Uga南北朝正閏論

 天武天皇の皇位簒奪 はその後7代80余年続いた。>

 安徳天皇の次の第82代後鳥羽天皇は、三種の神器がそろはないままの即位であった。

 後醍醐天皇の建武親政は2年で終わったが、その異常な事態がその後の皇統改竄とその認識において今日まで尾を引いている。

1272 後嵯峨上皇が、後深草上皇の弟亀山天皇の子孫が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草上皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)の間で対立が起こり、鎌倉幕府により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。後の北朝、南朝の争いの導火線となった。

1274 1281 文永の役、弘安の役 元寇である。鎌倉幕府は健闘したが、弱体化した。

1288 正応元年 後醍醐(尊治)は大覚寺統後宇多天皇の第二皇子として生まれた。第一皇子の後二条天皇は24才で急逝。卑母の子の後醍醐は、母の運動で14歳で親王になれた。

1308 徳治三年 持明院統の花園天皇12歳の即位に伴って大覚寺統の後醍醐は21歳で皇太子となる。それも一代限りの条件付きであり、子孫は皇嗣にはなれない。

1318 文保二年 花園が退位、後醍醐が31歳で践祚。父の後宇多上皇が院政再開。

1321 元享元年 後宇多が引退。後醍醐の親政が始まる。天皇と統括する官僚機構に全ての権力を集中させる統治形態。これは直接「民」に君臨する態勢。
自分の子孫に皇位を継がせることを否定された後醍醐天皇は不満を募らせ、皇位継承計画を承認し保証している鎌倉幕府への反感につながってゆく。

1323 元享三年 日野俊基を蔵人クロウドに。日野資朝らと共に「無礼講」を実行した。
出席者は殆ど裸で、女性を侍らせての酒を酌み交わしたという。宮中に出入りを許されない武士の本音を調べた。無礼講の中で楠正成と接触したのかも知れない。

1324 正中元年 吉田定房の諫奏に接し、蟄居を申し渡す。
六波羅探題が天皇の討幕計画を察知、日野俊基と日野資朝を逮捕。正中の変。北野神社の祭礼で、喧嘩騒ぎを起こし、それを鎮圧に六波羅探題の武士が出払うので、襲って占拠、鎌倉か制圧に来るのを延暦寺と興福寺の僧兵が宇治・瀬田を固めて防ぐというもの。多治見国長、土岐頼兼、足助重範らが討伐され、日野資朝らは鎌倉に送られた。流罪となる。天皇は部下が勝手にやったと弁明にこれ努めた。平然と部下を見捨てた。
幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。

1326 嘉暦元年 持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はいっそう強まった。量仁は後に光厳天皇となる。

1327 嘉暦二年 天皇の実子の護良親王を衆徒3000人の比叡山の天台座主にした。以降の護良親王の活躍は眼を見張らせるものがある。

1330 元徳二年 天皇は南都と洛東の寺社を巡行。側近の中原章房に討幕の相談を持ち掛けたが諫められた。中原から漏れると思い、悪党の瀬尾兵衛太郎に命じて暗殺させる。中原の子息の章兼や章信らが手を下した仇敵を探し出し、首を取った。
護良親王にかわって五男の宗良親王を天台座主とした。

1331 元弘元年 5月 再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚 日野俊基は鎌倉に送られ、翌年に斬られた。日野資朝は佐渡で殺された。

8月 天皇は護良親王の指示に従い、神器を携行して笠置山に籠城。

9月 幕府の大軍が上洛。量仁が光厳天皇として即位。現皇統譜では正式な天皇としては認められておらず、北朝第一代とするが、未だ北朝も南朝もできていない。ただしくは第97代の天皇である。笠置山が陥落、後醍醐は山中で拘束され、帰洛。

10月 光厳へ三種の神器の引渡しの儀式を行う。後に後醍醐は偽物を掴ましたと言うが証拠はない。楠木正成が河内赤坂で蜂起。一ヶ月後に落城。

1332 元弘二年 後醍醐、隠岐島へ身柄を移される。熊野路に潜行の護良親王が諸国へ討幕の令旨を伝達、自らも吉野で挙兵。楠木は赤坂を奪回。

1333 元弘三年 楠木正成、六波羅探題の軍勢を摂津国天王寺などで撃破。幕府は足利高氏を総師として大軍を派遣。護良親王の吉野城が陥落。
後醍醐、隠岐を脱出、名和長年が出迎える。

4月 足利高氏が宮方に寝返る。5月 六波羅探題が陥落。護良親王の発した令旨が各地の寺社勢力が蜂起する。幕府方の新田義貞が離反。
後醍醐は詔を発し、光厳の即位を無効とし、後醍醐が継続して皇位についていたと宣言。光厳の即位を取り消すのは無茶。97代光厳。98代後醍醐重祚が真。鎌倉幕府滅亡。

6月 建武の新政開始。宮は二条富小路内裏。綸旨の乱発。二条河原の落書き。

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)
(中略)
京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌
在々所々ノ歌連歌 点者ニナラヌ人ソナキ
譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也

犬田楽ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ 田楽ハナヲハヤル也
(後略)

 土地安堵の綸旨が混乱した。
元号を元に戻し、正慶から元弘にする。光厳天皇の行った任官位すべて無効とした。
 護良親王は足利尊氏の追討を建策するも、後醍醐はこれを慰撫した。人を見る目がない。
天皇が万機の政まつりごとを親裁する方式とした。当地行(20年以上土地支配は理非に問わず認める)を無効とし、土地所有は一挙に流動化した。土地所有は混乱し 朝廷で処理しきれない状態になり、諸国の国司にまかせることとした。早速、親裁は一歩後退した。
足利高氏の功を称え、尊の字を与える。足利尊氏となる。

1334 建武元年 恒良親王の立太子の儀、母は後醍醐の寵姫阿野廉子。
足利尊氏が「護良親王は後醍醐天皇の位を奪うこと企てた」として天皇に奏上した。護良親王は令旨を発して兵を集めて尊氏討伐の軍を起こした。これを聞いた尊氏も兵を集めて備えた。その上、尊氏は親王の令旨を証拠として、後醍醐天皇に謁見した。これを聞いた後醍醐天皇は「これは、親王の独断でやったことで、朕には預かり知らぬことである」と発言して、護良親王は捕えらえて尊氏に引き渡され、鎌倉へ送られた。
後醍醐復権の最大の功労者であり、長子である護良親王を軽々と見捨てる後醍醐である。

1335 建武二年 北条時行が信濃で挙兵、鎌倉を攻略、足利直義が西走、その時に護良親王を殺害。足利尊氏が鎌倉を奪回、そのまま旧幕府跡に居をかまえ、帰洛命令を無視。
新田義貞は後醍醐の尊氏追討の下命を受けて箱根で戦い、尊氏に敗れ、帰洛した。

1336 建武三年 足利尊氏が入京。後醍醐は比叡山に逃亡。恒良皇太子に皇位と三種の神器を譲る。神器があれば天皇であるとするなら皇統譜に載せるべき天皇である。南朝第二代の天皇である。
新田と北畠軍が足利軍を撃破。尊氏は九州へ逃走、途中光厳の宣旨を受領。
足利尊氏は態勢を立て直し、西国の武将を率いて東征、播磨で新田軍を破る。
楠木正成は後醍醐を比叡山にやり、洛中に足利軍を引き込み兵糧攻めに持ち込むことを奏上、近臣は後醍醐の動座を受け入れず、後醍醐は正成に新田援護の出陣を命ずる。戦力差が大きく、数日の日にちを稼ぐだけの戦いで、結局のところ、正成を見捨てたことになる。後醍醐、再び比叡山に逃亡。
尊氏は光厳の弟の光明を践祚させる。北朝2代とされる。
比叡山の後醍醐は新田に無断で尊氏に降参し、帰洛に同意。見捨てられた新田は越前に落ちて行った。後醍醐は光明天皇に神器授受の正式な儀礼が行われた。99代である。
年末に、北畠親房の手引きで後醍醐は神器を持って吉野へ逃亡、南朝の初代となる。恒良に皇位を譲ったのを無視している。世にいう「南北両統分立」となった。

1337 建武四年 北陸で戦いがあり、尊良親王は自殺、恒良は毒殺された、新田は無事。後醍醐ご勅書を受けて北畠顕家と義良親王の軍隊が鎌倉を占拠。

1338 暦応元年 北畠顕家は、後醍醐の政治を、郷士・官女・僧侶の内奏によって、天皇の政が歪められていること、内裏の贅沢な宴飲をいさめた。直後に泉州で討ち死に。新田は越前で戦死。尊氏、征夷大将軍となる。

1339 暦応二年 義良親王が吉野で立太子。8月 後醍醐 死去。義良親王が後村上として即位。

隠岐の島に流されていた間は後醍醐は統治していない。光厳天皇の御世である。これは歴史的事実であり、後醍醐は自らの統治期間と主張し、光厳には偽三種の神器をつかましたと主張するが、その証拠はない。
また、現在の皇統譜では、光厳を北朝初代とするが、これは虚偽である。光厳即位の頃は北朝も南朝も存在していない。さらに、光厳の即位は足利尊氏の功績とする声があるが、それ以前の鎌倉幕府の時代のことである。
後醍醐は元弘三年から建武二年までの三年間の政治を行っているので、光厳の後に重祚したと考えるべき。98代。
次に足利尊氏の手によって光厳の弟を光明として即位させている。後醍醐から三種の神器が渡っている、押しも押されぬ100代の天皇である。
この段階に至って、廃帝後醍醐が吉野へ亡命する。南朝の始まりであり、後の死後、子息の後村上天皇が即位。南朝二代目となる。

南朝三代目は長慶天皇、四代目は後亀山天皇と続く。

1352 南朝が京都を一時的に占拠。八幡を拠点とし、上皇らを捕らえた。

1353 南朝が京都を一時的に占拠。足利義詮は後光厳天皇を奉じ美濃まで落ちた。

1392 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。

コメント
 北畠親房は『神皇正統記』を著して南朝の正統を訴えざるを得なかったのは、やはりいささか正統でないとの疑いを持っていたのだろう。正統の根拠は「神器」の保持と「人徳」である。後醍醐に人徳を感じるだろうか。
 明治二四年の「南朝正統の親裁」は、「神器」の保持を理由としている。これに対して、東京大学の前身機関の教授の田中義成は次のように書いている。系統の上より論ずれば、持明院統すなわち北朝の系統は、嫡流にしてしかも正統なること明らかなり。しかして持明院統の御方々はいずれも温和な性質なりしが、大覚寺統はいずれも剛毅英邁なりしかは、持明院統を圧迫して関東を討滅されしにもかかわらず、南朝の皇統は全く絶えて皇位は永く再び持明院統に還れり。これまた自然の教えというべし。 
 昭和天皇は昭和10年に、「南北朝正閏論」の決定は一考を要する。自分は北朝の血をひく天皇である故に、大筋では支障なきものの、実際は変なものなり。」と述懐されている。
 南朝正統論を突き詰めると神器の保持のみ。今上天皇の即位の式典にも厳かに神器が運ばれてきたが、あの中身はなにか、空っぽであっても気が付かない。物としての存在が皇位の正統性を決めるなどということはありえない。自分の子息や臣下を平然ん見殺しにしてきた後醍醐が神器を持ち出して吉野に籠ったからと言って、天皇と認めるのは異常である。皇子や臣下を平然と見殺しにする人格欠如人間でも、盗んだものでも神器さえ持てば天皇なのか。まさか。 

現在の天皇の存在根拠
 うわべは戦後憲法の国民の総意に基づいているが、その根本には神話が横たわっている。
天照大神ー穂穂出見‐瓊瓊杵-不合尊ー神武天皇まで繋がってきた皇統を意識している。
天照大神からはY遺伝子は伝わっていない。神話だから女神でいいのか、元来神話に基礎を置いている天皇制、女系のどこに問題があるか。無理してまで男系にこだわる必要はない。
これが国民の大多数の意見だと思う。サンケイの調査では60%以上支持。

現在の公式の皇統譜
持明院統                大覚寺統
95 花園           91 後宇多
                96 後醍醐
北1 光厳    北2 光明
                97 後村上
北3 崇光   北4 後光厳      
                 98 長慶 99 後亀山
北5 後円融
         南北合一
100 後小松       

正しい皇統譜
持明院統 大覚寺統
95 花園             91 後宇多
                  96 後醍醐
97 光厳
                  98 後醍醐重祚
99 光明
100 崇光 101 後光厳     南1 後醍醐
102 後円融           南2 恒良皇太子が即位                        
                  南3 後村上
103 後小松           南4 長慶    南5 後亀山



『南北朝動乱』水野大樹 実業之日本社
『後醍醐天皇』兵藤祐己 岩波新書
『我が国の皇統継承の歴史と理念』中野好之 お茶の水書房
以上

神奈備にようこそ