Uga 古墳と神社

1 応神陵について
 『巨大古墳の世紀』」森浩一、岩波新書 から
 少なくとも平安中期には誉田山古墳が(425m 5世紀初頭)「応神陵」と認識されていたようで、古墳の被葬者が特定個人と結び付けられ、近世まで伝えられた稀有の例であった。 (勿論このことが、誉田山古墳が応神陵であるということにはならない。応神天皇そのものの実在を疑う学説もある。)

 文久(1861−4)の改修以降、拝所は所謂「前方部」に文字どおり「取って付けられた」が、それ以前は所謂「後円部」(南)に参道があり、頂上に六角の宝殿(奥の院)があった。一般の人も参詣したが、文久の改修以降、この関係は断たれ、明治16年、宝殿も取除かれたと云う。

『古事記』品陀天皇 御陵(ミハカ)は川内(カフチ)の恵賀(ヱガ)の裳伏崗(モフシノヲカ)にある。

『日本書紀』陵については記載はない。雄略九年の月夜の埴輪馬の記事に、「蓬?丘譽田陵下蓬?」があり、応神陵の場所が認識されており、いちひこのおか 即ち びっこている丘(対称ではない)と読み取れる描写がある。『紀』は応神没後320年にできているので、その間に一部が壊されていても不思議ではない。また、古墳の上に登れているようでうので、堀が埋められていた可能性も考えられます。堀も大きい誉田山古墳とは思えにくいところです。

  応神陵の比定は、誉田御廟山古墳が圧倒的に多いが、墳丘および中堤には,窖窯(あながま)で焼成された埴輪がめぐる。応神天皇の没年を《日本書紀》に基づいて西暦400年前後とみた場合,埴輪の示す陵の築造年代は没年より四半世紀ほど新しい。 

大阪市大の岸本直文の、『史跡で読む日本の歴史〈2〉古墳の時代』によれば、同じ古市古墳群の中で最も古いとされる津堂城山古墳(208m 4世紀後半)を応神陵と見なしておられる。合理的な考えと思う。




2 八幡神社について
 津堂城山古墳上に津堂八幡神社が鎮座している。
 神社のある津堂城山古墳 墳丘及び内濠は史跡指定。社殿背後の柵に囲まれた、鎮守の森のような後円部頂は、宮内庁治定の「藤井寺陵墓参考地」にあたる。す。新しい津堂八幡神社の社号標の裏には神社の略歴が刻まれている。 天正3年(1575年)織田信長の河内攻めの時、小山城(城山)落城の際、現藤井寺高校付近に所在していたと言われる神社も、同時に焼失したと思われる。享保5年(1720年)津堂城山古墳後円部頂の西端に八幡社を設ける。
 古墳の上に神社を設けるのは、小高く見晴らしのいい場所は、住宅や墓や神社にはうってつけの場所。古墳の被葬者などとは関係なく、神社がもうけられる。

 誉田御廟山古墳の上に誉田八幡宮が鎮座している。このケースの場合、冒頭に書いたように応神陵に合わせた八幡神社が創建されている珍しい例だと思われる。

 応神天皇は、『記』では、品陀天皇、『紀』には、誉田天皇、これは古墳の住所や名前に一致しており、応神陵と思われているのは自然なことに見える。
 社伝によれば、欽明天皇の時代に創建されたとあるが、実際のところはどうでしょうか。社伝では、奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座したとあります。古墳の上にやってきたのは、中世のことでしょう。その前にも祠があったのかもしれませんが。 八幡大神が応神天皇霊であることが定まってきたのは9世紀後半のことです『住吉大社神代記』には、八幡大神は応神天皇霊とあり、この辺りでそのような認識ができていたのでしょう。

 誉田山古墳の名や住所が誉田となっているのは、応神天皇と結びついたからであり、そこに八幡大神とされた応神天皇を祀る神社が出来たということだろう。
                          以上

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