外間御嶽(プカマ御嶽)
沖縄県宮古島市平良東仲宗根 地図



交通
北小学校の北西角の向こう側 


祭神
根間大按司、その子の根間の角かわら、目黒盛、その子真角与那覇、その子普佐盛


由緒
 14世紀から15世紀にかけての一系の人物、根間大按司、その子祢間津のかわら、その子目黒盛、その子真角与那盤、その子普佐盛の合わせて五人の墓所だった所で、普佐盛の弟、伊かりによって御嶽に仕立てられたものと伝わる(薙正旧記)。

 此の御嶽には皷祢里(こねり)祭が行なわれていた。その由来は祢間伊かり(根間伊嘉利)が竜宮から伝授されたというもので、一七二七年の『薙正旧記』に記事がある。「中古迄は行なわれた」とあるが、これは王府への気兼ねからの表現で、近世までも行なわれたという見方もある。

 伊かりは父の死後、その墓所で庵(いおり)を作り泣き暮らしていたが、その孝心が天に通じたのか、漲水の天川崎という所に父が蘇生したという夢を見てその地に行ったところ水際に髪毛之筋長さ七、八尺のものがあり、余りに長いので不思議に思っていたら何処からともなく美女が一人あらわれ、夜部(ゆうべ)此所でかもじ(添え髪)を落としたがもしや拾われたのなら返してくれと言うので渡してやると美人は海に飛びこみ姿を消す、伊かりは余りに不審に思えたので翌朝もその天川崎へ行く、美人はまたも姿をあらわし、弁明して言うことには、そなたの孝心の心があついのは竜宮界でもよくわかっているので、竜宮界では孝行の祭りを授けようということになり、竜宮の使いでわたしがやってきたとのこと、それはありがたいというので一緒に海中に沈んだが、気がついてみると金銀をちりばめた宮殿に着いていて、様々なもてなしをうけ、そこで漲祢いりの祭を授かり、″此の祭を十三年廻りに一度九月のうちに先祖所で祭ったならば、天地之願御加護、先祖の霊神は上天し、島は豊かになり、子孫は繁盛するから、怠ることがないようにせよ”との教えがあった、礼拝をしていとまごいをしたところ、すぐに先の女の導きがあり、夢のような気分のうちに天川崎に戻っていた。
 竜宮界では三日(三月)と思ったが此の世では三年がたっていた。生き返った気持で帰宅し、一門そろつて歓び″伝え受けた通り、根所において神人数は二十五人、そのうち伊かりは真中の台の上で西方に向い、白ばしの烏(ワシ)の尾羽一尺以上のものを貫き列ねたのを冠にし、白衣を着け、名蔵双紙を唱えたら、二十四人の者共は庭鳥の尾羽を貫きつられたものを冠にし、紺朝を着けて伊かりを立囲み、伊かりの詞を受けて節毎に拍子を揃えて皷(つづみ)を打つ十三日祭を始めた。それをついで、中古までは祭が行なわれていた。なお白ばしの烏の尾羽は、祭の年期になると必ず当島の北方にある白川浜に寄せてきたという言い伝えであるという。

 一七四八年の旧記の『宮古島記事仕次』、『根馬氏家譜正統』にもある話である。竜宮から先祖祭の方式皷祢り(こねり)祭を授ってきた伊かりは墓所を因って草木を植え御嶽を立て、その前での皷祢りをはじめ、それが、その後うけつがれたということだが、実際いつまで行なわれたかは、明らかではない。今は行われてはいない。

 この祭りは沖縄本島から伝来したもの、また久高島のナヅキという男性中心の神事に似ているということなどがいわれる筈だが、さらには此の起源を遠く琉球以外に求めるのもでてこよう。竜宮伝説の根源の解明にもつながるものである。




 

たたずまい
 御嶽の位置は目黒盛豊見親が築いたという外聞根間の城の東のかどに当る要点だったと思われる。大正の噴までは、その境内は西北は忠導氏本宗の外聞屋敷に接し、北東は伝中屋金盛ミヤーカに到る範囲で、今の平良市公設北市場の敷地の北西部分に御嶽の庭があり、その北東側のミヤーカ(墓)跡の前にイビを立てて拝んでいた。普佐盛の孫空広(仲宗根豊見親)が琉球王命で島の首長に任じられた事で執り行なった神水を飲む行事は平良では祢間真中外聞真中に人々を集めて行なわれたという、その真中は此の外聞御嶽の南西方にあった広場であり、そこは祢間座外聞座といわれ、平良の中心であったようだ。街区が形成されていくうちに座は御嶽の前を通り東川板に向う通りに転化していったが、そこでは大綱ひき等が行なわれたという。

 昭和のはじめに、外聞御嶽を斜めにきるように走る道路が設けられ、それにともなって福木などの巨木の生えていた大きな御嶽の敷地はイビと前庭に限られるようになり、伊かりが仕立てた杜は消えていた。この小さくなった御嶽のわきで野菜などの物売りが立つようになったが、それがもとになって、平良市の降雪市場が開設されるようになったのは1968年である。御嶽の敷地にその東南隣の地所を加えてスラブ建て平屋一棟が立ち、御嶽のイビは建物の裏手の方にひっそりと置かれるようになる。その前年の十一月に宮古文化財を守る会(民間団体)が結成されたが、その頃は古墓が荒らされ、墓の中にあった陶磁器等が採り出されて売られる等、神霊をおそれる観念が低下し、御嶽を隅に追いやることが平気で出来たようだ。同じ十一月に、もう一つの公設下里市場の木造の建物が火災にあった。市場づくりのため外聞御嶽の木を切り倒した人について、「目が木の枝にさされ、しばらくして自分が飼育していた馬にカマれ病院がよいをしていたが行方が知れなくなったという」(仲間井佐六『宮古お嶽集』)話がのこつている。
 イビは現在東南よりに遷され、市場の東隅のコンクリートの両の中におさまり、通りからその所在がわかるようになっている。

 丁度祭の準備をしているのか、天幕がはってあり、まさか御嶽とは思っていなかった。通りがかった方に聞いたら、ここだよと教えてもらった。宮古島の人々は実に親切で道を教えてくれるのも詳しく言ってくれる。
 この島におれば心が優しくなる。


 

お祭り
主な祭祀 六月 ユータミ  十二月 サトウガン      



『平良綾道(アヤンツ)マップ』『平良市史』
2007.12.25


神奈備にようこそ