Uga古道

                             
1. 崇神期、武埴安彦の系譜と反乱伝承

  孝霊天皇──┬──────孝元天皇
            ├百襲姫    │
            └吉備津彦  鬱色謎──┬大彦命                  
                      │     └開花天皇──崇神天皇
          河内青玉繋───埴安媛──武埴安彦
                                │ 
                              吾田媛
大まかな反乱の筋
妻の吾田媛が天の香具山の埴土を盗む。百襲姫にばれていた。
童女の唄で武埴安彦の反乱を百襲姫が予見する。
吾田媛が大坂から大和に攻め入るが討ち死にする。
武埴安彦は山背から大和に攻め込もうとするが、祝園で討ち死にする。
残った兵士は樟葉まで逃げる。

2、 河内青玉繋とは
 『魏志倭人伝』に、倭国に産する物として、「出真珠青玉 其山有丹」とあり、真珠と青玉と丹があげられている。青玉はサファイアのこと。富山や奈良で採取された報告がある。  
 『筑前国風土記逸文』に、宗像大神が天から降って埼門山におられた時に,青玉(あおにのたま)を以て,(他伝には八尺絮玉とある)奥津宮の表象とし云々とある。
河内青玉繋は海人の相当な有力者であったろう。

3、武埴安彦の母は埴安媛
 イザナミが大八島を生んだ後に、万物を生む。火の神を生んだ後、屎(クソ)からハニヤスビコ・ヒメを生む。埴土神もしくは埴安神である。埴安媛は母親の名でもある。
 大和国十市郡の天香ク山西麓に延喜式内大社の畝尾坐健土安神社[ウネヒノタケハニヤス・・]が鎮座している。この時代、天香ク山と畝傍山の名が入れ替わっていた。この反乱伝承はこの神社の存在を抜きにしては語れないと言うか、この神社の神の反乱であった。
 崇神期は呪術王権の段階にあるとされ、天皇が神祭りの中心にいた時代でとされる。
この神から見て、崇神天皇はこの健土安神の祭祀をおろそかにした、と見なされ、神は敵対勢力に組したのであろう。
 崇神天皇の宮殿に天照大神と倭大国魂神をお祀りしており、神の勢いに畏れをなして、宮殿の外で祀るようにしたとか、この天皇の世になってから国に災害が多く、うまく国が治まらないので、占いを行うと、大物主神が百襲姫に神憑りして、国が治まらないのは吾が意によるものだ。太田田根子に吾を祀らせればたちどころに平らぐだろうと託宣した。大物主も祟っていたようだ。
 大和の神々との関係はスムースではなかった。

4、吾田媛
武埴安彦の妃の吾田媛の名は、瓊瓊杵尊の妃の神吾田津姫、また神武天皇の妃も日向吾田邑の吾平津媛で、その子が手研耳命で反乱失敗第一号である。第二号が武埴安彦ということになった。
河内國若江郡(東大阪市加納)の延喜式内社に宇婆神社(宇波神社)が鎮座、祭神は埴安比売命であり、今は安産の神としても崇敬されている。河内青玉繋はこの辺りに拠点があったのかも知れない。

吾田媛が密かに天の香具山の土を取りに来て、「是、倭国の物實。」と言った、とある。天の香ク山に天神地祇を祀る土器を造る聖なる土があり、その土を吾田媛が盗みに来て、密かに呪いごとをしたという。巫女である。
 吾田は吾田隼人を連想させる。吾田媛は河内から大和に兵を率いて進軍した女傑であり、その武勇はまさに隼人を思わせる。中村明蔵氏は『隼人の古代史』の中で、若江郡萱振を隼人の移住地と見ておられる。ひとつは近くに坂合神社が鎮座、坂合部連は、「火闌降命七世孫夜麻等古命之後也」との説があること、また大和国宇智郡に吾田隼人の奉ずる阿陀比賣神社が鎮座、やはり近くに阪合部の地名がある。

 吾田媛の軍は若江郡(東大阪、八尾)からおそらくは東高野街道沿いに南下し、古市から二上山の北側を東へ進んでいった。この道を大坂道という。また近世には長尾街道とよばれた。逢坂に大坂山口神社が鎮座している。近鉄の大阪線側(北側)である。この大坂で吉備津彦の軍と遭遇し、敗死したということである。
 大和川を遡って龍田に出る道筋も考えられるが、待ち伏せて挟撃されるのを回避したのだろうか。
 二上山は大和と河内の境界の山であり、特に飛鳥時代以降は生と死を分ける山とされていた。西の死の国から攻め込んできた吾田媛、せめて大和に入った所で死を与えようとの想いが『紀』編纂者に芽ばえていたのかも知れない。謀反に加担して死ぬ女性、やはり哀れである。

5.四道将軍の派遣
崇神天皇は四人の将軍を、教(のり)に従わせるように北陸・東海・西道・丹波に派遣しようとした。
 大和の兵力が大幅に留守になり、皇位転覆の絶好のチャンス到来と武埴安彦は反乱の決意をした。
 大彦命が和珥坂(天理市和珥)に到着した時、童女が次の唄を歌った。
大き戸より 窺(ウカガ)いて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも。
大彦命はすぐに帰り、詳細を報告。倭迹々日百襲命がこの歌の怪(シルシ)を知って、天皇に、 「これは武埴安彦が謀反を起こす表でしょう。」と告げた。

6.戦い
大彦と和珥臣の祖先の彦國葺を山背に向かわせた。
忌瓮(イワイベ)を和珥の武坂上(和珥坂(天理市和珥))に鎮座(すえ)させた。 更に、那羅山(ナラヤマ=奈良県奈良市奈良坂付近)に進んで戦闘を始めた。
 賊兵は那羅山を去り、輪韓河(木津川)の曲がり角の西北の祝園に至った。
彦國葺は木津川の曲がり角の南東に対峙して、それぞれが挑んだ。
武埴安彦がまず、彦國葺を射たが、当たらず、次に彦國葺が武埴安彦を射ると、胸に命中し、戦死した。
多くの兵士の遺体が葬られたので、羽振苑(ハフリソノ=京都府相楽郡精華町祝園)と名付けられた。この地の祝園神社の近くに武埴安彦破斬旧跡の石碑が立っている。祝園神社は武埴安彦の御魂鎮めのために四十八代称徳天皇の御代に創建されたとされる。

敗軍の兵は遁走し、木津川と宇治川が合流して巨椋池に流れ込む伽和羅(カワラ)で鎧を投げ捨て、更に怯えて逃げて、褌(ハカマ)より屎(クソ)が落ちたところを屎褌(クソバカマ)と言い、今の樟葉である。後の継体天皇が宮を樟葉宮から筒城宮へ遷した道である。
 屎(クソ)から始まり、屎(クソ)に終わる、クサイお話でした。

7、四道将軍
東海に派遣されたとある。『古事記』では、大彦の子の建沼河別命を東方十二道に遣わしたとある。前方後方墳の多い地域があり、狗奴国との戦いの記憶が表現されていると見ることができる。

前方後方墳のまとめ。
1)関東、東海、出雲に集中して存在。
2)前方後円墳との歴史的前後は生じない。同程度に古い。
3)古墳時代前期に集中。
4)武器の埋葬が特徴的。
5)古墳の規模は小規模。
東海の前方後方墳 沼津の高尾山古墳の造営は箸墓より20年ほど昔。古墳の大きさ(墳丘長60m級)からみると、地域で大きな政治的権力を握っていた首長と推察される。狗奴国の王かそれに準ずる人が葬られているのだろう。
山背の乙訓(向日市)の元稲荷古墳は3世紀末とされる前方後方墳で、この付近に武埴安彦の本拠地があったのかも知れない。敗残兵は樟葉に逃げてきた。ここは淀川を渡りやすい。武埴安彦は狗奴国の将軍だった可能性もある。

四道将軍派遣の後で、百襲姫は亡くなっているのは、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死んでいるのと符合している。



『道の古代史』上田正昭 大和書房
『神武・崇神と初期ヤマト王権』佃収 星雲社

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