マナー講座ならぬ「マナ」高座


[7316] 神奈備のマナー講座ならぬ「マナ」高座。1  神奈備 2006/04/19(Wed) 10:17 [Reply]
お口直しになりますやろか。一席どうぞ。

 マナと言う言葉があります。真名と書き、天真名井、真名鶴、真名子とかの使われ方が散見されます。真名子は可愛い子と解釈されています。井戸や鶴は可愛いと言うよりも、別の意味があるのかも知れません。
 大三元さんからは、「雑駁に:「マ」は「眞」、「マナ」は「眞・愛」「可愛」あたりの意味合いで不都合には思っておりません。」、「メラネシアの信仰にマナがあるんですね。どれほど古いものと考えて良くって、従って、古代日本と関連づけて良いのか判りませんけど。」と慎重な意見をいただきましたが、神棚にお祭りしておいて、下の方でゴソゴソと。
 全く意味のないいわば単なる語調で真名がついているとは思いにくい所です。
 マナと言うことばで現される概念に、「魂であり、気、超越した力を発揮するモノ」があります。魂でも遊離魂(死んでも残るモノ)ではなく、魔力を発揮するモノがマナなのです。
 赤道付近の島々では、マナギ、ママアナ、マヌなどと呼ばれています。印度ではブラフマン(梵)、末那識(マナナ)など。ブラフマンは、物質の世界を変える儀式や犠牲の力を意味するそうです。お釈迦様の母親は摩耶夫人と言います。摩術の力を持っているのでしょう。「アフリカでは、マハノ、ナム、ムングなど。古代ヘレニズム世界ではマナ、マニア、「出エジプト記」では、ヤハウエが降らしたパンのような食べ物で神与の糧を言うようです。

 沖縄ではマヤ神(真世神 マユンガナシ)、この神はアジマサの蓑笠をかぶり、雨の日に各戸を訪れる祭りがあり、素盞嗚尊の天降りのシーンを思わせます。

 さて、日本語の中に「マナ」と言う言葉があって、同じような意味だと『辞典』などに書いてくれていれば、それでいいのですが、大三元さんによりますとどうやらなさそうです。
 さまざまな学者さん(村山七郎、岩森永樹、小松和彦、大和岩雄の諸氏)は、モノはマナと同じ運動を現す言葉と言っています。マナ→モノとは言わずに、同じ運動とはうまいこと言うものです。
 修験者のマナ 護法童子と言う神霊で本尊の眷属神
 陰陽道のマナ 呪力で、具体的には式神
 市井の宗教家 人々にない能力としての動物霊
 高知の物部村 いざなぎ流では、マナは式王子と言う後たての神(守護霊)の総称だそうです。

[7317] Re[7316]: 神奈備のマナー講座ならぬ「マナ」高座。1  玄松子 2006/04/19(Wed) 11:06 [Reply]
投稿した本人は、
書いた「文章」と本人の頭の中の「情報」を合成できるので、わかりやすいと誤解しがちですが、
読者にはその「情報」が存在していないため、断片的な「文章」だけでは理解困難である、ということ。
自戒として再認識させていただきました。

ということで、
> お口直しになりますやろか。一席どうぞ。

ネット辞書(http://dictionary.www.infoseek.co.jp/)では、

マナ 1 [mana]
超自然的な力・霊力・呪力などの観念。メラネシア起源の語で、宗教の原初的機能を説明する語として用いられた。

普通の辞書には載ってないのでしょうか。
「メラネシア起源」とは。

[7318] Re[7317][7316]: 神奈備のマナー講座ならぬ「マナ」高座。1  神奈備 2006/04/19(Wed) 13:14 [Reply]
> > マナ 1 [mana]
> 超自然的な力・霊力・呪力などの観念。メラネシア起源の語で、宗教の原初的機能を説明する語として用いられた。
> > 普通の辞書には載ってないのでしょうか。

 言葉足らずでした。古語に見あたらないと言う意味です。
 『時代別国語大辞典上代編』と『沖縄古語辞典』にないとのことです。

> 「メラネシア起源」とは。
 起源がメラネシアかどうかは不明ですが、マナと言う言葉の意味は、日本の使いかた(モノ)に近いと言う意味です。ラピタ人のお話もありましたが、どこが起源かは不明なのでしょう。

[7319] マナー講座ならぬ「マナ」高座。2  神奈備 2006/04/19(Wed) 20:24 [Reply]
 モノで思うのは大物主神です。この国のマナの大王的存在です。この神は三輪山のマナ(魔力)を現す神霊のことで、いわば自然のマナの象徴です。
 東征してきた神武天皇は大物主が丹塗矢に化けて勢夜陀多良比売の富登をつくと言うなれそめで生まれた比売多多良伊須気余理比売を娶りました。丹塗矢に化けると言うのは蛇神であったと言うことでしょう。
 伊須気余理比売との間の子である神沼河耳命が第二代天皇になりました。このようにして、王権が三輪山のマナを吸い上げていったのです。

 崇神天皇の時代、大物主神は祭り方が悪いと祟りをなしました。崇神天皇の統治が危うくなるほどでした。大物主が夢に顕れて、「我が子である意富多多泥古を以て自分を祭れば、国も安平(やすらか)になるだろう。」との託宣をしました。
 大物主の神子である意富多多泥古でさえ、全国的に探さねば見つからなかったようです。これはさしもの大物主のマナ(パワー)も弱りつつある標しなのでしょう。

  さらに崇神天皇の時代に、倭迹迹日百襲姫命は大物主の妻となりました。神は夜しか来ないので、「お顔を見ることができません。朝になるまで留まって下さ い。」と頼まれたので、「櫛函の中に入っていよう。」と答えられたのです。朝、櫛函を開けると、うるわしい小蛇が入っていたのです。「ア!」と驚く百襲 姫、大神は恥じて人の形となり、「お前は私に恥をかかせた。今度はお前に恥をかかせよう。」と言ったのです。百襲姫は座ったとたんに富登を箸でついてしま い、亡くなってしまいました。
 もはや、この段階では、大物主は正体を見破られた小物の神になっています。
 
 それでも、崇神天皇の後継者を決める夢占いの舞台はやはり御諸山であり、大物主神のマナが働いています。

  神功皇后が新羅出兵の兵を募るのですが、集まりません。大三輪の神社を建てて、刀と矛を奉られたのです。すると自然に軍卒が集まって来たのです。要は大物 主は侵略戦争をいやがっていたのでしょう。自然の力のマナを代表する神としては、戦いを好まないのは当たり前のことです。神宮皇后によって大物主は祭られ ることでその力を封じられたと言えます。福岡県朝倉郡三輪町の於保奈牟智神社の創建譚となっています。

[7320] 「まな」  福島雅彦 2006/04/19(Wed) 23:57 [Reply]
ご無沙汰しています。時々寄らせて頂いています。

※「マナ糸」=テグス(天蚕糸)は、釣り糸と承知しています。
∴「天の真名井」=「天(あま・あめ)…」⇒東の山(水縄連山(耳納山地))・「真名井」⇒魚が居る出水(泉)。
∴うきは市(浮羽町)の清水寺の名水百選の湧き水には魚が棲んでいます。

[7321] Re[7320]: 「まな」  nick [Url] 2006/04/20(Thu) 01:21 [Reply]
真名井の滝と云えば高千穂ですが
当地には「真名井田」もしくは「真板田」と云われる地域が
あります。

霧島市国分・重久に
熊襲の地主神・祖神を祭祀したのでは
と推察される「止上神社」があります。
その近くに
「隼人の首塚」があります。

続 日本記」巻八-15

養老5年秋7月巳酉(722)

征隼人副将軍従五位下笠朝臣御室、
従五位下臣勢朝臣真人ら帰る。
斬りし首、獲し虜合せて千四百余人

捕虜となってこの地で斬首された隼人族
の霊を慰たと云われる塚です。

ここを小さな小川が流れていますが
「手篭川」(てごがわ)と呼ばれて
この川が流血で紅に染まったと伝承されて
います。

周辺の水田を
真板田(まないただ)
と呼び、
毎年、1月14日を狩猟の日として、
この日獲れた猪の肉を
33本の串に差して
隼人の霊を鎮める祭りを
したと伝承される。

「猪切藪(ししきりやぶ)」と云います。

昔は、
「にえまつり」とか「ほぜさあ〜」
ともいい、
正月14日の「餅の日」には、
「ほぞえ祭」があったが、
現在は「ほぜさ〜(豊穣祭)」で秋の豊作感謝祭のみです。

[7325] Re[7320]: 「まな」  神奈備 2006/04/20(Thu) 10:10 [Reply]
福島さん、こちらこそご無沙汰しています。

おっしゃる通り、真魚はマナとよまれ、真魚鰹などと言う言葉があります。
天の真名井は天照大神と素盞嗚尊との誓約の場所で、お互い「吹き棄つる気吹の狭霧」から五男三女神が成った神聖なと言うよりパワーのある井戸のように思えます。そういう意味では普通魚がいないのが泉や井戸ですが、あえて魚が居るということで、魔力を持った井戸と言えるのかも知れませんね。

[7326] Re[7321][7320]: 「まな」  神奈備 2006/04/20(Thu) 10:10 [Reply]
nickさん、こんにちは。

> 真板田(まないただ)
> 「にえまつり」とか

 思い出しましたが、料理をする「まな板」の銅製のものが正倉院(あいまいな記憶です)にあるのですが、刃物の跡がついていなのです。通常の使われ方ではなく、どうやら、生贄をその板の上に置いて神に捧げたそうです。
 神事に使用されるものですので、マナ板と呼ばれたのかもしれません。

[7327] マナー講座ならぬ「マナ」高座 3  神奈備 2006/04/20(Thu) 19:30 [Reply]
 応神天皇の時代、武内宿禰が讒言を受け、甘美内宿禰と探湯(くがたち)をしました。探湯は磯城川のほとりで行われました。これは三輪山の神に保証を期待してのことです。

 仁徳天皇の時代に、茨田の堤を造ろうとしましたが、壊れて造りにくい場所が二カ所ありました。天皇の夢に、二人を河伯(河の神)に奉れば、うまくいくとのご託宣があった。一人は泣きながらも人身御供となったが、もう一人は、ヒサゴを二箇河の中に投げ入れ、「河神が祟るので私が生贄にされることになった。本当に自分を得たいのならこのヒサゴを沈めてみよ。」と神意を問うた。ヒサゴは沈まなかった。
 公共事業と云う権力の実力の前では神意も疑われ、河神のマナが力を失いつつあります。

 雄略天皇が少子部スガルに「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力が人に勝れている。自ら行って捕らえてこい。」と言われたのです。スガルは「ためしにやってみましょう。」とお答えしました。神を試しています。スガルは三輪山に登って大きな蛇を捕らえてきて天皇にお見せしたのです。天皇は斎戒されていなかったので、大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝かせました。天皇は恐れ入って、殿中にお隠れになったのです。
 スガルがためしにやってみて、三輪山の大神は捕らえられてしまいました。なんともはや、神威の凋落はなはだしい世の中になています。雄略天皇の御稜威と三輪山の神のマナは同等な力を持っているように見えます。これは葛城の一言主大神と雄略天皇との関連でも対等のように見えます。
 国土開拓が進み、自然が損なわれていったのです。また何かを達成する力として、魔力と権力とが拮抗して来ていると見ることもできます。

 三輪山の神から離れたお話。『常陸国風土記』行方郡、継体天皇の頃の話。箭括麻多智が葦原を開墾して田を作った。夜刀の神が群れをなしてさまざまな妨害をして、田を作らさなかった。麻多智は激怒、鎧で身を固めて打ち殺し、山に追い払った。山と田との境に標をたて、ここから上は神の土地、ここから下は断じて人の田とする。私が神の祭祀者となって永く敬い祭ろう。恨んではならないとして社を作ったのです。

[7339] マナー講座ならぬ「マナ」高座 4  神奈備 2006/04/21(Fri) 13:03 [Reply]
 敏達天皇十年、蝦夷が辺境を犯し荒らしました。首領の綾粕を召して責め ました。綾粕らは恐れかしこみ、泊瀬川の川中に入り水をすすって、三輪山に向かって次のように誓いました。「私ども蝦夷は、今から後は清き心を以て、帝に お仕えいたします。もし背いたら私どもの種族は絶滅されるでしょう。」これもまた三輪山の神が誓いの保証をしています。蝦夷には大物主のマナは恐ろしい存 在だったのです。

 推古天皇二十六年。天皇の命令で、安芸の国で河辺臣が船を造ろうした。良い木があるので伐ろうとしたが、ある人が「雷 神の宿る木です。伐ってはなりません。」と止めたのです。河辺臣は「雷神と言っても、どうして天皇の命に抗することが出来ようか」と言って伐ってしまいま した。すると大雨になり落雷がありました。河辺臣は「雷神よ、帝の民を犯してはならぬ。かえって自分の身を損なうぞ。」と天を仰ぎ、暫く待った。十あまり 雷鳴が響いて、雷神は小さい魚になって落ちてきて木の股に挟まれました。河辺臣はこれを焼いて食べてしまいました。
 ここに来て、雷神のマナは天皇の御稜威にとうてい敵わない存在となりました。

  ふたたび『常陸国風土記』の夜刀の神のお話。孝徳天皇の時代、壬生連麿が、初めてその村を占拠して、池の堤を築かせた。夜刀の神が池のほとりの椎の木に群 がって退去しない。麿は大声で「大君の教化に従おうとしないのは、いかなる神か」と言い、使役の農民に「目に見える一切のものを打ち殺せ」と命じた。その 言葉が終わるやいなや、神蛇は遠ざかり隠れてしまった。
 もはや、蛇神のマナは言葉だけで引っ込んでしまう有様。

 持統天皇六 年。壬申の乱の功臣である大三輪高市麻呂は、持統天皇の農繁期の伊勢行幸を諫めました。やめようとしないので、高市麻呂は、職を賭けて(其の冠位を脱きて 朝に捧げ)、重ねて諫めましたが、聞き入れられませんでした。人民の民生を優先して考える三輪山の神の精神を継承した行動でした。大物主神は大己貴神の幸 魂、奇魂と云う霊力(タマでありマナである)の働く神と言えます。高市麻呂は左遷。

 『万葉集』巻九。大神大夫の長門守に任じられての時、三輪川の辺に集まり、宴をした時の歌二首(左遷される高市麻呂の送別会)
 一七七〇 三諸の神の 帯ばせる泊瀬川 水脈(ミマシ)し絶えずは われ忘れめや
   訳  泊瀬川の水の流れが絶えない限り、あなたをどうして忘れようか。
 一七七一 後(オクレ)れ居て われはや恋ひむ 春霞たなびく山を 君が越えいなば
   訳  後に残って私は恋したうだろう。春霞のたなびく山を越えていってまぎれてしまえば

[7340] マナー講座ならぬ「マナ」高座 5  神奈備 2006/04/23(Sun) 08:01 [Reply]
 落ちぶれ続けたマナは怨霊として復活してきます。貞観五年(863)、 神泉苑で「事に坐して誅され、レイ(鬼、モノノケ)となった冤魂」を慰撫し、その祟りのせいで頻発する疫病を鎮めるためでした。いわゆる御霊信仰です。元 々異常な死に方をした人間の霊魂に関する従来からの信仰に基づいたものです。
 まず、光仁天皇の皇后の井上皇后の祟りがあり、墓を改装したりしてなだめました。
 桓武天皇の皇太子の早良親王も謀略によって憤死しています。以後、桓武天皇の周辺で、多くの人が死んでいきました。
  すざましい威力(マナ)をふるったのは菅原道真公です。雷神としての祟りは約100年間続きました。失脚を謀った殿上人が次々に死ぬだけではなく、旱魃、 水害、飢饉、疫病などは頻発しました。かっての三輪の大物主の再現のようです。それでも民衆は菅公を支持していたようです。結局、天満宮を建てて祭り上 げ、藤原氏の守り神にもされてしまいました。


 『日本語に探る古代信仰』土橋寛著から 「マナ」と言う言葉が知られるようになっ たのは、英国のR.H.コドリントンの『メラネシア人』1891年によります。神秘的、呪力な力能を意味する霊魂(生命力、霊力、呪力)の存在が信じられ ていることを明らかにしたのです。遊離魂とは違うものです。この「マナ」の特徴はある物から他の物に転移させることができるようです。
 日本の古 代の信仰から見ますと、自然物、各種の呪的、宗教儀礼的に用いられる和幣(ニキテ)、注連縄、勾玉、剣、鏡などの呪物崇拝は現在でも年中行事に残っていま す。呪物崇拝の根底にある「呪力」(マナ)の信仰は、言葉にも認められ、これを「言霊信仰」と言います。以上。

 不吉な言葉を避けるのは結婚式のスピーチでは注意しなくてはならないことがらのイロハです。身近な所では葦をヨシと言います。

 旅の僧侶などが托鉢などで食っていけるのは、それを行わないと、村に呪いをかけられるのがいやで、施したのです。

  天の真名井は天照大神と素盞嗚尊との誓約の場所で、お互い「吹き棄つる気吹の狭霧」から五男三女神が成った神聖なと言うよりパワーのあるいわばマナの気が 漂う井戸の側でこその出来事なのでしょう。誓約には保証するモノ(マナ)があってこそです。違えれば罰を下すものです。これが天真名井にいる神と言えま す。
 普通は魚がいないのが涌きだしている泉や井戸ですが、あえて魚が居るということで、魔力を持った井戸を真名井と言ったのかも知れません。
 

 真名箸 海士潜女神社の祭礼に登場する箸。、包丁、真名箸により出世魚「ボラ」を三枚におろし、小さく刻み、ナマスにし列席者氏子に配す。魚の一方を持ち返った氏子は神棚に供え、村内平和、家内安全、豊漁を祈願する。

 真名鶴 天然記念物の鶴。一茎に千穂の茂る稲をくわえて鳴いていたので大年神として祭った。(志摩の佐美長神社)やはり穀霊はただものではないということ。

 真名鹿 この鹿の皮を剥いで鞴を作り鏡を鋳造した。日前国懸神宮に祀られている。

 真名スズカ姫 タクハタチヂヒメのこと(ホツマツタエ)

 まな板 生贄を神に捧げるための板

 まなこ 邪視とは強力なマナが見ることで相手に通じ作用すること。死者の顔に布をかぶせるのは、死者の邪視を防ぐため。団十郎の睨み。

 奈良時代には天真名井と言うことばが存在していました。真名と言う言葉は古い日本語にあったと考えていいと思われます。古語としての「マナ」、掘り下げるべき言葉でしょう。
「マナ」は「タマ」や「モノ」として使用されることが多かったようです。

 『古事記』の雄略記に載っている歌謡103に[春鳥]鴒(セキレイ)を「まなばしら」と訓んでいます。マナバシラとは日本の神の力を如実に現す凄い言葉だと思います。何故、セキレイなのでしょうか。

 アイヌ神話には、セキレイこそ泥海から国土を創造した立て役者なのです。また、アイヌはセキレイを恋望の鳥(オチウ・チリ)と呼びます。尾を上下して、夫婦の交わる方法を人間に教えたということです。人間が地上に繁殖したのはセキレイのマナのおかげなのです。(終わり)

神奈備にようこそ