藤白神社
海南市藤白448 its-mo

交通案内
阪和線  天王寺→海南 ( 分  円) 南へ15分
阪和線  天王寺→和歌山(60分 820円) 海南藤白行きバス



祭神

天照彦国照彦饒速日命、熊野坐大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神、天照大神

境内 有馬皇子神社



由緒

 物部氏の祖神である饒速日命が祀られている紀州には珍しい神社である。海南市の南側には長峰山脈がのびており、丁度大阪から見る生駒の山並みとそっくりである。 源平の時代であろうか、物部氏の一族がこの地に住み饒速日命の降臨を願い、饒速日命をお祀りしたのだろう。この近辺は鈴木姓の発祥の地とされる。

 熊野三山の神々は聖武天皇の御代の勧請したと伝えられている。 上皇・天皇の熊野詣では百回を越すが、ここは藤代王子社でもあった。

境内には有馬皇子神社を祀っている。


拝殿と本殿



お姿
 前が熊野古道、後ろは阪和自動車道である。楠の巨木が数本あり、注連縄が巻かれている。本殿近くには銀杏の神木があり、この樹根は健康・安産・夫婦 和合の御利益があるとされている。古いがおごそかな本殿である。

楠の巨木と藤代王子社跡の説明書き(右)





お祭り

10月10日 秋季大祭


紀伊国名所図絵から




『紀伊続風土記』 名草郡 大野荘上 藤白浦 から

○藤白若王子権現社
    境内 東西二十八間 南北三十間  宮山一所方四町 社の巽 禁殺生
 本社 二間二尺三寸 三間四尺五寸 三扉  廳 八間四間瓦に畠山家の紋の瓦一枚あり
  御供所  木馬屋  鐘楼  御歌塚
  石鳥居 社の北一町鳥居芝といふ所にあり 地周四十二間
 末社三社
  聖神社 瑞籬  楠神社   祇園社
村中熊野街道にあり 後鳥羽院熊野御幸記に於王子御前有御経供養とある 即是社なり
 当社勧請の由来詳ならす 相伝へて熊野一ノ鳥居と称す 意ふに熊野の盛なりし時此地に大鳥居を建て熊野一ノ鳥居とし遂に熊野神を遷し祭りしならん 大鳥居天文十八年(1549)に損失すと寛文記に見えたり
 鳥居の跡今の鳥居付近なり 社伝にいふ当社は 景行天皇五牛の鎮座にして斉明天皇牟婁郡の温泉に浴し給ひし時神祠創建したまひ 聖武天皇弱浦 行幸の時 皇后の命を以て行基僧正此地より熊野ノ神を遙拝す 孝謙天皇玉津島 行幸の時熊野ノ広浜供奉 請に依りて 宣旨を奉して三山を此地に遷し祭り 末代后妃夫人熊野遙拝の便とす 此等の由緒に因りて熊野一ノ鳥居と称す 古境内の入口に楼門あり 勅願の銘に日本第一大霊験根本熊野三山権現とありといふ 然れともいつれも古記に考據慥なれは今さらいかにとも明辨しかたし
 寛文記に文明六年別当沙門蓮春再興す 大永六年良観法印葺替し 天文十一年快余法印檜皮茸とす 慶長十七年九月の大嵐に損失するとあり又同記に古の建前を擧て本社智賢宮 画六尺 金剛童子宮 面四尺八寸 飛鳥宮 智賢宮以下慶長十七年大風に損失す 十二所権現 面三丈六尺五寸 奥院西光寺 以上天文十三年損失す 鐘楼堂御輿屋御蔵楼門大鳥居 以上天文十八年損失す 拝殿楠神御供所浜ノ鳥居とあり戦国の兵乱に社殿悉く衰替し昇平の世となり 漸くに今の姿となれり
 又寛文記に往古は藤白清水鳥居名高神田井田幡川重根別所扱沢且来多田岡田本渡薬勝寺境原安原朝日冬野吉原三葛吉礼黒江二十五箇村の産神なりしに天正乱後村々に社を立て産神とせしより当社は藤白一村の産神となるとあり されと中村なる春日社は本国神名帳官知の神にていとふるく大野郷の産神たり また吉原なる中言大明神も神名帳官知ノ神名草一郡の地主神にて五箇荘の産神たりい かゝれは当社二十五村の産神といふものいと  諾ひかたき事なりかし 黒江は五箇荘の出村なれは初より中言社を祭るへきこと明けしさるを此村をさえ当社の氏子といへるはいかにそや
 古は社領も多くありしぎいふ 浅野家より六石を寄附せらる 元和以後これに襲(ヨソ)用ひらる神主を吉田氏といふ

○楠神社又兒守社ともいふ 祀神熊野?[木豫]樟日ノ命といふ 今考ふるに楠神と呼ふものは此社いと大きなる楠の本にあるをもて楠神と称し其樹の鬱茂せるより子守ノ社といふなるへし 楠神ぎ呼ふをもて熊野?[木豫]樟日ノ命の御名いぎよく合へれは附会せるならん 国人の習に此御前にて小兒の名を楠藤なとの字をつけて神助を祈る 蓋し子守といふ縁によりしなるへし 古は末社に十二社権現飛鳥二社金剛童子社なと有しとそ 今昔退転す

○御歌塚五重宝塔二基舊三基あり 高各四尺許石質朽腐して練物の如し 或はいふ
 後鳥羽院建仁元年十月九日 御幸の時当社にて和歌御会あり 其時の御歌塚なりともいふ 建仁元年(1201)十月十日 王子御会和歌深山ノ紅葉海辺ノ冬月を題とす
 また王子往古の高麗狗は行基作といひ伝ふ 朽腐漫?[さんずい 患]して其形さたかならす 社前の内に蔵めて今神前に在は運慶の作なりといふ 社前に相生ノ松といふあり 元線年間山中より移し裁たり 大さ一抱半許雌雄両岐 高さ一丈五六尺相対して繁茂せり

  別富 宝乗院 松霊山中道寺
社の東境内の外にあり 天台宗雲蓋院末 舊はは真言宗なりしといふ 寛文記に真性院とあり境内に護摩堂あり
墳外末社四社
 八王子社 宮山の内に其跡あり 社なし  山神社 村山の中西の城跡半にあり
 恵美須社 専修寺の前にあり       濱之社 本社の西三町海辺にあり 森半町四方はかり 熊野の御崎の社を遷したりといふ 因て崎山といふ
 

 

『平成祭礼データ』から 

  いわゆる万葉時代、斎明天皇が紀の湯(白浜湯崎)に行幸された時、祠(ほこら)を創建されたという。そのゆかりで境内社として有間皇子神社がある。
 また、聖武天皇が玉津島行幸の際、僧行基を詣らせ、皇子誕生を祈願したところ、高野皇女御誕生、母光明皇后はそのために神域を広め整えられた。以来、熊野三山の遥拝所とされ、子授け・安産・健康・長寿の守護神として、熊野一之鳥居と称されることとなった。
 古くは藤白(代)王子と記され、熊野九十九王子中五躰王子の一つとして格式が高く、神前で神楽・相撲等が奉納された。特に、建仁元年の後鳥羽上皇の詠草は熊野懐紙(重文)として知られ、境内に御歌塚があり、宇多・花山・白河聖皇三代の重石は歴代上皇方が熊野御幸の度に当社に御休泊されたことを物語っている。主神饒速口命は全国鈴木姓の氏神でもあり、今も鈴木屋敷・庭園が神社とともに県史跡に指定されている。
 南方熊楠翁授名の子どもの神様、子守楠神社と県指定の獅子舞、近在漁場の信仰の的馬角等も有名である。
 以上

古代史街道 紀ノ国編

物部氏ホームページ

熊野古道と九十九王子社

神奈備にようこそに戻る