豊日別宮(草場神社)
豊前 仲津 福岡県行橋市南泉7-13-11 its-mo

鳥居




交通
バス 八景山 南1km



祭神
豐日別命 配 罔象女命、高


由緒
 豊前國風土記には、行橋市一帯を「宮処の郡 子え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。蓋し、天照大神の神京なり」としている。 行橋市の川の上遺跡は三世紀の墳墓群であり、後漢から三国時代の道鏡、勾玉、鉄刀などが出土していると云う。 相当な権力の存在を思わせる。
 神社の創建はこの社に伝わる古文書では、人皇三十代欽明天皇、(附記欽明天皇は人皇二十九代なり)即位二年秋九月十八日神化老翁之相而現矣託于筑紫日別大神神官大伴連牟彌奈里曰吾和是佐留多毘古乃大神奈利云々(中略)夫猿田彦者天照大神之分神也因之日別大神宮以猿田彦為別宮云々(下略) 即ち、筑紫の日別大神の神官である大伴連牟彌奈里に吾は佐留多毘古乃大神なりと神託があり、豊日別の本宮の為に伊勢神宮並の神宮を建て、猿田彦は別宮としたとある。
 元より頭から信じる必要はないが、猿田彦神を天照大神の分身としてある事は面白い。
 どの様な渡来系の権力者が到来しても、喜んで出迎え、道案内を勤める、通過点の旅籠のおやじ見たいな存在であったのだろう。これから見ると豊日別と猿田彦は同一神格と考えられる。 それがこの世を生き抜く術だったと云う事だろう。
 ここから3km西の天生田の清地神社の由緒に素盞嗚尊と五十猛命が豊前国を経由した時、豊日別が嚮導したとある。 この説がいつ頃出来たのか、創建由来に筑紫の日別大神の神官である大伴氏がからんでいる。この神官の来訪を白日別の神が来たととれる。神社建立の為なら豊日別も嚮導すると記されてもしかたはない。

 行橋は古来は都だったと云う。美夜古と云う美しい名を持っている町である。しかし、直ぐに忘れられている。大和の王権がやってきてもここを古来の都、天照大神の神京なりと感慨を持った者はいない。 近世に於いても目立つ所ではない。
観光ガイドブックにも掲載されず。JTBの契約旅館の部屋数も僅かなものである。

 宇佐神宮の放生会で、香春からここを経由して宇佐へ銅鏡が運ばれる。やはり経由地の意味はあるが、売りがそれでは情けない。


たたずまい
 質実剛健な社殿に見える。飾り気がなく、雄渾である。それだけに由緒に自信を感じる風格がある。 近所に住む田中了一氏の説明書が張り出されていた。それによると大伴連牟彌奈里の祖父は大伴金村大連で父は大伴狭手彦、母は松浦佐用媛との事である。 この神社は中臣の里に鎮座し、欽明朝に開かれた神道神官の修業の地の赤幡の行場を中心に、高天原になぞらえる地名があるとの事である。


拝殿上部


社殿




お祭り

 5月 4日 2日間 春季大祭(神幸祭、汐かき神事)御下り、御上り

 9月18日 1日間 例大祭

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