天照玉命神社(あまのてるたまのみこと)
京都府福知山市今安961 its-mo


交通
JR山陰線、福知山線 福知山駅から西南1,500m



祭神
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊

拝殿、本殿、神木



由緒
 丹後国天田郡の式内社である。
 祭神は天照国照天彦火明命で別名を天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊という。
 先代旧事本紀第五卷天孫本紀に、天照貴の子正哉吾勝々速日天押穂耳尊と、高皇産霊尊の子豊秋幡秋津師姫栲幡千々姫から生まれた兄弟が天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊と天饒石国饒石天津彦彦火瓊々杵尊であるとの系図がのっている。 物部氏の始祖饒速日尊は天孫であり、勝速日と饒速日とは尊貴同格との主張である。 さらには尾張連の祖とされる火明命の名を取り込んでいる。複合的な性格の神である。

 勝速日と饒速日とが兄弟であるとの説から、神武東征は本家と分家の統合、婿入り等の説が出てくる。共に呉の国から逃れてき、勝速日は九州に上陸、饒速日は近畿に上陸、その子孫の合体行動が神武東征であり、快く思わない近畿の地元豪族の長随彦が抵抗したと言うのである。

 尾張族の祖天火明命と同一神であるとの見方は、尾張族が物部氏と同族であると主張する事で、天孫族に組み入れられなっかた氏族がせめて天神族である饒速日命と時の権力の中枢にいた物部氏に出自を求めた苦心の作との見方がある。

 神祇資料によれば、天火明命12世の孫建稲種命のさらに4世孫大倉伎命が成務天皇の時丹波国造に任ぜられ、在任中に祖神天火明命を祀ったのが創始であるとされる。饒速日命ではなかったのであろう。海部氏の祖神とされる天火明命を祀ったのであろう。

 丹後各地には古くから元伊勢の伝承が残るが、この神社も天照の名から伝承が残っている。しかし祭神が天照皇大神や豊受大神に変更されず、よくぞ天火明命の祭神名を今日まで伝えてきたものと思う。地域とその豪族出自の誇りが祖神名を守り抜いたのであろう。天火明命と饒速日命の合成神は強力な神威を示したのである。尾張地方の天照御魂社の大半は天照皇大神に置き換わっていると言われる。



お姿
 由良川の支流和久川の右岸に鎮座、和久川流域は沃野で、この付近には多数の古墳や条里制の遺構が残っている。 北方300mからは弥生式土器が出土している。遠くからでも杉の社叢がこの神社の歴史を語っているように見える。

鳥居と拝殿



お祭り
 8月2日 夏季大例祭
10月9日 秋季大例祭

『平成祭礼データ』から 

 天照玉命神社御由緒 祭神は天火明命で社格は元郷社延喜式内の古社で、天田四座の一つにして創建は人皇第十三代成務天皇の御代丹波国造大倉伎命が宗家の祖先を祀られたものである。その後、戦国時代の混乱と荒廃により一時期衰退していたが、承応二年、時の藩主松平忠房公は崇敬の念、特に篤く、同年十一月荘厳な本殿及び拝殿を建立された。
 現在の建物は、大正九年氏子の寄進により三ケ年の歳月を費やして、再建されたものである。尚、本殿西に現存の校倉造の宝庫は近在唯一のもので、享保十四年(一七一六)の造営によるもので非常に高い文化資料として称えられている。
 当神社は、五穀豊饒の神として名高く、豊富庄を中心にした十三地区民の崇敬をあつめ、雨乞いの練り込みは今もって我々の記憶に新である。

 丹波忠重朝臣の和歌
 大江山 昔のあとの 絶えせぬは 天照神も あわれとや見む
 以上

*1 日本の神々7 白水社



物部氏ホームページ


神奈備にようこそ