Uga 『日本書紀』が語る三輪山、大物主、大己貴。

一)日本書紀神代上第八段一書(六)
1.スクナヒコナが居なくなってしまいましたが、まだ国は未完成のところがあります。大己貴命は一人でよく国を回り、出雲の国に辿り着き、云いました。
「葦原中国=日本)は元々は荒れ果てていた。岩から草木まで何もかも、酷いものだった。しかし、わたしが砕いて、従わないものは無くなった。
 さらに言葉をつづけました。「今、この国を治めるのは、ただ私だけ。わたしと共に国を天下を治めるものがどこにいるか??!」
 すると、神々しい光が浮かび、海を照らして、たちまちやって来ました。その光が言いました。「もしも、わたしが居なければ、お前はこの国を平定出来なかっただろう。わたしが居てこそ、この大きな結果を出すことが出来たのだ」
 このとき大己貴命は言いました。「では、お前は誰だ??」
光は答えました。「わたしはお前の幸魂(サキミタマ)奇魂(クシミタマ)だ」
大己貴命は言いました。「なるほど。そうか。お前は、わたしの幸魂奇魂だ。これから何処に住みたいと思うか??」
 すると答えました。「わたしは日本国の三諸山(ミモロヤマ)に住もうと思う」

2.それで宮殿を作り、祀りました。それが大三輪(オオミワ)の神です。この神の子は甘茂君(カモノキミ)、大三輪君(オオミワノキミ)、また姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)です。

3.別伝によると、事代主神は八尋熊鰐となって、三嶋の溝kui姫(ミゾクイヒメ)、別名を玉櫛姫(タマクシヒメ)という姫のところに通って出来た子供が姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)です。この姫は神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイワレヒコホホデミノスメラミコト)の后となりました。

4.(今までのお話の前……)大己貴命が国を平定した頃の話です。出雲の五十狹々小汀(イササノオハマ)に辿り着き、食事をしようとしました。
 その時、海の上から人の声が聞こえてきました。
 大己貴命は驚いてその声の主を探したのですが、どこにも船も人も見えませんでした。
しばらくして、一人の小さな男が、ガガイモ(植物名)の実の皮で出来た船に乗り、ミソサザイ(鳥の名前)の羽で出来た服を着て、波のまにまに浮かんでやって来ました。
 大己貴命はすぐにその神を掌に乗せて玩具にしました。
 すると小さな男は怒って、大己貴命の頬にかみつきました。その形に驚いて、使者を天神に報告すると、これを聞いた高皇産霊尊が言いました。「わたしが生んだ子は1500座ある。
 その中の一人の子は最悪で、教育しても従わなかった。そのうちに指の間からこぼれ落ちてしまった。それが彼だろう。大事にして、育ててなさい」これが少彦名命です。

5.崇神天皇即位8年 冬12月20日。天皇は大田々根子(オオタタネコ)に大神(オオミワノカミ)を祀らせました。この日、活日(イクヒ)が自ら神酒(ミワ)を捧げて、天皇に献上しました。それで歌を歌いました。 この神酒(ミキ)は我が神酒ならず 倭(ヤマト)成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久

コメント
 大物主の出現 出雲の「海を照らして」やって来た神は三輪山に住んでいる。則ち大物主である。大物主は出雲から来たことになっているが、A 大和から出雲へ行ったとの説を梅原猛氏が提出している。確かに三輪山の東側に古代祭祀跡ダンノダイラ、南側に出雲地名、がある。B 5に見るように大物主は倭成すとうたわれているように、地域開拓の神でもあり、大己貴とよく似た神格で、後世に習合したとも考えられる。

海を照らす神 大物主の祭祀は6世紀頃からは主に三輪氏がおこなったが、初期のヤマト王権の祀る神であり、倭国造が中心となっていたと推測される。国造の祖先は水先案内の椎根津彦であることが興味深い。

三輪山の周辺に初期ヤマト王権の宮が営まれたのはなぜか。三輪山の山頂から1/3くらいの高さの所までは、角閃班礪岩の層があり、大量に鉄分が含まれている。その石が磐座となって、磁力がある。鉄分が砂鉄となって狭川に流れており、現在でも磁石を垂らせば砂鉄が付いてくる。ただし、中国山中と比べると極めて少ないので、経済性は低く早くに衰退したようだが、金谷と言う地名や大物主の娘の名にタタラがついていたり、北側には兵主神社が鎮座している。


二)日本書紀巻三神武天皇元年
1・庚申秋八月の16日に天皇は正妃を立てようと思いました。それで広く皇后に相応しい華胄(ヨキヤカラ=貴族の子孫=人材)を求めました。そのときある人物が言いました。
 「事代主神(コトシロヌシノカミ)が三嶋溝橛耳神(ミシマノミゾクヒミミノカミ)の娘の玉櫛媛(タマクシヒメ)を娶って生んだ子が媛蹈?五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)といいます。この姫は国色(カオ)が優れています」
 天皇は喜びました。
 九月二四日に媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)を皇后に迎え入れました。
『古事記』 美和(ミワ)の大物主神が丹塗矢と化して摂津の三島湟咋の女、名は勢夜陀多良比売に生ませた比売多多良伊須を大后とした。

コメント 丹塗矢神話で有名なのは、『山城国風土記逸文』の「可茂の社」に記載の物語であり、鴨氏に伝わる伝承であると思われる。摂津国嶋上郡には式内社の溝咋神社や三嶋鴨神が鎮座しており、鴨氏と縁がある。一方、大物主は摂津から遠く離れた三輪の地の神で、摂津に縁が見出せません。『日本書紀』の伝承の方が自然な姿に見えます。
 

三)日本書紀』巻五崇神天皇六年
 神が言いました。 「天皇よ。 どうして国が治まらないことを憂うのか? もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう」
 崇神天皇は問いました。 「そのようなことを教えてくれるのは、どこの神ですか?」
神は答えました。「私は倭国の域内にいる神、大物主神という。国が治まらないのは、わたしの意思だ!! もし、我が子、大田々根子(オオタタネコ)に私を祀らせれば、たちどころに国は平穏になる。また海外(ワタノホカ)の国があり、自然と従うだろう。」

コメント 崇神天皇は大物主の子孫ではない事がわかる。子孫であれば太田田根子を探す必要はない。これからも神武天皇の皇后は大物主の娘でないことがわかる。

四)『日本書紀』巻九神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年
諸国に命令して、船舶を集めて兵甲(ツワモノ=武器・兵士)を錬成した。そのときに軍卒が集まりにくかった。
 皇后は言いました。 「間違いなく神の意志だ」
 すぐに大三輪社を立てて、刀矛(タチホコ)を奉りました。軍衆は自然と集まりました。

コメント 筑前國夜?郡(福岡県朝倉郡筑前町(旧三輪町))の式内社 於保奈牟智神社が大三輪の神の後裔社とされている。ヤマト王権が勧請した神社である。
他の三輪山から勧請された主な三輪系神社は以下の通り。

伊勢国飯高郡 大神神社  尾張国中島郡 大神神社 遠江国浜名郡 弥和山神社
遠江国浜名郡 大神神社  駿河国益頭郡 神 神社 美濃国多芸郡 大神神社
信濃国水内郡 美和神社  上野国山田郡 美和神社 下野国都賀郡 大神神社
下野郡那須郡 三和神社  若狭国遠敷郡 弥和神社 越前国鶴賀郡 大神下前神社
加賀国加賀郡 三輪神社  越後国頚城軍 大神社  因幡国巨濃郡 大神社
備前国邑久郡 美和神社  備前国上道郡 大神神社 備前国下道郡 神神社
播磨国宍粟郡 伊和坐大名持御魂神社
 多くの三輪神を各地に勧請した理由。
1 最大の権力者である蘇我氏が仏教を推進しようとしていることに対する方策として三輪氏が大神を勧請していった。
2 継体朝は過去の王室との繋がりが希薄であり、神祇政策として中央の三輪神を各地に勧請することによって地方支配の強化を図った。
3 開拓神・農業神・防疫神として三輪神(大己貴神)を勧請し、地域開発の促進を図った。4 王権擁護の神・軍神としても各地に鎮祭していった。

 

五)『日本書紀』巻六垂仁天皇三年
 天日槍が来日し播磨の宍粟邑にいた際、天皇は三輪君の祖の大友主と倭直の祖長尾市を派遣し尋問している。
『日本書紀』巻六垂仁天皇九十年
 天皇は田道間守(天日槍の四世孫)に命じて非時香菓を探し求めた。

コメント 結果として天日槍は但馬国の出石に落ち着くことになる。大和の兵主神社はまさに三輪君の祀る大神神社と倭直が祀る大和神社の間に置かれている。なおかつ、箸墓古墳や崇神陵古墳の方向が兵主神社を向いていることは、邪馬台国問題にからむ興味あるところである。
 天日槍が来朝したのを垂仁天皇の時としているが、四世孫の田道間守とも同時代としている。『紀』はこの辺は無到着のように見える。天日槍の来日は孝霊天皇の頃としたほうが世代感覚ではあう。

六)日本書紀神代下第九段一書(二)
 この時に帰順する首渠は大物主と事代主である。すなわち八十萬の神を天高市に集めて率いて天に昇りて、天神にその誠款の至りを披瀝した。

『日本書紀』巻十四雄略天皇五年
 天皇は少子部連蠃(チイサコベノムラジスガル)に詔して言いました。「朕(ワレ)は三諸丘(ミモロノオカ)の神の形を見ようと思う。
お前は膂力(チカラ=筋肉の力)は人ではないほどだ。自ら行って捉えて来い」
蠃は答えて言いました。「試しに行って捉えてみましょう」
 すぐに三諸岳に登って大蛇(オロチ)を捉えて天皇に見せました。天皇は齋戒(モノイミ=神を祀る前に、血・死・女性に触れないで穢れのない清らかな状態になること)をしませんでした。すると大蛇は雷のように光って目は輝きました。天皇は畏み(=神を恐れること)、目を覆い、大蛇を見ずに、殿中(オオトノ)に入って隠れました。その大蛇は丘に放たれ、改名して雷という名を与えました。

コメント 格上と思われる大物主が事代主の本拠である天高市(大和国高市郡の式内大社 高市御縣坐鴨事代主神社)に来て、共に天上界へ行くのは疑問、おそらくは事代主一柱の話に後世に大物主が書き込まれたのかも知れない。
 また、この話は応神天皇が王朝を開くにあたって、三輪氏や鴨氏が服属さされた事実を神話化したものと考えることができる。
 雄略天皇は画期の天皇であり、古い権威に挑戦する気概があったものと思われる。大物主を捕まえさせるような伝承が残ったのであろう。


七)『日本書紀』巻二十敏達天皇十年
 蝦夷が数千、辺境で反逆しました。それで魁帥綾糟(ヒトゴノカミアヤカス)たちを呼び寄せて詔(ミコトノリ)して言いました。魁帥(ヒトゴノカミ)は大毛人(オオエミシ)です。
 「推察するに、お前…蝦夷は大足彦天皇(景行天皇)の時代に、殺すべきものは殺し、許すべきものは許した。今、朕は、その前例に従って、「元々の性質から悪のものを誅殺しよう。」
綾糟たちは、畏まり、恐れ、泊瀬の中流に下りて、三諸岳(三輪山)に向かって、水をすすって誓って言いました。 「わたしめら蝦夷! 今より以後、子々孫々、清らかで明るい心を持ち、天闕(ミカド=天皇)に仕えましょう。わたしめらがもしも誓いを違えば、天地のもろもろの神と天皇の霊(ミタマ)が、わたしめの種を絶滅させるでしょう」。

コメント 三輪山に天皇霊があると言う。一体どの天皇の霊か。
 『紀』にあるように景行天皇の霊は蝦夷が最も恐れる天皇霊かも知れない。加えて三輪山に最も近い天皇陵が景行陵(渋谷向山古墳)である。有力候補であるが、この天皇を三輪山に葬った記録はない。歴代天皇で三輪山に葬った記録はない。
 上田正昭氏は「欽明敏達の頃の三輪山の信仰が大王家の信仰と重なっていた。」と書いている。
 田中卓氏は、天皇霊は個々の天皇別に理解されているが、全体としては三輪山に鎮座していると思われていたのではないかと言う。天皇霊とは八十島祭に見るように、天皇の衣に付着させて女官が運ぶようなものであり、実に手軽なものである。
 塚口義信氏は、『記』では、神武天皇の皇后を大物主の娘としており、この場合は大物主は子孫の霊を動かし得るとの説明であるが、氏は神武皇后を事代主の皇子と考えている。
 谷川健一氏は、三輪山中に、ムクロガ谷と称する風葬の地のあることから、古代には三輪山は清浄な神聖な山ではなく、葬送の地であり、当然、天皇の遺体も風葬されたものと推測している。
 ムクロガ谷については、寛文六年(1666)の『奈良寺社奉行の裁許定書』には「和州三輪山本社山に定置覚」として「北ハ三光谷限麓より峠迄 南むくろが谷限麓より峠迄 西より東之峠迄 町積二十町五十六間。横之広サ、南より北迄四町余、右ハ三輪明神本社山と相定置候間、自今以後不寄誰、不可有山人者也」とあでている。

三輪山のムクロガ谷


八)邪馬台国の時代に漢字をこなす人々がいた。書記である。王朝の宮・妃・墓・系図などが記録されていた。王朝交替や戦争・火災などで失われた際、分家衆が集まって記録を再生してきた。これが帝紀旧辞、天皇記国記として伝えられた。そこに王朝の交替(崇神、応神、継体、天武)の時代に統治の正当性を示すとめに手を加えてきたのをまとめたのが日本紀(日本書紀と系図一巻)である。

                            以上

参考文献 『三輪山』前田晴人 学生社  『三輪山の神々』上田正昭他 学生社
『鴨集団と四世紀末の争乱』塚口義信 豊中歴史同好会講演録
『神々の流竄』梅原猛 新潮社

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