丹生大師(神宮寺)
三重県多気郡多気町丹生 ゼンリン

交通案内
松阪から射和、勢和村村民バス丹生大師下車


仁王門と神体山



由緒

 弘法大師空海の開基と伝わる真言宗神宮寺で、丹生神社と隣接し、神仏習合の歴史を語っている。 丹生大師と呼ばれたのは江戸時代以降だそうだ。
 かっては伊勢水銀(軽砂)の産地として繁栄をした土地の中心にある。

50段の石段の奥の本堂





お姿
  大師の山と言われる神体山の南側に鎮座、仁王門から右手に池と紅葉がきれいな参道が続く。 参道正面は丹生神社である。
 本堂の背後に丹生都姫神社が鎮座している。祭神は丹生都比売神である。

丹生都姫神社



丹生都姫神社のご神体


丹生都姫神社の由緒



『古代の朱』松田寿男著 伊勢の丹生大師の土釜から

 伊勢の丹生伊勢の丹生大師には水銀の蒸溜に用いられた土製の釜が保存されている。 この釜はいまから三百余年前に中国明朝の宋応星が著作した『天工開物』の丹青の項に見えている「升煉水銀」の図に見えるものと、ほとんど同じであるらしい。 『天工開物』の説明文は、はなはだ難解であるから、一般に向くように大意をつかんで訳すと、こうなる。
 およそ水銀を升錬するには、白味がかった品位の低い朱砂を用いる。これを水でこねて縄のようにし、とぐろをまかせ、三十斤ごとに一っの釜にいれる。 その上に別な一個の釜で蓋をし、その蓋釜の中央には小孔を残し、シックィで塗りかためる。 別に弓たりに曲った空管(パィプ)をその小孔にとりつけ、末縄までその空管に麻縄をビツシリとまきつけて、シツクイで塗る。
 炭火が燃えあがったときに、その空管の末端を水をいれた瓶中にさしこむ。すると釜中の蒸気はすべて水中に導かれる。 十時問のあいだ焼くと釜中の朱砂はすべて瓶中で水銀に変わる。
 二つの土釜を上下から合わせ、それに火熱を加え、生じた蒸気を水中に送りこむところに秘訣があり、明らかにエア・リダクシヨソではないか。 『天工開物』には見えていないが、下部の朱砂をいれた釜には小孔があいていたはずである。 それは丹生大師所蔵の蒸溜釜にはハツキリと認められるが、空気分解に必要た空気孔にほかならない。 この点から太古に遡って考えてみると、それこそ考古学で扱っている「はそう」であろう。


 はそう
「はそう」は醒と書く。古墳時代の須恵器の一種で、どれもがみな胴体がまるく、その球形の胴の中央都に一小孔があり、口縁が極端に広く作られているのが特色だ。 もちろん祭祀用と実用とが区別される。とにかく今日でも正体がわかっていない。私はこれを古代の水銀蒸溜器と解している。 だいいち胴の球体よりも口縁が広くつくられていることは、その上に蓋をしてシツカリと胴に密着させたことを思わせ、上部にのせた蓋釜には下部の胴体で気化したガスを水中に導く装置があったにちがいない。 胴体にあけられた小孔はもちろん空気孔である。
 福井市本堂町から出土したハソウは明らかに実用品として再三使用されたもので、高熱で作製され、内部には朱砂が残留していた。 祭事用のものは、これを薄手にして小形に作ってあって、ほとんど全国から出土している。 いうまでもなく形だけ模傲すればよいのだから、低熱で作られ、装飾的な要素も加えてあるし、火にかける胴の球体だげでは安定が悪いから、底部に細工したものも多い。 しかも、ハソウが実用にさかんに使用されていたからこそ祭具の一つに加えられたわげだ。 反対に実用品は用途が用途だげに、壊れたら捨てる式となりがちであるから、残されたものが少ないだけであろう。
 

丹生都姫伝承
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