Uga 八幡大神、道鏡、孝謙・称徳

1. 弓削道鏡
道鏡は700年(文武天皇4年)、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれた。物部氏の末裔である。式内大社の弓削神社二座が鎮座している。

701 修験の開祖とされる役小角が亡くなっている。道鏡は生まれかわりかも。

道鏡は 山岳修行を行い、呪験力を身につけていた。医術と薬草の知識 病を治す力を得た。また、道鏡は梵語にも通じていた。勉学と修行は十分な僧侶であった。
高僧・義淵僧正の弟子であった。


道鏡の字 東大寺


2. 宇佐八幡の動き

712 和銅5 「古事記」完成 鷹居社の造立。大神比義と辛島乙目による。新しい神の創造と思われる。辛島氏の祖神は五十猛神。大神氏の祖神は大物主神。この二神の融合。

720 養老4 「日本紀」完成。隼人、大隅国守を殺害。大伴旅人を大将軍として鎮圧、大がかりな反乱としては最後になった。
九州での八幡大神は蛮夷の鎮圧の神として権威は高まった。
征討が終わると宇佐八幡神は託宣を下し、多くの殺生を行ったので、罪障に苦しんでいる。放生会を修して罪障を消滅してほしい。

725 神亀4 小倉山に社殿を建立。宇佐八幡神が登場したことになる。

731 天平3 八幡神は中央政府の神祇官より幣帛を賜ることになる。官幣社となる。

747 天平19 東大寺大仏造営開始。朝廷は八幡神に大仏造律祈願をさせた。八幡神は、「神吾、天神地祇を率いいざなって、成し奉わる。銅の湯を水となすがごとくならん。我が身を草木土に交えて、障へる事無く成さん。」と云う有名な託宣を発した。
日本の神々のトップに躍り出た。香春岳から採れる銅と精錬技術を背景に支援できるとの読みがあった。仏教に帰依の先頭を切っているとの自負、仏法擁護に大きく踏み出した。

748 天平20 大仏途金の金が途絶え、使者を唐に派遣して入手しようとした。使者は出発し宇佐八幡宮に立ち寄り、往還の平安を祈っていた時、託宣があった。「求むる所の黄金は、将にこの国土から出づべし。使いを唐に遣わすなかれ。」と言うものであった。

749 天平宝字元 はたせるかな、陸奥で金が発見されたのである。
大仏拝礼のため八幡大神入京、憑坐(よりまし)の大神杜女が紫の輿に乗って上京し大仏を拝んだ。文武百官を率いた孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后の行幸いしているさなかのことである。
 八幡大神一品 比売神二品 神階を受けた最初の神。一品が与えられているのは、ばくぜんと天皇霊と思われていた。皇祖神である。

750 天平勝宝2 八幡大神に封戸八百戸位田八十町、比売神封戸六百戸位田六十町が充てられたが、これは禰宜大神杜女等のいつわりの神託によるものだった。

754 天平勝宝6 薬師寺の行信と八幡神宮の主神大神多麻呂、禰宜大神杜女が厭魅(呪詛)をなしたとして配流される。反聖武の光明皇太后・藤原仲朝呂に怨念があった。

755 天平勝宝7 八幡大神は託宣して封戸と田を朝廷に返上す。


3. 孝謙上皇・称徳天皇

 753 天平勝宝4 良弁の推薦で、道鏡は内道場(朝廷内の仏教修行所)に入り、禅師に列した。道鏡の仏教は、咒術的で現世的であった。

761 天平宝字5 孝謙上皇は近江の保良宮で病気になった。
看病禅師の道鏡の評判を耳にしており、呼んだ。孝謙 44歳 、道鏡 62歳。

『日本霊異記』平安初期 弘仁年間の作。
 道鏡法師、皇后と枕を同じくして交通し、天下の政相摂し、天下を治める。
 道鏡騒動の50年後の記述である。仏教普及の書物であるが、皇統の天武系が途絶えていることもあり、遠慮せずにオーバーに書いたのであろう。

763年 天平宝字7 道鏡、少僧都に任じられる。僧トップ3。
称徳天皇は両親はすでになく、異母姉妹ともなじめず、もちろん夫も子供いない。孤独でしだいに老いていく。寂寥感があった。道鏡に頼りたい気持ちはあったろう。天皇は「おのが師」とあがめた。 

764 天平宝字8 孝謙太上天皇、八幡大神に戸二五烟が与えられた。大神の復権である。藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱の鎮圧の功績。
道鏡が宇佐八幡の神職団との関係ができた最初の縁と思われる。

765 天平神護元 称徳天皇重祚(出家天皇の登場)父聖武は「王を奴隷にするのも、奴隷を王とするのも、そなたの心のままにしていい。」
ここに道鏡を天皇にする下心が見えている。道鏡太政大臣禅師に任じられる。

766 天平神護2 道鏡の弟子の基真が海龍王寺の毘沙門天像から仏舎利が出たと時の称徳天皇に報告した。
道鏡、法王となる。天皇と同じ待遇を得る。二人の天皇の存在。
道鏡の弟。弓削浄人を大宰師に任じられている。
八幡比淘蜷_に600戸、田60町が施入された。神願ゆえを持って寄進。偽神託の神職団の存在している。道鏡側は偽とわかっていても、八幡神職団の意をむかえた。

宇佐八幡の神職団は時世の移り変わりに敏感で、新しい情勢に便乗する 

769 神護景雲3 道鏡騒動。太宰府から宇佐八幡宮の神託として、「道鏡を皇位に即しめよ。さすれば、天下は泰平となる。」がもたらされた。

 和気清麻呂、神託の再確認のため、宇佐八幡宮に赴く。禰宜の辛嶋与曾女が託宣。「君臣定まりぬ。無道の人は掃い除くべし。」 
和気清麻呂、称徳・道鏡の逆鱗にふれ、大隅に流された。

770 称徳天皇崩御。道鏡は造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向した。

772 道鏡、赴任地の下野国で没した。死去の報は、下野国から光仁天皇に言上された。

                             以上
参考書
『道鏡』横田健一 人物叢書 吉川弘文館
『悪人列伝』海音寺潮五郎 朝日新聞社
『続日本紀』宇治谷孟 講談社文庫

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