穴穂部皇子

539 欽明天皇即位
欽明天皇   石姫(宣化女)
            敏達天皇
欽明天皇   堅塩姫(稲目女)
            用明天皇
            推古天皇(豊御食炊屋姫) 敏達天皇の後の皇后
欽明天皇   小姉君
            穴穂部間人皇女  用明天皇后 聖徳太子の母
            穴穂部皇子
            崇峻天皇(泊瀬部皇子)
551 仏教公伝  538の説あり  蘇我稲目の崇仏  物部尾輿ら廃仏
    民間ベースで仏教はもっと早く伝わっていた。 384 百済に仏教伝来
571 欽明没
572 敏達即位  物部守屋が引き続き大連、蘇我馬子が新たに大臣。
585、8 敏達没  
       この頃の有力な皇子達と母親。
         40才   橘豊日皇子(用明天皇)堅塩媛
         30才   穴穂部皇子 小姉君
         20代   泊瀬部皇子(崇峻)小姉君
         15才   押坂彦人皇子   敏達の前后 広姫(没) 
         12才   竹田皇子 豊御食炊屋姫
         11才   厩戸皇子 穴穂部間人皇女
          5才   尾張皇子 豊御食炊屋姫
注 小姉君の出自の推測 聖徳太子の母の穴穂部間人皇女は、蘇我・物部の戦いをさけて、丹後の国に逃れたと伝承されている。タイザ(間人)地名が残っている。単語半島の西岸である。縁があるのでここへ逃れたと思われる。小姉君は丹後の海部に出自を持つと思われる。
海部氏と物部氏は近く、このことが、小姉君の子孫は、蘇我氏により、壊滅されている理由と考えられる。
        
 穴穂部皇子が敏達后妃であった額田部皇女と関係を持つべく、敏達の殯宮に侵しようとしたが、三輪逆の制止で失敗した。穴穂部皇子の目的は、前王の后妃と関係を持つことで、自らの即位の正統性を手に入れようとしたものである。
 この騒動は敏達の寵臣三輪逆の働きによって防がれたが、逆恨みの穴穂部皇子が三輪逆を殺せとの命令を物部守屋と蘇我馬子は了承している。守屋には廃仏では味方だが、神祇豪族としては、石上対三輪の対立があった。蘇我は敏達・推古の寵臣であることと廃仏が気に食わなかったのであろう。三輪逆は守屋に殺された。
 神武天皇の没後、当芸志美々命が恐らく強引に神武皇后の伊須気余理比売を妃にむかへている。後継者への名乗りである。家を相続する古代の慣習の名残りであろう。

585,9 用明即位
587、4 用明天皇病気。仏教への帰依を群臣に諮る。物部守屋や中臣勝海は反対したが、蘇我馬子は賛成した。そこに穴穂部皇子が豊国法師を導いて参内した。守屋は怒って睨みつけた。
587、4 用明没
587,6 守屋、穴穂部皇子と淡路で決起をさそったが、皇子は馬子に殺される。同時に宅部皇子も殺された。穴穂部皇子は守屋を頼って皇位を狙ったことが命取りになった。。
587,7 馬子、泊瀬部皇子ら諸皇子・群臣らと謀り、物部守屋を滅ぼす。
587,8 崇峻即位
592,5 馬子、東漢直駒に崇峻を殺害させる。

570〜590 藤ノ木古墳造営される。

 古墳の近くに法隆寺の西院ができた。
藍銅製鞍金具などの馬具類や武器・武具類、鉄製農耕具(ミニチュア)などが出土している
(「金銅」は銅に金メッキをほどこしたもの)。馬具は金銅製が1具、鉄地金銅張りが2具の計3具出土しており、うち金銅製のものは古代東アジアの馬具の中でも最も豪華なものの一つであるといわれている。古墳の近くで、地名として陵山やミササギが残っていた。
 被葬者として、次の説がある。
前園実知雄(奈良芸術短期大学教授)や白石太一郎(奈良大学教授)は、2人の被葬者が、同時に殺された、穴穂部皇子と、宅部皇子の可能性が高いと論じている。
一方、井沢元彦や高田良信(法隆寺長老)は副葬品や埋葬の様子から「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟でこれもまた蘇我馬子が東漢駒に暗殺させた第32代崇峻天皇が合葬された」との説を主張した。
 穴穂部皇子が葬られていることは確かなようだ。聖徳太子が弔
っていたのだろう。

                                   以上
『敗者で読み解く古代史の謎』歴史読本編集部
『日本史兄弟対決』後藤寿一  柏書房
『藤ノ木古墳と六世紀』黒岩重吾、大和岩雄 大和書房

神奈備