Uga 古市百舌鳥古墳群


1 岸本直文氏の一連の論文から。
先ず、箸墓古墳以降の倭国王墓を取り上げ、前代のものを元に仕様を更新し、変化を遂げるが、これらを整理すると、箸墓に始まる主系列(神聖王慕)と桜井茶臼山古墳に始まる副系列(執行王慕)に分れることを明らかにした。これによりオオヤマト古墳群から佐紀古墳群へ、また古市・百舌鳥古墳群、さらにこの末期群と継体との関係など、2系列の併存関係を示した。
参照 古墳時代の王権構造


2.古市・百舌鳥古墳群最初の大王慕は津堂城山古墳であり、被葬者像は、ホムダワケの人物像に合致する。ホムダワケは新たな王統の始祖とされるが、それをささえた集団は南山城を基盤とし、佐紀政権の権力基盤そのものであることから、ホムダワケは佐紀政権に連なる人物と考えられる。そして、神功凱旋時のカゴサカ王・オシクマ王の抵抗と敗北は、佐紀の王権を打倒した内乱とみる。津堂城山古墳の被葬者は、四世紀後半の半島と河内での活動により、日向など各地諸勢力と結びつきをもち、河内における権力基盤を形成しクーデタを敢行したのではないか。これにより河内政権が樹立される。


3. 応神元年は百済王の記事から三九〇年、没年は『古事記』崩年干支から三九四年とみてよい。活躍期は四世紀後半にあり、晩年に政権を奪取したと理解できる。文献によるホムダワケの性格と、津堂城山古墳の考古学からみた被葬者像は一致し、河内政権の始祖であるホムダワケ墓を、古市・百舌鳥最古の倭国王墓である津堂城山古墳とすることが妥当。
 日本における須恵器生産も、TG232型式には安羅の陶質土器の影響が大きく、伽耶各地への分散後、一定年限の経過後に陶工が倭に渡ったと考えられる。むろん、鍛冶技術・馬匹生産なども同様である。河内政権は好太王に敗北を喫したが、伽耶人の渡来により「文明開化」を果たす。


4. 同じ時期に複数の大王級古墳が造営されていることから、二重王権へ発想したもの。大仙陵古墳の造営は、一日最大千人の人々が働いても三十年以上かかる。
 副系列は佐紀石塚山古墳、古市・百舌鳥の津堂城山古墳(応神)、上石津ミサンザイ古墳(履中)、誉田御廟山古墳(反正)、市野山古墳(市辺押磐皇子)、岡ミサンザイ古墳(雄略)と続く。
  主系列は、佐紀の五社神古墳の次に古市・百舌鳥の仲津山古墳(仁徳)、大山陵古墳(允恭)、土師ニサンザイ古墳(木梨軽皇子)、前の山古墳(清寧)と続く。
以上が岸本説の概要である。

 


5 市辺押磐皇子は履中の皇子で『播磨国風土記』では市辺天皇とあり、即位していた可能性がある。
 木梨軽皇子は允恭天皇の第一の皇子である。允恭二十二年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されるとある。『古事記』では、「日継知らしめす」とあり、実際には即位していた可能性がある。
 また、『 播磨国風土記』にある「宇治天皇」は、菟道稚郎子のことで、腹違いの兄の仁徳天皇に皇位を譲り、自殺したと『紀』に記されている。美談になっているが、実際には即位していたから『風土記』に天皇とあるのだろう。古市の墓山古墳は全長225m、五世紀前半の前方後円墳である。


6 河内の大王の『古事記』の没年と日継の記述  古事記の天皇没年干支は比較的事実に近いように思う。   
15 応神 甲午 394
16 仁徳 丁卯 427
  宇治       天津日継
17 履中 壬申 432
18 反正 丁丑 437 
19 允恭 甲午 454   日継
  木梨       日継
20 安康
  市辺
21 雄略 己巳 489
22 清寧
23 (飯豊天皇) 市辺の皇女。「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。以後男と交わりたいとも思わぬ。」と言ったそうな。相手は清寧だったか。


 これらの大王は岸本系列の混合になっている。後世では、二重王権とは意識されていない。帝紀や旧紀はどうなっていたのだろうか。


7.倭の五王
 この時代に南宋に遣いを出した五人の大王の名が記載されている。

421 倭王讃        朝貢   仁徳427
425 倭王讃        遣使   仁徳427
430 倭王  讃か     朝貢          ┏ 倭王讃  仁徳
438 倭王珍        朝貢   宇治     ┗ 倭王珍  宇治
443 倭国王済       朝貢   允恭454   (済王済)
451 倭国王済      将軍位  允恭454
462 倭国王の世子興   将軍位  木梨軽皇子       ┏ 倭王興 木梨
477 倭国王 武か    朝貢   雄略 己巳 489 倭王済 ┫      
478 倭王武       将軍位  雄略 己巳 489      ┗ 倭王武 雄略


 国の代表は卑弥呼がそうであったように、神聖王の系列に属する王の名で行われるのが普通である。『宋書』では、倭王珍と倭王済との繋がりが書かれていない。と言って、王朝の交代があったとは断言できない。倭国王の系譜にそれほど関心があったというよりは、倭と言う王家から出た王達との認識であった様に思われる。
 雄略天皇は市辺押磐皇子を殺害と『紀』にあるように、倭王家の中でも他者を排斥して来ている。恐らく、木梨軽皇子の神聖王の地位をも奪ったのであろう。神聖王倭王武として南宋と交渉したのだろう。

以上
 参考書
『史跡で読む日本の歴史』古墳時代 岸本直文
『講座日本の考古学』古墳時代下 広瀬和雄
『大王から天皇へ』熊谷公男
『豊中歴史同好会誌:つどい285』岸本直文