岩所神社(磐船神社)と哮峯
交野市私市9-19-1

鳥居


交通    京阪交野線私市よりバス田原方面行き磐船神社(168号線)、近鉄東生駒駅から京阪私市行き 、私市ハイキングコース磐船峡谷、府民の森星田園天野川上流。its-mo



祭神   饒速日命

磐船神社 横から見た御神体



由緒  肩野物部連が弥生中期にここに入り、巨大な石船岩を哮峯として物部始祖降臨の地として祀ったのが創祀である。 伝承として、物部氏の祖神饒速日命が天磐船に乗り、河内国河上哮峯(たけるがみね)に天降り、つづいて大和に遷った。 この時大和平野を見て、「虚空見日本国」(そらみつやまとのくに)と言ったとの伝えがある。*1 
 まさに、生駒山から見ると、大和は日の昇る所(日本)に当たる。
 饒速日命が天降ったとされる別の候補に河南町平岩の磐船神社がある。 また物部氏の本家筋が祀った所の候補として恩智神社の天王の森とする説が説得的である。*2 海から到着するなら堺の海岸あたりとの見方がある。
 古図に大阪城所在地に饒速日命を祭神とした磐船神社があったと言う。*3 また四天王寺の北に磐船神社の所在が記されている古図は現存している。*2

由緒 平成祭礼データから


 岩所神社
磐船神社略記
 当社の祭神は、天照皇大神の御孫、天照国照彦天火明奇玉饒速日命と申上げ「日本書 紀」「古事記」等古典によりますと、
「天孫降臨に先立ち日本の国の中心である現今の奈良県大和の国に入らんとして三十 二人の伴人を率い十種瑞の神宝を捧持して天翔り空翔り天磐樟船に乗り河内国川上哮 ケ峰(いかるがみね)に天降りました。」
と述べてあります。思考しますれば太古淀川は枚方(シラカタ津)付近まで入江とな っており大和に入るには哮ケ峰の麓を流れる天の川を溯りつつ大和に至るのが至便で あったと考へられます。祭神は当社に降臨された後は、先ず十種の神宝を以て病み災 ふ者を助け給い、和を以て大和の国の人々を導き給ったのであります。十種瑞の神宝 は後世神道家必修の祝詞十種の祓の根元をなし既成神道十三派の内天理教を除きその 教師の修業研鑽する処であります。その後時代を経て神武東征の節祭神の子孫は時の 鳥見(とみ)の尊長長すね彦を諫し神武天皇大和創業の基幹となり代々武人の神とし て仕へ物部の遠祖とあがめられたのであります。その教義(十種神宝)は永く代々の 朝廷と共に栄えたが欽明天皇(紀元一一〇〇年)時代物部蘇我の争から遂に物部氏の 滅亡をみ仏教の隆盛を来したのであります。
 以来当社は山岳仏教の影響を受け社殿の衰退を余儀なくされ現今に至っているのであ りますがその根本意義はなお現として神道各派の血となり肉となって伝称されており ます。
 



磐船神社 正面から見た御神体



たたずまい

 磐船とよばれる巨岩につきる。また周辺の巨岩と木々の色合いが美しく、希にみる良い神社である。公共事業で川の水が濁ってきており、残念である。またこの神社のある場所は当然のことながら巨石が多く、道幅がきわめて狭いゾーンとなっており防衛面でも要所であった。

 饒速日尊の降臨地は哮峯と呼ばれ、これは生駒山北限の饒速日山とされるが、交野の星田園に磐肌の出た山があり、この山も哮峯と呼ばれている。 『交野市史』によると、「哮が峯は、バス停梅の木から300m、天ノ川を越した西の方面に一部岩肌をみせた哮が峯がある。昔饒速日尊が天降ったところ。
 もうひとつ「中の水車」のあった付近の「がんない洞」という所に天降ったという人もいる。」と記している。

 現状は大阪府民の森星田園にあり、ロッククライミングの練習もできるようになっている。

哮が峯 右は遠景


磐船神社 白福大神

磐船神社 天岩戸大神

磐船神社 岩船佛 今は住吉四神




お祭り 
 5月5日、6日 十種祭(大火焚祭)
10月15日、16日 秋季大祭(例祭)

江戸時代の磐船(河内名所図会) 神社は消滅していた。



*1 旧事本紀、日本書記
*2 大いなる邪馬台国(鳥越憲三郎)講談社
*3 白鳥伝説(谷川健一)小学館
*4 交野市史
*5 磐船神社由緒


公式磐船神社




物部氏ホームページ

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