Uga出雲

1.古墳時代以前の地形

 宍道湖が素尊水道の状態で、斐伊川の土砂が積もって湖となったのは、平安時代以降のことと思われる。





2. 年表
ー300 弥生前期  弥生文化が北九州から日本海づたいに伝わる
     日本海沿いに渡来系人のムラが形成される。
ー100 弥生中期 瀬戸内海方面との交流が進む
     U式銅鐸(外縁付紐式)が製作される 荒神谷・加茂岩倉遺跡。
     出雲型銅剣が製作される 荒神谷遺跡。


 50 弥生後期
    荒神谷遺跡の青銅器が作られる。
 57 奴国が後漢に通交。
    吉野ケ里遺跡栄える。
    広島県北部で、四隅突出型墳墓が発生。
106 倭国王帥升、後漢に朝貢す。
178−184 倭国大乱
    出雲では意宇郡の出雲臣が出雲西部を統一、神門臣が東部を統一。
    銅生産で富を得る。(自然銅が露出多い。)
    出雲に四隅突出型墳墓が広まる。
    卑弥呼 倭女王に共立される。
    全国で四隅突出型墳墓がつくられる 福井県石川県に四隅突出型墳墓。
    福井県石川県から玉造り技術が伝わる。

200 弥生後期
239 卑弥呼、魏に遣使
    出雲に高地性集落が造られる。
    山陰に畿内系土器が流入する。
    山陰の土器が全国各地に広がる。出雲が出雲臣に統一される。
    最古の古墳 纏向石塚古墳出現。
    大型古墳 箸墓古墳。
   国譲り
    出雲に大和の勢力が侵入、出雲臣が服従する。
    加茂岩倉遺跡・神庭荒神谷遺跡の青銅器が埋められる。

300 古墳時代前期
    古墳が出雲に出現する 加茂町神原神社古墳。
    出雲東部に全国最大級の大型方墳が営まれる。
    意宇郡(安来市)の造山一号墳三号墳 大成古墳。
    山間部に前方後方墳。
    四隅突出型墳墓がつくられなくなる
    前方後方墳 出雲全部で三十三基 日本一。

400 古墳時代中期
    出雲に前方後円墳が造られる 出雲市大寺古墳。

500 古墳時代後期
    出雲最大級の古墳が東西に造られる。

600 飛鳥時代
659 出雲国造 命により 厳神之宮を造る。
    斉明天皇が物言わぬ孫の建皇子を偲んで出雲大社の修厳を命じた。

712 奈良時代
    『古事記』
716 出雲国造 果安、朝廷で 神賀詞を奏上する。
720 『日本書記』
733 『出雲国風土記』成る



3. 神庭荒神谷遺跡
 『出雲国風土記』大原郡神原の郷 
 天の下をお造りなされた大神の神御財を積んで置き給う場所である。
 この遺跡からは古墳時代の須恵器が出ており、早くても古墳時代の書記の時期、即ち出雲が大和王権に服従した時に当たる頃に神宝を隠匿したものと思われる。                

荒神谷遺跡周辺


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 元諏訪神社の東南側に加茂岩倉遺跡があり、その間に大黒山があり、兵主神社が鎮座している。日矛集団も神財をねらっている構図である。これは、大和の大神神社(三輪明神)と大和神社の間に穴師座兵主神社が鎮座しており、国津神の集団の間に楔が打ち込まれたように見える。
 荒神谷を取り囲むように建御名方神を祭神とする神社が鎮座しているが、全てが古代からのものではなかろう。平安・鎌倉時代の建立のものもあろうが、出雲の人々は大神の神財を意識的にもまた無意識にもそのような行動がとられたものと思われる。

佐支多神社「健御名方命、八坂戸賣命」斐川町大字荘原 風土記記載社 南に御射山あり
波迦神社「神倭健尊、健部臣古禰尊 合 健御名方神」 斐川町大字三絡 風土記記載社
波知神社 「天津彦彦火瓊瓊杵尊 配 建御名方命」斐川町大字三絡 式社 風土記記載
諏訪神社 斐川町学頭  諏訪神社 斐川町神庭  諏訪神社 宍道町佐佐布
地元の福島一夫氏の「女首長に後事を託す」を参考にした。


4.荒神谷遺跡から出土した銅剣。

荒神谷遺跡の銅剣出土


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下が西、上が東の方角。西から@34本、A111本、B120本、C93本と並んでいた。計358本。この数が『出雲国風土記』に記載の神社数に近い所からいろいろな組み合わせが提案されている。
@  34本は神門郡 37社に対応。
A 111本は出雲郡 122社に対応。
B 120本は、大原29 飯石21 仁多10 意宇67本 計127本に対応。
C  93本は 楯縫28 秋鹿26 島根59 計113本に対応。
 銅剣の埋納が300年、風土記700年として400年間での神社の数は微増となる。人口があまり変わっていないと思われるので、神社数も変わらないと思われる。
この提案は、銅剣の並び順と郡の並び順とが対応しており、決定的な案だと思っている。

 荒神谷から3.5km離れた加茂岩倉遺跡から銅鐸が39基出土。銅鐸は墳墓や古墳からは出土していないことは、個人の所有物ではなく、集団の持ち物の証であるが、この39基の数は何だろうか。集団から考えると、「郡」の持ち物ではなかったか。
 出雲国には9郡があり、出雲郡は素尊水道の南側に飛び地がある。郡に4基、飛び地に3基、合わせて39基となる。
出土物の数にはそれなりの意味があるのだろう。


5.大国主神
 大国主は、古代人が思い描いた地域の指導者の理想像であろう。大国主の子孫と称する人が世襲的に神門郡におり、神門氏を名乗っていた。(富氏とも言うか。)
 大国主を権威付ける要素はいくつかある。
根の国からの権威付け 根の国に坐す須佐能男の娘を娶り、かつ激励を受けた。
常世国から、少名毘古那神が国作りに協力するため来訪した。
八千矛神と称される武力で八十神を追い払い、高志の国を制圧した。
素兎を助けた大穴牟遅神はその後に伯耆の手間山で八十神に殺されるが、御祖神の働きで生き返る。これは成人儀礼である。
(注)少名毘古那神は産霊神の御子神で産霊神の手のすきまから落ちたということで、手間天神とも呼ばれる。

メキシコ アステカの兎・の神 第二の自我 遊離魂


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 スクナヒコナは蛾もしくは小鳥の衣服をまとって登場したが、飛び上がってオオナムチの頬をかむなど、飛ぶ小動物のイメージである。
 スクナヒコナが去った後に来たのが大物主、オオナムチの幸魂・奇魂であり、遊離魂であった。この事からスクナヒコナもオオナムチの遊離魂であった可能性がある。遊離婚が小鳥や兎の姿をとっていたのであろう。助けられた素兎が遊離魂となって恩返しに現れたのかも知れない。

6.国譲り
 『出雲国風土記』意宇郡母理の郷に、「私がお造りして領有して治める國は、皇御孫命が無事に世々お治めになる所としてお譲りしよう。ただ、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として、青い山を垣として廻らし賜うて玉珍を置き賜うてお守りしよう。だから文理という。」とある。国を譲っても、出雲だけは譲らなかったということである。

 『古事記』では、「先ず葦原中国は我が御子の知らすべき国だが、道速振(ちはやふ)る荒振る国つ神等の多なりと以為(おも)ほす。」と大国主神以下を悪神としている。
 『古事記』の国譲りでは、建御雷之男神と天鳥船神の二柱の神が、出雲国の伊那佐の小浜で剱をつきたてて、大国主神に国譲りを迫る所から始まる。
『日本書記』では、経津主神に武甕槌神を副えて国譲りを迫っている。

 御子神の事代主神と建御名方神も最終的に同意して、国譲りが行われるが、大国主神は自分の住みかとして壮大な神殿を造営することと引き替えに国を譲ることに同意する。

 8世紀から朝廷で出雲国造が就任の際に神賀詞を奏上することになるが、その中で。「高御魂の命の、皇御孫の命に天下大八嶋国を事避(さ)しまつりし時に、出雲臣らが遠つ祖天穂日命を国軆見(くにがたみ)に遣はしし時」とあり、『記・紀』とは違う伝承が語られている。

 国譲りが出雲で行われたのに、天孫降臨の地が日向になっているのはおかしいとの意見があるが、神代の昔に出雲の国譲りが行われた訳ではなく、古墳時代初期の出来事だからそれでいいのである。

 『日本神話のなりたち』吉田敦彦著 フランスの比較神話学者デュメジルは、古代ローマやゲルマンの伝説、インド神話などに、三段階の構成を持った重要な神話が含まれていると指摘している。
 1.天の神族と地の神族との間に争いが起こり、地の神々が持ち前の富や性の魅力などで天の神の一部を腐敗させて、天の神々にダメージを与えた。
 2.天の神の指導者が、敵の力を麻痺させる無敵の武器を投げて、形勢を逆転した。
 3.そのあとで両者は和解をし、地の神々は天の神々の主権を認め、また天の神々は地の神々を同格とし仲間の神として認める。

 大國主に媚びた天穂日や、下照姫を娶った天若日子、高皇産霊神が天若日子を矢を投げて殺し、次に二柱の武神を地の神の下に送り、国を譲らせて、そのかわりに大國主神のために立派な神殿を建造すると言う物語は、上記の三段階の構成と完全に一致する。これは創作の物語であることの証明と言える。

 『日本書記』崇神六十年、出雲振根が管理していた天日照命(天穂日命の御子)が天上から持ってきた神宝を、弟の飯入根が留守中に朝廷に献上してしまったので、振根が成敗した所、朝廷から吉備津彦と武渟河命が派遣され、振根を殺したという話が載っている。これが出雲が王権に屈服した最初の記事である。河内国石川郡の美具ク留御玉神社の創建譚に見えるが、『崇神紀』の六十年丹波の氷香戸辺の歌に「出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡」とあるように神宝は鏡であった。
 大國主の神宝ではなく、飯入根は祖先の天穂日の宝を差し出して、大国主の神宝を守ったのである。

 作家の井沢元彦氏は銅鐸を古代には振根(振れば音がする)と称していたのではないかとの仮説を述べておられるが、それなら飯入根は入れ子になっている銅鐸のことかもしれない。

 このような事件が起こり、王権に忠実な出雲臣の指導者に替わったので、神門臣らが大国主神の神宝を隠しておこうと言うことになり、加茂岩倉や神庭荒神谷に埋納したのであろう。これが伝承として、『風土記』に、「大原郡神原の郷 天の下をお造りなされた大神の神御財を積んで置き給う場所である。」と記載されたのだろう。
                                                              以上


参考文献
『日本神話の考古学』森浩一
『日本の神話を考える』上田正昭
『真実の古代出雲王国』武光誠
『日本神話の起源』大林太良