宇治神社
和歌山市新魚町 ゼンリン



交通案内
南海和歌山市駅下車 北東1km

祭神
天照御大神、丹生都比売大神、高野童子神
摂社 楠本稲荷神社

由緒
当社は元来鳥羽上皇の勅願所であり、覚俊上人が長承四年五月四日、初めて当国葛木山麓に勧請、その後、康始元年、岩手村吉野川北岸に創建した。
 更に重ねて覚俊上人、この地に勧請し建立した。
 第一金剛部、第二仏部、第三蓮花部の三部の神を建て、本地垂跡縁起の神として、三部大明神三座と称した。

 鳥羽上皇の信厚く、藤原内大臣実季公に奉幣を立てさせ、其の後また根来寺草建落慶時には土師の直営をもって奉幣があり、若干の荘園料を神供燈油料に当て、方八丁を除地とし神籬をめぐらした。神殿は厳で宇治一円の産土神となした。 神輿三基頓宮に渡御があったという。
 また崇徳帝の御宇に中臣の春足三部明神を御信仰あり、遥かに都を立って当社に奉幣懇祈された。「それ神は人の敬に依って威を増し、人は神の加護に依る」とされた。

 その後、動乱もあり衰えたが、慶長年間、浅野幸長の入国で社地を回復し、境内およそ五百余坪の免除を旧例に復し、西宇治及び本町第一街方八丁の地を氏子に属させ、更に元和年間徳川頼宣公入国され、崇敬厚く、その後時代幾遷して今日に至っている。

お姿
  プレハブ的な建築の本殿、拝殿である。窮乏している神社の活路を見出す一つの試みであろう。 大きい社殿は要らないが、木を大きく育て、これを神木とし、小さいながらも厳かな本殿を置けば十分時代の要請に応えられる神社になるのではないか。
 

鳥居と拝殿

お祭り
例祭 10月11日

紀伊国名所図絵



紀伊續風土記 巻之四 若山上 若山神社部 内町から

○三部明神社 境内周八十九間  禁殺生
  本社 方九尺 外屋方二間  拜所  神樂堂  
   廰舎   鳥居   本地觀音堂 十間 四間 
   末社九社
    祇園社 方三尺   辨財天社  稲荷社
    天満宮  三社宮 六尺五寸 三尺五寸  唐崎社
    甑塚明神社  瘡神社  荒神社
     別當  神留山照光院 古義眞言宗京勤修寺末
新漁町にあり 本町五丁目より北東西宇治の産土神なり 古宇治郷徳田村木村等あり其産土神といひ傳へたり 勸請の始詳ならす 三部明神のことは那賀郡宮村總社權現の條に見ゆ

参考 和歌山県神社誌

丹生都姫伝承
紀の国古代史街道
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