曽彌神社
泉大津市曽根町1-4-12

一の鳥居 向こう側は池上曽禰遺跡公園

   

交通   JR阪和線信太山西1km(池上曽根遺跡北西に隣接) its-mo

祭神


饒速日命
伊香我色雄命(曽根連神饒速日命の六世孫)
素盞嗚尊
表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯姫命



二田国津神社の碑

   


摂社  神社名 (祭神) 地域 明治四二年合祀
  日吉神社(大山咋神) 森
  菅原神社(菅原道真公) 千原
  池上神社(菅原道真公) 池上
  上泉神社(菅原道真公) 池上
  二田国津神社(天足彦神、二田物部神、菅原道真公) 二田
  菅原神社(菅原道真公) 南曽根
  白山神社(白山姫大神) 北曽根



由緒


 曽禰氏の祖神を祀る。素盞嗚尊いかは後の配祀。
 弥生前期の大規模遺跡である池上曽根遺跡に隣接している。神域ゆえ発掘されていないが、おそらくここからは祭祀関係の遺跡が出るものと思われる。 この遺跡の大型掘立柱建物のヒノキの柱は紀元前52年に伐採されている。
 和泉には大鳥大社の北側に四ツ池遺跡もあり、その他銅鐸も出ており、弥生前期より力のある豪族の存在を思わせる。
 この神社の西の海岸よりの地域を二田と言う。二田造は有力な物部一族であり『先代旧事本紀』によれば「五部造、伴領と為て天物部を率て天降り供へ奉る。」の筆頭にあげられている。この氏族の祀った国津神社の祭神は二田物部神とされている。曽根連は二田造の後裔であろう。



曽禰神社拝殿

   


お姿


 社叢は深い上に厚い程の木々で埋まっている。ナギ、楠など多い。国道26号線からまさに盛り上がった森が見える。



本殿

   


お祭り
 秋の例祭 10月10日



池上曽禰遺跡の「いずみの高殿」と内部
   

千田稔氏 風景の考古学 から

聖水信仰と池上曽根遺跡

 大阪府の池上曽根遺跡から、一世紀ごろの大型建物跡や井戸跡が、発掘調査によって検出されたことが大きく報道された。
 発見された大型建物は高床式の神殿であるという。そのような想定を導く理由として、建物の形態が東西十七メートル、 南北七メートルの東西に長い長方形で、直径が七十センチもあるヒノキの柱が残っていたこと、屋根を支える棟持ち柱跡もあること、 さらに大型建物の南にクスノキの丸太をくりぬいた直径二メートルの井戸が見っかったことなどがあげられている。 正直なところ、神殿であることを直接証明するような遺物は何も見つかっていない。しかし、右のような遺跡の状況が宗教的な施設であることを想像させるというのだ。

 一般的に言って、文字による記録のない先史時代の遺構や遺物の解釈は、散文的に語ることができない。 それは想像力をよびおこす詩のような言葉の世界である。ということは研究者のイメージ喚起力に負っているのであって、それが真実に近いかどうかは保証の限りではない。 この大型建物も高床式倉庫であるかもしれたいのだが、柱の太さや井戸の存在が神殿のイメージをかきたてるのだ。


南北軸がポイント

 この発掘の報に接したときに私が注意したことは、大型建物の長辺が東西であることと、井戸の位置が長辺のほぽ中心の真南にあるということから、 建物の主軸は南北ではないかということであった。っまり、この神殿で井戸にかかわる祭祀がなされていたとすれぼ、井戸に向かって南面する祭司が神殿において儀式をとりおこたったのではないかと思いをめぐらしたのだ。

 このことは、もちろん想像の域を出ないのであるが、建物の主軸を解釈することは、重要なことである。 なぜならぼ、われわれの知っている限り、神体山を対象とする信仰たどは、現状とは相違して、本来は西から東に向かって神を拝するものであった。 つまり東西軸が重視されたのだが、それは太陽信仰に関係するものであろう。

 それがいつごろからか、主軸が南北に変化したのだが、それはおそらく古代の宮都が中国の都城にならって南北を主たる方位として建設されたことと無関係ではないと考えられる。ということは南北軸は外来の思想であると思われるのだ。

 にもかかわらず、一世紀の池上曽根遺跡の大型建物が、南北を主たる方位としているとすれぼ、それは何にょるのかという問題が生じる。最も容易に想像すれぼ、この時期すでに外来の宗教思想が、少なくともこの地にもたらされていたということになるのだが、このことはさらに多くの事例の発見による検証を必要とするであろう。


淡路島の古代信仰

 この発掘の成果を外来思想との関係に求めるよりは、井戸の存在から聖水信仰を語る古典にモデルを探すべきかもしれない。

 『古事記』仁徳段や『播磨国風土記』(逸文)は、大樹の影が淡路島から大和の地域に及び、その樹木でもって船をつくり、淡路島の水を運び、天皇に献上したことを伝える。

 『日本書紀』にも瑞歯別天皇・すなわち反正天皇は淡路宮で生まれたが、瑞井という井戸の水を汲んで太子の身体を洗ったとき、多遅の花(今のイタドリの花)が井戸の中にあつたので多遅比瑞歯別天皇という、とある。 折口信夫は、「ミズハワケ」の「ミズハ」は水の神「ミツハ」のことで、「水の女」であると解している。

 あるいは『古事記』安寧段には、孫の和知都美命が淡賂の御井宮にいたともいう。 これらの記紀や風土記の伝承に、仮に年代を与えるとすれぼ、五世紀代であろうから、一世紀の池上曽根遺跡の遺構に淡路島の聖水伝承を重ねることは無謀であることは言うまでもない。 しかし、遺跡の地が大阪湾に面していることが、私の想像の翼を広げさせる。


 海人族との関係も

 淡路島はもともと海人族の拠点の一っであったことを考えると、聖なる水の信仰は海人族によって伝えられたのかもしれたい。そのことはさらに王権の文化の源流をもたどらせる糸口である可能性も秘めていると私は考えっっある。このように想像を限りたくふくらませると、池上曽根遺跡の井戸をともなう大型建物は、後に淡路島で御井宮とよぼれたものの原型であったかもしれない、ということにまでたどりつく。

 断っておくが、池上曽根遺跡を海人族の集落であったと言っているのではたい。そうではたく、聖なる水を崇める信仰が海人族によってもたらされたのではないかということである。とすれぼ、東アジァの海域に広く活動の舞台をもった海人族によって渡来した宗教思想の片鱗が南北を主軸とする高床式の建物を作り上げたのかもしれない、という詩のような言葉を語ることも許されなくはないであろう。


 ■池上曽根遺跡で検出された建物遺構については、新聞紙上でいくつかの見解が発表された。それらにっいてここでは言及する余裕はたいが、邪馬台国畿内説に弾みがっいたという論調が多かった。弥生時代の大型の建物が発見されると、すぐに邪馬台国論争に結びっけてしまう風潮はいかがなものか。
 京都府向日市物集女町の中海道遺跡では京都市埋蔵文化財セソターによって弥生時代末期の正方形の掘っ立て柱建物がみつかり、卑弥呼の鬼道の祭殿を探る手がかりにたり、かつ邪馬台国所在地論争に波紋を広げそうだと報じられた。まだまだそんなことで、邪馬台国の位置を云々することはできない。ただ、右の私の本文で海人族の集落であることの断一言をさけているが、神殿と想定されている建物の南広場から四十個以上ものイイダコ壷が出土していることは、この遺跡一帯が海人族との関係が強かったのかもしれないことを補足しておきたい。
 その後の発掘調査では、南北の方向の建物も検出された。それはあたかも、最初の建築に対して後世の宮殿の脇殿のように位置する。そのように理解できるたらぽ、池上曽根遺跡の遺構は、弥生時代の王権を考えさせるものである。
 



竪穴住居 全体に葦葺き

   

物部氏ホームページ

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