天之日矛の神


1.ヒボコの来朝の時期と来朝理由

『古事記』 応神天皇段に、「また昔」とある。応神天皇の時代でも、昔の事と思われていた。
 渡来理由は、逃げた女房の難波比売碁曽社に坐す可加流比売神を追いかけてとある。

『日本書記』 垂仁天皇の条の文注 垂仁三年三月に来たように書かれている。理由は、日本国の聖皇の下で住みたいと尊皇思想で書かれている。紀の作文でしょう。

『播磨国風土記』 時期は書かれていないが、葦原志挙乎命や伊和大神と戦うので「神代」。居住地探し。地元の神と国占めの争いをする。

『筑前国風土記逸文』 五十迹手は「高麗の国の意呂山に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗った。

 日矛の渡来は垂仁三年、また応神朝の時に「昔」とされている頃、これはよく似た時期と考えても良いのではないか。
 また、『播磨国風土記』によると、「神代」となり、時代を定めがたいが、風土記での国占めの争いを、『魏志倭人伝』の「倭国大乱」と見れば、卑弥呼擁立直前の時期と推測できる。
 なお、日矛の四代後の多遅麻毛理は垂仁天皇と同世代とあり、世代を当てはめて遡ればれば日矛は孝霊天皇と同世代となる。西暦150〜170年。

『記』 日矛 ー 多遅麻母呂須玖 ー 斐泥 ー 比那良岐 ー 毛理
『記』 孝霊 ー    孝元     ー 開化 ー   崇神  ー 垂仁

  比多訶ー葛城高額比売ー息長帯比売ー応神天皇
   垂仁 ー  景行   ー  成務  ー仲哀ー


 日矛が持ってきた物は祭具である。呪術的である。記紀で共通する物は鏡。おそらくは銅鏡。
『古事記』では、奥津鏡、辺津鏡となっている。丹後の籠神社の神宝と同じ名前であるのが面白い。

 鏡の信仰を持ち込んだのが日矛と考えれば、『播磨国風土記』に書かれている葦原志挙乎命(大国主命)との戦いは、銅鐸信仰対銅鏡信仰のせめぎ合いであり、卑弥呼の登場前夜を思わせる。所謂、倭国大乱(147〜188)の一齣が描かれていると言えよう。

 一方、伯耆の楽々福神社には、日矛と同時代と考えた孝霊天皇の伝承(巡行、鬼退治)が伝わっており、楽々(ササ)は祭神の孝霊天皇の足跡を示しているようだ。

 日矛の拠点の但馬の円山川の河口から2kmほど遡ったところに楽々浦と言う地名がある。
 日矛と孝霊天皇が出会ったとすれば、卑弥呼(孝霊の娘の百襲姫)の擁立へ協力を求めたかもしれない。銅鏡信仰の普及で意見が一致したかも知れない。砂鉄談義でもやったか。


2.銅鐸から銅鏡への切り替え現場。

円山川河口と出石神社
河口の気比から4個の銅鐸が出土。出石神社は日矛が将来した八前の大神を祀る。中に鏡がある。
『記』その天之日矛の持ち渡り来し物は、玉つ宝と云ひて、珠二貫、また浪振るひまた浪振るひれ浪切るひれ、風振るひれ・風切るひれ、また奥つ鏡・辺つ鏡、并せて八種なり。こは伊豆志の八前の大神なり。

太田黒田遺跡と日前国懸神宮
遺跡から銅鐸の破片が出土。日前国懸神宮の御神体は日鏡と日矛鏡と言う。後者の詳細は不明。『紀』の天の岩屋 一書 石凝姥を工として、天香山の金を採って、日矛を造らせた。また鹿の皮を丸剥ぎにして、フイゴを造った。これを用いて造らせた神は紀伊国においでになる日前神である。

3.兵主神


兵主とは、『史記』「封禅書」にある瑯邪八神の一である。天主、地主、兵主、陰主、陽主、月主、日主、四時主である。また、兵主は「蚩尤:シユウ」を祀ると言い、フイゴの技術によって青銅兵器の製造を行った部族の祀る神で、砂と石と鉄石を食したとされる。

大和に鎮座している穴師坐兵主神社の御神体は日矛とされる。天日槍である。兵主神とは日本では日矛が御神体であり、人格神としては天日槍命と言える。
大和の三輪の大神神社と大和の国魂としての饒速日尊を祀る大和神社との間に二つの兵主神 社が鎮座し、一つは大兵主神社を冠している所から、天日槍集団に始まる天的宗儀(銅鏡)が地的宗儀(銅鐸)を圧倒して記憶すべき場所であったと『王権の海』千田稔著 は書く。

荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡とは大黒山の麓に鎮座している。その山頂に兵主神社が鎮座している。即ち日槍集団の楔が打ち込まれている。この事は大国主系の銅剣や銅鐸を祭器とする機能は停止させられた「事件の現場」の一つとなろう、と『王権の海』千田稔著 に書かれている。

下の兵主神社の分布は圧倒的に但馬に多い。

4.穴師の兵主神について


穴師坐兵主神社を「上社」と言い、穴師大兵主神社を「下社」と呼んでいた。
祭神は、上社が御食津神であり、御神体は日矛である。下社は天鈿女命、御神体は鈴の矛とされている。(大倭神社注進状)『釈日本紀』の「大倭本紀」 天皇初めて天降りの時、鏡三面子鈴一合を帯同、鏡は伊勢と日前と穴師に置き、鈴は穴師に置いたと言う。日前神と同じく、矛を鏡ととらえている。

穴師の東5kmに白木と言う土地があり、日矛が新羅城を築いたと言う伝承がある。(『大和の原像』小川光三著) 
 日矛とその後裔達は孝霊天皇の末裔として、卑弥呼・台与・崇神・垂仁達をバックアップする流れができており、それは後世では日矛の後裔である秦氏が朝廷に忠実で、支援してきた歴史につながると言えるのではなかろうか。

参考 『王権の海』千田稔   『青銅の神の足跡』谷川健一
『大和の原像』小川光三

以上

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