Uganet 倭の五王



1. 干支と西暦表 四世紀〜五世紀

             
     子  丑  寅  卯  辰  巳  午  未  申  酉  戌  亥
  甲  364    414    404    394    384    374  
  乙    365    415    405    395    385    375
  丙  376    366    416    406    396    386  
  丁    377    367    417    407    397    387
  戊  388    378    368    418    408    398  
  己    389    379    369    419    409    399
  庚  400    390    380    370    420    410  
  辛    401    391    381    371    421    411
  壬  412    402    392    382    372    422  
  癸    413    403    393    383    373    423

2.各天皇の没年(退位)の干支と西暦換算
古事記の没年    日本書記の没年 没年とは退位の年も含む。
15 応神 甲午 394      庚午 310
16 仁徳 丁卯 427      己亥 399
17 履中 壬申 432      乙巳 405
18 反正 丁丑 437      庚戌 410
19 允恭 甲午 454      癸巳 453 一年の差
20 安康 丙申 456
21 雄略 己巳 489      己未 479
22 清寧 甲子 484
23 顕宗 丁卯 487


3.各大王(以下、天皇と言う)の在位年の計算

 外国資料からの絶対年代を実年代と見なす。『百済本記』、『三国史記』は現存せず、『日本書紀』に引用された逸文しかない。これらを頼りに実年代を探る。なお、『宋書』は南朝の宋について書かれた歴史書で、ほぼ同時代史である。記紀に引用はない。

 帝紀には干支ないし没年齢が記されていたのであろう。先帝の没年の次の年を次ぎ帝の即位元年とする場合(越年称元法と言う)と、次帝の元年の前年を前帝の崩御年とする方法があり、ケースバイケースのように思われます。本来は先帝の没年と次帝の元年は同じ年です。

 『記紀』それぞれに年代に粉飾が見られるのは、異常な長命の天皇が散見されることから自明である。『記紀』の干支は信用できないが、編年体の年とその内容はある程度信用できるものとして計算します。
十五代応神天皇
応神三年紀 百済王に阿花王が即位。『百済本紀』などによれば、392年である。
応神八年紀 百済の王子である直支王が来日。397年である。
応神十六年 百済の阿花王が死ぬ。405年。
三年が392年なら元年は390年。八年が397年なら元年は390年となる。しかし十六年405年なら元年は395年となり、五年の差がでてしまう。後述しますが、395年は応神没年以降になります。
 ここでは、取りあえず、
応神元年を390年としておきます。
『紀』の応神元年は270年であり、ここで計算した応神元年390年だから、120年の水増しがある。

二十一代雄略天皇
 雄略五年 女が筑紫の加羅島で出産、此の兒を嶋君と言う。これが百済の武寧王である。墓誌から461年のこととわかる。
 雄略五年=461 
雄略元年は457年となります。

二十代安康天皇
 安康天皇は安康三年に眉輪王に暗殺されている。この在位三年については水増しや短縮の小細工はしていないと見ている。安康三年は456年。
 安康三年=456 
安康元年は454年となります。

十九代允恭天皇
安康元年は454年。前の允恭天皇の没年『紀』と同じく453年となる。『記』は454年としているのは、越年称元法での計算ではないからだろう。允恭の在位年は『記』は18年、『紀』は43年としており、大きい差がある。
允恭紀二三年 木梨軽皇子を立てて太子としたとの記事がある。続いて、木梨軽皇子が同母妹が通じているとのことで、軽大皇女を伊予に移した。
允恭死後、太子である木梨軽皇子が皇位を嗣いで当たり前であるが、木梨軽皇子が20年も前のことで淫乱であるとのことで排除されて安康天皇が位を嗣いでいる。20年間日嗣皇子として過ごしてき、突然に問題とならなかったのが不思議である。
 実際は允恭天皇は二三年に崩御し、軽皇子が皇位を継承する手筈になっていたのを、安康天皇が横やりを入れて皇位を簒奪したと言った所が本当だったのだろう。立太子の記事は、退位か崩御と見るのが自然。允恭二十三年。
 従って、
允恭天皇の即位年は453ー23+1=431年と見ます。

十八代反正天皇
 『紀』は反正天皇の最終年と允恭元年の間に空白年1年を置いています。允恭天皇が即位を断ったとのエピソードが書かれており。即位に何らかの争いがあったのかも知れません。先の天皇の没年は429年となります。
 また、允恭五年(435)に反正天皇の殯(もがり)と埋葬が行われています。普通、殯は亡くなった年に行うものですから、奇妙な記事と言えます。『紀』では、反正天皇は五年で崩御したことになっており、事績は書かれていません。允恭五年に崩御であれば、允恭と反正は同時に即位したことになります。二朝並列と解釈できます。反正の五年は小細工なしと見ておきます。
 
反正天皇の即位年は允恭天皇と同じ431年とします。

十七代履中天皇
『紀』によると允恭天皇の即位は一年のブランクがあります。履中天皇は六年に崩御とあります。しかし、履中二年に、瑞歯別皇子(反正天皇)を立てて太子としたとあります。従って、履中の退位(崩御)は二年と見ておきます。429年です。
従って、履中天皇の即位年は430―2=428年と見ます。
履中天皇の即位の際も住江中津皇子の妨害がありましたが、短期で終わったのでしょう。『紀』は

十六代仁徳天皇
 仁徳天皇の崩御は427年となります。偶然にも『記』と同じ年になりました。従って、応神崩御の年も古事記に従って394年とします。『紀』は応神崩御と仁徳即位の間に2年間の空位をおいています。おそらくは宇遅能和紀郎子との皇位の譲り合いの物語があり、実際は宇遅能和紀郎子が即位していたのでしょう。『播磨国風土記』に、宇治天皇の名が出てきます。地域に伝承が残っていたのでしょう。また、市辺天皇ということばもでてきます。雄略天皇に殺されたとされる市辺忍歯王のことです。
仁徳天皇の即位年は応神崩御394の三年後の397年と見ます。
宇治天皇の即位年は応神崩御394の翌年として395年とし、退位は395年と見ます。
市辺天皇の即位年は雄略天皇と同じ457年としておきます。退位も同年。
木梨軽皇子の即位と退位の年は安康天皇即位の一年前の空白期453年としておきます。

 反正は河内の丹比柴籬宮で墳墓は誉田御廟山、允恭は遠飛鳥宮(『記』)、墳墓は大仙綾と競い合っているように見える。


4.年代の纏め。
古事記の没年    日本書記の没年  計算の即位と退位 古事記の形容   
15 応神 甲午 394   庚午 310      390 394
  宇治                     395 396 天津日継
16 仁徳 丁卯 427   己亥 399      397 427
17 履中 壬申 432   乙巳 405      428 429
18 反正 丁丑 437   庚戌 410      431 435 
19 允恭 甲午 454   癸巳 453      431 453 日継
  木梨                    454 454 日継
20 安康         丙申 456      454 456
  市辺                    457
21 雄略 己巳 489   己未 479      457 479
22 清寧         甲子 484      480 484
23 顕宗         丁卯 487
記紀の元資料であった『帝紀』もある程度正確に伝承されていたでようだ。


5.二朝並列説

参照 古墳時代の王権構造
 見てきたように、反正と允恭とは同じ期間に皇位についている可能性が見えました。二朝並列を古墳の形状や副葬品から説きおこしているのが、大阪市大の岸本直文先生です。大雑把に紹介します。

 二重王権は卑弥呼と男弟の組み合わせをそう見る事ができる。神聖王と執行王である。神聖王位も崇神以降に男王が立つようになった。
(1)倭国王墓の2系列併存の確定
 まず考古学的に両系列を確定することが課題である。このため、陵墓を対象に、それぞれの設計を明らかにし王墓の系列関係を確定する。
 相似墳の事例を集め、両系列の相似墳の出現状況を確認することで、地域の首長墓のあり方から倭王権の権力主体の併存を追究する。
(2)王墓の被葬者の特定
 既に、誉田御廟山=反正(437年没)=倭王珍、大仙=允恭(454 年没)=倭王済との見解を示したが、これは允恭が「日継」とされ神聖王の系譜と考えられることから、2 王並立の視点から候補が絞られるからである。5 世紀の倭国王墓の被葬者については、文献による倭国王の在位年代の推定、他方、考古学による王墓の年代観の確立が条件となり、これに 2王並立の視点により特定が可能と考える。
古墳の分類と埋葬者(岸本先生) 前方部の長さの全体長に占める割合が大きい方が新しい傾向にある。北九州の宇野慎敏先生(豊歴)  

         
  神聖系列          
  古墳名  全長m  前方巾m  前/全 %  段築円 方  被葬者
  仲津山  290  193  67  3 3  仁徳
   大仙陵  436  307  70  4 3  允恭
  土師ニサンザイ  290  224  75  3 3  木梨軽
  前の山  200  165  82  3 3  清寧
  ボケ山  122  107  88  2 2  仁賢          
  執行系列          
  津堂城山  208  117  56  3 2  応神
  上石津ミサン  365  235  64  3 3  履中
  誉田御廟山  425  360  85  3 3  反正
  市野山  220  160  73  2 3  市辺
  岡ミサンザイ  245  180  73  3 3  雄略

以上が岸本説の紹介。

6.倭の五王について その年の神聖王
『宋書』
421 倭王讃』      仁徳
425 倭王讃』      仁徳
438 倭王珍       宇治(仁徳没後
宇治が神聖王を勤めたか)
443 倭国王済     允恭
451 倭国王済     允恭
462 倭国王の世子興 木梨(
木梨軽が生き残り神聖王を勤めたか。)
477 倭王武       雄略 (力が強大になり、神聖王を凌駕したか。)
478 倭王武       雄略

『宋書』 同時代資料    『記紀』 150年後の資料から

倭王讃 仁徳
倭王珍 倭王興 宇治 木梨
倭王済 允恭
倭王武 雄略


参考 『日本書紀の真実』倉西裕子 講談社選書  『ヤマト王権』吉村武彦 岩波新書


    

Uganet 野田昌夫氏の古代は八進法だった 紹介
                              
私たちが今使っている 10進法 は、9の次ぎに桁上がりをし、10と表記する数え方を言います。記紀編纂の頃も10進法でした。
一方、八進法とは 1,2,3,4,5,6,7,次ぎに桁上がりをして 10と表記するものです。古代には、七 の次ぎには 八 と表記し、八の次は八あまり一としていました。これは八進法では、一の下に一、(11)と書きます。トオ余り一です。八進法のモモ(百 100)は10進法の64のことです。
 さて、紀の編集時、古文献に モモ余り八余り二 と言う数を、一百一十歳 と記しました。八進法に 10進法が混ざってきました。一百一十歳を 64+8+2と復元し、74 と計算します。単純に一百一十歳を八進法と見た場合、64+8=72 のはずですが、八進法とか気が付かず、十進法の計算を混ぜているのです。

 記紀の元資料となった古文献には、天皇の崩御と即位の年齢が記されていたのでしょう。天皇の在位年数はこれらの年齢から割り出されていたと考えることができます。八進数の数を10進法と思いこみ、在位年数を計算したのです。

紀に記載の長寿天皇の年齢を換算してみます。
孝安天皇 137歳 → 95歳     崇神天皇 120歳 → 80歳
景行天皇 143歳 → 99歳     応神天皇 110歳 → 74歳

 以下、倭の五王候補の在位年数と西暦年代と即位崩御年齢を表示していきます。
 
1 応神天皇 紀 41年春崩御 御歳百十歳。即位年は神功39年の翌年で40歳。 
紀 百あまりトオ 110=108+2 → 108+2 64+8+2=74歳 崩御年齢 在位 74−40+1=35年。

2 仁徳天皇 紀 87年崩御 百十歳 皇代紀(14世紀頃)。
       即位年齢 110−87+1=24 資料xにありと仮定。
崩御年齢 百十歳とは110=108+2=74歳
       即位 24歳 は 八進法表記だから 2*8+4=20歳
在位 74−20+1=55年。

3 履中天皇 紀 崩御70歳 在位6年 即位年 70−6+1=65
八進法 崩御 56歳 即位 53歳 在位 4年

4 反正天皇 古事記 60歳 壬申の翌月から丁丑 5年 即位は56歳。
八進法60は48崩御 即位 46歳 在位 3年。

5 允恭天皇 古事記 78歳 紀の在位 42年 即位は37歳
崩御 八進78=80−2 → 62歳 即位は 31歳 在位 32年

5 安康天皇 古事記 56歳 紀の在位 3年 即位は54歳
八進法 崩御 46歳 即位は 44歳 在位 3年

6 雄略天皇 允恭7年に雄略誕生 允恭は42年、安康は3年 雄略即位 40歳
雄略崩御 40+23―1=62歳 
八進法 崩御 6*8+2=50歳 即位は 32歳 在位 19年

7 清寧天皇 紀 在位 5年

8 顕宗天皇 記 崩御38歳 紀 在位 3年 即位 36歳
       八進法 崩御 38=40−2=30 即位 36=3*8+6=30 同じ30歳だが表示が違うのは資料が違うからと思われる。在位 1年

9 仁賢天皇 在位 11年。

10 武烈天皇 在位 8年。

11 継体天皇 崩御 25年、年齢 82歳 (百済本紀引用)
       8進法 25は 2*8+5=21 82は 66歳 即位は46歳と計算。

継体天皇の崩御年を西暦531年(百済本記)と設定して各天皇の在位期間を計算します。

継体 在位 21 崩御531 即位 511年
武烈 在位  8 即位 503年         宋書の記事
仁賢 在位 11 即位 492年
顕宗 在位  1 即位 491年
清寧 在位  5 即位 486年
雄略 在位 19 即位 467年 478 武
安康 在位  3 即位 464年
允恭 在位 32 即位 432年 438 珍  443 済  460 興
空白紀    1
反正 在位  3 即位 428年
履中 在位  4 即位 424年
仁徳 在位 55 即位 369年 421 讃
空白     2
応神 在位 35 即位 332年

 一見八進法論は倭の五王の年代には苦しい所があるが、他の面では、紀の年代矛盾を解消できる場合が多い。捨て難い八進法論である。

 詳しくは、『季刊 古代史の海 20号 21号』掲載の論文を御覧下さい。
                                  以上


神奈備にようこそに戻る