UGA 播磨王朝

『播磨国風土記』について


 和銅六(713)に諸国へ土地の名、産物、肥痩、由緒、古老の伝聞などを記録し、報告しなさいと の命令がでました。『播磨国風土記』が霊亀三(717)にできあがりました。風土記ではもっとも早い完成です。
 賀古の郡に、比礼墓のことが記されています。景行天皇が妻問いをした印南の別嬢が亡くなって日岡に墓を造ったのですが、遺体は風にとばされてしまい、櫛箱と褶を葬ったので。褶墓と言う。

比礼墓


  この古墳は日岡山古墳とされ、4世紀前半の造営とされている。年代観に合致しています。

 『播磨国風土記』の中で、天皇の行幸回数や天皇の御代として、天皇名で時代を示す伝承も多く語られています。登場回数の多い順に記します。
12回 応神天皇      御世5回 仁徳天皇
 6回 神功皇后      御世1回 成務 応神 宇治 雄略 安閑 孝徳 天智 の各天皇  2回 仲哀天皇
 1回 履中天皇

5世紀前後の応神。仁徳の伝承が圧倒的に多い。河内王朝から播磨国が重要視されていたことを物語っている。

1.二王子にかかわる系譜
                              ┏飯豊青皇女
          ┏履中天皇 ━市辺押磐皇子 ━╋顕宗天皇
仁徳天皇 ━ ━╋反正天皇             ┗仁賢天皇  ┏武烈天皇
          ┃        ┏安康天皇       ┃━━ ━┫
          ┗允恭天皇 ━╋          ┏春日大郎女 ┗手白香皇女
                   ┗雄略天皇━ ━┫             ┃━ 欽明天皇
                              ┗清寧天皇     継体天皇

2.年表


   億計王(意祁王) 弘計王(袁祁王)誕生
454 仁徳天皇と日向髪長比売の皇子の大草香皇子が根使主の讒言で殺される。
456 大泊瀬幼武皇子(雄略天皇)、市辺押磐皇子を殺す
   二王子 逃亡
   舎人日下部連使主とその子の吾田彦は二人をお守りして丹波国与謝郡に逃げた。更に播磨国縮見山の石屋に避けた。使主は自殺した。弘計王は兄の億計王を促し、縮見屯倉首に仕えた。吾田彦は離れずに仕えた。
457 雄略天皇即位
478 白髪皇子(清寧天皇)を皇太子とする
479 雄略没(雄略23年8月7日)
480 清寧天皇即位
481 山部連の祖の伊予来目部小楯が播磨国明石軍の縮見屯倉首である忍海部造細目の家の新築の宴で億計王、弘計王を見いだした。そのいきさつは、祝いの席で先に兄が舞い、次に弟が家褒めの歌をうたい、その中で、自分達は市辺押磐尊の御裔であると明かした。
さっそく清寧天皇に知らされ、、二人を迎えるように指示された。
482 翌年、宮中に迎い入れた。
   四月 意祁王(後の仁賢天皇)を皇太子にする。
   七月 飯豊皇女(二皇子の姉、男と交合した。別に変わったことはない、以後交合しないと言った。相手は誰か? 清寧天皇か。
483 天皇は兄の億計王を皇太子に、弟の弘計王を皇子とした。
484 清寧天皇崩御
   億計王と弘計王とが皇位を譲り合う。
   飯豊皇女、政務を見るも11ヶ月で没・
485 弘計皇子が顕宗天皇として近つ飛鳥の八釣宮で即位
   阿閉臣事代を任那に派遣。高皇産霊神を祀る。
   顕宗天皇、八釣宮で崩御。
488 億計王が仁賢天皇として石上で即位
   皇太子を小泊瀬稚鷦鷯尊(後の武烈天皇)に決定
498 天皇崩御
499 武烈天皇即位

3.コメント


二王子は双子

 『紀』景行天皇と皇子の大碓皇子、小碓尊は双生児である。おおうす、おううす。億計王(意祁王)は「おけ」、 弘計王(袁祁王)は「をけ」、やはり双子ではと思います。昔の双子は先に出てきたのを弟妹、後からを兄姉としましたが、現在は出てきた順となっています。

『古事記』

 かれ、山代の苅羽井に到りて御粮食す時、面黥(メサ)ける老人来てその粮を 奪ひき。ここにその二はしらの王言りたまはく、「粮は惜しまず。然れども汝は誰人ぞ」とのりたまへば、答へて曰はく、「我は山代の猪甘ぞ」といひき。かれ、玖須婆の河を逃げ渡りて針間国に到り、その国人、名は志自牟の家に入りて身を隠して馬甘・牛甘にツカはえたまひき。

『丹後風土記残欠』

 穴穂天皇の御宇、市辺王子等億計王と弘計王此国に来ます。丹波国造稲種命等安宮を潜かに作り、以て奉仕した。故に其旧地を崇め以て大内と号つくる也。後に亦、与佐郡真鈴宮に移し奉る。

日下部連使主と吾田彦

 丹後には彦坐王の後裔として日下部氏がいる。浦嶋子も先祖である。
 垂仁皇后の狭穂姫の後裔の日下部連が大和にいた。
 大吉備津彦の子大屋田根子命の後も日下。
 仁徳天皇と日向髪長比売の皇子の大草香皇子の御名代。生駒の日下隼人と同族。吾田彦の名からは日向にゆかりの日下部氏と思われる。

なぜ丹後か

 大和から遠い上に同名の日下部氏を頼ったのか。

何故播磨か

 丹後の日下部氏が信用できないと感じたか。播磨国美嚢郡は明石の北側の小さい盆地で、隠里のような地である。『紀』では赤石郡としているのは、清寧天皇の頃は赤石郡に属していたからである。

なぜ縮見の里か

 兵庫県三木市志染町が比定地。『播磨国風土記』履中天皇が国の境を決める時に、志染の里の許曽の社にこられている。志染町御坂243に鎮座する御坂社の由緒書きに、「また第十七代履中天皇が当社に御参拝ありしことも『播磨風土記』に記録している。」とある。また、志深と名付けたのは、履中天皇がこの地で食事をされた時、ご飯を入れた箱に信深貝(しじみがい)が上がってきたので、これは阿波で食べた貝ではないかと言われたので、志深の里というようになった。二王子は履中天皇の孫であり、縁の地に落ちのびて来たのであろう。

新王朝と日向

 神武天皇は日向かから船出をし、大和で初代の天皇位についた。
 応神天皇は日向の諸県の君牛諸井の助力があったと思われる。
 播磨から見いだされた二人の天皇には日下部連の吾田彦が仕えている。


志染の石室(兵庫県三木市志染町)

身分を明かす

 袁祁王は身分を明らかにすれば殺されるかも知れないと言うリクスをおかしても勇気を持って明かした。

皇位の譲り合い

 二人はろくに教育も受けておらず、ましてや大王としての心構えなどもなく、皇位についたら恥をかく。袁祁王(顕宗天皇)は勇気を持って引き受けたのであるが、ストレスが重なり、早逝したのだろう。

雄略への思い

 顕宗天皇は父の市辺押磐皇子を殺した雄略天皇の墓を壊そうとと兄の意祁王を遣わしたが、兄は古墳の側をチョット掘っただけで、恥をかかせたので十分とし、顕宗も同意した。
 意祁王は雄略天皇の娘を娶っている。親の仇の娘である。袁祁王がよくぞ承知したと思う。

顕宗天皇の陵

奈良県北葛城郡

 顕宗天皇を傍丘磐杯丘に葬ったと『紀』にある。塚口義信先生は、築造年代から狐井城山古墳は武烈天皇陵として、その北側の狐井稲荷古墳を顕宗天皇陵とされている。
 狐井城山古墳は全長140mであるが、狐井稲荷古墳はその20%もない。「果たして顕宗天皇は後世に大王とされたが、当時はそう見なされていなかったのではないか。」との感想を述べている。狐井稲荷古墳は今は福応寺になっている。顕宗が大王でなければ、いささか不自然な皇位の譲り合いなどは単なる作り話となる。

 仁賢天皇の皇女に手白香皇女がいる。継体天皇の皇后となり、欽明天皇を産んだ。仁賢天皇は天智・天武天皇から現代に続く皇室の祖先である。貴い人格者で賢人であってほしい。

逃亡先の異説

 14世紀半ばに書かれた『峯相記』 南北朝の頃に書かれた。ここでは逃亡先を播磨国宍粟郡としている。『紀』などが知られていたはずだが、、あえて異論を唱えた理由はよくわからない。

考古学的遺物

 『風土記』の伝承を史実とする考古資料は見いだされていない。希少な景色の岩屋はともかく、居住地などは見いだしにくいが、二王子と根日女との悲恋のしるしとなる玉丘古墳が残っているが、築造年代は5世紀前半とされており、二王子の時代は5世紀末頃であり、ギャップが大きい。『風土記』 意祁、袁祁の二人が美嚢の郡の志深の里の高野の宮におられて、山部の小 楯を遣わして国造許麻の女、根日女を妻問うた。根日女は仰せに従ってお受けした。二人の王子は互いに譲り合って結婚しないで日を重ねた。根日女は年老いてみまかってしまった。王子達は悲しんで、玉で飾った墓を造ろうと仰せられた。よってこの墓は玉丘と呼ぶ。

玉丘古墳

4.異説 

 とんでも説 『真清探當證』の概要 真清田神社に伝わるとされるが、写本しかない。偽書かも。
 大泊瀬王に市辺押磐皇子が殺され、家臣の市川大臣は皇子の御子二人を落ち延びさせる。大和の東側を北上し、藤森神社の地で野宿、翌日は逢坂山を通り、膳所から、鞍馬→貴船を経由して綾部に至り、丹波国与謝郡かや養父に行くも、探索の手が伸びているので、尾張の黒田神宮(真清田神社)の葦田宿禰の元に身をよせることとした。
 二王子は真清田神社の地に二十年を過ごすことになる。

 弘計王(袁祁王 顕宗天皇)と彦主人王の娘豊姫との間に男大迹王(後の継体天皇)が誕生したとしている。彦主人王は又の名を吾田彦と言った。

                                                     以上

神奈備にようこそ