ヒメヒコ制について  UgaNet  平成22.11

女酋長(土蜘蛛)   土着勢力の代表として女酋長の名が記載されている。古い時代の記憶の反映
名草戸畔 紀伊 神武紀 滅ぼされる。
丹敷戸畔 熊野 神武紀 滅ぼされる。    河野信子編『ヒメとヒコの時代 原始・古代』 から。
新城戸畔 添県 神武紀 滅ぼされる。
速津媛 碩田 景行紀 進んで帰順。
八十女 肥前 風土記 滅ぼされる。

故今井堯さん 『古墳時代前期における女性の地位』 古墳から出土の骨などの分析から古墳時代前期、九州・近畿・北陸・関東に女性首長が存在。性格は地域政治集団の首長の場合、祭祀権、軍事権、生産権をも掌握していた。小集団を背景とする女性首長は、祭祀的・呪術的性格を濃厚にもつ

熊本 向野田古墳 女性埋葬、4本の剣と4本の刀など

神話から ヒメは新たなヒコに対して知恵と威力を授ける儀礼を行った。その名残がスセリヒメの神話。
葦原醜男命が素盞嗚尊からの試練を乗り越えて大国主命になる。


卑弥呼のありよう 初期の女王の姿  「前田」は前田晴人氏の主張


1 鬼道につかえ、よく衆をまどわす。
『魏志韓伝』 弁辰 その国 鉄を出す 韓 wai 倭 皆これを取る。鉄の分配権。
卑弥呼は鉄のマナが持つパワーで超自然的な幻視をよくする。
前田 国家的な神霊祭儀に携わった巫女。三輪山の神は国家神に成長

2 年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
前田 三輪山の大己貴神の神妻。
前田 天智天皇が近江の日吉神社に三輪山の神を勧請した。大己貴神であった。

3 男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。
男弟と執事のような男一人が卑弥呼に近づくことが出来た。

4 (卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。婢千人をもって、自 (身)にはべらしている。
婢千人は白髪三千丈的表現。婢は酒造り、薬草、医事、亀卜などにも従事。

5 ただ男子がひとりあって、飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。
前田説 食事を給するとは、卑弥呼より上席の男が支給るの意。 神奈備? 給仕では
前田説 辞を卑弥呼に伝えるとはやはり上席の男の仕業、男とは大己貴神のこと。神人共食と託宣。
    男一人が食事をさしあげ、言葉や命令を伝えていた。女王と男弟と執事のトロイカ体制。
     百襲姫は神妻、大田田寝子は祭主、このような関係も一考の余地あり。

6 宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち、守衛している。
纏向遺跡では宮室程度しか出土していない。今後の発掘が楽しみ。

女王卑弥呼の登場 銅鐸祭祀の終焉。
各地域が開拓を行ってきた地域の祖霊を大国主として祀り、彼らを統合した三輪山の大己貴神を卑弥呼が祀ることがこの政権の成功の鍵。地域の大国主の象徴である銅鐸を廃棄させ、銅鏡の祭祀に転換させ、魏から得た銅鏡を配布して、各国の祭祀をも統合していった。

前期古墳の造営譚  百襲比売と仁徳天皇の陵についてのみ記載

箸墓 百襲姫は大物主神に恥をかかせたということで、座ったとたんホトに箸がささり、死んでしまった。
大市に葬った。その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。  事実、大坂山の石が使われている。

百舌鳥ミサンザイ古墳(伝 履中陵) 仁徳天皇は河内の石津原においでになり、陵地を定められた。18日に陵を築いた。この日、野の中から急に鹿が出てきて、走って役民の中へ入り、倒れ死んだ。その急に死んだのを怪しんで傷を探した。百舌鳥が耳から出てきて飛び去った。耳の中を見るとことごとく食いかじられて いた。それでここを百舌鳥耳原というのは、このいわれによるものである。

継体天皇の系譜   『上宮記』によると、系譜は 凡牟都和希王(ホツムワケ)から書かれている。
ホムツワケ王とは何者であるか。ホムツワケは垂仁天皇の皇子、先祖を垂仁天皇としなかったのは何故か?
  『釈日本紀』に引用されている『上宮太子御記』の仮名遣いは推古朝遺文(7世紀)に似ている。

年表 資料
100-175  魏志倭人伝(魏志) その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。
57      後漢書 委奴国王  漢の光武帝から漢委奴国王の印綬を受ける。
107     後漢書 倭国王帥升 漢の安帝へ生口160人を献じた。
168-188  魏志 卑弥呼登場  倭国乱れ、相攻伐すること歴年、及ち共に一女子を立てて王となす。
173     三国史記 卑弥呼  倭の女王卑弥呼が、使者を送って、新羅に交際を求める。
178-189  梁書          卑弥呼が共立され、倭女王となる。
201     神功紀         神功皇后摂政元年。
238     魏志 魏の明帝    景初二年 魏の明帝、帯方太守、楽浪太守を任じた。
239     魏志 卑弥呼     景初三年 難升米と都市牛利を遣わす。親魏倭王に任じられる。
240     魏志 魏の明帝    正始元年 魏使が倭国に来て、親魏倭王印や鏡などを与える。 正始元年鏡桜井茶臼山古墳出土
243     魏志 卑弥呼     正始四年 伊声耆らを派遣。
247     魏志 卑弥呼     正始八年 狗奴国との戦いについて報告。
248     魏志          卑弥呼 没す。径百余歩の大きい塚をつくった。
       魏志          男王即位、国中服せず、更更相誅殺し、当時千人余を殺す。
      魏志           卑弥呼の宗女台与十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。
265    晋書 魏→晋      魏の元帝から晋の司馬炎へ禅譲。
266    晋書 台与か 倭女王   西晋国に貢献。
269    神功紀          神功皇后 没す。

暫くは平穏な時代  大陸から半島への侵入もなく、半島内部でも若干の小競り合い程度の時代。女王の時代が続いてもおかしくはない。

364 神功紀   百済肖古王 久弖らが卓淳国に来て、倭国との通交を希望していると伝える。
366 神功紀   神功皇后 斯摩宿祢を卓淳国に遣わす。伽耶地域の小国。
369 七枝刀   百練の銕の七枝刀を造る。
372 三国史記  百済肖古王 久弖ら七枝刀を献ず。百済王、東晋に使者を送る。
382 神功紀   神功皇后 葛城襲津彦を遣わして新羅を討つ。
389 神功紀   神功皇后 没す。

391 好太王碑 好太王 即位
396 好太王碑 好太王 百済戦
400 好太王碑 好太王 五万の大軍で新羅救援、倭軍退却。
404 好太王碑 好太王 倭軍が帯方地方に侵入、高句麗はこれを討って大敗させた。

垂仁天皇(イクメイリヒコイサチ) クメの名を持つ。初代人皇を支えた武人の伝承がある。久米歌は神武の歌。

前田晴人氏のあげた記紀の中に潜んでいる女王の条件 『古代女王制と天皇の起源』
A 皇后皇妃であること 『倭の五王と二つの王家』
B 崇神〜応神の間に収まる 『継体天皇と王統譜』
C 特異な伝承を持つ
D 陵墓伝承がある
E 制度の開始などの伝承
F 天皇との婚姻に何らかの障害があった  
G 後世に王族がいたと伝える地方とかかわる

  
歴代の女王     A      B      C      D      E       F       G
1初代卑弥呼               大乱収拾  径百歩   魏に朝貢
山代 迦具夜比売 垂仁妃 垂仁    かぐや姫  箸墓           かぐや姫

 迦具夜比売は山代の大筒木垂根王(開化天皇の孫に讃岐垂根王の名)の娘。竹取物語の竹取翁の名前が「讃岐造」であり、かぐや姫の物語のモデルはこの迦具夜比売と思われる。


2 台与                  乱収拾          晋に朝貢

 寺沢薫『王権誕生』では、台与の統治は魏の滅亡と軌を一にして終わりとしている。その後も倭王が西晋の武帝に朝貢しているが、倭王が替わったことは報告されていない。


3 丹波 竹野媛 垂仁妃 垂仁       自死                 姿醜い   倭彦王

『紀』丹波から五名の姫が入内したが、竹野媛は形姿醜いとして、丹後へ返された。しかし返されることを羞じて、葛野で自ら輿(こし)より堕ちて死んだ。その地を號けて堕國(おちくに)と謂(い)う。今弟國(おとくに)と謂うのは訛ったから。
 五名の娘の婚姻で竹野媛のみ結婚できず帰国。カグヤ姫は五人にプロポーズされても受けずに月に帰った。
 『記』では丹波の由碁理の娘の竹野比売が開化天皇の妃として登場、迦具夜比売の曽祖母とされている。さらに垂仁に喚上られた丹波の円野比売が醜いとして返された途中で自死している。岩長媛を想起する。


4 播磨 稲日大郎姫 景行妃 景行         日岡の褶墓          逃亡     顕宗仁賢

 『播磨国風土記』によれば、印南別嬢の父は丸部臣の祖・比古汝茅、母は吉備比売である。景行天皇は印南別嬢を妻問いに播磨へと出向いた。別嬢は身を隠したが、天皇に探し当てられ、二人は城宮で結ばれた。年経て没した後は日岡に墓を造ったが、遺骸を運ぶときに川の中に沈んでしまい、櫛箱と比礼(薄い肩掛け)のみを埋葬したという。


5 丹波 氷羽州比売 垂仁の大后 垂仁 湯坐   佐紀陵山   埴輪           倭彦王

 丹波から五名の姫が入内したうちの一人。皇后になったが二十四年後に薨じた。その葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習となげいていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。


6 山代 刈羽田刀辨 垂仁妃 垂仁   大亀出現

 天皇は山代に行幸された。側仕えの者が言うには「この国に美人がいます。綺戸辺(かにはたとべ)と言います。」と天皇は矛をとって祈(うけい)をされて、「その美人にあえば道路にめでたい瑞があるようにと。」。行宮に着く頃に大亀が川の中から出てきた。こうして綺戸辺を召して後宮に入れた。


7 大和 息長帯日売 仲哀大后 仲哀   征韓    五社神   魏に朝貢

 訶志比宮で住吉大神は、「この国は、そなた皇后の御腹におられる御子の統治すべき国である」と託宣した。これを聞いた建内宿禰が、「皇后様の御腹にいらっしゃる御子は皇子様でしょうか皇女様でしょうか」と尋ねると、神は「皇子である」と教えた。

皇子か皇女か、統治する御子の性別が問題になるのは、何故か? 男王が統治すると云う常識は存在していなかったと言えよう。むしろ、女王による統治が続いていたのかも知れない。


 海を渡って三韓征伐を行った。帰国後築紫で皇子を出産した。大和に帰還しようとするが、皇子と香坂王・押熊王との間で皇位継承の争いが起こり、皇后側が勝利。
 皇子であった応神は禊ぎを行うべく、越前の敦賀に行き、土地の神である伊奢沙和気大神と名前を交換した。気比大神とは天之日矛のことで、母系の始祖、それ故に成人儀礼を敦賀で行ったと、塚口義信さんは述べている。
 これはむしろ応神天皇の五世孫となった継体天皇の出身地だから、越前にしたとも言える。
 神功伝説は後世に手を加えられているが、四世紀後半にヤマト政権は朝鮮半島に軍を出していたことは事実である。この物語を祖型として徐々に膨らんだもの。

 オオタラシヒメの伝承が香椎に残っていた。「海の母神と御子神の伝承」で、これが神功皇后の伝承と合わさった。

 山代綴喜の息長氏の伝承に神功皇后の系譜が伝えられていて、これらの三つの伝承の重なりが神功皇后伝承として結実したもの。

  大和 狭穂姫 垂仁后 垂仁      暗殺未遂               兄謀反

 狭穂毘売は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂毘古に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった。ホムツワケ王の誕生譚につながる。狭穂毘売は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂毘古に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。 妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった。

 あってはならない悲劇と異端の物語り。

次はホムツワケの物語りとなる。


古墳  台与 西殿塚、竹野 行燈山、稲日 渋谷向山、日葉 佐紀陵山、刈幡 佐紀石塚、狭穂 五社神


皇妃でない姫達の例

倭迹迹日百襲姫命 孝霊皇女 崇神   ホトを箸で  箸墓
豊鋤入姫 崇神皇女 崇神        み杖代
倭比売 垂仁皇女 垂仁          み杖代



ヒメヒコ制の終焉
百済との軍事同盟締結、高句麗との戦いでの敗北、軍事面でも強い王権が求められて来た。
女王によるマツリゴトの神々の呪縛を解き、男王による軍事的国家体制への移行の合意がなされた。

最後の女王狭穂姫と武門の長であるイクメノイサチ(イクメイリヒコイサチに擬された)との婚姻がなされた。
ホムツワケ、ミズハワケが誕生。ホムツワケが初代大王となった。
皇統の予備の血統の為に、狭穂姫の兄の狭穂彦王が葛城磐之媛を娶って、後の允恭天皇を生んだ。


   以上前田氏


421 宋書  讃   萬里貢を修む。
425 宋書   讃   司馬曹達を遣わす。
   宋書      讃死して弟珍立つ。
   宋書  珍   安東将軍・倭国王に除す。
443 宋書  済   倭国王済、安東将軍・倭国王と為す。
   宋書      済死す。
462 宋書  興    世子興、安東将軍・倭国王とす。
   宋書      興死して弟武立つ。
478 宋書  武   祖彌躬ら甲冑を・・東は毛人を 西は衆夷を 渡りて海北を平ぐる。
  502 梁書  梁の武帝、倭王武を征東将軍とする。

凡牟都和希王 始祖王の雰囲気
紀 垂仁天皇は狹穗姫を皇后とし、譽津別命が生まれた。天皇は皇子を愛し、常に身近においた。
狹穗姫の兄の狹穗彦王は謀反を企て、垂仁天皇を殺そうとした。
狹穗姫に匕首を授け、天皇を暗殺するように要請したが果たせず、白状した。
天皇は軍を動かした。狹穗彦王は稲城に籠もって抵抗、狹穗姫も稲城に入った。
懐妊していた狹穗姫は火の中で出産、譽津別命の誕生。
物言わぬ譽津別命は白鳥を見て「あれは何物か」と言われた。
 白鳥が親だった。卵から生まれたということ。新羅の始祖王と同じ。
鳥取部、鳥養(鳥甘)部、譽津(品遅、品治)部を定めた。
品治部 大和葛下郡品治郷、因幡邑美郡品治郷、備後国品治郡品治郷、安芸山縣郡品治郷 実在

疑問 継体天皇は自らの祖先を垂仁天皇ではなく、譽津別命としているのか。
継体の祖先は応神天皇(品太王:譽田別命)だと記紀には書いている。津と太は一緒か? 津は絶対にタとは発音しない。
紀には応神天皇の墓の記述はない。応神天皇は実在していたのか?新羅の模造だ!

 新羅  槨居世  次々雄  儒理王  脱解王
    大きい卵  ススング         九寸七尺 歯凝如一

 倭国  応神   仁徳   履中   反正
    鎮懐石   ささぎ           九尺二寸半 歯一つ骨の如し

黒媛と吉備
応神・仁徳・履中は創作された天皇だった。 黒媛、吉備の媛の物語が集中する不自然さ。


応神紀 天皇、大隅宮の高台に登って遠くを眺めていました。特に妃兄媛侍り。西を望りて大いに嘆きました。兄媛は吉備臣の祖の御友別の妹。帰郷を許し、後から淡路嶋へ狩猟に出かけ、そこから吉備に行幸した。


仁徳記 爾に天皇、吉備の海部直の女、名は黒日売、其の容姿端正しと聞こし看して、喚上げて使ひたまひき。然るに其の大后の嫉みを畏みて、吉備に逃げ下りき。天皇淡路島に国見の行幸し、そこから黒日売のいる吉備国に渡って再会した。


履中前紀 羽田矢代宿祢が女黒媛を以て妃とせむ。納采に住吉仲皇子を遣わした。仲皇子は太子の
名を騙って黒媛を犯した。


履中記 この天皇、葛城の曽都毘古の子、葦田宿祢の女、名は黒比売命を娶して、生みませる御
子、市辺之押歯王。次ぎに・・・。


ホムツワケ王の物語りは、上記三大王の物語りに分割されたとみることが出来る。

神奈備にようこそ