弘法大師空海と丹生都比売の論考紹介
空海・高野山と丹生・高野明神について

信頼できそうな文書と内容
和銅六年(713年) 風土記撰進の勅  播磨国風土記逸文に紀伊国筒川の藤代の峰に爾保都比売神を鎮めること
和銅六年(713年) 風土記撰進の勅  豊後国風土記海部郡丹生郷 昔時の人、此の山の沙を取りて「朱沙」に該てたり  よりて丹生郷と曰いふ
養老四年(720年) 日本書紀完成 神功皇后紀に天野祝のこと
延暦二三年(804年) 空海31才、唐に渡る
大同元年(806年) 摂津国の丹生神社に六戸の神戸を寄附(『新抄格勅符抄』)
弘仁七年(816年) 空海、高野山開創の勅許を賜る
弘仁七年 (816年)「於紀伊国伊都郡高野峰請乞入定所表」空海少年日 好渉覧山水 従吉野南行一日更向西去両日程 有平原幽地 名曰高野 計当紀伊国伊都郡南 四面高嶺人跋絶蹊  【丹生高野明神記載なし】
弘仁七年直後 空海から紀伊国に在住の有力な人への書状 修表陳請天恩允許下符註是以為造立一両草庵且差弟子僧泰範実恵等発向彼処伏乞為護持仏法方円相済幸甚序々貧道来年秋月必参披謁未問珍重六々謹状 【丹生高野明神記載なし】
弘仁十年(819年)「高野建立初結界敬白文」および「高野建立壇場結界敬白文」 沙門遍照金剛・敬白十方諸仏両部大曼陀羅海会衆、五類諸天及以国中天神地祇、并山中地水火風空諸鬼等、(中略)仰願諸仏歓喜諸天擁護・善神誓願證誠此事、所有東西南北四維上下、七里之中一切悪鬼神等、皆出去我結界、所有一切善神鬼等、有利益者随意而住  【丹生高野明神記載なし】
貞観元年(859年)『三代実録』従五位下勲八等丹生都比売神従四位下 文献上の丹生高野明神の初見
元慶年間(877年) 住吉大社神代記  大社の部類神に紀伊国名草郡丹生ヒ姫神の名
延喜五年(905年) 延喜式神名帳の編纂が開始 紀伊国伊都郡の丹生都比女神社は名神大、月次新甞に与る。

信頼できそうでない内容の文書  丹生高野明神登場へ
延喜二一年(921年)以降  『二十五箇条御遺告』(延暦一九年(800年)とるするが)添付の「太政官符案」「丹生津比売及高野大明神仕丹生祝氏」系譜あり。
『二十五箇条御遺告』以降 安和二年(969年)以前 『空海僧都伝』(承和二年(835年)成立とある)
長保年中以降(999年〜) 『丹生大明神告門』 従三位、正三位に叙位された記事あり、これは長保年中と言う(空海以前の丹生都比売神社:岡田荘司論文)
『丹生大明神告門』には幾つかの土地の丹生神社の鎮座後に天野大社(丹生都比売神社)の創建を語っている。この段は信用できるかも知れない。

若干の考察
まともな史料と見ることが出来る文書には空海と丹生高野明神との関連は出てこないこと
 空海は狩人とあって、弁天山まで案内されたのかも知れない。そこで彼らの祀る山神に対して祈ったのかも知れない。 しかしそれが後に高野明神とか狩場明神と呼ばれることになろうとは夢想だにしなかったのだろう。

三代実録や延喜式神名帳では丹生明神に位を与えているが、高野明神には何も行っていないこと
 丹生神は水銀に関わる人々の斎祀る神あり、この水銀はそれこそ水の神そのものにも見えた。 水銀神は水神の中の水神であった。各地の丹生神社はそれなりの格式が高かった。
 水源地としての天野の沢には水神が祀られており、里宮が三谷に鎮座していた。 河内の王権が航海神の住吉大神の神威を高め、筒川の水銀地域を確保するべく、部類神の天手力男意気続々流住吉大神を送り込み三谷に祀った。 山宮の天野の沢神は有力な水(銀)神として丹生都比売神となり、天野祝は丹生氏とも呼ばれていく。

 天暦七年(953年)の高野山の奥院消失以後、高野山はどうやら丹生高野明神と本格的に関わったこと
またそれ以降のバックデイトされたと思われる文書や引用に、丹生明神の領地の広いこと、それを譲り受けたことが盛んにでてくること


  高野山の立地上から貴族の参詣はすくなく、従って経済的困窮に瀕していた上に火災、なりふりかまわずに領地を拡大していった。各地で衝突があったようだ。
  

 これらから素直に考えると、空海自身と狩場明神(高野明神)との関係にも疑問符がつく。明確に「あった」とは言えない。
 天野に丹生津比売(の原型の神)が祀られていた可能性は否定できない。
 三谷の坂上氏と高野山との結託がこれらの物語を構想していったのであろう。


諸説の紹介ー高野山の山岳宗教ー五来 重

高野山の神奈備信仰
 高野山の最高峰は弁天岳で紀の川筋から望みうる神奈備山。祖霊は留まる信仰があり、この山神の司霊者は狩人であった。司霊者の狩人の始祖は高野明神として祀られるようになった。
 また、幾多の河川が流れ出ている山系で、水分信仰があった。特に天野川の水源信仰である水分の山神は丹生都比売の信仰として祀られていた。

高野明神
 この結合がなされたのは、高野山の御社山に丹生都比売神と高野明神が共に祀られたことである。 高野山の水利権は山伏である行人方であったとする。すなわち狩人の後裔である。また天野の丹生都比売神を祀るのは天野祝でやはり狩人であった。 やがて天野にも高野明神が祀られるようになり、高野山の行人の一部は天野に降りて長床衆となった。

丹生都比売と天野祝
 丹生都比売神は水の神である。丹生の文字から丹(水銀)を含んだ土地とか、採掘したのが丹生族であり、この氏神が丹生都比売神であるとの説が出ている。 しかし丹生都比売神が水神であることは天野の神社の周辺が湿地帯で天野川の水源であることから明らかである。
 天野祝が南山の犬飼であって、空海を北から天野を経て高野山に案内したのも、丹生都比売神に奉祀する狩人で天野祝であった。これは高野明神として祀られたとする。である。

 狩人の開創伝説
 多くの山岳信仰の霊場は狩人による開創伝説を持っている。 伯耆大山の開創者金蓮上人の前身を狩人としている。立山も同様であり、狩人が発心入道して慈興上人となって開いたとする。 狩人が入道して山伏しとなる話だが、高野山の場合には狩場を献じて開創させる。高野産と御名人ケースとしては羽前の山寺立石寺に見える。
 高野明神はもと山神丹生都比売神を祀る狩人であり、その子孫の狩人が空海の従者となって、行人となって官僧となり、山の内の管理検察権を持ち、旧神領の荘園の経営権を持っていた。


諸説の紹介ー金剛峯寺伽藍の草創ー佐波隆研

高野山の開創
 大師のはじめての高野登山のことは狩人の姿に化現した高野明神の導きによってであると語られる。しかし『性霊集』巻第九をみるたらば「於紀伊国伊都郡高野峯、被請乞入定処表」と題して弘仁七年(816年)六月十九日に大師が高野の地 を賜わらんことを乞うた上表文が掲げられている。この文章の中で高野の地に関するところを注意するならば、
 空海少年日好渉覧山水従吉野南行一目更向西去両日程有平原幽地名日高野計当紀伊国伊都郡南四面高鎮人縦絶慶
と云っている。この上表文に述べられていることは一応信用し得べきものであるが、上掲の一文によれば、大師はすでに入唐前より高野の地が如何なる地勢のところであるかを知悉していたことが知られるのである。そして入唐帰朝の後に修禅のための地を選定するに際して、曾遊のこの地がその第一の侯補としてあげられたものと考えられるのである。 この上表は直ちに御聴許になり、七月八日には伊都郡の南にあり高野と名付げる空地一処を賜う旨の太政官符が下されているのである。

 大師はこの地を下賜する由の恩命を戴くや、直ちに弟子僧泰範・実恵等を遣わして一両草庵を営ましめられた。すなわち『金剛峯寺雑文』の中に次の如き大師の文書が掲げられている。
前略 修表陳請天恩允許下符註是以為造立一両草庵且差弟子僧泰範実恵等発向彼処伏乞為護持仏法方円相済幸甚序々貧道来年秋月必参披謁未問珍重六々謹状(『大師伝全集』第二巻、三頁)
 この一文は年月も宛名も記されていないが、下賜の恩命の直後紀伊国に在住の有力な人への書状とみられるもので、弟子の両名を遣わすに際しての依頼状である。すたわち高野の地を下賜された直後に於て、直ちに高野開創の事がはじめられたのであった。しかし大師は当時多忙のためか、直ちには登山しなかったものとみえ、その末尾に「貧道来年秋必参」とのこ、とが附加えられているのである。

 伽藍建立のはじめは、弘仁十年五月三日に先ず地主神としての丹生・高野両明神をはじめとして、十二王子百二十番 神を勧請し奉祠する明神杜を建立することであった。それは『金剛峯寺雑文』に載せる「建立金剛峯寺最初勧請鎮守啓白文」の末尾に記された年月日によって明らかにされることである。地主神としての諸神の祠を先ず最初に建立したことは、大師の我国諸神に対する態度が如何なるものであったかを明らかに物語るものであろう。 明神杜の建立は以上の如く明らかにし得るのであるが、伽藍としての重要な諾建築物の草創の前後は著しく不分明である。寺院縁起に類する記録には大師の偉徳を讃仰するの余り、大師在世当時に重要な建築の完成したことを云うものが多い。


諸説の紹介ー高野山における丹生・高野両明神ー景山春樹

開創の縁起と神々
 空海は延暦二十三年(803年)に遣唐使節の船に乗じて入唐、約三ヵ年間長安に在って真言の史料を蒐集し、大同元年に帰国する。やがては自已の信念に基づく寺刹を建立する志願を明らかにしている。
 弘仁七年(816年)六月には高野山の地を賜わらんことを奏上するに及んで、今日の伽藍地の濫膓をみることとなる。 『弘法大師伝』によると、在唐の空海は彼地より日本に向って一本の三鈷杵を投じ、その行方こそやがては伽藍を建立すべき霊応の土地なることを思い定めていたという。寺地を求めて諸国をめぐる間、弘仁七年に大和国宇智郡の山中で一人の狩猟者に会うが、その体は八尺に近く深い赤色の身体であった。黒白二頭の犬をつれ「南山之犬飼」と称し、この大和より南方の山中に自分は数万町歩の土地をもっているが、そこは極めて幽邃の高原であり、つねに霊験瑞異の相も多い。和尚にもし来住の希望があれぱ、その土地を提供し、伽藍の建立にも助力することを約したという。
 この狩人がのちに地主神となる高野明神の化身であって、霊地高野はまずこうした神意に基づいて探し求められ たのだというのである。このように山岳伽藍地の草創に際して、その地に上古以来の信仰をもって蟠踞していた土着の神祇から、いわばその神地の一部を分ち与えられるという形で寺地が形成せられている例は、いわば上代における 宗教伝説の一つのカテゴリーだともいえよう。高野の聖地とこうした神々との関係、そこにはまた上代における山ずみの生活を営む氏族たちの本拠が、こうした深い山々にはあったことを示すものにほかならないのである。この説話 は『今昔物語』『元亨釈書』『弘法大師伝』『金剛峯寺建立修行縁起』など、高野の発祥に関する多くの書物にはみな引用されている。
 空海はこの狩人の導きによって高野の地を踏んだのであるが、果たして一株の松樹にはさきに長安から投じた三鈷杵がかかっているのを見出し、よいよ奇瑞の思いを深めて伽藍建立のことを決意したのだと説いている。
 このような説話形態は、各地の縁起伝説によくみかげるタイプであり、高野山開創説話もそうした伝承のカテゴリーに合致する一つに他ならない。

狩場明神
 大和から紀州へかけての山また山の深い谷問には、恐らく太古から住みついて、狩猟や木工業や原始的な鉱業など に従事する人々がいたのであろう。その行動半径は想像以上に大きく、足にまかせて山々を歩き、渓を渉って遠くまで移動する、いわば「山住みの民」とでもいう人々の存在を考えてみなけれればならない。怪異なほどに犬きく、日に 焼けて赤茶けた件の山男、本能的に山々を跋渉して、いつかまた家族たちのまつ本拠に帰って来る山男、民俗学の方でやかましく言っている「木地師」の如き職業的た氏族集団などもこれと同じものであろうが、高野の開創記に出て 来る「南山之犬飼」または「犬山師宮内太郎家信」などと名乗る男は、やはりそうした古代の狩猟氏族の系統をひく一人であったと考えるべきであろう。現実的た歴史の世界では明神の化身が山男であったのではなくて、山男らの祀 る土俗神が明神になったと考えるべきたのである。いわゆる「狩場明神像」はそうした歴史的背景において眺める時、かえって生々しい現実感と神秘感をもって迫るのである。

朱砂・水銀
 松田寿男博士は近年、日本国中の「丹生」と称する地名や神社を廣く調査して、これがその土地の古代に淳る水 銀鉱脈の発掘や、その生産にたずさわつた氏族と深い関係にあること次第に明らかにされつつある。大和から紀伊にかけての山奥一帯は、林産のほか古代における水銀鉱脈として有名な生産地域であるから、この地方の丹生の神々は、もともとそうした土地の守護神として祀られて来た土俗神であったという。『播磨風土記』をみると、丹生の神は三韓征伐の際に鉾や鎧に塗つて、戦勝のマヂカルな力を与えるという丹朱を神功皇后に献じた功によって、丹生川の上流、管川(筒香)の藤代峯に鎮座したことにはじまるというが、いま実際に大和の奥から紀伊にかけては、丹生と称する土地は多く、またこの女神を祀る神社やその遍歴を伝える説話が散らばっている。天野の地方も水銀鉱脈と関係を有する土地柄であるから、狩猟を本来生業とした天野氏族の手によって、のちにこの職業神が勧請されて両所明神の形を整えることになったのであろう。松田博士の説によると、『古事記』に出て来る「井氷鹿」は、「光ある井」という意味、つまり水銀鉱を採掘するための竪坑であると説かれ、「石押分」の名は、岩山に穿たれた横穴式の採掘坑を指すもので、共に原始的な鉱山業に従った古代の職業集団を示すものであろうとされ、『日本書紀』にみえる神武天皇伝説に、天皇が紀州から大和へ入る時、植土を採り、これで「八十平瓰」を作らせ、これを使って 川に沈めたところ、魚は皆酔つて浮き上つたと言う話なども、朱砂脈の埴土を用いて水銀の毒性を利用した科学だと説かれる。いずれもがこの地方ににおける古代生産の実態、またその氏族たちの動向を語る歴史的説話だとみれば、高野山をめぐる高野・丹生両神鎮座の歴史もまた極めて実証的であり、またそのよって来たるところは極めて悠遠だと言わなければならない。
 金峯山を中心とする天台系修験道発達の背景には、その山におげる古代銅鉱脈のもつ経済的意義が大きく、高野山 におげる真言系教団発展の陰には、この地方を中心とする水銀鉱脈の経済力と森林や狩猟関係者の力が作用しており、高野・丹生の神々はこうした古代社会をその母胎として生きつづけて来たものだと言ってよかろう。


諸説の紹介ー高野山と丹生社についてー和多昭夫

高野山の八幡神と丹生都比売
 高野山の八幡神は熊手を本尊とし、総分方特定寺院を巡って祀られるため熊手八幡、または巡寺八幡宮と称して、現 在に至るも巡寺八幡講の行事として存続している。この巡寺八幡は空海の産生神として讃岐国多度郡屏風浦に鎮座していたもので、後空海の密教擁護のため高野山に降臨したと伝えており、その本尊は神功皇后が征韓の時用いられた長鉤であるという。もちろんこれは空海に仮託されをのである。いずれにしても密教と八幡神の結合が密教信仰の普及上すこぶる重要な役割を果して来たことは認められるが、直接空海に結びっけて考えるには確証がなく、むしろ空海を奉ずる下級宗教家の働きによるものと考えねばならない。 丹生・高野両明神において同様で、管見によれば、空海の著述・願文.消息の類を通じて信頼出来るものの中に丹生都比売命・高野明神という語は一語も見当たらない。『弘法大師全集』には「丹生大神宮之儀軌」一巻が収められているが、これは明らかに鎌倉時代中期以後の偽書である。従来、あまりにも当然のこととして、空海よる丹生都比売命の勧請が真実を伝えるものか否か疑問を抱く人はなかつた様であるが、右の事実が一体何を物語るものであるのか、丹生社の勧請祭祀について再検討を試みるのも決して無意味ではあるまい。

『性霊集』に見る空海と丹生・高野明神
 文献の検証の結果、空海の啓白文や消息においても、丹生・高野明神という語が一切現われないが、それらを集大成された比較的信頼度の一同い『性霊集』の中から関連するものを引用して検討を加えたい。『性霊集』中、唯一例外的に「高野四至敬白文」には明神の衛護ありとあるが、これは偽書であること疑いなくここでは論じない。
 弘仁七年六月十九目の「於紀伊国伊都郡高野峰請乞入定所表」は、すでに述べた如く丹生明神に関する言葉が一切認められない。同年七月八日の太政官符はこの要請に基づいて下されたもので、この時、丹生社との関係が成立していなかったことを物語るものである。

結界敬白文に見る空海と丹生・高野明神
 次に弘仁十年五月三目の「高野建立初結界敬白文」および「高野建立壇場結界敬白文」は、伝説に従う以上、その性格から云っての何らかの形で丹生都比売の話があるはずである。ところが実際には、前者においては、
 沙門遍照金剛・敬白十方諸仏両部大曼陀羅海会衆、五類諸天及以国中天神地祇、并山中地水火風空諸鬼等、(中略)仰願諸仏歓喜諸天擁護・善神誓願證誠此事、所有東西南北四維上下、七里之中一切悪鬼神等、皆出去我結界、所有一切善神鬼等、有利益者随意而住(以下略)
 とあり、後者においても、右と略同じく善神鬼をして伽藍に住して仏法を防護せんことを祈り、諸の聖衆と「梵釈四 王竜神等の護法の諸天影響衆とを勧請」しているに過ぎず、ここに丹生・高野両明神の語は一片も見当らず、一般的な伽藍の護法神を勧請しているに過ぎない。

『高野山勧発信心集』に見る空海と丹生・高野明神
 『高野山勧発信心集』に、「建立金剛峯寺最初勧請鎮守啓白文」なる一文が収められている。これによれば、
(前略)然則院廓十方堺十部十二天鎮各方、結界七里間地主山王約誓護、令新奉勧請朝中霊社一百廿所、四方各鎮三十社、毎月日別各一杜、為壇主助人法、為鎮将持伽藍
 と述べている。この「地主山王」とあるのは、地主神としての山王と考えるのが普通であるが、本文中に「定慧二体地主」とあるところから見れば、丹生・高野両明神を予想したものであることがわかるが、れににしても丹生社なる語は全然用いられていない。、ここに述べられた三十番神の思想は、『性霊集』に見られぬものであり、この啓白文は内容的に前記二啓白文よりさらに発展した段階にあることを示しており、後世の偽作と考えられるゆえんでもある。 以上三種の啓白文において、丹生。高野両明神の名が見られぬことを知った。ここにおいて空海は高野建立に際して一切の天神地砥を勧請されたが、特に丹生・高野両明神を地主神として祀らなかったことが明らかとなった。このことから我々は天野丹生杜と高野山は、草創当時において何ら祭祀関係を有していなかったと云い得る。

山神
 もとより山上に山神を祀る何らかの民俗があったことまでを否定し去るわけでない。これこ本来のの地主山王である。開創当時においては、これが山の神の司祭者(狩人)の祀る名もなき山の神であったがために、特にとり立てて論ずる必要が生じなかったのであろう。しかして、むしろ天野社と高野山の関係が生じたのはこの結界啓白以後のことであろう。この啓白文に述べる七里四方の結界は本来観念的な版図に遇ぎなかったが、これを契機として四至四方高山を現実的に拡大解釈して、広大なる寺領の主張にまで発展して来るのである。しかして寺領の拡張に際しては、現丹生社との系譜を形成する必要があった。

『三代実録』の丹生都比売神社
 丹生都比売神が文献に現れる最初は、『三代実録』貞観元年(859年)正月二十七日条に、従五位下勲八等丹生都比売神従四位下とあり、元慶七年(883年)十二月には従四位上勲八等に昇階している。従って空海の高野山開創当時に天野丹生社がすでに存在していたものと考えて間違いないであろう。

『播磨国風土記逸文』
 丹生社は『播磨風土記逸文』によれば、息長帯日女命(神功皇后)の新羅征伐に功あり,その神を紀伊国筒川藤代の峯に鎮め奉ったとある。この管川藤代峯については定説がなく、現在の筒香近辺の山を指すものと云われているが、推測の域を脱しない。これが丹生社の初見であるが、この藤代丹生社と天野丹生の関係につい一切明らかでない。もし両社に系譜関係があるとすれば、天野に鎮座したのは何時かと云うこと解明する史料もなく、天野に鎮座したのが高野山との関係かもしれぬが、これも明らかでない。密教と朱沙の関連性からすれば、伽藍建立に際して何らかの交渉がもたれたかもしれないが、これは必ずしの朱砂に限られず、推測の域以上に出ないことは残念である。

高野の寺田
 貞観十八年に至って姶めて寺田が成立した。これは高野山教団の運営上一つの転機をなすものであると同時に、この頃高野山と丹生社の関係が成立したことを傍証する事件でもある。真然が貧弱な教団運営の当事者として、最も切望したのは恒久的な財源の獲得と云うことであったであろう。従来の政所周辺の寺域を維持する上においても、そうした目的のためには在地の有力者との提携や協力が不可欠であり、これを実現する捷径は有力者の精神的中枢である氏神信仰を利用することであった。貞観元年の叙位と云い、元慶七年の昇階と云い、いずれも真然時代の出来事であることは、以前の記録に全然現われなかっただけに、高野山との間に何らかの関係がこの時代に成立したことを示唆するものであり、斉衡二年(855年)以後の一連の記事はある程度真実をもつものと考えられる。しかし、丹生杜を高野山に勧請し、系譜関係を唱えるに至ったのはさらに後のことと云わねばならない。高野御子神とは 古来不詳とされているもので、在来の高野山地主神を指すか否か明らかでない。

坂上氏
 坂上氏が外来者であるか否か はさらに検討を要する間題であるが、それは当面の問題でなく、たとえ外来者としても、十世紀中葉には伊都・那賀・有田地方において圧倒的な勢力を振うまでに成長していたことは注目すべきである。 坂上氏が天野者に対して祭祀権を獲得し、伊都・那賀両郡一帯に勢力を伸張した過程は明らかでないが、天野社は一般に云われる如く丹生氏を称する一族の氏神ではないであろう。丹生氏を称するのは、丹生社の祭祀に関わる職についた者のみに与えられる氏であろう。寛治三年(1089年)「経澄解」をはじめとして、丹生氏は祝、神主としてのみ現われ、その他に丹生は現われないのである。 雅真にとっては、高野の復興と天野の興隆に政所近辺の土豪坂上氏を利用し、坂上氏にとっては、その財力の一部を提供することによって、雅真や高野山を介して中央との連繋をもっとともに、この地方に勢力を扶植することが最も賢明な策であった。従って雅真は天野氏の氏長者となった坂上氏の援助を期待すると同時に、その氏神と化した天野社を高野山に勧請するとともに両社の問に親子の関係を立証する必要があったのではないか。森田竜倦師がかつて 「金剛峯寺建立修行縁起」の作者を雅真に比せられたのは、この様な意味から再検討する必要があり、天野神領を丹生明神の神意によって弘法大師に譲られたと云う伝説も、その成立の根拠を雅真や坂上氏をめぐる事情に求めるのも 無理とは考えられたいのではないか。

坂上氏と三谷
 平安時代から鎌倉時代にかげての坂上氏の勢力は伸長した。ことに三谷に坂上氏の勢力が著しいことは、三谷の丹生酒殿杜と坂上氏の関係を無視し得ないことを物語るものである。丹生酒殿社の伝えるところによれば、天野の丹生社に対して三谷の丹生酒殿社はその本杜とされており、酒殿社が里宮であるのに対して天野社はその山宮に当るものであろう。ことに伊都・那賀両郡および有田郡一帯にかけて天野納骨信仰が盛んであったことは、天野社の信仰の本質とその信仰圏を示すものとして興味深いが、その信仰圏は大体において古代・中世以来の坂上氏の勢力範囲と略一致している。三谷酒殿社の支配は、天野丹生社の信仰圏を掌握することであった。坂上氏の丹生社に対する地位はこの様にして形成されたものであろう。
 平安時代末期には未だ三谷と天野を結ぶ道は高野登山の重要た経路であったが、天野社と高野山の結合は里宮を急速に衰微へと追い込んでゆき、今目その存在は極めて寂しいものがあるが、この意味で酒殿社は今後さらに検討を要する地位にある神社である。

 辺境に近い貧乏な山嶽寺院に衰徴していた高野山と云う教団を再建し、興隆するにはまず、山下周辺の有力者の援助を得る必要があ り、そのために坂上氏との檀縁関係を形成し、丹生社の祭祀権を有する坂上氏の後援によって丹生社を高野山上に勧請するに至ったと考えられる。丹生社の勧請によって、本来、地主山王として空海草創以来祀られて来たと考えられ る山の神、高野山王は、丹生明神と親子と云う系譜に組み入れられ、在来の山の神は外来神に圧倒されるに至った。 ここから伝説が数多く発生するに至ったのである。丹生社の勧請、神領の譲渡説は単たる理論的神仏習合説ではなくして、雅真のとった教団の再建・興隆策の一つであったと考えられる。


諸説の紹介ー粉河寺創建と『丹生大明神告門』ー神奈備

粉河寺創建と『丹生大明神告門』
粉河寺は宝亀元年(770)に狩人である大伴孔子古の創建と伝わる古寺で,西国三十三所観音巡礼の三番札所である。 延暦年間に上丹生谷村の丹生明神を勧請とあり,これが現在の粉河産土神社である。寺院が出来るとその後に地主神を祀ったり、守護神を勧請する習慣があった。
 『丹生大明神告門』には,「御杖さしたまひ」と言う言葉で,丹生明神の鎮座順が記載されている。この記載は天野大社(丹生都比売神社)を一番目にしていない所から,ある程度信用できるものと考えることができる。順序として,とびとびに紹介するが、川上水分之峯,天野原,名手村丹生屋乃所と現れて来る。名手村丹生屋乃所とは上丹生谷村のことであろう。そうすると770年以前にはこの丹生神は鎮座していたことになる。則ち,上記の想定が正しいのであれば、必然的にその前に天野には丹生明神は鎮座していたと言えよう。

丹生都比売伝承

神奈備にようこそ