Uga 日本の基層文化は木の文化


1. 森林率
 主要な国の森林面積が国土面積にしめる割合 %
フィンランド  73.1
スエーデン   68.9
日本      68.5
ブラジル    59.7
ロシア     49.8
カナダ     38.7
米       33.7
独       32.7
仏       31.3
中国      22・3  
英       13.1  
多くの国では、建設、製鉄、材木のために森の伐採が進み、荒廃させて現在に至っている。


2. 縄文時代
   12,000年前、氷河期が終わり、気候が温暖化、針葉樹から洛陽広葉樹(しい、なら、かし、くり、どんぐり、くるみ、とちのみ)など、木の実の豊富な森林が形成され、木の実を餌とする小動物の生育も盛んとなった。
温暖化による海面の上昇で内湾を形成、森林からの栄養分が流れ込み、魚貝類がよく育った。  
木の実は土器で煮てアクを取り除いた。季節の食事も豊富であった。春、わらび、ぜんまい、たら、うど。夏、やまもも、魚。秋、くり、やまぶどう、あけび、きいちご、鮭。冬、うさぎ、しか、いのしし等。


3.縄文時代と木の文化
   青森県の三内丸山遺跡は、5500年前から4000年前に繁栄した集落の遺跡。 栗の巨木でできた展望台は圧巻、栗の木の直径80cm。また、巨大な集会所跡もあり、完全に木の文化は暮らしに溶け込んでいた。
栗の木の建材利用は、関東や北陸の遺跡にもみられる。また、舟も作られた。板は杉、オールはケヤキ、斧の柄はシイ、弓はカシ、トチノキは中をくり抜いて鉢にしている。

展望台


 富山県、石川県には、環状木柱列の遺跡が残っている。木は8ー10本で、環は直径6ー8m、同じ場所で何回か立て直しをされている。おそらく祭祀の施設と思われる。金沢市の チカモリ遺跡は代表的な遺跡で、腐りにくいクリの木が使用されていた。真脇遺跡で発掘調査を行ったところ、環状木柱列は6回建て替えられていることが分かった。
巨木文化と日本海航海技術とが結びついた。日本海の港湾には背の高い望楼があり、これが出雲大社はその名残と、考古学の故森浩一は語っている。出雲人と東北人と遺伝的つながりが見られる。富山県桜町遺跡からは、4000年前の縄文時代の高床式建物の柱跡が出土、また環状木柱列も発見されている。


4. 弥生時代
    鳥取県米子市の角田遺跡は弥生中期のもので、ここからヘラ書きの絵画土器が見つかりました。

   
cは銅鐸を祀っているのか、eは出雲大社を思わせます。舟の絵もあり、巨木文化を思わせます。
 奈良県田原本の唐子鍵遺跡からは、楼閣を描いた土器がでている。  
 大阪府の池上曽根遺跡では、大型の建物が再現されている。
 佐賀県の吉野ケ里遺跡でも、楼閣が再現されている。  
『魏志倭人伝』卑弥呼がいた都について「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」とある。
  奈良の巻向遺跡からは、楼閣の跡は見つかっていないが、その宮殿の設計思想としては、東西にきちっと建物が並ぶ構造になっている。まさに、ヤマト王権の誕生の地と思える。
 群馬県の茶臼山古墳から出土した家形埴輪は、切妻造りで、鰹魚木の家の形をしており、支配者の住居であろうと思われている。


5.古墳時代・飛鳥時代
   『雄略記』に、日下の直越の山の上に登りて国内(クヌチ)を望(ミサ)けたまへば、堅魚(カツヲ)を上げて舎家(ヤ)を作れる家ありき。天皇その家を問はしめて云(ノ)りたまはく、「その堅魚を上げて舎(ヤ)を作れるは誰(タ)が家ぞ」とのりたまへば答へて白(マヲ)さく、「志幾(シキ)の大県主(オホアガタヌシ)の家なり」とまをしき。    


6.木の神話
『紀』 素戔嗚尊は髯を抜いて放つと杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと桧になった。尻の毛は槙の木になった。眉の毛は楠の木になった。  
そしてその用途をきめられた。杉と楠は舟をつくるのによい。桧は宮をつくるのによい。槙は現世の国民の寝棺を造るのによい。そのための沢山の木の種を皆で播こう。この素戔嗚尊の子を名づけて五十猛命という。妹の大屋津姫命。次に抓津姫命。この三柱の神がよく種子を播いた。
五十猛命三兄妹 植樹、大屋、妻 の神々である。

素戔嗚尊は、天から出雲の国の、簸の川のほとりにお降りになった。
八岐大蛇を退治して稲田姫を娶った。
『記』速須佐之男命、宮造るべき地(トコロ)を出雲国に求(マ)ぎたまひき。ここに須賀(スガ)の地(トコロ)に到りまして詔(ノ)りたまはく、「吾(アレ)ここに来て、我が御心(ミココロ)すがすがし」とのりたまひて、そこに宮を作りて坐(イマ)しき。故(カレ)、そこは今に須賀と云(イ)ふ。この大神、初め須賀宮(スガノミヤ)を作りたまひし時、そこより雲立ち騰(ノボ)りき。ここに御歌を作(ヨ)みたまひき。その歌に曰(イ)はく、
八雲(ヤクモ)立つ 出雲(イヅモ)八重垣(ヤヘガキ) 妻(ツマ)籠(ゴ)みに 八重垣作る その八重垣を
 盛んに雲がわき立つ出雲の八重垣よ、妻を隠(こも)らせるために、八重垣を作る。その八重垣を。
 妻ごみが、出雲八重垣とともに歌われているのは、出雲大社を意識している。
 隙のある造りでは、妻ごめに八重垣つくるとは歌えない。  
 この歌は新妻をこめるという「聖婚」の寿ぎをふくむ歌であるし、立派な堅固な建物であるかという宮殿賛歌である。

切妻造について  
 2つの傾斜面が山形になっている形状の屋根の建物を切妻造という。出雲大社は妻側が堂々と正面をなしている。これを大社造という。きちっと蓋をして形で、これを妻ごみの姿という。素戔嗚尊が歌った「八雲たつ」の歌で、「妻籠み」が「出雲八重垣」とともに歌われているのは、出雲大社を意識していると思われる。659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させたとの記事が『紀』にある。これ以前に建造されていたので、その雄姿は『記紀』が編纂された頃には見られたのである。

出雲大社の仕様  
大国主が国譲りの代償として、住居を要求した。
『記』ただ僕(ア)が住所(スミカ)は、天つ神の御子の天つ日継(ヒツギ)知らしめす、とだる天の御単(ミス)の如くして、底つ石根(イハネ)に宮柱(ミヤバシラ)ふとしり、高天原(タカマノハラ)に氷木(ヒギ)たかしりて治めたまはば、僕(ア)は百(モモ)足(タ)らず八十○<土へんに「炯」の「火」のない字>手(ヤソクマデ)に隠(カク)りて侍(ハベ)らむ。

970年、天録元年の口遊に、雲太 和二 京三 が歌われている。出雲大社、大和大仏殿、京都御所大極殿。である。日本の木の文化はここに極まったと言える。

                                以上
参考  
『木の国の歴史』中嶋尚志 里文出版  
『「木の文明」の成立』川添登 日本放送協会

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