吉備の古代  入れ墨・円筒埴輪・大倭

1.序論


  『魏志倭人伝』の国々はどこだ。


 
倭人伝の投馬(とうま)国への行き方。
 対馬国→一大国→奴国→不弥国→南の投馬国に水路で二十日を要す。
 ★ 九州内はつながった書き方だが、不弥国の次からは、繋がっていない。
 ★ 投馬国は九州から少々離れた海岸沿いの国と思われる。
 ★ 投馬(ツマ ツモ)の発音は出雲(イツモ ィツモ)に似ている。

 
倭人伝 邪馬台(やまと)国への行き方
 南の邪馬台国までは水路十日、陸路一ヶ月。

『倭人伝』倭国は会稽東治の東方にある。
日本列島を90度回転


 ★ 投馬国が出雲国なら十日で敦賀付近まで、それから一ヶ月なら大和までは行ける。
 ★ 邪馬台(ヤマト)は素直に大和(ヤマト)である。

 倭人伝 倭国乱
 倭の国々に戦乱がおこって多年に渡った。そこで一女子を共立して戦いをおさめた。
 ★ 狗奴国王は女子共立に賛成ではなかった。吉備国王は吉備の巫女が指名されたので賛成した。倭国側の巧みな作戦か。
 ★ 吉備と東海とは共に入れ墨文化を共有している。

黥面の土器は東海と吉備・安芸に集中的に分布
『魏志倭人伝の考古学』佐原真から。


 
倭人伝 邪馬台国の南に狗奴国がある。
 ★ 大和(畿内)の東側に狗奴国、即ち尾張・美濃、伊勢、紀伊などか。

倭人伝 狗奴国対倭国の戦争。倭人の載斯烏越らを帯方郡に派遣・報告。檄文出る。



2.歴史
 西暦 倭人伝・後漢書          記紀           遺跡など

57 倭の奴国王が後漢に朝貢。印授。              筑紫 志賀島の金印
                                     二次高地性集落
107 倭国王帥升等が後漢に朝貢 ★吉備に在住か
                                    ★楯築墳墓に葬るか。
2世紀央                          円筒埴輪・特殊器台。 吉備独特のスタイル
                             銅鐸にも遣われる流水模様が掘られている。

                                   龍模様。漢や魏の影響を受けている。
150-250 小氷期に入る

184 黄巾の乱・後漢衰退                    吉備 銅鐸マツリ終焉
  倭国乱れ相攻伐すること歴年               二次高地性集落の後半期
               古事記 大吉備津日子・若建吉備津日子、針間を道の口として吉備国を言向け和したまひき。

     ★作戦 吉備国を味方につける。巫女王を吉備から迎える。

210 卑弥呼を倭国女王に共立。  ★孝霊后 意富夜麻登玖邇阿礼比売か 吉備津神社
   狗奴国男王卑弥弓呼、卑弥呼と素より和せず。(女王共立に反対)

230 呉孫権、諸葛直を遣わし、夷州・亶州に至る道を探させたが失敗。

239 卑弥呼、難升米・都市牛利らを魏に派遣。親魏倭王。   この頃纏向遺跡建設
240 帯方郡太守、弓遵ら倭国に来る。銅鏡百枚を賜る。

247 倭国、狗奴国との交戦を魏に告げる.魏の使者は橄文(ふれぶみ)により和解を諭した。
248 卑弥呼死す。
   径百歩の塚を造営。奴卑百余人を殉葬する。           ★鯉喰神社墳墓
★  吉備の祭祀を取り入れ、奴卑をぐるぐる巻にして円筒埴輪に入れる。久久理比賣と言う。原田大六説

男王たてるも国中服さず。誅殺しあい、千余人殺される。

                  崇神5年 国内に疫病多く、民の死亡する者半数以上。
                  崇神6年 百姓の流離・反逆が多くなった。
                  天照大神を豊鋤入姫命に託して笠縫邑に祀った。
卑弥呼の宗女で13歳の台与を女王とする。 ★倭迹迹日百襲姫命

★ 邪馬台国と狗奴国が和解。 崇神天皇は紀伊の遠津年魚眼眼妙媛を妃として迎えた。
                   同じく、尾張の大海媛を妃として迎えた。

★ 台与 死去。         崇神9年 倭迹迹日百襲姫命逝去。箸墓造営。
266 倭女王、使者を遣わし、西晋の武帝に貢献する。上記の事件との時間的前後は曖昧。



3.吉備と大和

神武天皇
吉備の国に高島宮なる行館を造った。三年間、船舶を揃え兵器・食料を蓄えた。記では八年。
★ 神武東征は吉備の共同作戦で大和を制圧した物語と見るべきだろう。
孝霊天皇は倭迹迹日百襲姫命・彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)・稚武彦命(吉備臣の祖)をもうけた。

崇神天皇
四道将軍 大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に派遣。
出雲の神宝を大和に提出した飯入根を殺した出雲振根を吉備津彦と武渟川を派遣して殺させた。
★ 吉備津彦は吉備以外の西海を平定したものと思われる。

景行天皇
皇子に 吉備兄彦皇子。
日本武尊は熊襲を討った帰りに吉備に行き、穴海の悪い神を殺した。
日本武尊を征夷将軍に任じ、吉備武彦らを従がわせた。
日本武尊は吉備武彦の娘吉備穴戸武媛を娶り武卵王(讃岐綾君祖)と十城別王(伊予別君祖)をえた。

神功皇后
仲哀天皇は神を信じずに熊襲を討とうとしたが、勝てないで帰った。病気になってすぐ亡くなった。
皇后は吉備臣の祖、鴨別を遣わして熊襲を討たした。いくらも経たないうちに自然に服従した。
★ 吉備と熊襲とは同族であったのだろう。

応神天皇
吉備臣の先祖の御友別の妹の兄媛は応神天皇の妃になっている。御友別の弟にも鴨別がいる。
帰国した妃の兄媛を追って、吉備に行き、葉田の葦守宮に移り住んだ。岡山市下足守の葦守八幡宮。
吉備の国をわけて御友別の子らに与えた。
★ これは吉備国の王の御友別の所業のように見える。
★ 邪馬台国時代以降、ヤマト王権は吉備国との連合政権のようにも見える。

仁徳天皇(古事記)
天皇は吉備の海部直の女、黒日売、容姿端正と聞き召し上げた。皇后が嫉妬、国に逃げ帰った。

雄略天皇
吉備上道臣の娘、稚媛を妃とした。媛は磐城皇子と星川稚宮皇子を生んだ。
吉備下道臣前津屋が呪詛していたので、物部の兵士30人を派遣し、その同族70人を殺した。
吉備上道臣田狹が妻の稚媛を美人と自慢したので、田狭を任那に追いやり稚媛を手に入れた。
 雄略天皇が没したので、吉備稚媛は星川皇子に皇位を継がせようとしたが、焼き殺されてしまった。
 ★ さしもの吉備国も雄略期に凋落の一途をたどったようだ。



4.大倭は執行王
倭人伝
 国々に市場が開かれ、それぞれの地方の物産の交易が行われて、大倭が命じられてその監督の任に当たっている。

大倭がついた古王朝の天皇  懿徳 大倭日子鋤友命  孝安 大倭帶日子國押人命 孝霊 大倭根子賦斗迩命 孝元 大倭根子日子國玖琉命

それ以外に、大倭を持つ人物は、大倭玖迩阿禮比賣命(孝霊妃)、大倭迹迹日百襲比賣命の二女性 、皇子は大倭吉備津彦命がいる。即ちすべて、吉備にゆかりの人々である。
★ 大倭の男性は国の執行王の意味があるのだろう。



5.記紀に漏れた大王
日本書紀の在位        他資料活用の在位(『日本書紀の真実』倉西祐子 講談社)
      元年 末年           元年 末年 在位年数
崇神天皇 -97 -30            249 271    22
垂仁天皇 29 70              272 304    32
景行天皇 71 130            305
    倭武尊
成務天皇 131 190               365 合わせて60年
仲哀天皇 192 200            364 367    3
  香坂王・忍熊王
神功皇后 201 269            321 389    68
    吉備 造山古墳被葬者
応神天皇 270 310            390 394 百済本紀阿華王即位392年が応神3年
                       395 396 1
    宇遅能和紀郎子 
天津日継
仁徳天皇 313 399            397 427    30
履中天皇 400 405            421 426     5
反正天皇 406 410            427 431     4
                       432 432     0
     允恭天皇 412 453            433 453    20 
天津日継
    木梨軽太子 
日継
安康天皇 454 456            454 456    2
    市辺忍歯王
雄略天皇 457 479            457 479 武寧王墓誌出生461年が雄略5年
  清寧天皇 
日継
  顕宗天皇


天津日継・日継 『古事記』に、このコメントがついている。「日継」と「天の下治らしめき」の区分が必要。


風土記に記載の記紀にない天皇
倭武天皇 息長帯比売天皇 宇治天皇 市辺天皇

★考察
崇神天皇から仲哀天皇まで 119年 5代 23.8年/代
応神天皇から雄略天皇まで  90年 7代 16.2年/代
宇治天皇と市辺天皇を入れれば、10年/代 となる。安本美典説に近づく。

崇神から神功までを1代16.2年で計算すると、天皇の数は8〜9代。

景行天皇・成務天皇の在位は共にいささか長い。倭武天皇を認めたいところ。
神功皇后は風土記では天皇。在位が異常に長い。応神天皇の前に2代以上あるか。
一代は仲哀天皇の皇子の正統な後継者の香坂王・忍熊王が天皇位についていたと見ていい。
香坂王は神聖王、忍熊王は執行王だったか。

吉備の造山古墳は伝履中陵と同じ大きさ、大王陵であろう。宮を吉備に置いた応神天皇の墓か。
もしくは、万世一系から大きくずれたので記紀に記載されなかった倭国大王だったのか。または、吉備の王の吉備臣御友別が被葬者だったのか。

作山古墳も大きい古墳であり、その時代のNo.2。No.1は御廟山古墳。吉備の王の稲速別だろうか。

吉備の多くの古墳は三段築成となっている。中司照世氏によれば、大王家の子孫の古墳と言う。
そうであれば、孝霊紀・景行紀の記述にも信憑性が出てくる。 図のB。

吉備の古墳

特殊器台古墳の分布

特殊器台



6.吉備の古墳・大和の古墳 ( 余談 )
応神〜雄略まで一代十年とされているが、大阪市大の岸本直文先生によれば、大王に二系列があって、神聖王と執行王の並列状態だったと言う。そうすると一代二十年となり、父子相続ならズバリ。
岸本先生は宇治天皇と市辺天皇に加えて木梨軽皇子の神聖王即位をみておられる。

大和・河内の2系列の古墳



7.岸本直文先生の2系列の大王について 
主系列
 オオササギ(仲津山古墳) 432没  
『古事記』ウジノワキイラツコ 日継
 オアサツマ(伝仁徳陵) 432−454没  
日継
 キナシカル(土師ニサンザイ) 454−  
日継
 シラカ(前の山)  
日継
 オケ(ボケ山)

副系列
 オホムダワケ(津堂城山古墳)390−394没
 イザホワケ(上石津ミサンザイ)394−427没
 ミズハワケ(誉田御廟山)427−437没
 イチノベオシハワケ(市野山)437−
 ワカタケル(岡ミサンザイ)479or489没

 系列の統合 継体(今城塚)537没
      安閑(大塚参考地)未完成 535没
      欽明(五条野丸山)571没

参考資料
「考古学からみた4/5世紀のヤマト政権と吉備」中司照世 豊中歴史同好会 H24.1
「倭の五王の奥津城を推定する」岸本直文 大市大 古代を偲ぶ会 H24.3.17
『魏志倭人伝の考古学』佐原真 岩波現在文庫

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