鹿島神宮 
茨城県鹿嶋市宮中2306-1


二の鳥居


交通

JR成田線鹿島神宮駅 its-mo

祭神

武甕槌神
摂社 奥宮「武甕槌神荒御魂」、坂戸社「天兒屋根命」、沼尾社「經津主神」他多数

楼門


由緒

 一の鳥居は、太平洋側ではなく、北浦湖畔の大船津にある。香取神宮を斎主としているということだろうか。いずれにしても、港、船、航海、軍船に関係の神であるようだ。

 『常陸国風土記』には、「天の大神の社、坂戸社、沼尾社との三処を合わせて、香島の天の大神という。(風俗の諺に霰降る香島の国という。)」とある。坂戸社、沼尾社は現在は境外摂社。「坂戸」といえば、天の物部五部造の一であり、大和王権側の内物部である。境を守り、更に侵攻する物部。

 祭神の武甕槌神は香取神宮の経津主神と同体と見なされており、これから見ても、藤原氏の隆盛には、往古からの物部氏の蓄積を活用した様子がわかる。この鹿島神宮の神々と河内の枚岡神社の神々とは物部の拠点に鎮座していたのだが、藤原氏の氏神として春日大社に迎えられていることが物語っている。

 鹿島神宮は蝦夷の地である東国を征圧する拠点であった。西国から船で到着し、更にここから船で出発したのであろう。丁度、黒潮が列島を北上してきて、この当たりから東へ流れるのである。 征服戦争の足跡と言えるのだろう鹿島神社が、陸奥国の式内社に多い。
黒川郡 鹿島天足和気神社
曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社、鹿嶋緒名太神社、鹿嶋天足和氣神社
信夫郡 鹿嶋神社
磐城郡 鹿嶋神社
牡鹿郡 鹿嶋御児神社
行方郡 鹿嶋御子神社

 先に引用した『常陸国風土記』の続きに天孫降臨の先降れに立った神は香島の天の大神と伝え、さらに大坂山の頂上に純白の御着物を着て、白い桙の御杖をお持ちになった御方様がおさとしになるのは、「わが前を丁寧にお祭りにするならば、お前の統治する領土をあれ言依し給おう。」とおさとしになった。崇神天皇は何神のおさとしかと問われ、大中臣の神聞勝命は香島の国においでになる天津大神であるといった。とある。
 大坂山とは大和の二上山付近のこと、二上神社の祭神は大國魂神と豐布都魂神であるが、鹿島の神は香取の神と同神の豐布都魂神と見ていい。

拝殿

  『常陸国風土記』行方の郡の條に「建貸間命が先住民の国栖を一網打尽にする際、杵島ぶりの歌曲を歌って歌舞を行って誘き出した」と記されている。
 この杵島は『肥前国風土記:逸文』に出ている杵島のことで、杵島の坤(南西)の峰を比古神、中の峰を比売神、艮(北東)の峰を御子神という。御子神は別名軍神とも呼ばれ、この神が動くときはただちに戦がおこる。村々郷々の男も女も酒を携え、琴を抱いて、毎年春秋に手をとりあって登り見渡し、曲が終わって帰る。歌詞は
 霰降る 杵島が岳を 険しみと 草取りかねて 妹が手を取る これは杵島曲である」とある。

 建貸間命とは鹿島神宮の神であろうか、それとも氏子であろうか、いずれにしても杵島曲を歌うからには肥前国の出身に違いない。杵島の軍神を奉じて東国征圧に赴いたのである。この肥前の三神は素盞嗚尊、稲田姫、五十猛命であり、軍神とは五十猛命のこと、イソタケル、常陸では安曇の磯武良(イソタケル)として顕現したのである。『琉球神道記』に「鹿島明神は人面蛇神、一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯の如し、故に磯良と名付く。」とあるのに符合する。

 朝廷は神々の総力を繰り出して蝦夷征伐を行った様子がうかがえる。

本殿

お姿
 境内は森厳で、巨木が多く、神々しさを感じる。掃き清められた参道や境内の道は気持ちがいい。巨樹と雑木とが調和した社叢。

 参道は続いているのだが、唐突に拝殿・本殿が現れる感じ。何となく無造作に鎮座しているように見える。

 参道の奥に奥宮、そこから北へ回り込むと要石、また南へ下ると御手洗場で、祓所。

奥宮 慶長十年(1605)家康の建立

要石 大地震(おおなえ)にびくともせぬや松の花 一茶
 

御手洗処

お祭り
 9月 1日 1日間 例祭

鹿島神宮 由緒書
御祭神 武甕槌大神
創祀 神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと伝えられる。
御神徳  神代の昔天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ建国功労の神と称え奉る。
またNE霊剣の偉徳により武道の祖神決断力の神と仰がれ関東開拓により濃漁業商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の古例により縁結び安産の 神様として著名である。更に鹿島立ちの言葉が示すように交通安全旅行安 泰の御神徳が古代から受け継がれている。              以 上
(注)文中の
NEは、「音」偏に「師の右側」である。

参考書 日本の神々 白水社

公式鹿島神宮
物部氏ホームページ

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