宇佐神宮
大分県宇佐市南宇佐2859番地 its-mo


呉橋

交通
JR日豊線宇佐駅 西4KM

祭神
應神天皇、多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命、神功皇后

由緒、歴史
 豊前国の延喜式内社 宇佐八幡について を参照して下さい。

 延喜式神名帳には八幡大菩薩宇佐宮、比売大神、大帯姫廟神社の三座として名神大社とある。
 所がこれ程の神社の宇佐八幡が記紀の応神天皇の條や神功皇后の條にすら出てこない。 僅かに日本書紀巻第一神代上第六段一書第三の条に「則ち日神の生れまする三の女神[ミハシラノメガミ]を以ては、葦原中國の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。号けて道主貴と曰す。」とあり、今の御許山に天降ったとされる比売大神の降臨譚かと思われる伝承を伝えるに過ぎない。 しかしこれは宗像三女神が沖ノ島に天降った伝承との見方もあるが、「今、海の北の道の中に在す。」の今が、昔は別の場所と云う意味にとれ、ここ宇佐を指し示していると見ていい。
 さて、宇佐とは何を意味するのかが問題。大王説を唱える人もいるが、応神天皇を知っての付会臭い。接頭詞強調の「S」をつければ、素盞嗚尊ができる。これは要注意。

楼門


 日本書紀巻は、原始、宇佐のこの地に祀られていたのは三柱の女神であったと云いたいのであろう。 御許山(大元山)の磐座は石の三柱である。この磐座信仰が原始宇佐の信仰であった。現在も大切にされている。
 基本は御許山を水源とあがめる水神ではなかろうか。菱形池には霊泉と水分神が鎮座している。

興隆
 宇佐神宮の由緒書きにも「宇佐の地方神であった八幡神が八世紀には朝廷と結びつき、国家神にまでになったと記されている様に、突如として躍り出た神である。 これは祭祀に関わった大神、辛嶋、宇佐氏の内渡来系とされる大神、辛嶋両氏のいち早い仏教との繋がりが奏功しているようだ。 加えて、九州南部の平定、大仏の造営に大きい寄与を果たした事によるものである。
 聖武天皇が大仏建立を決断しかねている時、宇佐八幡は託宣を下し、天神地祇を率い誘いて建立を成就せしめるであろうと、神々の先頭に立ったのである。 宇佐の地方神から南九州制圧で徐々に重きを持ってきたであろうが、多くの神々の先頭に立てたのは、仏教に帰依した最初の神であり、各神社も迷っていた事があったからであろう。 迷いのないものは強いのである。それこ加えて香春の銅と鋳造技術の提供と云う現実的手段を持ち合わせていたのがこの宇佐神宮であった。大神氏は赤染氏を押さえていたようである。 伊勢神宮と云えども銅を産するすべはなかった。

第二殿

祭祀氏族
 祭祀に関わった大神、辛嶋氏二氏はそれぞれ、神宮の創祀譚を持っている。 辛嶋氏は宇佐氏と、大神氏は辛嶋氏と共にとある。宇佐氏の原始磐座信仰へ、辛嶋氏のシャーマニズムが持ち込まれ、その上に大神氏の譽田別の八幡信仰が重なったのである。

辛嶋氏
 「辛嶋勝姓系図」によれば辛嶋氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で新羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入ったと云う。
 辛嶋氏は伽耶国亀茲峯に酷似の宇佐郡稲積山*1を「宇佐郡辛国宇豆高島」と称したらしく、ここに辛国神が降臨したとして、のちこの神は乙(おとめ)社*2、泉社*3、瀬社*4、 崇峻(すしゅん)天皇(588〜592)の御代蘇我馬子(そがのうまこ)の時代に 鷹居社*5 、 改新後の 天智(てんじ)天皇(662〜671)の御代に 小山田社*6を祀ったという伝承がある。 更に、天智天皇以後に小倉山に入り宇佐氏と共同して北辰社*7を設けたらしい。 北辰社は宇佐氏の 比売神 と民間道教的シャマニズムの融合を現したようである。
 女性シャーマンを出す家柄であった。この辛島氏の斎祀った神は銅鏡を好んだようであり、卑弥呼など古代の女王的な巫女を思わせる。赤留比賣神(比賣許曾神)当たりではなかろうか。

 
*1 宇佐市大字中561番地 稲積六神社 
*2 宇佐市大字下乙女1343番地 神社

*3 宇佐市大字辛島1番地 泉神社
泉神社の池「應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇」

*4 宇佐市大字樋田187番地の1 郡瀬神社

*5 宇佐市上田字高居 宇佐神宮摂社鷹居八幡神社
高嶋居神社「應神天皇、仲哀天皇、神功皇后」

*6 宇佐市大字北宇佐2389番地の1 小山田神社

*7 宇佐神宮摂社北辰神社
脇殿の北辰神社「天御中主神、高皇産靈神、神皇産靈神」


大神氏
 大神氏は大和三輪の大神氏の出と渡来系とする二説がある。 弘仁12年の官符(「弘仁官符」とする)、「承和縁起」には 欽明(きんめい)天皇の御代(540〜571) 馬城峯 に太上天皇( 応神(おうじん))の御霊が現れ、同29年(568) 大神比義(おおがのひぎ) が鷹居社(鷹居瀬社とも)*5を建てたという。
 また別の説では欽明32年のころ宇佐郡厩峯と菱形池(ひしがたのいけ)の間に鍛冶翁(かじおう)あり大神比義が祈ると三才童児となり、 「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大 菩薩(ぼさつ)」と託宣があった。
 この縁起は『扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄』等にみえる。ここにみる聖地は「あられ宮」を指している。 更に別の説では『託宣集』五巻一書に欽明朝に菱形池辺 小倉山の麓に鍛冶翁が現れ、大神比義が 応神八幡神 として祀った。また同五巻一書では和銅2年まで社殿なし、同5年大神比義と辛嶋勝乙目(おとめ) が鷹居瀬社に社殿を造ったとある。

宇佐氏
 宇佐平野でも川部 高森古墳群は、地域での傑出した首長の存在を示している。 しかも、ここでは少なくとも2世紀半以上の長い間、1か所に集中して古墳がつくられている。 この古墳群の被葬者たちは、ある特定の一族であった可能性が考えられ、かれらの宇佐地方を代表する首長としての地位は、半ば譜代化して永く継承されたと思われる。 したがってこの川部高森古墳群の被葬者の一族からやがて宇佐国造が出た可能性は十分考えられる。
 要するに宇佐氏の齋祀る比賣神のいます国に、辛嶋氏がもちこんだ外来信仰は道仏習合の信仰で、原始八幡信仰と言える。 その上にのっかって応神信仰を同化させ官社にしたのが大神比義であったということになる。このように八幡神と大神比義(おおがのひぎ) は切っても切れない関係があったが、 小倉山(おぐらやま) に八幡宮が移ると直ちに天平5年(733) 比売神の二殿ができる。 比売神の神殿の建立は宇佐氏の力によるものであり、二殿ができ宇佐氏の勢力が表に現れると、宇佐氏と辛嶋氏 は共同して、大神氏と対峙する運動を起こし、道鏡の事件(769年)を境にして、宇佐氏は官社八幡宮に登場し一時宮司に任じられた。 数百年ぶりの宇佐氏の表舞台への再登場である。

秦氏の影
 豊の國は秦氏の国でもあった。おそらく生産に従事していた民人は秦氏の配下ではなかったか。 豊はホウ、梟であり、秦氏は梟の如く、力はあっても目立たない種族であった。ひたすらお上を大切にした、日本人の原点のような渡来人であった。 有名な宇佐八幡の託宣がある。『我が国は開闢以来、君と臣との別は定まっている。臣を以て君となした事はいまだない。皇位には皇緒をたてよ。』 和気清麻呂が聞き、弓削道鏡の野望を挫いた物語がある。この託宣には秦氏の忠勤ぶりをうかがわせるものが入っているようだ。
 また、応神天皇の出自と秦氏とを結びつけて考える必要があるのかも知れない。

八幡とは諸葛孔明の四頭八尾の八陣図戦法の武勲を象徴する軍旗である。
   八幡宇佐宮御託宣集に「古イニシヘ吾れは震旦シンタン国の霊神なりしが、今は日域鎮守の大神なるぞ」 とある。震旦国とはチャイナを西方から呼ぶ名である。震旦国の霊神とは道教の最高神太一神、大元神を指す。日域とは日本である。大神とは道教の太上老君の意である。 聖武天皇の御代の託宣で、大仏建立が出来るのは宇佐八幡の神のみであるとの意である。 道士であった大神氏の発想の託宣であろうが、見事に宇佐の本来の神の御許山を乗っ取り、日本の神々のトップに立ち、文化の香り高いチャイナ風を靡かせ、かつ半島系の秦氏が出自を始皇帝に求めえる根拠をも与えようとする手の込んだ託宣である。
 地方神を宗廟とまで高めた、まさに神業としか云いようのない知恵である。

北辰社と第三殿



たたずまい
 この地は釜山の方が難波より近い。半島との交通の中継点の役割があった。また筑紫島の中央へ日田方面から一挙に繋がっている。 交通の要所であった。
 寄藻川と駅館川とにはさまれた宇佐平野を見下ろす格好の場所を占めて神宮が鎮座する。祭祀の場所として、従って宇佐平野の統治の場所としての中枢の地である。水分信仰とも重なる。
 香春、行橋、中津辺りは赤土の土壌が目立つ。金属の採取がなされたものと思われる。所が、宇佐の赤土は色が淡い。国東半島には赤土は殆ど見えない。 八幡神を鍛冶王にからめるのであれば、神鏡と同じく香春あたりから来た神であろう。

菱形池の畔の霊泉の三つの御井

菱形池と水分神社「高神、天水分神、國水分神、天汲抱持神、國汲抱持神

木匠祖神社「手置帆負命、比古狹知命」


お祭り

 3月18日 1日間 例大祭 宇佐祭
10月 9日 3日間 仲秋祭 放生会

「八幡神」と「道教」との関係

 八幡神のルーツは道教の最高神として信仰されている「玉皇大帝」である。 宇佐神宮の名を高めた大神比義は「仙翁」と呼ばれたなど、道教の教典に出てくる伝承が多い。
 託宣集には八幡神は「震旦国の神であった。」と自ら述べたと記録されている。また「八幡とは諸葛孔明の四頭八尾の八陣図戦法を元に唐代に生まれた破陳楽舞で使われる八っの旗から来ている」 と福永光司氏が論証されている。
        以上参考−『日本史を彩る道教の謎』から−

 玉皇大帝、玉皇上帝、昊天上帝などと呼ばれる。北宋の真宗が、帝室の祖先が天降るというふしぎな事件をきっかけとして、玉皇に「太上開天執符御暦含真体道玉皇大天帝」という号を奉ってから、玉皇は昊天上帝と同じ神と見なされるようになった。 この考え方は後に「昊天玉皇上帝」という号で決定的となった。
        以上参考−『道教の神々』から−
 



参考文献
*1日本の神々1「田村圓澄」(白水社)
馬の文化と船の文化 福永光司氏(人文書院)
大分放送の大分歴史事典(*2中野幡能氏の論文から) 

公式宇佐神宮
西日本神社一覧

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