敏馬神社(みぬめ)
神戸市灘区岩屋中町4-1-8


風景


交通案内
阪神神戸線岩屋駅南へ300m its-mo

祭神
素盞烏命 配 天照皇大神、熊野坐神
元宮 水神社 弥都波能売神 この神社の元の祭神 閼伽井の水と云う井戸もある。三犬女清水と言う。これもミヌメ。

由緒

 奈良時代の摂津風土記(七一三年)に「美奴売とは神の名で、神功皇后が新羅へご出発の時、神前まつばら(豊中)で神集いをされた処、能勢の美奴売山(大阪府豊能郡三草山)の神様がこられ、わが山にある杉の木をきり船を造りて新羅へ行かれるなら、幸いする所ありと数えられた。 その通りなされると、大成功をおさめた。お還りの時、この地で船が動かなくなったので、占い問うと神の御心なりと。故に美奴売の神様をこの地に祀り、船も献上した」とある。 これ当社の縁起にして、神功皇后摂政元年(二〇一年)の御創建となる。また平安時代の延喜式(九二七年)の神名式に生田・長田神社と並び売神社が記載されている。
 難波の地から船出して第一日目は敏馬崎に泊まる。ここは懐かしい大和の山々の生駒、二上山、葛城山が見える最後の港である。

万葉集によく詠われている地である。
大伴旅人 敏馬の崎を過[ヨ]ぎる日に作る歌
妹と来し敏馬の崎を帰るさに独し見れば涙ぐましも(四四九)
行くさには二人吾が見しこの崎を一人過ぐれば心悲しも(四五〇)

田邊福麿
八千桙の 神の御世より 百船の 泊つる泊と 八島国 百船人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に 浦浪さわぎ 夕浪に 玉藻は来寄る 白沙 清き濱邊は 往き還り 見れど飽かず 諾しこそ 見る人ごとに 語り継ぎ 偲びけらしき 百世歴て 偲はえゆかむ 清き白濱(一〇六五)
反歌
まそ鏡 敏馬の浦は 百船の過ぎて往くべき 濱にあらなくに(一〇六六)
濱清く浦うるはしみ神代より千船の泊つる大和田の濱(一〇六七)

また柿本人磨呂の碑がある。
珠藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島が崎に 舟近づきぬ(二五〇)



お姿

 万葉の時代、敏馬の浦は「百船の過ぎて往く」と云われるような賑わった港であった。
新羅からの使節来朝の折には、生田神社で醸した酒を敏馬浦において給したことが『延喜式玄番寮』には見えている。蛮客の祓えの意味であろう。

震災の影響か鳥居は立っていない。落ち着いた都会のオアシスの雰囲気であるが、地形が変わり船着き場の感じは到底望めない。『敏馬の泊・浦のうつりかわり』参照。

拝殿


本殿 流造 間口三間 奥行六間


お祭り

 7月13日 14日 夏季大祭 
10月 9日 10日 秋季大祭

伝承
 婚礼の列が社前を通るとその結婚は不縁に終わるとの伝えがある。どうしても通らねばならない場合には神社浦の国道を通ったとのこと。 元々女神を祭る神社だから神が嫉妬するとのようだ。 これでは到底神前結婚式はできないだろう。
また縁切りのまじないもあり、拝んでもらった砂を相手の食事に少量まぜて食べさせると直ちに効くという。 砂を食べさされたら、別れる気にはなるだろうが、砂を噛む思いの伝承ではある。

水神社


 『敏馬の泊・浦のうつりかわり』 敏馬神社の境内掲示
大和時代(八世紀)この高台は海に突きだした岬で東側は港に適した入り江であった。当時敏馬の泊一帯の地名は「津の国津守郷」。港の管理者が居住していたことが分かる。 大和の人が九州韓国へ行く時大阪から船出し敏馬の泊で一泊、大和が遠望できる最後の港、逆に帰る時はなつかしい大和が見える最初の港。また朝鮮人が来朝すると生田社でかもした酒を敏馬でらまう(延喜式)とあり機内に入るためにけがれを祓う港でもあった。 以上の様に大和の人に特別の感情をもつ地であっので万葉集には大和以外の地では稀に見る多くの浦が詠まれた。境内には柿本人麿と田辺福麿の歌碑がある。
なら時代後半(八世紀後半)航海の進歩と共に港は西の大輪田の泊へ移るがその後は白砂青松の美しい海岸は都の歌人達の賞でる所となり「みぬめ」と「見る眼」を掛詞にした浦が多く詠まれた。
江戸時代、神社前は西国街道の浜街道として往来繁しくまた氏子地に酒造・廻船業が栄えその財力を頼り多くの文人が訪れ当地にも文学(特に俳諧)がおこった。当社に俳諧奉納絵馬二扁が現存する。
明治以降は海水浴場として賑わい多くの茶屋料亭芝居小屋が神社周辺にあったが昭和の初め海岸の埋め立て、二十年の戦災で往時の姿をなくした。
鎮守の森だけが往時を偲ぶ唯一のよすがである。


「ジャリ!」

 『平成祭りデータ』の敏馬神社の由緒から
御由緒
当社の旧記は、慶長年間(一六〇〇年頃)兵火にかかり焼失して伝わらないが、諸文 献によって考察することができる。奈良時代の摂津風土記(七一三年)に「美奴売と は神の名で、神功皇后が新羅へご出発の時、神前まつばら(豊中)で神集いをされた 処、能勢の美奴売山(大阪府豊能郡三草山)の神様がこられ、わが山にある杉の木を きり船を造りて新羅へ行かれるなら、幸いする所ありと数えられた。その通りなされ ると、大成功をおさめた。お還りの時、この地で船が動かなくなったので、占い問う と神の御心なりと。故に美奴売の神様をこの地に祀り、船も献上した」とある。これ 当社の縁起にして、神功皇后摂政元年(二〇一年)の御創建となる。また平安時代の 延喜式(九二七年)の神名式に生田・長田神社と並びMI売神社が記載されている。延 喜式に記載される神社を式内社といい、最も古い由緒を誇る格式のある神社である。
以上
「MI」は、さんずいに文です。


丹生都姫伝承に戻る
神奈備にようこそに戻る