Uga 仏教伝来


1.卑弥呼の時代

 仏獣鏡は神像のかわりに仏像を配した鏡で、日本ではわずかに6例ほどが古墳などから出土例として知られる。卑弥呼が貰ったとされる三角縁仏獣鏡は群馬県邑楽郡板倉町の赤城塚古墳や京都市上京区の垣内古墳から出土している。

神獣     仏獣 


2.雄略天皇

  『姓氏録』和泉国神別 巫部連 に以下の記述がある。
采女臣同祖。雄略天皇御体不予。因慈召上筑紫豊国奇巫。
雄略天皇不豫により、豊国の奇巫召し上げられる。
雄略天皇は、457~479の在位であり、この間に、豊国から医術の心得のある神官や僧侶が召されたのであろう。
 『豊前国風土記』伝言昔新羅神自度来、住此河原、号曰鹿原神。香春岳神  朝鮮よりの移住者によって、韓国神と共に仏教を持ってきた可能性がある。豊国奇巫とは、香春神や仏を奉斎する神官や僧であろう。  8世紀の初めの隼人との戦いで殺生の罪を悔いた八幡神が、仏教に救いを求めたことに、宇佐神宮の神仏習合の起因としているが、実際はもっと早くからのことである。


3.仏教の受容

 仏教受容に大きい影響を与えた山岳信仰は古くからあった。三内丸山遺跡の場合、山には多くの幸があり、栗、山菜、川魚、動物など、陸稲の栽培、食物は豊富。山に入るのは当たり前の生活であった。弥生時代になると、水稲栽培が始まり、水が重要な資源となり、山は神聖なものとなった。これを与えたのも山である。山は神聖なものとなった。日本の文化である山への信仰が生まれた。山へ入ることを禁じ、山を神として祀った。弥生時代になっても、山に入り、縄文的生活をする人々がいた。
 役小角に見るように山に入って修行するものは、人知を超えた能力を身に着けた。それは病気を治す能力である。おそらく卑弥呼もそのような力を身につけていたのであろう。
 また、八百万の神を祀ってきたので、蛮神の一柱が増えてもどうっていうことはない。


4.欽明天皇と蘇我稲目

 『三国史記』によれば、百済に仏教が伝わったのは384年とある。倭国と百済とは高句麗好太王の碑文に見るように、神功皇后・応神天皇の頃からであり、その交流の中で倭人は仏教について知識を持っていたし、信仰する者もいただろう。
 欽明朝で大臣であった蘇我稲目は、大連で祭祀と警察を束ねる物部尾輿に対抗しようとして、百済が南朝の梁から新しく仏教関係を入手したことを知り、百済王(聖明王)に仏教を欽明天皇に伝達するように働きかけたのではあろう。  
 当時の百済は高句麗と対立を深めており、倭国の武力援助を欲していた最中であった。541年、聖明王は南朝の梁に仏教経典や工匠、画師などの派遣を要請した。その後、これらと仏僧を欽明天皇に伝えたのが仏教公伝である。  
 伝来の年は『元興寺縁起』、『上宮聖徳法王帝説』によれば、宣化天皇三年 538年とするが、梁から百済への仏典などの供与以前とは考えにくい。しかし、『紀』の552年では百済が戦争中であり、倭への戦力要請に遅れをとってしまうことになる。欽明天皇から武具や援軍が送られたのは547年以降のことであり、仏教公伝もこのころであろう。
 
 百済が戦争中とは言え、百済王のわざわざの仏教の紹介、無碍には出来ない。
 仏像がもたらされた欽明は、自分では決めない。決められないのであろう。蘇我・物部の対立が目に見えている。蘇我稲目は西蕃の諸国皆奉じている。日本一人背かんや。と受容を主張した。
 一方、物部尾興、中臣鎌子、現在、百八十神を春夏秋冬祭拝りたまう。今蕃神を拝むのは国神の怒りをさそう。受容すべきではないとの意見であった。
   
 物部氏は仏教受容に反対ではなかった。物部氏の建立した寺院が八尾にあったという。渋川天神社境内の西南の地は白鳳時代に渋川寺のあったところである。昭和10年に発掘されている。  
 物部氏は仏教の祭祀を蘇我氏が持つことに反対だった。そうなると、祭祀氏族として一角を崩されることになる。
 新しい文化の香りがし、煌びやかな仏像、充実した経典など、渡来系の氏族も奉じている仏教に乗り遅れるわけにはいかない。
  
 以上   
 『日本仏教史』箕輪顕量 春秋社
 『飛鳥白鳳仏教史』田村圓澄 吉川弘

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