・本」と翻訳して中国に示したと考えられます.
無論、「本」を「まと」とは言いませんが、近似表現としてこれを是としたものと考えられます.


「日香天之天之」は有坂法則を失念していました.「やかましあめの」でした.

ただ、逆行同化で、aeo→aaoとした可能性も捨てきれない「感じ」がします.


>本来は「やかましきあめの」となるべき


仰るとおりです.ですが、歌謡においては、語調を重んじ、57577に押し込めることが

あります.あるいは「き」の脱落はイ音便によるものとも考えられます.


源氏物語に「あなかま」(ああうるさい)という表現がありますが、

これは本来、「あなかまし」でなければならないでありましょう.


少し時代が新しいですが、新古今和歌集に「ふる霰あなかままだき鳥もこそ立て」と

いう和歌がありますが、ここでも「あなかまし まだき]と文法上はあるべきところ、

「あなかま まだき」となっています.


従いまして、「やかましあめの」でもあながち通用しなくもないと思われます.





Re: 邪馬臺の語義 Indukmu 投稿日:2021年 8月30日(
>クラリンさんへのお返事の追伸です。

> なお、時代別国語大辞典上代編の「や」行に日本(やまと)があります.「や」と「日」は繋が
ると思います.


・飛鳥と書いてアスカと訓みます。
・茅子と書いてハギと訓みます。

上の二例は、《熟字訓》と呼ばれているもののほんの一部です。

大和と書いてヤマトと訓むのも、《熟字訓》ですし、日本と書いてヤマトと訓むのも、《熟字訓》です。

《熟字訓》は、一般に、漢字の一文字あたりには訓読みを対応させません。
飛鳥と書いてアスカと訓むからといっても、
《飛はアと訓み鳥はスカと訓むのだ》ということにはなりません。
同様に、大和と書いてヤマトと訓むからといっても、
《大はヤと訓み和はマトと訓むのだ》ということにはなりません。

塾字訓には以上のように訓を分節できない性質があります。

日本をヤマトと訓むのも、やはり塾字訓ですので、
《日をヤと訓む》必要はありません。

――

仮に! 仮にですけれども、
日の訓にヤがありうることについて日本以外に強力なエビデンスを複数みつけられたならば、そのときには、「日本」をヤマトと訓むのは塾字訓では無いという可能性が出てきた! という素敵な説の出来上がりです。

例えばですね、
隅田八幡人物画像鏡の銘文にある、
「日十大王」の新たな読み方が判明し、日の読みがヤであろうとか…(たとえば日十=ヤマト…など)が、誰にとっても説得的であるならば、そのときには、
《「日本」をヤマトと訓むのは塾字訓では無かった》と自信を持って主張できることとなります。

※御注意
隅田八幡人物画像鏡銘には、一切、訓が使われていない、訓読みが発生するにはまだまだ時間がかかった…というのが、国語学上の定説です。
「日十」はヤマトではありえないのです。





Re: 邪馬臺の語義 Indukmu 投稿日: 2021年 8月30日
> クラリンさんへのお返事です。


> ○おそらく万葉人は「日香天之天之(やかましあまの」


★「やかましあまの」は、「やかましあめの」と承りました。

∵「〜〜天」の場合には「〜〜あめ」が普通だからです。 逆に、「あま」となるのは、「天〜〜」と、天に続く語が密接にくっついているときとなります。
・高天原は、タカマハラですが、これは原が天に後続してあたかも一語となっています。
・天地は、アメツチです。これは密接にくっついておらず、天と地とを併記しています。
・天照はアマテラスです。 成語になって密接にくっついています。
…などなどなど。

このあたり、露出形と被覆形との差異などに注意すればよいと思います。
雨ガッパ
雨樋
小雨
の差異など。


―――
閑話休題。

「やかましあめの」との御提案ですけれども、これは文法的にどのように理解していくべきなのか、悩ましいところがあります。

作業仮説として、一旦は、「やかまし」というシク活用の形容詞が万葉の時代にあったとしましょう。

「やかましあめの」は、
形容詞+名詞+助詞
の形になっています。 これがフレーズとして文法的に正解となるためには、形容詞の活用として連体形にならなければいけません。
シク活用の形容詞「やかまし」の連体形は、
「やかましき」
です。
※現代語でも事情は似ていて、悪しき神(アシキカミ)などとなります。

上代の文法で普通に考えますと、本来は「やかましきあめの」となるべきで、「やかましあめの」となることは極めて考えにくいのです。

※複合語として成語になっている場合には例外もあるかもしれませんが、「やかましあめの」が、よく使われる言い回しになっているとは、私には思えません。

上記の異常を解決するために、以下のように考え直してみます。すなわち、
「やかましあめの」の「やかまし」は、あくまでも終止形であるとするのです。
このとき、この歌は、次のようになりましょう。

かむとけのやかまし
あめのながつきの
しぐれのふれば
かりがねも
いまだきなかぬ
かむなびの

「あめのながつきの」の意味がとれませんし、
上を声に出して読み上げれば、
五七五七五七のリズムを完全に壊してしまっていることに気がつきます。

――

さて、日香を「ひかくる」と読む私の仮説について、クラリンさんから御批判を賜りましたこと、まことに有り難うございます。

特に「天」をソラ扱いしても良いのかという御批判については、大層、身になりました。

今回の私の投稿では、このあたりについて応答ができませんこと、お詫び致します。
(既に草稿は準備いたしましたが、用例のまとめに不正確なところがありますのでお時間を頂きたく存じます。)




Re: 邪馬臺の語義 投稿日:




クラリン 投稿日:2021年 8月28
×おそらく万葉人は「日香天之天之(やかましままの」

○おそらく万葉人は「日香天之天之(やかましあまの」



Re: 邪馬臺の語義 クラリン 投稿日: 2021年 8月28
>Indukmuさんへのお返事です。


Indukmuさんへのお返事です。

平安初期・鎌倉初期の八代集に「あなかましはし風にしらすな」(藤原実方)という歌があります.

実方は平安中期の人物ですが、こういう表現が平安中期に突然現れたとは思えませんので、

奈良末期の末期万葉時代にもそういう言い方がなかったとは断言出来ないと思われます.

私は「日香天之」を「やかましあまの」と理解しています.確かそう書いたと思いますが、

漏れがあったらすみません.

なぜこう訓めるのかと言えば、おそらく万葉人は「日香天之天之(やかましままの」とすべきところ、

これを約めたのだと考えています.

さて、御説によりますと、「天」に日が隠れるということになりますが、

日が隠れるのは「空」ではないでしょうか.

つまり、そうであれば「日香空之」と書いたであろうと思います.もっともこれは屁理屈です.

疑問に思いますのは「日かくる天」にあります.日が隠れるのは雲であって…、とまでは申しませんが、


「日かくる」という表現は、どうでしょうか.古事記に「青山に 日が迦久良ば」という言い方が見えますが、

「かくる」にはこのように通常格助詞が前に置かれます.「〜にかくる」「〜のかくる」など.


この長歌冒頭は「旧暦の九月」(現在の、おおよそ7月下旬あたり)の季節状況を謳っているものと思われます.


また、霹靂はここでは「なるかみ」ではなく「かむとけ」と訓むべきではないかと思うのです.即ち落雷です.

そうでないと、歌にメリハリがないように思います.

落雷 [の] やかましい天 [の] 九月 [の] という表現には躍動感があります.

つまり、落雷=やかましい天=九月という流れです.

なお、時代別国語大辞典上代編の「や」行に日本(やまと)があります.「や」と「日」は繋が
ると思います.






> クラリンさんへのお返事です。
>
>
> ちなみに、私が訓むとするならば次のようになります。
>
> 霹靂(なるかみ)の 日香天之(ひかくるあめの) 九月(ながつき)の 時雨(しぐれ)の降れば 雁がねも いまだ来鳴かぬ 神南備(かむなび)の ……
>
> 凄くシンプルです。
>
> 雷鳴が轟くや天はにわかにかきくもり日(=sun)がかくれてしまう、そんな曇り空から九月の時雨が降り落ちてくる…
>
>
> 紀に、「非時香菓」があり、これを【ときじくのかくのみ】と訓む例があります。それ故に「日香天之」の「香」は【かく】と訓むことが可能です。【る】を補うことは、先行研究例を鑑みても、許される範囲内と考えています。
>
> 【ときじくのか《ぐ》のこのみ】ではなく【ときじくのか《く》のこのみ】と清音で訓むことに不審がおありかもしれませんが、以下の記事が参考になります。
>
> ■「ときじくのかくの木の実」について知りたい。 | レファレンス協同データベース
> ( htt
> ps://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000102016 )
>
> 古事記をみても【かくのこのみ】で正解かと。
>
> ――
>
> さて、改めまして日香天之をヤカマシと読むことへの、私なりの疑問点を3つばかり挙げさせていただきます。
>
> 1:「日」を【や】と訓む例が他にはない。
>
> 2: 現代日本の和歌でも伝統的に57577のモーラを使っています。万葉集の歌でも、5音のモーラと7音のモーラとを積み重ねてここちよいリズムを作り出しています。
> 今テーマにしている3223番歌もまた、こうした法則を満たしています。
> 従いまして、先行研究をみましても、必ず、「日香天之」には 7モーラをあてています。この歌は、575757…と続いていくからです。
> 私の訓みで恐縮ですが、
>
> なるかみの
> ひかくるあめの
> ながつきの
> しぐれのふれば
> かりがねも
> いまだきなかぬ
> かむなびの
> ……
> という具合です。
>
> 一方、「日香天之」に【やかまし】の訓を与えますと
>
> かむとけの
> やかまし  !?
> ながつきの
> しぐれのふれば
> かりがねも
> いまだきなかぬ
> かむなびの
> ……
>
> となりましょうか。
>
> これでは575757のリズムが壊れてしまいます。
>
> 3:「やかまし」というシク活用の形容詞は、恐らくは上代には存在しない。
>
> 「やかまし」の語源は、「や」+「かまし」とされています。この「や」には、感嘆とか強調とかを添える役割があります。
> 「かまし」は、非常に古くからある形容詞で、意味は現代の「やかまし」とそれほど変わりません。
>
> 形容詞「かまし」の語幹の「かま」は、形容詞「かまびすし」にも現れています。
>
> また、平安時代まで遡ると、「あなかまし」という形容詞の存在が確認できます。
> 「あなかまし」はまさしく、「あな+かまし」になっています。「あな」は感嘆の意味を添えますから、現代の「や+かまし」と構造が似ていますね。
> 「あなかまし」から、派生して「あなかま」という語まで登場しています。【静かにしてくれよ】と言いたいときに「あなかま」と言うのです。目上の人に言うときには「あなかま給へ」などとも。
>
> 要するに「かまし」という形容詞が上代からずっとある、こういうことになります。
>
> さて、現代語「やかまし」に準じて上代語として何がありうるかというと…万葉の時代では…「いや+かまし」が浮かんできます。
> 「いやかまし」
> 「いや」は強調です。「いやとほし」など万葉では多数みられます。
>
> 残念ながら「いやかまし」は、例が見つかっていません。
>
> 仮に用例があったとしましょう。
>
> 「日香天之」を【いやかまし】訓むのですから、「日」には【いや】という訓があることになりますね。
>
> いずれにせよ、「日」に【や】の訓を与えることに、私は大きな躊躇を覚える次第です。
>






Re: 邪馬臺の語義 Indukmu 投稿日:2021年 8月28日(
>邪馬臺の語義について、証拠が一切ない自説をひっそりと開陳いたします。

まずは参考資料をば。

■[ID:32081] そらみつ : 資料情報 | 研究資料・収蔵品データベース | 國學院大學デジタル・ミュージアム

ht
tp://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=32081

――

「そらみつ」の「そら」を、私は現代語の「空耳(そらみみ)」、「空目(そらめ)」、「諳じる(そらんじる)」に含まれる「そら」なのではあるまいかと感じています。証拠は一切ありません。

入植者が新たに地名をつける場合…それはその土地を占有する意思の表明でもあるわけですが… 新地名に、故郷の地名をつけてしまうことが洋の東西を問わず、屡々みられることかと存じます。これはヒトのサガなのだと思われます。

ニギハヤヒが *どこからか* 畿内に入植したときに、最初の土地占有儀礼として新たな地名をつけるときに、フルサトの地名、すなわちヤマトを採用したのではないかと思うのです。

ニギハヤヒは何故フルサトの地名を採用したか?

入植した地の土地柄が、あたかも故郷の土地柄のように見えたから、これが私の仮説です。

先の文書から引用します。

紀の巻3神武条の末尾には、饒速日(にぎはやひ)命が天磐船(あめのいはふね)に乗って太虚(そら)を翔けめぐり、この国を見つけて天より降りられたので、「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と名付けられたという地名起源説話がある。

引用はここまで。

私はソラミツを、次のように解しました。すなわち。
ニギハヤヒは新たな土地を見てビックリしました。

「まるで故郷のヤマトのようだ、そっくりだ、みまごうほどだ」

このような気持ちを込めて
【ソラミツ】ヤマト と言ったのではないでしょうか。

【ソラミツヤマト】は、【あたかもふるさとのヤマトを見るかのようだ】との意味と解したいのです。

ソラミミとかソラメとかのソラですね。 ニギハヤヒの地元のヤマトと見違うほどに、新しい入植先の土地柄が似ていたのではないでしょうか。


――

ニギハヤヒのフルサトがどこなのか、私にはわかりません。よく言われるように物部氏の源郷が九州というのであれば、ニギハヤヒの故郷も同じなのでしょう、恐らく。してみると、九州にも、かつては、ヤマトがあったのです。
畿内のヤマトなど、さしづめ、ニギハヤヒにとってはニューヤマトなのですね。

九州のヤマトを魏の政権が「邪馬臺」と表記していたのではないかとも思うのです。

なお。
色々考えあぐねた挙げ句に、ニギハヤヒ活躍年代は2世紀後半と見ていますので、
所謂 ヤマト東遷=邪馬臺国がヤマト王権の礎となった…とは、私は思ってはいません。

2つのヤマトがあったお陰で、中国側正史に若干の混乱が生じたとも思っています。

「旧小国」のあたりで



Re: 邪馬臺の語義 Indukmu 投稿日:




投稿日::2021年 8月28




投稿日:
> クラリンさんへのお返事です。


ちなみに、私が訓むとするならば次のようになります。

霹靂(なるかみ)の 日香天之(ひかくるあめの) 九月(ながつき)の 時雨(しぐれ)の降れば 雁がねも いまだ来鳴かぬ 神南備(かむなび)の ……

凄くシンプルです。

雷鳴が轟くや天はにわかにかきくもり日(=sun)がかくれてしまう、そんな曇り空から九月の時雨が降り落ちてくる…


紀に、「非時香菓」があり、これを【ときじくのかくのみ】と訓む例があります。それ故に「日香天之」の「香」は【かく】と訓むことが可能です。【る】を補うことは、先行研究例を鑑みても、許される範囲内と考えています。

【ときじくのか《ぐ》のこのみ】ではなく【ときじくのか《く》のこのみ】と清音で訓むことに不審がおありかもしれませんが、以下の記事が参考になります。

■「ときじくのかくの木の実」について知りたい。 | レファレンス協同データベース
( htt
ps://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000102016 )

古事記をみても【かくのこのみ】で正解かと。

――

さて、改めまして日香天之をヤカマシと読むことへの、私なりの疑問点を3つばかり挙げさせていただきます。

1:「日」を【や】と訓む例が他にはない。

2: 現代日本の和歌でも伝統的に57577のモーラを使っています。万葉集の歌でも、5音のモーラと7音のモーラとを積み重ねてここちよいリズムを作り出しています。
今テーマにしている3223番歌もまた、こうした法則を満たしています。
従いまして、先行研究をみましても、必ず、「日香天之」には 7モーラをあてています。この歌は、575757…と続いていくからです。
私の訓みで恐縮ですが、

なるかみの
ひかくるあめの
ながつきの
しぐれのふれば
かりがねも
いまだきなかぬ
かむなびの
……
という具合です。

一方、「日香天之」に【やかまし】の訓を与えますと

かむとけの
やかまし  !?
ながつきの
しぐれのふれば
かりがねも
いまだきなかぬ
かむなびの
……

となりましょうか。

これでは575757のリズムが壊れてしまいます。

3:「やかまし」というシク活用の形容詞は、恐らくは上代には存在しない。

「やかまし」の語源は、「や」+「かまし」とされています。この「や」には、感嘆とか強調とかを添える役割があります。
「かまし」は、非常に古くからある形容詞で、意味は現代の「やかまし」とそれほど変わりません。

形容詞「かまし」の語幹の「かま」は、形容詞「かまびすし」にも現れています。

また、平安時代まで遡ると、「あなかまし」という形容詞の存在が確認できます。
「あなかまし」はまさしく、「あな+かまし」になっています。「あな」は感嘆の意味を添えますから、現代の「や+かまし」と構造が似ていますね。
「あなかまし」から、派生して「あなかま」という語まで登場しています。【静かにしてくれよ】と言いたいときに「あなかま」と言うのです。目上の人に言うときには「あなかま給へ」などとも。

要するに「かまし」という形容詞が上代からずっとある、こういうことになります。

さて、現代語「やかまし」に準じて上代語として何がありうるかというと…万葉の時代では…「いや+かまし」が浮かんできます。
「いやかまし」
「いや」は強調です。「いやとほし」など万葉では多数みられます。

残念ながら「いやかまし」は、例が見つかっていません。

仮に用例があったとしましょう。

「日香天之」を【いやかまし】訓むのですから、「日」には【いや】という訓があることになりますね。

いずれにせよ、「日」に【や】の訓を与えることに、私は大きな躊躇を覚える次第です。




Re: 邪馬臺の語義 クラリン 投稿日: 2021年 8月28
">Indukmuさんへのお返事です。

> クラリンさんへのお返事です。
> > しかし、かむとけは落雷ですから、日香天之は「やかまし」以外に
> > 読みようがありません。
>
> こちらを参考になさってみてはいかがでしょうか。
>
> ■万葉集3223番歌の「日香天之」と1807番歌の「帰香具礼」の解釈 - 古事記・日本書紀・万葉集を読む
> ( https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/4111ae37236da7857893bb89d64adf8f )
>
> ※仮に御主張が正しいとしても、「日」を〔ヤ〕と訓むことは、かなりの異例ないし孤例かと。

仰るとおり、確かに他例はあまり見付かりません.
しかしながら、ご引用の論文に示される諸例では意味が通じないことは明らかです.

以下、上掲論文の一部をコピペします.

「はたたく空の」(新編大系本、224頁)、「光れる空の」(中西1981.、180頁)、「ひかをる空の」(澤瀉1964.、10頁)、「日(ひ)香(かを)る空の」(伊藤2009.、242頁)、「曇れる空の」(大系本、335頁)、「ひかく空の」(竹生・西2009.、128頁)など.



Re: アラハバキについて パスカル 投稿日:2021年 8月28日(
>羽村の縄文人さんへのお返事です。

いろいろと勉強になります。
ありがとうございます。
アラハバキが縄文=アイヌ語由来であること、縄文が漁労民であること等、私も共感できることです。

私が抱いている最大の疑問は「アラハバキとは一体どのような神であるのか」ということです。

@アラハバキの名称がアイヌ語由来であるとするなら、今のアイヌの習俗の中にアラハバキに該当する神(神事)の痕跡を見出すことはできないでしょうか?
ただアイヌの神は大半が男性とされているそうなのですが(日本民俗宗教辞典)、土偶の性質から考えて、女性神が多いと思われる縄文の神々とは、やや趣が異なるように感じるのですが。

Aこのサイトでも紹介されていますが、谷川健一さんが言うようにアラハバキとは「サエの神」であるということに落ち着くのではないかと私には思えます。
サエの神は異界との境にあって、外部からの侵入を防ぐ守護神であったと考えると、海辺に何らかの標(しるべ)が立てられていたことは想像できます。
また、文化人類学でいうところの「贈与・交換」は、結果としてそれが「交易」になったとしても、あくまでも神の監視の下で行う儀礼的行為(神事)であったと考えます。
あるいは、縄文人が海の民であり、アラハバキが海からの収穫を祀る神であったと考えても、矛盾は起こりません。
なぜなら、サエの神はのちに道祖神に変化していくように、子孫繁栄や豊穣を願う神でもあったからです。

Bこれはあくまでも“思い付き”でしかないのですが。
海の神で思い出すのが、異境異端の神であるエビス神です。
記紀に登場せず、神無月の集まりにも呼ばれず、一説によると不具の子ヒルコに同定されたりもします。
このような異質さを考えると、もしかするとアラハバキはエビス神に変化変形していったような気もするのです。
もちろんこれを証明(あるいはある程度の説明)するのは難しいのですが。

以上、あくまでも一笑に付すような私見にすぎませんが、何らかのヒントになれば幸いです。




> 大三元さんへのお返事です。
>
> 大三元様、わざわざのお返事ありがとうございます。また、例文を挙げてのご指摘、ありがとうございます。これから少しずつ、アイヌ語を勉強してみようかと思っております。
> 私も「客人」という解釈に賛成です。舟で(おそらく何艘かの船団で)交易で回っていて、アラハバキの目印で上陸、現地の人々と交流・交易がおこなわれたと想像すると、舟で訪問してきた人たちは見方を変えれば「客人」といえます。長野正孝氏の「古代史の謎は海路で解ける」を読みますと、長野氏がご自身の船乗りとしての経験から古代の航海を想像されていますが、そんな状況が想起されます(古墳が宴会場だったというのには賛同できないのですが)。アラハバキ神に航海の無事を祈り、客人社に饗応のお礼をするようなこともあったのではないかと、勝手に空想しております。長野氏の言われる「神社は交易の場だった」という考えには賛成しております。網野善彦氏も、中世においても神社が地域へ経済的役割を果たしていたと述べられています。
>
> 長々とお邪魔いたしました。
>
>
>
>
>
>
> > 羽村の縄文人さんへのお返事です。
> > 神奈備さん、リファありがとうございます。
> >
> > 「大山氏はこれを「かしら=首領」と解釈したようですが」:
> > 私の解釈ではありませんで、萱野茂さんの辞書(p371)に出ています。
> >
> > pake 首領,頭./コタン オッタ(オロ タ) ウタラパケ シコロ ア・イェ クル インネ コロカ タプイキクル ア・イェ ヒ ウタラパケ ネ ワ=村には仲間の首領と言われる人大勢いるが,今来て行った人,あの人のことを言うのが村の首領だよ.
> >
> > 例文を見るとこの文脈では「首領」(村長、集落の長)あたりに理解して好いようですね。
> >



Re: 邪馬臺の語義 Indukmu 投稿日:2021年 8月16
>クラリンさんへのお返事です。
> しかし、かむとけは落雷ですから、日香天之は「やかまし」以外に
> 読みようがありません。

こちらを参考になさってみてはいかがでしょうか。

■万葉集3223番歌の「日香天之」と1807番歌の「帰香具礼」の解釈 - 古事記・日本書紀・万葉集を読む
( https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/4111ae37236da7857893bb89d64adf8f )

※仮に御主張が正しいとしても、「日」を〔ヤ〕と訓むことは、かなりの異例ないし孤例かと。



Re: アラハバキについて 羽村の縄文人 投稿日: :2021年 8月15日
>大三元さんへのお返事です。

大三元様、わざわざのお返事ありがとうございます。また、例文を挙げてのご指摘、ありがとうございます。これから少しずつ、アイヌ語を勉強してみようかと思っております。
私も「客人」という解釈に賛成です。舟で(おそらく何艘かの船団で)交易で回っていて、アラハバキの目印で上陸、現地の人々と交流・交易がおこなわれたと想像すると、舟で訪問してきた人たちは見方を変えれば「客人」といえます。長野正孝氏の「古代史の謎は海路で解ける」を読みますと、長野氏がご自身の船乗りとしての経験から古代の航海を想像されていますが、そんな状況が想起されます(古墳が宴会場だったというのには賛同できないのですが)。アラハバキ神に航海の無事を祈り、客人社に饗応のお礼をするようなこともあったのではないかと、勝手に空想しております。長野氏の言われる「神社は交易の場だった」という考えには賛成しております。網野善彦氏も、中世においても神社が地域へ経済的役割を果たしていたと述べられています。

長々とお邪魔いたしました。






> 羽村の縄文人さんへのお返事です。
> 神奈備さん、リファありがとうございます。
>
> 「大山氏はこれを「かしら=首領」と解釈したようですが」:
> 私の解釈ではありませんで、萱野茂さんの辞書(p371)に出ています。
>
> pake 首領,頭./コタン オッタ(オロ タ) ウタラパケ シコロ ア・イェ クル インネ コロカ タプイキクル ア・イェ ヒ ウタラパケ ネ ワ=村には仲間の首領と言われる人大勢いるが,今来て行った人,あの人のことを言うのが村の首領だよ.
>
> 例文を見るとこの文脈では「首領」(村長、集落の長)あたりに理解して好いようですね。




Re: アラハバキについて 大三元 投稿日:2021年 8月15日
>羽村の縄文人さんへのお返事です。
神奈備さん、リファありがとうございます。

「大山氏はこれを「かしら=首領」と解釈したようですが」:
私の解釈ではありませんで、萱野茂さんの辞書(p371)に出ています。

pake 首領,頭./コタン オッタ(オロ タ) ウタラパケ シコロ ア・イェ クル インネ コロカ タプイキクル ア・イェ ヒ ウタラパケ ネ ワ=村には仲間の首領と言われる人大勢いるが,今来て行った人,あの人のことを言うのが村の首領だよ.

例文を見るとこの文脈では「首領」(村長、集落の長)あたりに理解して好いようですね。




Re: アラハバキについて 羽村の縄文人 投稿日: 2021年 8月13日
>神奈備さんへのお返事です。

大山元さんのサイトのご紹介、ありがとうございます。あちこちのサイトにあるアラハバキに関する記述には、「arpa-pake と解すると、これは、行く(発つ・出発する)・首領(頭)、ほどの意味になる」とあります。皆さん、これを参照されていたのですね。
私の記述アルパが間違っていました。知里真志保氏の「地名アイヌ語小辞典」を見るとアルパは「山の方へ行く」で、海からの上陸を指していると解釈します。パケは小辞典では「頭」とあり、大山氏はこれを「かしら=首領」と解釈したようですが、小辞典の記述をそのまま引用しますと、「@ 頭 A 岬頭:出崎の突端の崖」とあり、物理的に人間の頭部のように出っ張っているところを指すようです。それゆえ、海から「上陸する=山の方へ行く」際の目印になる場所と理解しました。これが「分布に特徴のある神社」の貝塚、縄文海進の地形と合致することから、意を強くした次第です。このように解釈すると合理的だとおもうのですが、一部宇宙人と結びついたり、大変なことになっているようなので、こちらのサイトに投稿して、自信の考えを述べさせていただきました。
私も、アイヌ語=古代縄文語 アイヌ民族や沖縄の人たちは私たちの先祖の縄文人の血を濃く引く人たちだと考えています。大山氏の書籍は入手はしておりませんが、大友氏の「アイヌ語地名散歩」は常に参考にしております。
興味深いことに、東京都内でも、例えばJR青梅(おうめ)線の青梅駅から先、奥多摩駅までの駅名・地名は、アイヌ語で解釈すると地形と一致するものが多いです。奥多摩 桧原村の難読地名「人里=へんぼり」も、同様に解釈可能です。
長々とお邪魔いたしました。

> パスカルさんへのお返事です。
>
> > 羽村の縄文人さんへのお返事です。
> >
>
>  アイヌ護が出てくるといつも参考にしているサイトがあります。大三元さんの「日本古代史とアイヌ語」のサイトです。
>  このサイトの中にアラハバキについての考察があります。
>
>  いつも参考にさせていただいております。



Re: アラハバキについて 神奈備 投稿日:2021年 8月13日
>パスカルさんへのお返事です。

> 羽村の縄文人さんへのお返事です。
>

 アイヌ護が出てくるといつも参考にしているサイトがあります。大三元さんの「日本古代史とアイヌ語」のサイトです。
 このサイトの中にアラハバキについての考察があります。

 いつも参考にさせていただいております。



Re: アラハバキについて パスカ 投稿日: 2021年 8月13日
>羽村の縄文人さんへのお返事です。

大変興味深い話題をありがとうございます。
以前、仙台へ行ったとき購入した「みやぎ不思議な地名・楽しい地名」(太宰幸子著)という本を読んだとき、東北の地名には想像以上にアイヌ語を由来とするものが多いことに非常な驚きを覚えました。
私の住む和歌山でも、日本書紀(古事記?)に登場する「名草トベ」の話がありますが、一説によるとトベとはアイヌ語であったともいわれています。また、和歌山の縄文時代の遺跡からは、遮光器土偶の一部が見つかっており、おそらく東北で作られたものが、この地まで流れてきたのだろうとされています。縄文人たちは、我々が想像する以上に、活動的だったようです。
それにしても、アラハバキという神は、不可思議で謎の多い存在で、それゆえアニメや小説などにも少々キワモノ的に扱われていることが多いのは少々心外ではありますが、それだけ魅力的でもあるということでしょう。
縄文は考古学的な視点で語られることが多い分野ですが、言語(アイヌ語)の観点からアプローチすることは、新たな縄文像を形成することにつながるのではないかと期待します。
ぜひ、面白い情報の提供をお願いします。

> アイヌ語地名を多少研究している者です。
> アラハバキをアイヌ語(地名アイヌ語辞典)に照らし合わせてみると、アルパ=出崎の突端、パケ=崖(多摩地方の「ハケ」にも通じる)と解釈でき、海からの上陸点、あるいは目標を示しているのではと考えられないでしょうか。「分布に特徴のある神社を考える」というサイトでも、関東地方のアラハバキを祀る神社は、縄文海進を示す貝塚の分布と重なるとあります。
> アイヌ民族は漁労民族で、海からの視点でものを表したそうです。
> 海からの上陸地点、あるいは漁労時のキャンプ地、その上陸した地点で神に祈りをささげた場所すなわち祭祀場が神社になったのではないかと考えています。
> ちなみに、御嶽神社も、アイヌ語では「ミンタル=古くからの祭祀場」「ケ=その場所」が「みんたけ」「みたけ」と転訛したのではと解釈できます。



アラハバキについて 羽村の縄文人 投稿日: :2021年 8月12日
アイヌ語地名を多少研究している者です。
アラハバキをアイヌ語(地名アイヌ語辞典)に照らし合わせてみると、アルパ=出崎の突端、パケ=崖(多摩地方の「ハケ」にも通じる)と解釈でき、海からの上陸点、あるいは目標を示しているのではと考えられないでしょうか。「分布に特徴のある神社を考える」というサイトでも、関東地方のアラハバキを祀る神社は、縄文海進を示す貝塚の分布と重なるとあります。
アイヌ民族は漁労民族で、海からの視点でものを表したそうです。
海からの上陸地点、あるいは漁労時のキャンプ地、その上陸した地点で神に祈りをささげた場所すなわち祭祀場が神社になったのではないかと考えています。
ちなみに、御嶽神社も、アイヌ語では「ミンタル=古くからの祭祀場」「ケ=その場所」が「みんたけ」「みたけ」と転訛したのではと解釈できます。



福島雅彦 投稿日:2021年 7月18日(
>神奈備さんへのお返事です。

> 福島雅彦さんへのお返事です。
>
> ありがとうございます。
>
>  推古天皇の時代は、継体天皇が磐井を制圧しています。隋国が交渉相手とする王権が九州にあったとは考えにくいところです。従って、推古隠しを行い、裴世清に聖徳太子か蘇我馬子が大君を演じて面会したと考えるのが自然だと思います。

※『隋書』の最後の文、「…此後遂絶」が、磐井の滅亡であり、「阿毎多利思比孤」=「磐井」が成立するのではないでしょうか?

8).「倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩?彌」とは、固有名詞ではナイ!
*「天照大神」の異字表記である。

・「阿毎=「天(あま・あめ)」」の意である。

・「多利思比孤」=「照彦=照日子」=“???”(ddal-ri-da)付く、属する、(『民衆書林・韓日辞典』)の語幹+「彦=日子」である。

∴「阿毎多利思比孤」=「天(あま・あめ)出自(所属)の「彦=日子」」。

・「天(あま・あめ)地方」「照=“??”(ttal-li)=付く、属する)」大神。

※即ち、天皇とか横綱とかの職掌名でこの時は「磐井大王(おおきみ)」であった、と。




Re: 「全国邪馬台国連絡協議会」会員研究発表 神奈備 投稿日:2021年 7月18日
>福島雅彦さんへのお返事です。

ありがとうございます。

 推古天皇の時代は、継体天皇が磐井を制圧しています。隋国が交渉相手とする王権が九州にあったとは考えにくいところです。従って、推古隠しを行い、裴世清に聖徳太子か蘇我馬子が大君を演じて面会したと考えるのが自然だと思います。



Re: 「全国邪馬台国連絡協議会」会員研究発表 福島雅彦 投稿日:2021年 7月16
">神奈備さんへのお返事です。

> 福島雅彦さんへのお返事です。
>
>
> > 邪馬臺國=邪馬壹國=邪靡堆=高天原
>
> このうちで、邪靡堆は隋の時代ですから、大和のことでいいと思います。
> これを等号で結ぶのは、福島さんの見解とは違うように思います。
> いかがでしょうか。

※裴世清は「古の「邪馬臺」は…」と断っていますから大和ではありません。

・「裴世清」は倭王「阿毎多利思比孤」に面会しています。

・大和は女帝・推古天皇ですから、裴世清は大和へは行っていません。

・「邪靡堆」の「靡く」=「筑紫の日向の襲の高千穂の?触る嶽」の「櫛触る嶽」と同じ山容・山態
の事



Re: 「全国邪馬台国連絡協議会」会員研究発表 神奈備 投稿日::2021年 7月14
>福島雅彦さんへのお返事です。


> 邪馬臺國=邪馬壹國=邪靡堆=高天原

このうちで、邪靡堆は隋の時代ですから、大和のことでいいと思います。
これを等号で結ぶのは、福島さんの見解とは違うように思います。
いかがでしょうか



Re: 「全国邪馬台国連絡協議会」会員研究発表 福島雅彦 投稿日:2021年 7月11日
>神奈備さんへのお返事です。

> 福島雅彦さんへのお返事です。
>
> ありがとうございました。
>
> 靭公園ではセミの声がうるさくなってきました。梅雨明けが近い。

*ご聴講賜り多謝 謝々!

初めてのZOOM体験でアナログ人間としては、面食らいました。

お聞き苦しかったと存じます。ご感想とかご批評を承りますれば幸甚に存じます。




Re: 「全国邪馬台国連絡協議会」会員研究発表 福島雅彦 投稿日:2021年 7月 8日
>神奈備さんへのお返事です。

> 福島雅彦さんへのお返事です。
>
> > 演 題  『THE「邪馬臺國」』 副題「邪馬臺國=邪馬壹國=邪靡堆=高天原」
>
> ご紹介ありがとうございます。
> 申し込ませていただきました。

※ご高覧頂けましたでしょうか?

・此れは、日ごろ久留米大学経済学部の「久留米学」のゼミで、90分×2回の講義量を70分に縮めています。

・起承転結を?いて、早口で声を嗄らして咳込んで、と判り難かったのではと心配しています。






Re: 「全国邪馬台国連絡協議会」会員研究発表 福島雅彦 投稿日: 2021年 7月 8日
>福島雅彦さんへのお返事です。

> 演 題  『THE「邪馬臺國」』 副題「邪馬臺國=邪馬壹國=邪靡堆=高天原」
>

ご紹介ありがとうございます。
申し込ませていただきました。





Re: 「全国邪馬台国連絡協議会」会員研究発表 福島雅彦 投稿日: 2021年 7月 8日(
演 題  『THE「邪馬臺國」』 副題「邪馬臺國=邪馬壹國=邪靡堆=高天原」

※「全国邪馬台国連絡協議会」東京支部主催=ZOOM で開催される。

・古今の先哲が論考して来た手垢に塗れた論考の全てを否定した真説である。

※ZOOM講演=参加無料

・申し込み先=zenyamaren.tokyo@gmail.com



倭之奴国2 砂川 投稿日::2021年 6月16日
>福島様、貴重なご指摘ありがとう御座います。
 確かに中国表記(後漢書)では[倭奴国]で、それを日本語で発音すると[ワノナノクニ]となるので混同してしまいました。
 確認します。[倭奴国]は中国表記、[ワノナノクニ]は日本語発音です。

[倭奴国]の中国表記について。
 後漢書
   倭
   建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自称
   大夫倭國之極南海也光武賜以印綬
 旧唐書
   倭國
   倭國者古倭奴國也
   日本
   日本國者倭國之別種也
 新唐書
   日本
   日本古倭奴也
 宋史
   日本國
   日本國者本倭奴國也

 以上が[倭奴國]を規定する、中国側の認識です。以下まとめます。
1.倭国の極南海に位置する。
2.後漢時代に独自で、中国へ朝貢している。
3.旧唐時代まで、倭国として存在し、日本と
 分離している。
4.旧唐−新唐時代まで日本は[倭奴國]と同一と
 は記述されていないが、宋時代には堂々と
 日本國は[倭奴國]であると主張している。
5.新唐時代以降、[倭奴國]は消えた。

 宋史が作成されたのは、明時代であるが、その時に沖縄の中山王察度が、中国側に沖縄を琉球と呼ぶよう要請する。元々琉球とは台湾であったので、中国側は沖縄を大琉球、台湾を小琉球とした。
 察度は農民から王になった男で、貧乏人と
思われていたが、天女の子孫で黄金を所有し
日本船が港に着くと、農民等に農機具を買い与えたりして、民衆を手なづけて王になった
人物です。疑わしい、神道の奥の院の仕業と考えています。

[ワノナノクニ]日本語発音について。
 明の時代に、中国語ー琉球語の翻訳辞典がありました、琉球館訳語と言います。
 一部抜粋します。

中国語表記     琉球語発音
 大明人       大苗必周
 琉球人       倭之奴必周
 日本人       亜馬奴必周
 琉球使臣      倭之那必周

 必周はヒシュでヒトなので、琉球人を当時の琉球人は[ワノナヒシュ]と日本語発音をしていた事になります。



『後漢書』には… 福島雅彦 投稿日: 2021年 6月 9日
>砂川さんへ

*『後漢書』には「倭奴國奉貢…倭国之極南界也」とあり、「倭之奴國」ではありません。

・「倭奴國」=「我ン國」=「私の国」の意の「倭語」(筑後弁)音写と観ます。

・倭國之極南界也=「狗奴國」を南に接する「邪馬壹國」=「投馬國」+「奴國-2」です。



Re: 卑弥呼論 大三元 投稿日: 2021年 5月 2
">クラリンさんへのお返事です。
ご返事遅くなりました。

> 卑弥呼の弥呼は、三輪山のハ行転呼が生じたのちの音

ミヲは、古くはミハ(ミホ?)であった、という御説ですが、ハ行転呼音は平安期に起こった現象である、と承知しています。記紀などが既に奈良時代にミワと読むべき用字をしているので、どうかな、と思います。

> 三輪山は、神川をミハかわと言う(土佐風土記・逸文)ように、
> 神=ミハ=ミワです。卑弥呼はですから日神です。

土佐国風土記逸文では:
土左國風土記云 神河 訓三輪川 源出北山之中 屆于伊與國 水清 故爲大神釀酒也 用此河水 故爲河名

とあります。すなわち「神河」は「三輪川」と訓ずる。つまり「神」は「ミワ」と読む、とすべきではないでしょうか。


>大三元さんの言われるように、ミヲだったと思います
>正・・・ミヲのmiwo、ですが私はミワmiwaだったと思います

と訂正されたご指摘に関して:ア列とオ列が交替する例があるのか、見つけられずに居ります。何か事例がありますか?





倭之奴国1 砂川 投稿日: 2021年 4月29
>後漢書に
 「倭之奴国、倭国之極南海也」
とあります。
 私の魏志倭人伝の解釈によれば沖縄となります。
 沖縄の紀記での暗喩ですが、まず紀記で神代が記述されます。書紀では最初三柱の男性神
、次に男女対の神四組(この対の最後がイザナギとイザナミです)、これを神代七代と言います。古事記ではこれに幾つかプラスされます。
 古事記の訳者次田真幸氏はイザナギとイザナミの前の男女対神か泥や砂が固まり、物理的国土か造成される様を表しているので、イザナギとイザナミは本来は男女対神の最初神ではないか?としています。
 沖縄的感覚では、イザナギとイザナミは国土造成の神ではなく、日本文明創生の神です。

書紀の国生み
 最初は女神から声をかけて国生みしようとしたら、男神が「男が先に声をかけるべきだ」として国生みをした。
 1書(第一)に女神か先に唱えて国生みをしたら、蛭子(ヒルコ)(不具の子)が生まれたので、葦船に乗せて流した。

古事記のおのごろ島
 女神が先に声をかけて、水蛭子(ヒルコ)を生み、葦船に入れて流した。

旧唐書
 旧唐書に奇妙な記述があります。周辺国の記述に倭と日本が含まれているのです。

 倭国は古(いにしえ)の、倭の奴国なり。
日本
 日本国は、倭国の別種なり。

 唐(7世紀〜10世紀)の時代に、日本語圏で日本国と分離していたのは沖縄だけです。

 ヒルコが紀記に封印された沖縄です。






「高天原」 福島雅彦 投稿日: 2021年 4月25
(1).「高天原」

*『古事記』書き出し、神話の舞台で神々がいる天上界の事。
「天地初発之時 於高天原成神 名天御中主神<訓高下天云阿麻下效此>次高御産巣日神次神産巣日神 此三柱神者  …」に、<訓高下天云阿麻下效此>と註がある。

即ち「高天原」の「高」の下の「天」は「あま」と読み下は此れに效く(倣う)、とある。

何故「天」を「あま」と読むかは触れていない。

既に「古代倭語」の“??-”(a-m?-)の意味が忘れられていたか、或は何かを隠ぺいするためか、舞台を天上界の事としている。

私は、地上の事として発見。この神話の聖地を通説通り「タカマガ(ノ)ハラ」と読んでいては地上の場所は見つからない。

「たか・あま ン ばル」と読む。「ン=の」の格助詞。

*「高」=高低の意ではなく、寄って「集(たか)って」の当て字で 朝鮮語“??-”(taka=[傍へ寄り付く、寄り添う、近付く、詰め寄る(民衆書林・韓日辞典)]と同じ語幹。

*「天(あま・あめ)」とは…。

(イ)“?-”(a-)=朝の「あ・さ」=朝の来る方向(処)=東の意と同義。
東(あづま)(あ・詰(つま))=東の端。朝(あした)、明日(あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。
朝鮮語の朝=“??”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。

NHKハングル講座(ラジオ) 講師イ・ユニ先生 2007年4月号。

[ハングル物語―母音字はどうつくられたか]
母音字は「陰と陽の調和」という自然の法則を基に作られています。
母音[a]=「天(太陽)が人の東」→朝の明るいイメージ。≪一部抜粋≫

(ロ)“?-”(m?-)の母音は現代朝鮮語では“e”となっているが、本来は“?”の発音記号で「ま・め」の中間音。故に「天(あま・あめ)」の両方の読みがある。“?”=「山」の古語的表現(民衆書林・韓日辞典)。

・「山」が(やま)なのは「天(あま)」の九州弁訛り。「蟻」を「やり」と訛る。
「山」が「や・ま」なのは「東の聖なる山」の意の限定用語が一般の「さん」にも拡大したもの。「水縄山(みのうやま)」の他は殆どが「さん」。

・「ま・み・む・め・も」は全て「膨れているもの」を表す。
脹らんでいる物の総称「ま・め」⇒「豆」の語源か。

・「ま」=「眼(ま・な・こ)」=「な」は格助詞。「こ」=“?”(god)=処。
     格助詞が「な→ン」に変わると関東弁の女陰の隠語になる。

・「み」=実、果実は殆ど丸く膨らんでいる。

・「む」=「六つ」=家屋に象る=地面から突き出ている。陸(むつ)に同義。

・「め」=「目・芽」は膨らんでいる。
 「め一杯」=山盛り一杯。“?”(god)=処が付くと関西弁の女陰の隠語。

・「も」=幼児の排便の始末の時「も」しなさい=お尻を突き出せ。もっこり。

 ∴「天(あま・あめ)」は「(国の)東の聖なる山」の意となる。

*「原=ばル」とは、“?”(beol)=[原;野原(民衆書林・韓日辞典)]で、筆者註としては、「耕作地=邑」である。

※従って、「高天原」=「東の山(聖地)に寄って集(たか)っている原」。
水縄連山(耳納山地)の東の端のうきは市(旧・浮羽町)の狭い谷間に、百箇所近くの「○○原」の字地名が犇(ひしめ)いている。此地に「日向」の地名が現存。朝日に向いた地の意で「筑紫の日向」(国生み神話の舞台)である。
他にも「○○日向」の地名が十二ヶ所。

「浮羽」の地名も[旭日原] =“???”(u-kil-beol)の語尾子音欠落発音であり、漢字音由来なのは、「徐福」渡来後の影響か。「高天原」=「阿斯達」とも同義。旧・浮羽町役場は「朝田」=「阿斯達」と同義。

≪「水縄連山(耳納山地)」は谷沢に刻まれた東西25qの保水力のある水源の山である。稲作に必要な水量を必要な期間供給、棚田稲作の穀倉を潤した。『記・紀』神話は弥生文化の産物である。今の平野部は未だ低湿地の荒野である。≫

*「高天原」の東西の入り口に「三春原(うらせばる)」と「牛鳴(うしなき)峠(とうげ)」がある。

・「三春原」は「うらせばる」と読む。東側にあるが普通では読めない。
“??-?”(ul-soe-beol)=「鳴く鉄・原」(直訳)=鉄が唸る原(意訳)。

・「牛鳴峠」=“??”(soe-ul)峠=「鉄鳴く峠」=鉄が唸る峠。鉄⇔牛は同音。

・“??”(ul-soe)=「五月蝿い」の語源か。製鉄の音は「ウルセェ!」。

・「高天原」には、東多々羅、南多々羅、西多々羅と製鉄地名がある。
方位から見て北風自然送風の製鉄炉か。「素盞嗚尊」追放前の製鉄集団跡か。

・「高天原」には「諏訪神社」=「“?-?”(soe-wa)鉄来る神社」がある。
古代に在っては、鉄を制する者が国を制した。「高天原」の東西の入り口が製鉄絡みの地名である。韓国の首都の“??”はこれの訛りを疑う。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。



「邪馬臺國」≠「やまたい國」 福島雅彦 投稿日: 2021年 4月25
2).「邪馬臺國」は誤字・誤記・誤写ではナイ!

定説は陳壽の『三国志(魏志倭人伝)』を范曄が丸写している、とするが…。

そうであれば『三国志(魏志倭人伝)』の記述の「邪馬壹國」となる筈である。

*「やまたい國」とは読めナイ!中国正史の書記官の認識は、「臺」は“t-ai”。

九州弁の「山たィ・山てェ」=「山ですヨ!」と強調の語尾の音写が浮上する。

・「山」が「やま」なのは、「天(あま・あめ)」の意の筑後弁訛りを疑う。

 「蟻」を「やり」と訛るのと同伝。

卑彌呼の居所説明文言の一部を国名と勘違いしている。

「卑彌呼」の居所を問われて「天(あま・あめ)たィ」と言ったのが、「やまたィ」と聴き取られ「邪馬臺國」と記述された。

「天(あま・あめ)」=「高天原」の意(後述)。

*或る講演のレジメ抜粋。




歴史の封印 砂川 投稿日: 2021年 4月25日
日本書紀と古事記に女王国と沖縄が封印されています。封印とは中にあるが、外からは見えなくさせると言う事です。元々、沖縄の歴史を調べていて紀記にたどり着いたので沖縄の封印を幾つか解いてみます。
 国学者の白尾国柱(薩摩藩士1762~1822)の「神代山陵考」に「又世人多謂。古之海神宮。則今之南海琉球也。(世の人々の多くが、神代の海神宮は今の南海の琉球のことだと言う。)」とあります。
 初代神武天皇の母親と祖母は海神の娘です。
調べると、丹波の海部氏の始祖と北部九州の物部氏の始祖も同じ海神でした。
 丹波も沖縄も封印されていますが、封印したいのは女王の女系図(天皇は父親だけではなく母方の血筋も重視される)と考えています。
 古代のヒメヒコ制では、最高女性神官が皇后になったと思うので神道に不都合な部分を隠したかった。
 排除ではなく封印が出来たのは、飛鳥時代に倭国へ入って来た仏教の唯識思想のおかげだと思います。
 そして、奈良時代の始めに日本文明の基礎の神仏習合ができ、平安時代の天台宗と真言宗の思想で神仏習合が深化し、江戸時代まで続きました。
 豊鋤入姫までまだ少しかかりそうです。



邪馬臺の語義 クラリン 投稿日:2021年 4月23
連続カキコこれで終了m(_ _)m

太陽のことを「や」とも言います。

万葉集3223番歌の出だしは「かむとけの 日香天之」とあり、

この日香天之は難訓歌とされます。

しかし、かむとけは落雷ですから、日香天之は「やかまし」以外に

読みようがありません。ですが、おそらく国名に

使用されている(ヤマトのように)ため忌み語のようにされたと思われます。

「まと」は、やや「日本」の本(もと)に近いのですが、

ちょっとこれは飛んでいる説に基づきますので端折ります。

ともあれ、ヤ・マトで日の中心、あるいは日の出だと推考します。



書き損じ訂正 クラリン 投稿日:2021年 4月23
>>大三元さんの言われるように、ミヲだったと思います

正・・・ミヲのmiwo、ですが私はミワmiwaだったと思います



卑弥呼論 クラリン 投稿日:2021年 4月23日(
以下、各文末に「じゃないかと推測します」を加えてお読みください。

卑弥呼の弥呼は、三輪山のハ行転呼が生じたのちの音、

つまり大三元さんの言われるように、ミヲだったと思います。

(ヒミヲの意味は大三元さんのと違うかも)。

転呼前はミファ、それ以前はミパ。

これは三輪山がミワといわれる以前がミハであったのと同じです。

三輪山は、神川をミハかわと言う(土佐風土記・逸文)ように、

神=ミハ=ミワです。卑弥呼はですから日神です。

神といっても、これはむしろ後世の「○○の守」という場合の甲類のカミです。

それを神格化したのが天照大御神で、こちらの神は、乙類のカミです。

加茂つミハ八重事代主という場合、加茂のミハ(=神)である八重事代主と

言うことになります(このカミは甲乙音の区別がなくなった時代か)。






中国正史の「倭語」音写語句は読んではいけない 福島雅彦 投稿日: 2021年 4月23日
*中国書記官が聴き慣れない「倭語」に当て字(音写)していますから、中国古音を正確に再現しても駄目です。

・「倭語」の何という意味の語句に当て字したかを考察すべきです。

・「卑彌呼」=“himmikot”=最高位の尊(みこッ)

3).「卑彌呼」は固有名詞ではナイ!
*“?”(him)尊(みこと)=最高位の尊の意の職掌名。(天照大神も阿毎多利思比孤も同義=後述)何人も何代も襲名出来る。「尊(みこと)」とは稲作を仕切る「水事(みこと)・米事(みこと)」の意か。

@「ひン投げる」=(相撲などで圧倒的力量差で相手を)投げ飛ばす、事。

A「ひ(ン)の叫(おら)び」=この上もない大音声で叫ぶ、こと。

B「ひンだれた」=この上もなく疲労困憊した。以上は九州弁の“?”。

・“?”(him)=「力(ちから、りき)、筋肉の働き、体力、物理上の力、働き、力量、能力、知るか覚ることのできる才能、勢力や権力、精力、元気」『民衆書林・韓日辞典』、とたった一音節の語彙にこれだけの意味がある。「倭語」借用だからか、と疑う。初代「卑彌呼」は倭の女王とあり、女性であるが本来性別は問わなくても良いことになる(「天照大神」も同義)。神話に歴代「卑彌呼」が登場か(24〜25頁)。

*「素盞嗚尊」は…

4).倭王 「帥升」は「すいしょう」ではナイ!

*中国書記官の認識=“Shu?i sh?ng”である。「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」の“??”(soe-sang)=鉄・上=製鉄王=素(ス)盞(さン)(嗚尊)の音写である。

*“?”(soe)=須恵器の「須恵」=鉄の様に硬い、鉄色した…の意。

・“?”(soe)=鉄、眞金、金属の総称『民衆書林・韓日辞典』=「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」。

素盞嗚尊が『後漢書』に倭王として登場している。

5).倭王「帥升」が中国の皇帝に献上した「生口」百六十人は、奴隷ではナイ!

*奴隷を船旅で列島から対馬海峡を横断しての連行は不可能である。船の漕ぎ手の他に反乱、逃亡を監視する人と「生口」と、二十人乗りの船に仕立てたら何艘の船が要るか。漕ぎ手十人、監視二人、「生口」八人とすれば、二十艘からの大船団、あり得ない!手足を拘束した百六十人の食事、排泄の世話をしながら、萬二千餘里の旅は不可能。

・「素盞嗚尊」は高天原から追放され、新羅(編纂時の国名)の曽尸(そし)茂(も)梨(り)(製鉄の長)の処(ところ)へ行っている(『日本書紀』)。⇒「曽尸(そし)茂(も)梨(り)」は地名ではナイ!

・「國出鐵?倭馬韓並從市之凡諸貨易皆以鐵為貨」(『後漢書』の『韓傳』より)=倭は半島内の「倭」の領域で「從(ほしいまま)に製鉄していた」。陸行で製鉄技術者を献上したのである。

・或る講演のレジメ抜粋=*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記



続沖縄的感覚 投稿日:2021年 4月23日(
>神奈備 様
 最初は言葉の意味が全く理解出来ませんでした。記事の順から、私に対する反論と分かりました。要約すると、私が卑弥呼を
 日の巫女とし→天照大神をイメージする
 日の御子とし→天皇の娘をイメージする
として歴史を解釈するのは、まちがいとのご指摘。全く正しいと思います。
 神南備様のご指摘こそ、正に私が言った本土的感覚なのです。
 倭国の古代はヒメヒコ制であったとされています。沖縄は明治以前まで国王と女性神官の
並立によって統治されていました。男性と女性、政治と宗教、太陽と月など陰陽思想なのでしょうか?
 それなので天照大神とは、男性の名前です、しかし卑弥呼の時代は「倭国大乱」の時代で国中が疲弊していた筈です。その時、男王の替わりに卑弥呼を立てたら、国が治まったとあります。神官と国王の両方を兼ねたのです。陰陽の両方を兼ねていて、しかも国に平和をもたらした。これはもう神です。
 書紀にイザナギとイザナミが夫婦の交わりをして大日霊貴を生んだとあり。その後になんと男性のイザナギが左眼を洗い天照大神を生んだとなっています。大日霊貴は女性神官時代の名前とし、天照大神は現実世界に平和をもたらした国王時代の名前としました。
 男系天皇家の皇祖神が何故女性なのか?それは、陰陽同体(雌雄同体)の存在であったから。
平和をもたらした神であったからです。
 何故、男系でなければならないのか、それは男性のイザナギが一人で天照大神を生んだからです。
 豊鋤入姫については次回に廻します。





Re: 呼の発音 大三元 投稿日: 2021年 4月23日
神奈備さんへのお返事です。

>  素戔嗚にも適用できると面白い。

はい、「スサ」の「を=みこと」であり
   「ヒミ」の「を=みこと」である、と考えています。




Re: 呼の発音 神奈備 投稿日:2021年 4月23
大三元さんへのお返事です。

> 「ひみを」と読んだ時の「を」が何を意味するかを考え、「玉の緒」から「命(いのち)」を引き出し、「命(みこと)」につながる語であったのではないかと推察します。つまり「ひみ」の「みこと」、と解しています。

 素戔嗚にも適用できると面白い。






Re: 呼の発音 大三元 投稿日:2021年 4月22日
神奈備さんへのお返事です。
はい、「卑弥呼」と書き留められた倭語の音は「ひみを」に近いものであり、決して「ひみこ」ではなかった、と私も考えます。「邪馬台」も「やまて」であろう、と共に論じた小論を出しましたので勝手ながら紹介させていただきます:
https://www.amazon.co.jp/s?k=9784864767682&_encoding=UTF-8&camp=759&creative=3887&link_code=wql&tag=v2solution-22

「ひみを」と読んだ時の「を」が何を意味するかを考え、「玉の緒」から「命(いのち)」を引き出し、「命(みこと)」につながる語であったのではないかと推察します。つまり「ひみ」の「みこと」、と解しています。

「ひみほ」と読んだ場合には「三穂津姫」とのつながりが覗い知れることになり、魅力ある解です。「呼」の音が「ho」と書かれているので「ホ」か、とも思うのですが、この発音記号は、濁音である「?」の清音であるという、「?」はワ行音に使われている。さてワ行音の清音はどんな音だろう、ハ行音で良いのだろうか、いささか不安を持っています。

久しぶりにお話できることを嬉しく思います。




呼の発音 神奈備 投稿日: 2021年 4月20日
漢字の発音は中国での発音が日本に伝わりました。万葉仮名では、「呼」は「を」の発音です。袁、遠、乎、越 などと同じ発音です。角川の古語辞典から。
 「卑弥呼」を「ひみを」となります。
 「呼」は。平安時代以降で、「こ」と読むようになりました。「卑弥呼」を「ひみこ」と読んだのは江戸時代の学者です。
 藤堂明保編「漢和大字典」学習研究社 では、「呼」は「ho」です。この場合、「ひみほ」となります。
 「ひみこ」と読んで、日の巫女とか日の皇女のことだとする不勉強の露呈はやめたいものです。




沖縄的感覚 投稿日: 2021年 4月20日
正直に言うと、私の主張は学問的ではない、趣味で沖縄の歴史を調べていたら、自然に古代日本史が解けていました。
 日本書紀、古事記、籠神社の勘注系図を読んで沖縄の痕跡を探したのです。其の間に本土の人間と沖縄の人間との感覚の違いを感じました。
 沖縄には、戦前までノロ組織が存在していました。ノロとは女性祭祀者の国家的官僚組織で頂点を聞得大君と言います。卑弥呼のような存在です。それなので沖縄は戦前まで、女王国の感覚を持っていたことになります。
>「神踊り」について
 明治の頃の沖縄で、中部
地域のノロに自分の娘が選出されて、寂しくもあり、誇らしくある父親の記事を読んだ記憶があります。
 やはり、これも沖縄的感覚が働いていのでしょう。感動して神事だと直感していました。(これは本土側の神社なので、反論は本土の感覚で感動を伝えて下さい)。
歴史上の事実として。
伯母御:天照大神
伯母御と発する人物:十代崇神天皇
トヨ:崇神天皇の娘 豊鋤入姫
神事として
三者の関係がその後、悲劇を迎えるが、天皇や最高神官の立場を離れた、幸せな父と娘の
誇らしい「天照大神の後を継いだ」スナップ写真のようです。




神踊り 砂川 投稿日:2021年 4月18日
神南備様
 魏志倭人伝文書と日本書紀、古事記、考古学、神社仏閣等との整合性は大切ですが、それ以前に魏志倭人伝文書の客観的判断が必要と思います。
>パスカル様
 「神踊り」は創作と感じているとのこと。
 私は歴史の一部分を切り取った100%真実だと思います。





Re: 宅宮神社 パスカル 投稿日:2021年 4月18日
>神奈備さんへのお返事です。

紹介されていた動画を拝見いたしました。なかなか興味深い内容だと感じます。特に、魏志倭人伝の距離方位を数学的に分析している点に関しては、説得力ある説明でした。
ただ、卑弥呼の墓とする「宮台遺跡」から三角縁神獣鏡が発見されているようですが、現在、考古学的には三角縁神獣鏡は決定的証拠にはならないとなっています。また、「神踊り」は平安期に始められたようなので、台与の話題はおそらく創作ではないかと思われます。

私は、邪馬台国にはそれほど関心がなく、いわゆる所在地論争のいずれの説に与するものではないのですが、少なくとも以下の点について、納得したいと考えております。
@大和政権のとの関係があきらかであること=大和政権は5世紀には成立しているようなで、その関係が明瞭に説明されていること。邪馬台国の延長が大和政権なのか?、それとも全く無関係なのか、では大和政権は誰がつくったのか?
A考古学的な証跡があること=「親魏倭王」の印といった直接的証拠が見つかることは難しいでしょう。しかし、魏との深い関係が示されるものや、当時として最強規模の権勢を示すもの等の状況証拠が見つかることです。
もはや、何百年にもわたる魏志倭人伝の字句解釈と距離方位論だけで議論されていることは不毛にしか感じないのです。

ただ、今回の動画で再認識したのが、古代における「阿波(徳島)」の重要性です。この地域も、縄文期から続く「中央構造線文化圏」の一環にあり、実に重要な場所であったことは考えられます。特に、徳島と紀州は、地名相似や水銀の産出など、民俗的にも関係の深い地域だからです。

以上、簡単ながら、コメントさせていただきました。


> ユウチュウブを見ていて驚きました。
> https://www.youtube.com/watch?v=63bNv7RmHHc&t=38s
>  卑弥呼の墓を宮谷古墳、台与のことは宅宮神社の神踊りにでているそうです。



[12061Re: 藤白神社の獅子舞] 神奈備 投稿日: 2021年 2月21日(
パスカルさんへのお返事です。

 面白いお話ですね。
 猿田彦は先導する神ですから、祭りの行列の先頭に立つのです。持っている巻物は多分祝詞が書かれているのでしょう



藤白神社の獅子舞 パスカル 投稿日:2021年 2月17日(
先日(2/14)、県民文化館で開かれた「民俗芸能祭」を観てきました。年1回開かれており、今年で15回目になるそうです。恥ずかしながら、今回の参加が初めてです。新型コロナ禍のために、各地の祭礼や神事が中止となり、このような芸能文化の実演される機会があることは、本当に貴重だと感じます。
 今回は「藤白の獅子舞(海南)」「和歌祭御舟歌(和歌山)」「大瀬の盆踊り(田辺)」「平治川の長刀踊り(田辺)」「嵯峨谷の神踊り(橋本)」が披露されました。
 特に興味を持ったのは、藤白神社の「獅子舞」です。藤白神社自体が熊野王子の一つであることから、熊野詣の天皇や上皇の行幸の際に奉納されたもののようで、単なる“獅子舞”ではなく、「神楽(里神楽)」として捉えたほうが良いようです。
 ストーリーとしては、遊び疲れて眠っていた一匹の獅子が、天狗面をつけた猿田彦に起こされ、びっくりして猿田彦の持っていた巻物を取ろうとするのですが、結局は追い払われてしまうというものでした。神楽とは基本的に伝承された民話や神話の再現だと考えていますが、一体このストーリーには、どのような意味が込められているのでしょうか?

《疑問》
 @なぜ猿田彦が登場するのか?
 藤白神社の祭神は「櫛玉饒速日命」などですが、摂社末社を含めて猿田彦は祀られていません。ここに登場する猿田彦は「地主神」とされているので、末社の中にある「巳(蛇)神社」の祭神として結びつけることはできるかもしれません。
 A猿田彦の持つ「巻物」とは何か?
 天狗=猿田彦が持つ「巻物」には何が書かれていたのかが気になります。しかも、それを獅子がほしがっているということは、獅子にとって何らかのプラスになる(例えばある能力を高める方法が書かれているとか)、あるいは自己の生存を脅かす秘密が隠されているといったアイテムだったような気がします。ただ、猿田彦が去ってもそれを追うようなことをしていないので、それほど執着するものでもなかったのかもしれませんが。

 神事として神楽を奉納するのであれば神話や伝承の再現性を大切にしなければならないのでしょうが、この獅子舞は、天皇や上皇といった、いわば“人”に観てもらうことを前提にしていると考えるとき、むしろ“面白さ、可笑しさ”の方が重要で、神話性はそれほど重視されていないと考えてもよいのかもしれません。
日本神話では猿田彦命は極めてポピュラーな存在で、いわばトリックスター的なキャラです。よって、単に舞の作者は馴染みのあるキャラを使って獅子舞を創作したのだと考えることは可能なのですが…。

 「藤白神社」「神楽」「猿田彦」「天狗」「獅子(あるいは獅子舞)」に関して、詳しい方がおられましたら、上記の疑問に関するご意見を賜れば、幸いです。
 よろしくお願いいたします。




Re: 丹生氏について パスカル 投稿日:
ご丁寧な返信をありがとうございました。
 当方こそ無礼な長文の回答になってしまい、「和歌山の神社好き」様を委縮させてしまったかもしれません。謝罪すべきは私の方だと恥じ入るばかりです。
 私の何気ないコメントに対し、「和歌山の神社好き」様からのご返信をいただいた上に、ご意見まで頂戴して、本当にうれしく感じていました。回答を考えていくことは、私にとって、自分の理解を整理し、再考する機会にもすることができました。ですから、そのきっかけをいただいた「和歌山の神社好き」様には、非常に感謝しているのです。ありがとうございます。

 アマチュアは、「知らない」「なぜ」ということを“楽しむ”ことが大切だと、私は考えています。
 たゆまぬ「知的好奇心」が最高のエネルギーであり、奇抜(とっぴ)だとか付会(こじつけ)だとかいう批判を恐れない「想像力」が最大の武器になります。
 専門家の人たちは、その分野の知識、情報は大量に得てはいますが、立場や責任に縛られ、ともすれば狭い思考の枠にとらわれがちになります。
 その点、アマチュアは、自由に「考え」、自由に「発言」することができます。それは時として、専門家たちが思いもよらない、奇想天外なアイデアを生むこともあるかもしれません。仮に、その意見が間違っていたとしても、失うものは何もないという居直り(笑)の強さを持っています。

 「和歌山の神社好き」様には、決して委縮することなく、“学ぶこと”をしっかりと楽しんでほしいと思います。興味のある和歌山の寺社を、「見て」「感じて」「考えて」そして、どんどん自分の意見を「発信」してください。発信が多ければ多いほど、他の方々の興味関心を呼ぶことになり、結果として和歌山の魅力を伝えることになるのではないでしょうか?
 私自身も、そのように考え、行動していきたいと考えている次第です。

 なんか偉そうなことばかりいってすみません。
 この度は本当にありがとうございました。





投稿日:




Re: 玉津島神社 どんたく 投稿日: 2021年 2月 8日
>神奈備さんへのお返事です。

昔、伯父の家があって、そこに暫く厄介になっていました。
今はもうその家はなくなっています。



Re: 丹生氏について パスカル 投稿日:2021年 2月 8日
ご返信、ご意見をありがとうございました。
 和歌山の神社好きさんの「和歌山愛」を感じ、うれしくなりました。
 ただ、ご意見のうちに若干の違和感がありましたので、遠慮なく述べさせていただきます。もし、ご不快を生じさせましたなら、礼儀知らずの者のすることとして、お許しください。

 「水銀(朱)」は確かに“防腐”効果があります。例えば、古代中国、秦の始皇帝陵にはおびただしい量の水銀が使用されています(地下空洞には水銀の池まであるそうです)。
 一方、多くの縄文遺跡では、墓域のそばに支柱をもった複数の建物跡が見つかっており、多くの研究者はそれを「殯(もがり)」が行われた施設ではないかと考えています。殯とは、死後、遺骸を空気中にさらして腐らせる期間のことで、白骨状態になってから埋葬します。この行為は、奈良時代に火葬が始まるまで続きます。すなわち、意識的に腐敗させることで、できるだけ早く“自然(土)にかえそう”という考え方があると思われるのです。
 そこには「再生」の観念(死生観)が認められます。肉体はあくまでも自然の一部であり、死んだらいったん自然に返さなければならない。やがて自然から新しい肉体が産み出されて魂が再び宿るという考え方です。私は、そのような「再生」という死生観が日本人の考え方の底流に流れていると考えます。現に、和歌山や奈良の山中では戦前まで土葬が行われていましたが、防腐処理は全くされていないはずです。
 対して、秦の始皇帝や古代エジプト等で見られる水銀を使用した遺骸の防腐処理やミイラは、「不死」の観念からくる葬送法といえます。
 縄文時代に遺体や墓を水銀朱で彩色したのは、むしろ「赤」という色が重要であったと考えます。前回、「赤」は“血”を表すことで「生」を意味すると述べました。他には、「白」も使用されていますが、おそらくそれは「骨」を表します。縄文では、殯によってうまれた骨は大切なものとして扱われていたようなので、「聖」という意味をもっていたと考えます。白装束というのがありますが、単に死を意味するのではなく、「聖」的な存在になることを意味します。
 土器や土偶の彩色も同様です。土器そのものが腐食することはありませんし、土器に防腐剤を塗っても中身の腐敗を防ぐことはできません。土偶に至っては、最初から破壊することを前提にしているので、そもそも防腐する必要がないのです。
 私は、原始古代を考える場合、あくまでも「信仰的価値観」ともいうべき視点を持たなければならないと考えています。確かに、古代人たちも経験則として水銀等に防腐効果のあることは知っていたでしょう。しかし、それは二次的な判断でしかなく、おそらく信仰的な意味や目的が優先されたと思います。それは彼らにとって、「神に近づく」「神と対話する」ことが最も重要な人生のテーマだったからだと考えるのです。

 寺社に行くと、単に「赤=朱」だけではなく、多様な「色」が使われているのを見ることができます。それらの色、一つ一つに意味があることに気づくことができれば、寺社をめぐる楽しさを一層たかめてくれることと思います。





Re: 丹生氏について 和歌山の神社好き 投稿日:2021年 2月 5日(

丁寧なご説明ありがとうございます。僕が考えたことをありのまま書かせて頂きたいと思います。

丹生キ比売神社の公式由緒書きに「ご祭神の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、古代から魔除けの力があるとされ・・・」とあります。魔除けとは何を意味するのかは、パスカル様の解説がその答えの手がかりになっていると思います。

それは、水銀朱はその一定の毒性から防腐剤として利用していたという仮説です。「遺骸に色を着けたり、墓に撒いたりしていた」とお書き頂いていますが、それは人が亡くなったあと亡骸の腐敗を朱によって防ごうとしたのではないかと考えます。

そして、「単なるデザインとしてではなく、何らかの信仰的な意味があった」とは朱の力で、身体は亡くなっても魂は生き続けるような信仰があったのかも知れません。水銀朱の塗られた土器片が出てきたとは、その土器の腐敗を少しでも防ぐ為に朱を器の表面に施したのかとも思われます。

ここからは、僕の考えですが、丹生の神を、日本神話で頂点に位置付けられる天照大御神の妹神とされている丹生キ比売としている時点で、「丹」をいわば支配する神様はとても重要な意味合いがあったのだろうと思います。地下資源から防腐剤を精製し活用するという一族は、歴史の中で不明な部分も多いとはいえ、その高い技術で神と称えられたのかも知れません。

因みに、神社の鳥居、神門や神殿の朱、寺院の棟の朱、朝廷や高貴な人が文章に押印する朱は、全て、丹生キ比売、丹生氏族が起源だと僕には思えてならないのです。そう考えると、ふるさと和歌山にはとてつもなく大切な古代文化、いえ科学技術が根付いていたのかも知れませんね。

長々とありがとうございました。R>


Re: 丹生氏について パスカル 投稿日: 2021年 2月 5日(
>和歌山の神社好き様
ご質問いただき、非常にうれしく思っています。

縄文時代は西洋史で言うところの「新石器時代」にあたるので、銅や鉄などの金属は使用されていません。“地下資源”といっても、せいぜい、地表に露出した岩石を割り出す、地面の浅い部分から鉱石を掘り出すといった程度の産出方法です。
 水銀は「赤(朱)」の顔料として使用していました。石棒や石皿を使って辰砂を細かく砕き、水に溶いて使用するのですが、正確な精製方法は分かっていません。同じ「赤」の顔料としては「ベンガラ(弁柄)」があります。
 主には、縄文土器や土偶等の道具類の彩色に利用されていたようですが、単なるデザインとしてではなく、何らかの信仰的な意味があったと考えられます。遺骸に色を着けたり、墓に撒いたりもしていたようです。縄文人は刺青をしていましたが、おそらくそれにも使用されたと考えます。
 「赤」という色は旧石器の時代から世界各地で使用されています。おそらく「血」の意味を持っていたようです。現代では「血」というと殺人事件が起きた時のように「死」を連想しますが、当時の人にとっては「生」を意味していたと考えられます。遺骸や墓に彩色するのは「再生」の意味もあったかもしれません。
 色という点では東日本の多くの縄文遺跡から見つかっている「ヒスイ」という石も、それが持つ「緑」という色が重要だったのではないかという考える研究者もいます。また、他には「黒」や「白」も使用されていたようです。
 後世に、大陸から「陰陽五行説」「仏教」等の考え方が流入して、それぞれの色の意味付けがされますが、現在、多くの寺社で見られる「赤」等の色には、縄文から続く原初的な意味あいがあります。
 丹生都比売神社は、水銀を採取する丹生氏の神様なので、とりわけ「朱(赤)」は重要な色だったでしょう。それは「赤」によって「生を謳歌し、いのちを活性化させる」という意味があったと考えています。

 以上、ご満足のいく回答になっているかはわかりませんが、浅学の身において可能な範囲内でお答えさせていただきました。
 どうもありがとうございました。




> パスカルさんへのお返事です。
>
> 僕の神社好きは、紀伊國一宮丹生キ比売神社に3年程前に参拝したことが始まりでした。それ以来地元和歌山を中心に古社にとりわけ興味がありまして・・・不勉強な僕ですが貴方の投稿に興味深い言葉があります。それは、「地下資源の利用」です。そこで恥ずかしながら質問です。古代人は水銀朱(辰朱)はどのようなことに利用していたとお考えですか?
>
> 宜しくお願いします



丹生氏について パスカル 投稿日: 2021年 1月31日
はじめてコメントいたします。
 私は、和歌山在住で、考古学(縄文中心)や民俗学(民間宗教)に関心があり、独学ですが勉強をしています。

 丹生川上神社上社(奈良)に近接する「宮の平遺跡」では、縄文早期の遺構や、後期の立石を含む配石遺構が発見されて、当時からこの地域が祭祀空間であったことがわかっています。特に、水銀朱(辰砂)の塗られた土器片が出てきたことは、あくまでも状況証拠でしかありませんが、丹生川上神社と縄文信仰との結びつきを意識してしまいます。
 各地の縄文遺跡から水銀朱(辰砂)が発見されていますが、中でも、中央構造線沿いに点在する縄文の水銀遺跡が、丹生氏にまつわる多数の神社や地名と重なっていることは、「縄文」「水銀」「丹生氏(=丹生津比売)」の関係を想起せざるをえません。
 ところで、地下資源の利用は、土器製造のような“個人技”でなせるものではなく、鉱脈の発見から製錬に至るまで、知識と技術を体系的、長期的に蓄積し、組織的に駆使していく必要があります。すなわち、水銀を専門的に扱う“職能集団(一族)”が、縄文時代において既に生まれていたのではないかと考えられます。
 問題は、この縄文の“職能集団(一族)”をそのまま「丹生氏」としてよいのかということです。
 縄文の集団がそのまま丹生氏となったのであれば、丹生氏と丹生津比売は縄文から続く最も古い氏族であり、神ということになります。
 しかし一方、松田壽男氏の『丹生の研究』他や丹生廣良氏の『丹生神社と丹生氏の研究』以来、丹生氏は、弥生期の渡来系氏族となっています。
 それでは、縄文の水銀集団はどこへ行ったのか?

 想像をたくましくするなら、これらの論は決して矛盾するものではないと考えます。
もともと縄文時代から続く水銀の職能集団が中央構造線にそって点在していた。が、弥生時代に渡来した、より高度な知識と技術を有する集団によって、縄文からの集団は次々と飲み込まれていき(駆逐されたのでも、滅ぼされたのでもなく)、生まれたのが「丹生氏」である、と考えてもよいような気がするのです。
 これは、「新しい神が古い神を服属させていく」という日本神話の基本構造とも合致することになります。

 まったくド素人の荒唐無稽な空論とお笑いでしょうが、他の方々のご意見を賜れば幸いです。
 





[12061]嗚呼! 誤読!! 福島雅彦 投稿日:2021年 1月 5日
※「水行十日陸行一月」が「(伊都國の)南至投馬國水行二十日」の後に記述されているが…

*「投馬國」から先の行程とは、何処にも書いてナイ!

*詳らかになる九ヶ国を北から順に南下して「投馬國」は最後に記述=「邪馬壹國」と東西に位置し「伊都國」から等距離である。

・その九ヶ国=「狗邪韓國」「對海(馬)國」「一大國」「末盧國」「伊都國」「奴國−1」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹國」。

∴「(「伊都國」の)南至邪馬壹國女王之所都」で、段落が切れている。

∵「伊都國」から「投馬國」(「邪馬壹國」)までの所要日数「水行二十日」を先に記述したため、帯方郡〜「伊都國」の所要日数を記述

 =萬二千餘里全体の行程=水行二十日+水行十日陸行一月を成立させる為の記述である。

※日本中の先哲、学者、博士、一般好事家らが、何百年もの長きに亘り誤読の儘に打ち過ぎたとは!!!!!!!

行程図

楽浪郡徼=帯方郡
↓ 從郡至倭循海岸水行(郡治の領域水行六日)
↓ 歴韓國乍南乍東(韓と倭地領域陸行二十七日半)
狗邪韓國=倭地(七千餘里)
↓(洛東江沖経由水行二日)
對海(馬)國(千餘里)
↓(水行一日)
一大國(千餘里)
↓(水行一日)
末盧國(千餘里)
↓(陸行五百里二日半)萬五百餘里 =水行十日陸行一月
伊都國 →→奴國 →→不彌國
↓ (東南に百里で至れる)奴國から(東に行けば百里で至れる)
↓≪伊都國の南に在り水行二十日で至れる・行っていない≫
↓≪伊都國の南千五百里に在る・郡使は行っていない≫
投馬國(西)⇔(東)「邪馬壹國」
「邪馬壹國」(女王の都)は郡庁より萬二千餘里に在る。
※郡使(魏使)が「邪馬臺國」=「邪馬壹國」へ行っていれば、実態は国名ではないと気付く筈である。

※「狗奴國」の狗古智卑狗との窮状を訴えての「塞曹掾史張政」らが乗り出してきている。

*萬二千餘里の所要日数=最大の軍事情報の筈である。

・上記の水行二十日+水行十日陸行一月が無ければ、全体行程は不明



謹賀新年! 福島雅彦 投稿日: 021年 1月 1日(
「邪馬臺國」の「邪馬・邪靡」は「天(あま・あめ)」の筑後弁訛りの音写、「臺」は「…たィ」の強調の語尾。

「天(あま・あめ)」は「高天原」=「筑紫の日向の襲の高千穂の?触る嶽」=水縄連山(耳納山地)。

「卑彌呼」の居所説明文言を国名と勘違いしている。

「邪馬壹國」の「壹」は“yi”。「倭人」が「上」の意で一本指を立てて"wi"と言ったのを"yi"の訛と取られた。

※「卑彌呼」の居所は「天(あまン)うィ」を、国名かと「邪馬壹國」と音写。

※『隋書』で現地踏査した裴世清が証言。

*古の「邪馬臺」(國の文字を外し)は、来て観たら「邪堆」だった、と。

・この文字撰びは水縄連山(耳納山地)の山容・山態を絶妙に言い表している。

髪が靡く様な堆いだけの小山だった、と。

*我が国の先哲達はこの事に誰も気付かない。

・私は三十年も前に気づいて叫び続けてきた。

※疲れた!!!!!!




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