船立御嶽(船立堂)
沖縄県宮古島市平良 地図

入口


交通
宮古市役所の200m北東。


祭神
兄妹 かねどの・しらくにやすつかさ(鍛冶神・農業神)


由緒
 堂頭の掲示から
 昔、神代に久米島按司という人に一人の娘がいた。兄嫁は邪険放埒な女で娘を邪魔に思い、按司にこの娘は毎夜しのんでくる男がいると讒言した。按司はこれを信じ怒って娘を小舟に乗せて沖に流した。これを見かねた兄は小舟に泳ぎ乗り、妹とともに漲水の浜に漂着、その夜の夢に神のお告げがあり、兄妹は船立の地に移り苫屋を設けて住んだ。
 里人の水くみや薪運びなどを手伝って暮らしていたが、やがて妹は住屋里かねこ世の主と夫婦となり九人の男子を儲けた。成人した子供達は祖父に逢いたいと思い、母を伴って久米島に行き、按司に対面した。按司は先罪を悔いて親子の愛を尽くし、黒がね・巻物を引き出物に贈って宮古島に返した。
 兄はこの黒がね・巻物を基に鍛冶屋を起こし、ヘラ・鎌などの農具を作ったので農業が発達し豊穣の世になった。万民飢えをしのぎお安楽に暮らせるのはこの兄妹のお陰だとして、二人の白骨を船立山の納め御嶽の神として崇めた。
 と、伝わっている。

鳥居と祠


 

たたずまい
 埋蔵文化財の船立遺跡の標識がある。
 境内は南北に路地が通り、東西約20m、南北約30mの御嶽。祠の後方にアコウ木の大きい木がある。根元に元々のイビと思われる石がある。  谷川健一氏の『甦る海上の道・日本と琉球』p.190頁には、先の伝承を紹介した後に「宮古島はもと鉄器がなく、牛馬の骨を利用して耕していたので、鉄器を得て、五穀は豊かに実るようになった。」とある。更に、氏がここを訪ねた際、かなくその散乱を見かけたと記している。中国大陸→久米島→宮古島と鉄や製法が伝わったのかも知れないとしている。なお、宮古島に鉄が伝わる前に伊良部島に日本から鉄が伝わっているとも記している。そこには長山御嶽があると書く。




 

お祭り
 旧十一月 八日 フーツキヨーカ(フイゴ祭り) 旧八月八日 カンジャーニガイ



『平良綾道(アヤンツ)マップ』『平良市史』『甦る海上の道・日本と琉球』
2007.12.25


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