ウガネット 巳・蛇について


1.縄文の蛇神
蛇に憑かれた人間たちが縄文中期に存在し、蛇は不死・死後の世界とつながる、祖先だとの集団幻想を生むにいたった。
頭上にまむしを乗せた土偶(中期 長野県)は巫女の出現を示す。土偶の女は少女のようだ。

頭にマムシを乗せた土偶 長野県


沖縄 昔のノロはハブを制した。蛇巫。
焼畑を行う場合 「山を焼くぞう 山の神も大蛇殿もごめんなされ」と呼びかける。蛇は野の神。

諏訪の古神
ミシャグチ神に、モレヤ神が木石の神、チカト神が狩猟の神、ソソウ神が蛇神、これらが習合した。

奥州のアラハバキ神 荒蛇(ハハ)木か。
出雲では、注連縄をアラハバキと呼ぶとのこと。(揖夜神社)。注連縄は蛇の交尾の姿(吉野祐子)


2.イザナミの死と恨み
古代中国の伏羲と女媧(天父と地母)の絵である。共に蛇神として描かれている。

日本神話の始原は女性原理であると思われる。イザナミは大地母神。即ち蛇神の相貌を持っている。まさに縄文の土偶の後裔である。

伏羲と女媧(5aa7)


イザナミの物語 大地母神から黄泉津大神へ変身
           ↑
聖婚・性交     │
     火神出産・陰焼と死         男神の違反
      │       黄泉国         ↑    女神の恥 男神の逃走
      ↓         見るな(禁忌)  │      ↑   女神の追跡
陰死は巫女神の死              侵犯(覗き) │   ↑
                             恥・恨み 逃走・追跡
                                      両神の別離
イザナミの墓所
『記』出雲国と伯伎国との境の比婆の山、ここに塚があり、小竹(ササ)が茂っている。小竹には蛇を追い払う霊力がある。
イザナミの霊が小竹に乗り移り、蛇を退散させる。大きい力の神は小さい神の霊力を除去する。

『紀』紀伊国の熊野の有馬村。花窟神社があり、『紀』にかかれた古代からの花祭が行われている。
熊野は牟婁である。蛇神の眠る場所としてうってつけ。花窟神社の巨石は「千引の石」にふさわしい。


余談
イザナギが黄泉の国から帰還して祓きはらいをした時に生まれた海の神は、安曇の少童命と住吉の筒男命で底・中・表の各三神である。これらの名は後世に整えられた名。
 安曇の祖神の安曇磯良は海底に長く居たので、顔に貝ががへばりついた醜悪な姿とされる。オコゼがモデル。狼に酒をつぐオコゼの絵があり、そのオコゼは女性。

オコゼ


 原始の住吉神は豊玉姫(対馬鴨居瀬の住吉神社祭神)で女神。男神らしい名の筒男神は女神だった。筒は星、星の尾は彗星(大三元さん)、これは蛇。またツツ、ツチは蛇でもある。住吉神が蛇神であるのは、筑紫国の那珂、摂津では長岡と蛇を思わす地名に鎮座していることでもわかる。


3.天照大神と素盞嗚尊
 根の国へ行けと命じられた素尊は高天原の天照大神に挨拶をしに来る。女神は武装・男装して待ち受ける。男神は清明な心であると言う。これを証すべく双方の持ち物から神々を生むことにした。
女神は男神の刀から三女神を生み、男神は女神の持ち物から五男神を生む。自分の持ち物から女神が生まれたから清明は証されたと男神は主張し、乱暴狼藉を始めた。服織女が死ぬと言う度が過ぎた乱暴なので女神は天石戸の中へ籠もってしまった。天宇受売の踊りに笑い声が響き、女神は再び蘇えるのである。

素尊挨拶に来る
  │ 聖婚・誓約               男神の違反
  ↓      三女神・五男神誕生        ↑        陰死は巫女神の死
邪き心無し            素尊の勝さび   │            ↑
                        馬の逆剥を服屋に落とす   │ 籠もるのは蛇神
                               服織女、陰に梭を衝き死亡   ↑
                                         天照大神石屋に籠もる
                                              女神の復活
                                                男神の追放


『通海参詣記』鎌倉時代の僧の通海は「伊勢神宮の神は、夜毎、斎宮に通うらしいが、その寝具の中に蛇のウロコが落ちているから蛇ではないか」と記している。
天照大神は宝鏡を天忍穂耳尊に授けて、「わが子がこの宝鏡を見るのに、丁度私を見るようにせよ。鏡はカカミ、蛇の目と言う。


4.大物主と百襲姫 箸墓伝承

百襲姫は大物主神の妻となったが、神は夜しか来なかった。姫は神に「夜しか来ないのでお顔を見ることができません。」と言った。神は「朝に櫛函に入っていよう。どうか驚かないように。」と言った。夜が明けるのをまって櫛函を開けるとうるわしい小蛇がはいっていた。姫は驚いて叫んでしまった。すると神は人の形となり、「お前はがまんできずに私に恥をかかせた。今度はお前に恥をかかせよう。」と言って大空をふんで三輪山に帰った。姫は悔いてどすんと座った。箸が陰を衝き死んでしまった。

物語
聖婚・夜の訪問
     姫:顔を見たい
        神:櫛函・驚くな。(禁忌)
         │     姫:驚く・叫ぶ(侵犯)
         ↓       │     神に恥をかかせた。      陰の死は巫女の死
        神の変身    ↓      ↓       復讐・恥をかかす。     ↑
              姫の侵犯   恥・恨み          神は三輪山へ   │
                                          姫は箸で死ぬ


5.本牟智和気
『記』垂仁后の狭穂姫の兄狭穂彦は謀反を起こそうと匕首を妹に授け、「天皇を殺せ」と命じた。
天皇が后の膝枕で昼寝していた時、殺そうとしたが、なかなか踏み切れない。涙が顔に落ちた。天皇が目覚めて「夢を見た。錦色の小蛇が朕の首にまつわる。大雨が狭穂より降り始めて顔をぬらした。后は「小蛇は匕首、雨は涙」と夢解をし、全てを告白し、兄の稲城に入った。この中で后は本牟智和気王を生んだ。稲城に火がつき、天皇の軍は御子を救出したが、后は亡くなった。

(推)狭穂姫と兄の狭穂彦は古代ヒメヒコ制の最後の統治者だった。そこに大和王権がヒメを娶りたいとの申し入れがあり、ヒメが応じることになった。大和でのヒメヒコ制の終焉である。ヒメヒコ制のヒメは巫女王であり、三輪山の神の妻であった。垂仁天皇との婚姻は神への裏切りである。
神の怒りは御子の本牟智和気の言語障害と言う祟りとなってあらわれた。

『記』本牟智和気は八拳髭胸の前に至るまで物を言わなかったが、鵠の声を聞いて、始めて物を言おうとした。天皇は夢で、「我が宮を天皇の御舎の如く築けば御子は物を言うようになる。」と聞いた。
これは出雲の大神の御心であった。それで御子を出雲に行かせ大神を拝ませた。物が言えるようになった。お供は喜んで御子を檳榔の長穂宮に導き、肥長比売と婚いた。その後比売を見れば蛇の姿であった。御子は逃げた。比売は心憂く思って海原を照らして船に乗って追ってきた。ますます脅えて山の峠から船を引き越えて逃げ登った。

蒲葵

物語 ナガは蛇 蒲葵
  ↑
檳榔の長穂宮
  │ 聖婚・蛇に変身           豊玉姫の登場シーン
  │     覗き(禁忌の犯し)     大物主の登場シーン
  │           憂・恥・恨         ↑
  ↓               逃走        │
檳榔=蒲葵、クバ、祖神の蛇     海原を照らして追跡


八拳髭胸の前に至るまで啼く  始祖王の風格

 

             古事記      素盞嗚尊
             出雲風土記    阿遅須伎高日子
             古事記      本牟智和気


継体天皇の系譜

『上宮記』
狭穂比売
├─ ー本牟智和気王ー若野毛二俣王ー太郎子ー乎非王ー于斯王ー乎富等大公王
垂仁天皇

『日本書記』 大迹命の母の振媛は垂仁天皇の七世孫と記す。
神功皇后
├─ ー品陀和気命ー若沼毛二俣王ー○ー○ー彦主人王ー大迹命(応神五世孫)
仲哀天皇


余談
肥長比売は肥の川の蛇神であった。肥の川と言えば素盞嗚尊の八咫大蛇退治の物語が『記』・『紀』 にある。素尊が肥の川の上流から箸が流れてきたので、行って見ると、足名槌と手名槌の老夫婦がいた。「槌」はツチノコのツチと同じで蛇である。足が無い、手が無い、まさに蛇であり、当然あるべきのの欠如、日常性の欠如した姿であるので蛇には嫌悪感を覚えるのである。素尊も蛇神性があったのか、気にはしていない。老夫婦の娘の稲田比売を助けるべく、八咫大蛇と対峙したのである。
 大蛇の尾から草薙剣を取り上げたのである。以降、八咫大蛇が祟り、奪還作戦が行われる。
イ)天理市の八剱神社に伝わる伝承
大蛇が身を変え天へ昇りて水雷神となって神剣に扈従して布留川上日の谷に天降り臨幸して鎮坐。
ロ)源平盛衰記に草薙剣の奪還の話が出ている。
壇ノ浦の海女が如法経を身に巻いて海底の竜宮を訪れた。大蛇が童子を抱き、口に宝剣をくわえて出現し、「宝剣は日本の宝ではなく、竜宮の宝である。自分の次男が出雲国で八咫大蛇となっていた。素盞嗚尊に倒されて剣を取られ天照大神に捧げた。何とか取り返そうと伊吹山で日本武尊を待ち伏せたり、たびたび謀を行ったが、叶わなかった。そこで安徳天皇として生まれ変わり、源平の乱を起こして、ついに剣を取り返した。」と言った。


6.道成寺縁起
時は醍醐天皇の御代、延長6年(928年)夏の頃である。奥州白河より熊野に参詣に来た僧がいた。この僧(安珍)は大変な美形であった。紀伊国牟婁郡真砂の庄司清次の娘(清姫)は宿を借りた安珍を見て一目惚れ、女だてらに夜這いをかけて迫る。安珍は参拝中の身としてはそのようにた迫られても困る、帰りにはきっと立ち寄るからと騙して、参拝後は立ち寄ることなくさっさと行ってしまった。
騙されたことを知った清姫は怒り、裸足で追跡、道成寺までの道の途中で追い付く。安珍は再会を喜ぶどころか別人だと嘘に嘘を重ね、更には熊野権現に助けを求め清姫を金縛りにした隙に逃げ出そうとする。ここに至り清姫の怒りは天を衝き、遂に蛇身に化け安珍を追跡する。
日高川を渡り道成寺に逃げ込んだ安珍を追うものは、火を吹きつつ川を自力で渡る蛇の姿である。
渡し守に「追っ手を渡さないでくれ」と頼んでもこれでは無意味であった。よんどころなく、梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む安珍。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。因果応報、哀れ安珍は鐘ので焼き殺されてしまうのであった。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。

清姫からの愛欲
  │ 帰りに立ち寄ると約束
  │   ↓      熊野権現に参拝
  │ 苦し紛れ          約束を破る
  ↓                 清姫の怒り・追跡
牟婁の地にイザナミは眠る              安珍の逃亡
清姫に大地母神がのりうつり淫乱好色が出た          清姫変身し蛇となる
                                         安珍道成寺鐘入り
                                                両者の死

怒り心頭の清姫


7.紀伊国日高郡
応神天皇が和邇の宮主矢河枝比売を娶って生まれた御子が宇遅能和紀郎子、八田若郎女である。
仁徳天皇の皇后石之日売が紀伊国へ御綱柏を取りに行っている隙に八田若郎女と夜昼戯れ遊びたわむれ、石之日売が怒って山代に行ってしまった。天皇は八田若郎女の御名代の八田部を定めた。
摂津の国に八部郡があり、八田部の中心地だったようだ。今の神戸市西部の一部。当初は若狭から播磨・紀伊の塩生産を統括していた。奈良時代、紀伊国日高郡財部(印南)の矢田部益占が平城京に塩を送った木簡が出ている。戸主(ヘヌシ)を名のっている。村長さん程度。
製塩では海部郡と日高郡に塩屋と言う地名がある。『新選姓氏録』の河内皇別条に葛城曽都毘古命の後の塩屋連の名が見えるが、この名族の末裔が日高郡(御坊市)に住んでいた。熊野九十九王子社の一である塩屋王子神社が鎮座する。これは製塩で財をなした魚屋権兵衛が伊勢から勧請したと言う。別名を美人王子と言う。天照大神と天児屋根命などが祀られている。

 孝徳天皇の皇子の有間皇子が謀反を企てて藤白坂で殺された。これに加担していたのが塩屋連[魚制]魚(コノシロ)である。大宮を焼き、500人の兵を牟呂湯に向かわす。淡路の船で海上を封鎖し、牢屋を囲んだようにすれば計画は成り立つと作戦があった。地元地形を熟知した塩屋連の作戦だろう。

 熊野の神兵・熊野水軍の動員なども作戦にあったのだろう。有間皇子は熊野の花窟神社の鎮座するする有馬に関係していたのかも知れない。


8.道成寺と藤原宮子
679 天武8 宮子誕生 『続日本紀』藤原不比等と賀茂朝臣比売の間に出来た娘とする。
697 持統11 宮子、文武天皇の夫人となる。石川刀子娘・紀竃門娘は格下の嬪。
701 大宝元 宮子、首皇子(後の聖武天皇)を生む。
  宮子、37年の籠もりに入る。 首皇子の養母として氷高内親王(元正天皇)を指名。
  文武天皇紀伊国牟婁の湯に幸す。(この時道成寺建立を勅したのではないか)
705 慶雲2 この頃道成寺建立
707 慶雲4 文武天皇逝去、元明天皇即位。
710 和銅3 平城京遷都
713 和銅6 石川刀子娘・紀竃門娘に嬪を名のらせないこととする。首皇子を後継者にするため。
714 和銅7 首皇子 立太子
715 霊亀元 元正天皇即位(首皇太子の母として即位、宮子は皇族の出ではないから)
720 養老4 藤原不比等死去
724 神亀元 聖武天皇即位。 国母宮子は皇太夫人
  聖武天皇紀伊明光浦(和歌浦)に行幸。玉津島頓宮に10日滞在。
729 天平元 長屋王の変
  宮子、僧玄ムを見て開晤す。聖武と相見ゆ。 海中の観音仏を拾う
749 天平勝宝元 宮子、東大寺へ行啓。
752 天平勝宝4 宮子、大仏開眼会への行啓
754 天平勝宝6 宮子崩御

髪長姫(宮子)海で観音像を得る。


9−1 宮子の誕生伝承
@ 父を早鷹、母を渚と言う海人の娘。髪がはえなかったが海中から観音像をえてから髪がはえ、後に髪長姫と呼ばれた。髪の長いのは美人の象徴。長い髪が天皇の目にとまり、不比等の養女として宮廷に迎えられた。伝承が八幡神社に残る。

A 貴人の忍海氏重勝が流浪して来て、この地の海人の娘を娶り、その子とする。

地元の普通の漁師の娘が或程度の期間に、にわか教育を受けて宮廷にあがれるものだろうか。


9−2 宮子は不比等、賀茂比売の御子か?
文武天皇が宮子の誕生地とされる日高に道成寺の建立を勅している。何も関係がなければ、この地に勅願寺を造らせることは考えられない。そう言う意味では日高は「火のない所」であり、宮子は不比等・賀茂比売の子ではあるまい。
また不比等の子であれば、後の光明子のような扱い(皇后)を受けてもいい。


9−3 神奈備の説
 子は母のもとで育てられるのが普通。母の家は貴族なみの名家であったはず。
6世紀、中臣黒田は鹿島から河内に進出してきた。畿内での足がかりを得るために、塩屋連と手をを結んだ。即ち、塩屋牟漏連都夫羅古娘を妻とした。牟漏と見えるので紀伊国の塩屋氏の出である。生まれた常磐が中臣連姓初代とされる。(卜部氏は鹿島にいた。剣豪塚原卜伝は鹿島の人である。)
 この塩屋連の末裔が有間皇子の側近であり、また宮子の実家ではなかったろうか。おりしも文武天皇の妃にふさわしい娘を持たなかった藤原不比等が宮子を養女として入内させたのではないか。髪が長い美人だとしても、藤原氏と全く無関係な漁師の娘を養女にする筈がない。紀伊塩屋は藤原氏の実家筋であった。


10.宮子の蛇神性
髪長比売と称された。肥長比売と同様に、本性は蛇神であろう。
首皇子を生んだ後、37年間の籠もりに入る。出産後の蛇神への変身と見なすことができる。
母の籠もりにより、首皇子は、親離れが出来なかった。宮子と言う蛇にくわえられるように呑み込まれたままであった。

『今昔物語』聖武天皇が一夜会いたまえる女に金(こがね)千両賜いしを、女死に臨み遺言して墓に埋めしめた妄執で、「蛇となって苦を受け金を守る」ところを吉備大臣、かの霊に逢いて仔細を知り、掘り得た金で追善したので、蛇身から兜率天へ鞍替したちゅう話。
蛇が宝物を守る話はイラン等にもある。


11.富来隆 『卑弥呼:朱と蛇神をめぐる古代日本人たち』から。
憑き物としての蛇神  東九州 トウベ   国東半島 トウベ、トベ、トビ   中国地方 トウビョウ


蛇神  東九州 トビノヲ  阿波・土佐 トンベガミ  土佐高岡 トンベ トンビ ナガナア クチナワ

蛇 ハハ、カカ、tokkoni、ナガ、ナガラ、ナーガ、ナガオ、トビ、トミ、トベ、トメ


 長髄彦を登美彦と呼ぶ。この登美は地名でもあるが、蛇でもある。神武天皇の弓に金鵄がとまった。
金色の鵄(トビ)であり、長髄彦の守り神であった。これが神武天皇側に移ったことになる。これ以降天皇家は蛇神にとりつかれ、守られることになる。


12.中臣と藤原
中臣氏は神界と人間界をつなぐ役割の氏族、即ち「蛇」の役割であった。ナーガ、トミである。
柳田国男の『遠野物語』に、「藤蔓が蛇に見えた。」と言う話が載っている。
道に横たわる蛇を追い払うのに、「藤原 藤原 退ドけなれ 去サいなれ 蛇なら打ちすえ 打ち曲げよう。」との呪文を唱える。
筒男の解釈でよく言われるのが対馬の豆酸(つつ)で豆酸の男説であるが、当否は不明。この豆酸に式内雷神社が鎮座、祭神は雷大臣即ち中臣烏賊津臣である。対馬卜部の祖である。
欽明朝の時代、卜部常磐が卜部氏の名を改めて中臣姓を名乗った。中臣連姓初代である。
『新撰姓氏録』摂津国未定雑姓「天児屋根命十四世孫雷大臣」とあり、『松尾社家系図』に、「雷大臣は中臣。大中臣。卜部。伊伎。藤原等の初祖也。」と出ており、「神功皇后御世四大夫の内随一なり。」とある。四大夫とは、中臣烏賊津連、大三輪大友主君、物部胆咋連、大伴武以連のこと。
 即ち、中臣氏はその卜部氏の後裔であり、それが藤原氏となった。中臣氏に藤原の姓を与えたのは、意味がつながっていることになる。中臣氏・藤原氏は神祇氏族であることに加え、蛇に守られれる氏族となり、それが王権にまとわりついて生き延びることになる。藤蔓のように。
藤原氏の中に海人族の気配が感じられるのは、対馬の豆酸にルーツを持ち、筒男への信仰があるが故である。春日大社の本殿前の岩本神社に住吉三筒男として祀られているのはそれ故であろう。

『万葉集 巻十五 三六九四』
 わたつみの 恐(かしこ)き道を 安けくも なく悩み来て 今だにも 凶(も)なく行かむと 壱岐(ゆき)の海人の 秀(ほ)つ手の占(うら)へを 肩焼きて 行かむとするに 夢(いめ)のごと 道の空路に 別れする君

 ・・・壱岐の海人の 巧みな占いを かた灼きに占いつつ 行こうとしているのに・・  卜部は海人。

 壱岐の原ノ辻遺跡は、弥生時代前期からの遺跡で、船着き場、環濠集落の遺構もでている。ここからシカ・イノシシの肩甲骨の卜骨が九点出土している。海に囲まれて生活しているはずなのに、獣骨で占いをやっているのは面白い。大陸伝来か。
 古墳時代にはいると、亀の甲卜が登場する。

     ウガ
13.宇賀神とは何か?

昭和四年(1929)昭和天皇が紀州に行幸した際に、南方熊楠が天皇に御進講をした。この時に天皇に御覧にいれたのが右の海蛇。尻尾に数個のエビがついていると言う。紀州方言で「ウガ」と言う。ホタテウミヘビである。南方熊楠記念館に展示している。

ホタテウミヘビ

参考文献
『平城京と木簡の世紀』渡辺晃宏
『蛇神伝承論序説』阿部真司
『古代海人の世界』谷川健一
『海人と天皇』梅原猛
『卑弥呼:朱と蛇神をめぐる古代日本人たち』富来隆

宇賀網史話

神奈備にようこそ