木のお話

[6265] 木の話 雑感1  神奈備 2005/05/05(Thu) 20:26 [Reply]
『日本書紀』一書(第四)から
素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所においでになった。

 さて、ソシモリとは何だろうか、何処のことだろうか。諸説がある。その一つ。
 韓国の宗教文化研究院長の崔俊植梨花大学教授の説(平成神道研究会主催での真弓八坂神社宮司の講演の中で紹介)
「ソシモリというのは、地名ではない。「ソシ」は「高い柱」、「モリ」は「頂上・てっぺん」の意味、したがって、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意味だ」。

 これは、ソシモリが地名であれば、「ソシモリの所に」との表現にはならず、「ソシモリに」でいい。地名ではないとのこと。

 柱をたてる風習について。
イザナギ、イザナミの天の御柱。
古墳の上に柱を立てる。(『日本書紀』推古二十八年十月条。)
伊勢神宮の心の御柱。諏訪の御柱。墓の卒塔婆。塔。

いずれにしても、霊の依り代。それも多分柱一本に霊一個(勘定できるん?)。何故なら、神の勘定単位は柱、またさる霊能者曰く、「木一本にひとつづつ神が降りてくるのが見える。」と!!

[1192] 木の話 雑感2  神奈備 2005/05/06(Fri) 11:41 [Reply]
 殷代から戦国期にかけての大陸では、東方の呼称は「析(せき)」。破木なり。析と言う。木の開けている状態で、拍子木の意味もあったそうです。
 析と言う字は卜辞では、○の上下に川がついているイメージ。
http://www.kamnavi.jp/en/higasi.gif
と言う形だそうな。

 この形は木の幹に穴が開いている状態を示しており、日の昇る様、風の吹き抜ける様とか。
 大屋毘古神が大穴牟遅神を根の堅洲国に逃がしてやる、木の俣とはやはりこの世と黄泉の国と境であるセキだったのです。
  (自然の神々 清田圭一著 を参考にしました。)

 析の卜辞の○の中に天気図の雪のマークをいれると東の意味になる。日本は扶桑の巨木が生えている東の国と認識されており、上記の大屋毘古神と大穴牟遅神の神話の木の俣とは扶桑の木だったのでしょう。
 日本の根源は大樹の析であった。析(セキ)とは石神でもあるので、石神と木神が造り守る国がこの国だったのでしょう。
 皇室の祖先に高木神が出てくるのもむべなるかなですね。

[1195] 木の話 雑感3  神奈備 2005/05/07(Sat) 21:17 [Reply]
 西郷信綱氏の著作になかに、「木は大地の毛である。」との趣旨のことが書かれていた。発音としても木も毛も乙類だそうだ。多分家もそうなんだろう。

 木と毛から素盞嗚尊のことに思いを巡らされた方は相当な神話通と言えるでしょう。
 即ち、『日本書紀』(一書(第五))の伝えに、素盞嗚尊(須佐之男の命)が言われるの に、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう。と。そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。 用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売 の三柱の神がよく木種を播いた。

 木の誕生譚であり、それは素盞嗚尊の体毛の化身であると言うお話、だから木=毛。関東地方北部は毛の国(けのくに)と呼ばれていて、これは木の国。

 『出雲国風土記』(飯石郡)に出てくる神須佐能袁命は「この国は小さい国だが、国(としては住むにはいい)所だ。だから私の名前を木や石には著けるべきではない。」と仰せられて、大須佐田、小須佐田を定め給うた。だから須佐と言う。

 『風土記』の「私の名前を木や石につける」とはどういうことなのだろう。木につける、木の神となる、と言うことだろうか、石につける、石の神??、要は自然神から人格神への進化と途上がここにあるように見える。
 須佐能袁命には、石神であり木神であるのだが、それらは自分のルーツとしての古層の神としておき、表面に人格神をだして来た説話。

[1197] 木の話 雑感4  神奈備 2005/05/09(Mon) 08:56 [Reply]
 鳥居のお話に熱が入っていますが、横から。

 用明天皇の宮を磐余池辺双槻宮といいます。イワレノイケベノナミツキノミヤが訓。要するに磐余池の側にあって、二本の槻をシンボルにしている宮殿。槻は欅(ケヤキ)のこと。
 二本の槻では『日本書紀』多武峰の頂上にある並び槻の傍に観(高殿)をたてて、両槻宮とか天宮と称した。
 多武峰の高殿については道教寺院ではとの説がある。『風土記の考古学』辰巳和弘著から

 要は、二本の木が生えており、多分高さや太さがよく似ている二本の木は神聖な結界を現していたのだろう。あたかも、鳥居のように。
 現在は逆に、鳥居の両側に同じ様な木を植えている場合が多く、同時に植えられているので、その木の形はよく似ている。どちらかと言うと相似形が目立つ気がする。

http://kamnavi.jp/it/kinki/kasiwabara.htm
http://kamnavi.jp/it/izu/hatuma.htm

万葉歌 巻十一の二六五六
天飛ぶや 軽の社の斎槻 幾世まであらむ こもり妻ぞも

 軽の社とは、軽樹村坐神社のようで、境内に槻が多く生えていたそうです。
http://www.genbu.net/data/yamato/karukomura_title.htm

 軽と槻がつながっているのか偶然なのか、よく分かりませんが、軽のついた宮があります。
 応神天皇の軽島明宮、懿徳天皇の軽曲峡、孝元天皇の軽境宮など、この宮にも槻が生えていたのかも知れません。
 速く走れる軽野船の材料は何だったのだろうか。

[1202] 木の話 雑感5  神奈備 2005/05/10(Tue) 20:04 [Reply]
 タイ北部と雲南辺りにハニ族なる人々が住んでいるらしい。昔は焼き畑農耕だったので、集落は何年かには移動をしていたと云う。焼き尽くすと云うこと。

 彼らが移動する先は、東西に山がある、出来れば四方に山がある所で、村の中央に相応しい所辺りに高木があればそれを聖樹として村を形成していった。その村の入り口らしき所に二本の木が生えていれば、そこは村への聖なる入り口となり、他の集落の者が通る際、そこでの儀礼を行わなければ制裁を受けたと云う。


 鳥居とか鳥杆の場合には疫神防ぎが主たる目的であったが、ハニの二本の木も同じ様なルーツだったものと思われます。どうやら、ユーラシアは一つの文明として考えておかないと、東西の幅とか南船北馬として区分できないのかもしれません。脱北者ですらタイの大使館に駆け込むのですから。

[1206] Re[1205]: 「真金」 木の話 雑感6  神奈備 2005/05/12(Thu) 18:46 [Reply]
QUBOさん、こんばんは。
ちくま学芸文庫に「古代の朱」松田壽男著が入っているのでね。

「真金吹く丹生」にヒントを得て、「真木さく」について、うけうりですが、出所忘却。

 従来、真木さくは真木栄くと解されて、立派な真木の板戸をつけている家は栄えている家なのだ、と言うことのようです。
 真木の板戸とは、太い木を一枚板に作った板を以て戸としていると言う意味で、現在でも一枚板と床の間と言えば、豪華な建築の家でなければ、なかなかお目にかからないもので、それがノコギリを使用していなかった大昔ですと、木を裂いて板に作るのですから、これはまた栄えている家の板戸に相応しいもの。
 で、「真木さく」とは「真木栄く」ではなくて「真木裂く」のことだと言うことです。
 
 順序が後先になりましたが、「真木さく」が使われている謡

万葉集 五十
藤原の宮営(つく)りに役(た)てる民のよめる歌
0050 やすみしし 我が大王 高ひかる 日の皇子
   荒布(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す国を 見(め)したまはむと
   都宮(おほみや)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなべに
   天地(あめつち)も 依りてあれこそ 石走る 淡海(あふみ)の国の
   衣手の 田上(たなかみ)山の 真木さく 檜(ひ)のつまてを
   物部(もののふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 以下略

古事記 雄略天皇 天語歌
纒向(マキムク)の 日代(ヒシロ)の宮は 朝日(アサヒ)の 日照(ヒデ)る宮
 夕日(ユフヒ)の 日がける宮 竹(タケ)の根の 根垂(ネダル)宮 木(コ)
の根の 根ばふ宮 八百土(ヤホニ)よし い築(キヅ)きの宮
真木(マキ)さく 桧(ヒ)の御門(ミカド)新嘗屋(ニヒナヘヤ)に 生(オ)ひ
立(ダ)てる 百足(モモダ)る 槻(ツキ)が枝(エ)は 上(ホ)つ枝(エ)は
 天(アメ)を覆(オ)へり 以下略

真木とはどのような種類の木なのかは不明ですが、建築材料で板にできる太い木ですから、杉あたりが有力なのでしょう。

[1258] 木の話 雑感7  神奈備 2005/05/30(Mon) 20:53 [Reply]
近江多賀大社と調宮(トトノミヤ)の伝承
 国生みなどを終わった伊邪那岐神は淡路島から伊勢を経由して幽宮へ老翁の姿でやって来たのです。疲れ果ててよれよれだったといいます。里人は栗飯を柏の葉に載せて奉じました。伊邪那岐神はたいそう喜んだそうな。食べた箸をその所に突き刺したら成長して矛杉となったという。杉坂の神木としていまも立っているという。

 伊邪那岐神は杉坂から栗栖の村へ飛び遷っていた。調宮の東南100mの三本の桂の木に降臨した。その木を「トビノキ」と言う。

 多賀大社の祭礼に「富の木渡し」がある。宮司に桂の小枝を渡し、宮司はこれを都恵(ツエ)神社と国府君(コウノキ)神社の頭人に渡す神事であり、単純な祭り。しかし単純の中に古い伝承が潜んでいるのかも知れません。

 ビからミへは転訛しますので、トビノキがトミノキになったのでしょう。

木を伐る時の祭りの歌が万葉集にあります。
0391 鳥総(とぶさ)立て足柄山に船木(ふなき)伐り木に伐り去(ゆ)きつあたら船木
意味は、船材を伐りながら、木として伐ってしまった。惜しいことに船材を。
4026 鳥総立て船木(ふなき)伐るといふ能登の島山今日見れば木立繁しも幾代神(かむ)びそ



 鹿児島の女性談:木を伐るには真冬の新月の日がいいとされます。伐った木に枝をつけたまま谷底などに置いておくと枝に栄養分をやろうとして木本体は軽くなって来て、いい材料になるのだ、そうです。
 伐りたい木に斧を打ち込んでおき、明くる日まで斧が落ちなかったら伐ってもいいとのこと。
 で、伐った後にその木の頂上部分の枝を切り株に差し込むのを鳥総(とぶさ)立てというようで、鳥総(トブサ)には木の精霊の意味があるのかも知れません。

[1260] 木の話 雑感8  神奈備 2005/06/01(Wed) 07:42 [Reply]
巨樹伝説は各地にあります。
 『日本書紀景行紀』
 筑紫国三毛の歴(クヌギ)は朝日で杵島山、夕日で阿蘇山を隠す。
 『古事記仁徳記』
 免寸河の西に聳える木は朝日で淡路島、夕日で高安山に影があたった。船を作れば速く行く船で、これを枯野と言った。淡路から難波へ寒水を運んだ。船破れて焼け遺りを琴にした。よく聞こえたという。
 『古事記雄略記』
 槻が枝は 上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は 鄙を覆へり
 『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、や各地の民話にも巨樹の話がのっています。仁徳記の巨樹は等乃伎神社の木だったとされています。戦国時代に焼けてしまった巨大な楠木の株が地中に残っているそうでさす。この木は宇宙樹という概念ではなく、仁徳大王の支配のおよぶ範囲を示しているのかも知れません。

 余談ですが、河内王朝のルーツは淡路島かも?
 応神、仁徳は淡路島に向かう。履中就任時、安曇海人、淡路島の野島海人、住吉海人が逆らう。淡路が王権に介入するのは珍しいこと。
 淡路生まれの反正が王統を元に戻したのかも知れません。


 世界中に宇宙樹の伝説があります。宇宙樹と巨樹の伝説が多いのです。
 宇宙樹は天を覆うような笠と幹と地の根で構成されており、太陽も月も笠の下で動く。宇宙の軸として地中に大部分の場合もある。神宮の心の御柱がそうかも。

 普通、日本の巨樹は日の影が出来るので、遥かに低い木であり、世界樹とするには迫力不足。
 雄略記の槻は宇中樹かも。
 三輪山の巳さんの杉、蛇神信仰で、土俗的。

[1261] 木の話 雑感 9  神奈備 2005/06/02(Thu) 07:34 [Reply]

 神霊の発展形態は古氏族の敗北過程のように思えます。
 例えば、石神(シャクジ)→木神(トビ、トミ)へ→太陽神
への発展があるように見えますが、これは、時代としては、
石器時代→縄文時代→弥生時代→になるのでしょう。

 これを氏族の戦い即ち神の戦いと見ますと、次のようになります。

 御左口神の守矢氏 ← 建御名方富命    ← 武甕槌神
 巨石信仰     ← 登美毘古(長髄彦) ← 神武天皇

 奈良都彦神社のように根本神の石神はいまや神社の片隅に追いやられているケースもあります。
  完