@揖保郡の神島
神島と称するわけは、この島の西の所に石神がおいでになる。形は仏像に似ている。この神の顔に五色の玉がある。また胸には流れる涙がある。これまた五色である。
品太天皇の御代に、新羅の客人が来朝した時、そのの客人が来朝したとき、その顔面を切裂いてその一つの目玉をえぐり取った。だから泣いている。
石神 神島は伊刀島の東と言う。家島と淡路島との中間に神島はある。
コウナイ石 神島の石神は大正時代の出現との見解がある。
A印南郡の大国の里
石の造作物がある。その形は家屋の如くで、その名を大石と言う。言い伝えによると、聖徳の王の御代に弓削大連(物部守屋)が作った石であると言う。
竜山石と言う名で知られている。
神社の絵 B揖保郡大田の里
C阿蘇山の溶結凝灰岩(阿蘇ピンク石) 肥後国宇土郡から出荷
D石上山の天理砂岩
さて、神は大に怒、暴風雨をおこして客船を破壊した。船は高島の韓浜に埋めた。
大本教の聖地として尊ばれたと言う。もし、風土記の時代にこの石神がなければ、風土記は何を以て石神としたか、コウナイの石が候補。
コウナイの石は西島の西側にある。西島には家島諸島で最高峰があった。風土記の高島に当たる。また諸島の西にあり、東ではない。
風土記の頃にコウナイの石が見えていれば、記事になるはず。
西島には家島諸島で最高峰であった。
東は滋賀県、西は山口県まで運ばれ、首長墓に使われている。津堂城山古墳、宮山古墳、車塚古墳など。
石作連の集団だいた。商いをやっていたのだろう。
巾6.4m、高さ5.5m、奥行き6.5m
昔、呉の勝が韓の国から渡ってきて、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後別れて、摂津の国の三島の賀美の郡の大田に移って、それがまた揖保の郡の大田の村に移住してきた。
紀の川沿いの緑泥片岩を使った古墳 将軍塚古墳(六世紀 茨木市)
海北塚の箱式石棺の用材(ゝ)
闘鶏山古墳(高槻市)
隼人の古墳(石清水八幡宮)
植山古墳(7世紀前半 奈良 推古天皇の古墳)
小山古墳(岡山県山陽町 6世紀初頭)
築山古墳(瀬戸内市 5世紀後半頃)、造山古墳
長持山古墳(道明寺 5世紀後半)、唐櫃山古墳
斉明天皇の狂心の渠の目的は酒船石遺跡の丘と亀形石槽の造営。