Uga 平安時代

1 摂関政治
   摂政の歴史は古く、神功皇后、聖徳太子、中大兄皇子の名前があがる。かれらは皇族であり、人臣では858年に9歳で即位した56代清和天皇の摂政として外戚の藤原良房(804−872)が就任し、864年 清和天皇の元服と共に摂政を退いた。
 関白は、872年、藤原基経が最初の関白となって以来、摂政および関白の職は基経の子孫である藤原北家嫡流によって世襲されてきた。


2 道長の父は藤原兼家 929−990 は 藤原師輔 909−960 の三男である。
 師輔は正二位、右大臣。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子達が63代冷泉天皇・64代円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。師輔の子孫は女子に恵まれて冷泉天皇から70代後冷泉天皇までの実に8代にわたる天皇の外戚となって摂政関白の地位を独占した。

 986年、兼家は策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ66代一条天皇を即位させて摂政となった。兼家は長兄(藤原伊尹(ふじわら の これただ))924−972)には可愛がられたようだが、ただ次兄(藤原兼通 925−977)とは折り合いが悪く、関白だった次兄は死ぬ前に兼家の官職を下げたが、そ兄の死によって、復帰でき、右大臣となった。二つ年上の同母姉の藤原安子は第62代村上天皇の中宮となり、冷泉天皇・第64代円融天皇ら七人の皇族の生母となっている。安子亡き後も円融天皇は3兄弟の後見人となった。 長兄・伊尹の政権基盤確立のための宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていた。安和の変に兼家が関与していたとする説がある。安和の変(あんなのへん)は、969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件。源満仲らの謀反の密告により左大臣源高明(60代醍醐天皇の第十皇子)が失脚させられた。以後、摂政・関白が常設されることとなった。


3 道長の同母兄弟姉妹
 同母姉 長姉 藤原超子 ちょうし 954−982 63代冷泉天皇の女御。居貞(おきさだ)親王(67代三条天皇)・為尊親王・敦道親王・光子内親王の三男一女を産む。三条天皇の即位を見ることなく早世した。

・同母兄 長兄 藤原道隆 953−995 花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進。娘・定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男・伊周(これちか)を後任の関白にと願うが、天皇からは許されず、薨御した。

・同母兄 次兄 藤原道兼 961−995 関白・氏長者に就いたが、既に疫病に冒されていた道兼は拝賀の僅か7日後に薨去し、後継の関白を巡る政争が伊周と道長の間に繰り広げられた。結局5月11日になって道長に文書内覧の宣旨が下った。文書を天皇よりも前に見ることができる職。見る以上は何か意見を言うわけで、結局は関白の「関かり白す」と同じということになり、職務権限ということでは、同等ということになる。

・同母姉 藤原 詮子(ふじわら の せんし 962−1002 第64代天皇・円融天皇の女御。一条天皇の母(国母)。院号は東三条院(ひがしさんじょういん)。一条朝にあって国母として強い発言権をもち、しばしば政治に介入したため、藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』には「国母専朝事」と非難された。また、4歳年下の弟・道長を可愛がって道隆・道兼没後の執政者に彼を推して、甥伊周を圧迫し、ついに兄一家を没落に追い込んだのは著名な話である。 道長の関白就任には、詮子は天皇の生母として、夜の一条天皇の御殿に押し入り、渋る天皇を泣いて説得したという。


4 強運の貴公子 藤原道長  光源氏のモデル、気配りの人、贈り物魔
  藤原兼家の五男である道長は、摂関家の生まれである以上、何もせずとも高位高官が転がり込んでくる身分でした。しかし、それにも順番というのがある。何せ五男ですから、上の兄たちが健在な間は下っ端の扱いに甘んじなければなりません。参議や大納言には上りつめても、左大臣右大臣、まして政権トップの太政大臣、権力の最高ポストである摂政関白までは果てしなく遠い道のりです。下手をすれば、目の黒いうちに回ってくるかどうかもあやしいほど、気の遠くなる話でした。
 ところが何の因果か、時を同じくして要職に就いていた兄たち(道隆・道兼など)が次から次へと流行り病にかかり、息を引き取っていきました。年をずらして病で亡くなるというケースは珍しくありませんが、同じ年に、しかも五位とか六位とか、太政大臣とか重要職にある高官たちがバタバタと冥界入りを果たすなんて、前代未聞のことでした。
 当時、道長は中宮太夫という職で、まだ30歳。最高権力の座に就くにはまだ若く、実績も乏しかったのですが、「ほかに適当な人物がいない」という理由で、近衛大将、右大臣、翌年には左大臣、そして最終的には、天下執政の宣旨が下ってとうとう関白にまで上りつめたのです。


5 正妻 源倫子 964−1053 父は左大臣源雅信で、宇多天皇の孫である。
 雅信は倫子を天皇の后にと考えていたが、花山天皇は在位短くして退位、続く一条天皇も年齢が不釣合いであり、また母穆子の強い勧めもあって、987年、道長と結婚して鷹司殿と呼ばれた。その当時倫子は24歳、道長は22歳であった。玉の輿に乗ったのは道長の方である。 道長の実父であった摂政藤原兼家を牽制しえた唯一の公卿が一上の有資格者であった源雅信であり、この結婚が兼家と雅信の緊張緩和につながったこと、また朝廷の中心的地位にあり土御門邸をはじめとする財産を有した雅信の婿になることは、道長の政治的・経済的基盤の形成において大きな意味を有した。また、夫婦仲は円満であったらしく多くの子女、とりわけ娘に恵まれたことが夫道長の後の幸運を支えることになった。  


6 道長に更に好運を齎した娘たちをみる。
  長女彰子 988−1074 66代一条天皇の皇后(中宮)。68代後一条天皇、69代後朱雀天皇の生母(国母)、院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。
 後一条天皇誕生の様子は「紫式部日記」に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となる。
 彰子に仕える女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、紫式部の娘で歌人の越後弁(のちの大弐三位。後冷泉天皇の乳母)、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一首が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸界を形成していた。
次女 藤原 妍子(ふじわら の けんし/きよこ、994−1027 第67代天皇・三条天皇の皇后(中宮)。別名枇杷殿皇太后。1010年 皇太子居貞親王(おきさだ のちの三条天皇)に入内。同年三条天皇が即位し、中宮に冊立。内親王を一人産んでいる。


7 長男 藤原 頼通(ふじわら の よりみち)992−1072
  父道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇、後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。
 天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇(朝鮮の海賊)、平忠常の乱(下総)、前九年の役(陸奥の安倍氏)など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。それに加えて晩年には頼通と疎遠な71代後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士が台頭する時代へと移ることになる。


8 道長の三女、 威子が後一条天皇の皇后になったことを祝う 宴で披露された歌。
  この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
月とは つきがある、運のよいことである。                         以上
参考 『道長と宮廷社会』大津透  講談社

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